引用聖句:ガラテヤ人への手紙6章14節-15節
振り返って見ると私なども、残っているのは集会生活だけという感じで、あとのものはほとんど印象は無くて残っていませんけれども、ひたすらこの集会での歩みだけが非常に色濃く自分の今までの人生の後ろのほうに残っております。 いつまでこの地上にいるのかわかりませんけれども、この歩みを全うできればと、自信は無いのですが、この信仰生活、ともなる歩みを終わりまで完成したいものだと願っております。 この天地万物をお造りになった創造主なる神さまは、ご自分のひとり子イエス・キリストを通して救いを私たちに啓示しておられます。差し出しておられます。 イエス・キリストによる神の救いの本質とは、私たち人間がイエス様を信ずる信仰によって己の古き人、死すべき肉と呼ばれている、聖書が肉と呼んでいるところのものを脱ぎ捨てることができるということと同時に、イエス様の新しいいのち、神のいのちを、イエス様の中に宿るところのまことの神のいのちを私たちが受け取ることができるということ。そのことに私は尽きるのではないかといつも思っています。 自らの古き人の死と葬りを、私たちが心からこれを受け入れるということと同時に、よみがえられたイエス様の復活のいのちにこれを受け入れるということ。これが聖書が私たちに伝えている福音の核心なのではないかと常々思っているんです。 死んで生きるという救いの道を神さまは私たちのために開いてくださった。一度私たちが本当の意味でこの古き人、罪に支配され、死に定められているこのどうにもならない自分自身一身で死という断絶を経て、さらにイエス様の新しいいのちに、本当のいのちに生かされて生きることができるということ。 このことはただ聖書を通してだけ私たちに啓示されているということ。イエス様の十字架の死とよみがえりというこの事実を通してだけ、人類にこれが提供されているということだと私は思うのであります。 そこに私たちははっきり立たなければ、私たちに与えられている神さまの救いということについて、曖昧なままに過ごすことになるのではないかと思うんです。 ヨハネの福音書の3章の中で、イエス様のところに夜、救いを求めて来た、あのニコデモとの対話があります。有名な。 ヨハネの福音書3:1-3
イエス様はこのニコデモの、このニコデモという人は本当に真面目に、尊敬の心を込めて本当にイエス様に自分の思っていることを正直に伝えたんです。 この真摯な老人ニコデモに対してイエス様は直接彼の問いには答えられませんでした。いきなり、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 イエス様は問題の核心を瞬間に見通しておられるのであります。もう持って回ったようなニコデモとのやり取りはなさいませんでした。 「ニコデモよ。大切なことは、新しく生まれるということなのだ。あなたが気が付いていないのはそのところなのだ。 あなたは律法の知識というものを求めることによって、救いを得ようと願っているけれども、救いを与えるのは知識ではないのだ。 自分自身を死に明け渡すということ。そして神さまが提供しておられるいのちを受け取るということ。死といのちという、この神さまの提供しておられる救いを通して、新しく生まれるということ。このことなしに人は、神の国を見ることはできないのだ。 真理が何であるかを本当の意味で悟ることはできないのだ。救いの確信というものを握ることはできないのだ。 ニコデモ。あなたに欠けているのはこのことなのだ。」 とイエス様は単刀直入に仰るのであります。 知識というものは、それを得る人間を少しは賢くするでしょうね。必ずしも知識の豊かな人が賢い人間だとは言えないと思いますけれど。知識を多く身に付けることによって、あるいは人間は洗練されたりするかもしれません。無知な人よりも。 知識を身に付けることによって、この世の生活の上で有利な立場に立つこともできるかもしれません。 しかし知識はその人の本質を変えることはできないのであります。 いかに知識が増したとしても、その人は相も変わらずそれまでと同じ土台の上に立っているからであります。 人は、自分が立っているその人生の土台によって二種類に分けることができると思うんです。この人はどういう土台に立っているのか。クリスチャンであるならばそれを見分けることができると思います。 この人はすばらしい人格者であり、すばらしい知識をもっている人である。しかしこの人の土台はこの世のものである。 逆に、この人はほとんど多くの教育を受けていないかもしれないし、本当に知的レベルや色んな意味では恵まれていない人かもしれない。しかしこの人の立っているのはこの世の土台ではない。この人は永遠なる土台に立っている。そういうことは見分けることできますね。 クリスチャンは信仰の交わりと言いますか、クリスチャンはそういうふうに人を見ます。 その人がどういう人間であり、この世で色んなどんなものをもっているか。そういうものをもちろん今言ったように、それによってこの世では色んな活躍をしたりしなかったりするかもしれませんけれども、クリスチャンにとってはその人の立っている土台こそが問題なのであります。 知識は今までの人間の生き方やあり方を少しは見栄えのするものにしてくれるかもしれませんが、しかしそれは表面的なところにとどまります。この世の知識というもののもっている、いわば限界だと言えるのじゃないでしょうか。 知識によって人は救われることはあり得ない。知識が及ぶ範囲はごく表面的なものでしかない。人間の根底に達することはできない。そこを新しくするという力は知識にはないということ。これが聖書の言っていることであります。 聖書がギリシヤ人の求める知恵について、その限界を指摘しているのはその点であります。ギリシヤ人を厳しく聖書が批判しているのは、彼らが知識によって救いを得ることができるかのように誤解しているからであります。 知識はある意味でもちろん無用だと言ってるのじゃないんです。集会にいらっしゃる多くのお医者さんたちが私たちに本当に頼りになるということ。私たちは多くの助けを、兄弟姉妹のドクターたちからいっぱい受けているということ。これは感謝であります。 医学の進歩はありがたいのであります。しかし死そのものに対してはどうすることもできないのであります。同じように、知識というものは人間の救いという問題に関しては、まったく手が届かないのであります。 知識を求めることによって、ニコデモは律法の研究によって、救いを見いだすことができるのではないかと考えていた人ですが、イエス様はニコデモに、そうではないのだと単刀直入に仰っているわけであります。 ギリシヤの都市、コリントに向けて書いたコリント人へ手紙の中で、パウロは意識してギリシヤ人の知恵に対してキリストの福音というものを掲げて、ギリシヤ人の知恵が何の役に立とうかと言って、意識的にこのふたつを対照しています。 コリント人への手紙第I、1:18-24
神は知者たちの知恵がむなしいことを知っておられる。聖書はそういうふうに言っております。 もし真の知恵という、本当の意味での知恵というのであれば話は別ですよとパウロはまた言っているのです。 本当の意味で人を救いうるところの神の知恵という話になればそれは別です。私たちはそれが何であるかを知っていますよ。ギリシヤ人の知恵は役に立たないけれど、本当の意味での知恵、それを私たちは知っている。彼はそういうふうに言っています。 コリント人への手紙第I、2:6-7
本当の知恵というのであれば私たちは知らないわけではない。クリスチャンはそれを知っています。戻って、 コリント人への手紙第I、1:30-31
この世の知恵は人間のたましいの救いに対しては無力である。しかし聖書が示しているところの、私たちを救うためにこの世に来てくださったイエス・キリストご自身、すなわちこれこそまことの神の知恵そのものである。 この知恵こそ私たちの目を開き、救いうるものである。真理がなんであるかを明らかに示すものである。パウロはそう言っているのです。 コロサイ人への手紙の2章にもパウロは同じようなことを言っています。 コロサイ人への手紙2:3
この世の知識は人を救うことはできません。聖書についての単なる知識であっても、単なる知識である限りその人を救うことはあり得ないのであります。 イエス様のみことばを真正面から受け入れ、自分自身を死に明け渡し、イエス様のいのちを受け入れるということによって新しいまことのいのちへとよみがえること。これが救いであります。それは信仰によってだけもたらされるものであります。 単なる「知っている」ということではなくて、主のみことばを私たちが本当の意味で受け入れるということ。受け取るということ。このことによってであります。すなわち受け取るということが信仰であります。 信仰とは、自らの死ということと復活されたイエス様の永遠のいのちを真っ直ぐに受け入れるという決心であり、選択であります。自分自身への死の宣告をこの上ない厳粛な判定として受け入れるということであります。 私はかつて学生時代に救いを求めて吉祥寺集会に通いつめるようになりました。もう2、3日集会があればそれをほとんど集会に出て、救いが何であるかということを知ろうとして通いました。 みことばも一生懸命読むようになったのです。しかしなかなか聖書が言っている救いが何なのか自分にわからなかったのであります。 イエス様の仰っている道徳訓についてはある程度理解できますけれども、愛の教えなどについては、「う〜ん・・。」って、だいたいわかるようだけれども、本当のこれで問題が解決するという、その救いということについては、なかなか何を言っているのかわかりませんでした。 しかし段々段々明らかになったことは、主が私に要求していることは、この地上に今まで生きていたような生き方を根本から捨てること。イエス・キリストのいのちの中に生かされること。どっちかしかないということ。 私はこの世の生き方もしっかりつかまえていたかったのです。古き肉の自分というものはしっかりもっていたかったのであります。これはなかなか手離せないし、まさかそこをその聖書が言っているとは思いませんでした。 自分の生活の一部が間違っているとか、ある行ないが悪いとか、あることが誤って行なわれたということとか、そういう個々の生活の一部が直されなきゃならないことだろうと思っていました。 しかし聖書を通して気付かされたことは、聖書はそういうことを言っているんじゃないということ。私の生き方の全体が問題なのだということ。 よく言われるように自我の支配のもとにあって、自分の肉の支配にあって生きるという生き方。それを根本から捨てなければいけないということ。 それがイエス様が死んでよみがえって、私の前に立っていらっしゃる理由だということ。 そのことに段々気が付いてきたのです。そのときに私は本当に驚いたのであります。問題は単に一部分ではない。私の存在全体が実は問題なのだということでありました。 私はそのときに初めて聖書の真理に圧倒される思いがしたのであります。 当時私を導いてくださった信仰の先輩がご自分の信仰の証しを書いておられて、ぼくに「これ読んでみないか。」と言って、くださったことがあったんです。その人の証しには、その方が洗礼を受けられる前の晩に書いてる日記が載っておりました。 その中にこの方が、「明日は洗礼の日である。明日は私の葬りの日である。」と書いてあったのであります。自分自身の葬式の日なのだ。ぼくはこの証しを読んだとき、実に驚きました。 イエス様を信ずるということはそういうことなのか。自分自身の葬式なのか。そうでなければ聖書が確かに仰っているように、イエス様のいのちにあって生きるということは成り立たないわけです。 自分のこの人生をしっかり自分の手で握っていながら救いを求めるということは、これは結局成り立たないわけであります。 これは本当に私の想像を超えることでした。救いというのは何かを行なうことによって救われるのではないのです。捨て去ることと受け入れることによって救われるのでしょう。 信仰というのは、信ずるということはそういうことだと私は思っています。捨てることと受け取ることです。 信ずるということは、漠然とあることを頭の理解として信ずることじゃないと思っています。そうではなくて捨てること。自分が今まで本当に必死に自分の人生を価値あらしめようとして一生懸命になって来たそれを放棄すること。 同時に、イエス様が私たちに提供しておられるご自身のいのちを、それこそ永遠のいのちを受け取って、この永遠のいのちにあって生きること。この選択しかないわけです。全面降参しかないのであります。これ以外に私たちの選択はあり得ないのであります。 神の慈愛と神の峻厳と慈愛を、「慈愛と峻厳とを見よ。」と聖書にありますけれども、十字架というのは本当の意味で戦慄するほどのものなのだ。 何ということなのだという思いを持たざるを得ませんでした。しかしまた考えてみれば、これは完全な救いです。 死すべき罪に閉じ込められ、死すべき自分の古き自我に支配されているところの人生。自分の栄光を求め、自分の誇りを求め、常に自分を追い求めて生きようとするこの人生。破綻寸前に私なんかはいたわけですけど。自我によってはち切れんばかりになって、もうそれは膨れた、パンク寸前の風船みたいなものだったわけですけれども。 しかしそういう生き方しかないと思っていますから、ひたすら自分の理想とするもの、自分が価値あるものと思うものを追い求めて生きる以外に、人間ないわけですから。しかしそれこそが罪そのものであること。罪とは自己追求であり、自己支配であること。これは思ってもみない聖書の宣告であります。 「自分を自分の神として生きているということなのだ。」、それはまったく予想もしない事実であります。私たちの悩みの根源はここにあります。 どんな問題であろうと私たちが本当の意味で自己支配を捨て、自己追求を捨て、白旗を掲げて、本当の意味でですよ、見せかけじゃなくてですよ、見せかけなら救いはないからです。 いくらそういう振りをしても私たちのその生き方が根本から方向転換させられない限り、私たちは相変わらず罪の重荷の中に呻かざるを得ないからなのです。 だから見せかけは大事ではないのであります。何の役にも立たないものです。信仰においては。 私たちが本当の意味でこの主のメッセージを、イエス様が私たちに突きつけていらっしゃるところのメッセージ・・・ (テープ A面 → B面) ・・・信仰とは捨てることと受け入れることであります。 よく、「神さまが自分を受け入れてくださるかどうかわからない。」と悩まれる人がいらっしゃいますけれども、主が私たちを受け入れるかどうかは問題じゃないのです。私たちが主を受け入れるかどうかが問題なのです。 今言っているように、イエス様が私たちに仰っている、これから何ヶ所もお読みしますけれども、それを私たちが受け入れるかどうかなのです。 神さまが受け入れるのは当たり前であります。神さまが受け入れるのは問題ないのであります。神は私たちを救おうとしていらっしゃるのですから。 だから主によって自分が受け入れられているかどうかという質問は的外れであります。そうではないのです。私たちが本当の意味で主を受け入れているかどうかが問題なのです。 「滅びに至るあなたの人生を本気になって捨てよ。自我を、支配を捨てよ。わたしの支配を受け入れよ。わたしのいのちを生きよ。」、これがイエス様の仰っていることじゃありませんか。 どっちにするかです。私たちはこの問題の前に立ち往生するわけです。そんなに簡単に私たちは白旗を掲げられるものじゃないのです。 生きるか死ぬか、国が滅びるか栄えるかの議論に立った戦争において簡単に白旗を揚げないでしょう。ギリギリのところまで行って、もう滅びるか降参しかないというところになって人は無条件降伏をするんです。 神さまは私たちに要求していらっしゃるのは無条件降伏なのです。自分の敗北を認めて、どうにもならないということを正直に認めて、今までのその虚勢を張った生き方を捨てて、上辺ばかりを繕っていた生き方を捨てて、恥も面子もかなぐり捨てて、白旗を掲げて出て来なさい。これが神さまの私たちに対する呼びかけなのです。本当にみじめなものです。 ルターが、「人は神の前には乞食のように立つのだ。」と言ったそうですが、ボロボロになって刀折れ矢尽きて、人生の戦いにもう散々打ちのめされて、ボロボロになって白旗を掲げるのです。 なぜならば神は私たちが高ぶることを許されないからです。人間はあらゆる誇り高ぶりを神さまの前に奪い取られるのであります。なぜならば高ぶりや誇りこそが罪の根だからです。私たちを滅ぼす元凶だからです。 だから今の自分の誇りを捨てたくなければ、私たちは信仰の道を歩むことはできないのであります。 今なお私たちが自分の栄光を追い求める生き方を続けるなら、私たちはクリスチャンではないのであります。 厳しいですよね。十字架は厳しいですもの。神のひとり子が十字架で血みどろになられたのですから、安易なはずはないのです。私たちの人生はそれほど、どうすることもできないほどの問題を抱えているということであります。 滅びに至るということはそういうことです。永遠の滅びという問題を抱えているのだということ。それほどの問題であるから神のひとり子がこの地上に来られたのであり、十字架にあの苦しみを負われたというのであります。 そういう問題でなければ人の子としてイエス様がこの地上に来られる必要はなかったわけです。 イエス様が人の子としてこの地上に来られ、十字架に架かられるということ。驚くべき、想像を絶するようなことではないでしょうか。ということは反対に言うと、私たちひとりひとりの問題がそれほどの深刻さを持ってるということじゃないでしょうか。 この問題に比べたらこの地上の問題はたいしたものじゃないというのは、ぼくは本当だと思います。 イエス様の十字架によって示されている大変な事態ほど大変なものはないと言って間違いないんじゃないでしょうか。 エペソ人への手紙4:21-24
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人とはイエス様のことです。「イエス・キリストを着なさい。」と言っているのです。このこの世の生き方を私たちは脱ぎ捨てなければいけない。 23節に、「あなたがたが心の霊において新しくされ」、と書いています。古い訳では、「心の深みまで新しくされ」、と訳されていますけれども、悔い改めというのはそういうことです。 今までの自分のこの世に対する執着、この世の強烈な引力。そういうものの前に、それと聖書の前に立たされているのですから。どちらかを私たちは選ばなければならないのであります。 ローマ人への手紙13:11-14
あのアウグスチヌスが回心したときの聖書の箇所だと、アウグスチヌスが告白の中で言っていますが、彼はこのみことばが目の中に飛び込んで来て、そのときに長い、どっちにしようかという長い彼の苦悩、苦しみから主につく決心をし、通わされていくのです。一気に。 「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」、光の人生を歩もう。やみの人生を歩んではならない。私たちの良心を私たちにと語りかけているはずです。 欺きを捨てて、真実の人生をやらなければならない。なぜならばそうしなければ私たちの人生はむなしいからであります。 聖書が示している光の道です。イエス様が招いていらっしゃるそこに立ち返らない限り、私たちの人生は本当に何の結果も生まない悩み、さまざまな問題だけを生み出す人生であることは間違いないです。 ガラテヤ人への手紙の2章の19節、20節。有名な箇所です。 ガラテヤ人への手紙2:19-20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。パウロにとってこれこそが悟りでありました。これこそが彼の揺るがない土台でありました。 生きているのは私ではない。キリストが私のうちに生きておられる。私はもう支配者ではない。 イエス様が御霊を通して自分のうちに生きておられる。自分のうちを整え、聖め、知恵を与え、力を与えて導いておられる。そのことによって自分はすべてのものを持っている。パウロはこう喜び踊ったのであります。 自分を捨てるということ。ただ捨てるだけじゃなくて、イエス様の中に生きるということ。 「自分を捨てる。」とよく言いますけれど、禅のお坊さんなんか言いますけれど、あれは実態はないのです。自分の代わりに生きる方が自分のうちにいらっしゃらなければ、自分を捨てるということは不可能だからなのであります。 聖書は私たちが古き自分自身に死んで、自己支配を放棄して、自我の支配を打ち砕かれて、キリストのご支配の中にいれていただく。その道を私たちのために開いていらっしゃるのであります。 コリント人への手紙第II、5:17
結局私たち人間をいつも苦しめるのは自分自身です。自分自身へのこだわり。自分自身に対するさまざまな思い。これが私たちをいつもうんざりさせるのですから。 その自分というもの、それは大切なものではないのだ。むしろこれは脱ぎ去られるべきものなのだ。自分が問題じゃないのだ。主イエス・キリストご自身こそが大切なのだ。主のみこころが大切なのだ。自分の思いはどうでもいいものなのだということに気付かされること。 このことを本当の意味で知ることは何という大きな喜びでしょうか。 朝から晩まで自分自身に固守し、自分自身に常に執着し、こだわっていた私たちが、自分はどうでもいいのだ、それは決して私たちの益にならないのだ、それを私たちは問題外にしなきゃいけないのだということに気付かされることです。 本当にそれこそが大切なんじゃないでしょうか。そこに気が付くと人は揺るがない土台に立つようになるんじゃないでしょうか。 何よりも大切なのは自分だと思い込んで、何十年も生きてきた私たちが、何よりも大切なのは自分ではないのだ、主ご自身なのだということを知るときに、本当に人は自由になるんじゃないでしょうか。 ローマ人への手紙6:4-8
私たちはかつて、必死に生きよう生きようとして、必死にもがいていたんです。必死に何とか生き延びなきゃならない、生きなきゃならない。 ところが聖書のメッセージは、あなたは死ぬべきである、あなたはその自分の人生を放棄すべきであるということです。そして神さまが提供しておられるこのいのちに、イエス・キリストのいのちに生きよと聖書は言っているわけであります。 聖書が示している真理とは、人間を根底から新しくするものであります。しかしここにいらっしゃる未信者の方は、「そんなこと言っても、あなたはそんなイエス様を信じたと言っているけれども、あなたの古い自我、本当に無いんですか?」っていうふうに仰るでしょうね。 ありますよ。ありますけれど、私のかつての自我は強烈な主のハンマーによって叩き潰されているものですから、半死半生と言いますか。もう全然頑張りはきかない。致命傷を与えられていて、主の御霊に屈服させられているのであります。 悪魔はイエス様の十字架によって滅ぼされたと聖書は言っていますけれど、悪魔はまだ生きているんです。 聖書が言っている「滅ぼされた」ということは、「無くなる」という意味じゃないんだそうです。しかし悪魔はもう無力にされているということ。悪魔は私たちに対する支配権をすでに失っているということだと言われています。6章の14節にそういうことばがあります。 ローマ人への手紙6:14
これも古い文語訳を見ると、「罪はあなたがたの主たることなし。罪は汝らの主たることなし。」、罪はもはやあなたがたの主人ではないのだと言っているのです。 罪の力はなお私たちのうちに働いていますが、もう罪は私たちの主人としての立場と力を持っていないのであります。それはイエス様の十字架の死によって打ち砕かれて、支配権を奪われて、追い払われているからなのです。 この6章の4節から8節にあるように、ここに葬りとしての、古き人生の葬りとしてのバプテスマの意味が書いてあります。 かつて、私の信仰の先輩が自分の日記に書き記していたように、明日は私の葬りの日である。葬式の日である。これから私は主に侍る者である。 そういうふうに書き記しておられましたけれど、主のしもべとして主の前にひれ伏し、主に仕え、主に侍る者である。私たちはそのために召されたのです。 そのようにして私たちは悪魔の手下から神の手下として、神の兵士として、さらに神の子として、キリストに似た、イエス様の栄光の姿に似た者として、真理に生きる者と変えていただくのであります。 クリスチャンになるということは、自分の死と葬りを意味するということ。そしてうちに住まれるキリストのご支配の中に自分はonce for all(きっぱりと)です。 もうこれから以後永久に移された者であるということ。そのことをはっきり私たちが自覚しないのであれば、救いの実態というのは、どこにあるのだろうかと自分自身で迷うのじゃないかと思います。 救いによって与えられる勝利の力。本当にかつての望み無き状態から希望の光が私たちの前にはっきり現われてきた。それは今言ったように、私たちが古き自分の人生を清算して、主の新しいいのちの道にはっきり移されるということ。それ以外にないわけであります。 自我の支配を放棄する決心。本心から主の前に降参する決心。そこにだけ真の解決への道があると断言できるのであります。一、二ヶ所読んで終わりたいと思います。 マタイの福音書10:37-39
ガラテヤ人への手紙6:14-15
パウロは、主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが自分にあってはならないのだ、自分はこれ以外に誇りとしてはならないのだと決心をしているわけであります。 なぜなら、それ以上に、これ以上に真に誇りうるものはないのだからということなんです。 コリント人への手紙第Iの、先ほどお読みしましたけれど、もう一回コリント人への手紙第Iの1章22節からお読みします。 コリント人への手紙第I、1:22-24
|