引用聖句:ペテロの手紙第I、1章1節-9節
私の娘の一人が、夏休みの宿題で読書感想文を書かねばならず、推薦図書の中からいろいろ考えあぐねたあげく、皆さんもよくご存知の遠藤周作の「沈黙」を読みました。そして、まとめなければならないのです。 それで、その本「沈黙」のテーマについて、私たち信仰者はどのように、考えなければならないのか、少し話し合ってみたのです。 あの本が出た頃、私はまだ学生時代で、学生紛争の荒らしが吹きすさんでいたようですけど、キリスト教会の中では随分衝撃が走ったようであります。 あるカトリック司祭は、「世が世であるならば、この本は、カトリック教会の禁書目録に入れられる本である。」と語っていたことを読みました。 1630年代といえば、徳川家光の時代でありますけど、その時日本全土で、嵐のような切支丹迫害の中で、実際に起こった出来事なのであります。いわゆる転び伴天連(ころびばてれん)、若い兄姉はこのような単語を聞かれたことがないかもしれませんが、信仰を捨てさせられた宣教師のことをそう呼ぶのですが、それを主人公にした作品であります。単なるフィクションでない所に、深刻な重みがあるのであります。 私も数年前に、上の娘の読書感想文のリストにはいってたものですから、読んでみたのですが、確かに簡単な結論を引き出せる問題ではない。その時、感じました。 当時の切支丹迫害の詳細な記録は、カトリックでまとめられている、日本切支丹宗門史の中に納められていて、今は岩波文庫の中に、2册はいっているようであります。 日本で伝道が始まった時からの、詳細な迫害の記録が、名前もあげて書かれています。九州から東北まで、赤ん坊から老人までが、捕らえられ斬首され、はりつけにされていくのです。その中には、信仰にはいって、1、2年くらいの人々も少なくないのです。 秀吉の、長崎26人の処刑は有名ですけども、同じようなことが全国至る所であったのです。彼らは、われもわれもと競って殉教していって、長崎26人の場合など、役人に、お前は目録にはいっていないと追い返されても、ついていって仕方がなく26人にはいって、はりつけ火あぶりされている人もいます。 このように、刀で首を切り落とされたり、はりつけにされたり、切支丹たちは、例外なしに喜びに輝いたようです。26聖人の言葉も記録されています。彼らは、十字架の上で喜びに輝いて殉教していくんです。小さな子供もいたんです。 「沈黙」の対象になってる迫害の場合は、もう少し深刻でありました。殉教の死であれば、彼らに栄誉を与えてしまうと知った、かつての転びクリスチャンが、彼らを自分たちと同じ背教者に追い込もうとして、徹底的に責めさいなむ。 火攻め。水攻め、逆吊り。何時間も、何日も。家族をそのような目にあわせ、家族への思いを使って、背教を迫ってくる。ようするに殺さないわけであるのです。 切支丹にとって痛い所を徹底的についてくる。切支丹にとって、背教者になることほど絶望的なことはない。それは、二度と立ち上がれない敗北者になることである。だからひとたび転がしてしまえば、彼らは、あとは生ける屍みたいなものだ。それで十分だ。ですからほんの少しうなずけば良い。踏み絵を少し踏むだけでよい。たくみな方法で、彼らを転ばそうとするわけです。人間の弱さをとことんついてくる卑劣なやり方をするわけであります。 秀吉の場合はそうではなかった。相手の信仰に対しては敬意を払うといいますか、自分の命を惜しまずに信仰に立つことには、武士の情けをかけ、フェアーであったのでしょう。ところが、1630年代の迫害はそうではなかったようです。切支丹を背教者という、恥辱と絶望に陥れる残忍なもくろみだったのです。 そして1633年10月18日、イエズス会の管区長、ポルトガル人のフェレイラという神父は、長崎で、5時間の拷問の後に転んで棄教する、ヨーロッパのカトリック教会を震撼させる事件が起きたのです。 しかし彼の背教の知らせに驚き悲しんで、信じられない知らせを受けた若い伴天連たちが、日本に密航してくる。なんとしても、師の、フェレイラ神父の本当の状況を確認したい。 できれば、汚された栄光を償いたいとして、事実、日本にやって来たのですね。それがテーマであります。 ここでの問題は、3つくらいに整理されるのではないかなと思います。 第一は、単に拷問の厳しさに耐えきれなくて転ぶという場合です。穴の中に逆さまに吊されて、耳の後ろに血が流れるように、血抜きを処理をされ、ぎりぎりまで来ると、少し休ませて、場合によって、30日くらいやるわけであります。こういう拷問に耐えれなくて、踏み絵を踏む。こういう話しであれば、単純であると思うのです。 イエス様がおっしゃったように、心は燃えていても、肉体は弱いのですと、イエス様はおっしゃいましたけれども、人間の意志の限界、忍耐力の限界、それゆえに、自分の本心に反して転ぶ。本当は、自分は、神様から離れたいとは思わない。そのつもりもない。 しかし彼らが言うに、ただ、「踏み絵を踏め。」とさかんにいうのです。はたして、この問題をどう考えたら良いのでしょうか。これは、たいした背信行為なんだろうか。神にそむき、自分の信仰にそむく絶望的な行為なんだろうか。 ボクは、そうでないと思うのです。大切なのは、人が心から神様を信じていること。信じたいと思うこと。願っていること。神様に従っていきたいと願っていること。それが一番大事なことで、そのことは、神様がよくご存知であること。私たちのことをよく知っておられること。 むしろ大きな罪は、本当は信仰はないんだけど、いわば信じてるように装うこと。このことのほうが、心ならず転ぶよりも、よほど問題でしょうね。 拷問によって転ぶ。踏み絵を踏むことによって転ぶ。その人と神様の霊的な交わりが、断ちきられることがあるのだろうか。信仰がないなら、もともと霊的なつながりはないのであります。 神様は、人間の弱さを理解し、憐れんでおられます。耐えきれなくて、人間的な苦痛の限界に立たされて転ぶとき、お前は、信仰の失格者だと、永遠の滅びに入るべきであるというのは、決して聖書の語っている神ではありません。聖書には、そう書いてないのであります。 たとえば、自分の子供が暴漢に脅かされて罪を犯させられたからといって、親は、子供を永久に勘当することはあり得ないんでね。むしろ逆であります。同情するのであります。つらかっただろう。親は、そう思います。 もちろん、毅然として拒絶できれば立派であります。たとえば、自分の命を失うことがあっても、それはそれで立派な行為です。でも、そうでないからといって、人間は誰も責めることはできないのであります。神様は、人間の弱さを断罪されるわけではない。 現実に戻ると、実は、私たちクリスチャンは、大なり小なり日々転んでいるのであります。 主の御名を否むことを、実はやっとるのであります。クリスチャンらしからぬ行為をして、自分がクリスチャンであることを隠すことはないでしょうか。クリスチャンと大きな声で言い辛い。そのようなことに、しばしば気づかされるのです。 もちろん、それに気づかされるから、悔い改めて信仰に立ち返るわけであるわけです。これと、あの当時踏み絵を踏むことの差は、そんなに大きくないのではないかという気がするのです。 第二点は、もっと深刻な問題です。神様が、これほどのことを見過ごされる。それはいったいどういうことなんだろう。これが、この「沈黙」という作品の問題提起であります。 このような、すさまじい迫害のただ中で、神は沈黙されているのではないかということなのです。 おそらく世界の迫害の歴史の中でも、ネロの時代の迫害などについてよく聞かされますが、日本の1630年の迫害は、それに劣らないと思いますね。 あの時代に日本で、徹底的に行われた迫害の歴史。その中にありながら、何事もないかのように時は流れていく。何事もないかのようにごく当たり前に、日常が繰り返されるかのような沈黙が支配している。伴天連が絶望的になるのであります。神の沈黙のテーマです。 詩篇22篇に、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉が書いてあります。 詩篇22:1-2
イエス様は、十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれましたけれども、この22篇の言葉であります。 イエス様は、十字架にかかられた時に、父なる神が全く沈黙される。いつもイエス様と共にいてくださり、イエス様は、いわば御父のふところの中に憩うようにして、御父とともに歩まれた。その交わりが、ほんの少しも乱されることがなかった。この御父との交わりが、その時、切り離されるのです。 御父の沈黙。それが、イエス様の十字架の状況です。 イエス様は、完全にその時御父を見失いました。御父から完全に捨てられました。それがイエス様の耐え難い苦しみの原因でした。しかし、イエス様はその御父の愛と義を、どこまでも信頼しておられました。 御父が全く沈黙され自分から離れられた。自分との交わりを全く断たれた。主はその中にあっても、イエス様の御父への従順は、いささかも変わらなかった。それが、イエス様の十字架の姿でありました。 沈黙して、応えられない神への失望や、神への怒りや敵意が、あのユダの場合ではないかと思うのです。 イエス様への失望が、イエス様への敵意となっていったのではないでしょうか。このフェレイラという神父が、ユダと同じようにたどったとは思いませんが、神様が応えてくださらない、これ程の悲惨の中で神は沈黙をしておられる。 しかし、もうひとつの問題があるようですね。それは、この転び伴天連のフェレイラが、かつての彼の教え子で、すさまじい拷問をくわえられている弟子と対決する場面があります。 この場面は、小説の中で、事実にはないのではないかとボクは思うのです。しかしその時フェレイラに、遠藤周作は次のように語らせているのです。 「自分は、拷問に屈して信仰を捨てたのではない。」そう言ってるのです。 「自分が受ける苦しみなら、どんなことでも自分は耐えたであろう。自分が転んだのは、自分と一緒に拷問を受け責めさいなまれている多くの哀れな人々、百姓たち、真っ暗な穴の中で、うめいている彼らのために自分はそうしたのだ。自分が、転ばなければ彼らが解放されない。」そういうことを言うのです。 「自分が転んだのは、実は愛のためである。」と言ってくるのです。そして、「君も恐れず、愛のために勇気を持って、踏み絵をしなさい。」と言うのです。 殉教の死を遂げるという、最高の栄誉を得るために、多くのうめき苦しんでいる貧しい農民たちの声に、耳をふさぐことは、切支丹として正しいことなのだろうか。そういう問題をつきつけてくるのです。 「棄教者とか背教者とか、汚名を着せられても、彼らをあの苦しみから解放してやることこそ、正しい愛の行為ではないだろうか。これこそ、自分のなすべき信仰の行いではないだろうか。」、フェレイラは言ってくるのです。 沈黙としか考えられない状況を通して、信仰を捨てる。無神論に陥ったのではない。それまでも、信仰が大きく変質したのだとでもいいたいのであります。 事実、彼を慕って日本に来た3人の弟子達は、みんな転んでいく。これは歴史上の事実なのであります。 その最後に、踏み絵を踏む決意をする弟子が、踏み絵のイエス様の顔、多くの人に踏まれて来た踏み絵のイエス様の顔を見ながら、踏み絵のイエス様は、「踏むが良い。わたしは、人々に踏まれるために、生まれ十字架にかかったのだ。」と語りかけを聞くのです。 そして、彼はそれを踏むのです。それがこの本の結論になっているのです。 フェレイラが事実そうだったかどうかは、歴史的には、わからないのであります。しかし、誰かが書いたもので、遠藤周作の信仰論は、カトリック的なものからプロテスタント的なものへ、大きく傾斜してきているのではというのです。 ある程度、当たっている気がするのです。うちのめされ、自分では立つことのできない者。そういう者に対する救い。立派な殉教の死などできない。ほんとうに、悔いくずおれることしかできないような者に対する、無条件の救い。確かにこれは、聖書が語っている福音に一致するといいますか、聖書はそう語っているといえるのではないかと思うのです。 当時の日本の切支丹たちの殉教熱は、私たちから見ると熱狂的ともいえたようであります。死に遅れてはいかん。我も我もと名乗り出て、死に急いだようであります。 伴天連たちも、殉教の死をとげることをいつも夢見ていたようであります。それは、特別な人に与えられる恵みにほかならない。そういうことを繰り返し彼らは述べているのです。 ですから、自分たちが恵みに預かれないということは、彼らにとっては大きな悲しみだったわけです。 この地上において、クリスチャンが持ち得る先高の栄誉、それが殉教の死としてとらえられていたのです。殉教からもれることを、本当に彼らは泣き悲しんで、いるのです。 はたして、聖書そのものは、そういうことをいってるのだろうか。私たちが聖書を読むときに、本当に殉教というものを、この地上において、クリスチャンの最高の栄誉として、聖書は本当に言ってるのだろうか。ちょとこれは、やっぱり疑問ではないかなという気がするのです。 殉教の死を求めることは、ややもすると信仰的なことで、「自分の誉れ」に結びつきがないとはいえないのではないだろうか。そういうところが、そこで触れられているのです。信仰の本質的な点は何かという問題に触れてくるのです。 コリント人への第I手紙を開いてみます。ご存じのようにパウロは、コリントの信者たちが、いろんな賜ものを誇りだして来た。自分には、深い信仰があるとか、癒しの賜ものがあるとか、預言の賜ものがあるとか、誇りだして来たのです。それについて、パウロが警告をしたのであります。そして、いったい最も素晴らしい賜ものが何であるかを言っています。 コリント人への手紙第I、12:31
信仰による徳。信仰において、もっともすばらしい賜ものとは何か。それは異言でも、預言でも、癒しの賜ものでもない。それは、何かについて。 コリント人への手紙第I、13:1-3、13
このみことばほど恐ろしいといいますか、すごいみことばはないのではないかと思うのです。人間の肉の心を、これほど粉々に打ち砕くものは、ないのではないかと思います。 自我の誇りを競い合って生きるという、この世の生き方、愚かさ、それと罪に気が付かされて、信仰の世界に招き入れられますのに、今度は信仰の誇りを競いかねないほどに、人間というのは度し難い者であります。愚かな者であります。 肉的な罪より、もっと恐ろしいのは、この霊的な装いとした罪であり、人々をいっそう深い闇の中に陥れていくものであります。その誤りへの警告として、このみことばは記されているのであります。 だから私たちは、このみことばを読む時に、このみことばの前にひれふさせざるを得なくなるのであります。これは偽善的な、独善的な信仰から私たちを救い出すものであります。 コリント人への手紙第I、13:3
パウロはここで、言い切っているわけであります。 フェレイラの、背教の本当の理由はわかりません。ちなみに彼は、1年後にイエズス会から除名され、また20年後に信仰に立ち返り、殉教の死をとげたと記録されているのです。 ひとりの人が、信仰の決断において死を選ぶこと。それは、決して軽々しく我々が触れることができない問題です。 かっての信仰の先輩たちが、信仰のために命を捨てていった。今天国で、私たちに問いかけているともいっていい。ですから、そういう問題を今、生きていてそういう経験のない私たちが、ああだ、こうだということは軽率であります。 ずいぶん昔、ベック兄たちがご家族でドイツに帰られた時がありました。1年ちょっと帰られたこともありました。 親しい兄弟が、学生時代に一生懸命いろいろ読んで、殉教の死が恐くて仕方ない。自分にそういうことが起こったら、自分はどうなるだろうと真剣に悩んだようであります。 私たちの中で、どうでしょうね、そういうこと真剣に悩んだ人は、皆さんの中にいらっしゃらんだろうと思いますけど、彼はどうも心配で、ドイツに帰られるベック兄にその問題で相談したんです。 そしたら、ベック兄が、「殉教の死をとげるってことは、そんなに難しいことではない。そうではなくて、むつかしいことは、日々の歩みにおいて、主に自分自身を明け渡すことだ。」ということを言われたそうです。 もちろん、どういう事態で、何が起こるかわかりませんから、いろんな事態が起こるでしょう。でも大切なのは、そういうことを悩むのではなくて、一日、一日の歩みにおいて、自分を主に明け渡していくことなのだ。そうでなければいけない。そういうことを教えられたということでありました。 ところで、周りの人々のものものしさに震え上がって、最初に転んでしまったクリスチャンって、心ならずも転んでしまった最初のクリスチャンって、みなさん誰かご存じですか? 驚くべきことに、また感謝すべきことに、それは12使徒の頭、地上におけるキリストの代理人とまで尊敬されたシモン・ペテロ、その人であります。ペテロこそが、まず最初に主を否んだクリスチャンだったのです。ここに測りがたい神様の知恵が示されているのではないかと思うのですね。 ご存じのようにペテロは、イエス様を三度知らないと否みました。それまでは、「あなたとご一緒なら、たとえ死にでも、どこにでも着いていきます。」と随分、強気なことを言っていました。 でもイエス様は、「鶏が鳴く前に、三度、私を知らないと言うだろう。」とペテロにおっしゃいました。その通りに、ペテロは、「私は、あの人を知らない。」と言い張ったのであります。呪いをかけて誓ったのであります。 最初に転んだのは、使徒の頭ペテロでした。どちらかというと単純な性格のペテロ。失敗多く、恥多きペテロ。イエス様は彼を、使徒達のリーダーに立てられたのです。 パウロは、「私は罪人の頭。聖徒たちの中で一番小さなもの。」と、述べています。ペテロは、おそらく、「私は、転び切支丹の第1号!」と自覚していたのではないかと思うのです。 ペテロは、自分とユダの間に、ほんの一本差しかないとよく知っていた人なのです。自分も、またユダになりかねなかった男なのだ。そのことを彼は、よくわきまえていました。 ネロの迫害で、パウロは斬首され、ペテロは逆さ十字架にかけられたと伝えられているそうですけども、聖書がその記録を載せていない。それは、殉教というものを、我々が、そこに心を向けることを警戒するのではないかと、ある方がいっていますが、なるほどと思わされます。 ペテロは、自分の経験を通して、人間の本質的なもろさ、弱さをよく知っていました。ですから、ペテロの言葉には、暖かさ、深い同情というものがこめらているといって良いと思います。 使徒の働き3:12-17
ペテロはここで、あのエルサレムの群衆たち、イエス様を十字架につけた人々に、「無知のためにあのような行いをした。十字架につけた群衆たち、その者たちと、自分たちの間に本質的な差がない」ということを、よく知っていたということです。 ただ、神様の憐れみによって、自分はユダと同じような道をたどらなかった。主の憐れみによって、自分は、立ち返らせていただいた。だからペテロには、誰をも裁く資格といいますか、そのようなものはない。彼はそれをわきまえていたのですね。 もちろん意志的に、人間が邪悪な曲がったものを知って、そこに向かうとき。高ぶっていながら、それを認めて悔い改めをしない時、ペテロは、厳しさをもって叱責しましたね。 アナニヤとサピラの時に、ペテロは非常に厳しい言葉をかけました。そのために、アナニヤもサッピラもそこで死にました。しかし人間の弱さに対して、ペテロは本当に深い同情を持っていた人でありました。 そして、クリスチャンはそうでなければなりません。人の弱さ、それは自分も本質的に同じものだからです。 ただ人間が意図的に主に逆らう、悔い改めを拒む。その時にはペテロは、容赦しなかった。なぜなら、それはその人を滅びへと至らせるものだからです。 言い換えれば、悪性の腫瘍を切り取るように、みことばのメスをもって、それを切り取らねばなりませんでした。ですからペテロは、ある場合の言葉には、非常に厳しいものがあります。 しかしそれは決して、今言ったように、人間の弱さに向けて語られたものではない。少なくとも殉教できないことは、信仰の失格者ではない。ペテロも、パウロもそんなことは決して言わない。その弱さは、よくわかる。そのことで苦しまなくて良い。心配しなくて良い。主は、いつでも受け入れてくださる。これが、聖書が語っていることではないでしょうか。 これほどの基準を満たしなさい、そうでないと救われない。聖書は、決してそのようなことを言いってないのですね。「私を憐れんで下さい。」と、ご自分に来るすべてのものを、主は憐れんでくださる。 主に立ち返るとき、人は正しく生きようと願うようになるものです。本当に、まっすぐな道を行きたい、そうでなければむなしい。そう人は願う者であります。それが、一番、大切な救いの証しであります。それを主は喜んでくださるのであります。 人間の弱さのゆえに、私たちが主を否むことがあったとしても、いわば外側からの強制によって、弱さを見せても、そういうことを、神様は責められない。ヘブル人への手紙書の中にも、「弱さに同情できない方ではない。」 なにか、殉教の死を辞さないと、信仰の旗を振りかざして、確信に満ちて突き進んでいくのだけが、私たちの信仰ではないのではないでしょうかね。 もちろん、それはそれなりに、すばらしいことかもしれない。しかししょせん、私たちは自分の力でそういうことはなし得ないのであります。 人間の力、人間の忍耐、人間の意志、これらは50歩100歩でしれたものでしょう。大事なことは、私たちのうちに、主が聖霊を通して宿ってくださる。聖霊を通して、私たちが生かされる。それが大切だと思うのです。 「主に立ち返り、罪から救い出されて、命の喜びの中に生きなさい。主の喜ばれる祝福の人生を生きよ。」、これがペテロのメッセージであります。 そうすればすべて主は整えて、道を開いてくださる。それだけあれば、心配しなくて良い。それこそ福音だと思うのですね。 転んだから、耐えきれなかったから、自分はもう信仰の失格者だ。この地にあって希望を失った存在。そういうことを聖書は言っていない。 さきほど読んで頂いたペテロの手紙第Iを読んで終わりましょう。 ペテロの手紙第I、1:6-9
ペテロのこの文章を読むと、喜び踊るような内容ですね。 イエス様の甦りによって、生ける望みを持つようにしてくださった。この福音の喜びは、状況がどのように変わっても、変わることのない喜びであり、望みである。それを私たちは、イエス・キリストを信じる信仰により与えられている。そういうことなんですね。 この条件を満たさなければ、ここを忍耐して頑張らなければ、信仰を失うとかそういうものではない。私たちの中にこの希望は、変わることなく与えられている。 福音とは、そういうものだとペテロは語っているのだと思います。 |