引用聖句:マタイの福音書7章13節-14節
ルカの福音書13:22-24
しばらくご一緒に聖書のみことばを学んでみたいと思います。今お読みいただいたみことば、非常に有名なみことばであります。 狭き門。力を尽くして狭き門よりいれという言葉は、クリスチャンでなくても多くの人々が知っているみことばであります。 イエス様は、お読みしたように、救いに、いのちに至る門は小さく、狭い。それを見いだす人もまれだと仰ったのです。「主よ。救われる人は少ないのですか。」という問いに対して、努力して狭い門からはいりなさい。全身全霊を尽くして、救いに対して心を備えなさいということなんです。 救いに対して、私たちは全身全霊をあげて突進して行かなければならない者なんです。救いは決して、片手間の問題ではないんです。どうして救われるということが、そんなに難しいのでしょうか。救いの道はどうして、救いの門はどうしてそんなに見出しがたいのでしょうか。 私たちは心砕かれなければ、打ちのめさなければ、本当に自分自身に対してまったく自信を失わなければ、見ることのできないものがあるんです。私たちが日頃見てるようにしては見えないものがあります。低くなって、本当に、人がまったくくづ折れて、その涙の中からでなければ見えないものがあるんですね。 いつかも言いましたように、深い井戸の中からは、そこからは真昼でも空の星は輝いて見えるそうです。そういうふうに、私たちが問題のどん底に落ちて、やみの中に落ちなければ見えないものがあるんです。神さまの光はそうなんです。 哀歌3:25-31
というみことばがありますね。 人が若い時にくびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわってるがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。 口をちりにつけよ。本当に、地べたに這いつくばって砕かれて、そして初めて見れる世界があるというのであります。 イエス様の救いの門っていうのは、私たちに何の問題もないときには、決して見ることのできないものであります。自分の人生がやみに閉ざされて来て、まったく人生が、自分が今までと考えたのは全然違うということに気付いて初めて、私たちは神さまの御声が聞こえるようになるのであります。 どうして救われるのがそんなに難しいのだろうか。それは私たちが正直になること、謙遜になることが難しいからであります。本当にへりくだることが困難だから、救いを見いだすことが難しいのであります。 自分の弱さや、愚かさや、みじめさを、人が正直に認めて、それを告白するようになるということは、大変なことなんです。 私たちは幾重にも鎧を着て、自分自身を幾重にも守って日頃生きてるわけです。ですから、何の問題もないときには、自分の本当の姿すら、自分でわからないのであります。 救いが見いだしがたいのは、私たちが正直になることが難しいから、本当の意味でへりくだることができないから、自分について事実を事実として認めて受け入れることが、人間にとって至難の業だからであります。 「神さま、私を助けてください。私をあわれんでください。」と、本当に叫ぶことがなかなか容易ではないからであります。 救いの門は、私たちが低くならないと、私たちの目に入ってこない門なんです。私たちは、最後の最後まで何とか自分の体面を保とうとして頑張るからであります。そのために、救いの門が見えないのであります。 人間の一番厄介な性質は、自分を誇ろうとする誇りであり、自負心であり、自尊心であります。それを保とうとして汲々として生きている。これが神さまから遠く離れている人たちの姿であります。 そのために、私たちは疲れ果てているわけです。一生懸命になって、自分の破れが外に表われないように、一生懸命私たちはそれを取り繕うのに必死なんです。 神さまの前に自分自身を明らかにする、さらけ出す、投げ出すことをしようとしないで、私たちは身構えているからなんです。だから神さまの救いが私たちの目に入らないんですね。神の救いは、私たちのすぐ近くにあるんです。 聖書にありますように、それは決して遠くにあるものじゃなくて、私たちのすぐ前に置かれてるものです。ですけれども、私たちが神の御前に自分自身を本当にかたくして、身構えているからであります。 心開かない限り、私たちは神さまとの本当の交わりを得ることができませんし、神さまは私たちを導くことも、教えることもできないのであります。 ちょうど、身構えている人は、魚のハリセンボンてなようなもので、針をいっぱい突き立てて、人が触れないように、自分に触らないように、自分の痛いところについてこないように、全身これ鎧のようにして身構えているものなんです。身構えている人とは、付き合えないもんです。 人間同士でもそうですね。構えておると付き合えません。たとえ付き合っても、それは形式的、表面的なものでしかありません。敷居の外側だけでの儀礼的な付き合いであります。心の中に入ることができないのです。 ですから、神さまは人を導くことができない。ご自分の救いにあずからせることができないのであります。 ヨハネの黙示録3:20
神さまを知るってことは、人間の理解力によっては絶対にできないことです。神さまの救いも人間の理解力によってつかまえることは、絶対にできないことなんです。神は、私たちが理解力によってつかまえることのできるほど、小さい方ではないからなんです。 何によってできるかと言ったら、このみことばにあるように、ただ心を開くことによって、神さまに自分のありのままを明らかにすることによって、神さまを信頼して、神さまに心開いて、神さまを受け入れることによってだけ、人ははっきりと救いが何であるかを経験することができるのであります。 心を開くということは、さっきも言いましたように、素直に、正直になることなんです。謙遜になることなんです。見せかけを捨てるということなんです。 本当の自分をそのまま、幼子のように神さまの前に表わすことなんですね。そのときに本当に、神は私たちに御手を伸べてくださるわけです。神さまの前に肩をいからせないことですね。 本当にありのままの自分を正直に表わすことであります。自分を顧みて、自分を本当に立派だと思ってる人は、一人もいっらしゃらんのではないかと思うんですね。 本当にそういうふうに思ってる人は、おそらく精神的な病気か何かの人ではないかと思うんですね。自分を顧みて、本当に私は本当に立派な者だと思う人は、ぼくは本当にそう思っていいと思うんですよ。無理に、私は本当につまらんもんですと言うのは、やっぱりこれは偽りになりますから。 神さまは決してそういう、いわゆるわざとらしい謙遜を好まれないんです。喜ばれないんです。わからないものは、わからない。神さま、本当にぼくは、私は自分も、罪人だと思いません。私はもう立派なもんだと思っておりますっていうんですね、言う人はぼくはそれがやっぱり正直だと思うんですね。 是非、そういうふうに、正直であってください。 教会に行くから、無理に自己批評をする必要はないんですね。だからパウロはそれは偽りだと言っています。わざとらしい謙遜は、偽りなんです。だから、わざとらしい態度を取る必要はないんですね。ですけども、本当に自分を吟味してみて、どんなに考えても私はやっぱり立派だという人は、やっぱり、これは病気ではないかと思うんですよね。 ときどきそういう方がいらっしゃって、私たちはお手上げになるわけですけども、自分自身を顧みると、実はそうじゃないんですね。恥多き人生なんです。 私たちは本当に、クリスチャンになっても自分は、過ぎ越し方を振り返ると、恥多き人生。頭を叩き、胸をガンガン叩かなければならないような、恥多き者であります。それが当たり前の判断ではないかと思うんですよね。 ガラテヤ人への手紙6:3-5
誇れることがあるように感ずるときがあっても、それは自分自身に対してだけです。人に対して誇れるものではないのであります。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある。私たちの過ぎ越し方は、恥に満ちております。イエス様を信じたとしても、私たちはそのことを痛みを覚えながらおおって、生きてるんです。 ある人は、クリスチャンでも、人間は誇りをまったく持たずに生きれるもんだろうかという、問題を提起してる人がいますけれど、確かに重要な問題だと思うんです。果たして、何の誇りも持たずに、いったい人間が生きれるもんだろうかどうかですね。 これはよく吟味してみる必要があると思うんですけども、しかし今言ったように、正しく吟味していくと、間違いなく私たちは、人に誇ることができないですね。神さまに誇ることができない。 自分で見て、あることは、われながらよくやったと思うこともあるかもしれませんね。それが全然ないっていうことも、またないかもしれませんけども、しかし人には確かに誇れるほどのものはない。神さまの前にもちろんないわけです。 じゃあ、何にも、人間は誇りをもっていけないかと言ったら、実はそうじゃなくて、ただひとつ、人間が大いに誇っていいことがあるし、誇るべきものがあるというんです。それは何かというと、神ご自身なんです。 誇る者は主を誇れ。これが、聖書が言ってることなんですね。神さまを誇るということはどういうことかというと、神さまを賛美することであり、神さまをあがめることですから、これは神が望まれることであるし、また私たちを健全にし、力を得させるものでもあるんです。 だからパウロは、私は誇るならば主を誇るべきだと書いてあるんですね。自分については、自分の弱さを誇ろうと彼は言いましたけれども、もし誇ることがなくて、生きることができないことが本当であるならば、神だけが誇られるべきものである。 神さまを誇りにするときに、人間は本当の意味で正しい誇りをもったことになるのではないかと思うんです。大いに、聖書が言ってるように、主を誇りたいものと思います。 ともかく、神さまを知らないうちは、私たちは自分の誇りで汲々としてるということなんです。そのために実は疲れてるんです。立派な人であるほど、しっかりした奥さんであればあるほど、しっかりせにゃならん、良妻賢母でならにゃならん、人に後ろ指指されちゃならん、こういうことで疲れ果ててしまってるんです。自分自身だけで空回りをしてるんですね。 疲れ果てて、そしてそれが虚しいものであること、やろうと思えば思うほど、破れが出てきてですね、覆い隠さなければならないのが、次々出てきて、自分の内面の矛盾に気付いて、疲れ果てて、そして福音に触れる方々も実に多いんです。 その努力が無駄とは言えませんけれども、それはやっぱり間違っているわけなんですね。イエス様と出会って人々がホッとすることは、本当に重荷が、肩の重荷が降りることを体験するのは、実はそのことなんです。 私は別に自分自身を守らなくてもよい。自分を、自分の自負心を堅く立てようとしなくてもよい。私は本当に、ありのままでよい。みじめな者であることを正直に認めて、主を誇ること。このことを知ると、人々は本当に重荷を降ろすことができるんです。解放されるんです。自由になるんです。 聖書は、イエス様は、真理はあなたがたを自由にしますと仰いました。クリスチャンの特徴は、自由にされた者だということなんです。私たちは、自分を誇らないから、自分に対するそういうものが重荷でしかないということに気付いたから、虚しいものであるということに気付いたから、もうそれをきれいさっぱりとあきらめて、投げ捨てた者なんです。代わりに、イエス・キリストの自由をいただいた者なんです。 自分に縛られてる限り、自己追求をしてる限り、自分をたてようとする限り、人は結局窮屈なもの。これが律法主義です。結局、本当の自由を得るのではなくて、束縛されます。 イエス様は、私たちに自由を得させるために来たと仰いました。自由は神ご自身にだけあるものなんです。イエス様にだけあるもんですね。 ですから、私たちは自分ではなくて、イエス・キリストを誇る。イエス・キリストにあって、すべてのものが与えられていることを喜ぶ。これがクリスチャンの自由の根拠であります。 どうして、救いの門は狭いんでしょうか。どうしてそれを見いだすのが難しいんでしょうか。 繰り返し言いますように、神さまに対して心を閉ざそうとするからなんです。身を堅くして、神さまの前に構えているからなんです。それが、救いを困難にするただひとつの原因なんです。 救いが難しい理由は、神さまの側にあるのではなくて、私たちの側にあるのであります。 ヘブル人への手紙3:15
ヘブル人への手紙3:13
罪の性質は、かたくなにする。ということなんです。 私たちの心がかたくなになってくると、私たちは罪に引かれているということになるんですよね。罪に惑わされてかたくなにならないように、身を堅くすることですね。 私たちのその自負心を、面子を、体裁をかなぐり捨てて、主に叫ぶとき、神さまに叫ぶときに、神さまは必ず私たちにご自分を現わしてくださるんです。 マルコの福音書9:14-27
つんぼの霊、てんかんのような症状表わしているようですけれども、お父さんはその子を連れてイエス様のところに来たわけです。 ところがこのお父さんの問答を見てみますと、22節をもう一回見てください。 マルコの福音書9:22
この22節の、「ただ、もし、おできになるものなら」っていう、この父親の態度はちょっと、おや?と思うんですね。かなり紳士的なんです。 もし、できるなら、ひとつお願いします。実は、ここにこのお父さんの問題がありました。神さまの前におけるこの紳士的な態度は、実は神さまに対する侮りであります。 お父さんは、余裕綽々のような態度をして取って見せました。もし、できるなら、ひとつよろしく頼みます。お父さんはやっぱり、砕かれようとしませんでした。体面をかなぐり捨てようとしませんでした。 そのところにイエス様は目を留められたんです。この父親がまだ、すこし、最後のあるところ、まだ自分を砕かせようとしない、自分を守ろうとする、そういうところがあることをイエス様が見られたんです。 できるものならと言うのかと、イエス様は仰ったんです。おそらくお父さんは、心を刺されて驚いたでしょう。恐れを感じたでしょう。すべてのものが見通されていることに気付いたでしょう。24節の言葉は全然違います。 マルコの福音書9:24
彼は、そのときに初めて砕かれたのであります。神さまの前に、「これくらいなら、神さま、言うこと聞いてくださるんじゃないか。もうちょっと、じゃあひとつ、へりくだろうか。こういうことはダメなんです。 そういうような計算は、神さまの前における不真実であり、偽りなんです。神さまに対する侮りなんです。神は私たちが本当に、神さまの前に叫ぶこと、神さまの前に自分自身を本当にあらわにすること、かなぐり捨てることが、神が要求なさることなんです。そこまで私たちは、正直に砕かれて、出るべきです。 この父親の態度に、このことが示されているんです。この父親は、このときに初めて砕かれました。神さまへの侮りを取り除かれました。 私たちが神さまの救いを本当に受け取ることができない理由もそこにあるんです。 ルターが言ったというように、神さまの前に私たちは、紳士淑女な顔をして出てくることはできないんです。神さまの前には私たちは、あわれむべき罪人なんです。ただ叫び、叫ぶよりほかにない。あわれんでくださいと叫ぶよりほかにない者たちなんですね。 そこに立って初めて見えるということなんです。そうでなければ、救いの門は見えないんです。 私たちの肉の目には神さまの救いの門は見えません。マタイの福音書8章を見てください。どういう人がこういう立場に立つことができたかと言ったら、本当の意味で望みのない人たちだけが、ここに立つことができたんです。 マタイの福音書8:1-3
このらい病人は、もう自分のうちに何かをまだ保留しようとするところはありませんでした。もう、彼にはそういうことは不可能だったんです。彼はまったくみじめな、望みなき者でした。彼は砕かれ尽くして、イエス様の前に本当に人目もはばかるべきらい病人なんですけども、らい病人は、当時のらい病人は、群集の中に出てはいけなかったんですけども、彼は、 (テープ A面 → B面) 私をきよくすることがおできになると彼は言いました。ここまで立つときに、神さまは私たちを自由にもちあげることができ、自由に私たちをいやすことができるのであります。 マルコの福音書10:46-52
「ダビデの子のイエスよ。私をあわれんでください。」と、彼は大声で叫び始めたと書いてます。人々が押し留めようとしましたけれども、彼は一向に頓着しませんでした。 彼はすべてのものをかなぐり捨てて、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がってイエスのところに来たと書いてあります。私たちが本当にこういう態度を取るならば、ここまで砕かれるならば、自分のこういう本当の痛み、悩みを主に打ち明けると、どうもまずいんじゃないだろうかこういうことを、こういうことを正直に言えば、みんなから笑われるんじゃないだろうか、そういうことは神さまの恵みを閉め出す理由になってるんです。 神さまは私たちが本当に、このバルテマイのように、あのらい病人のように、また、「信じます。不信仰な私をあわれんでください。」と言った、あの父親の叫びのように、本当に私たちがすべてのことを、ありのままに主に叫ぶことを、実は待っていらっしゃるんですね。 私たちは色んなことをまだ留保してるんじゃないでしょうか。「まだ、まだだ。」と思ってるんじゃないでしょうか。本当に神さまに、すべてを投げ出して、本当に神の救いを受けなければならないと思ってるでしょうか。 これに対して、例えばニコデモの記事をちょっと読んでみましょう。ヨハネの福音書の3章を見てください。少し余裕ある人々をちょっと見ます。 ヨハネの福音書3:1-4
このニコデモは、確かにある問題を感じていたようです。彼は自分が真理を知らないこと、彼が確かなものを何も知らないことを気付いてきたようです。彼はもう晩年でしたから、人生の夕暮れが迫って来ている、そういうことを感じていたようです。そこに、イエス・キリストという不思議な人格が現われて、まったく見たこともないような、聞いたこともないようなことを語り、行なわれる。 彼はこの、ちょうど夏の夜の虫が、灯りに吸い寄せられるようにして、このイエス・キリストという不思議な人格のところに近づいて行く人なんです。 彼は当時のイスラエルの指導者であり、律法学者ですから、当時の大した者なんですよ。 しかし彼は、自分のうちに何も確かなものがないことを、本当に自分は「これだ!」って言えるものがないことを知っていました。長い間人々を教えながら、自分自身、本当のものを知っていないことに気付いていました。だから、夜ひっそりとイエス様のところを訪ねて行ったわけです。 彼は、確かに真面目な求道者でありました。しかし、ニコデモはこのとき、イエス様に向かって、「助けてください。」と、叫んでいるのではないのであります。ニコデモにはまだ救いまでの時間がかかっているのはそのためです。 ニコデモは後に、どうもイエス様を信じたらしいことが、聖書にもう一箇所出てきますけれども、ニコデモはこのときに、「助けてください!」と叫んでいるのではないんですよね。 色々と質問をして、聞いているわけです。こういうところに、さっきのバルテマイたちとの、あるいはらい病人との、ニコデモとの間の距離があることがわかるんですね。 もう一つ。 マルコの福音書10:17-20
自他共に真面目であり、人並み以上に自分を立派だと自認してるところの青年であります。彼は、自分が救われなければならない人間などとは、全然考えてはいないんです。 私はそれらのことを全部、小さい時から守っています。私にはいったい何が足りないんでしょうか。彼はこのように言ってるんですね。彼が救いについてわからないのは、当たり前であります。 「助けてください。私をあわれんでください。」、こういうふうに私たちが本当に、神さまに叫ぶのであるかどうか。そこが問題なんですね。 ダビデ王の告白、詩篇の51篇を開けましょうか。このダビデ王という人は、旧約聖書の中でもっとも祝福された人だと言ってもいいと思いますね。本当に聖書の中には、旧約聖書の中にはもう、ダビデの記事がいっぱいあるわけですけども、ダビデの記事を取ったら、旧約聖書は半分くらいになると言われております。 救い主が、ダビデの子孫から生まれると言われたように、イエス様のお名前はダビデの子とまで言われたのですから、いかにこのダビデという人が、神さまの祝福に溢れた人生を送った人であるかは、わかりますね。 そのダビデは、自分をどういうふうに見ていたかということなんです。 詩篇51:1-3
詩篇51:7
詩篇51:16-17
神さまにもっとも祝福された人は、自分が本当にあわれむべきもの、神さまによって洗ってきよめていただかなければならないものということを、よく知っていました。 彼のたましいは砕かれていました。何ひとつとして、神さまの前に持ち出すすることのできるものは、ダビデにはありませんでした。本当にこういう砕かれたたましい、神さまの前にくづ折れてるたましい、これが神さまの前における真実な人間のあり方であります。 このたましいに神は、御手を伸べてくださるのであります。 詩篇130:1-6
この人は、深い淵の中から神さまを呼び求めているんですね。 神さまを知らない人は、あるいは神さまを要らないなんて思っている人は、自分がその深い淵にいるという、そういう認識はもちろん全然もたないんです。 この詩篇の130篇をくだっていくと、自分が深い淵の中にいることをよく知っています。ダビデもまた砕かれて、本当にダビデの自己認識と、さっきのあの富める青年の自己認識との間には、雲泥の差があるんです。月とすっぽんぐらいの違いがあるんです。 しかも、だれが正しいかと言ったら、ダビデの方が正しいし、ダビデの方がはるかに神さまの前によしと認められているんです。 結局、私たちが神さまの救いを見いだすことができないのは、盲目だからなんです。自分自身に関して。 この盲目さを取り除くために、ときとして神は、耐え難いような、私たちがもううめくような試みを与えられるんです。それがなければ、人間の目が開かれないから、砕かれないからなんですね。 地にあなたの口をつけよ。ちりにつけよ。人間が砕かれて、本当に地にひざまずく、そのときに初めて、私たちは神さまの救いの御手が開かれていることに気が付きます。 神さまの救いの御手は、私たちの周りに、完全に張り巡らされているものなんです。だから心配ないですね。だから私たちがそれを見いださないから、見いだそうとしないからであります。 ローマ人への手紙の10章を読んで終わりたいと思います。 ローマ人への手紙10:12-13
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」と、聖書は約束してるんですね。バルテマイのように、ダビデ王のように、主を呼び求める人は必ず救われるんです。 もしできるなら、救ってくださいなんて言ってる間は、神さまは救うことができないんですよね。その人はまだ、気付くべき自分のことに気付いていないから。 そういう人は、本当の意味での悔い改めが何であるかをまだ知っていないからなんです。そういう人はまだ自らを偽ろうとしてるからなんです。神はただ私たちが真実に、神さまの前に正直に出るときにだけ、私たちと交わることのできる方なんです。なぜなら神は、真実そのものの方だからなんです。 だから、本当に神さまの前に自分のありのままを訴えてください。どうぞ、自分を取り繕うとしたり、自負心を保とうとしたり、自尊心をまだ守ろうとしたり、そういう頑なな態度、愚かな態度を捨ててください。そうすれば、必ず救いの門がそこにあることに気が付いてきます。 私たちの方に問題があるからなんですね。神さまは大きく救いの門を開いて、私たちを招いていらっしゃるんです。どうぞ、このいのちの門にお入りください。 そこに真理があること、永遠のいのちがあることを私たちは知って、おそらく驚くことでしょう。本当に自分が盲目であった。そのことを気付くはずです。 救いがありますから、どうかご安心ください。そして是非、それをご自分のものとして、受け取っていただきたいと思います。 |