引用聖句:ヨハネの福音書3章16節
ごいっしょにしばらくの間、聖書から考えてみたいと思います。 どこにも望みのない絶望的な人生から、暗やみの人生から、がんじがらめの罪の状態から、神さまのあわれみによって救い出していただくことほど、簡単なことはほかにないと言っても間違いではありません。 けれども同時に、この救いに至る信仰の道ほど油断のならないもの、難しいものもほかにないと言ってもいいかもしれません。 ですから、この世の理屈では意味が通らない言い方かもしれませんが、信仰ほど容易で難しいものはなく、救われるということほど、簡単で困難なものもないと言えるかもしれません。 そんな訳のわからない言い方では困るではないか。もっとわかるように、ちゃんと筋の通るように話してもらわないと困るではないか。 と仰るでしょうから、できるだけ意味が通ずるようにお話したいと思いますが、しかしイエス様のみことばにも、またパウロのことばの中にもそのような、一見意味不明のことが多く記されているということを、私たちはやっぱり覚えておかなければなりません。 信仰の真理と、霊的な事実と、この世の単なる論理とは、そう同じように一致するものではないのであります。 聖書は、「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」とすべての人々に呼びかけています。 ヨハネの黙示録22:17
ヨハネの黙示録21:6
ただで主は私たちに救いを与えよう。いのちの水を与えようと仰っているのであります。 ヨハネの福音書7:37-38
イエス様は大声で言われました。神さまは私たちが救われるようにと叫び続けていらっしゃるのであります。 旧約聖書のイザヤ書45章22節。 イザヤ書45:22
イザヤ書55:1-3
聖書の全体を通して神は叫んでいらっしゃるのであります。 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。代価を払わないでぶどう酒と乳を買え。金を払わないで、穀物を買え。わたしのところに出て来い。そうすれば、あなたがは生きる。」 聖書は神さまのこのような呼びかけに満ちているということが言えます。 「そっちではない。こっちである。わたしのほうに来なさい。わたしのもとにこそ、いのちの満たしがあり、憩いと安らぎがあり、希望と力とがある。」 「すべて、疲れている者、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい。」 このように聖書はすべての人に対する招きの声に満ちているということがわかります。主は叫び続けていらっしゃいます。 テモテへの手紙第I、2:4-6
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられると書いてあるのです。 すべての人が救われること。これが神さまの切なる願いであるということがわかるのであります。あちらこちらいきますけれども、 イザヤ書49:15
母親が自分の子どもを忘れることがあったとしても、わたしはあなたを忘れることは決してない。このように主は仰います。 同じく54章。 イザヤ書54:7-8
同じく10節。 イザヤ書54:10
永遠に変わらぬ愛をもって、主は私たちをあわれむ。たとい山々が移り、丘が動いても、主の愛は変わらないと主は仰せられる。このように聖書は繰り返し教えています。 神さまの愛はほとばしり出て来るような熱い愛であります。熱い愛だからこそ、神さまは時々怒りをもって私たちのかたくなさや、心の冷たさを責められるのであります。 怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。 私たちが何べん主の語りかけを聞いても、心をかたくなにするから。主のみことばに対して私たちがいい加減な態度ばかり取ろうとするから、主はときとして私たちを鞭で打ち据えられるときもあります。 それは主の愛が熱い、燃えるような愛だからであります。 どんな態度を取られてもいつもニコニコ。そんな方ではないのです。 主はご自分の愛に対して、私たちもまた心から答えることを要求しておられます。 ご自分の愛に対して、私たちもまた同じように熱心な愛をもって答えるようにと主は切に願っていらっしゃるのであります。 それをいつも知らんぷり。いつも主の語りかけをそらして、いつも主の語りかけを真っ直ぐに受け取ろうとしないときに主は、怒りをもって、私たちから顔をそむけられる。「しばらくの間」、と主は仰るわけであります。 神にとってすべての人間がかけがえのない愛の対象であります。人間の間に区別はあり得ないのであります。 神はすべての人を救いたい。永遠の祝福をもって祝福したい。ご自身の栄光を受け継ぐ者となってもらいたいと切に願っていらっしゃるのであります。 神ご自身が、これほどに私たちを救いたいと願っていらっしゃるから、だから人が救われることは非常に簡単なものであるはずです。 神の、この切なる願いと愛をもっともはっきりと示しているものこそ、イエス様の十字架の犠牲にほかならないと聖書は言っているのであります。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神はご自分のすべてを投げ出して、私たちを救いに招いてくださっているのであります。 神さまがこのように、私たちひとりひとりを救いたい、祝福したい、ご自分のすべてのみわざを継ぐ者、ちょうど父親の遺産を子どもが受け継ぐように、私たちを神の相続者にしたいと願っていらっしゃる。 ご自分のひとり子を十字架に架けるまでに願っていらっしゃる。だから救われることが非常に簡単なはずであります。 それでは、神さまのこの救いの招きを私たちが受け入れて、その救いを自分をものとするには、いったいどうしたらよいのでしょうか。 人はどうしたらいったい救われるのでしょうか。どうしていったい救いというのはこれ以上簡単なものはないと言えるのでしょうか。私たちが救われるためにはこのことが必要です。 私たちが心を開いて、神さまの愛を素直に受け入れることが必要です。すなわち神さまのご愛に応えて、私たちも心から神ご自身を、イエス・キリストご自身を愛するということが必要であります。人を救うまことの信仰とは、実はこのことにほかなりません。 信仰とはいったい何ですか。私たちを罪から救う信仰とは何か。一言で言うならば、私たちが心から主を愛する者に変えられるということ。主を心から慕う者と変えられることであります。 私たちが今までの心のかたくなさを捨てて、主に対して警戒し、いつも心を閉ざそうとしている、その態度を捨てて、素直に主の前に心を開くこと。主の愛を受け入れること。そして素直に真っ直ぐに主を愛すること。 これを人格的な関係と昔からクリスチャンは呼んでいます。 神ご自身との人格的な関係。非常に簡単なことです。主に愛され、主を愛する者となること。 何の心の隔てもなく、何の主に対する秘密もなく、ありのままに主に自分の心を開いて、自分自身を主の光のもとに出して、主のもとに私たちがこうべを垂れて、主に受け入れていただくこと。そして主を受け入れること。 この主ご自身との愛の交わりこそ、愛の繋がりこそ私たちを本当の意味で生かすところの信仰であり、私たちを罪の暗やみから解き放つところの信仰であります。 私たちの心が主に対して開かれ、主を喜ぶように変えられると、私たちは自然に今までの罪の束縛から解き放たれるようになっていくからなのです。 主を愛するように私たちの心を開くことであります。私たちの心の扉を主に対して開くことであります。 「わたしは、戸の外に立ってたたく。わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、この人のところにはいっていく。」、イエス様はそのように仰いました。 ヨハネの福音書14:23
もし私たちが主を愛するなら、わたしたちは主のみこころを大切にします。愛する人の心の思いを私たちは大切にするものです。 相手が何を考えているかなどということを全く念頭にいれなくなると、私たちはその人に対して自分の心は冷えているということです。 相手の心を大切にし、相手が何を考えているか。それを大切に受け取ろうとするときに、私たちはその人に対する愛を持っていることになります。 ですから主はこのように仰っているのです。だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守る。わたしのことばを大切に受け取ってくれる。これは主の仰せだから。これは主のみこころだから。私はこれを大切にします。 このように、主に対して私たちがこのような態度を取るなら、わたしの父はその人を愛しわたしたちは、すなわち御父とわたしは、イエス様はその人のところに来て、その人とともに住むと主は仰っているのです。 ヨハネの福音書14:15
ヨハネの福音書14:21
聖書の真理は私たちが心を開くことなしに、ただ頭で何か森厳な真理や救いと言われているものを理解しようとしても、絶対に人はそれを知ることはできません。聖書はそのように語りかけていないからです。 主に対して心を開くことなしに、すなわち主が私たちに語りかけている、その愛の招きに対して、自分自身の心を開いて主の愛を受け入れ、主を愛する者となる。この主との生きた交わりの中にはいることなしに、私たちは聖書が何を語っているのか理解することはできません。 すなわち、聖書の真理のみことばは私たちの心の内側にはいってくるものであって、私たちの理解力に訴えるものではありません。 主が問うていることはただ一つなのです。「あなたはわたしを愛しますか。」、「あなたはわたしの愛を受け入れますか。」、このことだけを主は問うていらっしゃるということなのです。 心を閉ざしたまま、冷たい心を主に向けたまま、救いとは何か、真理とは何か、どうか私に教えてほしい。ご教示願いたい。そういうものではないのです。 主は、わたしを愛するなら、わたしもその人を愛し、わたしはその人のところに来て、その人とともに住む。と仰っているからです。 ヨハネの福音書15:10
こういうことを、誤って律法主義的に考えてはいけないのであります。 主の戒めを守る。これを間違って、いわゆる律法主義と勘違いしてはいけません。主を愛するなら、主の戒めを大切にします。主をないがしろにしていながら、主を愛するということはあり得ません。 神さまをないがしろにして、神ご自身との生きた交わりを持つことはできません。神を軽んじていながら、主の啓示を受け取ることはできません。 ですから、主を愛するというときに私たちは主のみことばを恐れをもって、深い関心をもってこれを大切にします。 ですから主の戒め、主の掟というものは決して忌まわしいものではありません。 主のみことば、主の戒めは文字通りいのちに満ちたものであります。主を愛するなら、主が喜ばれることを喜ぶものです。 心から喜んで主の御胸を大切にする人は、主を愛し主を慕う人です。ですからイエス様は繰り返し、繰り返し、わたしの戒めを守る者は、わたしを愛する者です。と仰っています。 詩篇の42篇の1節。「コラの子たちのためにマスキール」となっていますけれども、有名な詩篇であります。 詩篇42:1-2
神さまに心が、たましいが渇いて、もう慕いあえぐ。主を慕い求めてやまない。こういうふうに人が変えられればもうほかのことは何も要らないと言っていいと思います。もうすべてをその人は持っています。 このような、主を心から喜び慕うがゆえに、主のみこころ、主の戒め、主の道に目を留めて歩むという姿勢が、そういう生活の基調になるということ、これがクリスチャンの生活ということになるのではないかと思うのです。 ですから、主に対する生き生きとした心も思いなしに、神さまに対する生き生きとした、この主を慕い求める思いなしに、単にこれは神さまの戒めだから守らなければならない。 これによって救われるのだ。これによって義と認められるのだということが結局、簡単に言ったら律法主義、パリサイ主義ということでしょう。 聖書が言っている本当の律法の意味はそうではありません。 パウロが言っているように、律法は真理の具体的な現われであります。神のみことばですから。それは真理であり、いのちに満ちているものであります。 ただ私たちが主を本当に慕うようになると、そのみことばは私にとって本当に麗しい、香ばしい、すばらしい宝物になるわけであります。 詩篇の119篇。この作者はだれかわかりませんけれども、この人は本当に主の戒めがどんなにすばらしいものかということをよく知っていた人であり、それを詩っているわけです。 詩篇119:14
詩篇119:18
詩篇119:72
詩篇119:77
詩篇119:103
詩篇119:111
主のさとし、主のみことば、主のみおしえ、主の戒め、主のさとし。いっぱい同じ意味が使われていますけれどもこの人は、主の自分に語ってくださることばのひとつひとつが、自分にとってはどんな宝物よりもまさると、よく知っていたのです。 罪とは何か。一言で言えば、人がまことの主なる神に対して心を閉ざし、神さまの愛に応えようとせず、神を愛そうとしないことであります。 神さまの呼びかけに対して不品行としないこと。これこそが人を滅びに至らせる愛、罪であります。 神さまを愛する。イエス・キリストを愛する。そんなことをどうしてオレがしなければならないのだ。多くの人々はそんなことを馬鹿げたことだと思うのです。 かつて私自身もそうでした。神さまを愛するなどと何を訳のわからないことを言うのか。イエス・キリストを愛するなどということはいったいできるのか。そういうふうに考えていたのです。 そしてただ、何か聖書には森厳な真理があるらしいと思って、一生懸命聖書の話を聞き、聖書を読んでいたわけです。しかし主イエス様が、神さまが私たちに語っていることは多くのことではないのであります。 私たちが主を愛するか。主に心を開く用意があるか。主との交わりの中にはいる用意があるかということであります。 人は神を愛そうとしないこと。イエス様のこの呼びかけに対して答えようとしないこと。このことこそ人間を絶望と孤独の中に閉じ込め、ついに滅びに至らせる罪そのものにほかなりません。 私たちの行為が足りない。ああいう行為が不十分である。こういう行ないが足りないということ。もちろんそれも大きな問題かもしれません。 しかし根本的な問題ではありません。神はそういう罪に対してはいくらでも赦してくださいます。 主が私たちに語っていらっしゃるのはそういうことではないのです。「わたしのもとに来なさい。わたしの愛を受け入れなさい。いのちの泉であるわたしを愛する者となりなさい。そうすれば、あなたはいのちに満ちた者となる。」と主は呼びかけていらっしゃるのです。 私たちが神ご自身に対して素直に心を開き、主との愛の交わり、さっき言ったように、人格的交わりの中に素直に、正直にはいっていこうとしない限り、私たちは救いとは何か、真理とは何か、いのちとは何かということをいつまで経っても知ることはあり得ないのであります。 ですからイエス様はペテロに3回繰り返して、「あなたはわたしを愛するか。」と問い続けられたのであります。 多くのことが必要ではないのです。自分は本当に真っ直ぐに主を見上げようとしているかどうか。主の前にかたくなな心を捨てる用意があるかどうか。主の前に悔い改める用意があるかどうか。 そしてありのままに主の前に出て行き、主の赦しを受け入れ、主を愛する用意があるかどうか。これだけが大切であります。 この、主を愛する者、主の愛を受け取る者となることによって言わば私たちは、主のふところの中に、心の中に飛び込んで行くわけです。 神さまをシャットアウトしながら、心を閉ざしていながら、聖書の回りをグルグルグルグル回っていることではなくて、福音の門の外側をグルグル回ることではなくて、主のこの呼びかけに対して、 「私の根本的な誤りはこれでした。主よ。私はあなたを愛そうとしませんでした。主を愛するなどということは生まれてこのかた考えてみたこともありませんでした。私はただひたすら自分を愛することしか知りませんでした。これこそが自分の人生の破綻の根本原因なのである。」 こういうことを本当に気付いて、主のもとに立ち返らなければならないのです。 私はヨハネの福音書の14章をかつて読みながら、本当に虚を突かれるような思いがしたのです。 聖書の救いを求めて、繰り返し聖書を拝読していながら聖書がわからない。その中で、「わたしを愛する者は、わたしの戒めを守る。」、主がこのように仰っていることに虚を突かれるような思いがしたのであります。 なぜなら私は、生まれてこのかた先ほども言ったように、一度も、頭の中でほんの少しでも主を愛するなどと思ったことがなかったからです。 ただひたすら自分を愛し、自己追求に凝り固まって人生を歩んで来た。聖書が罪と言っているのはこのことにほかならない。 あのアダムとエバが神さまの愛に背を向けて離れて去ったときに、人類に罪がはいってきたと聖書が言っているのはこのことにほかならない。 救いとは主の愛を真っ直ぐに私たちが受け入れることです。ありのままに。これまで主を愛そうとしなかった自分の過ちと愚かさを主の前に本当に悔い改めて、主のもとに立ち返ることです。そうすれば、私たちは確かに永遠のいのちの水がその人の内から湧き出るであろうとイエス様は仰っている。自分の内から主のいのちが湧き出てくることを経験するのであります。 救いに至るまことの信仰とは何か。一言で言うと先ほど言ったように、私たちが主を愛する者、主を慕う者と変えられることであります。 ですからパウロは非常に激しいことばをもって、逆説的に言ったのです。 コリント人への手紙第I、16:22
コリント人への手紙第Iの16章の中に彼はそう書いています。最後の挨拶のことばとして書いています。 コリント人への手紙第I、16:22
恐ろしいことばですけれど、パウロは主を愛すること、ここにすべてがかかっているのだということを知っていたということであります。 主を愛する者はすべてをもつ人です。主はその人とともに住まれるからです。 主を愛する人は救われるだけでなく、現に救われている人です。主がその人とともにおられるからです。そしてその人も、主が自分とともにいらっしゃるということを知るようになるからです。 ヨハネの福音書14:23
とイエス様が仰ったからです。 私たちの心が砕かれて、今までのかたくなさを捨てさせられて、主を愛するようになると、主は私たちとともにいてくださると私たちは知るようになります。 繰り返し言いますように、人が本当に救われるかどうかは、その人が主を愛するかどうか。主の愛を受け入れ、主に愛され、主を愛する者と変えられるかどうか。ただその一点にかかっているのであります。 こういう意味において、私たちはほかに何も要らないのです。心を開くこと、主の愛を受け入れること、自分の愚かさと過ちを主の前に認めること、方向転換をすること、主との間に秘密をもたないこと、主がすべてを知っていらっしゃることをわきまえて、主の前に出て行くこと。このことが人を本当の意味で救う信仰であります。 その人は永遠の御国を約束されるだけでなく、今現実に罪の力から解き放たれます。確かな希望をもって生きる人と変えられます。 |