ハンナの祈り


小川和夫兄

(テープ聞き取り、2000/11/18)

引用聖句:サムエル記第I、2章1節-10節
1ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。
2主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。
3高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。
4勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、
5食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。
6主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。
7主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。
8主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。
9主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。
10主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」

今、兄弟に読んで頂いた箇所は、ハンナの祈りとしてよく読まれる箇所で、このハンナの祈りの祈ってる内容も学びたいのですが、今日はそのことよりも、ハンナがこの祈りに至った背景を見ながら、私達がどのように神様との交わりをしたら良いかなということを、考えたいと思います。

今、読んで頂いたハンナの祈りを読むと、本当に主が私たちを造られて、世界を据えられて、本当に主がすべてをなさる方であること。
特に、4節の弱い者が力を得るとか、5節の不妊の女が子を産みとか、主が生かされる、上げられる、富まされる、高くされる、すべてが主によってなされることをハンナ自身が確信していることを受け取ることができます。
この世の中の神様の主権を証しする祈りでありますし、またそのことの確信でありますし、またそのことの神様ご自身の心の奥にありますのは、私達への愛なんですね。

かって、イエス様がサマリヤの女にこう言われたのです。

ヨハネの福音書4:14
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

ハンナの心の状態は、イエス様がサマリヤの女に語られた言葉の通りということができます。このように私達の心の中が、イエス様によって満たされるときほど、喜びに満ち溢れることはありません。
ただ、なかなかこうはならない所に私達の信仰の上での戦いがあります。

おもには、自分自身の中での問題なんでしょうけど、このように祈れる状態がわたし達の本当に幸せの時であります。
ただ何もなくて、人はこのように決して祈れないのですね。やはり試練を通して主の掟を学ばされるのでありますから、ハンナという女がどういうことを通して、この祈りができるようになったのかを見てみようと思います。

ハンナという名前は、「恵み」とか「慈しみ」という意味のとっても良い名前です。このハンナの話しは、サムエル記第Iの1章の1節から始まります。
ずっと読んでいくとハンナという人は、最初は名前に全くふさわしくない、かけ離れた程悩める人でした。

サムエル記第I、1:15
15ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。

彼女自身が打ち明けている通りに、彼女には多くの悩みがありました。彼女の悩みは子供ができないことでした。当時は子供ができないことは、神の祝福が受けられない侮られる存在にされたからです。
しかしハンナの悩みは子供ができないことだけではなくて、もっともっと奥深い悩みでありました。

サムエル記第I、1:2
2エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。

サムエル記第I、1:6-7
6彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。
7毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。

子供ができないということで劣等感を負わされる状況でした。おそらく子供ができないことよりも、ペニンナが彼女に辛くあたったことも大きな痛みであったかもしれません。
ハンナを憎むペニンナは、食事も食べられないほどハンナをいらだたせたとありますから、相当なこと、いじめのようなことがあったのでしょうね。
ペニンナの心境については何も書いてありませんが、夫エルカナを独り占めにしたいというねたみや、欲望から出たのであったはずです。

ハンナは子供ができないことに追い討ちをかけられるように、このペニンナに悩みをかせられたのであります。
もし私達が、このハンナの立場だったらどう考えるでしょうか。もし自分がハンナであったら、子供がいない、できない、そしてもうひとりのペニンナが年中苛立たせるようなことをしてきたら、私達はどうするでしょうか?

考えられることは、夫であるエルカナにまず自分の思いを知ってもらいたいと思うのではないでしょうか。「私の気持ちも考えてよ!」というようなことを言うでしょうか。
あるいは、ペニンナの態度を改めさせるように夫に訴えるかもしれません。なお言えば、「私かペニンナかどちらかを選んでよ。」と迫るかもしれません。
また夫に対してだけではなくて、ペニンナに対しても強い憎しみを覚えるでしょうし、怒りを露に敵対して報復の思いを持ったかもしれません。

また反対になぜ子供ができないのか。私の何がいけないのか。結局、自分が悪いんだろうかと自問自答するかもしれません。
神に対しては、なぜ子供ができないのかという思いも溢れたでしょう。
わたし達の思いは大体そういう思いになるのではないでしょうか。

このように夫に対して、ペニンナに対して、自分に対して、さらに神に対して、ともかく自分をとりまくすべてに敵対する思いが、つぎから次へと涌いてくるでしょう。
事実こうした思いは彼女の中にあったでしょう。

サムエル記第I、1:16
16このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。

「つのる憂いと苛立ち」という言葉が、なによりも彼女の心境を語っています。
しかしハンナは、今私がお話しした、私達が普通取ってしまうような態度を取ることはありませんでした。この大きな悩みに対してハンナの取った態度は3つあります。

まず第一にハンナは主と1対1で向かい合いました。主だけを見上げる態度。

悩みをすべて主にゆだねなさいと、そうしないと悩みから解放されないと言葉ではわかっても、実際はなかなかむつかしいものです。
どうしても目の前にある物事や人を見てしまい、「そう言っても。」という気持ちになったり、ゆだねているつもりでも、いつのまにか考え込んでいる自分を見ます。
もっと悪い状態になると、祈ってもどうにもならないと思ったり、こんなに祈っているのに失望が先に立つ態度に変わってしまいます。ハンナは、

サムエル記第I、1:9
9シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。

これは、食事が終わって立ったと言うよりも、信仰によって立ったと言うふうに受け止めたいと思います。
聖書で立ち上がると言う言葉は、よく信仰に立つという意味を持つからです。

サムエル記第I、1:10
10ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

ハンナはこれら自分の心から湧き上がる思いに身も心も任せることはしませんでした。かえって主の側に一歩進み出て、主に祈ることによって、自分を見つめることを第一としました。
次の二つの対照的な御言葉はとても大切なので知っておくと良いと思います。

ヤコブの手紙1:17
17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。

ヤコブの手紙1:20-21
20人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
21ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

と書かれています。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とはっきり書かれています。怒ってはいけないって。
あなたがたの魂を救うことができるのは、わたし達の頭で考えること、心で思うこと、そうした良くないものから救うことが主ご自身だけができる。
もう一箇所、対照的な箇所は、

マルコの福音書7:15
15人から出て来るものが、人を汚すものなのです。

全く対照的な言葉です。ヤコブは、「すべての良い贈り物は上から来ると証しする。」と表現し、イエス様は、「人から出てくるものが人を汚すものなのです。」と表現しました。
悩みの中で私達が見るべきは、やはり主おひとりであります。人やことを見ず主を見上げることだけであります。
ハンナのように、人に対しでなく神に対してすべてを語ることが大切です。

マルコの福音書7章21節でも、「内側から、すなわち人の心から」と書いてありますから、私からは自分の内側、相手の人の心の内側、人間関係はみんなそうなんですね。
とにかく、人の内側から出てくるものはすべて人を汚すと書いてありますから、誰がどういう態度を取っても、汚れが溢れるということになります。

先ほどの、私達ならこうするのではないかと言ったと考えると、たとえば夫エルカナが、ハンナに対して今まで以上の情愛を示せば、逆にペニンナの妬みはもっと膨らむでしょう。
ハンナがペニンナに対して反発すれば、エルカナが困惑することになるでしょう。では、自分を責めても嘆き以上のものは生まれ得ないでしょう。

私達はそういったことを御言葉から知っていても、ついつい人に悩みの解決を求めてしまう性質があります。決して、良い結果は得られません。
確かに人に打ち明けることで随分気が休まることはあります。まして相手が同情してくれると何かが良くなったような気が致しますが、結局のところ、同情はあくまでも同情でなんの解決にもなりません。
かえって同情された分だけ自分が正しく思えてきますから、むしろ自分の高ぶりを冗長させられたようになってしまいます。

これが、イエス様のおっしゃった内側から出てくるものは汚れていて人をもまた汚すということと思います。
交わりでよく注意しなければならないのは、いわゆるヒューマニズムですか、主に立たずに人間の思い、私たちの元から出てくる性質から出てくる、してあげたいとか、やってみようとかいう思いですることは、決して祝福を得ることはできません。かえって主がなさろうとしている御業について、私達が妨げを置くことにもなりかねません。
結局根本的な解決は、悩める人とイエス様の1対1の間で解決がなされなければ、いつも問題は、またその問題が解決しても、また新たな問題に対処することがむつかしくなります。

聖書を読んでいきますと、人は人との関係で生きているのではなくて、主との関係で生かされていくことがわかります。人生の目的は、主へのご栄光と、主への賛美のためであります。
この世の考え方は、人間関係のトラブルは当事者間にあるといつも断定します。家庭でも、会社でも当事者同士が和解しなければ、解決の道はないと考えますけれども、これは明らかな間違いであります。夫婦であっても、家族であっても、友人や知人や人間関係のトラブルはすべて、主と自分の関係に問題があるわけです。
そういっても、主が間違えてるわけありませんから、私達自身のほうに問題があるということで、たった一つの解決の糸口はそこなんですね。

さきほどお読みしたとおり、ハンナに子供ができなかったのは主が彼女の胎を閉じられておられたとありますように、ハンナの悩みのそもそもの元は主ご自身がお与えになったものなんですね。
私達は、普段の人間関係の中でトラブルが起きると、どうしても自分の正しさを主張したいという思いと、相手の主張を打ち砕きたいという思い、私が正しくてあの人が間違えていると思いがちなんですけれども、そうではないのです。

自分に起こされた問題。それが人間関係のトラブルであったとしても、あるいは他の問題であったとしても、主が私たちの上にそれを計画された、あるいは主が許されてその問題が起きたことであって、私達がその問題を通して主にご栄光帰するための問題であることを知ることがとても大切です。
それは、自分自身が主によって助けられるという豊かな経験をすることでありますし、またイエス様を信じるというクリスチャンの立場からしても、人に良い証しとなることができます。

彼女は後になって、彼女の悩みが祝福のためであることを知ります。信仰に立つという、立ち上がるということは信仰に立つということであると先ほどお話ししましたけれども、信仰に立つというと何か一大決心をして奮い立つような印象を受けますけれども、反対ではないでしょうか。
ぺちゃんこになって、もうイエス様以外に助けてくださる方はいないという状態が信仰に立つということだと思うのです。
自分の力でやろうと思ってるうちは、主は決して働かれない。なぜならば、その問題が片付いたときに、自分の力によって、解決したと言うものが残るからです。

祈りによって解決するとは、主ご自身によってだけ解決できるということ。このように第一番目の態度は、主と1対1になることです。
2番目のハンナの態度は、「静まって主の前に心を注ぎだした。」とあります。

サムエル記第I、1:15-16
15ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
16このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

この数行を読んで知らされるのは、「いままで祈っていた」とあるように、ハンナが苦しい思いの中で長い祈りを通して、主に訴えていたんだろうなとわかります。
上からの慰めを求めて今まで祈っていたと証ししました。信仰とは何かという最も根本的なことであります。
悩みを抱える私達が始めにすべきたったひとつのことは、このことなんですね。静まって、主の前に心を注ぎだした。それが、はじめにすべきたったひとつのことであります。ほかのどの方法から始めても決して近道にはなりません。

よく交わりの中で祈りについて、「どう祈ったら良いでしょうか?」と聞かれることがあります。どう祈るかというふうに聞かれる意味は、どんな言葉で祈ったら良いかと言われる意味なんでしょうけど、ハンナが証ししたとおり、大切なことは主の御前に心を注ぎだすことが「祈る」ではないでしょうか。
嘆きでも不満でも、なんでもイエス様に祈っていいんですよね。「こんなこと祈っては...。」ということは決してありません。ともかくすべてをおできなる主に心を注ぎだすことであります。

ローマ人への手紙8:15
15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

子としてくださる御霊を受けたということは、私達はイエス様の子供です。イエス様はわたし達の父となるわけです。
「アバ、父。」、どういう意味でしょうか。「アバ、父。」を日本語に置き換えると、「ねえ、お父ちゃん。」となるでしょうか。父と子ですから、親しい子供なら子供らしく、正直になんでも話したら良いし、なんでも願ったら良いのではないでしょうか?
子供は、「こんなこと、話したら良いだろうか?」とは考えませんね。思ったこと、自分のして欲しいことをそのまま親に話します。それと同じように、私達も、「アバ、父よ。」と言う通り、「ねえ、お父さん。」という感じで話したら良いのではないでしょうか。

たとえば、幼稚園の子がおもちゃを買って欲しいと思った時に、「お父さん、いつもお世話になっています。この度は、まことに無理なお願いではございますが・・・。」って言わないですよね。
でも私達はそういう祈りをしてはいないでしょうか?
祈りの中で、言葉に捕らわれて、ハンナの証しのような心の注ぎだしができていないのではないでしょうか。心の注ぎだしを本当にしているでしょうか。

イエス様は、それほど私たちに近くいてくださる存在であります。イエス様ご自身も「アバ、父よ。」と祈られたことがありました。
ゲッセマネの園の苦しみの中で祈られました。

マルコの福音書14:35-36
35それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

イエス様は、わたし達の罪の身代わりとして、私たちの十字架にかかってくださいました。イエス様は私たちと同じように肉を持っておられましたから、神様の一人子であっても、私たちと同じ心を持って苦しまれました。
どう祈ったら良いでしょうかという質問に対して、ひとつは、なんでも自分の思うことを祈ることが大切です。でも、もう少し広い意味では、態度ではないでしょうか。
イエス様は必ず聞いてくだささる。主は私を受け入れてくださる。私を一番に考えてくださる。そして私の願ったうちから良いことだけを実現してくださいという思いがあれば、主は最善をなしてくださるはずです。

自分の願ったことがいつもかなえられるとは限りません。
イエス様はすべてをご存知でありますから、主が必要と思われるものだけを選ばれて私達の願いを聞いてくださいます。なぜなら、私達は子であり、僕であるからです。

3番目に見るハンナの祈りの態度は、主の前に自分を正しく置くことであります。もう一度サムエル記第Iに戻ります。

サムエル記第I、1:16
16このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

実は、この言葉にはとても深い意味がありました。つのる憂いというのは嘆きのようなものでしょう。苛立ちというのは不満でしょう。そして注目すべきは、「ため」という言葉なんです。

ハンナが長い時間、今まで祈っていたのは、子供を与えてくださいだとか、エルカナの心を変えてくださいだとか、ペニンナが私を責めないようにしてくださいとか、そういう祈りが長かったのではないのです。
ハンナが長く祈ったのは、このつのる憂いと苛立ちを抑えること。ハンナは自分のどうにもならない痛んだ心を主に注ぎ出して、人ではなくて、主に聞いて頂いて解放されたいということを一番に願っているのです。
そうでなければ、つのる憂いと苛立ちのためとは言わないでしょう。

私達はハンナと違い、本当に低くなられたイエス様を上から見下ろすような、イエス様に命令するような祈りをしてはいないでしょうか。
ハンナは悩みの解決方法そのものを求めたのではなくて、主から自分を引き離す悪いもの、嘆きと不満を取り去ろうと祈りました。

イエス様と正しく向かい合うと、まず自分について知らされます。主の前に悔い改めるべきことがないだろうか。もしあるならば、そのことがわるようにと祈ることも必要でしょう。
多くの場合私達が主の前に静まるときに、自分のうちに良くない思いを見出すことがあります。その思い、その罪を悔い改めることが最初に必要です。
悔い改めがない願いはなかなか祝福されません。特に人間関係の場合には互いの問題が多いですから、本当に自分が相手に対してではなくて主の御前においてどうなのか。本当にイエス様の前に、御前に私は正しいと言える者かどうか考える必要があります。

もしそのようにイエス様との交わり、祈りを通して、主の御前に心を注ぎ出していくなら、私達は心にある憂いと苛立ちから解放されて平安と喜びに変えられていくはずです。
その時、私達は憎む人をも赦すことができるようになりますし、気になることも気にならなくなりますし、あらゆるものから解放されます。
また結果として、必ず私達はあらゆる敵から守られ、勝利を与えられます。たいへん不思議なことなんですけども、事実そうです。

詩篇131:1-3
1主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。
2まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。
3イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

ダビデの証しですけども、主の御前に正しく自分を置くならばこのように祈ることができます。ハンナはそうした態度を持って、祈りを通して主に自分の心を注ぎだしました。
ハンナは、どのような祝福が与えられたのでしょうか。ハンナはどのように解放されたのでしょうか?

サムエル記第I、1:11
11そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

考えてみると不思議な祈りですね。なぜなら子供が欲しいはずのハンナが、与えられたら主に捧げますと誓願を立てているのですから。どうしてハンナはこのような思いになれたのでしょうか。
ハンナの悩みは私たちの想像を越えるものでありましたでしょうし、同時におそらくペニンナ、エルカナに対して、自分のうちに良くない思いがあることを知っていたのでしょう。
だからこそ激しい涙の中で人に対するすべての思いを断ち切って、主に誓願を立てたのであります。

その結果、彼女の誓願はエルカナの名もペニンナの名も語らず、その祈りが全く主と自分の関係に立つものでありました。
またその求めは、自分の要求を満たすためのものではなくて、信ずる主ご自身をより確信したいという動機ものでした。
子を授かることが最大の願いではなくて、主の御栄光を信じて待つという信仰であって、偉大なる創造主に自分が愛され、見つめられている実感を求めるものでした。愛する主ご自身から現実を受け取りたいという思いでした。

こうした祈りは必ず祝福を受けます。信ずる主からの慰めを求めて、もし願いに答えてくださるなら、授かった子の一生は主にお捧げしますという誓願に、私達は光を見る思いがするのではないでしょうか。

サムエル記第I、1:18
18彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。

食事ものどに通らなかった女が、食事をして、顔も以前のようでなかったと書いてあります。

サムエル記第I、1:20
20日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

食事ものどを通らなかった人が、これほどに祈りによって変えられました。ハンナの祈りは主の御心にかない男の子が与えられ、サムエルという名がつけられました。
サムエルとは、「神の名」という意味だそうです。誓願の通り、ハンナはサムエルを主にお渡ししました。

サムエル記第I、1:28
28それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。

よく読むと22節に、

サムエル記第I、1:22
22ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは。」と言って、上って行かなかった。

この子が乳離れするまで自分のもとで育てると言っていますから、おそらく数年ですね、この子はハンナの手元に置かれた。
私は女性でないから自分の産んだ子という経験がありません。気持ちがわかりませんけれど、産まれてすぐ手渡すよりも、乳離れしてから手渡す方がハンナには辛かったのではないかと思います。
しかしながらハンナはその通りできました。それは、絶えず主との交わりがあったからではないかと思います。

詩篇62:8
8民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

どんな時にも神を信頼せよと、何十回も語られています。よく聖書に書かれています。
けれども実際私達は、どんな時にも神に信頼しているでしょうか。あるいは神の御前に心を注ぎだすことをしているでしょうか。あるいは主の御前に自分がどうであるか、そのことから出発しているでしょうか。
ハンナの祈りを見ると、私達はその3つに悔い改めさせられるのではないでしょうか。

主は信頼できるお方です。なぜなら、イエス様はわたし達の身代わりとなって先に死んでくださったお方です。

ペテロの手紙第I、2:21-25
21あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ハンナの取った態度は、先にイエス様の示されていること。もちろんイエス様のほうが後に地上に歩まれましたけれども、それは人間の理屈です。
イエス様は決してむつかしいことを私たちに要求されません。なんでも言いなさいとだけ、来なさいとだけおっしゃいます。はじめに私達がそのことをしなければ、イエス様は何もすることができません。
私達が弱くて愚かで無力で、なかなかハンナのように自分自身を主の前に正しくおくことすらできない。そのように弱い者であることをイエス様はよくご存知です。必ず憐れんでくださいます。

またイエス様が示されたように、ののしられても、ののしり返すことは祝福にはつながりません。
私達は、本当にそういう意味では自分中心ではないでしょうか。嘆きや不満が心に渦巻く状態は、放置しておくとますます主から離れてしまう。希望がだんだん遠のいて失望に変わっていきます。

前に「赤毛のアン」と言う映画を見ていた時に、転校した幼いアンが、「もう学校は嫌だ、友達がいないから絶望よ。」とマリラに言った時にマリラは、「絶望と言う言葉は、神様を信じない人の言う言葉よ。」とアンに一言言うのです。
よく私達も絶望、絶望と言いますけれども、少なくともクリスチャンには絶望がない。
今日は確認したいです。なぜなら子供としてくださった。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様は命を下さった方です。すべてがおできになる方、その方ご自身の持っている豊かな恵みを下さらないことがりましょうか。そういうパウロの証しです。
悩みから解放されたいと思うとき、多くの場合「人」と思いますけど、人から離れることです。それから自分からも離れることです。
まず1対1となって主との交わりをすることが大事です。

イエス様はすべての点で試みに会われたとありますから、わたし達の悩みのすべてを経験されています。その悩みの中で、私達はこれほどの悩みはないと思いますが、イエス様はすべての悩みを経験されていますから、必ず解決も与えられます。
主に祈ることによって必ず主は導いてくださり、祝福を与えてくださいます。どのようにかわかりません。自分の知らない所でいつのまにか解決されることだってあります。イエス様は人の心にはいって、その人の心を変えることもおできになります。

モーセが出エジプトの直前に主はパロの心にはいって、イスラエルを解放する思いを与えました。
ダニエルも偶像に捧げられた食事を食べたくないと証しした時にも、監督する人の気持ちをも変えられたとも書かれています。
主が他の人の心にはいって、その主の前に正しく自分を置く人を支えるということは励ましではないでしょうか。

最後に、主の祝福を受けた後のハンナを見て終わりましょう。

サムエル記第I、2:20-21
20エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主がお求めになった者の代わりに、主がこの女により、あなたに子どもを賜わりますように。」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。
21事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。

捧げた少年サムエルは、その願いの通りに主の御許で成長しましたし、ほかにハンナは4人の子供を与えられる祝福を頂きました。
ハンナは明け渡すこと、主以外のすべてを捨てることによってすべてを得たということが、私たちに知らされるのではないでしょうか。




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