引用聖句:イザヤ書9章1節-6節
本当にすばらしい預言のことばです。クリスマスと言えばすぐ私たちはこのイザヤ書の9章を開かざるを得ないわけです。 先ほども言いましたように、イエス様が生まれる数百年前にイザヤという預言者を通して語られたことばであります。 クリスマスというのは、その意味を知ると驚くべき出来事の記念日であります。この無限の大宇宙の中でたった一回だけ起こった、本当に驚天動地の出来事を記念する日なんです。それはどういう日かと言いますと、神が人の子の姿を取って、この地上に生まれられた日であります。そこの6節に今読みましたように、 イザヤ書9:6
そのひとりのみどりごは、幼子は神ご自身であるという意味なんです。神が人となられるというこういうことがクリスマスの意味であります。 こういう聖書のメッセージを文字通りに心から信じることができるということは、驚くべきことであります。 今イエス様兄弟がお祈りの中で言われたように、私たちはかつて、クリスマスと言ってもそれの意味を知りませんでした。 ただ飲んだり騒いだりするだけのことでクリスマスを迎えていたわけですけども、この聖書の意味を知ると、本当に私たちは驚きます。 そしてイエス様のこのご降誕についての驚きは、いつでも新鮮な驚きであって、新鮮な感動であります。 神さまのなさることは、人間のわざと違って古びることがありません。 いつも私たちはこのイエス様のご降誕について、イエス様の十字架の死について、イエス様の三日目のよみがえりについて考えるときに、神さまのみわざの偉大さに圧倒される思いがするんです。 本当にクリスマスとイースター、イエス様の復活を記念するイースターと言い、考えれば考えるほど、驚くようなできごとであります。 イザヤは同じ53章の1節の中でこう言っています。 イザヤ書53:1
だれがこういうことを信ずることができるでしょうか。本当に聖書はそのように言ってますけれども、その通りだと思うんです。 神が人の子となってこの地上にくだって来られるなんていうこと、いったいだれが本当に心から信ずることができるでしょうか。 それを信ずることができるということは、驚くべきことではないでしょうか。 クリスマスというのは簡単に言いますと、例えて言いますと、簡単に言いますと、永遠の世界というひとつの神の世界がこの地上に降りて来たということであります。 永遠の世界というもうひとつの世界が、この過ぎ行く束の間のこの世界にちょうど大きな船が接岸するように、接岸したということであります。 天国がこの世とつながれたということであります。イエス様によって天国がこの世とつながれた。私たちはイエス様によってこの天国にはいることができる。その道が開かれたということであります。 神が人となられてこの世にくだって来られ、私たちの身代わりとして死なれ、死を滅ぼされてよみがえられたという、この聖書の言っている歴史的事実のみが、人類のただ一つの希望の光であります。 それなのに私たちはこのことに心を向けようとしないで、この世のことにだけ心を奪われてしまっているのであります。 イザヤ書55:1-3
なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。私たちは渇いてるたましいをいやそうとして、この世の色んなものに手を出して、色んなものを追っかけて、これでもかこれでもかとして、この渇きをいやそうとしてるのであります。 しかし、それらのものはやればやるほどむなしいということに、あるときに気が付いてくるんです。 「さあ、渇いてる者はみな出て来い。」と神さまは仰っています。「金もない者も、ただでわたしはそれをあげるから。取って食べよ。」と仰っています。 「どうして腹を満たさない物のために労するのか。わたしのところに来い。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」と仰ってるんです。 若いとき、私たちはこの世のもので自分のこの飢えやたましいの飢えを満たすことができるんじゃないかと思って、一生懸命色んなことに没頭しました。 本当に色んなことを激しく追い求めました。 しかしいくらやってもそこにはむなしさが残るのであります。本当にこれでいいのだという、ここでいいという、自分の本当の意味でのたちどころと言いますか、それがないのであります。 イエス様に出会って初めて私たちは、本当にこれである。これこそが本物である。これでいいのだという確信を持ってそこに本当にたつことができるんです。 ここにいらっしゃる多くの姉妹方もかつて色んなものに夢中になられたでしょう。 テニスをやって、そういうものにエンジョイをしたり色んな習い事、稽古事、色んなサークルに出入りなさっていたでしょ。しかしそういうものが本当の意味で自分の渇きをいやさないものであることをお知りになったと思います。イエス様に出会われたときに初めて休んでることができるのであります。 エレミヤ書2:13
わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。 生けるまことの神さまから離れて、神さまの代わりに自分のたましいを見た人を自分で作ろうとしたのだ。 私たちのたましいを満たすことのできるのは神ご自身だけなのに、神を捨てて、自分勝手に神の代わりになるもの、自分のたましいの渇きをいやすものを自分で作ろうとしたのだと神さまはエレミヤを通して言っておられます。 「そこにはない。わたしのところに来い。」これが神さまの呼びかけであります。 旧約聖書全体を通しても、繰り返し繰り返し語られてる呼びかけはこれなんです。「わたしのところへ帰って来い。」ということであります。 今言いましたように、クリスマスというのは、この天地万物を造られた神が、イエス・キリストを通してご自分を現わされた。イエス様を通してご自身をこの地上に啓示なさった。神が人となられたということであります。 しかしそういうことが本当にあるもんでしょうか。そんなことがいったい考えられるもんでしょうか。乙女から生まれてくる幼子が力ある神などということがいったい本当に信じられるもんでしょうか。本当に驚くべきことであります。 もう一回イザヤ書に帰って7章の14節に有名なみことばがあります。これもよく知られてる預言のことばです。 イザヤ書7:14
主というのは神さまのことです。神という意味です。 イザヤ書7:14
乙女がみごもって男の子を産む。その名は『インマヌエル』と称えられるという、これも預言のことばです。乙女マリアから男の子が産まれるということです。 インマヌエルということばの意味は、「神、われらとともにいます。」という意味なんです。非常にすばらしいみことばです。 神が私たちと一緒にいてくださる。神が私たちの人生の真っ只中に下りて来て、私たちと一緒に生きてくださる。これがイエス様の名前なんです。イエス様の本当の名前は、インマヌエルという意味です。 ヨーロッパに多いインマヌエルの名前。インマヌエルはこの名前なんです。非常にすばらしい名前です。ぜひ覚えていてください。 インマヌエルというのは聖書の中で最もすばらしい名前のひとつなんです。神が私たちとともにいらっしゃるということなんです。 信仰というのは、このまことの神さまと一緒に歩むことなんです。神という方は遠くにいらっしゃる方ではありません。私たちと一緒に生活してくださる。 私たちのこの乏しい、この色んな問題に満ちた、あるいは本当に罪に満ちた情けないようなこの生活の真ん中まで神さまが下りて来てくださる。 私たちと一緒に日常生活をしてくださる。私たちと交わってくださり、私たちを導いてくださり、私たちを満たしてくださり、私たちを守ってくださる。 聖書のインマヌエルということばの意味はそうであります。 神は遠くにいらっしゃる漠然たる方ではなくて、私たちの人生の真っ只中に下って来てくださる。私たちと日々、語らってくださる。私たちを本当に満たしてくださる方である。 これが聖書が言ってるインマヌエルの意味なんです。 その神が、インマヌエル、神はわれわれとともにいますというその神となられるために、みどりごイエス様を通して、イエス・キリストという方を通してこの地上に来られた。これがクリスマスの意味なんです。 こういうことは本当に驚くべきことなんです。いくら考えても考えるたびに本当に驚くべきことですよね。 このイエス様についての最初の預言はどこにあるかと言いますと、創世記の3章にあるんです。聖書のもう初めの数ページのところにこのイエス・キリストへの預言のことばがあります。 創世記3:14-15
この蛇というのは、ヘブル語では定冠詞が付いているんだそうです。日本語ではあんまりその意味は出ませんけれども、ある特殊なことを意味してるんですけども、聖書全体から見たら分かるようにそれは悪を意味してることは間違いありません。 聖書の一番最後のヨハネの黙示録には、あの年を経た蛇というふうに悪魔のことを呼んでいます。恐るべきこの霊的な実在であります。 悪魔というのは決して人間が勝手に作り出している言葉ではありません。悪魔というのは実に恐るべき、実際に存在するものなんです。人格であります。実に巧妙な知恵を持っているものであります。 この悪魔がアダムとエバを誘惑して、神さまに逆らわせて、罪を犯させたとき、聖書が言っている罪というのは、アダムとエバが犯した罪というのは何かと言いますと、私は神さまなんか要らないという人間の選択のことなんです。 この世の人々は、アダムとエバはなんかリンゴの木の実を食べたというようなことで、なんかそういうふうに教えられていますけども、とんでもない話で、善悪の知識の木の実と聖書に書いていますけどもそれの意味してることは、私は神さまなんか要らない。っていう人間のこの選択のことなんです。 要するに私は私を神として、私は自分自身を神として生きて行くのだという、人間のこの恐るべき選択のことを聖書は原罪と呼んでるんです。 悪魔はいつでも私たちに、あなたは自分自身を神として生きなさいよ。何者にも頭を下げないであなたは自分自身を自分の神として生きなさいよ。こういうふうにささやくものが悪魔の声なんです。 悪魔というのはいつでも私たちを、私たちのこの自我を、本当にこの自我に取り入ってくるものが悪魔の声です。 あなたはすばらしい人間でしょ。本当に自分自身を神として生きなさい。これがそこで書いてることの意味です。 例えば5節を読みますとそう書いてます。蛇が言ってます。 創世記3:4-7
神のようになる。これが人間の罪の根底にあるものなんです。 自分自身を何者よりも高くする者、自分自身をあらゆる者の上に置こうとする者、これこそが人間の恐るべき罪の性質なんです。 悪魔はいつでも人間にそのようにささやきかけるものです。だから私たちはそういう声を聞いたら、これは悪魔だということを気付かなきゃいけない。そしてこれは非常に危険だということに気が付かなきゃいけない。 神さまは逆なんです。いつでもへりくだりなさい、へりくだる者に恵みは与えられる。みずからを低くする者に神は必ず祝福を与えられます。 しかしみずからを高ぶらしめる者、みずからを高く引き上げようとする者に神は悪魔と同じさばきを与えられる。これが聖書の宣言なんです。宣告であります。 ですから罪というのは自己追求なんです。自己追求の人生を歩むこと。自分自身を自分の人生の目標として、どこまでも追い続けて行く生き方のことを聖書は罪と言っているんです。それは必ず滅びに至るんです。自己破滅の道につながっていくんだということなんです。 私たちが必要なことは何か。神のもとにへりくだって立ち返って生きることなんです。神に栄光を帰することです。 人間が自分自身に栄光を帰するならば必ずその人は倒れてしまうんです。行き詰ってしまうんです。やみの中に入ってしまうんです。 そうではなくて、栄光はただ神にだけ帰されなければならない。これが聖書の繰り返し教えているところです。神だけが栄光を受けるにふさわしい方なんです。 このときに神は最初の人、アダムとエバに向かって、女から生まれる子孫のことについて語っていますでしょ? 創世記3:15
この女の子孫という子孫という言葉は外国語で読むと、単数形を取っています。一人のものという意味です。子孫たちという意味ではありません。 創世記3:15
悪魔と女から生まれる者との間に敵意が置かれる。 創世記3:15
とあります。仰いました。 女から生まれる者が悪魔を滅ぼすときが来る。しかし悪魔もその女から生まれる者のかかとを砕く。かみつくということなんです。 イエス様が十字架で死なれたことはそのことであります。悪魔がイエス様のかかとにかみついてるのがイエス様の十字架の死であります。 しかしイエス様は十字架の死によって悪魔のかしらを、蛇のかしらを踏み砕かれたのであります。 イエス様はここで、神はここで悪魔を滅ぼす解放者、人類を罪から贖い出して再び神との交わりに連れ戻してくださる救い主のことについて預言されたんです。 イスラエルという国の歴史は、この約束のみどりごを待ち望む歴史であります。イスラエルの民は天を仰いで、そこから希望の光の現われるのを待つ。そういう民だったんです。 イスラエルの何千年の歴史というのはそうなんです。神のこの約束の救い主が自分たちに与えられる日を待つ。その歴史であります。 ですからユダヤ人はすべてこの約束のことを知っていますし、今でももちろん知っています。そしてこの約束のメシヤが、救い主が与えられることを待望する。それが彼らの何千年の歴史だったんです。 これに反して現代人、私たちは天を仰ぐことを忘れています。本当に天を仰ぐということをすっかり忘れてしまっているのが現代人でしょ? いつでもこの世の内側ばっかりを見ている者です。この世にばっかり目を注いで、この世の内側に解決の手がかりを捜し求めているのが現代人です。 天を仰ごうとしないで人間の中にだけ目を注ぐ者。人間の内に何らかの解決の方法があるのではないかと思って探している者。これが現代人であります。 人間の知恵とか科学に幻想を抱いているからであります。何の解決もない。 私たちが自分の内に、あるいは人間の中に解決を求めようとするといつまで行っても、グルグルおんなじ所を回ります。本当の解決に出くわすことがないんです。 人間が提供するもの。この世の内側から出てくるものは、すべて根本的には同じものですけれども、ただ形が変わっている類似品であります。 すべてが似たりよったりで本当の意味で解決する力を持たないのであります。 ドイツの哲学者が言ったように、処理することはできても解決することができない。これが人間の知恵の限界なんです。 私たちは問題をいつも先送り、先送りです。表面的に色々と手を加えますけれども根本的にそれは解決することはできないのであります。 解決し得る本当の救いは、ただ神ご自身だけから出て来ます。救いは人間からは出て来ない。この世からは出て来ない。神ご自身からだけしか来ないのであります。 イエス様を信じ受け入れなければ、どんなに知識と知恵を増し加えようとも、根本的には状況はまったく変わらないのであります。このことを是非覚えていただきたいんです。 私たちは聖書の知識を増し加えることができます。教会に行って色んなことを知ることができます。深い知恵をも学ぶことができるかもしれません。 しかし心から救い主を自分の心にはっきりと受け入れるまでは状況は根本的に変わらないのであります。 ですから大切なことは、色んなことを知ることじゃないんです。はっきりと単純にイエス様を自分の救い主として信ずる、この信仰の決断がどうしても必要なんです。 そうでないとこの世の中にとどまったまま、これまでの人生をそのまま続行しながら、問題の解決を得たいと願うようなもので、それはいつまでたっても不可能なことなんです。 私たちが本当に根本的に解放されない原因はそこにあるんです。イエス様を本当に信じようという信仰の決心ができないところに問題があります。 イエス様を受け入れる決心をしない限り、私たちの中に確信は生まれてこないんです。いつでも中途半端。いつでもつかみどころのないところへ行ったり来たりするだけなんです。 しかしはっきりと決心をするときに、イエス・キリストを心の中に受け入れるときに、よくは分からなくても受け入れるときに、私たちの中には大きな変化が表われて来ます。 兄弟がよく仰るとおりなんです。分からない見切り発車かもしれない。しかし自分自身は本当に変えられていきましたというのは、クリスチャンの体験なんです。 救われるためにはイエス様に根こそぎ引き出してもらわなければならないんです。まったく新しい信仰の歩みへと引き出していただけなければいけないんです。 自分の人生の、古き人生の中にとどまったままで、どんなに聖書の話を聞いても、私たちは前進することはできません。確信を持つことができないんです。 私たちはちょうど深い、暗い穴ぐらの中にいるようなものであると聖書は言っています。 イザヤ書9:2
となってます。やみの中を歩んでいた民、死の陰に地に住んでいた者となってます。深い、暗い穴ぐらの中にいるようなものです。 ちょうどイエス様は私たちに、その穴ぐらの中に手を入れてくださって、私たちを引き出そうとしておられるのであります。 大切なことは、その手をつかんで引き出していただくことであって、座り込んだままイエス様の話を聞いて感心してるばかりじゃ意味はないんです。 「ああ、いい話を聞きました。ああ、少しストレスが解消しました。」ということじゃまた元の木阿弥なんです。それじゃダメなんです。 ところで、禅の悟りとは何かと言いますと、例えて言うと、この穴ぐらの中に座ったまま達観しようとする姿勢なんです。出る方法がないもんですから、いわば達観しようとするんです。「人生とはこんなもんだ!」と割り切ろうとするんですよね。割り切れないのに割り切ろうとするわけであります。 状況は少しも変わらないのに、そのことを認めることができない。一種の心理操作によって自分自身をいわば自己欺まんと言いますか、自分自身をこう、自分の状況というものを、心理状況というものをいわば変えていくと言いますか。そういう精一杯の人間が何とかもがいているその姿が悟りなんていうもんだっていうんです。 いくら座禅を組んでも、自分は穴ぐらにいることには変わりはないのであります。そこから出られないんです。 その穴ぐらとは何かというと、聖書は、それを罪と死の縄目と呼んでるんです。罪と死の縄目です。 人間が罪と死の縄目に縛られていて出ることができない。どんなに頑張っても、どんな悟りを開こうとも、どんなに人生を解釈しようとも、人間は罪と死の縄目から解き放たれないんです。 人間の行く先には死が待っているだけであり、結局人間は出口のない穴ぐらの中にいるんです。 私たちは深い、暗い穴ぐらの中にいるだけなんです。その中で何を考え、どんなことを悟ったと言っても、それは五十歩百歩で何の解決もないおんなじ穴ぐらの中であります。 だからさっきも言ったように、いい話を聞いて、聖い話を聞いて、なんかすばらしい感動を覚えたりして、それはもちろん悪いことじゃないです。そういう知的な満足を得ること。 この世の低俗なものじゃなくて私は少し高尚なことを学んでるんですよっていうそういうような少々な誇りを感じたりしながら、しかも穴ぐらからは出ようとはしない。 その穴ぐらの中で歩き回っているに過ぎない。箴言の中には雄鶏がとさかを立てて、気取って歩いていることを風刺してるところがありますけども、ちょうどああいうことも、こういうことも、私は意識として持っていると言って、歩き回っている。その穴ぐらの中を歩き回ってる鶏のようなものです。 肝心なことはイエス様が差し伸べてる手をつかんで、外の光の中に引き出されることであります。 自己憐憫に陥ってばかりいる人もおんなじようです。自分の罪深さを嘆いてばかりいてもやっぱりダメです。それもやっぱり穴ぐらの中にとどまってばかりいるからです。 そうではなくて、主によって引き出されなければならないのであります。 イエス様を信ずる決心をすることによってだけ、私たちの根本的な状況はまったく変えられていくんです。 イエス様を心から受け入れるときに変化が起こって来ます。イエス様を信じ、受け入れない限り、私たちはいつまでたっても宙ぶらりんの状況のままでとどまることになります。 ですから大切なものは知識ではない。大切なことは理解力ではない。 聖書を深く知ることはもちろんいいことですけども、イエス様を信じ受け入れることなしに深く理解することはできません。 人が聖書を深く理解できるようになってくるのは、イエス様を信じ受け入れたあとです。 信じてくれば、信じて信仰がどういうものであるかを知ってくれば、聖書は驚くべき真理の宝庫であることに気が付いて来ます。 大切なことはイエス様が伸べておられる手を受け入れて引き出されることです。今までの古い人生の中にとどまったまま、ただ聞くだけであってはいけないんです。 そうではなくて今までの人生の歩みから引き出されること。イエス様に従う新しい人生の中に導き出されることであります。 今までの古きものを次々と脱ぎ捨てていくこと。それが喜びとなってくるでしょう。 私たちはその何の役にも立たない、その古い生活、古い衣のようなものを身にまとっていたものを本当に大事なものと思って、イエス様を信ずるときにはそれを後生大事にして、なかなか脱ぎ捨てれないものです。 しかしイエス様を受け入れると、その古きものを一枚、一枚、脱ぎ捨てて、その度に新しくされていく。そういう経験をいたします。 光の中に出て来ること。まったく新しい生涯に入る機会が、戸口が開かれたということなんです。 私たちはイエス様を本当に心から信ずるときに、救いというものがどんなに単純なことであって、しかもどんなに力あるものであるかに驚くでしょう。 救われることは本当に簡単なことなんです。幼子のような信仰だけが必要なんです。イエス様を受け入れた人の喜びが9章の3節から書いてあるんです。 イザヤ書9:3
と書いてありますね。本当に全身飛び回って喜んでいる喜びがここに記されています。 イエス様を受け入れて歩む生涯は本当に荷の軽いものです。本当に肩の重荷を下ろした、のびのびとした人生なんです。 ですから私たちは聖書に言っているように、走っても疲れることがないと、イザヤ書の作者が歌ってる通りなんです。 イザヤ書40:28-31
イエス様を信ずる者の生涯はこのような生涯です。疲れることはない。 もちろん疲れることはあるでしょうけど、また新たにされます。本当にいつも若々しく歩むことができます。 信仰の生涯は本当に単純であり、本当にすばらしいものなんです。 大切なことは今言いましたように、イエス様の手をつかんで引き出されることであります。そのときに私たちは本当にすばらしい経験をします。 ペテロの手紙第I、1:18
この世の富にはよらす、という意味です。 ペテロの手紙第I、1:19-20
この世の始まる前から知られていました。神はもう創世記の中でイエス様のことを語っておられました。 しかし今、この終わりの時に、あなたがたのために、この地上に現われてくださったのですとイエス様の弟子であるペテロは書いたんです。 ペテロの手紙第I、2:9
かつては悪魔の支配下にあったけれども、悪魔のものであったけれども、今はイエス様を信ずることによって神の所有とされた民です。 だから聖なる国民、王である祭司、選ばれた種族と言われてるんです。 イエス様という代価を払って悪魔から神さまが私たちを買い取ってくださった。悪魔の支配下につながれていた私たちを、罪と死の縄目に縛られていた私たちを、イエス様の死という代価を払って買い取ってくださったのであります。 それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方と書いてます。これはペテロの経験だったんです。 ペテロはイエス様を信じたときに、それが驚くべき光であることに気が付きました。 イエス様を受け入れるときに私たちは、やみの中から光の中に引き出される経験をいたします。 ペテロの手紙第I、1:8-9
ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっている。私たちは本当にこのクリスマスのことを思うときに、神さまのみわざのすばらしさに喜びおどり、圧倒されます。 本当に神のなさることは驚くべきことだなと思います。人間が考えること、人間が行なうのとは全然次元が違います。 しかしクリスマスを本当に私たちが喜ぶことができるのは、この聖書の約束の成就を本当に私たちが賛美できるのは、イエス様の救いの力を本当に体験したときでしょうね。 もう一回、イザヤ書の9章の6節。あと二ヶ所読んで終わりましょうか。 イザヤ書9:6
新約聖書のルカの福音書の2章10節。最初のクリスマスの晩の出来事です。クリスマス・イヴの記事です。一番初めのクリスマスの晩です。 ルカの福音書2:10-12
この幼子こそ、みどりごこそ、インマヌエルの神であります。私たちとともに歩んでくださり、本当にこの暗き地上を本当に私たちとともに導いて歩んでくださる神なんです。 人間の知恵では考えることのできないようなことですけども、これは事実であります。 どうぞ、このイエス様のことをさらに知っていただき、最終的には本当に幼子のようにイエス様を受け入れる決心をしていただきたいのであります。 |