八王子家庭集会


蘇畑兄

(八王子家庭集会、2003/05/08)

引用聖句:ヨハネの福音書8章31節-32節
31そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
32そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

へブル人への手紙の11章にご存知のように、信仰がなくては神に喜ばれることはできない。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いをくださる方であることを信じなければならないのです、とあります。
同じことを次のように表現することができるかも知れません。もし真理を知ることができれば、私の悩みや問題は必ず解決されるに違いない。そのように信じるべきである。反対に言えば、私の悩みや問題は私が真理を知らないで、真理から逸れてしまっているからに違いないと信じるべきです。

だから問題は真理とは何か、そのことを私たちが知ることです。そうすればあらゆる問題は根本的に解決される、このように私たちは信じるべきです、と言えるんじゃないかと思うんですね。
今読んでいただいた、イエス様の「真理はあなたがたを自由にします。」というみことばは良く知られているみことばです。
真理というものは、それを知る人間に対して自由を与えるから尊い、無上の価値があると言えるのではないでしょうか。

昔から人類は真理なるものを求め続けて来ました。それがどういうものであるかも良く分からないながら、求めないではおられなかったのであります。
それを知ることなしに人間はほんとの意味では生きることができないのだ、何か重大なものが欠落してしまっているのだという思いを禁ずることができなかったから、真理なるものを何か分からないにもかかわらず、人は求め続けざるを得ないのでしょう。

人類の歴史の中でもっとも真剣に求め続けられたものは、この真理なるものじゃないでしょうか。ある場合には、何十年も人々は苦行に苦行を重ねて来たんですね。そこが人間の人間たる所以で、動物とは異なるところではないかと思いますね。
それがなんであるかを分かりもしないのに求め続けるというのは、理屈としてはおかしいのでありますが、人間はそれを真理と名づけて、遥か遠くの昔から求めてやまないのであります。

イエス様は「人間に自由をもたらすものが真理である。」と言われております。自由とは、不安や恐れからの自由も意味します。重荷や孤独からの自由、もっと更に根源的にいうとエゴなるものからの自由、そして罪そのものからの自由。そういうことがイエス様の言葉の脈絡から知ることができるんですね。
今開いていらっしゃる箇所、ヨハネの福音書8章の33節、34節を見ると、

ヨハネの福音書8:33-34
33彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
34イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

私たちを今のこの悩み、苦しみ、場合によっては絶望から解放して、自由にしてくれるもの、これが真理なのです。
私もかつて聖書に語っている何かを知れば、聖書が語ろうとしている何かに私が気がつけば、私のこの八方塞がりのようなどうにもならない状況は解決するに違いない、という一縷の望みを持って実は集会に一生懸命通っていたんです。
ベック兄を初め、兄弟たちが語ってくださるみことばにすがるようにして耳を傾けて、私が何かに気がつかないから自分の問題が解決しないのだ、聖書が語っているメッセージを私が正しく受け取り理解すれば、私はこの問題から、苦しみから逃れることができるに違いない。そういう風に実は思っていたのです。

死の恐怖に囚われている人類は決して自由ではなく、死の奴隷だと聖書は書いてますね。あの名医のところに行きさえすれば、自分のこの病気は治るということが分かっている人のように、聖書の記す真理を知れば、自分のこのどうにもならないような悩みや苦しみも必ず解決すると信ずるべきです、と聖書は言っているのです。
私たち、それを経験した者として「そう信じて間違いない」と断言できるのです。

聖書の私たちに提供している解決する力を、イエス様は真理とおっしゃるんですけれども、それはどのような問題をも根本的に解決する力を持っている。私はそのように確信しております。そしてこのように人は信じるべきなんですね。
まだ問題が解決しないならば、どこか聖書の語っている意味を取り逃がしているんじゃないか、ほんとの意味で正しく受け取っていないんじゃないか、そのように私たちは考えるべきなんです。
聖書は役に立たない、信仰も役に立たなかった、というのはそれは全くの誤解です。そうではなくて、私がイエス様の語っていることを受け取っていないのではないか、何か重大な理解の届かないところがあるのではないか。そのように私たちは自分自身に問うべきなんですね。
聖書の問題解決の力にとって不可能なことはないのです。ただ私たちがその真理なるものを求めてやまないかどうかなんですね。求めないで得られるとは私には思えない。やっぱりですね、もう私たちがほんとうにひた向きに求めてやまない。

詩篇の作者が歌ったように、鹿が谷川の水を慕い喘ぐように、私の魂は主よ汝を慕い喘ぐと詩篇の作者が歌いました。
鹿は水の匂いを嗅ぐと鼻先をピクピク動かして、その水の匂いに敏感に反応しながら慕い喘ぐんですね。砂漠でカラカラに渇いた人が、ほんとに水を求めて全身が喘ぐように、聖書のみことばに真理そのものなるものに慕い喘ぐなら、必ず人はそれを見出すことができると確信しております。
真理なんかどうでもいい。とにかく手っ取り早く私の悩みや苦しみを取り除いて欲しいなどと言うのは我がままで安易です。

それでは問題は根本的に解決しないから、同じ問題が必ず繰り返し繰り返し現れるんですね。真理なるものを安直に考えるなら、それはほんとうに残念です。
聖書が語っている真理というのは、私たちの想像を遥かに超えるような驚くべきものであります。神のひとり子の死という想像を絶することを通して、人類に提供されているものなんですね。だから私たちはそれを決して手軽なものとして見ることはできないのです。

この世で最も苦しみ悩み、絶望している人間とはどのような人でしょうか。ここにも今悩み苦しんでいる方がいらっしゃるかも知れませんね。
しかしそのような人であってもですね、例えばもう後、一、二ヶ月しか余命がない末期癌の方に比べたらどうでしょうか。
二ヶ月程前、3月の第一土曜、日曜日に沖縄の集会へ僕は当番で出かけたんですけれども、その時、吉祥寺集会のある姉妹の、実の妹さんを病院に訪ねて欲しいということでお訪ねしたんです。
癌であと一、二ヶ月しかないということを本人も知っていらっしゃるんですけれども、中々聖書の話を聞こうとはしないということです。沖縄の兄弟姉妹たちが訪ねたくて仕方がないのに、きっぱり断って交わりを持たない。それでも姉妹の中には何度か訪ねていらっしゃった方もおられたようですが、中々難しいということで、私も少し覚悟を決めて病院へお訪ねしたんです。

長く看護婦長を務めたというその方は、そのことを非常に誇りとしていらっしゃるのか、しゃんとして背筋を伸ばしてベッドに座わり、クリスチャン信仰について聞こうと中々言ってくれません。面会時間を過ぎた時間に突然病室に現れるなんて規則違反だ、ということのようでした。
その日はめずらしく飛行機の管制装置が故障し、3時間も飛行機が遅れてしまったものですから、羽田は大混乱だったんですね。手続きするのにもう人が溢れて何時間も並んで、飛行機が飛ぶのか飛ばないのかも分からないまま待っていて、やっと飛んだんですが、それでまあ遅れちゃったんです。
家庭集会の準備ができているから、皆さんもう待っているからそこへ行きますかどうしますかと、兄姉に聞かれたんですが、
「いやもうそんなに余命幾ばくもない方がいらっしゃるというんだったら、そういう訳にいかないでしょう。
まず病院に行って吉祥寺の姉妹から言付かっているものを渡して、ちょっとお話をしてそれから行った方がいいんじゃないですか。」、という風に言ったんです。その時には8時過ぎでしたけれども、面会時間は8時までとのことでした。

私からすれば、この期に及んで2、30分の時間超過とか、沖縄の風習のためにクリスチャン信仰は家族に迷惑がかかるなどということについては、今時そんなことを言っている場合ではないでしょう、というような思いがあったんですね。
そんなことにこだわる時ではないんじゃないか、という思いがあって、彼女のそういう態度にむしろこっちの方が腹が立って、「何、言ってんだ。」っていうような感じだったものですから、それがどうも彼女にはカチンときたらしいですね。

お姉さんには、私がずいぶん上からものを言っているようで、と言ってきたそうですけれども、そんな頑張りで、目の前に迫っている死というものを乗り越えることはできないんですよね。
いかに病院で数多くの人々の死を見てきたからと言って、それで自分の死というものを直視して行けるはずのものでもない。それができるかのように思っているのは思い上がり だという気がしたのです。
だから彼女の態度にムッとして、「どうしてそんなにあなたは頑ななの。」ということを、まあやり合う訳じゃないですけど思わずそう言ったんです。

ご主人がそこにおりまして、ご主人の方はそんなに不愉快そうではなかったんですけど、後で聞きましたら、突然現れて偉そうなことを言って、みたいなことのようでした。僕はがっかりして、まあなんか情けないなという思いのまま病院から帰ったんです。
家庭集会の方は、その僕を一時間待って賛美ばかりしておられたようです。宣教師のご夫妻もいらっしゃっていて、集会の信仰の歌を一時間以上も歌っていたそうです。
なんて言うのかなあ、時として私たちはそういう出会いがある訳ですけれども、前にベック兄がある姉妹に頼まれて、その姉妹の義理のお兄さんがもう危ないから見舞って欲しいというんで、御代田から朝の4時とか5時に出かけて都心の病院に行ったんですけど、病院に行ったらその姉妹の御主人がお医者さんで、病室に入れない。警察を呼ぶぞと言ったそうです。「彼の目は怖かったよ。」とベック兄はおっしゃっていました。
いよいよ亡くなる寸前に、また電話があったんでしょうかね。僕を見に行ってくれということで事情を話されたんですけど、雨がどしゃ降りの日でした。
行ったらもう亡くなっていたんですけど、奥さんはですね、なんとご主人に自分勝手に洗礼の真似事までしていたんです。もう、ちょっと言葉をかけられませんでしたけど、そういうことでほんとに残念ですよね。

そういうことを私たちはしばしば経験しますけど、まあ鞭で打たれる訳じゃないし、昔の使徒たちが「主の名のために辱めを受けた。」と喜んだとありますけど、今はそういうことはありませんから大したことではありません。だけどやっぱりがっかりしましたけど、しかし何かそのことがむしろ益になるかも知れないという思いを私は感じたのです。

沖縄でお見舞いした方は、さすがに気が咎めたんでしょうかね、お姉さんに連絡していろいろ弁解したようですね。
その後私がなぜ彼女を訪ねたかという理由を知ってもらうために、姉妹が、私がどこかで話した時のテープを送ったようです。彼女は最初はそれを聞けというものだから聞いて、文句の一つも言おうと思って聞いたらしいですが、段々繰り返し、涙をもって繰り返し聞いたようです。
ついこの前、4月の喜びの集いの時、彼女はお姉さんを待ち構えていたかのように、その後のことを話して、そしてお姉さんに祈ってもらい、お祈りに大声で「アーメン」と唱和したそうです。
そして先週の水曜日の朝、召されたそうです。「これから沖縄に帰ります。」と姉妹から電話がありましたので、「葬儀はどうなさるのですか。」と聞きましたら、「難しいかもしれないけど、もしできるなら。」ということだったんですが、集会でやることは恐らく駄目だったんじゃないでしょうかね。
沖縄の兄弟姉妹は信じて待っていらっしゃったようですけど。

多分、死を目の前にして、刻々と迫ってくる死というものを強く意識しながら、彼女は全身を耳にして「聖書が何を言っているか。」に耳を傾けてくださったんじゃないかと思うんですね。
そういった意味で、彼女ぐらい聖書のメッセージについての私のテープを真剣に聞いてくださった方は、他にいないかも知れないと思っております。
聖書の言葉が、いかに単なる気休めなどとは違う、命がかかっている真剣なものであるか、福音についての真理がどういうものであるかということを彼女はしっかり受け取ったんだという気がしますね。
そしてそこに死という絶望からの救いがあるということに気づいてくださったんじゃないかと思っています。

彼女が、お姉さんに伝えた私への伝言は、謝って欲しい。私に「申し訳なかった。」と伝えて欲しいということでした。
お姉さんからメールが来ました。私の願い、私が彼女に伝えたかったことはしっかり彼女に伝わったであろうと私は思っています。天国に行ったら、改めて彼女と仲直りをしなきゃならん、と思っております。
沖縄から帰ってからも祈っておりました。まあ、どうも面と向かっって手ひどく拒まれた場合の方が、結果的には福音が受け入れられるような気もします。

昔浜田山で、前の前の家にいて家庭集会をしていた時に、若者が初めてオートバイに乗ってやって来ました。集会が終わってから、皆さんに勧められて、僕も一緒に勧めたんですが、お昼ごはんをたくさん美味しそうにパクパク食べていたんですね。
それで信仰の話をしたら僕らの方を見て、「私はあなたがたのようになりたくないんです。」言うんですね。「食べたの返せよ。そんなに美味しそうに食べていながら、何言ってるんだ。」というような感じでしたが、だけど僕はその時この青年きっと救われるだろうと思ったんですね。
今集会に来ていますよ。もう何年も前からある姉妹の息子さんです。その時は交通事故を起こして、それでお母さんに勧められて現れたらしいんです。
僕は「この青年は反発しているけど、恐らく導かれるだろうなあ。」とある予感があったんですけれども、数年くらいしてから集会に改めて現れて、今は信仰に歩んでいます。

さて、聖書が教える真理とはいったい何でしょうか。
まず私たち人間ひとりひとりが持つ様々な悩み、死という絶対的な問題ですらも、私たちが真の創造主なる神を無視し、神から遠く離れたまま生きているということ、すなわち罪というものから結果的に生ずるということが第一の真理です。
そのことを私たちははっきりと弁えるべきなんですね。

罪とは神様に背中を向けて生きているということであります。その結果様々な偽りだとか、悪行だとか、またはそれから生み出される様々な悩みや苦しみが生まれて来るのだと聖書は言っているのです。
ここにいらっしゃる方々と同様に、私もかつて自己実現という目標に向かって、自分としては一生懸命生きているつもりでした。この前御代田でメッセンジャーの兄弟がおっしゃっていましたけど、自己実現ですよね。
私なんかはほんとにそういう生き方をしていて、これ以外に生きる目的などないと思っていたんです。生きる目的も意味も、ただ自分自身の中にあると。
ですから自分というものが究極の問題だったんですね。言わば自分というものをひたすら追い求め、凝視し続けている訳です。何よりも大切なものは自己であり、自己中心こそ人生の目標ということなんですね。

ピリピ人への手紙3:19
19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

彼らの神は彼らの腹である、と原語はそうなっているようですが、こういう表現は私にはよく分かったんですね。私は自分以上の如何なる権威も認めようとしない。そういう生き方を選ばざるを得ない。現代を生きるのに、他にどうやって生きるんだくらいに自分で思っていたんです。
自分が従うべきものなんて自分以外にはないのだ、と。
結局、自分は自分に従わざるを得ないんじゃないか。朝から晩までひたすら自分、自分でですね、もう自分で私の内ははち切れんばかりにエゴに満ちております。それがほんとは悩みの原因だということすら知らずにですね、悩みというのは全部自分から来ているものなのです。自分を忘れている人は悩みなんかないでしょう。自分がすべてであるから、悩みはその人自身を押し潰すくらいに重い訳です。

自分が問題にならない人は、それこそ自由な人です。ほんとの意味でですね。
そういう逆説に気づいて、ほんとに自分を大事にしたいと思うならば、私たちは自分を捨てなきゃいけない、自分を忘れなきゃいけない。自分はどうでもいい、とそういう風にしなければいけない。それがほんとの意味で自分を大事にするということなんだけれども、逆にもう自分にしがみついて、後生大事なんですね、自分こそが。
そういう誤りに気がつかないですね、その果てに潰されそうになっていた訳なんですね、その重さに。ですから罪とはエゴに満ち満ちたものなのですね。

そういうことは私には納得できるし、理解できることですね。自分の心を部屋に例えると、部屋の真ん中にでんとあぐらをかいて座っているのは私のエゴ。自分の心の内で王座をしめているのは、真の神ご自身ではなくて、自分自身。神様が自分の人生において最高の位を占めなくてはならないのに、私は神様を全く自分の人生から締め出して、神がいようといまいと関係ない。
それは私にとって問題ではないと嘯いて、自分自身を王座につけているのです。これこそが根源的な問題です。これが聖書のメッセージだということは、私にとって納得できることなんですね。

聖書は神以外の何者をも神として拝んではならないと、モーセの十戒の中で言っている訳ですけれども、最大の偶像崇拝とは何か形があるのを拝むというのとは違うんですよね。
それは大したことではないんです。どうせ心の中では馬鹿にしているんですからね。仏像なんかに手をあわせても、本気でそれを信じている訳じゃないんですから。
そうじゃなくて最大の偶像崇拝とは自分自身を偶像、神としていることです。これこそが一番恐るべき問題なんですね。
自分以上の権威は認めないと言うのが現代人の生き方の特徴でありませんか。子どもは親の権威を認めませんし、学生は先生の権威を認めようとしませんし、妻は夫の権威を認めようとしない。それが現代社会の特徴です。
私は私、あなたはあなた。利害が一致することだけでパートナーとして一緒にやって行きましょう、と。

前にお話したかも知れませんが、私の勤めている学校に、今はもう脳梗塞を起こされて言葉も出ないし、全身不随になっている体育の女の先生がいます。
集会にその方の親友がおられて驚きました。ずいぶん世の中は狭いっていうのか、ある時電話がかかってきて、この前倒れたあの方の親友です。あの方は倒れた時、発見されて運ばれたのが武蔵境の日赤病院ですということでした。
ご家族がお話しないもんですから、私は知らなかったんですが、その親友を通して私の所へは情報が入って来るんですよね。僕は学校でまさか知ったふりはできませんので、黙っていたんですけど、その女の先生の相手は同じ学校で事務を取っている方なんです。後には奥さんの親友である集会の姉妹がよくしてくださって、だんだんご主人にも分かってきて、私の方へもご自分の方から話しかけて事情を話してくれたりしましたけれども、ずいぶん驚いたんですね。

まあ、この女の先生はなんていうのかなあ、非常に日本的な女性というのか、大変感じのいい方で、昔フィギアスケートの日本代表になったこともあるだけに、容姿も可愛い感じのしとやかな女性でした。今時珍しいなあと思っていたんですが。
その人がですね、ある若い女の先生に「先生のご主人は、」と言いかけたら、その若い先生がキッとなって、「うちは主人と言わないんです。パートナーと言っているんです。」と言ったんです。
彼女はそれを受け流していましたが、結婚していているけど、主人ではなくパートナーということなんですね。現代的というのかなあ、その若い先生は今年の3月にある大きな大学に引き抜かれて行きましたけど。

現代人のそういう関係ですね、言ってみれば利害の一致だけが夫婦の絆ですよね、それ以上のものじゃないんですね。一緒にパートナーとしてやって行くのが得かも知れない。邪魔になったらパートナー関係を解除するんでしょうか。何かそんな殺伐たる時代と言うんですかね。
被造物である人間が、創造主である神の権威を認めようとしないこと。あたかも自らが創造主であるかのように生きているということがどんなに恐ろしいことであるか、私たちは気がつかないんですね。
実はそのことさえ気がつけば問題はいっきに解決するんですよ。小さな神々なんですね、すべての人間は。これがどんなに恐ろしいことか宇宙的問題ですね。
神様の創造全体にかかってくる大変な問題だということに気がつかないんですね。

これが真理の第二です。従って真理の第二とは、真の神様との正しい関係に立ち返ることこそがどうしても必要なのだということですね。
私たちは神様など必要ないとして生きてきたのであり、神様に敵対して生きて来ました。この敵対状況を心から解除しなければいけない。神様に対する背きの、むしろ敵意と軽蔑を抱いてですね、神とはなんだ、私と何の関係があるんだと、まるで唾でも吐きかけ兼ねない態度を取ってきたんですね。
皆さんはどうか分かりませんけど、僕なんかほんとに理由なき反抗心で、信仰者に対しても腹を立ててというような状況でしたね。自分のそういう態度が実は大変な問題なんです。
そういうことに気づいて、神様に対する敵対状況を心から解除する。それが悔い改めということですよね。
白旗を掲げて無条件降伏。もう一切の弁解、弁明をしません。100パーセント自分の側に問題があったことを認めて神様の許にひれ伏す。これがどうしても必要なんですね。6割ぐらいは認めよう、後の4割は手放さないなんていうことをやっていると、問題は尾を引いて行きますね。9割も駄目ですね。100パーセント。
神様の権威の許に、私たちがほんとうに軍門に下る。神様の前にひれ伏すということです。私たちの内にまあ、そんなことを言ってもこのくらいでいいんじゃないかという思いは侮りなんですよね。神様への侮り、それがある内は私たちの歩みは問題だらけですね。
神様の前にほんとうの意味で私たちが立ち返る。私たちの背きの罪を後ろに投げ捨てるということ、それは私たちの心からの徹底したものでなければならない。そしてそれはイエス様の十字架の死という事実に気がつけば、私たちはこれはいい加減な適当にあしらえないことだと気づくんじゃないでしょうか。

コロサイ人への手紙1:19-22
19なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
20その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
21あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
22今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

私たちの神様に対する反逆の罪がどんなに恐ろしいものであるか、その結果が絶望と滅びに他ならないのですが、その恐ろしさを示して余りあるものこそ、イエス様の十字架の死に他ならないと聖書は言っているんですね。
私自身はこのことに気づいて初めて、これは大変なことなんだ、罪とはこんなにも重大な深刻極まりないものなんだと知ったんです。中途半端に神様の前に立つことは赦されないことなんだ、真剣に悔い改めなければいけない、罪の人生と決別しなければならないという思いでしたね。
信仰なるものをもって、なんていうのかなあ、信仰とこの世をなんとかうまく妥協させながらというようなことは、基本的に神様に受け入れられないことなんだと思うんです。
自分の立ちどころをはっきりとさせなければいけない、今まで生きてきたこの世という所から、神ご自身の支配の許に自分の生きている場所を変えなければいけない。そういうこともイエス様の十字架を知るようになって気づかされたことなんですね。
私は多くの失敗や過ちを犯して来た人間なんですけど、罪というものは単に誰それという個人の行為以上に、人間全体の在り方にかかわることであって、そういうことはありえないことですが、たとえ行為において失敗や過ちを犯さない人間をも指しているのです。

真理の第三とは、人は神が遣わしてくださった造り主の御子イエス・キリストによって、背き離れていた神ご自身のところに、父なる神の許に帰ることができるということです。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネの福音書8:12
12イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

イエス様が御父に従われたように、ひたすら御父を愛しよろこび、御父の道を歩むことをご自分のすべてとなさったように、私たちもまたイエス様が歩まれた跡に従って歩みたいものです。
イエス様が謙遜の限りを尽くして歩まれたように、私たちもまた正しい謙遜を持って主の跡を歩みたいものです。イエス様が常に光の中に立っておられたように、私たちもまた常に光の中に立つという思いを持って歩みたいものです。
結局そういう歩みをすれば、私たちの問題はいつの間にか気がついたら、霧のように無くなって消えてしまっているんじゃないでしょうか。罪の中に、闇の中にあるから高ぶりの中にあるから、人間はがんじがらめになって動けないんですね。身も心も病んでいくんです。
私たちが、イエス様が歩まれたように歩むようになれば、私たちは自由になるんです。今私たちを縛っているものから解放されていくんです。イエス様がおっしゃったように、イエス様ご自身が真理なんですね。
イエス様に心を開いて、深く心の目を開いて、イエス様に従って行く。結局これ以外に問題のほんとの解決はないんですね。

イエス様を信じました。しかし全然今までの生き方と同じであるというのでは、問題は解決することはないんです。イエス様を信じるということは、ほんとに心を砕かれ、生活そのものが根本的に変えられることですよね。
自分を自分の神として生きていた私たちの人生はほんとに崖っぷちを歩むようなものです。一歩足を踏み外すと奈落の底に落ちて行くようなですね、そういうものだと思います。私たちがまだ落ちて行かなかったのは神様の憐れみだろうと思います。
いばらの中を傷だらけになりながら歩くようなもんだと思います。恐ろしい罪の棘によって自分を痛めつけながら、血を流しながら前進しようとするもので、辿り着く先は行き止まりです。そういうことをはっきり私たちは知らなければいけないと思うのです。

罪の本質をはっきり知って、罪からの救い、信仰についてちゃんと知るべきですね。そうすれば真理はあなたを自由にするとイエス様はおっしゃっている訳です。
罪は人間を狂気にしてしまう、というその意味は人間は大真面目でありながら、その根本において狂ってしまうということなんです。自分は真面目だと思いながら狂っているほど恐ろしい狂気というのはないんですね。大真面目であり、冷静であり、理性的でありながら、人間は破滅に向かって自らを駆り立てて行く。それが罪という人間の問題のどうにもならない深刻さだと聖書は言っている訳ですね。
神の御子の十字架の死以外に、この問題の解決はないのだということです。だからこそ罪はとてつもなく恐ろしいのであります。

先週春日部で40近いかと思われる青年、働き盛りの兄弟にお会いしましたが、前に2、3回お会いしたらしいんですが、その時初めてお話をさせていただきました。彼は日本で有名な一流企業のエリート社員なんですね。
ところがアルコール中毒になって病院に入れられて、ある兄弟が訪ねてくださったのかな。アルコールにやられているということで。

ある姉妹の職場での知り合いの女性のご主人なんですね。聞いてみると確かに大変なモーレツ企業のようですね。企業の中に選り抜きのエリート集団がいるのだそうで、物凄く業績を上げる集団なんですが、どういう訳かその中から脱落する者がどんどん後を絶たないということらしいです。
そこでそのエリート集団のどこが問題なのか探れということで、同じ会社の中から任命されたのが自分だと言うんですね。エリート集団を監視するんだから、あなたは余程のエリートなんですねと言ったんだけど、彼はですね、自分の方がやられちゃって、もうアルコールに逃げざるを得なかったらしいです。
ほんとにぼろぼろのようでしたね。肝臓をやられちゃって、顔はアトピー性の色でしたが顔つきを見ると非常にしゃきっとしていますので、ああ、この人はもう大丈夫なんだなあと思ったんですが、間もなく会社に復帰するんだそうですけど、彼を導いていた兄弟は会社を辞めた方がいいんじゃないかと思うんですけどと言っていましたが、彼は先日の御代田のキャンプで洗礼を受けておりました。

彼も、与えられている能力をほんとに使い切って一生懸命やっているつもりで、最後はもうどうにもならないところに来てしまった。それを通して聖書を知るようになり、罪ということにはっきり気づくようになってきたんですね。ほんとうに罪の持っている恐ろしさというものを改めて思わされました。
二人でそういう話をしたんですけど、優秀であればあるほどそういう方がいっぱいいらっしゃるんでしょうね。

真理はあなたがたを自由にします。自分ではどう考えても一生懸命、もちろんいろんな弱さを持っているけどそれにもかかわらず、自分としては真面目に生きようと思って真剣に生きてきたつもりである。
そうでありながら、自分ではどうにもならないところにまで追い詰められてしまって、それこそが罪の罠なんですが、罠にかかったと自分では分からない。そこに聖書のみことばを通してはっきりと光を当てられないと抜け出すことができない。そういう方がいっぱいいらっしゃるんじゃないかと思うんですね。
そしてそういう方々にこそ、神様の救いがあるのだということを知っていただきたいといつも願っているんです。

使徒の働き15章、これはペテロの言葉ですけど、彼の証言をちょっとご紹介します。

使徒の働き15:7-9
7激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
8そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
9私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

ここでは信仰によってきよめたと書いてあります。真理に従うことによって魂をきよめられたというペテロ自身の経験をも言っているんですね。ペテロは主を信ずることによって、真理に従うことによって、ほんとに自分の心をきよめていただいた、魂をきよめていただいたという経験をしたんですね。
パウロの経験はもう少し徹底的なものですね。

ローマ人への手紙6:6-8
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
8もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロはどうにもならない、内に何にも善が住んでいない自分、その肉なる心を持っている自分、それが実はイエス様とともにあの十字架で葬られたのだ。あの十字架でイエス様とともに自分は死に、そしてイエス様とともに葬られたのだ。
そして自分は今、イエス様を信じる信仰によって、イエス・キリストの命にあって生きているのだということを知ったんですね。パウロの経験はそこにあったのであります。心を変えるということを言いましたけども、全く新しい人へパウロは、イエス様を信じる信仰によって、今まで自分の中に無かったイエス・キリストの人格というのが自分の内に聖霊を通して住んでおられるのだ。その事実に気がついたということなんですね。

エペソ人への手紙4:17-24
17そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
18彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
19道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
20しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
23またあなたがたが心の霊において新しくされ、
24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

新しい人とはイエス様のことですね。イエス・キリストを着なさいと、パウロは勧めているんです。異邦人というのは神様を知りませんし、神を恐れることを知りませんから、自分の心の望むままに生きて行く。かつて私たちが生きていたように生きている。そういう歩みをしてはならないと言っているんですね。
魂の底から新しくされなさい。イエス・キリストは私たちをそのようにしてくださるから、その力を持っていらっしゃるからと言っているんですね。

ローマ人への手紙13:11-14
11あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
12夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
14主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

あの初代教会の偉大な指導者だったアウグスティヌスという人がいますけど、彼の告白録を読みますと、彼がイエス様に立ち帰る、回心のキッカケとなった言葉が、今お読みしたローマ人への手紙13章の11節から14節でした。
聖書を開けたらこのみことばが自分の目に飛び込んで来た。彼はここを読んでですね、信仰から離れていた長い生活、お母さんのモニカの祈りの中で生まれ、祈りの中で育ちながら、母親に背を向けて遠く信仰から離れて、この世の生活に埋没していたアウグスティヌスがついに主に立ち返り、あの大きな働きをした人物に変えられて行きましたけど、それはこの言葉だと彼は書いております。
「夜がふけて昼が近づきました。ですから私たちはやみのわざを打ち捨てて、光の武具を着ようではありませんか。」
光の中に出て来なさい。そういう聖書の呼びかけですね。神様の呼びかけに、彼はその時答えたのであります。

ガラテヤ人への手紙6:15
15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

大事なのは新しく造られることですという意味ですね。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

私たちを根本的に変えてくださる神のみことばがあるということですね。
この神のみことばはここに書いてあるように、古いものは過ぎ去って、見よすべてが新しくなりました。そういう風に私たちの人生を根本的に新しくすると言っているんですね。どうぞみことばをご自分のものとして、真っ直ぐに受け取ってくださるようにお勧めいたします。




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