あなたはどこにいますか?


蘇畑兄

(テープ聞き取り、1985)

こんにちは。
ある兄弟は明日ニューヨークに飛ばれるそうです。一年くらいの長期滞在だそうですから、ホントに交わりが十分にあればいいんですけども、その点ホントに大変だと思います。
私たちも覚えて、是非兄弟の歩みが守られるように祈りたいと思います。

先日姉妹方と、癌研に長い間入院していらっしゃる姉妹をお訪ねしました。もう一年以上入院していらっしゃるんですけども、集会には何べんかみえられたことがあるようです
その時にちょっと交わりながら、「病室で、ベッドの上で何を考えてらっしゃいますか?いつも考えることは、この頃考えることはなんですか?」、と質問しましたらですね、「この夏中に色んなことがありましたから、神さまは本当に厳しい方ですね。残酷な方だと思います。」っていう答えが返ってきて、私は非常にハッとしたんですね。

姉妹が仰っていたは、夏の皆さんご存知のJALの大事故などですね。
(注:1985年8月12日、JAL123便御巣鷹山墜落事故)
まあ、あれだけ色んなニュースで見ながら、その方は非常に心痛めておられるようでした。どうして、ああいうことを神さまが許されるんだろうか。
特に小さい子どもたちが何十人も乗っていたのに、どうしてああいういたいけな子どもたちにもあんなひどい目に遭うことを神さまは許されるのだろうか、ということから、姉妹は「神さまは残酷な方じゃないか。」というような思いを持っておられたようでした。

私もその姉妹のこの答えにですね、非常にたじろぎながら、よく私たちが出くわすところのこの問題にですね、また出くわしたという観を強く持ちました。
私たちの心のまなこには、神はどういう方として映ってるんでしょうか。私たちの信ずる神は冷たい神でしょうか。残酷な神でしょうか。まったく理不尽なことをなさる恐ろしい神でしょうか。
それとも私たちの中には、確かに神は厳格であられるけれども、しかし限りない、ほとばしるような愛をもって私たちを本当に抱こうとしていらっしゃる神として映っているんでしょうか。これはやっぱり、大きな問題だと思うんです。
私たち一人一人は、私たちの信ずるこの天地万物を創られた神をどういう方として受け取っているんでしょうか。私たちの心の中には神はいかなる方として姿を現わしていらっしゃるんでしょうか。
そのことを考えさせられたわけであります。そしてある意味でこの姉妹の、確かに大変な苦痛であります。

その方はご自分の病気が癌であることを知っておられます。
そういうギリギリの中に置かれながら、姉妹のその苦痛を思いながらもなお私はある意味でその答えに、問いにがっかりすると同時に考えさせられたんですね。
神はどうしてこういう色んな試練を許されるんだろうか。世の中にはどうしてこういうことが起こるけれども、神がもし全能であるならば、神が愛なる方であり、義なる方であり、真理なる方であるならば、どうしてこういうことが起こるのだろうかという問いは、すべての人が、特にクリスチャンが必ずぶつかる問いでもあると思うんですね。

しかし私たちは、そういう問題を通してもなお神は愛なる方である、なお神は義なる方である、神は真理そのものにあられる、この立場を私たちは断固として、ある意味でそこに立つといいますか、それが私たちの信仰であるはずなんですね。
それが神さまが残酷な方として感じられるというのであれば、私たちは本当に悲しい・・・と思うんですね。

マタイの福音書の25章の中に、イエス様は一つの例え話をなさいました。それはクリスチャン一人一人が与えられた信仰を本当に正しく守って、その信仰を本当に実りあるものとするようにという意味での例え話であります。タラントの話であります。
一人の人に五タラント、もう一人の人に二タラント、あるもう一人の人に、三人目の人に一タラントを預けて主人が旅に出た、という話であります。
そしてこの主人が帰って来て清算をした。そしたら五タラント持ってる人は、

マタイの福音書25:20、22-26
20すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
22二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
26ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

この三番目のしもべ、この一番大きな問題点は何かと言いますと、この人の心に映ってる神の姿が、主人の姿がひどい方である、散らさない所から集めるひどい方、怖い、おそろしい方として三人目の人が神を感じているということであります。
これこそが一番の大きな問題点であります。神は本当にひどい方でしょうか。
私たちはどういうふうに神を感じているんでしょうか。神は確かに時々私たちを厳しく打ち据えられるときがあります。真実に神さまの後について行こうとして、打ち据えられない人はいないんです。
本当に私たちは、ある時に耐え難いような厳しい経験に遭遇させられるときがやって来ます。しかしそれは、私たちが本当に罪から離れるために、私たちが真実に神さまの方に自分の心を向けるために、神のきよさにあずかるために、一層神の偉大さを知るために、神が私たちを扱われるやり方でもあるんです。

私たちは本当に、自分で分からないような、耐え難いような、そういう暗い谷を通って行きながら、神さまの偉大さ、真理の大きさ、この人生の本当の意味といいますか、深刻さといいますか、それをさらに味わわされるのではないか、と思うんですね。
どのような試練の中においても、たとえ第三者は理解することが出来なくても、本人自身は神が愛であられるということ、これを私は知ることが出来ると思っています。

ある人にどうしてああいうことが起こりますか?どうしてこういう事件が起こることを許されますか?というふうにして、私たちは第三者的にこれを問うても、理解することは出来ないと思います。
しかし自分がある一つの問題に入り込みますときに、私たちはそれがどんなひどいような、厳しいような、理不尽なような経験であっても、神はそのことを通して確かに私を正当に扱っておられると言いますか、ホントに神さまのなさっていることは、正しいと言いますか、そういうことを認めざるを得ないのじゃないかと思うんです。
神は、人は自分と神との関係だけに注目しておればいいのであります。第三者の立場からどうしてか?という問いは、神さまの御前にはあまり意味がないことであります。

ヨハネの福音書21:20-22
20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。
21ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
22イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

20節に出てくる‘愛された弟子’というのは、どうもヨハネのようです。使徒ヨハネ。このヨハネがイエス様の後について来る。ペテロとイエス様が歩いてく後について来るのを振り返ってペテロが、「主よ。この人はどうですか。」と言いました。
そのときにイエス様は「彼のことはよろしい。あなたにはかかわりはない。あなたはわたしに従いなさい。」と仰いました。

神さまと自分との関係こそが、神が私たちに問われるところの点なんですね。ある人にああいうことが起こったのはどうしてですか?と問うても、私たちは多くの場合その理由を神さまから教えてもらうことはありません。
しかし本人は、その意味を主によって教えられると思うんです。
私たちは自分の立場を忘れて、神のなされることを非難してはならないし、その資格ももちろんない者なんです。そのことを知らずに私たちは本当に多くの、自分の立場を忘れて神のなされることを非難します。
どうして社会はこんなに矛盾に満ちてるのだろうか。どうしてあのJALのような、あるいはメキシコの地震のような人災や天災によるところの事故によって、多くの人々があんなにひどい死に方をするんだろうか。
どうして神はこの世に罪が入るのを許されたんだろうか。こういう色んな疑問が私たちの内に確かに湧き出てきます。
しかしこういう問いに対してですね、神は答えられるかと言ったら、実は答えられないのであります。

神はそういう問いに対しては、沈黙をしておられるんですね。逆に神が私たちに問われます。「君はわたしの前にどのように立っているか。」「あなたはわたしの前に正しくあるか。」
これが神が私たちに問い返される問いであります。
神は、私たちが色んなことを神に問うことじゃなくて、むしろ私たちが神の前にどのように立っているか、神が私たちに問い返される私たちの方こそ、問われる者であるということを思わされます。

私の勤めている学校に、一人、私の先輩である方が非常勤で時々教えに来られます。私の学校の恩師でも方ですけれども、この人は二十何年か前にほかの兄弟姉妹の家に行って、ほかの方々と一緒にちょうどクリスマスの集会を開いていたそうなんです。そのさなかに電話が入ったんですね。
その人の2歳かそこらの女の子が、沸かしてる風呂の熱湯に落ちまして、ヤケドをします。奥さんはその子を助けようとして、両手に大ヤケドをなさったそうですけれども、その子はその数時間後に召されてるんですね。
そのときに、その方々が、クリスマスの賛美のさなかでそういう事件が起こった、その時に彼らは、本当に主を拝してイエス様が仰ったように、「汝らいま知らず、後に知るべし」、あなたたちは今は分かりませんしかし後で知るようになります、っていうこの言葉をもって、神さまの前に礼拝をした、神さまに栄光を帰した、神さまのみわざを然りとしたということを数日前、この一、二ヶ月前に私は証しみたいなものをある人が書いているのを読んで本当に心を打たれました。

今まで十何年間、時々お会いしますけれども、まさかそんな悲しい経験をなさった兄弟だとは思ってもおりませんでした。もう六十過ぎますけれども、いかにもこう、自然としたと言いますか、毅然たる方であります。
その方の歩みを見ながら、本当にそういう激しい試練があったのだ。しかもイエス様の降誕を祝うクリスマスのさなかにおいて、愛する子どもが熱湯で死ぬなんていうことは、普通の人からすれば考えられない事柄であります。
どうして神はこういうことを許されるんだろうか?という問いは当然出てくるはずでありますね。
しかし彼らはその時に、兄弟姉妹たちは、あなたがたは今は分かりません、しかし後で知りますという、そのイエス様の言葉によって、本当に主の前に頭(こうべ)を垂れて、それを受け入れられたのであります。
本当にそれは心打たれる記事でありました。多くのクリスチャンがやはり、このような経験をなさるのじゃないでしょうか。どうしてか、なぜか、ということを問うてもあまり意味がない。私たちはベック兄から教えられております。

神さまはどうしてこういうことをなさるのですか?という私たちの問いに対しては神は、「あなたはわたしの前にしっかり立ってますか?あなたはわたしに従ってきなさい。ただわたしを見上げなさい。わたしを信頼しなさい。」、としか仰らないのであります。

私たちは神に対して色んなことを聞きます。どうしてか?その理由は何か?多くの場合、私たちは神を知らなかったときに、神はどこにいるか?神なんかいないではないか?というふうによく言ったもんですね。
この世のさまざまな知識にかぶれて、少しものを知ってるかのように錯覚をして、物知り顔に私たちは神などどこにいるか、神なんかいやしないじゃないか、というふうに言ったもんであります。
しかしこれは愚かな問いなんです。なぜならば人間の方こそが、お前はどこにいるか、と神によって問われている存在だからです。
聖書は繰り返し繰り返し、君はどこにいるか?という神の問いを載せております。人間が神を問うてるのじゃないんですね。神がどこにいるか、と人間が問うてるのじゃなくて、実は人間こそがお前はどこにいるか、といって神に問われている存在なんです。

私たちはどこにいるんでしょうか。私たちは「今どこにいるか?」、この問いに答えることの出来る人は、神を知っている人です。神を知らない人は、自分がどこにいるかを悟ることは出来ません。
自分の人生はどこに向かっているか、今どこに自分は存在しているか、自分の生きているということの意味、これこそがお前はどこにいるかと神によって問われているその問題なんですね。
ところが、それを私たちは知ることが出来ないんです。自分自身がどこにいるのかも知らずして、神はどこにいるかと問うてる、これが人間の愚かさであります。
人間は神によって、その居場所を問われている存在であります。

私たちはかつて、一応正義感に燃えたときがあったでしょう。社会の矛盾に憤って、自分の力で立ち向かおうとしたりしたことがあるかもしれません。
しかし聖書は、そういうことを私たちが、自分の身を超えたこと、分を超えたことというふうに言っております。

詩篇131:1-3
1主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。
2まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。
3イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

ここでダビデは、私は及びもつかない大きなことや、奇しいことに深入りしませんと言っています。自分はただ神さまの御前に乳離れした子どものようなものでしかない、ということをダビデはわきまえていました。
私たちは本当に裁き人であるかのように、社会の矛盾に対して、人の悪に対してそれを裁くことが出来るかのように考えて憤ります。
ある場合には、神に対してすら裁き人であるかのように、不平、不満を述べます。
しかし実は、私たちはそういう資格のない者なんです。ダビデはそのことを知っていました。決して私たちは大きなことを言うこと出来ません。社会を裁くことが出来るように、他の人を裁くことが出来るように、振る舞うことは出来ません。なぜならば自分自身ですら、自分自身すら救えない者だからです。

自分の力で立つことすら出来ない私たちがどうして、他人や社会を救うことが出来るでしょうか。自分自身の本当の無力さ、自分がまったくあてにならないということ、自分が本当に何もしちゃおらんということ、このことを本当に厳しくいつも教えられることが大切じゃないかと思うんですね。
私たちは聖書を少し知っていくと、世の中のことが分かるような、盲人の導き手であるかのような、誤まった錯覚を持ちます。とんでもないことです。私たちは本当に何も知っていません。
私たちは本当に主の前にへりくだらなければ、砕かれなければ、どのように迷い出て行く者であるかすら分からない者でしかないと思うんです。

神さまのあわれみによって救われていてもお、信仰を保たれていても、それは後どうなるかまったく自分では保障することは出来ません。そういう者でありますから、本当に主の前に私たちは、自分の無知と、自分の無力さとをしっかりわきまえて立たなければいけないと思うんです。
すなわち自分の罪の現実ということを、私たちがわきまえ知ること、これこそがすべての始まりではないでしょうjか。

ヤコブの手紙4:13-16
13聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
14あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
15むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
16ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

自分自身で生きている者ではなくして、生かされているのだということ、自分は神さまの、神のあわれみの中にあって生かされているということ、そのことをわきまえるということ、ここに私たちが立つときにだけ、神を神として正しく仰ぐことが出来るのではないかと思います。

ローマ人への手紙9:20-21
20しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
21陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

造られた者がどうして神に、あなたはどうしてこういうことをなさるのかと言うことは出来ようか。それは出来ないっていうんですね。
神のなされることは、私たちはそれを無条件で受け入れなければならないということであります。ヨブ記の主題はそれでありました。先ほど読んでいただきましたけれども、ご存知のようにヨブ記の主題はこういう、この問題であります。
ヨブは、ヨブ記の1章の1節にありますように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている人物でありました。旧約聖書に出てくる代表的な義人ですね。正しい人って言われているのがヨブでありました。このヨブに思いがけないような災害が襲って来ました。

それはヨブの信仰がどういうものであるかを明らかにするための試みでした。ヨブは、神が自分の利益を守ってくださるから神を信じてるのか、神を信ずることがヨブにとって好都合だから神を信ずるのか、あるいは神がなさることをよく理解出来るから神を信ずるのか。
こういう問いが、ここでの問いであります。ヨブはこの問題を、このヨブ記を通して明らかにされていくのであります。ヨブ記の1章9節〜11節のところに、サタンの神に対する答えが出ています。

ヨブ記1:9-11
9サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
10あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
11しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」

神が、ヨブが神を信じるのは、神を恐れるのはそれは神がヨブを守っているからだ。ヨブのすべての持ち物を守り、ヨブに幸福を、祝福を与えていらっしゃるからだ、これがサタンの訴えなんですね。そこで神は12節に

ヨブ記1:12
12主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。

そしてヨブの一切の持ち物と十人の子どもを、サタンは奪い取ることを許されるのであります。その試練に対して、20節にこう書いてます。

ヨブ記1:20-22
20このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
21そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
22ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブはこのときも主に対する誠実を貫きました。今度はもう一つ、サタンはそれに対して攻撃をしかけてきます。

ヨブ記2:3-10
3主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
4サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
5しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
6主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
7サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
8ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
9すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
10しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

ヨブ記を見ますと分かりますけれども、ヨブはこのようにして神の前に誠実を貫くんですけれども、しかしヨブの心の内からは色んな思いが出てきます。不平、不満と言いますか、どーしようもないようなですね、抑えがたいような叫びが出てきます。3章以下読んでみればよく分かります。
ヨブは神に対して不平を言うことは出来ない。神のなさる仕業に対して文句を言うことは出来ないので、結局ヨブは自分自身が生まれなければ良かった。自分の生まれた日を彼はのろいます。自分そのものをのろうんですね。
ここにヨブの辛さがあります。

ヨブの妻は、神をのろって死になさいと言いました。しかしヨブはそれが愚かなことであることを知っていました。
神に対する信仰を失えば、ヨブはすべてを失うことになります。神に対する信仰を失って、ヨブはもうどこにも立つところの出来ない、どこにも足場のない世界に投げ出されることになります。ヨブにとってそれは出来ないことです。
どのようなことがあっても、神から離れることは出来ない、このことをヨブは知っていました。しかし神は自分に分からないことをなさる。神を恐れて神の前に歩んできた自分に神は理解を超えた恐るべきことをなさる。これがヨブの苦悩であります。
ですから神が分からない、神の御心が分からない、神を見失ってしまったヨブの叫びが繰り返し繰り返し、ヨブ記に出てくるわけです。
彼は抑えがたく、何とかして自分の心を押さえ込もうとするんですけれども、口から溢れ出る彼の思いは、彼の意に反するようにして出てくるんですね。
どうして私は生まれたんだろう、私が生まれた日は滅び失せよ、自分が生まれた日、その日は闇になれということを、彼は繰り返し繰り返し3章の中で言ってるんですね。
本当にこのヨブの嘆きは、神の御心を見失ったところの人の嘆きであります。神がどうしてこのことをなさるのか理解が出来ずして、苦悩している人の叫びなんですね。

ヨブ記を読んでいくとわかりますけども、段々段々ヨブの不平、不満というものは大きくなっていきます。そして自分は正しい、自分は正しいのに神は自分を打たれたと、そして神を訴えようとする思いがヨブの中に芽生えてくるんですね。
それがヨブ記をずっと読んでいきますとあらわになってきます。
しかし最後にヨブは神の権威に触れます。そして自分の信仰を取り戻すわけですね。ヨブの問いたかったことは、どうして主よ、あなたはこういうことをなさるのですかということだったと思うんですけれども、このヨブのこの問いに対して神は答えられませんでした。

それはどういうふうに答えられたかと言ったら、ヨブ記の38章を見ると主の答えが出ていますけども、これはヨブの問いに対する答えではないんですね。

ヨブ記38:1-6
1主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
2知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
5あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
6その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。

ここで神がヨブに答えられた答えというのは、わたしは万物を造った主権者です、わたしはすべてのものの存在の根源です、わたしは自分の言葉によってすべてのものを呼び出した、というご自分が天地万物の主権者であるという、その主権者としての立場をここで神は宣告されているんですね。
こういう理由があったからわたしはこうした、というふうにヨブに答えられませんでした。わたしはすべてのことをすることの出来る主権者である。神はご自分の絶対的な主権というものをヨブに仰ったんですね。明らかになさったんです。
この万物が造られるときに、あなたは一体どこにいたのか、あなたはわたしによって造られた者ではないか。
42章に、ヨブはこのことを悟ります。

ヨブ記42:1-6
1ヨブは主に答えて言った。
2あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
3知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。
4どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。
5私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
6それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

あなたにはすべてができること、神はすべての権威をもっていらっしゃること、神のなさることにどうしてあなたはそういうことをなさるのですかとだれも言うことは出来ないこと、このことをヨブは悟ったんですね。
私たちが神を信ずるのは、神が私たちを守ってくださるからではありません。確かに神は守ってくださいますけども、守ってくださるがゆえに、私たちに益を与えられるがゆえに、神を信ずるのではありません。
神のなさることが全部分かるから、私たちは神に従っていくのではありません。もしすべてのことが分かるならば、本当にそれは頼りない神だと思います。神と私たちとは、そんなに違いがないからです。神の考えていらっしゃること、神のご計画は、私たちには悟りえないはずであります。
神は主権者だから、神は神だから信じ、従わなければならない。すなわち無条件に、絶対的に、神に信頼を置く。これがヨブの最終的にとった立場だったわけです。

同じような経験は、アブラハムもしました。
アブラハムは創世記の22章の中で、ひとり子のイサクをささげよと言われたときに、本当にこれは分からなかったと思います。
神が約束によって与えられた、そのひとり子イサクをいけにえとして火で焼いてささげよっていうこの神の声を聞いたときに、アブラハムはホントに彼の信仰の分かれ道に、分岐点に立たされたはずです。
アブラハムがこの神の命令に、彼が分からないけれども、まったく理不尽だけれども従ったっていう、その決断といいますか、彼が本当に信仰に立ったっていうそのことが私たちの、大きく言いますならば私たちの人類の祝福の基となったと言ってもいいと思うんです。

アブラハムにとっては大きな分かれ道でした。しかし彼は絶対的な無条件の信頼を主に寄せました。それこそが本当の信仰ではないでしょうか。
私たちクリスチャンは、一人一人はこういう試みに遭わされるのじゃないでしょうか。たとえ自分はどんなに考えても、正しいと思っても、自分にはそういう仕打ちを受ける理由はないと思ったとしても、未信者からも、信者からも有りうるんですよ。
私にはそういう仕打ちを受ける理由はどう考えてもない、どんなに主の前に吟味してみても、自分に落ち度があるとは思えない、ということがあるかもしれません。
しかしひっどいつまずきを与えられることがあるかもしれません。しかしたとえ何があっても、私たちは自分の、自分自身の理由によって動くのではなくて、ただ信仰によって、信頼によって歩まなければならないんです。
そうしなければ、私たちは早晩信仰から離れていってしまいます。

受け入れる理由があるからじゃないんですね。自分に与えられたこと、受け入れる正当な理由があるから受け入れるんじゃないんです。たとえ正当な理由がないように思えても、主がなさるから受け入れるんです。そこに立つときに、私たちは揺るがない土台に立つのではないでしょうか。

マルティン・ルターは、神の御心ならば地獄の苦しみをもよしとして受け入れようというに言っています。神が「地獄に君は行け!」というならば、これが主の御心ならば、「私は行く!」ということであります。
すなわちこの世に神がなされることは、たとえどんなことであってもそれを受け入れる、喜んで受け入れる、これが信仰だとルターは言いました。
地獄のような苦しみであっても、主の御心ならばそれを喜んで受け入れる、主が一緒にいらっしゃるところが天国なんですから、どんな苦しみの中にあっても、私たちが主の御心を喜んで受け入れるときに、そこには本当に主の豊かな平安が実現されるのではないでしょうか。

逆説的な言い方ですけども、たとえ地獄であっても主の御心ならばそこに行きます。それはもう地獄ではないんですね。それは天国であります。
なぜなら苦しみであっても、主の御心であれば、私たちは喜んで主とともに歩むことが出来るからであります。

私たちの周りには、確かに分からないことだらけであります。人生っていうのは本当に謎に包まれております。
どんなに考えても私たちは自分の理解力によって人生の謎を解くことは出来ないと思います。ただ人生の謎を解く秘訣はただ一つです。神がなされることは、何であっても然りとして受け入れるという態度であります。
このときにだけ、私たちは人生の謎を解くことが出来ると思うんです。主がなされることであれば、それをよしとして受け入れるんです。

パウロは、イエス・キリストのゆえにすべては然りだというふうに書いております。
イエス様が、イエス・キリストを通して、神がご自分の救いを提供していらっしゃるがゆえに、イエス・キリストによってどんなことでも私は喜んで受け入れるっていうふうにですね、パウロは言ってるんですね。これこそが本当の信仰ではないでしょうか。
これこそが本当に磐石な土台に立つところの信仰ではないでしょうか。

私たちが分かるからじゃない、自分のために好都合だからじゃない、神は私たちが好都合にだから従おうなんて言うならですね、自己本位の信仰をもっているときに、それを打ち砕かれます。それを粉々に砕かれるときがやって来ます。
神はそういう神ではありません。私たちが一つの手段として、神を用いることが出来るかのように考えるならば、神に対する侮りであります。聖書の神はそんなにちっぽけな神ではありません。実に偉大な方であります。

内村鑑三っていう、あの明治の優れたクリスチャンが、アメリカの無名の人が詠った詩を訳してる一節があります。

涙の谷や笑みの園
悲しみは来ん喜びと
喜び受けん二つとも
神の御心ならばこそ

っていう、長い詩の中の一節ですけども、私は非常に好きで、全部それは暗記しておるんですけども、そん中の一節ですね。
涙の谷や笑みの園

涙の谷であっても、喜びの園にいるようなときであっても、悲しみが来ようとも、その悲しみを喜び受けようっていうんですね。

悲しみは来ん喜びと
喜び受けん二つとも
神の御心ならばこそ

神さまの御心であれば、私はそれを喜んで受けようというのがその意味であります。
私たちは、自分に与えられる事柄をすべて、どんなにそれが表面的に残酷に見えようとも、主がなしたもうことを正しいと
してそれを受け取らなければならない。
これこそが聖書が言っている信仰ではないかと思います。




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