引用聖句:イザヤ書7章14節
イザヤ書9:2、6
実は昨日二ノ宮でお話したことで、こちらの春日部からも3時間くらいかけて何人かの兄弟姉妹が来ておられたんですけども、私は今日は2時間で来ましたので、そんなに遠い距離じゃありませんで、ある兄弟が恐縮なさるほどの遠い所から来てるんじゃありませんけれども、昨日クリスマスの意味についてご一緒に考えたんですけれども、同じテーマで、私たち人類にとっての唯一のまことの希望である、イエス様の御降誕について考えてみたいと思うんです。 今年ももう、2週間足らずとなってきました。 私は終戦の直前に産まれたので、もうあと少しで50近くなるんですけども、年をとるにつれて1年っていう時間の短く感じられると言いますか、ますますそれが短く感じられる年になりました。子どもの頃に比べると、生活の型が決まってしまっているので、その繰り返しとなっているので、子どものときのように新しい、新鮮な体験というものを日々しなくなるせいか、時間がどんどん経っていくように感じられるのであります。 モーセは詩篇の中で、それは早く過ぎさり、わたしたちも飛び去るのです、と言いましたけれども、本当に時間っていうものがあっという間に過ぎ去って行ってる気が致します。新幹線にでも乗って驀進しているように時間がどんどん過ぎ去るのであります。 しかしまた逆に自分が今まで歩んで来た、この過越し方を振り返って、自分の意識に沿って時間をさかのぼると、随分な大時間が今までに経ったような気もするんです。 幼かったあの終戦後の時代なんか、もう遥かな遠い世界になってしまいました。あのような時代が本当にあったのだろうかという気さえするのであります。 ここには大正や明治の時代を生きてこられた方々もいらっしゃいますけれども、本当に大正の時代とか明治の時代というのは、遥か遥か遠い昔のように感じていらっしゃるのではないかと思うんですね。あまりにも早い世の中の変わり様のせいかもしれません。 信仰を与えられるようになりますと、時間というものに対して関心を抱くようになります。時間というのは本当に不思議なものだと思うんです。 最近はよく地方の集会を訪ねるんですけども、飛行機を使うようになります。飛行機に乗りますと、東京都内でグズグズしている時間には九州とか北海道に着いてしまいます。自動車で1時間や2時間もかかってクネクネと行く距離を、飛行機に乗ると10分くらいであっという間に飛び越していくのであります。 時間っていうものはどこでも一律に流れているのではなくて、何か重層的なですね、時間にもいくつもの重なり合いがあるのではないかと非常に感じるんです。あたかも速いスピードで激流となって流れる大きな川の主流と、その川にチョロチョロゆっくり流れ込んでくる無数の小川のように、時間というものは入り組んでいるのじゃないだろうかと思うことがあります。 そしてどんな川の水も最後は海に注ぎ込むように、時間の流れは最後には次元の違う永遠というものに変わるのではないだろうかという気がするのであります。 過ぎ行く時間というものと、それを超越する永遠というものと、この両方に同時に関わって生かされている者が私たちクリスチャンであるとも言えるわけであります。 それはともかくとして、この世の人間としては、私たちは年末になる度に一抹の寂しさとか、後悔の念というものを覚えるものです。これといったことをしないで、一年がまた過ぎてしまったあ、という後悔の念であります。 段々、段々肉体もその他の力も衰えてきます。本当に年をとるにつれて段々一年が過ぎる度に私たちはそういう思いをもちます。しかしクリスチャンとしては、この年末はクリスマスのときでもあります。 この世の人にとっては時の速さに人生の無常を覚えるようなときでありますけれども、クリスチャンにとっては大いなる希望のときでもあるわけであります。クリスマスは人民の歴史上最大の出来事の記念日だからであります。 この世の人々の大多数は、このクリスマスの本当の意味を知らないで単なるお祭りにしてしまっていますけれども、この日起こったこと以上に偉大な出来事はほかに無いのであります。 なぜならこの日に神の御子が人間の姿をとってこの地上に来てくださったからであります。 あのイザヤが預言したように、乙女マリアの胎をとおして、幼子イエスとしてこの地上に誕生されたからであります。 全人類の救いのために、神の御子が栄光の天の御位を捨ててこの暗い人の世に下って来てくださったからであります。 このようなことを語りますと、イザヤのことを思い出すんですね。一体誰が私たちの聞いたことを信じたか、という言葉を思い出すんです。 この世の人々には、到底信じることの出来ない聖書のメッセージを心から信ずることが出来、もっとも素晴らしいこととして喜ぶことが出来るということは、主の特別な恵みであります。 神がイエス様によってご自分をはっきりと現してくださったということ、永遠の世界があること、真理があること、まことの望みがあり救いがあることを、クリスマスをとおして神は示して下さったのであります。 ですからイエス様の救いを知ると、たとえどのような問題が襲って来ようとも、たとえどのような問題の中にいようとも、私たちは絶望する必要がなくなります。諦めなくてもよいということを知るようになります。完全な解決があるということを確信出来るからであります。 私たちは、イエス様によって与えられているまことの救いを本当に知るようになると、それ以外のことは本質的にどうでもよいものだと思うようになります。 パウロがピリピ人への手紙の中で言ったように、「私はキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、一切のことを損と思っている、ちりあくたと思っている。」、と言いましたけれども、私たちはパウロの、パウロほどでなくとも、イエス様を知ることによって自分には一番大事なものがすでに与えられているということを納得することが出来るのであります。 静かになって考えるときに、「あー、自分には本当に大事なものが、なくてならないものがすでに与えられている。ほかのものはどうでもよいものである。どうしても必要なものではないのだ。」、と認めることが出来るのであります。 イエス様を信ずる人、イエス様の救いを知った人は、よく寛容であるとか、忍耐強いというふうに思われますけれども、それはクリスチャンが何かに我慢をして耐えているというよりも、むしろ多くの場合はそれらのことはどうでもよいことだと感ずるようになるからではないかと思うんですね。 イエス様の救いについて知るようになると、この世の様々なことは別にどうしても必要なものではない、そのことがよく分かるからクリスチャンたちは寛容に変えられ、忍耐をもつように思われるのではないかと思います。 イエス様を知らないとき、私たちは少しでも自分の権利が踏みにじられると、ホントに怒ってそれを許すことが出来なくて、おそらく文句を言ったに違いない。少しでも押しのけられたり、侮辱されたりすると、私たちは猛然と反応したかもしれない。 しかしイエス様を知るようになると、私たちはそういうこともあまり大したものではないと知るようになるのであります。 この世にあるものはすべて不完全なものであり、欠陥だらけのものばかりであります。私たちは職場の人間関係においても、いつもその軋轢というものを感じて生活しています。 家庭にもまた、いつもちいちゃな問題はひっきりなしに起こるのであります。自分の願っていること、希望していることと、必ずしも家庭全体が一致するわけではないのであります。 子どもたちも段々親の思いとは離れていくのであります。個人みんなそのようなものでありますけども、またさらにはこの地上のどのような教会や私たちの集会もそうであります。さまざまな欠陥を持っているのであります。 ですけれども、イエス様の救いを知るようになれば、それらの欠陥はどうでもよい、どうしても困るものではないということに気が付くのであります。なくてならないものはただ一つである、イエス様の救いだけであるということであります。 集会は、このイエス様の救いについて喜び、これによって満ち足りることが出来ればそれで十分であります。他のことはそれに伴って自然に与えられてくるからであります。 ほかの様々なことを先に問題にするのではなくて、私たちが本当にイエス様の救いについて喜ぶこと、それによって本当に満たされること、それが与えられればほかのものは自然に整えられてくるのであります。 ですから、なくてはならない只一つのものを知るようになると、人はあまり不平や不満を抱かなくなるものであります。 イギリスのブラウニングの詩に 時は春、 日は朝(あした)、 朝(あした)は七時、 片岡(かたをか)に露みちて、 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、 蝸牛枝(かたつむりえだ)に這(は)ひ、 神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。 「すべて世は事もなし。」私たちはこの世のさまざまな中にあってもホントの満足の人と変えられていくのであります。 逆にこの救いをよく知らないと、どこに行っても問題ばかりが目に付いて、悲願とか非難ばかりの人、不平や不満ばかりもらう人になるのではないかと思います。よく教会や集会巡りをしていて、問題ばかりを指摘している人々がいますけれども、自分の魂を満たされる秘訣を知らないからではないかと思うんですね。 主の救いを喜ぶ人は、そういうさまざまな問題をあまり気にしません。ですから主を見上げて、救いに感謝し満足する人であるか、それを見ることを知らずして、人間ばかりを見て色々な問題ばかりに悩む人であるか、私たちはその二種類のうちの一つになるのではないかと思うんです。 たましいに満足を与えられている人は、周囲の人々から自然に信頼され、喜ばれ受け入れられるものでありますけども、逆に不平や不満ばかりを私たちが抱くのであれば、周りの人々はやっぱり私たちと交わることを嫌がるに違いありません。離れようとするに違いありません。 主の救いによって満たされることによって、私たちが本当に満ち足りることを知れば、私たちはこの世の職場においても色んな人間関係においても、自然に主の恵みを言える者となるのではないかと思うのですね。 神さまが、信ずる者の生活の必要を十分満たしてくださるのは、突然天から何かを降らせてくださるという方法によるのではなくて、このような良き人間関係を通して主が与えてくださる、整えられた環境を通して恵まれるのではないかと思うんです。 それでは、イエス様がこの世に来てくださった目的であるところの救いとは一体なんでしょうか。これが一番大切な問題であります。 神さまが天地を創造され、アダムとエバを創造されたとき、神はアダムとエバとともにおられそこには何の妨げもない交わりがありました。聖書は、「そのようにして神はお創りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」、とあるからであります。 ちょうど乳飲み子が母親の懐でまったく安心して笑ったり、喜んだり、憩うように、アダムもエバも神に語りかけ神の語られることを聞き、何の不安も心配も彼らにはなかったのであります。 神とのこの交わりによって、彼らはすべてにおいて満たされていたのであります。しかしそのとき、彼らは神とのこの交わりがどんなに大切なものであるか、かけがえのないものであるかということに気が付きませんでした。 神さまとの交わりによって与えられる恵みや、満たされた状態はごく当たり前のこととしか彼らには感じられませんでした。その大切さに対する十分な自覚を、アダムもエバももたなかったようであります。 神との交わりが絶たれるとき、すべてのものが失われるということを彼らは知らなかったのであります。 人類は神との交わりのかけがえのない大切さを本当の意味で知り、今度こそなにものよりもそれを大切にするために、罪への転落という悲惨さ、苦さを味わったのだというふうに考えることは不謹慎なことだろうか、と思うんですね。 ひとたび失うことによって、それがどんなに大切なものであったかを私たちは知ります。そのことをとおして、ふたたび神に立ち返り今度こそそれを何ものにも勝って大切なものとするために、人類は罪というものの苦さを味わう必要があったのかもしれない、と思うんですね。 アダムとエバが神の戒めを破り、神の真実を裏切るという罪を犯したことによって神との交わりは絶たれました。人間は永遠の世界から締め出されて、この世だけに生きる者となったのであります。 それまでエデンの園においては神の国、すなわち永遠の世界と地上の国、すなわちこの世というものは交差し、重なり合っていたのでありますが、この罪が入って来たときにアダムとエバからは永遠の国は飛ばされ、この二つの国は分離したのであります。 人間の罪のゆえに、神は人間から離れなければなんないからであります。 創世記3:23-24
人間の罪が入って来たときに神と人との交わりは絶たれました。神はエデンの園、すなわち神と人との完全な交わりのもたれていたその場から人を追放して、彼らがいのちの木への道に入って来ないように、いのちの木の実から食べないようにケルビム、剣を持ったケルビムをその入り口に立たせたということであります。 これは確かに抽象的なこと、描写で私にはよく分かりませんけれども、とにかくこのときに人間は神を失う者となった、神との交わりから断ち切られた、ということはよく分かるのであります。 こうして人は神なき者、望みなき者、無意味な者となったのであります。神から離れることによって、人間は死というゴールに向かって生きるという、まったく不条理な存在となったのであります。 必死に生きますけれども、そのゴールが死であることは人はよく知ってるんです。死に向かって生きるという、まったく理解不可能な人生の中に人間は置かれたのであります。 どれほど人生の意味を考えても、決して人はそこから意味を見出すことが出来なくなったんです。なぜならば「死」がすでに決まっているからであります。 一切が失われてしまうことが分かっていながら、そこから意味をくみ出すということは不可能であります。もしくみ出したかのように見えるのならば、どこかで誤魔化しているからであります。人間はまったく無意味な者になってしまったんです。 ローマ人への手紙5:12
ちょうどひとりの人アダムによって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった、と聖書は記しています。死というのは人間の存在の中に口を開いてる、真っ黒な深淵であります。深い淵であります。死というものは人間のうちなる深い淵なんです。 この死というものを出来るだけ見ないために、忘れていたいために人はどんちゃん騒ぎをしたり、無茶をやったりして過ごしているかも知れないのであります。飲み食いして、楽しもうではないか、どうせ明日は死ぬのだからと。 人生には正しく真剣に生きようと願うほどの望みも目標も有りはしないと、いうことなのではないかと思うんですね。本当の望みをもたなければ、適当にこの世の歓楽を楽しみながら生きようと思うのは、ある意味で当然ではないかと思います。 まことの望みをもたなければ、人は正しく生きようなどと思うことは出来ないのではないかと思うのですね。どうせ何の目的も意味もないのだから、世の流れに流されて、ただこの世の楽しみに身を委ねる生き方しか出来ないのではないかと思うんです。 このように罪というものは人間を望みのない者とし、そして望みがないということが、人間をさらに罪へとおとしめていくのだと言えるのかもしれません。 罪にふけっている人々は、その意味で本当にあわれむべき、同情すべき人々であります。ですから人を罪から救い、罪に逆らって力ずく生きる者とするためには、まことの望みが必要であります。イエス様は、まことの望みを与えるためにこの地上に来てくださったのであります。 マタイの福音書4:12-17
暗闇の中にすわっていた民、死の地と死の陰にすわっていた人々、と聖書はいっています。神から離れている人生ってものは本当に死の地、死の陰であります。どこにも望みがないからであります。 この暗闇を照らす偉大な光として、イエス様はこの地上に来てくださったのであります。 テトスへの手紙の3章3節、さっき兄弟が礼拝のときに読まれましたけども、3章の3節〜7節までちょっとお読みします。 テトスへの手紙の3:3-7
イエス様は、永遠のいのちの望みを与えるためにこの地上に来てくださったんです。まことの望みを私たちは見出した者です。さらにここに書いてますように、聖霊の力の助けをも与えられている者です。 まことの望みをもち、聖霊の力の助けも頂いているクリスチャンが、正しくきよく生きることが出来るのは当たり前であります。 この世の人々は望みをもたないから、 (テープ A面 → B面) クリスチャンたちはまことの望みを見出したのですから。 さらに御霊の助けをも与えられているのですから、罪に抗して力強く生きていこうとする意志をもつことが出来、その歩みを歩むことが出来るのは当たり前であります。 イエス様はこのようにまことの望みを与えるためにこの地上に来て下さいました。 またイエス様は、私たち全人類の罪を贖うためにもこの地上に来てくださったのであります。贖うという言葉はどういう意味かというと、正当な代価を支払って買い戻すということであります。 罪を犯したことにより神から捨てられ、悪魔の支配の下にいる全人類を悪魔の手から奪い取るために、イエス様はご自分のからだを贖いの代価としてささげるために、この地上に来てくださったのであります。 マルコの福音書10:45
人の子、すなわちイエス様自身が来たのは、多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与えるためなのです。私たちを正当な代価を払って買い戻すために、神のものとするために自分は来た、とイエス様は仰ってます。 ローマ人への手紙3:23-26
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。イエス様がご自分のいのちをささげてくださったために、そのことによって神は私たちを受け入れることが出来るのであります。 コリント人への手紙第I、6:19-20
クリスチャンとは、イエス・キリストのいのちの代価を主によって神のものとして買い取られた者である、神のものとされた者である、神の所有とされた者であります。悪魔の所有であった者が、神の所有と変えられた者、これがクリスチャンであります。 私たちが、もはや自分自身のものではなくて神のものであるということを深く覚えることが出来れば、私たちの歩みは十分変えられてくるのではないかと思います。 神は、人類の罪を無条件に赦されたのではないのであります。ひとり子の死という最大の犠牲によって赦されたのであります。だから罪は決して軽んじられるべきものではないのであります。 次に、イエス様がこの世に来てくださった目的は、悪魔を滅ぼすためであります。 神は、イエス様のいのちを罪の贖いの代価として払われましたけれども、それは悪魔に対して払っていらっしゃるのではないのであります。 悪魔は神にとって取り引き相手ではなくて、滅ぼされるべき敵だからであります。神が贖いの代価を支払われたのは一体誰に支払われたのでしょうか。それはご自身に対してであります。 神の義を全とうするために、罪の贖いの代価を払われたのであります。すなわち神は徹頭徹尾義なる方であり、神はほんの少しでも罪に妥協することの出来ないお方であること、そのことを証しするために、神の義を全とうするために、神はご自分のひとり子を十字架に架けられたのであります。悪魔は滅ぼされるべき敵であります。 ヘブル人への手紙2:14
すなわち、肉体を持たれたというのです。 ヘブル人への手紙2:14-15
イエス様はその肉体の死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼして、私たちを死の恐怖から解放してくださるためにこの地上に来てくださったと言えるのであります。 創世記3:14-15
女の子孫というのは、もちろんイエス様のことであります。彼は、イエス様はおまえの、サタンの頭を踏み砕きおまえは、悪魔は、イエス様のかかとにかみつく。 アダムとエバが罪を犯したその時に、直後に、神はその救いの約束を与えてくださったのであります。 この15節は、原・福音(ゲンフクイン)と呼ばれるものであると、この聖書の注には書いてあります。人類が罪の中に入って行ったそのときに、神はすでに救い主の約束をして下さり、悪魔が滅ぼされるときが来るということを、再び自分に立ち返るときが来る、人類は自分に立ち返るときが来る、救いのときがあるということをここで表現をなさっているのであります。 イエス様が十字架に架かって死なれたっていうことは、実はイエス様が十字架の上で悪魔のかしらを、頭を踏み砕かれたという意味であります。 それと同時に、イエス様は悪魔によってご自分のからだを裂かれたのであります。イエス様はご自分のいのちを捨てることによって、悪魔を滅ぼされたのであります。 ですから悪魔は今は無力にされています。私たちがイエス様とともに立つならば、悪魔は力を持たないのであります。滅ぼされたということの意味は大切ですね。それは存在しなくなったということではないんです。 聖書では「滅び」というのを、存在しなくなるという意味では使っていないんです。永遠に存在しますけれども、完全に虚しいものとされた、無力なものとされたという意味です。しかし今はまだ、イエス様にあってだけ悪魔は虚しいものとされ、無力なものとされているのであります。だから私たちはこの地上を歩む場合に、信仰に留まることが必要なのであります。 イエス様にあってだけ、悪魔は無力だからであります。 そしてその次にイエス様がこの地上に来てくださったのは、神の国をもたらすためであります。しかしこの地上に神の国をもたらすため、ということはこの地球、地上を理想郷にするためという意味ではありません。 私たちはこの地上に生きているままでイエス様を信じ、受け入れることによって神のご支配の下に入ることが出来るという意味であります。神のご支配、神との交わりこそ神の国であります。 マタイの福音書12:28
わたしがこの地上に来たのだから、神の国はあなたがたのところに来ているのです。イエス様はご自分が来ることによって、神の国がこの地上に来たと仰ったんです。 かつてアダムの罪によって引き分けられた二つの国、永遠の神の国とこの世とがふたたび、イエス様の御降誕によって触れ合ったのであります。時間の流れの中におかれているこの世に、永遠の世界が入り込んできたのであります。 私たちはこの地上に生きていますけれども、しかし同時にイエス様を通して永遠の御国につながっている者であります。永遠の御国に触れており、そこにまた呼吸している者であります。 イエス様を信ずる人々は不思議な存在であります。やがてはこの世から永遠の世界へと完全に移されるわけであります。永遠の世界だけとなるのであります。 聖書はそれを、かの日には、そのときには、と呼んでいます。かの日にはその救いが完成いたします。私たちは今、この地上にありながらしかし、イエス様を通して永遠の御国につながり、そこに触れている者であります。 イエス様は神の国への入口、永遠の国の入口であります。イエス様がこの地上に来てくださったのは、この地上に神の国をもたらすためであります。 ルカの福音書17:20-21
神の国は私たちが目で見えるようなものではありません。「あそこにある」とか、「ここにある」とか言えるようなものではありません。神の国はあなたがたのただ中にあるのです、とイエス様は仰いました。 神の国とは、神との生きた交わりの中に人が歩むということであります。神の国とは、神のご支配を受け入れるところにあるものであります。イエス様こそが神のご支配であります。イエス様が受け入れられるところ、そこはこの地上にあって文字通り、永遠へと続く神の国の始まりであります。イエス様は神の国の入口、門であります。 そしてまたイエス様は、死を滅ぼして私たちに永遠のいのちを与えるためにこの世に来てくださったのであります。 テモテへの手紙第II、1:10
イエス様がこの地上に来てくださったのは、死を滅ぼすためでもあります。ご自分の3日目のよみがえりを通して、イエス様はいのちと不滅を明らかに示してくださったのであります。 ヨハネの福音書3:16
イエス様がこの世に来てくださったのは、イエス様を信じる者が永遠のいのちを持つためであります。一体永遠のいのちとは何でしょうか。 永遠のいのちとは、神に愛され、神を愛するという神との真実な交わりのことであります。人はこの神さまとの真実な交わりの中に入れられるときに、人はそこに永遠の結びつき、神ご自身とのつながりがあるということに心の目が開かれます。 これこそが、過ぎ行かないただ一つのものであります。私たちの肉体が朽ち果てても過ぎ行くことのない、途切れることのない神ご自身との人格的な結びつき、霊的な交わり。これが永遠のいのちであります。 ヨハネの福音書17:3
神とイエス・キリストとを通しての交わり、このことによって神ご自身を知ること、このつながりこそが永遠のいのちであります。私たちの心が真っ直ぐに神ご自身を仰ぐようになり、神との交わりに生かされるようになるときに、そこに永遠のいのちが開かれてくるのであります。 永遠のいのちというのも、どこか遠くにあるのでありません。私たちは本当に悔い改めて神に立ち返るときに、それは私たちに与えられるものであります。ですから大切なことは、いつでもこの神との真実な交わりの中に留まり続けることであります。 これこそが救いそのもの、いのちそのもの、神の国そのもの、すべてのすべてであります。 信仰とは神ご自身との本当に真実な交わりのことであります。 私たちがいつもここに立ち返ること、これが必要なことなんですね。罪は私たちの良心に呵責を起こさせて神から遠ざけようとしますけれども、そのときこそ私たちは心から悔い改め、神さまの御前に自分の罪を本当に悔い改めて、イエス様の血潮の贖いのゆえに、大胆に立ち返るべきであります。そのためにこそ、イエス様が血を流してくださったからであります。 日々このイエス様の血潮により頼んで、神さまとの交わりに立ち返ってくること、そこに留まること、これが私たちのこの地上における信仰生活の中で一番大事なことではないかと思います。この原点にいつでも、立ち返りたいものだと思います。 最後にもう一回イザヤ書を読みます。 イザヤ書9:1-2、6-7
イエス様がこの地上に来てくださったことによって、私たちの問題は根本的に、完全に解決されているのであります。この主の救いの恵みの中にしっかり立って歩みたいものだと思います。 |