荒野にて


蘇畑兄

(テープ聞き取り)

しばらくご一緒に聖書から考えてみたいと思います。
二、三日前ある集会に出た帰りに、七十過ぎの兄弟と一緒に車に乗ったんですけども、そしたら後ろからその兄弟が、「兄弟、救いとは何ですか。」と仰ったんですね。私はそのことをお聞きしながら、ある考えを覚えざる得ませんでした。

クリスチャンとして歩む兄弟姉妹が、いつも、この世の人々の知らないこの問題に突き当たり、「救いとは何か。」ということについて、ある意味で深く思い悩んでみたり、聖書に示されている私たちの理解を超えた色んな神さまの信仰の奥義について、思い悩んでみたり・・・。
この歩みは律法主義ではないだろうかと思って、恐れてみたり・・・・、本当に信仰に立って歩むときに、私たちは本当に色んな、この世の人々の知らない問題に、一人悩んでみたりすることがあるものであります。

救いについて、真剣に憂えないクリスチャンはいないでしょうね。内村鑑三はかつて、若い頃に書いたある本の中で、「自分の救いは確かだろうか。」と心配しながら、神の御心を少しでもなそうとする人こそ、救いに預かっている人だと自分は堅く信ずる。神を知らない人はこの問題に悩むことなどはないのだから。」と、書いてるところがあります。
自分の救いの確かさについて、深く思い悩まない人はむしろ、主を知らない人かも知れませんですね。一言で言ったら、救われてる人というのは、結局主から離れることのできない人のことじゃないでしょうか。

生涯離れようとしても離れることができない。私は、これ以外に立ち所がないということをわきまえてる人じゃないでしょうか。
マルティン・ルターは、国会で召喚された時の有名なあの言葉に、「私はここ以外に立つことはできない。私はここに立つ。これ以外に私は立つことができない。神よ、私を助け給え。」と言ったのでありますけれども、イエス・キリストを信ずる信仰以外に、自分の立ち所はないのだと、そこにしか立つことができないと。そのことが、救いじゃないでしょうか。

パウロはコリント人への手紙の中で、「兄弟たちよ。あなたがたが行なってる主のわざは決して虚しくはならない。だからいつでも、熱心に主のわざに励みなさい。」と語っています。
クリスチャンが色んなところで抱える、あるいはぶつかる悩みや問題は、それが信仰の教義上の問題であっても、決して無駄にはならないんですね。私たちは、大いに悩んでいいと思います。決してそれは、無駄ではないからです。

私たちが真剣に信仰に歩まざるを得ないほど、私たちは真剣におそらく問題にぶつかり、悩んだり、苦しんだりするんじゃないでしょうか。それはすべて報われるものであり、虚しいものではないから、私たちは色んなことに突き当たっても一向に構わないと思うんですね。
私の小さな子どもたちですら、三位一体という不思議な聖書の教義に戸惑って、色々私たちが答えることができないような質問をしてきます。わずか数歳の子ですら、こういう問題を抱えるんだなと思って、私は時々面白くなるんですけれども、本当にクリスチャンだけが、そういう問題に突き当たり、真剣にそれと取っ組むのであります。

この世の問題は、色々頭ひねって考えても過ぎ去っていくものですけれども、信仰について、神ご自身についての私たちの悩みや問題は、私は大いに益のあるものだと思うんですね。
ですから本当に、大いにひとつ、そういう思いに、そういう問題については是非みなさん悩んでください。
人は、自分から好き好んでクリスチャンになるのではなくて、神によってつかまれて、首根っこを押えられて、どうにも逃げられなくなって、クリスチャンになるのだと、聖書は言ってるのだと思うんですね。

「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだのです。」と、イエス様が仰っているからであります。というのはクリスチャンになるということ、イエス・キリストを信ずるということは、それまで自分を主人として生きていた人が、キリストのしもべ、もっと強い言葉で言うと、神の奴隷となる生き方に入っていくことだからであります。
自分以外の誰かのしもべ、誰かの奴隷、誰かにかしずく人生などというものが、どうして羨むべき人生でしょうか。この世の人々から見て、それがどうして好ましいと思えるでしょうか。思えないはずであります。

ローマ人への手紙の1章の1節で、よく知られていますように、パウロは自分のことを、「キリスト・イエスのしもべ、パウロ。」と呼びました。

ローマ人への手紙6:17-18
17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

ローマ人への手紙6:22
22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。

神の奴隷となった、というのであります。
ですから、イエス様を信じてクリスチャンになるということは、キリストのしもべとしての人生を歩む決断をすること。それは、させられることでありますが、そういうことです。
ということになると、世の人々は、「私はそういう境遇に入るのはごめんだ。」と思うのであります。「とんでもない話だ!」」と言うのじゃないでしょうか。

クリスチャンが、神さまの祝福と望みについて語って喜んでいるのを聞くと、世の人々は、いい気なものだなと思いますよね。本当にこの人たちはいい気なものだと、私なんかも、「それは君、神を信じれば楽になるだろうよ。」と、言われることがあります。
しかしその人に、「神を信ずるということの本当の意味は、自己否定と、神のしもべとしての人生を選ぶことですよ。あなたもその人生を選びませんか?」などと言おうものなら、「とんでもない!」と言って拒むものであります。

それはすばらしいと喜ぶ人は、一人もいないはずなんですね。ですから、信仰が人の知恵によるのではなくて、上からの啓示によるのでは、と言わざるを得ないのであります。
なぜなら、私たちから見て、神さまの賜物はすばらしいように見えないからなんです。まことに不思議なことでありますが、いつも神さまの御思いと、私たちの判断とはいつも逆だからです。
神がすばらしいというものは、私たちから見ると、何とつまらないものだろうということなんですね。

逆に、私たちが命がけで求めようとするのは、神さまの前には、何と虚しいものだろうということになるんですね。この転換といいますか、この逆立ちといいますか、この逆転といいますか、それは結局人間の内からの悟りを通して得られるものではなくて、ただ上からの啓示によって、神のあわれみの選びによって、人は捕らえられていくのであると、聖書は宣言しているのであります。
ですからどんなに知恵を尽くして、私たちが人を説得しようとしても、無理なんですね。

ガラテヤ人への手紙1:11-12
11兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
12私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

主の光が私たちの内に臨まなければ人は、救いということの意味するところ、神の恵みがどういうものであるかを知ることはできないのであります。神さまの招きに従うことができないのであります。

コリント人への手紙第I、1:17
17キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

コリント人への手紙第I、2:1
1さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

コリント人への手紙第I、2:4-5
4そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
5それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

どんなに知恵を用いて人を改心させようとしても、説得しようとしても、不可能であります。神の力によってささえられない信仰であれば、結局かならず、消えてしまうからであります。

コリント人への手紙第I、1:18
18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

十字架の言葉は、死を受け入れない人々にとっては愚かであります。しかし、救いに与る人々にとっては神の絶大なる力なんですね。「神の国は言葉ではなく、力です。」とパウロは言いましたけれども、本当にそうであります。
ですからクリスチャンは、信仰について、色々非難されたりすると、なかなか理路整然と反論できないものであります。

おそらく姉妹方が、ご主人方にこの世のことを、色んなことを知っておられ、知識も豊富なご主人方に信仰にによって問い詰められて、まったくつじつまの合わない返答ばかりするもんで、馬鹿にされることがあるでしょうね。
「何てまたおめでたい。こんなことにも答えられないのか。」と。「何だこの程度か。」と、よく言われますね。しかし、理路整然と話す人と、また理路整然と考える人、そのほうがつじつまは合わなくても、神を信じている人間よりも、確かな人生を歩んでいるというのでは決してないのであります。

クリスチャンが、信仰についてつじつまの合うような理路整然とした返答ができないのは、人間以上の方、人の知恵では測り知れない方を仰いでいるからであります。
あるいは、クリスチャンは人間の知恵の愚かさに気付かされているからであります。
世の人はそうではないんですね。世の人は、知恵の愚かさに気が付きません。何でも筋が通って、目から鼻に抜けるように筋道がたった理屈のほうが、賢いと思いますけども、主を知るようになってくるとそうではありません。

人の知恵が、結局は本当のところ役に立たないということを、知るようになるからであります。クリスチャンは人の知恵に重きを置かなくさせられるものであります。パウロは、こう書いてますね。

ローマ人への手紙11:33
33ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

この世の知恵において、おそらくだれにも引けを取らなかったであろうパウロが、神の知恵が底知れないこと、神の知恵と知識との富は、何と底知れないことでしょうと、ここで絶句してるわけです。
信仰とはこの、人間には思いはかることのできない神との、神と私たちの間の繋がりであります。ですから、主を知らない人たちから見ると、何ともつじつまが合わない、何とも不器用に、愚かしく見えかねないのであります。

クリスチャンは、すっきりとした筋の通った理屈を知恵だとは思わないで、神を恐れることこそが、本当の知恵だと知っている者であります。主を恐れることが、知識の初めである、悪を離れるのは悟りあると書いていますね。
これこそが本当の意味での知識であり、私たちをゆるぎない土台の上に立たせるものであると示されているからであります。

このように、この世の人々から見ると、信仰は本当に不可解な世界であります。この世というものと、神の国というものは、イエス・キリストのただ、十字架によってだけ繋がれているものであります。
人はそこを通ってだけ、この世から神の国に、信仰の世界に入ることができるのでありまして、イエス様の十字架を抜きにして人間の悟りや理解力によって、この世から神の国へ入ることはできないのであります。
まったくの別世界ですから、理解のしようがないのであります。ですから私たちはみんな、かつて「自分に神さまなんか要らない。信仰など自分には必要ない。」と思っていたのです。

ちょうど、原っぱを走り回って、トンボや蝶々を追っかけている子どものように、私たちも夢を追っかけて生きておりました。
しかし気が付くと、それが緑の原っぱでなくして、いつの間にか、自分のいるところが荒れ果てた、道もない、原野のような、荒野に変わっていることに気付いたのであります。
周りを見ても、いつの間にか、だれもいなくなっているのであります。先ほどまで、ともに騒いで、賑やかに過ごしていた仲間が大勢いたのに、今は一人だけいるのであります。
道もなく、孤独の世界に自分がいる、そういうことに、ある時気付くようになったのであります。

エレミヤ書4:24-25
24山々を見ると、見よ、揺れ動き、すべての丘は震えていた。
25私が見ると、見よ、人間はひとりもいない。空の鳥もみな飛び去った。

今までの楽しかった世界は、どっかに行ってしまいました。どうしたんだろうか。こんなはずではない。人生はもっと楽しいものだったし、楽しいものであるはずである。望みのある世界である。この世界は?と、思ってみても、自分が道のないどこに行ったらいいか、さっぱり分からないような独りぼっちの荒野にいるという、この現実は、動かしようがないのであります。
夕闇が迫っているのに、どこに向かって歩み出していいのかさえ、分からないのであります。吹いてくる風の音も何か不気味に思えてきます。楽しかった家族の団欒も、友人たちとの談笑も、我を忘れてさすて色んな遊びも、今はもう失われてしまった世界のように思えるのであります。

この人生はこんなはずではなかった。結構、楽しかったじゃないか。結構、生き甲斐があったじゃないか。どうしてこういう、訳の分かんないエアポケットに落ち込んだように、自分はなってしまったんだろうと、思います。
しかし日が暮れようとするとき、夕闇が迫ってくるときこそが、実は天に星が輝き出してくるときであります。宵の明星が頭上に昇ってくるときであります。

私たちが行き詰って、周りが深い闇に包まれてくるときこそが、天の光がはっきりと目に入ってくるときであると、聖書は言っているのであります。そのときこそが、神のときであり、救いのときであります。
一日でもっとも闇の深くなる時刻はいつかと言いますと、それは日の出の直前だそうです。日が昇ってくる、その直前こそが、闇は一番深いのだそうです。
そして一番冷え込む時間も、そうだそうです。私たちが一番深い悩み、苦悩の中にあるときこそが、私たちが、神を仰ぎ見る、神の御声を聞く、。そのときであります。

詩篇130:1-2
1主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
2主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。

詩篇130:5-6
5私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。
6私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。私たちの心は、どうしようもないと思わないうちは、神のみことばを本当の意味で聞くことができないのであります。
本当に行き詰らない限り、私たちは、スポンジボールのようなもので、すぐ元に戻ります。喉元過ぎれば熱さ忘れるのです。いつまでたってもスポンジのように、へっこんだと思ったらまた元に戻ってくるのであります。

旧約聖書に出てくるヤコブという人は、アブラハムの子、イサクの子になるわけですが、生来なかなか抜け目のない人物でありました。上手に人を押しのけ、欺く質の人だったんですね。
ヤコブという名前が、押しのける者、欺く者という、実に大変な名前であります。人が良くて、ボヤーーっとしている、長男のエサウを何とかして出し抜こうとばかりしている人でありました。
彼はその、曲がれる性質をなかなか砕かれようとはしませんでした。巧妙に立ち回っては切り抜けていたからであります。

しかし神に捕えられず、砕かれない限り、切り抜ければ切り抜けるほど、問題はさらに大きくなっていきます。ついにヤコブは絶体絶命の立場に立たされるようになるんですね。
彼は二十年前、彼に欺かれて、長子の特権を奪われた兄エサウが、一族郎党四百人を引き連れて、自分の妻子やしもべたちの一行の前に、今現われてくという状況に立ち至ったのであります。

そのお兄さんに対して、彼が犯した重大な欺きの罪について、何にも知らない家族、その家族と離れて、ヤコブは恐れおののきました。兄エサウは、自分と自分の家族を皆殺しにするかもしれないと思ったからであります。
二十年前、彼は自分の父母の元を離れ、自分の故郷を捨てて逃げたのは、兄エサウが自分を殺そうとしていることを知ったからだったんですね。その問題は無くなるどころか、大きくなって彼の前に現われてきたのであります。ヤコブにかつての彼の罪が迫って、立ちふさがったのであります。

ヤコブはもうどこにも逃げ場がありませんでした。もう自分の知恵によって切り抜けることはできませんでした。ヤコブは、本当に進退窮まったのであります。

コリント人への手紙第I、3:19
19なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」

このとき、真夜中でありますけども、ヤボクの渡し、川の近くで、ヤコブは名も知らない人と一晩中、激しい取っ組み合いをしたのであります。
それは明け方近くまで続きました。おそらく汗みどろ、血みどろで取っ組み合いをしたろうと思うんですね。
そしてヤコブは、もものつがいをはずされました。びっこになりながら、その人にすがったのであります。その方が自分のすべてを知っている。自分の罪と苦悩とを知っている神の御使いだと気付いたからであります。

彼は最初、分かりませんでした。自分に組み付いて来た人が何者であるか。しかし彼は、必死にもがいてるその中で、その相手が神の使いであること、自分の今までの一切のことを知っている方であること、自分が今置かれている、この立場がどこから来たかも知ってる方であることを、気が付いたのであります。
そしてこの方に祝福を求めたんですね。御使いが、あなたの名前は何というのかと聞いたときに、彼は、自分が何者であるかを告白したのです。

「ヤコブです。私は欺く者。押しのける者。エゴのかたまりです。」と、彼は言ったのであります。このときヤコブの肉、砕かれなかった肉の心は、本当の意味で砕かれました。

創世記32:22-31
22しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
23彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
24ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
26するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
27その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
28その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
29ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
30そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
31彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。

深い闇の中で、ヤコブは必死にもがいていたのですけれども、そのとき彼は、本当に自分が何者であるか、本当にエゴのかたまりであるということ、そのことをはっきりと知るようになったのであります。
彼の真実の悔い改めが、彼から恐れを取り去ってくれました。イスラエル。今日のイスラエルという、あの民族の名前は、ここから出たのですけれども、神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。神の前に悔いくず折れる者。それを神は、神と戦って、勝ったと仰っているのであります。

ヤコブはびっこをひきながら、恐れから解放されて、兄エサウの前に低くなって、身を低くして出て行ったことが、あとで記されているんですね。
荒野は、・・・深い闇は、神のみことばを聞く場であります。このヤコブがそうであったように、進退窮まって、もうどこにも逃れ道を断たれて、出口がない。そのときそこは、神のみことばを聞く場であり、神さまの御救いを仰ぐ所であります。自分が何者であるかを示される場でもあります。

行き詰まりの原因は、他人や環境にあるのではなくて、自分自身にあることを、本当の意味で知らされるところであります。それが、荒野であります。
荒野は絶望の場であるようですけれども、しかしそれは、救いの場でもあります。私たちは決して、緑のあの原っぱで神と出会うのではなくて、進退窮まった、どうしようもない荒野で、深い悲しみと叫びの中で、真夜中の闇の中で、私たちは救い主に出会うのだと聖書は言っているのであります。私たちが荒野で主を知るようになり、主に出会うときに、その荒野はまったく違ったものとなるのであります。

イザヤ書35:1-2
1荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
2盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

イザヤ書35:5-8
5そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
6そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
7焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
8そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。

荒野が、砂漠が、サフランのように花を咲かせるのであります。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるのであります。神の語りかけを聞く用意さえ、私たちにできれば、救いはすぐ近くにあるのであります。
問題は、私たちが本当に、神さまの御声を聞く備えがあるかどうかなんですね。その用意さえできれば、救いはもうあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたのすぐ近くにあると、みことばの中にあるとおりであります。

イエス様が仰っているように、本当に幸いな人、それは主の前に心へりくだらされたたましいであります。最後に、

マタイの福音書5:3-8
3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
6義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
7あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
8心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

逃れ場がないとき、ただ一つだけ逃れ場があります。それは上を見ることです。神のみもとに、私たちの本当の逃れ場、脱出道、光があるのであります。
是非、本当に静まって、この救い主を仰いでいただきたいと思います。




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