聖書を読むことの大切さ


蘇畑兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:詩篇119篇130節
130みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

詩篇119:133
133あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。

私たちのこの吉祥寺キリスト集会。ここから全国に集会が広がって、単にキリスト集会と呼ばれるようになってますけれども、このキリスト集会の信仰の強み、信仰の力の秘訣は何であったかと言いますと、それはここに集われる方々がよく聖書を読むということだったと思います。
自分自身で、それこそ真剣に聖書を読むという信仰生活をします。これが、かつてのこの集会の大きな特徴だったと私は思っています。兄弟たちも姉妹たちもよく聖書を読みます。
ベック兄が最初の頃出された本の中に、姉妹たちの聖書の写真が収められていましたけれども、本当に読みこなされた聖書がたくさん、写真で出ていたんじゃないかと思います。
しかし最近感じることは、私たちの集会ではかつてのように、自分自身で聖書を読むという傾向が少なくなっているのではないかということです。

確かに、集会のもたれる回数は格段に増えました。昔はこんなに集会はありませんでした。クリスチャン同士の交わりのチャンスも格段に増えました。毎週、毎週、全国各地で喜びの集いがあります。世界中の各地でキャンプが持たれています。
しかし聖書のことを系統立てて自ら拝読し、自ら学び、自分の血と肉とすること。これこそ信仰の本当の土台を築き上げていくということなんですけども、クリスチャンにとって不可欠の必須のことであります。このことを私たちが、本当に大切にやっているかどうか。これは私はちょっと最近疑問に思っています。

かつての兄弟姉妹は、本当にぼくは聖書読んだと思ってるんですね。色んな人々と話をしていて思うことは、正しい聖書の知識が欠けているということであります。
初歩的なことも分かっていないという気がしばしばいたします。
それで私はよく、「聖書はどれくらい読んでいますか?」と聞きます。「新約聖書は何べんくらい読みましたか?」と聞きますと、「いやー。一度も通読したことがない。」と答える人も少なくないのであります。

私はそのような返事を聞く度に、内心非常に驚きます。なぜなら、本人は色々な問題で悩んでいるからなんです。何年も悩んでいる。中には自分だけでなく、家族もその人のために一緒に悩んで、本当に溺れるかのようになっているんですね。
側から見てると、一緒に家族ごと溺れそうになっている。しかも何年も前から集会に加わっているんです。

それなのに、きちんと新約聖書すら読み通したことがない。どうしてそんなに悩んでいるのに、真剣に聖書を読もうとしないのか。どうして命懸けで聖書と向き合わないのか。ぼくなどは不思議でしょうがないんですね。
一度も通読しないまま、信仰に問題の解決はないのだと誤解して、病院に行ってみたり、薬に頼ってみたり、さらに深みにはまり込んでいくのであります。

もし聖書に本当に真理が語られているのであれば、どうして、必死にその真理をつかもうとしないんでしょうか。真理はいかなる問題をも解決する力のあるものではないでしょうか。
ぼくはそれでなかったら真理ではないと思っています。真理であるならば、どのような問題に対しても必ず根本的な力を持っている。私はこのことを信じて疑いません。ですから、聖書はあらゆる問題に対する根本的な解決であると私は信じていますし、今まで裏切られませんでしたし、ますます私はその確信をもっています。

聖書の真理によって解決できない問題は何一つとしてない。聖書のみことばが解決できない問題は、この地上にないと私は確信しています。
聖書はだれが読んでも分かるはずなんです。特定の人にしか分からないものは真理などではありません。聖書は万人に理解できるはずのものであります。
もちろん、罪によって霊のまなこが覆われているとき、聖書もまた、私たちには覆われた書物であります。しかし聖書の真理を知ろうとして、みことばをくり返し私たちが拝読していくうちに、私たちはまず自分自身の罪に気付き始めるのであります。聖書の真理、驚くべき救いの奥義はただ罪を悔い改めるたましいにだけ開かれてくるからです。

私たちの目を遮るものは罪であります。しかし、私たちにその罪を気付かせてくれるものは聖書のみことばであります。
聖書のみことばに、最初は訳が分からないんですね。霞がかかったようです、私の心の目は。何言ってるかさっぱり分からない。聖書の書いてるみことばの意味は全然分かりませんね。
「あー、これくらいなら分かるか。だいたい分かる。」、そんなものであります。しかし、分からなくてもくり返しくり返し聖書を読んでいくうちに、私たちの心の目は一枚、一枚薄皮が剥がれるようにして開かれていくんであります。そして、ついに本当の問題に突き当たっていくんですね。人は、自分自身の罪という問題に、はっきり直面するようになってくるんです。

しかし聖書を読まなかったら、結局人はさっぱり分からないのであります。問題の原因がどこにあるのか、自分が悩んでいるけれども、その理由が分からない。理由が分からないから解決が分からないんですね。
理由が分かれば解決は分かります。自分の問題の原因はここにあった。根本的な問題の原因にはっきり気が付く時に、私たちはその問題の解決を見いだしていくのでありますが、結局多くの人々の問題は、問題の意味が分からないということなんです。

なぜ悩んでいるのか。長い間悩んでいる。家族も全部それによって本当に、へとへとに疲れるまで悩んでいる。そういう人々はいっぱいいらっしゃるんですね。
しかしその全貌、すべての人々を苦しめてるその問題の根本的な原因は一体何か。それを本当の意味で知らなければいけないんですね。それを私たちにはっきり気付かせるものは聖書のみことばなんです。
聖書のみことばを読まないと、本当の信仰は何であるかは分かりませんし、自分は信じているようですけれど、問題は全然、一歩も解決しない、前進しない、そういう状態になるのであります。

聖書のみことばは、私たちの心の中を照らす光であります。みことばによって、私たちは自分の心の中と自分の生活の中にある諸々の罪、汚れ、不義、偽りに気付いていくのであります。
自分が不義と汚れの中にいること、まるでどぶ川の中に浸かっているようなものだと、人は気が付かなきゃいけないんですね。そしてそれらのものを次から次に自分の生活の外に出していかなきゃいけないんですね。
家の中を掃き清めるように、清掃しなきゃいけないんです。みことばによって、だんだん私たちの内なるものと私たちの生活そのものが聖められていかなきゃいけないんですね。そうしないとみことばは生きた力となってこないんですね。

聖書の言葉は聖書の言葉、私の生活は私の生活。もし私たちがこういう態度を取ってるならば、それでは聖書はただの読み物であります。小説か何かと一緒であります。
しかしそれは神の言葉に対する私たちの取るべき態度ではないのであります。神の言葉に対して私たちは、この世のさまざまな本を読んだり、学術を研究するような、そういうものじゃないのであります。
主の前に示されたときに、私たちはそれを本当の意味で恐れかしこんで、そのみことばに従わなきゃいけないんですね。

そういうことをして初めて、私たちは信仰の成長というものを経験していくわけです。みことばによって教えられ、みことばに従うことを通してだけ、人は聖書のみことばを生きたものとしてつかまえていくわけであります。
私たちの心を目覚めさせ、心から正しい生活をしたい、聖い生活をしていきたい、もう今までのような、泥の中を転げ回るような、もうそういう生活は本当に離れよう。もう十分である。
そういうふうに、私たちが自分の不義、偽り、見せかけ、そういう生活を本当の意味で改めよう。もう、そういう生活は結構である。これからは本当に正しい生活をしよう。真実なものに目を留めていこう。本当の人生をこれから始めよう。こういうふうに私たちが心の底から願うようになってくる。それは聖書のみことばの力なんですね。

聖書のみことばがあって初めて、私たちのうちに本当の生活への、真実なるものへの、聖いものへの、正しいものへの飢え渇きが抑えがたく出て来るのであります。
詩篇の中にありますように、「私のたましいはあなたを、私は神を、谷川の鹿があなたを慕いあえぐように、水を慕いあえぐように、私のたましいはあなたを慕いあえぐ。」という、42篇の有名なコラの子の賛歌がありますけども、鹿が谷川の水を慕いあえいで、あの鼻がピクピク動いて、水の匂いを嗅いであえぐように、私はあなたを慕いあえぐと言ってますね。

そういうふうに、今までの罪を罪とも気が付かなかったような生活から、本当に正しい歩みをしよう。そういう思いが抑えがたく私たちの心の中に湧き上がってくる。それはみことばの力なんです。
そうでなければやっぱり悲しいことだと思いますね。もうほかのことはどうでもいい、本当の人生を生きよう、正しい生き方を生きよう、イエス・キリストが歩まれたように、あのような人生を自分も歩む、このような願いに勝る願いがほかにあるでしょうか。

聖書を読むようになって初めて、私たちの中にたましいの目覚め、本当の意味でのたましいの目覚めが生まれてくるんじゃないでしょうか。
もし私が聖書を読まなかったら、相変わらず私は自分の不義と偽りと高ぶりの中にまだまだ生きていたかもしれない。あるいはもう、生きていなかったかもしれない。そういうふうに思うんですね。
聖書はすぐ理解できるものではありません。しかし、くり返しくり返し読むにつれて、先ほど言ったように薄皮が一枚一枚めくれてくるように、明らかになってくるものです。

それは私たちの心が一枚一枚薄皮を剥がすように、神さまの光のもとに明らかになっていくということなんですね。逆に言いますと、聖書が分かるっていうのは、私たちの心が神さまによって照らされてくるからなんです。
私たちの単なる知的な理解力の問題ではありません。私たちの心が光を照らされ、聖められ、柔らかにされ、砕かれてくるからそれに応じて聖書のみことばは私たちに光を放って来るんですね。決して頭の理解力ではありません。心の問題であります。心の目が開かれてくるときに、聖書のみことばが分かってくるということであります。

聖書のみことばはですから、だれかに安直に教えてもらうというわけにはいかないものなんです。自分の心が開かれずして、自分の心が神さまに照らされ、調えられずして、いくら聖書の言葉の意味を解説してもらっても、それは役に立ちません。
マニュアル本を抱えるように、全覧を抱えるように、この問題にはこの答えという想定問答をもってるようなものじゃないんですね。本当にそれは何の役にも立ちません。
いくらそのような解説を聞いたからといって、悩んでる人は相変わらず悩んでいる。立ち上がることができないんですよ。

心で深く人が悟らないならば、それは光にもいのちにも希望にもつながってはいかないのであります。したがって問題の解決にはなりませんし、本当にここに真理があると喜ぶことはできないんですね。
私たちの心の目が聖書の真理に開かれることこそが救いにほかなりません。

確かに、信仰は単純なものであります。信仰は知識ではなく、生きておられるまことの主なる神に、救い主イエス・キリストに心から頼るということだからです。しかし私たちのその単純な信仰を悟らせ、主に心から頼るということが、どういうことかを教えるのが聖書のみことばなのであります。
よく聖書は、こちらではこう言い、あちらではああ言い、聖書は正反対のことを言っている。どちらが正しいのかよく分からないと言う人がよくいらっしゃいますね。確かにそうであります。

いつかベック兄も仰ってたように、聖書のみことばを一箇所だけ取ってきたら、どんなことでも肯定できますよ。どんなことでも正しいとすることができる。確かに、都合のいいみことばだけをもし私たちが選び取って来るなら、どんなことでも弁護できます。
しかしこれも、実は自分の未熟さのためであって、信仰の成長とともに聖書が何を言ってるかがよく分かってくるものです。子どもは親の言うことをすべて理解できるわけではありません。数十年の生涯をとおして、初めて理解できる聖書の真理はいくらでもあるのです。

また、すぐ理解できなくても、多くの真理を悟らなくても一向に困らないんですね。大切なことは今の自分に必要なこと。今日の生活を正しく生かしてくださる知恵と力のみ。今日一日私たちを、本当に正しく生かしてみるところの、導いてくださるところの聖書のみことばが必要なんですね。
小学生に大人の知恵や知識は要りません。必要ないからであります。しかし大人になれば大人の知識と知恵が必要になってきますね。聖書のみことば、みんなそうです。

私たちの生活に本当に必要なものでなければ、神さまは教えられません。しかし必要なものなら、神さまは必ず教えてくださいます。自分の直接の問題でもない問題を持ち出して、なぜ神さまはこういうことをなさるのかというようなことをよく質問してくる人々がいますね。
自分とは関係ないのであります。そういう関係のない質問に、神さまは答えられないんです。確かに私たちが疑問に思うことはいっぱいあるんですね。どうしてああいう人にああいうことが起こったのか。そういう疑問はいっぱいあります。
しかしそれはその人と神さまとの問題で、その人には分かるんですね。なぜそういうことが起こるのか。私たちから見ると、もし神が全能であればどうして、あの人にああいうことが起こったかっていうような言い方をしますけども、こういう質問は、信仰的にいうと愚かな質問なんです。

一般的な話、一般的な問題というものを信仰に持ち出してはいけないんです。神さまは私たちの今の自分に本当に必要なものは何か。自分と神さまとの間にあるところの、そういう問題にだけ神さまは正しい答えを、必要な答えを与えてくださるからなんですね。
一般論というのは、信仰にとっては不必要なものであります。ヨハネがペテロのことを、「主よ。彼はどうなんですか。」、あとから着いて来るペテロを指差してヨハネがイエス様に、「彼はどうなんですか?」というようなことを聞いた。そしたら、「彼のことは関係ない。再びわたしが来るまで彼が生き残ってることをわたしが望んだとしても、それはあなたに何の関わりがあろうか。」と、ペテロに仰ったんですね。「あなたはわたしに従いなさい。」と仰ったんですね。

私たちに必要なのはいつでも自分と主との問題なんです。ほかの人と主との問題は、私たちには関わり知らないことなんですね。私たちの責任外のことであります。
色んな質問をしてくるんですね。その問題は本当にあなたに対して、あなたに関係のあることですか。本当にあなたはそれで悩んでいるかというと、いやそうじゃないと言う。そうじゃないけど神さまが全能ならどうしてこういうことを起こされるんですかと、こういう質問をしてくるんですね。
さっき言ったようにそれは、私たちが質問すべき質問ではないということです。神さまは、それはあなたの問題ではないと仰るんですね。いつでも自分の問題、それに対して私たちはすぐに尋ねなきゃいけないのであります。そうすれば、必ず答えがあるのであります。私たちは、聖書を読まなきゃいけないということなんです。

聖書は読んでも分からない。なんか、そういうふうに、多くの人々がだんだん思ってきて、聖書なんか読まんでもいいものであるかのように考え出してきて、聖書を本当に始めから終わりまでくり返し、くり返し読んでいくという生活習慣を持たなくなってきて、ただ断片的に色んな聖書のみことばだけを知っていて、これじゃ駄目なんです。
聖書を、新約聖書も、旧約聖書も本当によく、くり返して読むというチャンスのあるのは若い人々たちですね。年を取られたら容易ではありません。
聖書は一年や二年読んで、十分だというものじゃありません。聖書の中に自分の信仰生活の何十年かの血と汗が染み込んでいなきゃいけないわけでしょ?そういうふうにして初めて、みことばは私たちのものになるからなんですね。

論語読みの論語知らずという諺が昔からありますけども、聖書を微に入り細に入り知っていて、しかしその人自身は少しも変わっていかないなどという場合もあるかもしれませんね。
そういうことは戒められなければなりません。聖書の知識を誇ろうとして、聖書の知識を詰め込もうとする愚かな試みもあるかもしれません。

正しい動機からでないと、神さまが祝福されることはないということは明らかなことであります。私たちの主はすべてを知っておられる方であり、すべてのことに正しく報いられるお方であります。
だから正しい心をもたないと、すべてのことは無益であります。聖書を読むことも、聖書の知識をたくわえていくことも駄目です。聖書のみことばは最初はなかなか分からないものであります。

あっちで引っかかり、こっちで壁にぶつかるように、その中の一部の意味ぐらい何とか分かるかな、そういうものであります。初めは懸命に自分が理解しよう、自分がみことばをつかまえようと一生懸命やるんですね。
自分の基準で聖書のみことばを判断しようと努めるのでありますが、くり返しくり返しみことばを拝読するにつれて、みことばによって自分自身を判断されることが第一だと気が付いてくるのであります。

みことばこそ実は基準だということ。航海する船の羅針盤のようなものだと気付いてくるんですね。主客転倒するようになってきます。自分の考えが聖書の言葉を判断する基準であるかのように、そこから物を見るということしかできませんけども、そのうち逆だということに気が付いて、聖書のみことばが基準であり、そのみことばによって自分自身は判断されていかなきゃならないのだということに気が付いてくるんですね。聖書のみことばが主であり、自分の判断は従であります。従うのであります。
聖書のみことばを日々親しみ読むことによって自分の生活を聖書の基準に合わせられるようになっていくんですね。

常に聖書のみことばの示す方向に、私たちのブレがちな生活というものが修正されるようになってくるはずであります。私は船を操作するという経験はありませんけども、船の舵を取る人にとって、そのコンパスというのがどんなに大事なものか。
それがなかったら、大海原の真ん中に立って、本当にそれはもう、まったく身動き取れないはずですね。コンパスによって、羅針盤によって初めて、行く方向は定まってくるわけであります。

しかも例えば真っ暗な海の上を行くんだったら、もうどうしようもないはずですね。飛行機などはそうだと思いますけども、ちょうど同じように、聖書のみことばこそが揺るがない生活の指針であります。
最初は全然理解できなかった聖書のみことば。自分の判断力によって、自分の経験によって聖書を判断しようとして一生懸命もがいてて、訳分からないと言ってやっていく。
しかしそのうち気が付いてくる。聖書の言葉こそが、実は自分を照らし出してくる光であり、基準である。自分の生活に方向を指し示すところのものだということに気が付いていくんですね。

自分がどう考えるかということは、あんまり重要ではないということに気が付いてきます。聖書はどう言ってるか。聖書の判断に耳を傾けるようになる。
そういう信仰生活の、何て言いますかねぇ、原理原則、そこに私たちが立つということが大事じゃないでしょうか。そうなってくると私たちの歩みが安定してくると思います。その人の生き方や知性が確固としたものになってくるはずなんですね。
それは、聖書の基準というものが揺るがないからなんです。いつもその聖書の基準に立ち返るということが信仰のもっとも大事なことだということに気付かされてくる。

(テープ A面 → B面)

グラグラしない。そのときそのときで、クルクル変わらない。きちっと筋が通っていく。そういうことになるんじゃないかと思うんですね。それがクリスチャンの生涯。
そうですね、はっきり特徴づけてくるものになるんじゃないでしょうか。

私たちはどんなに頑張っても罪の力に打ち勝つことはできない者です。しかし、日々みことばによって養われるなら、みことばに触れることによって私たちのたましいを私たちが聖められるなら、罪に打ち勝つことができます。罪に支配されず、主に支配されるようになるのであります。
まず私たちの内側が聖められなけらば、整えられなければ、私たちの外側は整えられない。私たちのたましいがいつもみことばによって整えられ、聖められ、さまざまな肉なるものから私たちのたましいが分離され、そういうことによってだけ、私たちは罪の鎖から解き放されていくということであります。
それは多くのクリスチャンが経験することですね。

人間の頑張り、努力で、人間のもってる罪の力に打ち勝つことは不可能であります。どんなに頑張ってもできないことです。
しかし罪に打ち勝っていく道はないのではありません。いつも主との交わりの中に私たちがとどまるならば、聖書が言ってるように、私たちは心の内をも守られていくんですね。それが可能になってくるのであります。
聖書のみことばに深く親しむということ以外に方法はないのであります。

詩篇119:1-3
1幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。
2幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
3まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。

詩篇119:9
9どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。

過ちを犯しやすい危険な時代。それは若い時代であります。非常に危ない時代であります。そこを人が真っ直ぐに通り抜ける。その道を真っ直ぐに通り抜ける。これは本当に年を取ってから見ると、本当に危険な時代だったということをだれもが思うはずですね。
よくああいう中を通ってきて、とんでもないことにならずにすんだ。本当にありがたかったと、多くの人は思うんじゃないでしょうか。そういう中を、危険な時代を人は安全に通り抜ける。その秘訣は聖書のみことばであります。みことばにしっかり目をとめる者。私たちはその危険な道を、無事に渡り終えることができるんですね。

詩篇119:98-105
98あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。
99私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。
100私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。
101私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。
102私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。
103あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
104私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

一番知恵に富む人とはだれでしょうか。聖書は、主のみことばを本当の意味で悟る人なんですね。その人はたとえ若くても、先生よりも悟りがあり、老人よりもわきまえがあるとみことばは言っていますけども、私は本当にそうだと思います。
聖書のみことばを本当の意味で学んでる人、知っている人、この人は本当の意味での知恵者であります。問題はみことばのすばらしさ、それが私たちにとっていのちを与える比類のない宝物だという、その価値に気が付いているかどうかということなんですね。

みことばのすばらしさに勝るものはないのだと本当に気が付くのなら、恐らく聖書が言ってるように、この地上のいかなるものにも勝っているものなら、聖書のみことばの与える悟りだと思います。
永遠の宝物であることは間違いないんですね。その価値を本当の意味で知って、みことばによって養われ、生かされること。私たちの人生において最もすばらしい恵みはそのことだと思うんですが、しかしなかなか人はそういうふうに気が付かないものであります。

詩篇119:14
14私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。

詩篇119:72
72あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

すばらしいですよね。たとえ何にもなくても、目に見える一切のものを私たちが持たないとしても、もう私たちが持っているならば、私たちは本当の意味でだれよりも金なものであると、聖書は言っているわけであります。

詩篇119:111
111私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。

さっきお読みした103節にも、

詩篇119:103
103あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

蜂蜜のしたたりに勝って、主のみことばは私の口に甘い。こういうふうに、みことばのすばらしさを経験するようになれば、しめたものですね。
みことばのすばらしさを気が付かないと、私たちはこの世の本当につまらないものに心をとらえられ、この世のものに首を突っ込みますけれど、しかし本当に野良犬や野良猫がゴミ箱に首を突っ込んでいるように、この世の青春汚物みたいな、・・・ある方が言いましたけれど、いっぱい出ている本や色んな週刊誌なんかでは青春の汚物みたいなもんですよっていうようなことをある人が昔仰って、うまいこと言うなぁと思いましたけれども、本当にそうですよ。
ですから、自分の読むべきもの、そういうものをちゃんと判別するということ。本当の意味で価値あるものに、聖書が示しているものに、目をとめるということ。私たちはそのように成長したいものであります。
エレミヤ書の15章16節、これもベック兄がよく引用なさっているみことばでありますけども、

エレミヤ書15:16
16私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

みことばのすばらしさに目が開かれて、歓喜雀躍すると言いますかねぇ、たましいが本当に喜ぶ、そういう経験をエレミヤはうたっているわけですね。
昔、藤井武という伝道者がいらっしゃって、四十二、三歳ぐらいで、若くして世を去った方でありますけれども、無教会の、内村鑑三のお弟子さんの一人がかつて、忠誠のエリートコースを歩み・・・その小さい頃は神童よばわりされた方だったそうでありますけども、のちに、その、内務省の役人の道を捨てて、彼は念願の伝道の生活を始めるわけですけども、三十なる前の奥さんを突然天に召され、乳飲み子抱えて、四人か五人の子ども抱えて、この方は文字通り、悪戦苦闘しておりました。刀折れ矢尽きるようにして、世を去った方であります。

その人が書き残したものがいっぱい残っておりますけども、短歌に「見い出たる真理一つに胸は満ちだれにかわからんただ卓をめぐる」という聖書のみことばの中に、真理を見いだして、もう嬉しくて、だれにこの喜びを伝えようかとただ部屋の中のテーブルの回りをグルグル回るというような意味の歌でありますけども、聖書が示している、神さまの真理に圧倒され、もう嬉しくてたまらない。
本当に心は喜び踊る、そういうことですね。これがこのエレミヤの言っていることだろうと思うんですね。「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、喜びとなりました。」、聖書の言葉のすばらしさに喜び踊る。

テモテへの手紙第II、3:15
15聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

ここで言ってる聖書というのは、旧約聖書のことですけれども、

使徒の働き20:32
32みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

人の話をよく聞くことによって、その人がよく分かってきますね。しょっちゅうその人と話をしてるとその人が分かってきます。その人の人柄、人間性ってのが分かってきますね。
同じように、神さまのみことばを深く私たちが読む習慣をつけることによって、神ご自身をよく知るようになります。これこそ、主との本当の意味での交わりだと思うんですね。
交わりということは相手を知るということです。正しくみことばの真理を知りたいと願う人には、主は必ず正しく理解する力を与えてくださいます。

聖書のみことばを自分勝手に解釈して、間違った方向に進むという心配がよく言われますけども、そのために例えばカトリックなんかは長い間、信者に聖書を読むことを禁じましたけども、しかし正しく真理を知りたい、正しい歩みをしたいと願うなら、必ず主は正しい聖書の理解力を与えられます。
先ほども言ったように、正しい動機をもって私たちが聖書に向かうなら、間違うことは決してないんですね。自分の毎日の生活に必要なみことばをひとつひとついただくことによって、その積み重ねをとおして、私たちは聖書を深く、広く知ることができるはずであります。

自分に必要もないようなことを、単なる知的好奇心をもって、聖書の知識をどうのこうの云々するということじゃなくて、先ほども言ったようにそれは正しい道じゃないんですね。
そうじゃなくて、正しい生活のために、正しい歩みのために、聖書のみことばを主からいただく。その積み重ねによって、人は真っ直ぐな成長を遂げることができるはずであります。だから私たちは自分自身の手で聖書を開くべきだし、自分で聖書を学ばなきゃいけないんですね。
そういう用意があって初めて、多くの先輩たちの聖書の学びから多くのものを受け取ることができるんですね。自分の誤解していたことが修正されてくるということもありうるのであります。

詩篇25:4-5
4主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
5あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

ダビデの祈りですね。
みことばの方向に心の目を開かれる人こそ、もっとも恵まれた人、幸いな人であるということは間違いないのであります。先ほど読んでいただいた詩篇の119篇の130節と133節を読んで終わりたいと思います。

詩篇119:130、133
130みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
133あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。




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