引用聖句:出エジプト記3章1節
集会の学びに出席していて、いつも思うのは、私達が力づけられるのは、私達の信仰の歩みが力つけられるのは、決して、どのような学びがあったかってことではなくて、その人が如何に生き生きとした信仰を持っているかということだと思うのですね。 語る人が、どんなに生き生きとした霊を持っているか。それが私たちを本当の意味で生かし、力づけるものであることをいつも思うのですね。交わりに出て行き、学びを聞くのは、本当にその生き生きとしたところの霊に触れたいために行くのではないでしょうか。 それによって、私達の沈んでいるところの霊が、魂が、信仰が、力づけられていくのではないかと思うのですね。そういう意味においては、私のほうが生かされたい、新しくされたいという思いをいま、切に持っているのです。 そこにいらっしゃる兄弟姉妹によって、強められたいという思いを持っています。 出エジプト記の3章。足りない学びですが、少し見て行きたいと思います。モーセの生涯は、この前も少し触れましたように、モーセは120歳まで生きた人でした。モーセの生涯は、120年であることが後に出てきます。 それは、モーセの生涯は、40年づつ3つの時代に分けることができることも見ました。 第一は、モーセがヘブル人の子として生まれながら、非常に不思議な神様のご計画によって、彼を殺そうとした宮廷の中で育てられるという、実に驚くべき導きのうちに40年を過ごしたのです。神のなさることは、本当に、人の思いを越えていることをそれを通して見たわけでした。 モーセを殺せという命令を出した、そのパロの王宮の中で、パロの娘の子として王子として育てられるという出発をしたのでした。 モーセの名前の意味は、「引き出すもの」という不思議な名前でした。モーセの名前は、私がナイル河から引き出したからというふうに名前をつけた。そして、このモーセが名前の通りに、エジプトの圧迫のなかから多くのヘブルの民を、引き出していく名前になっているから、驚きですね。 そして、第二番目は、ミデアンの野での羊飼いの生活。 そして、最後の40年は、本当に人間的に考えられない、イスラエルの民を彼が40年の間引き出して、カナンの地に入るまでの言語に絶する苦しみと言いますか、イスラエルの民と共に苦しむ、神の民と共に苦しむのを選んだとヘブル人への手紙に書いてありますように、考えられないような最後の40年でした。 この前、少し見ましたように、モーセは40年間のその宮廷生活。当時のエジプトと言えば、それはもうすごい世界であります。世界の国々の中で最も権力、文化、文明に爛熟していた国、その王宮で生活しました。 どのような生活をしたか、聖書はくわしく書いていませんけれども、ヘブル人への手紙のなかには、はかない罪の歓楽を追い求めるよりもと書いていますから、モーセの40年の生涯は、やっぱり罪の生活だったと思います。 それは本当に、きらびやかな、しかし虚飾に塗られた生活だったのではないでしょうか。しかも、その宮廷生活の背後には、すさまじい権力闘争の渦があったのではないでしょうか。モーセはそういうものを本当に味わったと思うのです。 そして、モーセは、このままの人生ではいけないというむなしさを感じたのではないでしょうか。このままではいけないという思いが、私たちの人生のある時にやってきます。これは、非常に大事なことではないかと思うのですね。 このままではダメだ。このままで、人生を進んで行ってはいけないという、なんとも言えない焦燥感やあせりに捕らわれるときがあります。それは、私達が永遠なるものに、真実なものに心を向ける、非常に重要なチャンスではないでしょうか。 人の心には、必ずそういう時が来るのではないかと思うのですね。 このままで、良いのだろうか。このままの生活を続けていって良いのだろうか。ただ年老いて世を去ることがたまらなくなる。そういう時があると思うのですね。 モーセのうちにも、必ずやそういう時があったと思うのですね。 もう一つは、この前も言いましたように、同胞の苦しみに同情する、どういうきっかけがわかりませんが、40歳になった時に、自分がヘブル人であることを知るようになって参りました。 そして、苦役の中でうめいている所の同胞たちの状態を、彼は見過ごすことができませんでした。しかも、ヘブル人であることを隠すことができませんでした。ヘブル人はエジプト人が軽蔑する所の民でありました。農耕民族は、家畜を飼う民族を軽蔑するのですね。それは、非常に激しい軽蔑だったようです。 モーセは、自分がエジプト人の軽蔑するヘブル人の子であると知った時に、彼は、もう言わば知らんふりして仮面をかぶるようにして生活することはできなくなりました。 彼は、自分自身の心を偽ることのできない人でありました。モーセの人となりは、同情心の厚い、正義感に富む人であったようです。己を偽る事ができない。そういう意味で正直な人物であった。 私達は、そういうふうにモーセを見て良いのではないでしょうかね。 自分自身の仮面をかなぐり捨てて、出て行かなければならない、そういう性質の人だったように思います。しかも、彼は、ステパノが後に使徒の働きで語っていますように、彼は当時のエジプトのあらゆる学問を教えられた人でありました。 言葉にも、技にも力があったと言っていますね。私は、口が重く語ることができませんとモーセは答えていますが、ステパノはモーセについて、言葉にも技にも力のある人だったと言っています。そういう人物だったのです。 しかし、モーセのそういう人となり、彼が持って生まれた所の良き性質、彼が受けた最高の教育、そういうことの上に立って、彼は、自分の同胞を解放することができませんでした。 モーセが同胞の中に飛び込んで行ったのは、ある意味で、英雄的な行為でありました。モーセにとっては、自分の地位と輝かしい未来を全部放棄して、その中に飛び込むことは一大決心でした。それは、英雄的なわざでした。 しかし、その土台の上に彼は長く立つことができなかったのです。簡単に挫折してしまったのです。それは、非常に惨めな敗北でありました。 人間的な善意、同情心、正義感というもの、正直さというもの、それはもちろん素晴らしいものなんです。しかし、その上に私達は、確固たる土台を置くことはできないと思います。ヒューマニズムの立場というのはそういうことなんです。人間の善意への信頼に基礎を置こうという立場なんですね。 それが、いかに、もろいものであるかということは、私達が、罪というものを知る時にはじめてわかるわけであります。罪の深刻きわまりない問題を知る時に、聖書の光によって知らされる時にヒューマニズムという、今まで私達が良いものだと思っていたものが、いかに浅薄なものであるか。全く、甘い現実の認識であったことを知るわけです。 モーセは簡単に現実によって、はじき返されました。モーセが行ったことは、モーセの一大決心の英雄的な行為の帰結は、殺人ということでありました。 出エジプト記2:12
あたりを、きょろきょろと見回しているモーセの姿が見えるようです。これは闇の技、暗きわざですね。 出エジプト記2:14
自分のやったことに恐れを持っている男が、ここに出ています。モーセは、いっぺんに恐れる者になりました。彼の心はいっぺんに、しなえたのです。そして恐くなって、ミデアンの野に逃げていくのです。 モーセの惨めな敗北というのが、あるわけですね。惨めな敗北。聖書は、この人間の本当に惨めな敗北というのを、そのまま書き現している書物なんです。そういう意味において、ほかの書物と違うのですね。 モーセというのは、イスラエル建国の大英雄なんですよ。人間的に考えれば。私達が、普通の歴史観で考えたら、これはもうたいへんな英雄なんですよ。 イスラエルという国は、アブラハムから始まりますけど、イスラエルという国をうち立てたのは、人間的に考えればモーセなんです。たいへんな業ですよ。 あれだけの民を引き出して、たいへんな人なんですよ。しかも、武力を持って民を押さえつけたのではないんです。モーセが引き出して行ったのはそうじゃない。 しかしモーセという人が、やっぱり神様の前において、いかに惨めな者であるか。その事を正直に、明らかに致します。 ダビデ王にしてもそうですね。本当に聖書は恐い書物ですね。人間の挫折というもの、思い上がり、自己過信。それらを粉々に砕かれる神。それを砕かなくては、神を見ることはできないと言いますか、神を知ることができないと言いますか、そういう人間の根本的な姿を、聖書は繰り返し、繰り返し、明らかにしていくわけですね。 人間の惨めなさまを通して、神の言わば光が現れてくるわけであります。人間が打ち砕かれていくことによって、真理がなんであるかが示されてくるわけであります。 聖書は、そういう意味でパラドックス(逆説)に富んでいると思いますね。 真理は、本当に惨めな人間の罪の現実を通して、現されてくるものです。自分が本当に惨めな者であるということを、本当に、なんとも惨めな者であるということを知る時に、真理とは何かということが示されるのです。 そういうところに、聖書の揺ぎ無き神の知恵の深さを見せられると思うのです。 モーセは、このように打ちのめされて、彼がとった行為というのは、簡単に砕かれたのでありました。そして、彼は命が惜しくなって、パロを恐れて、ミデヤンの野に逃げていくのです。そこで、ミデヤンの祭司、レウエル、イテロとも呼ばれますが、ミデヤンの異教の祭司の所にとどまることになったのです。そして、その娘、チッポラを彼は娶るようになりました。 出エジプト記2:21
チッポラは、7人の娘のひとりであったようです。そして、そこで、モーセは二人の男の子を得ました。 出エジプト記2:22
ゲルショムは寄留者だという意味だそうです。もう一人の名は、ここには出ていませんが、エリエゼルという名前です。エリエゼルという名前は、覚えていますか、アブラハムの忠実な召使の名前もエリエゼルでしたね。エリエゼルは、「神は、わが助け」という素晴らしい意味です。 こういうふうに、男の子を二人得ました。羊飼いとしての40年。私達からすると、気の遠くなるような長い年月。ただ、ミデアンの野で毎日、毎日、羊を飼うのですよ。 今まで、エジプトの王宮で、将来を嘱望されて、輝けるような未来を約束されていたモーセでありました。すべての点において、モーセはすぐれた人だったようですね。それが、本当に、40年、羊を追って、ミデアンの野をさ迷っているわけなんですね。本当に、感慨深いものがありますね。 聖書は、ほとんど、それについて語っていないのですね。モーセは再び世に出ようなどとは、考えなかったでしょうね。本当に、若い頃の自己過信も消えうせ、野心のような思いも消えうせ、前にベック兄が学ばれたように、枯れた柴のように、なってしまっていた。 自分が砕かれ、枯れた柴になった。それが、40年の生活ではなかったでしょうか。 本当に価値のある生涯を送る人は、この世に対して死んでいる人ですね。それは言えると思うのですね。聖書の言ってることですね。パウロもそうでした。この世に対して私は死んでいると言っていました。 私達の問題はどうでしょうか。半分生きて、半分死んで、生殺しと言いましょうか。それはどうも、自分自身に当てはまる気がして、最後に一撃を与えてもらいたいものだと思いますね。 本当に、この世に対して死んでいる人。その人がこの世に益するものであります。その備えの時だったのではないでしょうか。それが、モーセの荒野の40年だったのではないでしょうか。 これで、80年が過ぎていますね。この出エジプト記の3章は、80歳の時です。これから、37章まであるのですが、これがあと40年。なんと、最後の40年は、内容の深い厚いものかとなりますが、備えに80年かかったと言うことなんですね。 この3章の記事はよく知られています。旧約聖書の中で最も有名な箇所のひとつですね。 マルコの福音書12:26
とあります。イエス様も、この箇所を「柴の箇所」というふうに語っています。柴の箇所、柴の篇と呼ばれているのがこの3章です。これはあまりに神秘的で、ちょっと学ぶことができませんが、1節から6節は、主との出会い。7節から、モーセへの神の召命。神が、モーセが召命して選ばれる。ご自分の業のために選ばれる。 出エジプト記3:1
ホレブと言うのは、今でもシナイ半島の発端にある山と言うのをご存知と思いますが、その山だろうと言われています。 出エジプト記3:2-6
非常に、厳粛な出会いの場面ですね。モーセは、それまでの生涯の間にもちろん、神のことについては、知識としてよく知っていたと思うのですね。それは、ヘブル人ですから当然。 神は、天地創造の神であることをモーセは良く知っていたはずです。イスラエルの神に対して、守りの御手、導きの御手を伸べてくださる神であることを知っていたはずです。 しかしモーセは、個人的な神との出会いの体験はどれくらいあたでしょう。あまり、はっきりしていなかったと思うのですね。 モーセにとっての、決定的な神との出会いの経験は、この2節から6節のところですね。本当に火で焼き尽くされるような体験ではなかったかと思うのですね。神の聖い臨在の真っ只中におかれているモーセ。あるいは、もっとも祝福された経験ということができるかもしれません。 モーセは本当に神の光の前で、恐れたのじゃないかと思うのですね。聖書のあちらこちらに、聖書のそういう記事が出ています。 イザヤの経験についても少しイザヤが書いていますでしょう。それは、多くの人々がいろんな形を通して経験をしているはずです。もちろん多くの場合、隠されていると思いますけどね。ちょっとイザヤを見てみましょう。 イザヤ書6:1-7
神の御臨在に触れるというか、神がそこにいらっしゃるという、その神の聖い臨在の前に引き出されていく、イザヤの姿がそこにありますね。 神秘的なことでありますけど、しかしモーセにとっては決定的な出来事でありました。主との出会い、神との出会いは、十分な言葉で説明することができません。この世の人が聞けば、全く馬鹿馬鹿しく聞こえるようなことなのです。 しかしそれは、経験する者、神との出会いを経験する人でなくては、現実として、受け取ることができませんけど。 モーセは、ホレブの山に行きました。そうしますと、彼がその山に登って行ったのでしょう。そうすると柴が燃えていたのです。柴が炎を上げて燃えていました。柴が炎で燃えていたのですけど、ぜんぜん燃え尽きることがないのです。ぜんぜん焼けて消えることがない。不思議な柴でありました。 それで、モーセは、この不思議な神秘なものを見ようとして、これに近づいていったのであります。 出エジプト記3:4-5
非常に深い意味がここにあると思います。 少し、例には的外れかもしれませんが、私は学生時代にひとつの神様を求めるきっかけになったことがあります。今までも、いろんな所で繰り返しお話しもしましたが、正しいとか間違いとかいうのは、どういう所で決まるのかということでした。 究極の、根拠はどこにあるのかというのが、私にとって大きな問題でありました。 盗んではいけない。殺してはいけないと言ってるでしょう。殺してはいけないという道徳律。この道徳律は確かに私達の良心にとって、そうだろうと思います。 しかし、殺すなかれ、盗むなかれ、偽証をつくなかれ、そういう道徳律は、なにゆえに正しいのか。それの究極の根拠は、何か。そのことを、私は非常に疑問に思ってたのです。 なぜそれがいつも正しいのだろうか。そういうことを思っていました。 多くの人々は、良心がそういうからだと言うかもしれません。ところが、現代の社会においては、この良心というものも相対化してしまうのですね。 唯物論というのがあります。人間の良心というのは、実は、社会体制や、いろんな体制が作り上げたものだというのですね。だから、良心が先にあるのじゃなくて、社会体制や、そういう簡単な経済的な問題のほうが先にあるのだ。そのような考え方もあるのです。 (テープ A面 → B面) ですから、当たり前だといわれるこの道徳律の究極の根拠は、いったいどこにあるんだろうかと疑っていたのです。そして、だんだん気がついていったのは、この自明という道徳律の正しさを疑うなら、私は、全く暗黒の中にはいってしまう。これは、たいへんな所にはいってしまう。何が何だかわからに混沌の中にはいってしまう。 そして、それは、自分にとって恐るべきことだとわかってきたのですね。 そういうことを通して、神の存在について真剣に考えるようになってきたのですね。神がいらっしゃらなければ、すべてのものは、確かに相対化されてきます。あなたの言ってることは、あなたには正しいかもしれないけど、私には、私の立場がありますよということに、どうしてもならざるを得ないわけです。 それらのものを越える所の権威がなくなってしまうわけです。それが現代社会の、近代人の持っている根本的な問題ですね。 すべての人が、自らを小さな神としている。聖書が、はじめから言っている所ですね。 結局、「汝、殺すなかれ。盗むなかれ。偽証するなかれ。」そういう神の戒めの究極の根拠、それは何か。その最後の所は、神のご性格、ご人格、そういっても人間的になってしまいますが、神ご自身の本質、神ご自身のご人格、そのものとと相容れないという所に、戒めの根拠があるんだということがやっとわかってきたのですね。 言葉というのは、その人の人間性を現してくるものでしょう。私という人間が語る言葉は、私を現しているわけなんですね。松尾芭蕉の俳句の中に、 口あけてはらわた見せるざくろかな という俳句があります。文字通りそうなんですね。しゃべる言葉は自分のことをよく現すものなんです。 自分のこと知られなくなかったら、黙ってれば良い。黙っとれば、でも交わりはできないのですね。私達が語ることは、自分を現すということであります。私の言葉を、私そのものと切り離すことはできないのであります。 私がどういう考え方をして、どういう性格ものものであるか。正直であるか、そうでないか。語ることは、そういう意味では恐ろしいことでもあります。自分を現すことなんです。神が語られる言葉は、神のご人格の現れでしょう。特に、神においては、神はその差がないのです。人間は、言葉と内実が違うことがあるでしょう。そういう時は不真実。その不真実が言葉を通して現れてきます。ですから言葉は、文字通り私たちを現すのです。不真実も現すのです。「あ、あの人の言葉と内実は違う。」と判断することができます。 しかし、神はそうではないのですね。神のご人格は、そのまま神の言葉なんです。 ですから、神が、汝近づくなかれと言うなら、そうなんです。神の掟は、神のみことばですが、神の律法、神のご人格そのものです。 テモテへの手紙第I、6:15-16
神は近づくことのできない光の中に住まわれているのだ。そう書いていますね。神は真実な方です。神は義なる方です。神は無限の愛に富まれる方です。神は聖なる方です。聖書は、そう言うふうに神のご人格を表しています。 ですから、それに反する所の不真実は罪なんです。神の義に反する所の不義は罪なんです。無慈悲も穢れも、神のご人格と相容れないから罪なんです。命の源である神との交わりを絶つものなんです。 私達の罪と言われるものは、ですから、それは、神が受けることのできないものなのではないでしょうか。 私は、そういう究極的な道徳律の根拠はなんだろうかという疑問を通しながら、あえて、自明だと言われていることを疑わなければ良いのに、疑って、かって、あるクリスチャンの恩師の先生に、むっとして、「きみ、余計なことを疑っちゃいけない。」と言われたことがありますけど、当たり前である、自明のことをどうして君は疑うのかと、先生は不快そうにおしゃったことがりますけど、いわば本当に当たり前の自明のことを疑問視していくことは、すなわち、自分の存在そのものを、土台そのものを掘り崩して行くことであります。 神のみことばを否定することは、すなわち、自分自身の存在の根拠を否定していくことなんですね。ですから、恐るべきことなんですね。 ですから私達は、神の権威の前に服さなければいけないのですね。究極的には。 神はご自分の聖なる、ご自身のご臨在を示すことによって、モーセにそれ以上近づいてはならないとおっしゃったのです。 それ以上、触れてはならない。モーセよ、あなたは、そこにひれ伏さなければならないと、主はおっしゃったのですね。 神のご人格、それが真理そのものでしょう。神のご人格そのものが、真理そのものが、万有の存在の根拠なんです。このすべての物を、見える物も、見えない物も支えている物は、神のみことば、神のご人格、真理そのものなんですね。 私達は、その真理なる神の御前に恐れをもって、ひざまずくべき者なんですね。モーセはその神秘なるものの中に手を突っ込もうとして、近づいて見定めようとしました。しかし、神はご自分の聖いご臨在を現され、モーセにあなたの靴を脱ぎなさいとおっしゃったのですね。非常に、厳粛きわまりない箇所なんですね。 使徒の働き7:30-33
モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなったと書いてあります。万物の究極の所に立っているもの。すべてのものの背後の究極のところ、もうこれ以上は行き止まりっていう所に立っているもの。それが、神の権威、聖さなんですね。そこにモーセは立たされました。 被造物全体が、この神の絶対的な主権の前にひれ伏さなければならない。そのことを思うと、この時にはっきり示されていると思うのですね。モーセの、この神のご臨在の前に、彼が立たされた経験に比べたら、その後の数々の奇跡も、それほど問題じゃなかったのではないかと思うのです。 モーセにとっては、それは本当に驚くべき経験であったと思います。 パウロは、私はイエス様の焼印を身に帯びていますと言いましたけど、モーセも同じ経験をこの時にしているのではないでしょうか。本当にそれは、モーセの魂の奥底に刻まれて消えることのない経験でありました。 モーセは、この主との出会い以後、神に対する確信が微動だにしなかったのではないかと思います。パウロもそうでした。微動だにしていないのです。 いろいろ問題があっても、神の存在、神の権威、それに従うことについて、従うべき自分の立場について、全然揺れることがなかったのです。 あまり、ここにだけこだわっていると時間がなくなりますが、詩篇の90篇を読んでみましょうか。 これは、モーセの祈りです。神の偉大な尊厳、を思います。 詩篇90:1-17
モーセは神の尊厳をよく知っている人でありました。神のみいつの前に恐れおののいているのが、モーセでありました。 モーセの力の秘密も、もちろんそこにありました。神を恐れていた。神の絶大な、権威の前に恐れおののいている。そこにモーセの力の秘訣がありました。 出エジプト記3章にかえりましょう。 出エジプト記3:7
「わたしは、彼らの痛みを知っている。」本当に慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。私達の痛みも、嘆きも知っていらっしゃる。これは本当に、苦しんでいる人にとって、大きな慰めの言葉だろうと思うのですね。 神が知っていらっしゃる。私達の置かれた状況を、悩みを、痛みを、わたしは知っているとおっしゃるのです。 出エジプト記3:8-10
これが、神の召命でありました。神は、モーセと出会われただけでなく、モーセに非常に重要な使命を与えられました。 出エジプト記3:11
ここに、しりごみするモーセが出てきますね。彼は本当に、しつこくしり込みするのがわかります。4章までそれは続いてるんですね。本当に、モーセはしつこくなんとか逃げよう、逃げようとするのですね。 でも、考えてみれば当然ではないでしょうか。どうでしょうか。絶大な権力を持っているパロの所に出て行くのですね。一介の羊飼いが出て行くのです。そして、200万に近いようなイスラエル民をエジプトから連れ出すなんてことは、考えたらできないことですよね。当たり前ですよね。 私は、いったい何者なのでしょうか。どうして、そんなことが私にできましょうかということなんですね。 特によく、献身という言葉がありますでしょう。本当に、これはたいへんな問題なんですね。献身っていうことを安易に考えたら、たいへんなことになるわけでしょう。 もと宣教師、もと牧師って、人が世の中にはいっぱいいるんです。はるばる宣教師として日本に来ながら、挫折して語学の教師している人もいます。本当に、神の業に身を捧げることは注意すべきことですよね。安易に考えるべきではない。私達は教えられます。 自分の仕事で失敗することは、どうでも良いことなんです。もと教師、わたしもそうなるかもしれませんね〜。 しかし、神のみわざのために召しだされた者が、途中で挫折することは許されないことなんですね。これはたいへんなことであります。 モーセは、なんとかして、逃れようとしているわけです。神のみわざに携わることは、どんなに重大な責任が伴うかモーセはよく知ってるわけなんですね。 この世のこととは違うのです。神の器として立てられることは、どのように厳しいことであるかは、みなさんもご存知でしょう。それは、聖書を学べば出てくることです。 使徒の働き9:15-16
これも、なんとひどい言葉でしょうと私達は思います。「彼が、どんなに苦しまなければならないか。」 イエス様の名のために屈辱を受け、迫害を受け、様々な目にあいました。石打ちにされたり、地中海を難破して何日も漂流したり、ムチで打たれたり、足かせをして監獄にほり込まれたり、そして、最後は、彼は斬殺ですか、首を切られて死んだと言われていますね。 ちょっと考えてみてください。これが、主の僕の生涯であります。 神が選ぶ、立てられる器と言うのは、その道を歩むのですね。どうして、これに耐えられましょうか。パウロは、人間的には耐えられないことなんですね。単なる人間的な基準で考えるときに、耐えられないことなんですね。 単なる、人間的な思いや決心によって、勤まることではないのですね。それが、神が立てられる所の器であります。ですから、なんとかして、しりごみをしてしまうのは、ある意味本当だ思うのですね。 神の召命なんていうことを簡単に言う人がいます、ちょっと危惧を持ちます。そういうものではないと思うのです。本当に、信仰があっての話しなら、良いのですが、本当に信仰があるか無知なのかどちらかだと思うのですね。 モーセはなんとか逃れようとしました。ついに、神は怒りを発せられたと4章に出てきますけども、同じような例は、エレミヤもそうでした。 エレミヤ書1:5-8
エレミヤ書1:17
これは、恐ろしい言葉なんですね。出て行けって言うんですね。行かなかったらお前を砕くと言われたのですから、エレミヤも進退窮まった人だったのです。 召された人は、そうなんです。他に道がない人なんです。そこまで、言わば、いってるってことなんですね。 もちろん全部がそうではないですよ。イザヤは、「はい、私はここにおります。」と言いました。 いつかある兄弟が、「私はダメだ、ダメだ。」と言わないで、イザヤのように、「はい、私はここにおります。」と言いましょうと学ばれたことを忘れませんけど、イザヤはそうだったんですね。 誰か、私のために行く者はいないのかの言葉に、「はい、私はここにおります。」と、「私を遣わしてください。」と返事したのです。これは、素晴らしいですね。 どっちも素晴らしい、わけですが。神のみわざは、神のみわざに携わることの重要性は、十分に私達が、知る必要があると思うのですね。モーセの神との応答は、ずっと続いていきますが、それはまた後にしましょう。 神は、私と共にいると、3章12節でおっしゃいました。 出エジプト記3:12
神は、繰り返し繰り返しおっしゃいます。「私は、口が重い。」とモーセが言うと、「人間に口をつけたのは誰だ。」と神はおっしゃるのですね。すべてのものを、私は整えるからとおっしゃるのですね。 ですけれども、これから始まる苦難の生涯を思ったら、だれも、喜んで行きましょうとは言えないでしょうね。 モーセの苦しみは、本当に言語に絶するものなんですね。40年の荒野の歩み。私達はそれをこれから見ていきます。本当に、荒野の歩みはたいへんなものですね。 出エジプト記3:13
簡単に言うと、あなたの名前はなんですかって、質問なんですね。 出エジプト記3:14
これは、全く不思議な言葉ですね。本当に、この神の御名というのは不思議な言葉ですね。「私は、ある。」これが、神様の名前なんですね。不思議な名前ですね。 これが、ヤーウェーって名前なんですね。「わたしは在りて在る。」、それが、ヤーウェーって、名前なんです。なんと不思議な名前でしょうか。 実に深遠な意味を持つ言葉なんですね。多くの人々がいろんなことを考えているわけですが、捕まえ尽くすことのできない意味の深さを持っているのですね。 「ある。」というのですから、あるという言葉ほど説明のむつかしい言葉はないのですね。 「ある」とは、なんですかと説明しよとすると自己矛盾をきたすと言われています。Aというものがこうおうもんであると、「ある」という言葉を使わないと話ができないのです。 ところが、「ある」という言葉は、「こうこう、こうである」と、説明する言葉の中にどうしてもその「ある」がはいってくるのですね。 ですから、存在と言うか、「ある」の説明ができないのです。これは哲学者なんかが、よく言っていますね。哲学の根本問題なんですね。存在というのは。 「ある」とは何か?は、実は人間の頭では考えきれないのです。 ところが、神は、わたしは「ある」という者がとおっしゃるわけですから、これは、もう人間が捕まえることができないのです。このひとつの言葉をとっても、聖書は、いかに驚くべき書物かと言うことが言えると思うのですよ。 「わたしは、在ありて在る。」、これが神の名なんですね。ヤーウェーの意味なんです。わからないという、どうも、わからんばっかり言っていても困りますから、いくつか簡単に聖書を見ると、ヤーゥエーの意味は、第一に「昔いまし、常にいまし、後にいます。」 ヨハネの黙示録1:8
第二に「ある」ということは、万物の存在の根源をなしている方と考えることができるかもしれません。 第三に、「私は在りて在る。」という意味は、わたしは、始めもなく、終わりもなく、あるものと言えるかもしれませんね。始めがなく終わりがないとは、人間には考えられないのです。 私達は、限りある世界に生きていますから、それ以外のことはわからないのですね。人間の頭脳というのは、そういうもんなんです。始めもなく、終わりが無いとは考えられない。 第四に、ご自分でご自分を在らしめる方。ご自分で、自ら在りたまう方。私達は、どうでしょうか?一切の被造物と神を区別するのは、これなんですね。神は、ご自分で自ら居ます方なんです。 ここで60分テープ切れ |