出エジプト記の2章から、いよいよモーセの登場になってきます。モーセって人については、クリスチャンでない方も、いろいろなことを通してご存知でしょう。イスラエル民族の中の最も偉大な人物の一人と言っても良いと思いますね。 モーセが、創世記から申命記まで書いて、モーセの五書と呼ばれていることはこの前もお話ししましたが、この出エジプト記から申命記までは、モーセという人物がたびたび登場してきますね。 今まで私達がアブラハムについて学んできたように、これからモーセと言う人物を中心に置きながら、そのモーセを巡るいろいろな記事が出てまいります。 先月見ましたように、ヤコブとその一族の70人がエジプトに逃れました。それからほぼ400年くらいたった時が、この2章の記事であります。 イスラエル人は、非常に多くなった。 出エジプト記1:7
そして、このイスラエルの人々が多くなり力強くなってきたものですから、エジプトの王がこれを恐れて、彼らに迫害を加えていったのが、1章で見たことでしたね。 出エジプト記1:8-11
苦役で苦しめました。しかし、 出エジプト記1:12
苦しめられれば苦しめられるほど、イスラエル人は増えました。強くなりました。イスラエル人の反応が、あまりに思いを越えるものですから、イスラエル人を恐れたのですね。気味悪く感じたのですね。 出エジプト記1:14
これだけではなかったのですね。それでも手に負えないものですから、今度はイスラエルの女が分娩する時に、産み台の上を見て、男なら殺せという命令を二人の助産婦、シフラとプアに命じたのですね。ところが、そういうふうにいきませんでした。 このシフラとプアは、神を恐れたので、そういうことができなかったのですね。それでエジプトの王は、これも当てが外れまして、だんだんだんだん、パロの迫害は激しさが増します。 意図と全く逆のことが起こってくるわけでありますから。 出エジプト記1:22
産み台で殺すのではなくて、もう、生まれた子が、男の子であれば、ナイルに投げ込めって命令が出されたわけです。 パロの迫害が激しさを増し、残忍さを増した時に、この2章がはじまるのですね。 出エジプト記2:1-2
レビの家のひとりの人というのは、あとで6章に出てきますので、ちょっとみてみましょうか。 出エジプト記6:16-20
レビの子と書いていますが、レビはヤコブの第三番目の男の子でした。ルベン、シメオン、レビと続きましたから。レビの子の、ケハテの子のアムラムの子がモーセ。四代で、400年なんです。驚きますね。 レビが、130年。ケハテが、133年。アムラムは、137年。モーセは120歳。彼らは、随分生きたのですね。わたしたちのほうが長生きに思いますが、違うのですね、 聖書のふるい時代を見ると。それは確かに、二千年とかの寿命が短かったのは確かですが、それより前は違うのですね。古代人が愚かと思ったら、とんでもないのですね。アダムのほうが、頭が良かったらしい。彼らのほうが、クリアーな頭をしていた。逆ですね。それらはともかく彼らは長く生きています。 レビ人の娘を娶った。レビ人の娘はヨケベテ。これは父の妹、叔母に当たるわけです。叔母にあたる人を妻にもらった。現代のわたし達からするとおかしな感じですが、レビ記ができてからそれらはきちっとしたので、それより前はこういうことは許されていた。律法がまだなかった。 アムラムとヨケベテと言う名前がわかっています。この男の子はモーセです。その上にアロンがいました。アロンは三歳上であるというのが、あとでみるとわかります。3つしか違わない。 アロンが生まれた時までは、まだアロンは生き延びて育つことができた。パロの命令はたぶん、アロンが生まれて二、三年のうちに出された。アロンは、そういう問題にはぶつかりませんでした。 でもモーセの時には、生まれた男の子は皆、ナイルに投げ込めと命令が出ていた。二、三年のうちに熾烈をきわめた。 出エジプト記2:3
3ヶ月の間は隠しました。とても、ナイルに捨てることはできませんでした。そのかわいいのを見てと書いています。聖書のほかの箇所にも、美しい子であったと書いてあるのですね。非常にかわいい子だったようです。 母親は三ヶ月の間育てました。そして、彼女はパピルスの籠を手に入れ、瀝青と樹脂で固めて、水が入らないようにして、その中に子供を入れて、葦の茂みの中に置いたと書いていますね。 聖書の記事はみんなそうでしょうけど、私達が、その中に自分自身を置かないとわからないと思うのですね。その人の立場に自分自身を置くこと。それが、聖書を読むひとつの大切なことだと思うのですね。 ひとごとだと見てたら、わからないでしょう。でも、その中に自分を置いてみてください。これがどんなに耐え難いことであるか。親にとって、ちょっと私達の思いを越えるものだと思うのですね。 有名な「十戒」って、映画があるでしょう。この十戒と、ベンハーは3回くらい見ました。見るたびに非常に教えられるんですね。たしかに、事実そのままではありませんが、得るところが多いのですね。 あの時代はどういう時代だったか非常に細かい時代考証しているのですね。十戒は、おそらくイスラエル資本が全力かけてる映画だろうと思うのです。 イスラエルの考古学研究の権威が出てくるんですよ。そして、アメリカの経済を動かしてるのはイスラエル人ですから、英雄ですから。そのために全力で作った映画だと思います。プロデユーサーが挨拶したりするんですね。 お母さんが、葦のしげみに籠をいれて、祈る姿なんか、非常に美しく描いています。助けを求める祈りのシーンが出てくるのですね。 出エジプト記2:4-5
その子の姉、この姉は後で名前が出てきますが、ミリアムという女性です。何歳上であったか聖書には書いてありませんが、数歳上だとしましょう。後で見ますと、このミリアムという女性はなかなか気性の激しい女性なんですね。なかなか男勝りなんですね。 はじめて紅海を渡った時、イスラエルの女たちを率いて、タンバリンを鳴らして、神を褒め称えたと記されいるのです。 そして、後に、自分の弟のモーセをアロンと責めて、主に裁きを受けて、全身らい病に、ゆきを覆ったようになり、モーセのとりなしにより癒されたとあるのですね。非常に、男勝りのなかなかの女性であります。 四節と七節を見ると、後の気丈なミリアムの姿が彷彿されると思うのですね。 7-8歳の女の子が、自分の弟がどうなるか見極めようと、ちゃんと葦の茂みの影に隠れて見てるわけなんですね。そしたら、パロの娘が水浴びをしようとして降りてくるわけですね。 このパロの娘は、本によると、後のハトシェプスト女王と言われる、エジプトの歴史上の最大の女性と言われています。その女性が降りてきます。 そして、彼女の侍女たちは、ナイルの河辺を歩いているわけです。何人も何十人も。だから離れていたのでしょうか。彼女は、葦の茂みに籠が在るのを見つけて、はしために取って来させた。 一番近くのはしためをやって、ヘブル人のレビ族の衣でまかれていた。これは、知られてはいけないとほかの者を近づけないようにして、かくまうシーンを映画でも、示していました。 パロの命令は、非常に厳しいものでしたから、パロの娘が、そういうことをするのは許されないことでしょう。 出エジプト記2:5-6
神は、このパロの娘に慈しみの心、憐れみの心を与えられました。彼女はあけてそれを見た時に、この子を殺すことはできないと言う思いを与えられました。 出エジプト記2:7-8
なんと、みごとなドラマじゃないでしょうか。このミリアム、しっかりしていますね。お母さんを呼んできたのです。 出エジプト記2:9
ほんとうに、実に驚くべき摂理ですね。このヨケベテは、自分の子供を育てるのに賃金をもらうようになりました。パロの娘は、その赤ん坊をヨケベテのもとに戻し、おそらく非常に良い給料を与えたのでしょう。 出エジプト記2:10
モーセという名前は、パロの娘がつけた名前なんですね。ヘブル人がつけた名前ではない。しかも、「引き出したもの」と言う名前でなんですね。これは、深い意味を持ってるでしょう。 モーセの生涯は、イスラエルの民を引き出すのが、彼の使命でした。おそらく200万人くらい居たのじゃないかと思うのですが、前も言ったように、壮年の男子が60万人と聖書にはっきり記されているわけですから。 戦いに出る男が60万人で、三倍近くとすれば200万人近いわけです。百数十万の人々を圧制の中から救い出すということは、ほんとうに、たいへんなことですよね。 これは、もう想像に絶することであります。モーセがどんなに大きな重荷を負ったかは、これから読み進むとわかってきます。私達の想像に絶する出来事なんですね。40年の間、荒野をさ迷った。 「引き出すもの=モーセ」これは、パロの娘がつけたのですね。本当に、ここにも神の深い摂理をい見出すことができますよね。 出エジプト記2:11-15
11節から15節は、モーセの挫折と言えると思うのですね。あるいは、肉の行いのもろさと言えるかもしれません。モーセはある年代に達したときに、自分がヘブル人、レビ家の子供であるということに気づくようになったわけです。それは極秘にされていたわけであります。 もし知れたらパロの娘としての王位継承は、ご破算になるわけですから、おそらく王女は、パロの娘は、これを極力伏せたと思うのですね。しかし、これがモーセに知られたのです。 映画なんかでは、秘密を知っている侍女が、ヘブル人の証拠で、籠のなかのレビの布を持ち出して知っていく説明をしていましたね。おそらく、なんかのこととして、モーセは自分がヘブル人の子供であることを知ったでしょう。 そしてヘブル人は奴隷ですから、良き身分ではないわけです。ですからモーセは、今まではパロの娘の子としての栄誉を誇り、うぬぼれた生活をしてたのではないかと思うのです。 モーセも、はじめから神に仕える人ではなかったはずです。 ヘブル人への手紙11:23-26
モーセも、はかない罪の生活の中にあったと思うのですね。エジプトの王室ですから、それはそういう社会でしょう。 ほかの所にも書いてありますが、モーセは非常に優れた才能を持っている人でした。恵まれた境遇にあり、豊かな才能を持っており、彼はすべての点において、満たされていた人でした。 ですから、モーセのそれまでの生活は、華やかな罪の歓楽に酔いしれるような生活じゃなかったかと思うのです。しかし、たぶんその王子としての生活の底に潜んでいる虚無についてむなしさについて感じるようになったと思うのです。 人がどんなに自分を見ようと、どんなに自分をちやほやしようと、自分の生活には本物がない。自分の生活は偽りであり、空しい。むしろ、そのような華やかな生活であればあるほど、わたしたちは、それを感じるのではないでしょうか。 わたしたちは、その自分の心の奥に潜む、偽り、むなしさ、自分が偽っていることを感じる。本当の歩みではない。本当の人生を送っているのではないとモーセは感じていたと思うのです。 そして、自分の出生の秘密を知ります。そこに、モーセの人柄があらわれていると思いますが、モーセは出生の秘密を知って、それを覆おうとしなかった。彼は、今まで目を瞑ることのできたヘブル人について、彼はおそらく見過ごすことができなかった。 モーセは、自分の輝かしいこの世的な全部を捨てて、ヘブル人の同胞と運命を共にしなければおれない。そういう人柄であった。それが11節あたりからわかると思うのです。 人の性質によって、二つに分かれると思うのです。こういう事態に直面したときに。一方はそれを打ち消す方向に向かう。自分の出生の秘密を何とか覆おうとする生き方があると思います。 もうひとつは、苦しんでいる、動物のように扱われているヘブル人のなかに出ていかななければならない。そこに、モーセが自らを欺き得ない人であることを見て取ることができるのであります。欺くことができない。欺いている限り、神と出会うことができない。 自らのありのままをわたし達は、認めなければならないのですね。神と出会うために欠かすことのできない条件は、偽らないことであります。正直であることです。モーセは出て行きました。 そして、その時、自分の同胞のヘブル人がエジプト人に打たれているのを見た。 出エジプト記2:11-12
モーセのここの箇所に見られるのは、モーセの誠実な人柄であります。苦しむものを見過ごすことができないという人柄、運命を共にしなければならないという彼の人柄であります。 もうひとつは、自分の力への過信です。自分の力で、エジプトから民を救い出さなければならないという過信があります。 モーセのようにちやほやして育てられた人には、どうしても、そういう過信があるのではないでしょうか。うぬぼれがあるのではないでしょうか。 自分の力が足りないこと、自分のみじめさをまだ、知らないのではないでしょうかね。そして彼は殺しました。砂の中に隠しました。 出エジプト記2:13
モーセは、今度は仲裁にはいりました。 出エジプト記2:14
モーセにとってこの乱暴を働いている男の一言は、非常に痛烈に響いたようですね。彼の一言によって、モーセは、ぎゃふんとなったのですね。 ここに、この時のモーセという人の自己過信、うぬぼれというのを見ることができると思います。 モーセは、今まで王子でした。エジプトの将来の王位を手に入れる立場にある人でした。ところがその地位を捨てて、ヘブル人のなかにはいってきて、自分が同胞であるということでそこまで下ってきているのです。 モーセが最も痛いところを、このひと言葉によって突かれたと思うのですね。この後に、百何十万のイスラエル人を率いて、40年間荒野をさ迷わなければなりません。このモーセにとって、非常に大切なことが、ひとつあったと思うのです。 それは、この民を導く者がわきまえておかなければならない問題。権威の問題だというのです。人を従わせる権威はどこから来るかという問題を、モーセははっきり知らなければならなかったと思うのですね。 わたし達は、他人に対して、あれをせよ、これをせよ、これをしてはいけないとおう権威はないでしょう。人は、人の上に立つ権威はないんですね。 わたし達は、せいぜい子供に対して、親としての権威を持って接するくらいですね。いうことを聞かないなら、叩くなり刑罰を与えますよね。でも、よその人にそう言うことはできませんよね。 モーセは、その権威が神ご自身から来るものであること。まことの権威を持ってらっしゃるのは、神だけであること。神だけは絶対的な権威を持っていらっしゃること。 神だけは、絶対的に人々に命令することができます。こうしなさい。ああしてはいけない。それに対して、はっきりした裁きをすることができます。 しかし人間には、この権威はないということです。モーセは、後に、この権威について非常に注意をするようになっていることを知ることができます。 民数記16:1-4
コラは、モーセのいとこなんですね。「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」、これはよく出てくる問題なんです。 これは、クリスチャンにとって、ものすごく厳しい注意しなければならない教訓なんですね。 このコラは、250人の長老たちを味方に連れて、モーセに立ち向かった。その理由はこうなんです。あなたは、分を越えている。すべての会衆、ひとりひとりが同じ立場にあるべきなのに、どうして、上に立つのか。 これは、ものすごく痛い批判なんですよ。これを聞いたとき、モーセはひれ伏したと書いてあります。モーセが、この問題に、どれほど細かな神経を使っていたか、よくわかると思うのですよ。 モーセは、自分がこの権威を持っているという態度を絶対示さなかったのです。彼は本当に主の前にひれ伏したのです。そして、主がこのことのはっきりした答えを出されることを示されます。 民数記16:5-11
アロンとモーセは祭司なんです。アロンは後に大祭司になりますが、祭司なんですね。直接、主の幕屋の中で仕える者でした。それよりも言わば、階 級はないけれども、その下で仕事をするのがレビ族だったのですね。 レビ族の残りのコラ達も、主の幕屋への奉仕に選ばれた者たちだったのです。ところが彼らは、それだけで満足しなかったのですね。モーセとアロンの立場まで欲しているのですね。 こういう反逆や逆らいという問題は、決して、なんて言いますかね、上下の関係じゃないけど下のほうの人はやらないのです。そうでしょう。上の人がやるんですね。悪魔が一番高い位の天使であったのと同じですね。いつでもそうです。 モーセとアロンに一番近かったのが、コラ達でした。コラは彼のいとこでした。そういう人々なんですね。それが、聖書の示していることです。それは、聖書の歴史の中によく出てくるのです。 民数記6:12-14
ダタンとアビラムの答えであります。「あなたは、わたし達を支配しようとして、君臨している」と言うのですね。これは、もう本当にモーセにとって一番痛い言葉なんです。 モーセは、そんなことではぜんぜんないんですね。パウロにしても、そうだったでしょう。パウロにしても、そういう批判があったのです。「わたし達は、あなたの信仰を支配しようとする者ではない。」パウロは弁明しているのです。 いつでも、こういう鋭い矢が、放たれるのですね。それで、 民数記16:15
結局、コラとダタンとアビラムと250人の長老たちに翌朝、火種をもって会見の天幕の入り口に立たせたのです。 民数記16:18-32
非常に、恐るべき記事なんですね。コラの反逆であります。これは、さっき言った権威の問題なんですね。モーセはこれに非常に気を使っているのです。 モーセは自分自身で問題が起こった時に、それを人間的な力で押さえつけたり、それを裁こうとはしませんでした。 モーセはそれは神の権威によっているもの。別に、それで、自分が支配しようと言うのではないのです。ただ、モーセは主がこうしなさいとおっしゃっているので、しているだけなんですね。 モーセは、別に自分が人を支配しようとするのではないのです。ただ、モーセは主が、支配しようとされているので、それをしているだけなんですね。 モーセの立場は、全く一人の人間としての立場なんです。しかし、それは主が、出しなさいと言っているから、モーセはそれに従っているだけなんですね。そこに、大きな気をつけなければならない問題があると思うのです。 主が与えられている権威なら、私達は、はっきりそれを認めなければならないのですね。人を通して、もちろん主は働かれますから。 クリスチャンにとっても、これは、本当に大切な問題だと思うのですね。信仰の生涯を全うしないで、このある所まで歩んできながら、そういう問題を通して、離れていく人は、結構、多いのですね。 出エジプト記に戻って、モーセは、この乱暴の男の一言で参りました。そして、エジプト人を殺したことを知られていることも恐れて逃げたのです。 この人間的な判断、人間的な勇気、人間的な力と言うもの。それが、どんなにもろく弱いかと知ることができますね。 モーセは、本当に自分の力に頼って、自分ならやれるという気負いを、ここでは持っていますね。しかし、それはぜんぜん役には立たないということであります。 しかしそれは、私達が新約聖書を通しても、ペテロの事件を通しても、勇ましいペテロの言葉と裏腹に、彼がすぐに手のひらを返すように、主を否んだ記事を通しても、よく学んでいることですね。 人間は大言壮語しては、本当にいけませんね。私達は、本当に力のもろい者です。クリスチャンというのは、そういう意味でも、人間を過大評価しない者。力があるようだけれども、本当はないってことを知っている者ではないでしょうかね。 ですから、あまり人間的なものを私達は過大評価しませんね。それは、もろいものです。 主の御心に立っている時にだけ、私達は強いのです。そうでなければ、くずれさるのは時間の問題であります。モーセはパロに追われて、ミデアンの野に逃げて行きますね。 出エジプト記2:15-17
ミデアンの祭司の名前はレウエルと出ていますが、もうひとつが、イテロあるいはエテロ。このミデアンの祭司に7人の娘がいて、チッポラを妻に娶ります。 あのまま行ったら、おそらくエジプトの王女を娶って王の位についていたかもしれないモーセ。そのモーセが今は、羊飼いの女を娶って生活しているのです。 なんと、急転直下、彼の運命は大きく違ってきますね。この2章から3章の間に40年の時期がたっています。長いですよ。ぽんと飛んでいますが。 モーセがヘブル人の子供だと気がついたのは40歳だったと新約聖書に出てきます。そして彼がミデアンの野で、チッポラと結婚して、羊飼いとして40年を過ごすのです。 長い年月なんです。彼が主に用いられて立ったのは、80歳の時なんですよ。この40年の時代。これは、以前にベック兄が学ばれて非常に覚えていますけど、モーセが世に忘れられ、自分も、もう羊飼いとして生涯を終わる者として、思い込んでおそらくいたのでしょうね。 40年の時代が過ぎるのです。もう本当に、名も無き羊飼いとして暮らすのですから、モーセの心は砕かれ、自分自身の弱さ、無力さを、学んでいったのが、この40年だったのだです。 主に用いられるのは、生まれつきの力があって、そういう力と自信に満ちている時ではないのですね。私達がほんとうに砕かれて、なんと役に立たない者であるかをよく知って、そして初めて、それが用いられるのだ。ベック兄が学んでくださったことを、よく覚えています。 モーセは枯れた柴のようだった。40年の年月を経て、彼は、枯れた柴のように、自分自身を全く当てにしないものだと、変えられていったのです。しかし、枯れた柴だから燃えたのですと、ベック兄が学ばれました。 確かに、この40年は、備えの時だったでしょう。主にのみ寄り頼むために、モーセはこの40年を主の訓練のために過ごしていたと思うのですね。 出エジプト記2:23-25
神の時が、着々と近づいていることがわりますね。3章からいよいよ、神がモーセを使って、ご自分の民を解放なさるという、そこに入っていくわけですね。 |