クリスチャンの立場


蘇畑兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:ヨハネの福音書16章33節
33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

神様を信ずるものにとって、この世におかれてるクリスチャンとしての、私たちの立場について、ちょっとご一緒に考えてみたいと思うんですけども。

クリスチャンというのは、ある意味でこう、奇妙な人間たちだと言えるのではないかと思うんですね。
この世で、この世の人と一緒に生活していながら、この世の人々とは本質的に全く異なる目当てを持って生きている人々であります。価値観を全く異にし、使命感を全く異にし、目指すところを全然異にして生きてる者が、「クリスチャン」と言われてる人々なんです。

外見的には同じなんですけども、同じ仕事し、同じようなことをやってますけども、全く異粒子がそこに混じっているかのように違う、ということ。これが、聖書が言っていることなんですね。
本当に、どんなに人々に説明しても、この世の人々には、理解していただけない。なんともどかしく、私たちはやろうとするけれども、「何をこの人たちは言っているんだろう」てな感じでしか、受け取られない。そういう者なんですね。

何と、水と油のように、一緒になることができない。混ざり合うことができない。理解してもらえない。そういう意味において、本質的に交わりが持てない。こういう者なんです。
神様が、ますます違ったものとして変えてくださったために、私たちは同じ言葉を使っていても、相手に通ずることができないのであります。クリスチャンってことは、不思議なものだ。時々思うんですね。

私たちから見ますと、この世のことは、ある意味でよく透けて見えるわけです。
この世の人々が求めているものが何であるか、彼らが最終的に目指してるものがいったい何であるか、人間の心の奥底にひそむものが何であるかを、クリスチャンたちは、よく透けて見えるようになってきました。すなわち、人間の本質が罪であるということ。

私たちは、どんなことをやっても、結局エゴの主張っていうところから抜け出ることができないっていうこと。
自分の打算を考え、自分の立場の有利性を追及して、自己弁護し、そういうふうな、結局、人間の本質というものを神様の光に照らして見るとき、はっきりと見ることができるし、他人の、この世の人々の、心の中にあるその思いだけでなくて自分の心の中にあることも、はっきり判別することができるようになるし、そういう意味において、本当によく見えるようになったと、言えることができると思うんですよね。

神様を知る以前は、世の中のこともわかりませんでしたけれども、自分自身のこともわかりませんでした。
しかし、神様を知るようになったときに、私たちの目は開かれるようになってきました。そして結局、自分が神様の前に罪人でしかない。自分のあらゆるものが、結局神の前ではエゴから出てきたものであって、すべてが罪によって汚されてるものである、ということがはっきりわかってくるときに、この世の本質というものがそこにある、ということに気がついてきます。

この世ってものは、いつでもそのエゴから出てくるものであることに、気がついてきます。だから、結局この世っていうものは、そういうエゴとエゴとのぶつかり合いっていいますか、お互いの間の、表面的には見えないかもしれませんけれども、カモフラージュするところがあるかもしれませんけれども、ちょっと中に入り込めば、結局人々の自己主張の、渦巻いてる世界。これこそが、この世の本質にほかならないっていうことに、私たちは気づいてきますね。私たちは、結局そういうふうに、見ることができるようになった者であります。

この世の人からは、クリスチャンは理解できないんです。僕らがどんなに説明しても、相手は本当に何を言ってるんだろう?というふうにしか、思えないんです。
けど私たちには、この世のがよく見えるんですね。透けて見えるんです。それとか、何を考えて何を求めているか、その人の本当の動機は何か。そういうことを、見ることができるようになってきます。
そういう意味において、私はまるで透明人間みたいなもの。相手にわからんけども、相手のことはよくわかるっていうな、こういう性質をもつ者。これもやっぱり一つのクリスチャンの性格ではないかと、思うんですよね。

相手には、全然見えないんです。私たちの言ってることを理解してもらえない。しかし、私たちは相手の本当の望みがなんであるかを見ることができる。結局罪ある人間の、根本的な動因がなんであるか、動機がなんであるか、見ることができるわけですね。
そういう意味で、何か透明人間みたいな、自分の姿は相手に見えないけども、相手はよく見える、という感じがするんですね。

神様は、それまで悪魔の支配下にあってさかんに神に敵対していた私たちが、あるとき捕らえてくださって、悪魔の武装解除をして、私たちを解放して、逆に、私たちを神様の兵士として、悪魔に戦うものとして、造り変えていかれる。これは神様のやり方ですね。
これを思う時に、ひと昔前のベトコンの兵士を、思い出すんですけども、あの当時、ベトナムのゲリラたちがやったことっていうのは、武器がないもんですから、何をやったかと言ったら、アメリカが膨大な援助をする政府軍の、戦車なんかを奪って、アメリカ側が援助するものは、みんなベトナムの、結局手に渡って、ベトコンの手に渡って、逆にそれによって、彼らがやられていくといいますか、最後は政府まで倒されたっていうんですね。あれをよく思い出すんです。

神様って方は、なんてたいしたもんだろう!今まで、ご自分に敵対していた、敵であったものを、ご自分の器として変えていかれる。これが、いつも神様のなさるやり方ですよね。
悪魔の支配下にあって、神に敵対していた人々、自分が盲目にさせられていることにも気づかないで、悪魔の支配下の中にあって、本当に神に対してうそぶいていたお弟子たち、それを捕まえてくださり、解放してくださり、自由な兵士として、目の見えるようになった兵士として、今度は悪魔と戦う者、そういうふうに、変えられていく。これがクリスチャンでもあるわけですよね。

そういう意味で、パウロがテモテに書き送ったように、主の兵士として、私たちは立たされているわけでもあるわけですね。悪魔と戦う者。
ですから、悪魔が人間のたましいの救いを、必死になって妨害する理由は、そこにあるわけでしょう。自分の敵になっていきますから、悪魔は必死にそれを妨げるわけですね。
かつては私たちは、悪魔に捕らえられ盲目にされていました。しかし今は、神によって目を開けられて、この世の本当の姿がなんであるか、神様を知らないで神から離れて、人間にはなんの希望もないということ。神様から離れて、この世が恐るべき絶望以外のものではないということ。それをはっきりと知るようにさせられています。

すべての人間の行きつく先には、「死」しかないこと。ここに至るときに、すべての人間が絶望の叫びをあげて、暗闇の中に落ちていくだけだ、ということ。
ここに至るときには、この世のいかなる権威も、財産も、知識も、名誉も、なんの役にもたたないということ。このことを、クリスチャンはよく知るようになったわけです。
「死」という問題こそが、リトマス試験紙のようなものであるということ。これをクリスチャンたちは知るようになったわけですね。

この「死」というリトマス試験紙に、実験してみて、この問題によって打ち壊されないものだけが、本当の値打ちを持つものであって、そこにおいて崩れて行くものは、本当は意味がないものである、ということ。クリスチャンたちはそこから、ものを見るようになったわけです。
かつては、この世の財産、この世の名誉、それが私たちのすべてでありました。それ以外にないわけですから...。
しかし聖書、光によって結局、「死」という問題に、それを付きつめて見るときに、一切のものが、全く力持ち得ない。そういうことを、はっきりと知るように、私たちはさせられているわけです。
「死」を付きつけられてみて、耐え得るところのものだけが意味を持つ。これが、クリスチャンたちの見ている視点だといっていいんじゃないでしょうか?

明日葬儀が行なわれる兄弟は、「光よあれ」の第二集でしたか?の中に、「ベック兄が『死の30分前に意味があるものだけが本当に意味あるものだ』と、いう言葉は、非常に激しい衝撃を受けた」と書いていますよね。
そして、仏教を熱心に求めていた人のようでしたけれども、福音に本当の救いがあるということを、はっきりと知るようになられたようですね。全く思いもかけずに、まだ50いくつだと思うんですよね。
突然そういう、召された報が飛びこんできて、驚いてるんですけども…。

クリスチャンっていうのは、この世においては、何て言いますかね、弱者のような者だと思います。この世においては、のけ者にされている者。この世の主役ではないんです。
この世は悪魔が主役ですから、悪魔の下にあって、この世のものを必死に求めて、激しくしのぎを削っている人たちが、あくまでもこの世の主役であります。

クリスチャンたちは、その主役の場を降りた人間たちですから、そういう意味においては、のけ者にされ、人々のエゴが激しくぶつかるときには、すぐ身をひいて、「勝手にやってください」と、こういうもんですよね、クリスチャンは。
むかしの、「われも、われも!」と言って、中に首つっこんで、「なにを!」とやってたわけですけども、今はさっと身をひいて、「さあ、どうぞやってください」と、こういう者ですから、そういう意味では押しのけられる者なんです。この世の競争条理においては、はじき出される者。

しかし、私たちは一点をよく見ています。何かといったら、「死」の問題であります。この「死」において、勝負は決まる。
ここにおいて、彼らが何にも持っていないこと、私たちは勝利をしっかり見ていること、ここが実は根本的に違うところであり、また私たちが、いつも目をとめているところが、それでしかないわけであります。

神様を知るようになった人々からすれば、この世の人々はどうでもよいことにわれを忘れて、熱中しております。そしてもっとも大切な問題、「死」の問題については、考えようとしないということは、実に不思議なことであります。
しかしこれは、結局この世の人々は、「考えてもしかたがない。どんなに考えても、この問題に解決の法なんかあるわけがない」と思ってるからであります。だから、「なんとか考えないようにしよう」「ごまかそう」「先送りしよう」、結局それ以外に法がないわけなんですね。

というのは、かつて私たちもそうだったからです。まさか「死」の問題に対して、解決があるなんていうことを、誰が思うでしょうか?誰も思わないんですね。
やっぱり、いくら「信仰、信仰」と言っても、この世のことであって、この世で生きるための、単なる一つの方針であって、「死」の問題にまで本当に解決を与えるなんてことは、誰も信ずることができないわけです。「そんなこと、ばかなこと言うな」と思ってたのが私たちなんですね。
「この世で、いかに生きるかということじゃないですか?あなたたちが言ってることは。死のことになってきたら、みんな誰でも彼でも同じじゃないですか。」、こういうふうに私たちは考えていたわけです。

ところが、実はそうではないということ。「福音」というものは、決してそうではないということ。「死」に対する本当の解決があるということ。
これこそが、驚くべきニュースであり、喜びのおとずれであり、イエス様によって人類が凱歌をあげる、喜びの叫びをあげる、そういう本当の意味で、よき知らせであります。
これ以外の、この問題に解決を与え得ないものは、単なる「道徳」にほかならない。「教え」にほかならない。
この「死」の問題に対する解決を与えてくださったということこそが、「福音」の福音たるところであり、イエス様が救い主であるということの意味なんですね。

繰り返し言いますように、私たちクリスチャンは、この「死」というリトマス試験紙によって、合格するものだけ、このものだけが、本当に価値あるものとみなし、それを目に留める、それを追求する、そういう生き方をとるようにさせられた者だ、ということなんですね。
「クリスチャン」というものは、聖書にいくつも、クリスチャンの立場について、書かれているわけですけども、一つは、「この世から天国へ、国籍が移された者」ということであります。

ピリピ人への手紙3:17-21
17兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

彼らの最後は滅びです。彼らの思いは地上のことだけです。
地上にしか目を留めないから、地上がすべてであるから、死によって、すべてのものが終わりとなってきます。当然のことなんですね。

ピリピ人への手紙3:20
20けれども、私たちの国籍は天にあります。

とパウロは言っています。この世から天国へと国籍を移された者。これが神様と出会った人々の立場であります。
ですからこの世については、逆に他国人とならざるを得ません。天国が本籍地、天国が本国となれば、今私たちが生きてるこの世は、私たちにとっては他国にほかなりません。
ですからあなたがたは、この世にあっては他国人であり、寄留者にほかならない。あなたがたはこの世にあってはよそ者にほかならないっていうことも、聖書は当然言ってるわけです。

私たちは、この世にあっては「よそ者」として生きざるを得ないわけですよね。
よそ者っていうのは、都会ではみんなよそ者かも、お互いにみんなよそ者ですから、どうってことないですけど、たとえば小さい集落の、田舎のようなところでは、よそ者っていうのは、本当に浮き上がってくるんですよね。
必要な時には力を提供して、受け入れられるかもしれんけど、終わったら、「はい。あなた、もう番外。」「あなたは、勘定外でしょ?」ですよね。

だから、どうしてもその人は、異分子として溶け込むことができないわけです。何かあると、彼はよそ者なんです。根を下ろすことができない。だから当然、居心地は悪いんですね。
それが当たり前なわけです。私たちクリスチャンも、実際にこの世にあってはよそ者であり、居心地のよくない場、これが当然であると、聖書は言ってるんですよね。

居心地のいい所は本国であって、本当にくつろぐことができるのは、本国だけですね。言わば、自分の家であって、父の家ですね。
父の家ってのはそういうことなんですが、父の家こそが人間は本当の意味でくつろぐことのできる所だっていうんですね。それ以外はやっぱり、私たちにとっては仮の家であり、落ち着かない所であり、へブル人への手紙の11章、見てみましょうか。

ヘブル人への手紙11:13-16
13これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

これはアブラハムのことを言ってるんですけども、アブラハムは他国人のように、9節みますと、

ヘブル人への手紙11:9
9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

旧約時代の、彼らが天幕生活をした一つの理由はそれだったんですね。同じ所に根をはやさない。寄留者としての立場を示していたわけですけれども、38節には、

ヘブル人への手紙11:38
38この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。

と書いてあるんですよね。
だから、聖書的に言えば、この世が私たちに居心地がいいっていうことになってくると、やっぱりちょっと問題だっていうことにならざるを得ないわけです。居心地が悪くても当然だっていうことになるわけですよね。
さっきも言ったように、この世の主役は、この世の人々なんです。神様を知らない人々がこの世の主役であり、この世を牛耳ってる人々であり、なんせ、彼らのこの世に対する熱でエネルギーは、われわれよりもはるかに強いんですから。この世に対する執着心はものすごく強いわけでしょう?

なぜならば、彼らにとってそれが全てなんです。全てであれば全てを投ずるのは当たり前であって、この世を牛耳っているもの、この世を支配しているもの、それはこの世の人々であり、その背後には聖書が言ってるように、この世の神、すなわち悪魔であり、闇の支配するところであり、しかも望みがない、全くどこにも望みなき出口なき世界なのに、そのことに気づかない。それが「この世」にほかならないわけですよね。

クリスチャンは、この世に望みがないことを知っていますから、この世に深入りすることはできない。この世のものを目的として、追い求めることができない。なぜならば、必ずそれは崩れてくるんですから、その痛い目は、何べんも経験したんですから。
私たちは、結局いつもそういう意味でこの世に距離をおかざるを得ない。さっき言ったように「よそ者」っていうなかたちで、私たちはこの世のものに全身全霊を奪われることがありえない。この世に対して冷めていて、当然ということにならざるを得ないわけです。

他国人であり、寄留者であるかぎり、この世に私たちは何かしっくりしないものを感じざるを得ない。要するに一体となることができないわけですね。
職場においても私たちはそうです。やっぱり一体となることはできない。自分に課せられた課題をもちろん私たちは、真面目に果たします。しかしそこに、生きがいを感ずるとか、すべてのものをそこに捧げ尽くすとかいうことは、私たちにとってはもうできないことであります。距離が生じてくるわけですよね。
そういう意味で、クリスチャンというのは、この世にあっては他国人であり、寄留者であり、よそ者であるということ。居心地が悪いということ。これを私たちは認識しなければならない。わけでありますね。

「居心地よくいよう」なんて思うと、その人はいつのまにか信仰的におかしくなってしまう。そういう危険がいつもあるわけです。旧約聖書に出てくるロトなんかがそうなんですけど、アブラハムと分かれて、ゴモラの地に、ソドム・ゴモラの地に彼が降りていって、出世して、彼は、聖書にチラッと書いてあるんですね。「彼は門のところに座るようになった。」門というのは、長老が座るんです。
旧約聖書によると、その集落の門、街の門っていうのは、それは裁きの場であり、人々の調停をする場であって、長老が座る座なんです。ロトはいつのまにか、そこまでまいっていたんですよね。

アブラハムは逆の方に上っていったでしょう?彼は山の方に山の方に。ロトは低い低地の肥えた、肥沃な、「ロトの目にはエジプトのように見えた」と書いてますが、そういうとこに彼は近づいて行きました。
そしてついに、この一切のものを失うってことになっていきますね。彼が寄留者であり、異分子であるということをすっかり忘れてしまったっていうところに、その原因があるわけです。

第三に、クリスチャンは、この「天の国籍を持つ者」であるだけでなく、「この世にあっては寄留者や他国人」であるだけでなくて、もう一つの立場もありますね。それは、「天国からですね、この世へ派遣されている大使。神の大使。」
今度はすばらしい立場なんですね。神様から、この世に使命を与えられて遣わされている大使であります。使徒の働きの「使徒」と書いてありますね。これが「大使」という意味であります。

ヨハネの福音書17:16
16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

ヨハネの福音書17:18
18あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

と書いてありますね。
父なる神が、イエス様をこの世に遣わしてくださったように、私もこの世に、このお弟子たちを遣わします。すなわち、イエス様を信ずる者というのは、イエス様によって遣わされた者であります。
当然そこには、はっきりとした使命が与えられているということ。クリスチャンの必ず自覚しなければならない、使命があるということを、聖書は言ってるわけですよね。

今でもアメリカ大使は、確かマンス・フィールドさんだと思いますけれども、ずいぶんご高齢な人格者のようですね。
アメリカ駐日大使のマンス・フィールドさんは、日本国内の出来事に対して、日本人と同じように、絶対に一喜一憂するってことはないはずです。彼は、すべての事柄を、アメリカ本国との関係でジーっと冷静にいつでも見ているはずです。
彼の心は、いつでもアメリカの方にアメリカの方に自然に向いてるでしょう。ただ、自分の使命感として、日本の中を見なきゃいけないというふうに、彼はやってるでしょう。

それが、もちろん当然なんですよね。マンス・フィールドさんにとっては、日本社会で賞賛されるようなことでも、彼にとってはもの珍しいっていう程度で、おそらく大した関心は惹かないでしょう。
たとえば、日本では、受験戦争が過熱して「あぁ!なんとかが有名大学大学に入った」と言って大騒ぎをしたり、「だれが文化勲章受けた」とか言って大騒ぎをしたり、いろんなことがあるでしょうけども、マンス・フィールドさんにとっては別に何てことない。

おそらく、たんなるもの珍しい出来事にほかならないわけです。ああいう人にとっては、日本でどういう評価を受けるかは、あんまり関心ないわけです。
あっちこっち行って、「あぁ、素晴らしかったです」と言って誉められるかもしれない。あるいは勲章ぐらい受けるかも知れない。だけど本当に、それが素晴らしいものだというふうには彼には来ないはずなんですよね。それは、私たちがたとえば外国に行けばそれでわかるわけです。たとえば韓国に遣わされ、中国に遣わされて、向こうでどんなに人々の賞賛を受けようとも、ピンと来ないといいますか、たんなる儀礼以上のものではないですね。そういうことを、私たちは見てとることができますね。

大使にとっては、自分の職務に対する、本国の評価が気になるでしょう。本国で自分をどういうふうに見ているか、自分の使命を、職務を評価してるかは、非常に気になるでしょうけれども、日本人が、自分をどう評価してるかは、二の次三の次でしょう。それは当然なんですね。
逆にいうと、日本人が熱中するものに熱中し、日本人が追い求めるものを一緒に追い求めるならば、その人はアメリカ大使としては失格だ、おかしいということにならざるを得ないわけです。
彼が、日本人が熱中するものに同じように熱中し、一喜一憂し、すっかりわれを忘れるっていうことであれば、これは結局、大使としてはもう全然意味がないっていうことになりますよね。ローマ人への手紙の12章。

(テープ A面 → B面)

クリスチャンにとって大切なのは、結局その区別をはっきりすることなんですよね。だんだん、だんだん私たちはそのことを学んでくるわけでしょう。
そして今までのつながりといいますか、今までの、この世の没頭していたその中から、私たちは出てくるようになってくるでしょう。そして、はっきりと自分が主の側に立っている者であること、主のものであること、このことが周囲にも明らかになってくるわけですよね。で、そのことはまた不可欠なことなんです。クリスチャンとして…。
で、それでなかったら、私たちは、本当に信仰の力がどういうものであり、望みがどういうものであり、本当に、救いがどんなに素晴らしいものであるかを、味わうこともできないし、そういう意味において、人に伝えることもできないってことに、ならざるを得ないと思うんですね。

かつて私たちにとって、この世がすべてだったんですね。この世、以外の世界が存在するなんてことは、思いにもよらないことだったんですね。この世がすべてであれば、この世の名誉、富、権力が、私たちの目標となる以外にほかにないのであります。
そうでなければ、非常に、天国も知らないで、この世も否定するということになると、人間行き場がないですから、そういう人こそ、一番やっかいな、実にひねくれた、虚無主義者ってことになります。

私たちはやっぱり当たり前であり、素直であればあるほど、天国を知らなければ、この世のもの一生懸命求める、それは当然って言えば当然だと思うんですよね。この世にもそっぽを向けているっていうのは、よほどへそまがりな人間に違いないのですね。
しかし、イエス様との出会いによって、私たちの目が全く新しい世界に開かれるようになります。本当の望みがなんであるかを私は、人は知るようになっていきます。
と同時に、この世への執着心、執念が恐れざるを得ないのが、当然であります。かつて「仕事の鬼」といって、もうギラギラしていた人々が、救われてからすっかり、何て言いますか、変えられてしまって、このことを私たちはよく見ますね。

あの、数学者の兄弟なんか、姉妹が言っておられてましたけども、「クリスチャンになる前は、主人のところにはもう、優秀な弟子たちがいっぱい集まってきたって言ってんです。ところが、イエス様を信じて、兄弟が変わったとたんに、もう、かつてのような優秀な学生たち、これはあんまり大きな声で言えませんけども、集まらなくなった。」

僕は、去年一年間、兄弟と一緒に向こうの研究室で、兄弟の研究室で、月に一ぺん聖書研究会やっていたんですけども、結局、それを敏感に彼らは感ずるんですよね。「この人についていっても、この世のものは得られない。」、それは人間すぐわかりますからね。
それまでは、人を蹴散らすようにして、すごい勢いで弟子たちを叱りとばして、いや、しごきにしごいてと言いますか、「あそこに行きゃあ、一流の数学者になれる。」と言うことですから。それはもう大変人気もある、盛況なゼミナーだったわけですよね。

しかし、この前行ってみても、ちゃんとストレートで入れずに、大学でも留年してるなんちゅうのがいたりね、今年になって入ったっていう、彼は求めてる青年でしたけども、実に細々と…してるのであります。
僕は、しかしあれを見ながら、「いやしかし、こうなんですよねぇ」と、思わざるを得なかったんですよね。

主にありながら、しかもこの世の仕事でバリバリと一線であるというのは、これちょっとどっかおかしいってな気がしないでもないんですよね。
なぜならば、この世のものに対する態度が、全然違うんですから。これ弁解がましくなってあれなんですが、私の先生方のゼミなんかがそうだったんですね。
全然経済学をやろうとしない連中ばっかり集まってくるわけです。だから、学校の内部では「あの連中なにやってるんだ」と「あれは、一向にちゃんとした弟子が生まれてこんじゃないか」というわけですよ。
しかし先生は、一向にそういうことには全然関心示さなくて、人生の根底的なことばっかり言っとるでしょ?「根源的ななんとか」ってなことばかり言っとるもんですから、なんともこの憂き世ばなれした人々が集まるわけです。
「よ〜し、この学問でひとつなんとかやろう」なんて人々、来ないんですから。そうじゃなくて、「もっと違った基とは、いったいなんか」、「この人は変わったこと言ってる、この人はなんか知らんけども、ある人生の根底的なことに触れてる」って、そういう連中の方が来るわけであって、だから全くそうなるんですよね。

ただ本当に信仰の人で、もうたましいが奪われて、信仰に生きるとはたましいがそこに奪われてるわけですから。いつかも言いましたように、長崎では、「ヤソになると、その、生き胆を引き抜かれる」と、昔から、隠れキリシタンのころからのことわざだそうですけども、「生き胆を引き抜かれるっていうのは、本当じゃないか」と、「あんたたちだってたましい抜かれてるじゃないか」というのは本当なんですよ。
結局たましい奪われて、そっちの方に、もうすっかり向いとるわけですよね。で、そうでなきゃおかしいわけでしょ?聖書的に見るときに。
だから、そういうところに生き胆を抜かれてるたましいがもうすっかりそこに向いてしまっている。そうであれば、私たちがこの世において、今まではもう、ギラギラ、一線に「われも。われも。」と、こう出てきたところからこう、いつのまにか退いて、脇役に甘んじてしまって、こうならざるを得ないのではないでしょうか。

信仰をもってこの世で人々に負けないように「さぁ、がんばれ!」っていうのはどうも聖書的ではやっぱりない。…ようではないか、と。思うんですよね。
ちょうど沈みかけてる船を、「さぁ〜、水を汲み出してもう一ぺん浮かせよ」っていうふうに、聖書は言ってるんじゃなくて、「さぁ、その船から出て来い」っていうことでしょ?「それはどうやったって、だめですから、その船もう、仕方がないから、とびだせ!」っていうんじゃないでしょうか。
それでなくて、「さぁ、その船をちゃんとしろ」っていうんでね、「さあ。この船はちゃんとしよう」っていうそういうことを、聖書は本当に言ってるかというと、そうではないと言わざるを得ないと思うんですよね。

もちろんその船の中で、やるべきこといっぱいある。人々に知らせなきゃいけないっていうことは、「この船沈みますよ。」と言わなきゃいけないわけですけども、この船を建て直す、そういうことはどうも聖書が言ってることではないようですね。
ガラテヤ人への手紙でパウロは、

ガラテヤ人への手紙1:10
10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

以上、厳しい言葉でしょう?
クリスチャンにとっていつも、やっぱり突き刺さってくる言葉ですよね。何か私たちがする場合に、私たちはどういう態度であたってるんだろうか。
「もし、私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」
パウロは、はっきりとした態度をとってるんですね。

彼は、この世に喜ばれること、もっと卑しく言えば、この世に取り入ろうとすることではなくて、それを断固として拒絶をして、主が喜ばれることは何か、そこに立っているわけであります。
そして、すべてのクリスチャンが、実は立つべきところが、ここだっていうことなんですね。

私たちは、もちろん好んで人の誤解を招くべきではありませんけれども、私たちがやっぱり毅然としてそこに立つこと、それはやっぱり神様の御心なんですね。
そのことによって、私たちがこの世において、どのような立場に立とうと、主の前に、そうあらなければいけないということでありますね。
これこそが、やっぱり世の光ということの意味であり、地の塩ということの意味でしょう。

私たちがそれを、その区別をつけなくなってしまえば、その効力は失ってしまうわけですよね。この世の子らは、この世のことについては、光の子らよりも抜けめのないものですとおっしゃたように、この世の人々はこの世のことについてはものすごくすばしっこいもんです。
クリスチャンはそれが得であるか損であるかを見分けることができないわけではない。確かに人間的に見た場合に有利であるということはわかるでしょう。しかし、それは主の御心ではないていうことなんですね。そこから、私たちははずれなければいけないと、聖書は言ってるわけです。

この世のレースから私たちはもう降りたもんです。パウロと同じですね。この世の、私たちが今まで目指していたレースから、この世の目当てから、もう降りてしまった者、天国へのレースに参加する者であります。
20歳のころにそのレースに参加しようと、60何歳から参加しようと、それ関係ないわけですけども、そこにしっかりと、そのレースに参加する、これこそ、この態度こそが、大切であります。
その時に私たちの前にはっきりとした道が開かれてくるのがわかります。天国に続く道が、見えてくるのであります。ピリピ人への手紙の3章13節、14節。

ピリピ人への手紙3:13-14
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロは、天国を目指すレース、このレースに全力を持って、彼は取り組んで行ったんですね。
そっぽを向かないで、はすにかまえないで、彼は真剣に、まっすぐに向かってこのレースを走りぬいた人だったんですね。
この目当てだけが、唯一確かなものであり、本当の意味で崩れ去ることのないただ一つの目当てであること。パウロはこのことを確信していました。

この世のことについては、クリスチャンは、この世の人々に「お先にどうぞ。さぁどうぞ。」と、「やってください。」「どうぞお取りください。」、これでいいわけです。私たちは別のレースをしている者ですから、私たちの目当てはほかのところにあるのですから。
そういう意味において、神様を信ずる者は、この世においては、わきの方に押しのけられている者のようでもあります。マタイの福音書の5章。有名な「山上の垂訓」のみことばをちょっと見ますと、ここに出てくる、イエス様が幸いだと言ってる人々は、結局この世においては何かすみっこの方に押しやられている人々であります。

マタイの福音書5:3-7
3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
6義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
7あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

この世の、我が世の春っていう人々のことじゃないんですよね、ここでイエス様がおっしゃたのは。
やはり、わきに押しやられ、跳ね除けられ、場合によっては無視され、のけ者とされ、忘れられる存在にほかなりません。しかし、そういう者こそが幸いだとイエス様はおっしゃてますね。どんな者であっても、神様が本当に祝福してくださらないならば、何を手に入れても、役に立つものではない。私たちの祝福とはならない。これを私たちは知っています。

神様が与えられないものを、力ずくで手に入れることは、益とはならないことも、聖書から私たちは教えられています。
だから、主が与えられるものでよしとしよう。主が与えられるものを受け取ろう。それがクリスチャンのこの世における態度でなければならない、ていうわけなんですね。主はすべてのものをご存じであり、本当の必要を満たしてくださるからであるからであります。

こういうふうに見ていくときに私たちは、イエス様ご自身の姿が、そこにあるということに気がついてきます。イエス様ご自身こそが、この世においては押しのけられ、はじき出され、無視される方でありました。
ですからクリスチャンが、イエス様の弟子がそうであるのは、当然であります。

ヨハネの福音書18:36
36イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

ここで、イエス様ははっきりとおっしゃっておりますね。「この世はわたしの国ではない。」ていうことなんです。

イザヤ書53:3-4
3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

イエス様も同じように、この世にあっては歩まれたのであります。私たちも当然そうあるべきであります。
簡単に3つの立場について考えてきましたけれども、3番目は、「神の国の大使」ですね。栄光あるものでありました。

4番目は、もちろん、「神の子・神の民という特権」、これがクリスチャンに与えられた最高の特権であります。
そして、神の相続人であるっていう、思いがけないような約束が、実は聖書の中には記されてるんですね。

ローマ人への手紙8:14-18
14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

神の相続人、イエス様と…キリストとの共同相続人であると言ってますね、考えられないようなことなんですね。
かの日に、すべてのものが完成するその日に、私たちは神が造られたすべてのもの、私たちの言葉では言い表すことのできないものを、イエスキリストとともに受け継ぐ者となると、聖書は旧約聖書の時代から繰り返し述べております。驚くべきことですね!

コリント人への手紙第I、3:21-23
21ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。
22パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。
23そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。

弟子たちが、「私たちはパウロ先生についてる。あっちはアポロ先生についてる」って、お互いに自慢しあってたんです。「僕はケパについてる」ってね。
そんなことさかんに言ってたので、パウロが、「ばかなことを言ってはいけない」、「人間を誇ってはいけない。私はこの大先生のもとについてる…、そんなばかなことを言っちゃあいけない。」と、彼は言ってるわけなんですよね。
「すべてはあなたがたのものじゃないか。いのちでも死でも、現在のものでも未来のものでも、すべてあなたがたのものではないか、神があなたがたにすべてのものを与えようとしていらっしゃるではないか。それなのに、人間を誇ってはいけない。」

パウロはそこに、自分の名前も出しながら戒めているわけなんですね。神はご自分の民に責任をとってくださるお方であります。詩篇の中でしたかね、「神はその民を特別に扱われるのだ。」と書いてあります。私たちは本当に小さな信仰なんですよね。本当に、けしつぶみたいな信仰なんです。
イエス様がおっしゃったように、からしだねみたいな信仰なんです。まことに小さなものです。
しかし、神様はこの小さな信仰を、絶対に見逃していらっしゃらないんです。それにしっかり主は目を留めてくださり、責任をもって私たちを導いてくださる。御国に至るまで。聖書はそのように約束をしてるんですよね。

大きな信仰を持つ必要ないですよ。小さな信仰で十分だと、イエス様おっしゃってるんですから。「からしだねのような信仰があれば、この山に向かって海に移れと言えば、移る」と、恐ろしいようなことをイエス様はおっしゃいましたけれども、本当に神様を見上げる一筋の信仰、神様に真実をもってすがろうとするその態度、それがあればそれで十分であります。

主に信頼し通す人は必ず、勝利を得るんです。神様に信頼して、恥を見るって人は決していないわけなんですね。
ですから、私たちは本当に、死に至るまで、本当に、たとえどんな目に私たちが味わわなきゃならないとしても、主を見上げて歩み通したいものなんですね。
最後に、

イザヤ書54:4
4恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。

神様は、私たちにこのように約束していらっしゃるんです。
この世において私たちは、、悔しい思いをすることもあるでしょう。この世においては、本当に悲しい思いを味わわされることもあるでしょう。この世は私たちにとっては、他国であるからです。私たちは寄留者だからです。だからいろんな意味で、そういう意味で、味わう場合があるでしょう。だけど、神はこうおっしゃってるんですね、
「恐れるな。あなたは恥をみない。わたしは決してあなたに恥をみさせないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。わたしがこの世においてあなたを完全に守るから。」と約束しておられるんですね。

本当にこれ大きな、慰めだと思うんですよね。だから私たちは本当に、主にゆだねて、主がおっしゃるところに甘んじて進まなければいけないと思うんですね。「主に信頼する者は決して恥を見ることがない。」と聖書の中にあるからなんです。このみことばに心から信頼をしたいものだと思います。

そこまでにしときましょうか...




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