出エジプト記1


蘇畑兄

(レトロテープ聞き取り)

引用聖句:出エジプト記19章1節
1エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。

神様の恵みは豊かであります。豊かに、神様の顔は恵みで満ちていると詩篇の中にありますけども、神様の恵みは無限です。このように、聖書のみことばを伝えるのは、神様の恵みの源からパイプをひくようなものであります。
わたしのように、みことばを学ぶ機会を時々与えられるのは、パイプなんですね。そのパイプがしっかりしていれば、聞かれる人々に恵みをしっかり伝えることができるのであります。
そうでありませんと、非常に不十分な学びになってしまいます。そういう意味では、神様の御前にも、聞かれる人々の前にも責任の大きさを感じます。

これから出エジプト記を少しづつ学んでいきたいと思います。この出エジプト記は、モーセの第二の書と呼ばれています。出エジプト記と書かれているのは、すべての聖書がそうではなくて、たとえばルターなんかのドイツ語の聖書では、モーセの第二の書となっています。創世記も、モーセの第一の書なんですね。
もともとのヘブライ語の聖書にも、創世記とか出エジプト記とかついていないのですね。
70人訳という言葉を、クリスチャンなら聞いたことあるかもしれません。昔、アフリカにアレキサンドリアって町がありました。アレキサンダー大王が建てたのです。そこに、紀元前に聖書をギリシャ語に翻訳したのです。
(注:紀元前3世紀中葉から前1世紀間に、徐々にヘブル語からギリシャ語に翻訳・改訂された集成の総称を、70人訳聖書と呼びます)

もともとヘブライ語でしょう?ヘブライ語は、ユダヤの地方の人しか読めませんから、ギリシャ語に訳したのですね。ヘレニズムと言って、当時の文化の中心はギリシャだったのですね。
ローマ帝国があのへんをみんな支配しましたけど、文化は、ギリシャの文化だったのですね。ギリシャの文化で、ギリシャ語が広い公用語として、用いられたのですね。
それが、Septuaginta(セプタギンタ)、70人訳と呼ばれている、旧約聖書のギリシャ語訳なんですね。

で、その人々、70人のユダヤの学者たちが訳した聖書で、出エジプトと名前をつけたのが始まりであると言われています。
よく私たちが、注意して聖書の隅っこを読んでみますと、「70人訳ではこうだ。」とか書いてあるのは、そのことなんですね。だから、権威のあるものとして受け取られているのです。
この旧約聖書を読んで意味がわからない所が出てくるものですから、70人の学者が随分解釈を入れて訳してる箇所も出てくるのですね。「こう言わないと、よくわからないのではないか。」とか。ですから、70人訳はこうだって注がついてるわけですね。

モーセって人はみなさんご存知だと思いますが、創世記ではアブラハムだったり、ヤコブだったり、ヨセフだったりしますが、出エジプト記では、モーセが出てきます。
モーセがはじめのいくつかの書を書いたから、モーセの5書と呼ばれています。
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして最後、申命記って、5つの書物があるわけです。これだけのもの、人間の力ではないわけですけど、読むのでも閉口しますよね。たいしたもんですね。並大抵じゃないですね。

モーセが120年生きましたけど、40歳まで王宮で育てられ、そこを出て80歳まで荒野で試みを受けて、80歳になって出エジプトから何百万の民を引き連れて、40年荒野を歩いた。120歳まで生きた。
このモーセが書いた書と言われています。モーセの第二の書。
余計なことですけど、もともとのヘブル人への手紙では、出エジプト記の1章1節の「その名はつぎのとおりである。」と言うのが題名だそうです。面白いですね。後になって、さっき言った70人の学者たちが、出エジプト記のなかの一節の言葉をとった。

出エジプト記19:1
1エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。

ここに、「エジプトの地を出た」と書いてますでしょう。ここをとったそうです。
出エジプト記は、文字通りエジプト脱出の記録なのです。1節から見ましたように、わたしたちが創世記を今まで学んできましたように、ヤコブが一度70人を連れて、大飢饉を避ける時に、エジプトの王パロに招かれてきました。息子のヨセフはそのときエジプトの宰相でした。
それが、聖書辞典などいろいろ諸説書いておりますけど、ヤコブがだいたい70人の一族郎党を連れてエジプトに来たのが、紀元前の1871年頃といわれています。
紀元前ほぼ2,000年。それから、出エジプト記は430年後ですから、だいたい年代も出てきます。430年にして、イスラエルの民は、実におびただしく増えていたのですね。軍務につける男子の数だけでも、民数記の2章32節を見てみましょうか。きょうは、ちょっとイントドダクションであちらこちら飛びますけども、

民数記2:32
32以上がイスラエル人で、その父祖の家ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。

ここで、国勢調査の結果が出ていますね。60万3550人。これはよく見ますと、20歳以上の軍務につける男子の数であると書いてあります。
たいへんな数なんですね。おそらく壮年で60万といえば、人口全体といえば、どれくらい見積もれば良いのでしょうね。三倍は見ないといけないでしょうね。同じ年齢の女性がいて、老人がいて、子供がいると三倍はくだらないと思うのですね。
と言うことは、180万人から、200万人近い人がいたのではないかと思うわれるわけであります。

この70人のヤコブの一族が来て、430年たったと書いてあります。エジプトに来てちょうど430年でエジプトを出た。430年でこれだけ人数が増えるものかなと驚嘆に値しますね。
わずか四代。モーセは、ヤコブから数えて五代目なんですね。これも民数記のなかでは、ちょっと彼らの寿命が長かったと言うこともあるでしょうけど、非常に多産だったことがわかりますね。
だいたい、江戸時代が300年でしょう。江戸時代300年の人口は、三千四五百万人からですね、そんなに増えなかったと思うのですね。

なぜ変わらないかと言えば、それは食料がないからなんです。子供の生まれる率は変わらないけど、育つことができないのです。食料の枠の中で、人口増加が抑えられているから、人口が増えることができないのです。
明治維新から、今、百年ちょっとたったでしょう。日本の人口は一億を越えていますね。わずか百年で、三倍か、四倍増えていますけどね、それはどれほど現在の、江戸時代以降の生産力が増えたかってことなんですよね。
当時の、430年でこれだけの人口増加をみたのは、これは、もうちょっと驚異的なことだと思うのですね。

それだけの人数になるには、ゴセンの地も豊かな地であったのかもしれませんね。ナイル河の下流の下エジプトと言われるのが、彼らの居た所なんです。
そこのゴセンの地は、一番豊かな土地であったと言われています。そこに彼らは居たのです。

出エジプト記1:8-10
8さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
9彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
10さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」

と言うふうに、ヨセフを知らない新しい王が起こった。エジプトの歴史を少し知っていたら、この新しい王がよくわかると思うのですが、なかなかエジプト王朝は複雑なんですね。
エジプト30王朝と言うぐらい、30代くらい替わっているのですね。このあたりは、17か、18王朝と言われているのですね。
本などによりますと、ヨセフが宰相として招かれた時の王朝はヒクソス王朝で、アジア系のセム系の、もともとエジプト人でない王朝だったようですね。ですから、同じセム系として、ヨセフなどが厚遇された。

エジプト人は、もともとハム系なんですね。セム、ハム、ヤペテの、ハム系なのですね。アジア人種はセムですね。で、エジプトにおけるセムの王朝が、ヒクソス王朝なんです。
この出エジプト記に出てくる王朝は、だいたい名前もこの人だろうとわかってくるのですね。でも、諸説あって断定はできないのですね。
ともかく全く新しい王朝に切り替わってしまったわけですね。ですから、ヨセフのことを知らないと言いますか、むしろヨセフの実績に否定的な人々が出てきたわけですよね。

そして、今までヨセフのもとで保護されて来たイスラエルの民が、王朝が替わりましたから、危険視され、迫害されるようになってしまったわけですね。
そして、このエジプトの王の弾圧が非常に激しさを増してくる。その中から、神が約束の通り、民を約束のカナンの地、いまのイスラエルの地に引き出される、その経緯が出エジプト記の内容なんですね。
前のこと、ちょっと覚えておられる方いらっしゃるかもしれませんが、創世記の15章のところ、アブラムになされた約束、

創世記15:12-16
12日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
13そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
14しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
15あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
16そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」

これが、アブラハムに対する預言でしたね。アブラハムはこの時、おそらくなんのことかわからなかったと思います。突然、非常な暗黒の恐怖が、そして神のみことば。
後でわかりますように、モーセはレビから四代目にあたるわけです。レビと言うのは、ヤコブの子供。430年目に出て行くのです。

それから、エジプトと言うのは、聖書を読みますともうひとつ意味があるわけです。意味といいますか、聖書全体で、エジプトと言うとあまり良い名前ではないのですね。
エジプトとは、何を表すかというと、この世を表すものなのです。この世の権力と栄華、この世の誉れ、この世の栄えを象徴するのがエジプトなのですね。

聖書のいたる所で、エジプトはそういう意味で使っていますね。クリスチャンにとって、エジプトはあんまり良い名前じゃないのです。決して、良い意味で使われていないですね。
再びエジプトに帰っちゃいけない。それが聖書の言ってることなんです。再び、この世の中に戻ってはいけません。エジプトが与えるものはなんですか。それはこの世の富、この世の享楽、この世の名誉なんですね。それが、エジプトの与えるものなんですね。

しかし、エジプトの与えることのできないもの、まことの希望。これは、エジプトが与えることができないのですね。
この地上だけなら、確かに恵まれれば、思う存分の享楽を手に入れることができるかもしれませんね。富を、名誉を手に入れることができるかもしれません。
しかしこのよのに、本当の希望はないのですね。どうでしょうか?

私たちは、この世に本当の意味で失望したことがあるでしょうか。この世は素晴らしいと、あるときは思いましたですね。私たちも20歳の頃まで、この世はスリリングな、一生懸命生きて意味のある、野心をもっていた。何あると、何かつかめるかもしれないと、全力を持って、尽くしてみようと。そう言う思いを非常に強く持っていたことがありましたですね。
しかしこの世は、本当の意味での望みのない所だと知るようになってきました。それはもちろん、聖書の光を通して教えられたのだと思いますね。聖書を知らなかったら、今も一生懸命何か言おうとして顔をひきつらせていたと思います。

ですけれども、聖書に導かれて、聖書の光を通して、この世には本当の意味の望みがないと教えられたのだと思います。自分で見出したのではないと思います。
この世が、本当の意味で絶望だと言うことに恐れおののいて、私は救いを求めたのですけど、エジプトというのはそういう所なんですね。
この世の栄誉、栄華のある所なんです。肉の楽しみ、享楽のある所なんです。ですけれども、そこには、本当の意味での望みのない所なんですね。
倒れるけもののように、ただ、太らされ殺されていくけもののように、ただ享楽をし、ただ肥え太るけれども望みなく死ぬ所の、そううう所がエジプトの象徴する所なんですね。

エジプトは、ものすごい富を持っていたでしょう。モーセの時代が、だいたい紀元前1,500年くらいでしょう。紀元前2,400年か2,500年にあの巨大なピラミッドが、もうできていたのですよ。すごいのをよく作ったものです。
今でもどうやって作ったのかわからないような巨大なピラミッド。地上100メートル以上、巨大な石を切り出して積み上げる。我々には思い浮かばないような力があったわけですけど。本当に、すごい力を持っていたのですね。

このような意味で、エジプトという言葉は聖書では使われているのですね。エジプトは巨大な力を持って、人々を捕らえ、とりこにして、そしてついには滅びに至らせる悪魔の象徴でもあるのですね。
この世には、悪魔が働いているのです。人間に、悪魔は享楽を提供し、富を提供し、この世の誉れを提供しますね。
誉れを得るために、どんなに人々が骨身を削っているでしょうか。ですから、悪魔が人間の魂を奪おうとする切り札のひとつは「栄誉」なんですね。
この世の栄誉、栄華、この世の栄えを出して、「どうですか?」と来るんですね。

イエス・キリストに対して悪魔が使った誘惑もそれでした。荒野の試みを見たらわかりますでしょう。イエス様にいろんな試みをしましてけれども、最後に、悪魔が出したものは、この地上のすべての栄華だったのです。
そして、「私を拝むなら、すべてをあなたに与えよう。」と言ったのです。イエス様はそれに対して、「あなたの神である主を拝み、これにだけ仕えよ。」とおっしゃたのですね。

マタイの福音書4:8-10
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

イエス様は悪魔の提供するいろんな物、人間だったら、肉欲に弱いかもしれませんね。
ヨハネは人間の欲には3つある。ひとつは、肉の欲。そう書いています。もうひとつは、目の欲。それから持ち物の欲。暮らし向きの自慢とも表現しています。この3つで、人間の弱さは表現できるそうですね。

イエス様には、肉の欲はあまり通用しなかったのです。イエス様がそういう欲にひかれたと言うことはあまりなかったようで、それだけイエス様は聖かったようですね。富も、それほどになかったかもしれない。
しかしすべてを支配する力、それでは一番、ある意味で誘惑においては危険のあるものなんですね。人の上にたって人を支配するのは、ものすごい誘惑なんです。
悪魔のもっているのは、それなんですね。それが、最後に悪魔が差し出したのですね。それは、人間の非常に深い内面の、この誘惑に対する弱さを悪魔は知っているということがわりますね。

そして、そういうものに対して警戒しないといけない。悪魔は、そういうものを提供しますけども、それを得るならば、悪魔に対して、代価として、自分の魂を売り渡さなければならないのですね。ですから、非常に危険なものなんですね。
それがエジプトと言う言葉の霊的な意味なんですね。

この出エジプトを私たちはある意味で体験しますね。出エジプトを体験しないクリスチャンなんていないのです。それは、クリスチャンであって、エジプトから抜け出るある決心、決断がなかったら、それはクリスチャンとは言えないのですね。
出エジプトと言うのは、そういう意味で、私達ひとりひとりの個人の体験でもあるのですね。どうでしょうか?おひとり、おひとりは、出エジプトを完了なさったでしょうか。そういう意味で、エジプトを脱すると言うのは、私達にとって、苦しい経験でもあるのですね。
この世に対して、はっきりとした線がひかれなければならない。

イエス・キリストを信ずるというのは、つまり信仰とは、頭の中の観念の操作ではないのですね。
頭で理解する、頭の中で空回りすることではないのです。信仰と言うのはそれよりもむしろ、主と共に歩みだすことなのです。ですから、はっきりとした出発が、記されなければならないのですね。
僕の場合それが嫌なものですから、福音を聞きながら、あそこに真理があるとわかりながら、光を感じながらしりごみをするのですね。そういう意味では、容易なことではないですね。

出エジプト記1:8-11
8さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
9彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。
10さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」
11そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

ここで新しい王と出てきますね。この王は、ラムセス2世だと言う人もいますし、パロ・アッハムメシとして知られてる王だと言う人もいます。
この王が、イスラエルの民が、どんどん増え広がるものですから、そして、9節に書いていますように、われわれよりも多くまた強いと、人数も非常に多くなった。自分たちの王朝の支配下にある人々よりも多くなっている。しかも、非常に力強い。
そういうことから、彼らを弱らせるように、増やさないようにしなければならない。だから、苦役令を出したのですね。

出エジプト記1:12-14
12しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。
13それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、
14粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

非常に圧迫が強くなってきたのですね。過酷な労働で彼らの生活を苦しめた。12節にあるように、イスラエルの民は、苦しめられれば苦しめられるほど人強くなっていったと書いてありますね。
示唆深い言葉ですね。苦しみを通して、強められているイスラエルの民。

苦難と言うのは、人間をふたつにするそうです。苦難は、人間をダメにするか、強くするかどちらかなのですね。苦しみを通して、私たちはダメになり弱められるか、逆に強められるかどちらかなのですね。
特に、信仰というのはそういうものですね。苦難を通して、信仰というのは吟味されます。クリスチャンは時々、それを厳しく教えられますね。

(テープ A面 → B面)

わたしたちの信仰は、苦しみを通して吟味され精錬されるということですね。これは、繰り返し今まで学んできましたですね。正しい信仰に立たなければ、厳しい試練に耐えれないということなんですね。
私達の信仰と言うのは、さっきも言いましたように、観念じゃないでしょう。単なる自己満足でもないでしょう。信仰と言うのは、力なんですね。現実的な力なんです。

だから様々な問題、試み、苦難、そういうものに本当に打ち勝たしめるところの力なんですね。それは、正しく立っていなかったら、出てこないものなんですね。
ですから、私たちは正しく立っているかということを吟味されるわけですけれども、立ち所が間違っていると、神様は私たちに問題を起こして、私達の土台がおかしいということを示してくださいますね。

苦しめられれば、苦しめらるほど強まっていった、広まっていった。そのことでかえってエジプトの人は恐れを感じたと書いていますね。
私達の信仰は、どうでしょうか?
苦しみがあって、苦難があって、ペシャンコになるのでしょうか?それとも困難があると、ますます力を得て、恐れられる者でしょうか?

出エジプト記1:15-18
15また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
16彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
17しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
18そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」

彼らがそれでも参らなかったものですから、今度はさらにエジプト王の迫害は圧制は激しくなってきましたね。産まれる子供が男のあれば、殺せと言うのが、彼らのとった手段でありました。
15節に、ヘブル人の助産婦の二人の名前が出ていますね、シフラとプア。聖書には、本当に、めったに姉妹たちの名前が出てきませんが、このシフラとプアの名前が出ているのは、それだけ意味が大きいのでしょうね。
断固として、この巨大な力を持っているパロの命令を拒否した、勇ましい婦人ですね。神様に信頼することがなかったら、こういうことはできないですね。

私たちに、それだけの信仰があるでしょうか?クリスチャンホームでぬくぬくと育ち、いつのまにか決断力もにぶりがちな、そういうところに陥りますね。厳しい、神に信頼する命がけ得の所を忘れがち。
交わりのなかで、本当にお互いにぬくぬくとして、確かに素晴らしいですけど、信仰の厳しい面を忘れがちではないででしょうかね。いつも、信仰というのは厳しいもんだというのを忘れてはならないと思うのですね。

神様は愛なる方でしょう。しかし、神様の義は峻烈なものでしょう。そのことを忘れたら、やっぱり健全な信仰とは言えないと思うのですね。
神様の義は本当に焼き尽くすばかりの義です。イエス・キリストが十字架で死ななければならなかった程に厳しいものですね。決して、甘いものではないですね。
信仰の両面と言いますが、それがいつも考慮されなければならないと思うのですね。

出エジプト記1:19-20
19助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
20神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。

貧しいヘブルの女の人のほうが、豊かなエジプトの女より活力があるんですね。わたしは経済学を専門にしているのですけど、嫌で仕方がないのですけど、たまたまそこに住んじゃったものですから、そこから抜けれなくて、いつも経済学をやっとるわけですが、豊かであると言うことは、決して幸せではないと言うことなんですね。
豊かであるから人間は堕落するのですね。文化が爛熟すると、人間は堕落するのですね。ところが、豊かになろう、豊かになろう、どうしたら豊かになれるかって言うのが、私達が研究していることなんですね。

貧しいながらも必死に生きていた時代のほうが、人々はなつかしがりますね。だから、人間の幸せは豊かさと違うんだ、私達が見た目と違うんだ。人間は、外面的な豊かさしか見ないのです。
どうして、日本人がヨーロッパやアメリカに目を向けて来たかというと簡単なんです。それは、向こうが豊かだったからです。
どうして、東南アジアに目を向けて来なかったか。それは貧しかったからなんです。理由は簡単なんです。

彼らのほうが、経済的に豊かだったら、日本は必ずそこに目を向けるのですね。豊かでないからなんです。ただ、それだけの理由なんです。
ですから、人間なんて当てにならない者かというのが、よくわかりますね。ちょっと吟味したら、私たちは、豊かさが幸せの大事な要件でないとわかります。
知っていながら、どうしてもそこから離れることができないのです。
この二人の助産婦に神様は豊かにのぞんでくださいました。

出エジプト記1:21-22
21助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
22また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

詩篇34:9-11
9主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
10若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。
11来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。

本当に、この言葉にしっかりと立ちたいと思うのですね。
出エジプト記1章は、迫害と圧制が強さを増して、極に達する、命も危なくなってくる。産まれた男の子はナイル河に投げ込まれなければならない。本当に彼らが追い詰められていくのが、1章から2章なんですね。断崖に後がない所まで追い詰められていく。苦悩がその極に達する所が1章から2章なんですね。
こういう悲しみや、苦しみが深さを増し、極に達して望みが断たれようとするとき、それが神様の時なんですね。
人間的に余裕がある時は、神様の時ではないのです。わたし達に本当に後がないのが、神様のときなんですね。いかがでしょうか?
本当に、万策尽き果てたことがあるんでしょうか?

詮方(せんかた)尽くれどって言葉が聖書にあります。私達が、「本当に、もうダメだ。」って言う、そういう所に立つときに神様のときが待っているのですね。人間的に絶望する所なんですね。
夜の闇が一番深いのは、夜明けの直前だと言われています。夜明けの30分くらい前だそうですね。一番、暗いとき。一番冷え込むとき。夜明け前30分。
苦しみが極に達するときは、神様の救いがま近い時なんですね。

詩篇130:1-2
1主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
2主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。

詩篇130:6
6私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。

夜回りが夜明けを待つ。これは、本当に切実なもののようです。わたしたちは、夜明けを切実に待ったことがあるでしょうかね。本当に、この世が早く明けてくれないかと、耐え難い思いで夜明けを待った経験があるでしょうかね。深い淵に立つ、苦悩の時なんですね。
福音の光、救いの光は、闇を通して、絶望を通して輝いてくるものですね。輝き出てくるものですね。わたしたちが本当に行き詰った時に、聖書の救いの光が、投げかけられてきますね。

ここにいらっしゃる方も、苦しんでらっしゃる方がいらっしゃると思います。それぞれ、もっていらっしゃる悩みは深いもんがあるかもしれません。
しかし聖書に救いがあります。聖書のメッセージは、本当に、暗い闇を背景にして、絶望を背景にして、私達が読むべきものですね。そうでなければ、聖書はなかなかわからない。
深い淵の中に立って、聖書の光はさし輝いてくるのですね。

この世のすべてに望みを失った人々、そのひとびとに聖書は、唯一の確かなただひとつの逃れ場があると言うことを示します。そういう意味で、絶望なさっているなら、それは歓迎すべきことなんですね。
この世に、望みを失っているなら、聖書の中に望みを見出す良きチャンスなんです。どうぞ、聖書の救いを求めて頂きたいと思います。

神様は、私達の悩み、問題のすべてを知っておられます。私達の行く手にその出口を備えて待っていらっしゃるのです。
私達がそれを必死に求めるなら、見出すことができるのですね。どうぞ、一生懸命に求めてください。そこに救いがあり、出口があります。




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