出エジプト記4


蘇畑兄

(レトロテープ聞き取り)

繰り返しオーバーラップもしながら、お話ししてきました。
モーセ。人間的に見たら古代イスラエルの最大の英雄であります。本当に、最大の英雄と言ってもいいかもしれません。
建国の英雄と言うふうに普通の歴史家なら見ているようです。

しかし、聖書は違うのですね。聖書が見る人間と、神がご覧になる人間と私たち普通の人間が見る人間は違います。
人間的に偉大なモーセでありましても、神の前には、本当に多くの挫折と弱さを抱えていた人間でありました。

本当に、世の歴史家が書いたら、全く違うモーセを書いたと思うのです。でも、聖書はぜんぜん違うのですね。そこが、神の御言葉であるゆえんであります。
モーセは、今までお話ししましたように、イスラエルのレビ人の家庭に生まれながら、当時のエジプトの王の命令によって、ナイルの河に投げ込まれなければならない子供でした。
しかし、母親はしのびずにパピルスの籠にモーセを入れて流したのであります。

そして、それを神は驚くべき摂理を持って、パロの娘の水浴びする所に流れていったのです。
そして、そのパロの娘は、このパピルスの籠を上げた所、非常にかわいい、美しい赤ん坊であり、心を動かされ、自分の息子としてパロの宮殿のなかで育てた不思議な運命をたどった人であります。

しかし、40歳になった時に、自分の素性を知り、ヘブル人が非常に苦しめられていることを見るに絶えず、エジプトの王子の立場を捨てて、ヘブルの民の中に入っていったのです。
ところが、彼が、本当にみじめな敗北をしたのでした。彼はエジプト人を打ち殺して、パロがモーセを探して殺そうとしていることに気づいて、命からがらにミデヤンの野に逃げていったのであります。

そして、そこでイテロというミデヤンの祭司の7人の娘の中のチッポラを妻として娶って二人の男の子を儲けて、40年間、ミデヤンの荒野で羊を飼っていたそう言う人物であります。
40年間は、王宮で過ごし、40年は荒野で羊を飼っているのであります。80歳でありました。

彼はある時に、羊を追ってホレブの山に行ったときに、燃える柴の中から神はモーセに語られたのでした。これは3章ですね。モーセと神との出会いという決定的な出来事でありました。
私たちの人生にとって、神の聖い臨在に触れるということほど、重要な人生の経験はない。
神は聖なる方である。私たちが身を持って知るほど、根本的な経験はない。それが出会いと言われています。

イエス・キリストとの出会い、神との出会い、それであります。
神の聖さの前に、自分が本当に汚れたものである、罪深き者である。それを知ってひれ伏すということ。そのことが、最も恵み深い体験であります。
人によっていろいろ違いますし、いろんなことで人は神に出会いますが、神ご自身を知るようになってきますね。

モーセは、そのホレブの山の中で、神と出会ったのであります。神は、モーセにご自分を現されました。
「あなたの足の靴を脱げ、あなたの立ってる場所は聖なる地である。」
神はモーセに、ご自分が聖なる方であることを示されました。

モーセは恐れおののいて、顔を隠して恐れおののいて、震え上がったのであります。その時に、モーセに神はひとつの重要な使命を与えられました。
神が、モーセにご自分を現されたのは、神がモーセにひとつに重要な使命を担わされるためでした。そういう意味で、3章から4章はモーセの召命なんであります。
神は、ご自分の器として一人の人物を選び出した。そして、ご自分の計画を担わせる働きをさせるわけです。それを召命(しょうめい)と私たちは呼んでいます。

その召命とは何かと言いますと、エジプトでパロに虐げられているところの、本当に苦しみあえいでいるイスラエルの民を、パロの手から解放せよというのが、モーセに対する神様の召命なんですね。

出エジプト記3:9-10
9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

その当時、イスラエルの民は正確にはわかりませんが、百何十万人の民であります。戦の出来る男の数だけで、60万人と書いてあるわけでありますから、どう考えても、その3倍近くいなければならないわけです。
ですから、170万〜180万人になるのではないかと思うのですが、それだけの民なんですね。
しかも当時のエジプトは、世界最強の国なんですよ。みなさんよく知っていますように、ほかの国々はまだ起こっていませんから。後に、バビロンやアッシリアや、その後にギリシャやローマが出てきますけど、まだ、はるか前であります。

当時の世界に君臨していたのはエジプトでありました。この世の巨大な世界最強の国でありますし、その最強の権力を持っているのが、エジプトのパロでありました。
その中から、イスラエルの民を解放せよと言うのですから、これはモーセにとっては、とんでもないという考えを持ったのではないでしょうか。
とてもじゃない。それは、人間的に考えればそうじゃないでしょうか。

どうして、そんな事ができるでしょうか。私はいったい何者なのでしょうか。モーセは神に申し上げたのです。

出エジプト記3:11
11モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」

本当に、何も持っていないモーセであります。力も武力も何もない。素手のモーセであります。
それを、行ってイスラエル人を連れ出せと言うのであります。モーセが、そんなことはとてもできないというのは、当たり前のことであります。

神が鼻に鼻綱をかけて引っぱり出すように、引っぱり出そうとするのに、モーセは、後ろに後ろになんとか頑張ろうと行こうとするのが、3章、4章なんですね。
ほんとに後ずさりしようとしているのが、モーセなんです。神は、それを掴んで引っぱり出そうとしているのです。

もしも、モーセが、あの40年前の若い頃でしたら、どうでしょうか?決起に流行っていた当時のモーセなら、どうでしょうか。
あるいは、意気に燃えて、よしやろうと言って飛び出して勇み立ったかもしれませんね。

ですけれども、惨憺たる挫折の経験を通して、自分の無力さを身に浸みて知っている人なんです。自分の知恵の浅はかさも彼はよく知っております。気力がどんなに挫けやすいものであるかも知っています。
自分にあると思っていた勇気がいざとなったらしなえてしまった。そのこともモーセは経験しています。モーセは40年前に、自分の身分を全部かなぐり捨てました。
王子としての立場を捨て英雄的な行為に乗り出したけれども、命が惜しくなり、捕らえられて殺されそうになったら、命からがら逃げてきたモーセでした。

そういう意味で、モーセは負け犬のようなみじめな体験をしている人であります。
この挫折は、本当に私たちは、人生で挫折しない人はいないと思うのですね。多かれ少なかれ挫折を経験します。
挫折というのは、若い時のほうがいいなと思わされました。二十歳前後に、人はある程度の挫折を感じます。その次に立ち上がれない人もいるでしょう。われわれの周囲にもいますね。

飛び越えなければならないバーを落としてしまって、もうどうやっていいかわからない。
人は、なんとか立ち上がって、なんとか進んでいくものであります。いっぺん挫折してしまったことが、挫折してしまったことが強いコンプレックスになって打ちのめされてしまうと立てなくなってします。

話が飛びますけど、あの闘牛。牛どうしを喧嘩をさせる闘牛。TVで見たことがりますけど、端正こめて育てて、角を向き合わせる。
いっぺん負けた牛は、二度と使えないそうですね。とさつ場行きなんですよ。非常に厳しいんです。
いっぺん負けるともう喧嘩できない。それは闘犬でもそうなんだそうです。いっぺん破れるともう使えない。それほどに強烈なんですね。負けると言うことは。

挫折をしない人は確かにいません。モーセも、そういう意味で挫折をした人物でした。大上段に斬りかかっていって、挫折した人物でした。
挫折というのは、自分の生き方を貫けないということであります。自分の主義主張が、現実の壁に跳ね返されてしまうということであります。
もう大言壮語して、ああだ、こうだと言ってた人が、やってみたら自分が進めない。現実の壁にはじき飛ばされてしまうわけであります。

そういう時に人は挫折というものを味わいます。そして、ある場合は自殺になたりするわけです。
この挫折ということは、この世的に見ると確かに悲しみであります。避けたいことであります。しかし挫折というものが、信仰の入り口であることがわかってきます。
信仰の門は、順風満帆の人生に開かれているのではありません。この世においてなんの問題もない。その人には信仰の門はあまりに小さくて見えないのであります。

私たちが、本当に打ちのめされてしまう。全く、自分自身に対して自信を失ってしまう。自分を見限って絶望してしまう。
そういうことを通して、初めて光が射し込んで来るのであります。天からの光、大いなる喜びの知らせ。
福音というのは、いわば、打ちのめされた人々に対して初めて開かれるものなんですね。この世の事柄の福音は根本的に違うということがると思うのです。

たとえば、この世の事柄を見てください。「あなたに自信を与える方法を教えましょう」、そういう看板は随分あるでしょう。
赤面恐怖症ですか。どうぞ、いらっしゃい。催眠術で治しましょう。なんとか鍛錬法。なんとか教育法。
この世の人々が考えることは、なんとかして自信を持たせよう、なんとか自分自身を強い者にしようというのが、この世の人々の考え得ることであります。

しかし、聖書は根本的にそうではないのですね。福音の福音たることは、根本的に逆であります。
信仰というのは、自信を回復させるものではないんです。そうではなくて、自分自身を捨てるということであります。
イエス・キリストに自分のうちに生きて頂くというのが信仰なんです。自分自身を強めるのではなくて、自分自身はもうどうでも良いのだ、自分自身は問題じゃないのだと知るという所に、本当の意味での解放があるのですね。

自分が強いとか弱いとか、賢いとか愚かであるとか、そういうことは自分に関することなのです。自分にかかわることだから、それをなんとか良いものしようと頑張ってきたわけですが、そこに解決はないと教えられました。
私たちが、自分自身をなんとか繕おう。破れた衣を繕うように、教養を身につけたり、自信を身につけるようにいろんな鍛錬をしたり、そういう破れた衣を繕うことではないのです。
その衣を脱ぎ捨てること。新しい衣を着ること。私たちのうちにイエス・キリストご自信に生きて頂くようにすること。それが、聖書の解決法なんですね。イエスキリストは、そう言う意味で私たちを根本から解放なさるお方であります。

自分自身が問題でない。たいして問題でないということに気づいて来るということは、本当に大きなことなんですね。
「キリスト者の自由」というルターの有名な本がありますが、キリスト者に本当に与えられる自由とは、そういうことなんですね。

今まで、朝から晩まで自分のことばっかり、それで精一杯でした。本当に、自分、自分で、窒息しそうに歩んでいた者です。
ああいうふうにしなければならい、こういうふうにしなければならないで、がんじがらめになっていた者でありました。
それが、しかし、息詰まる原因なんですね。

朝から晩まで自分のことばかり考え、一生、生まれてから死ぬまで、自分のことばかり。神様は自分のことはどうでも良いので、気にしないでください。
神ご自身を問題にしてくださいとおっしゃいます。イエス・キリストを私たちが自分のうちに迎え入れること。イエス・キリストによって、生かされること。生きて頂くこと。
そこに本当の意味での解放があるのですね。

神が義と認められるのは、私たちの正しい行いによってではない。私たちの行いによってではなく、イエス・キリストご自身を持っているかいないかが、神の義の基準であります。
イエス・キリストが私たちのうちに生きてくださる時に、私たちには解放があり、喜びがあり、自由があります。それを、義と認めてくださる。

徹底的な挫折と、自由の経験者が、パウロでありました。
本当に、クリスチャン達を迫害するのに、殺害しようと燃えながらと聖書に書いていますけど、それほど激しい行動をとって、クリスチャンを迫害しながら、180度の転回をして、全く逆の立場に行った人でしょう。
そういう意味では、パウロも徹底的な挫折を経験していた人でした。

自分の信念を貫き通さなかったのですね。彼は、イエス・キリストの光に打たれたときに、自分の歩みが全く間違っていた事を認めざるを得ない人でした。
そういう意味で、彼は、徹底的に挫折した人物でした。ですから、もう自分のことについては、誇ることの出来ない人でした。自分のことについてはですね。
神は、そういう形でパウロを砕かれたのですが、彼は、本当に自由というものを経験した人でした。ちょっとガラテヤ人への手紙を見てみましょう。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

コリント人への手紙第I、3:3-7
3あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
4ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
5アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
6私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
7それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

これを書いたのはパウロなんですね。
「アポロとは誰ですか?」、アポロは非常な雄弁家でした。コリントの信者たちが、わたしはパウロにケパにアポロにと分裂しだしたのです。
その時に、パウロは言ったのですね。「アポロとは誰ですか、パウロとは誰ですか。人間は問題ではない。わたしは、ぜんぜん問題ではない。」と彼は言っているのですね。
神だけが問題です。ここに解放されているパウロの姿を見ることが出来ると思うのですね。

わたしは、あの人につく、この人につくと言うのは人間的な次元の問題です。あなたがたは、肉に属しているのだと叱責しているのですね。
人間をそういうふうに見てはいけない。神から遣わされてる者として、背後におられる神を見なければならない。
そうしなければ、私たちは、必ず人につまづくようになてしまいます。

イエス様がなされる、福音が与える解放は、自分自身が問題じゃないんだって、知ることなんです。ですから、自分の問題も、たいした問題じゃないんだと知るのです。
以前は、もう自分の抱えてる問題が大きすぎてつぶれそうなんです。ですけど、自分がたいして問題でなければ、自分の問題もたいして問題じゃないんです。
だから、問題が残っていようと、残っていまいと、荷は軽いのです。福音が与える解放は、このように、この世が与える解放とは根本的に違うものなのです。

出エジプト記の4章に、もういっぺん帰りましょう。4章の1節から9節までは、モーセはいくつか口実をあげて断ろうとするのですね。モーセの口実であります。

出エジプト記4:1
1モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」

これが一つ目のモーセの口実でした。
あなたは、私をエジプトに遣わすと言っても、エジプトの民は信じようとしないでしょう。あなたが、私を遣わしたと言うことを信じないでしょう。だから、私は、行けないということなんですね。
これに対して、主は3つの「しるし」を与えると言っているのですね。モーセの杖。羊飼いは長い杖を持っています。その杖が蛇になる。

出エジプト記4:2-3
2主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
3すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

「しるし」証拠としての奇跡ですね。
二つ目は

出エジプト記4:6-7
6主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。
7また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。

これが、二つ目のしるしであります。三つ目は、ナイルの水を血に変えると言うことなんですね。
神は、ひとつでも良さそうなものを、十二分な証拠を与えられる。「もう結構です。御心はわかりました。もう十分です。」と言うほど主は示されると、そう思いますね。もう逃れられない。そういうふうにご自分のご臨在を現し、みこころを現された。
そこで、モーセは、イスラエルの人々が自分を受け入れないと言う口実がなくなりました。

出エジプト記4:10
10モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」

これが、二つ目の口実であります。「嫌です。行きたくない。」とは言わないで、「ああだ、こうだ。」と、言っとるわけです。

出エジプト記4:11-12
11主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
12さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

人に口をつけたのも、言葉を与えられたのも神です。言葉をあやつる能力を人に与えたのも私だとおっしゃるのです。
私たちが話し、考えるのも神が与えられた能力で、私たちが自分で作り上げた能力ではありません。体に自分で口をつけたのではありません。
ですから、行きなさい。語るべき言葉も力も私が与えよう。そうおっしゃるのですね。

(テープ A面 → B面)

主はすべてのことを整えてくださいます。ご自分の業のために。ですから、行きなさいとおっしゃいましたけれども、モーセは進退窮まります。
どの口実も主の前に通じません。そこで、彼はもう自分の本心を言うのです。

出エジプト記4:13
13すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」

行きたくない。もう口実ではなくて、自分の本心をここで言い表しているのです。
おそらくモーセとしては、このまま羊飼いとして安穏な生活に留まりたい、いまさら、もうあんな苦難の中に出ていきたくないという思いを持っていたのではないでしょうか。

小市民的なささやかな幸いに留まっていたい。そういう思いが、モーセの中にあったのではないかと思うのですね。
主の召命に応えて出ていったら、それはもうたいへんなことであります。今までの生活を全部捨てていかないといけないのであります。
そういうことを考えると、とても決心がつかないのであります。よくわかる気が致します。

本当にクリスチャンとして歩みながら、いつのまにか恵みを与えられて、ぬくぬくとしてしまいます。
本当に激しい戦い、戦闘から離れて、恵まれた生活の中にあると、いつのまにか小さな小市民的な幸せをしっかり掴んでいたい。そういう誘惑にいつもかられるわけであります。
モーセの思いはわかるのですね。

出エジプト記4:14-17
14すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。
15あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
16彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
17あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。」

神は、モーセのあまりにも従おうとしない、なんて言いますかね、あくまで引きずり出されようとしないモーセに怒りを発せられたのでありました。
そして、兄のアロンを口のかわりに備えるとおっしゃるのです。あくまでも、逃げようとするモーセを、神は、どうしても引きずり出そうとしている。

18節から、モーセは出ていくのですね。出ていくのですが、どうも、しぶしぶ、神に従うモーセの姿が伺えるのではないかと思うのですね。
心から、従おうとモーセはまだしていないようです。もう口実は、ダメになり、嫌だと言ったら、神が怒られるものですから、もう、どうしようもない。
ですから、もう、しぶしぶ出て行かざるを得ない。その喜んで従おうとしないモーセに対しても、なお、神は諄々と語っておられますね。23節まで続きます。

どうして、モーセが喜んで召命を受けようとする決心をしてなかったかと言えるか。出エジプト記4章の24節-26節は、昔から、聖書を学ぶとき問題にされた箇所だそうです。何を言っているのか。
モーセが、本当に心から従おうとしていない。後ろ髪を引かれ、断ち切ることができないでいる。そういうモーセの不従順な態度に対して、神がご自分の決意を示されたのではないかと思うのです。

出エジプト記4:24
24さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

これは、本当に怖い記事ですね。聖書のなかには、こういう記事がときどき出て参ります。神が、ご自分の器として用いようとされている者を殺そうとされる。これは、本当に驚くべき記事です。
神はいつまでも不従順な煮え切らない態度を見過ごしにされることはないのであります。
心から従がおうとしない、ご自分のしもべに対しては、心からの怒りを発せられるのであります。

14節の怒りは、まだ小さい怒りでした。しかし24節では、神はモーセの命を奪おうとしているのであります。
人は、自分の命の危険を感ずる時に、本当の意味で目覚めるのであります。命の危険を感じないときに、本当に人は砕かれないのですね。命の危険に接するときに、ほんとうにかたくなな人も砕かれるのですね。そういう意味で、死の危険が迫ってくるのは、大事な事柄であります。
命が、ひとつしかないのは、その意味で良いことであります。

モーセは、自分の命が奪われるのではないかと思ったときに、彼は目覚めて必死になるのですね。神は、モーセを殺そうとされた。
ある人は、それを激しい熱病か何かに襲われたのではないかと言っています。激しい熱病に襲われた自分の状態を、モーセが、神が自分を殺そうとされていると感じているということは、モーセが自分の不従順さに気が付いているということではないでしょうか。
確かに、モーセは、神様に対して後ろめたい思いを持っていたと思います。ですから、そういう事柄が襲いかかったときに、神が自分を殺そうとされていると、気が付いたと思うのですね。神は、恐るべきお方です。慣れてはいけない。

出エジプト記4:25-26
25そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」
26そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

チッポラについては、聖書はほとんど語っていません。どんな女性であったかと言うことも語っていませんけど、チッポラの素早い果敢な行為を見ることが出来ますね。
25節、26節。火打ち石を持って、自分の息子たちに割礼を施した。
チッポラや息子達との安穏な生活に、モーセが後ろ髪を引かれている。それから切り離せられない。ですから、ぐずぐずしている。それに対して、チッポラが大胆に、これをモーセを切り離し、「しっかりしなさい。祭司のもとに心を残してはならない。家庭生活に未練を残してはいけない。」、モーセにそういう決断を与えているのがチッポラではないかな。
苦難を恐れてはならない。モーセに、チッポラは態度で示しているのではないかと言っていますけど、本当に、そうではないかなと思うのですね。
モーセには、いまから始まる苦難に恐れがあるわけです。これに従えば、どれだけの苦難があるか。ミデヤンでの安穏な生活を捨てなければならない。
ですから、ためらっているわけです。チッポラはそれを切り離しているのです。

ルカ福音書9:57-62
57さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
58すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
59イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
60すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
61別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

非常に厳しい言葉ですね。ある人は、あなたの行く所どこにでも着いていきますと言いました。それに対して、イエス様は、あなたはダメだとおっしゃっているのですね。
イエス様に着いていくことが、この世的に素晴らしいと勘違いしていた人たちでしょう。
その人に対して、自分には枕する所もないとおっしゃっているのですね。

父を葬ることを許してください。これは、亡くなるまで父の面倒を見させてくださいと言っているのですね。ですから、父や母がこの世を去っていなくなったら、あなたに従いますと言ってるのですね。
それに対して、父や母のことは神にゆだねなさい。あなたが、心配しなくてもよろしいと言うことなんですね。
ひとりの人はいとまごいに帰らせてくださいと言いました。それに対して、手を鍬につけて、うしろを見る者は神の国にふさわしくないと言われました。ほんとうに、厳しい言葉ではないでしょうか。

わたしたちは、どういう態度をとっているでしょうか?本当に、この世から選び出された者でしょうか?
それとも、わたしたちは、まだ、この世に、まだ属してるいるのでしょうか・
わたしたちの思いは、どこに向けられているのでしょうか?

ほんとうに、自分の後ろのものを焼き捨てなければならないということを思い知らされますね。
いつのまにか、イエス様を受け入れて、「ああ、私は主のものだ。」と歩み始めた頃のことを、いつのまにか忘れてしまって、本当に安穏な歩みに慣れてしまって、厳しい所に出ていくことを忘れがちな自分のことを反省させられます。

コリント人への手紙第Iの中に、「もう自分自身のものではない。あなたがたは代価を払って、買い取られたものです。」とパウロは書いていますね。クリスチャンに対して。
神のものとさせられる。私たちがそのことを忘れるときに、不平不満をもらすのではないでしょうか。

私たちは、いろんな事に不平不満を抱きがちです。生活がどうのこうの、自分の置かれている境遇がどうのこうの、本当に、そういう不満に私たちが達するというのは、自分にすでに、神のものなのだというのを忘れている証拠なのです。
すでに主によって、贖いとられている者であるということを、私たちがはっきり覚えるなら、そういう所から解放されるのではないかと思うのですね。

確かに、妻チッポラについてはほとんど述べられていませんけど、このチッポラのとった態度は果敢な決断と行動でありました。
割礼を施すのは、子供にとってはたいへんな痛みでありますから、たいへんなことです。そういうことをして、モーセにしっかり立ちなさいと言っていると思うのですね。
モーセは、この自分の子供とチッポラをイテロの所に返していることが後でわかります。どこで返したのかわかりませんけど、おそらく、ここで返したのではないかと思うのですね。

モーセはこの時にはじめて決断をなしたのではないでしょうか。「本当に主に仕える。」という心が定まったのではないでしょうか。
女性の持ってる使命がある。女性の隠れた、妻の隠れた力がなかったら男とは働けないと思います。
詩篇128篇には、クリスチャンホームの典型が示されています。

詩篇128:1-6、都上りの歌
1幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
2あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。
3あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。
4見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。
5主はシオンからあなたを祝福される。あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。
6あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。

3節ですね、「あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。」、隠されています、しかし本当に豊かな実りをもたらす妻であります。
そういう妻、これが聖書の語っている妻ではないでしょうか。

夫は、本当に神を恐れて一生懸命働きます。妻は家の奥で、家を取り仕切り、満ち足りた豊かな思いを家族に与えることができます。
子供たちは生き生きと食卓を囲んでいるんですね。オリーブの木を囲む若木のようだ。こういう家庭ですね。

聖書の描いている祝福された家庭とは、こういうものではないでしょうか。女性の持っている、女性でなければならない役割がそこにあるのではないでしょうか。
モーセはこのことを通して本当に目覚めたのではないでしょうか。本当に、主に仕えるということは、心から仕えなければならない。喜んで仕えなければならないということ。
いやいや、いやいや仕えてはいけないということ。主に仕えることの第一歩をこの晩から歩き始めているのではないでしょうか。

主によって、選び出され、器として召しだされ、そして、それから役に立つ者として、モーセが心を主に向け、歩み始めたのではないでしょうか。
ここまでにしましょう。




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