引用聖句:ローマ人への手紙6章17節-18節、20節-23節
イエス様を信ずる人々がクリスチャンというふうに呼ばれるようになったいきさつについては、使徒の働きの中に出ておりますけども、「彼らはキリスト者と呼ばれるようになった」というような表現がありますが、文字通りChrist、英語ではChristian、ドイツ語なんかでは、Christenというふうに言いますが、クリスチャンとは、イエス・キリストを神の御子であり、自分の救い主と信じて従う決心をした人々であります。 決心したというよりも、そのように導かれた人々のことであります。なぜなら、信仰においては人間の決心はあてにならないからであります。 信じたよりも、信じさせられた人々と言ったほうがいいかもしれないんですね。主によって捕えられた人々であります。 こういうのは人間の普通の感情からすると、イエス様に従うことは、なにも楽しいことではないからであります。イエス様に従うことを自分の生きがいとし、喜ぶことができるというのは、人間の力によるのではないからなんですね。 多くの主を知らない人々が感ずるように、なんで日曜日ごとに教会、教会、ウィークデーごとに集会、集会っていうふうに、彼らは集まっているんだろう。 酒も飲まず、タバコもあんまりたしなまず、この世の楽しみにうつつを抜かすわけでもなく、いったいなにがあんなに楽しいんだろうと・・・理解できないと思いますね。 かつて私たちもそうだったからであります。これは上から与えられたのでなければ、歩むことのできない道だと言えると思うんですね。人間の決心ではとてもできないものであります。 神さまが私たちの目を開いて、捕えてくださった。今までは全然つまらないと思ってた、この、信仰に歩むことが私たちの本当の喜びとなり、力となった。これは、繰り返しますように、人間の努力によるものではないのであります。 こういうふうに、クリスチャンとは、主によって捕えられた人々です。またそのクリスチャンとは、イエス・キリストの救いの証人とも呼ばれる者であります。 イエス様の救いを得た人々が、自分が救いにあずかったこと、これを証人として多くの人々に証をする。そういう存在でもあるんですね。 ですから私がこのようにお話することは、いつでも私自身が経験した聖書の真理の一部分なのであります。その聖書の救いに関する真理の一部分をご紹介することによって、苦しんでいる人々、人生に絶望している人々が、その苦しみから救い出され、絶望から本当の希望を見いだしてくださるように、ここに大勢いるクリスチャンたちは、なんとかそのことをご紹介したいと願ってるんです。 なぜならば私たちは苦しんだからです。本当に辛かったからなんですね。ですから、その辛い状況から救われていただきたい。ただそのことだけを願って、こういう聖書の集会をしています。そのことだけを願って、ベック兄は五十年前に日本に来てくださったのであります。 私自身ももうすぐ六十歳なんですけども、かつて、絶望に恐れおののいていて、そこから聖書の告げる救いによって救い出していただいた一人であります。 二十歳そこそこで、特に難病に侵されていたというわけでもなく、特に自分の家の家庭が崩壊して、散々苦労したっていうわけでもない人間が、絶望していたなどと言いますと、みなさんは「なにを言うか。」と、一笑されるかもしれませんね。 私も少々、口幅ったい気がするのであります。しかし本当に、私はいてもたってもおられないような、追い詰められたような、もう逃げ場を求めて、吉祥寺集会に実は飛び込んでいった。そういう人間だったんですね。 もう、あの吉祥寺集会にしか逃れ場がないのじゃないかという、そういう思いで切羽詰まって、もう二度と行くまいと決心した吉祥寺集会に、もう、来る日も来る日も、集会のあるごとに、通わざるを得なくなった。そういう経験をしたからなんです。みじめな経験ですね。 しかしクリスチャンはみじめな人がなるものなんですよ。本当にみじめな、自分のみじめさに本当の意味で気が付いた人が主のもとにいくのであります。 その原因は、当時は気が付きませんでしたけど、今では一言で言い尽くすことができます。なぜ私はいてもたってもおられないような、本当にあらゆる望みを失ったかのような、そういうところに自分が立たされたか。その原因は一言で言うことができます。 それは私の内にあった傲慢のゆえでした。 この傲慢という罪が私を、この人生の破綻へと追い込んで行きそうになっていたのでありましたが、しかし当時はまったくそのことに気が付いていませんでした。 そもそも、自分を傲慢な人間などとは思っていなかったのであります。 他人を見下して、そっくり返ってはいないつもりでしたし、もともと、あんまり気の強い人間ではありませんから、人を人とも思わないっていうような、そうゆう傍若無人な態度ってのは自分は取ってないつもりでありました。 他人に対してはむしろ、気を配るほうだと自分では考えていたんですね。そしてそのことはおそらく間違いではなかったと思います。 友だち関係はべつに悪くなかったし、大勢、友だちいたからなんですね。確かに、友人や人間に対して自分は、そんなに傲慢な人間だとは思っていませんでしたし、それはある程度正しかったと思いますが、しかし私の内面には、人間に対してではないけれども、恐ろしい傲慢さが確固として秘められていたのであります。 その当時私は、自分はここに来るよりほかにないという、一つの結論に達していたからであります。それはなにかと言いますと、結局のところ、人間は、自分自身を一切のことのものさしとして、基準として生きるよりほかにないのではないかという結論だったんですね。 結局、この世の中に、人間が信頼できる客観的な基準とか価値とかいうものはないのではないか。なぜならば神は存在しないから、と私は結論を出していたわけです。 であれば、結局のところ人は、自分自身を自分の一切の行動の基準として、判断の基準として、あるいは道徳の基準として、自分自身に関わり得ないのではないか。聖書的に表現すると、自分自身を己の神として生きるという、こういう結論。それが当時の私の行き着いていた結論だったということなんです。 神がおられなければ、それ以外に生きる術はないのではないかというふうに思っていました。大学紛争の嵐の吹き荒れる時代でしたから、学生たちは自分たちの立ちどころを求めて、右往左往していたのであります。いったいなにが正しいのか。 正しいという基準というのはありえるのだろうか。ぼくなどは、そういう疑問をもって、私の大学の先生だった、クリスチャンだった先生にその質問を発したのであります。 「君は根本的に間違っている。」と、先生に言われて、面食らいましたけども、この先生はなにか知っていらっしゃるなぁ。 「本当に揺るがない基準というのはあるもんなんですか?」 私はそうですね、先生の面接で、ゼミに入れてもらう面接で質問をしたのであります。 先生は、「そのような問題で悩んだり、考えたりすることはいいことである。しかし君は根本的に思い違いをしてる。」 なにが思い違いしてるのか分かりませんでしたけども、そう言われたんですね。 社会の規範などと言っても、その根拠は疑わしいのではないだろうか。ああしてはいけない、こうしてはいけないとあるけれども、本当にそれは、確かな根拠をもってるもんなんだろうか。 それとも単なる約束事に過ぎないのではないだろうか。絶対的なものなんではないんじゃないだろうか。 なぜなら、絶対的な存在は存在しないのであるから。そういうふうに行き着いていたわけであります。 神が存在しないというのであれば、ほかに道はない。社会の道徳や規範は一応の約束事として守るかもしれませんが、本心からそれが正しいと信じてやってるわけではないと、考えていたんですね。 これに反すれば社会から叩かれるかもしれないけれど、しかし、それはで社会の約束事であって、本当にそれが揺るがない、絶対的な正しい規範であるということは、どこにいったいその根拠があるのか。そういうことを考えていたのがその当時だったんですね。 あの夏目漱石は、昔、学習院に招かれて有名な講演を行なってますが、若い頃のイギリス留学時代の自分の苦悩について、語っております。 彼はイギリスに三年ぐらい留学したらしいんですけども、借りた下宿に閉じこもって泣いてばかりいたそうでありますが、食うものも食わずに本を買い込んじゃって、それに囲まれて、もうノイローゼで泣いていたようであります。 要するに神経衰弱ですよね。当時は神経衰弱という言葉ですけども。彼は生涯、その神経衰弱に悩まされ、解決を得ずして死んだ人物ですね。 彼がロンドンから、「ロンドン便り」なんて彼が書いてるのを読むと、本当に自分の頭の神経は疲れ切っちゃって、のりがべとべとになっているようってな表現をしております。 心身、もう疲労困憊して、彼の神経は本当に疲れ切っていることが分かりますけども、彼はその苦悩について色々語りながら、こう言ってんですね。有名なことです。 ついに彼は、自分は自分の立ちどころとして、自己本位という立場に立つように決心したと書いてあります。自己本位の四文字と彼は、そこで言っておりますけども、結局人は人、自分は自分だと開き直ることに決めたということであります。 それ以外にはどうにも仕方がないのだと結論づけた。これが有名な彼の講演に出てくる最初の話・・・書かれております。私の個人主義という、長い講演でありますが。 ところが彼のこの立ちどころ、これ以外にないのだ。人は人なんだ。もう、自分は自分だと、こう行くよりしょうがないと、彼のこの結論が、到達した立ちどころが、彼を深刻な苦悩の人生へと追い込んで行くのであります。 抜け道のない袋小路へと、漱石は生涯追い詰められていった人物ですね。彼の文学作品は、もうほとんどすべておんなじですね。この問題との格闘であります。 どれを取ってみても、本当に自我の穴倉にはまり込んじゃって、そこから出るに出られない人間の孤独と苦悩。それにもう、のた打ち回ってる人間ですよ。 漱石自身が、この問題から逃れられなかったからであります。漱石の不安と孤独こそが、いわゆる近代人の孤独と不安と呼ばれているものの典型であります。 近代人というのは、結局、自我というところに立つよりほかにない。自我なる穴倉にこもってもう、どうにもならない。人との間に架け橋がもう作れない。そこに必然的な孤独というのが出てくるわけです。もう、人との対話がそこにはないのであります。孤独と不安ですね。 神の存在を拒否する結果、自己本位という、この自分というところに最終的に立とうとする。そう行かざるを得なくなり、その結果、今言ったように、もう、身動きできないような、穴倉の中にはまり込んでしまう。 その結果、交わりを断ち切られて、人は孤独にいつも怯える。そういうことになるのであります。 現代人。特に夫婦の問題なんて色々ありますけども、結局、もうひとりひとりが、自分の穴倉の中に入り込んじゃっていて、親しいはずの、一番身近なはずの、もう奥さんやご主人との間のコミュニケーションがまったくもう取れない。心がまったく通じない。 そういうところに、現代の大きな問題がありますよね。本当の意味で、お互いに受け入れることができない。要するに、愛っていうことですよね!言い換えますと。 自我というところに人間が立つ。そこにはまり込むときに、そこには本当の意味での愛ってものは消え失せるわけです。人は人、自分は自分なんですからですね。 利害打算が一致したら、「ひとつじゃあ、駆け引きをいたしましょう。しかしそれ以上責任も義務もないのだ。」、こういうあり方。これによってひとりひとりが、交わりから切り離されてしまっている時代ですね。これが近代ということだと思いますね。共通の絶対的な基盤というものを失ってしまっている。それはもう無いものだと思い込んでしまっている。そういう世界ですね。 要するに近代っていうのは神はいないっていうことですよ。ニーチェであれば神は死んだと言いますね。そういうところに立つ限り、もうわれわれの間には孤独と不安しかない。絶望しかないのであります。 学生時代に、そういう思想の洗礼を受けて、私たちも、そういうところに追い込まれて行ったということなんですね。それはなにか確かなものを求めようと思って求めた結果、絶対的なものはないのだということを宣言されて、それだったら、じゃあ、どこにわれわれ行かざるを得ないか。 自分自身ということにしかもう、行くところがないのかという、そういうことであります。 ルカの福音書の16章。イエス様が行なった例え話の中の一節ですね。その中でアブラハムがラザロに答えたというのが26節。イエス様の例え話です。 ルカの福音書16:26
わたしとおまえとの間には、と言ってるんでしょうかね。現代人はみんなそうです。大きな淵があります。本当の意味で、もう心は繋がっていないんですね。 イエス様を信じて本当に人が安心するのは、そういう壁が取り払われて、本当の揺るぎない土台の上に人が立たされることによって、そこに生まれる、本当の交わりであります。 本当の意味での、相手に対する配慮と言いますか、愛と言いますか。そういうものが、初めて開封するんですね。それを私は信仰に導かれて初めて知りました。 聖書から見れば、今言ったような人間のあり方。私がかつて結論を出したような、このあり方こそが実はもっとも恐るべき傲慢であります。罪そのものであります。まことの神さまへの挑戦にほかならないのであります。 おのれをおのれの神として、一切の基準は自分自身に置いて生きようとする。これは、恐るべき、実は人間の企てにほかならないのであります。 いかに人間に対して、人に対しては謙遜で親切であったとしても、神の前には決して見過ごされることのない、それは重大な罪であります。 神の怒りによって、鉄槌を下されなければならない、そうでは済まないところの問題。実はそれが罪なんですね。それをそういう問題だと、われわれは気が付かなかったのであります。 そういうような恐るべき傲慢な、聖書的に言うと霊的な傲慢ですが、それを内にもちながら生きていたということなんですね。 ハバクク書1:11
自分の力を自分の神とする者は、必ず神によって罰せられるんですね。 オバデヤ書1:3-4
いわゆる、近代人の孤独と不安。どこにも行き場がない、まったく、生きる意味と目的を見失った人間の絶望っていうものは、主なる神への敵対という罪に対して、神ご自身が下している罰にほかならないんです。 神はそのことを赦し給わないからです。しかし神さまに罰せられる人は、神さまからあわれみを受けるということでもあるんですから、神はわれわれを滅ぼそうとしてさばかれるのではなくて、私たちの目を覚ますために、私たちの高ぶりを取り除くために、私たちに激しく望まれる。むちを加えられるんですね。 人間は真理にそむくことによって、神ご自身にそむくことによって、即それが自分自身に対するさばきを引き起こしてくるということ。それから逃れられないということであります。 知らずして、神はいないと思い、そして神の主権に対して、ある意味で挑戦するという恐るべき企て。それをやろうとしてる。これは実は悪魔の本性なんですね。悪魔の本性というのはそこにあるんですね。被造物でありながら、神の主権を奪い取ろうとする者ですね。これを企てる恐るべき傲慢をもつ者。それがサタンの本性でしょう? で、これがどんなに恐ろしいことなのかっていうことは、私たちは気が付かないでいるのであります。それが現代の人間の抱えているどうすることもできない、問題の原因なのであります。 本当に現代人は、睡眠薬を飲まないと寝れないとか、お酒を飲まないともう眠ることもできないとか、そういう人たちがいっぱいいらっしゃるわけでしょ? 不安で不安で。本当に安らかに希望をもって毎日を過ごすっていう人はわずかなんですね。 第一、本当の希望がなければ、人は安らげませんよね?確かな望みがあるから、人は安心して一日一日を過ごすことができるのであって、行く末になんの確かな望みもなければ、本当に不安であります。 そこから逃れることはできないのであります。聖書にその揺るぎない望みが記されている。救いが啓示されているんですね。 私たちの心の目がそれにはっきり開かれて、それを自分のものとしなきゃいけないわけであります。それはひとりひとりの責任であります。 求めるなら人はそれを見いだすことができるんですね。求めるなら人の霊のまなこは開かれていくのであります。そうでなければ、いくら話を聞いても、訳分からないですね。 ローマ人への手紙5:10
もし敵であった私たちが、と書いてますね。私たちは神の敵でありました。それに気が付きませんでしたけれど。 神はいないと言って、うそぶいて、神さまの主権を受け入れようとしないでいた者ですね。アウトローですね。いわば神さまの主権を認めず、神の掟を心にも留めずに生きている無頼漢ですね。そういう者。 使徒の働き26:17-18
テモテへの手紙第I、1:13
私たちとパウロとの違いは、パウロは神さまに仕えているつもりだったということであります。神の存在を認めようとせず、信じようとせず、神さまは必要ないとしていた私たちとは、やはりパウロの出発点は違うのではないかと思うんですね。 結局、私自身の罪とは、神の御前における傲慢と無知と言うことができると思います。そのことのゆえに、聖書が言っているように、滅びということを実感させられたということなんです。 今から考えると、悪魔的な考えの中にとらえられていて、今振り返ると、ゾッといたしますけれども、しかし真理を知りたい、本当のことを知りたいという思いは、強く持っていたように思います。 真理に従うのは人間として当然である。だから真理を知って、その道に歩みたい。そういうふうに望んでいたことは事実なんですね。 こうして聖書に向き合うことによって、自分の根本的な問題がなにかっていうことが、段々明らかになっていきました。まことの主権者である神ご自身を拒絶し、自分を自分の一切の基準とするという、この傲慢。これこそが自分の根本的な問題なのだということが聖書を通して明らかになってきたのであります。 この傲慢の罪を、徹底的に自分の中から取り除かなくてはならない。主の絶対的な主権を本当の意味で受け入れなければならない。そういうふうに、聖書を通して気付くようになったのであります。 エゼキエル書18:30-32
この恐るべき罪。私の中にすくっている罪を取り除くためにイエス様は十字架の上で神ののろいと怒りをその身に受けてくださったのだと、聖書は言っています。それ以外にこの罪の処理、解決方法は無かったのだと聖書は言うのであります。 コリント人への手紙第II、5:21
イエス様は私たちの代わりに罪そのものとなられた。十字架に架かられたのは、私たちの罪そのものとなったイエス様である。神はこの罪そのものをのろい、怒りによって罰されたというのであります。 ガラテヤ人への手紙3:13
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから、罪ののろいからと言ってもいいんじゃないでしょうか、意味の上では、私たちを罪ののろいから贖い出してくださいました。 なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 創世記3:14-15
イエス様は悪魔の頭を踏み砕き、悪魔はイエス様のかかとにかみつく。そういうふうに、創世記の初めのほうで預言されています。これは、原福音と呼ばれている箇所だそうであります。 私たちの中にある恐るべき罪の本性。悪魔の性質に通ずるところの恐るべき霊的な傲慢。これを取り除くために、イエス様はあの十字架の上で死んでくださった。あれほどののろいと怒りを一身に受けて死んでくださったと聖書は言ってるんですね。 ですから私たちは、自分のうちのあるこの神さまへの反逆の思い、霊的な高ぶり、これを本当に取り除かなければいけない。ただ、それはイエス様を信ずる信仰によって取り除いていただくものであると聖書は言ってるわけです。 おそらく自分の力ではできないことだと思いますね。主が十字架に架かってくださった。死んでよみがえってくださった。この事実を信じ、受け入れることを通して、私たちのうちにある霊的な高ぶり、それが除かれて、御霊が私たちのうちに宿ってくださる。 新しい心を得よと書いてありましたけれども、それが私たちのうちに実現すると言えると思います。 最後に、 ローマ人への手紙6:17-18
ローマ人への手紙6:20-23
私の聖書の学びはどちらかと言うと、罪から来る滅びについて強調点が置かれやすいのであります。救いのすばらしさを大いに語るべきなのに、その点はいつも反省させられるんですが。かつてこの6章の23節、「罪から来る報酬は死です。」というところだけ読んで終わったら、あとでベックさんが笑ってきて、あとの後半も読まなきゃいけないと、ニコニコ笑ってぼくにそう話されたことを忘れられないんですね。確かに、後半がありますから。 しかし悩んでいる方々の問題の、本当の原因がこれなのだということ。神の前における人間の霊的な高ぶり、すなわち、不信仰なのだということ。それを知っていただきたいということなんです。 その解決から得られるもの、主の救いがいかにすばらしいものかについては、ご自分で体験していただきたいのであります。 今日はそこまでで終わりましょうか。 |