引用聖句:テトスへの手紙2章11節-14節
先ほど、日々の歌で賛美した歌の中に、イエス様が「必要なことは一つである。なくてはならないことは、多くはない。いや、一つである。」と仰いましたね。 私たちが終生この一つを目当てとして、力を尽くして生き抜くかどうかということ。実私たちの生涯は、実にそれに決定的にかかっているようであります。 私は今から40年近く前、23歳の時に吉祥寺集会に集うようになって信仰に導き入れられました。初めて聖書を本気になって読むということを経験いたしました。そして、イエス・キリストの救いというものに目が開かれました。 そのときに私は、「自分の生涯の目的はこれで達した。」と本当に思ったのであります。もう、これで「私が求めなければならないもの、手に入れなければならないものを見出すことができた。」と思いました。 ですから、それから後の残りの私の社会生活は「この示されているひとつの道に従って歩めばよい。」という確信を持ったのであります。この「ただひとつのものを追い求めることが、人生のすべてである。」とその時、思ったのであります。 そして、40年近く経ちましたけれども、信仰生活の年月を経るにつれて、益々実感させられることは、「主の守りの完全さ」、「みことばの確かさ」ということであります。 信じて歩み始めた頃、もちろん聖書を熱心に読むようになりました。そして、「聖書に何が書いてあるか」、「主の約束は何か」、「自分はどう歩まなければならないか」など、段々とわかってまいりました。 でも、その頃は頭では神様のみことばの約束を知っていながら、何かおっかなびっくり、一歩一歩ヨチヨチ歩いてはひっくり返る小さい子どものように、あっちこっちにつかまりながら伝い歩きをしているような感じがしておりました。 しかし、年を経るにつれて、主のみことばはほんとに確かである。安んじてこれに信頼すればいいということがわかるようになってきたのであります。 主は確かに全能の主、全能の神でいらっしゃる。私たちが自分のことを理解しているよりも遥かに、主は私たち一人ひとりのことをご存知であり、私たちの必要を完全に知っていらっしゃるのです。 振り返ってみる年月、「ほんとの意味で困ったことはなかった。主は十二分に私の願い以上に恵んでくださった。」ということを実感しているのであります。 救われてから、ある集会に出ていた頃の話ですが、あの頃、クリスチャンである私の先輩が歌舞伎町の近く連れて行ってくれたのです。そこでアメリカの婦人宣教師がトラクトを配って、喫茶店で喫茶店伝道というのを始めていらっしゃったんです。 神学校の校長先生もなさっていたそうですけど、神学校で聖書を教えるだけでは駄目だと思われたのか、新宿の雑踏の、しかも歌舞伎町に飛び出されたのであります。週に一度伝道をなさっていました。僕はそこへ先輩に連れて行かれて手伝うようになりました。 フラフラしている若者にトラクトを配って、「聖書の集いがありますから聞きにいらっしゃいませんか。」と話すんです。 僕らが言うと全然人は来ないんですが、姉妹がおっしゃると大体ついてくるのであります。そこに来られた方々にコーヒーを提供して、牧師さんなどいろいろな伝道者さんたちがメッセージをなさって、あるいは若者の証しがあったりというそんな集いでありました。 その時に話された一人の伝道者のお話が今でも忘れられないんです。昔の北朝鮮辺りの川は冬になると凍るわけですよね。ある人がその凍っている川を渡ろうとして川に下りたんです。 ところが、渡ったことがないものですから、いつ氷が割れるか怖くて、恐ろしくてビクビクしながら恐る恐る歩いていたんですね。でも、段々心配のあまり、遂には四つん這いになって歩いて行ったと言うんです。 そうしてしばらく歩いていたら、あちらの方からから勢いよく馬車に乗った男の人が駆けて来ました。どうなることかと見ていたら、ダーッと、あっという間に目も前を過ぎて川を渡ってしまったそうです。 それを見た四つん這いの人は「ああ、あれでも大丈夫なのか。」と四つん這いを止めて立って歩いたんだという話をなさいました。何か自分の信仰の歩みを言われているかのような気がして忘れ難いのであります。 大丈夫だろうか。こうやって行くけど、ほんとに主は守ってくださるんだろうか?そのようにおっかなびっくりしながら、聖書には確かにそう書いてあるけど心配だという歩みをするわけであります。 しかし、歳月を重ねるにつれて、経験を積むにつれて、確かに主は間違いのないお方である。主に信頼して失望することはなかった。それを身をもって体験するようになったんですね。 ですから、実は私たちは何の心配もしなくていいのであります。主が私たちに示していらっしゃる確かな目当てに向かって、私たちが力を尽くして歩めばいいのであります。 聖書が、私たちあらゆる人間に提供している人生とは、私たちが心配しないで、主に信頼して、神様が私たちに指し示していらっしゃる主の喜ばれる人生を、力の限り生き抜くことなのであります。 またそのような生涯に勝る生涯はない。イエス様によってまことの不滅の救いをいただいた人々はもうこの世のことにかまけて、「ああだ、こうだ。」とそれに巻き込まれて、引きずり回されて躊躇して生活する必要はない。 なぜならば、主はすべてのことをご存知であり、私たちの必要を完全に満たすことのできるお方であり、完全に守ることのできるお方であります。 私たちは何と無駄な心配をし、遠回りをし、時間を無駄にしているんでしょうか。それは聖書から見て正しいクリスチャン生活ではないということを私たちは明らかに示されるわけであります。そのためにも改めて確認しておきましょう。 「イエス様を信じるクリスチャンに与えられている特権とはいったいなんだろうか。」、「生きるべき人生の目当ては何だろうか。」それを私たちがしっかりわきまえないために、私たちは横道に逸れてしまって実を結ばない生涯を送るのではないか。 豊かに実を結ぶはずなのに、私たちはそれをないがしろにし、無駄にしてしまっているのではないのか。聖書は私たちに「実を結ぶ歩みをしなさい。」と繰り返し教えておりますね。私たちが実を結ばなくなることがないために、注意をしなければいけないということを聖書は教えております。 まず、「クリスチャンが与えられている特権とは何か。」ちょっと考えてみたいと思います。 クリスチャンとはイエス様を神の御子と信じ、受け入れた人々のことですね。キリストを神の御子と信ずるならその人は救われます。聖書はそのように言っております。 また、救いとはまことの創造主なる神、私たちを造り、私たちを生かし、私たちを日々恵んでくださるところのまことの天の神に私たちが立ち返ることであります。 人間はまことの神様に立ち返ることができるのであります。それはイエス・キリストを通してなのです。ルカの福音書の19章の中にイエス様のおことばが記されております。 ルカの福音書19:9-10
「この人も」、とはザアカイという人のことです。人生の目当てがわからずして、自分のコンプレックスを解消するために、このザアカイという人は金持ちになろうとしていた人であります。人々から何と罵声を浴びせられようと金持ちになって見返してやろう、と思っていたんでしょうねえ。ザアカイという人には、どうもそのようなコンプレックスがあったようであります。 当時、人々に嫌われた取税人のかしらとして、彼は強欲に金を稼いでいた人でありますけど、その心の中に空しさを抱えながら、人々の自分に対するいろいろな非難、悪罵を彼はもちろん痛みを持って聞いていたと思います。 それらのすべてを無視して生きていたんでしょうが、彼の心の中には空しさが、消すことができないほどに強くあったはずであります。 イエス様はそのザアカイという人の心の奥底を見抜かれました。会ったこともない、初めて見るこのイエスなる方がエリコの町を通られた時に、ザアカイは人々が噂にするイエス様とはどんな人だろうかと思って見に行ったのでありますが、背が低かったので見ることができなかったのであります。 それでイエス様の行列の先回りをして、いちじく桑の上からイエス様が通られるのを待っていたと聖書にありますね。 いちじく桑の上からイエス様の姿を見下ろしていた時に、その木の下に来て「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしているから。」とイエス様はおっしゃったのであります。 誰も相手にしてくれない自分を、このイエスなる方が「あなたの家に泊まるから。」とおっしゃったんですね。これはザアカイにとっては驚くべきことでありました。 また、彼の心には一気に喜ぶが満ち溢れて来たんでしょうねえ。今まで冷ややかに見ていたんだろうと思います。 ザアカイという人は、いわゆる拗ねた人間でありました。ところがこのイエス様の語り掛けに、ザアカイの心は一気に開かれて行きます。 彼は急いでいちじく桑の木から降りて来て、イエス様を家にお迎えし、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれかれでも私が騙し取った不正に人々から取った物は、四倍にして返します。」と言ったんですね。 彼の心からの喜び、イエス様を受け入れた時の彼の溢れるような思いがそのことばに出て来ます。イエス様はこの時におっしゃったんです。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」 この人もまた神様の愛の対象なのだからということですね。人の子は、イエス様はご自分のことを人の子とおっしゃいます、失われた人を捜して救うために来たのです。 ほんとに立ち返るべきところを知らずして、目指すべき人生の目当てをわからずして、心の中に空しい思いを持ちながら、金を生きがいとして生きようとしていた、このザアカイのような人を、失われた人と言うんですね。 そして、イエス様はその失われた人を捜して救うために自分は来たのだから、とおっしゃるんです。 救われるということは神の御許に立ち返ることであります。失われた人とは神様から遠く離れた人であります。 自分の人生の意も目的もわからずして、さ迷っている人のことであります。その人をイエス様は捜し出して、父の御許に引き戻すために、この地上に来てくださったのであります。 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ誰ひとり父のみもとにくることはありません。」とイエス様はおっしゃいましたね。 テモテへの手紙第I、2:4-5
人としてこの地上に来てくださったイエス様。そしてイエス様がおっしゃったように、人の子としてのイエス様を通して初めて神に立ち返ることができるとあります。 「私は神様の許に立ち返った。」、これがイエス様を信じ救われたクリスチャンの告白なんです。 今まで自分はさ迷っていたけれど、やっと帰るべきところに帰った。救われるとはひとつはそのことであります。 また、イエス様を信じて救われるとは神様によって、イエス・キリストの父なる神、この万物を創造してくださった唯一の神によって、私たちが罪を赦していただくことであります。それだけでなく、義と認めていただくことであります。 罪を赦されるということと、義と認められるということとは違うんだそうですね。義と認められるということは、一度も罪を犯したことがない者と認められるという意味だそうであります。聖書でいう義ということばの意味ですね。 更に永遠のいのちをいただくことであります。 自分の罪咎にまみれた人生、それに気がついて、悔い改めて神様の許に立ち返ろうと決心をし、イエス様を信じて神の御許に帰る時に、人は今までになかったものが自分の内に宿ることを経験するのであります。 これが永遠のいのちなのか、目を開かれて、今まで味わったことのないものを人は味わうようになります。 薄汚れ、汚れ果てていた人が水で洗っていただいて、清潔な衣を着せていただいて、今まで何でもかんでも反抗、反抗で素直になることのなかった人間が、神の御前に子どものように素直にさせられて、人はまったく新しい人生を始めるようになります。 誰でも新しく生まれ変わらなければ神の国をみることはできないとイエス様がおっしゃいました。それを経験するようになります。聖書の中で一番有名なみことばはヨハネの福音書3章16節です。 ヨハネの福音書3:16-17
御子を信じる者はさばかれない。 ヨハネの福音書3:36
ヨハネの福音書5:24
理由は、はっきりしていますよね。イエス様を信じる者は、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている。すでに永遠のいのちの中に入れられているという意味でしょう。 「いつか、入れられるであろう。」と言ってないんですね。「人が死んだら永遠のいのちを受けるようになる。」とは言ってないのであります。 イエス様を信じ、受け入れたときに、その人の内に永遠のいのちが宿っている。その人は決してさばかれることはない。 ヨハネの福音書6:37
イエス様のところに行く者は決して拒まれることはないと言うのであります。 ヨハネの福音書20:31
聖書が書かれた理由がそこに記されております。 イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じ、そのことによって、イエスの御名によって、永遠のいのちを得るために、私はこの福音書は書いたのだとヨハネは述べているのであります。 ローマ人への手紙3:21-24
「価なしに義と認められる。何の差別もない。」と言っていますね。 それまでまことの神様から遠く離れ、神なき、望みなき人生、何の望みもない人生ですよ、歳をとって段々体も心も衰えて、死に向かう人生。 どんな人も死ぬときには冬のハエのように死ぬと言ったのは誰でしたか、ナポレオンでしたかね、ほんとうに冬のハエが生命力を失って死んで行くように生きる人生、死に向かってひたすら生きる人生。そういうように考えれば考えるほど不条理な人生、それは人間がまことの造り主から遠く離れているからであります。 「神なんか要らない、私は私で生きてゆく。私にとって私が神だ。」と恐るべき豪語しながら、人間は生きているのであります。 そのために、人間は実は望みなき人生の中に捨て去られているのであります。人間の罪の結果なんです。 そのように罪の中に死んでいたのですが、イエス様を信じて神の許に立ち返って、ほんとの意味で生きる者とされたのであります。 エペソ人への手紙2:1-2
「この世の流れ」とは何か。それは悪魔に支配されている流れなんです。多くの人は気がつきませんけれども、この世は悪魔の支配の元にあって動いているのであります。すなわち、神様に対する反逆という真の神に対する反逆の霊の元に人は置かれているのであります。 ですから神様から遠く離れている人の心の性質の特徴は不従順ということであります。聞く耳がない。素直に聞こうという心を持たない。 反対にあらゆる権威に対して逆らおうという心を持っていますね。それは悪魔の霊なんです。悪魔はあらゆる権威に反抗する霊だからです。今読んだ一節にパウロは「あなたがたは」と書いていますが、次の3節には「私たちもみな」と書いてありますね。つまり、パウロは、「自分もそうなんだ。」と言っているわけです。 エペソ人への手紙2:3-5
自分の欲の中に生きてほんとに神様の怒りの元にあった者であります。そんな者が、イエス様を信じて救われました。クリスチャンの経験というのは正にその通りであります。 感謝することを知らず、人の言うことに素直に耳を傾けることもできず、まことに頑なでどうにもならない者だったんですね。しかし、そういう者を神様は滅ぼされずに憐れんでくださったのであります。 捨て去られるべき者、滅ぼされるべき者を神様は憐れんでくださった。その神様の愛が私たちの上に及んで、私たちは心を開かれる者となったのです。 かつて私は、「神様なんか絶対に信じない。」と決心しておりました。「神様がいようと、いまいと、自分には関係ない。」と開き直っておりました。そのような頑なで愚かな者も神様は捉えてくださったのであります。 神様の前に膝まずかざるを得ないようにしてくださったのです。 イエス様を信じ、受け入れるとき、その人の内にはイエス様の御霊、聖霊が宿ってくださいます。ですから、クリスチャンとはキリストの御霊を持っている人のことです。そして、それは神の子どもとされた印でもあります。 これは家内から聞いた話ですけどね、ある兄弟はプロフェッショナルな仕事をされていて、この世では先生と呼ばれる職業の兄弟であります。 馬車馬の如きエネルギーをお持ちで、人なんか弾き飛ばして生きているかのような兄弟が、ある期間、2ヶ月とか3ヶ月とかでしょうか、韓国のクリスチャンの方と一緒に仕事をされたそうです。 韓国のクリスチャンはどうも我々の集会の兄弟の動きをじっと見ていたようであります。そしてこう言われたそうです。「先生。あなたは聖霊様を持っていらっしゃいますか。あなたはどうも、御霊に導かれているように見えないのですが。」と。 あちらの方は率直で、日本人のように歯に衣を着せませんからね、言われた兄弟はずいぶんショックを受けたらしいですね。ガックリ来たんじゃないでしょうか。 「聖霊は持つとか、待たないとかいうものではない。」と答えたそうですが、やはり堪えたんでしょうね。仰せの通り、キリストの御霊によって歩んでいるかどうか問題なんです。 イエス様を信じているという人は多いでしょう。しかし、自分の内に宿っておられる聖霊によって、その方の導きによってほんとうに生きているかどうか、それが問題でしょう。そこを私たちは試されているのであります。 御霊を持つということはイエス様とともに神の子どもとされたという意味であります。イエス様が神の御子であり、イエス様を信じたがゆえに信じるクリスチャンもまた、神の子とされるのであります。 ですから、イエス様とともに神の相続人とされた者であると聖書は言っております。 神様がお造りになったこの見えるもの、見えないもの、全世界を、神様のあらゆる栄光を受け継ぐ者とされるのです。驚くべき立場ですね。 私たちが与えられている特権というのは、ほんとうに全宇宙的と言いますか、それでもなお足りないスケールのことがらであります。このことを知るときに、私たちはこの世のことがらがなんと取るに足りないものであるかを知るようになるんです。 クリスチャンがこの世のことから解放される一つの理由はそこにあります。私たちに約束されているのは実に驚くべき神の栄光であります。 この世のものはすべて朽ち果てますけれども、私たちが関わるのは僅か数十年に過ぎませんけれども、私たちに与えられた栄光は永遠のものであります。聖書にそのことが書かれていますので、今、何箇所か確認したいと思います。 エペソ人への手紙1:13-14
「約束の聖霊をもって証印を押された。」と書いてありますね。 人がほんとに自分の今までの人生を、神様を神様とせずに生きてきた自分の生涯を心から悔い改めて、180度方向転換して、イエス様に従って行こうと決心するときに、必ずその人の内に、キリストの御霊が宿ってくださいます。 この御霊は私たちを導き、私たちの心を整え、清める働きをしてくださいます。そのことによって私たちの人生もまた御霊の清めに預かって行くのであります。 テトスへの手紙3:3-7
聖書の中のこの数節に、実はイエス様の福音のすべてが記されていると思いますね。この中に福音のすべてが入っていると思います。 神はご自分のあわれみによって一方的に聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを罪から清めてくださった。洗って清い者にしてくださったと言っているのであります。 ローマ人への手紙8:9
ローマ人への手紙8:14-17
コリント人への手紙第I、3:21-23
人間を誇ってはいけませんと言うのは、あるいはこの世のものを誇ってはいけません、と言っていいかも知れませんね。 一切のものがあなたがたのものだから、だから、この世のものを奪い合ったりしてお互いにキリスト者らしくない振る舞いをしてはならない。すべてはあなたがたのものではないか、と言っていますね。 以上がクリスチャンに与えられている特権の数々であります。これ以外に何かまだ必要なものがあるのでしょうか。まだ何か足りないものがあるのでしょうか。 罪の赦しと義認、永遠のいのち、神の子どもとされる特権、すごいですよね。この世には一切存在しないものであります。聖書が私たちに明らかに提供しているものはこれらのものなのだということですね。 ですから、イエス様を信じる者はすべてのものを持っているのであります。聖書がこのように教えている事実を私たちはいったい本気で信じているのでしょうか。 もし信じているのであれば、私たちに不足しているものは何もなく、私たちは何かについて心配する必要もないのであります。 問題は私たちがこの立場にふさわしく生きているかどうかということであります。 せっかく、有り余る富を与えられていながら、私たちはそれを用いることをせずして、いつも「あれに困った、これに困った。」と四苦八苦してないでしょうか。そうであるならば、それは実に悲しいことであります。 主のこの豊かな恵みに支えられて、常に余裕しゃくしゃくとして、生きているクリスチャンはどうでしょうか。むしろ少ないんじゃないでしょうか。 クリスチャンは外側の物的なことにおいてはそれほど余裕がないかも知れないんですね。 しかし、内側においては満たされてあるべきものであります。内側において満たされている人はやっぱり外側から見ても豊かな感じを与えますよね。貧相ではないのであります。 キリスト者は貧相であってはいけませんね。主は満ち満ちた恵みを私たちに注いでおられるのですから、私たちがそうでなければ、それはおかしなことであります。聖書が私たちに提供しているものとは大違いだからであります。 聖書は主を信じる者にはすべてが与えられている。すべてはあなたがたのものだとおっしゃっている。私たちには常に全能の神がともにおられる。ならば、私たちに欠乏はないはずであります。 常に一切の備えがなされていると聖書は名言しているからであります。 ですけど、クリスチャンの欠乏があるんですね。なぜ、クリスチャンは力を持たず、問題を抱え、常に「何か足りない、足りない。」という思いを持つのでしょうか。 その理由は明白であります。それは、私たちがクリスチャンとして目指すべき目標を、自分の人生の目標として生きていないからであります。 神様は私たちに唯一つのほんとうの価値ある目標を指し示しておられるのに、私たちはあちらを見、こちらを見、あちらを追っかけ、こ ちらを追っかけ、そういうことをしているからなのであります。 神様はその私たちの心の分裂を見ていらっしゃるのであります。 心が幾つにも分かれていることを主は嫌われると聖書の中にあるんですね。神様が問うておられるのは常にそのことであります。 あなたの心はひとつになってわたしに向けられているかどうか。主は常に、私たちに問うておられるでしょう。 神様をのけ者にしたり、神様を他のものより低く見なしたりするということは、主が許されないことなのであります。 神はあらゆるものに勝る方であられるから、神以外のものはすべて神の手によって造られたものにすぎないのだから、神以外のものを神に勝るものとして私たちが心の中に秘めてはいけません。それを神はご存知であり、お許しにならない。 それを聖書は偶像崇拝と言っているのであります。そのような主に対する不誠実と言いますか、聖書はそれを神に対する姦淫と呼んでいますが、それを私たちは常に注意しないといけないのであります。 神のみこころはご自分を唯一の目的、目当てとし、主の喜ばれる主の栄光を表す人生でしょう。主ご自身を何者にも勝る誇りとして、私たちが生きることでしょう。 パウロは主を知っているすばらしさのゆえに、この世のものを塵あくたと思うと言いましたが、こういう生き方を生きることこそが主のみこころであります。 私たちのクリスチャンの先輩の中には文字通り、そのように生き抜いた方々が多くいらっしゃいます。この方々の生きた証しによってですね、私たちは聖書の約束がほんとうだということを知ることができます。 信仰がお飾りになっていたら私たちは常に悩み苦しむのであります。信仰は自分にとって生きるすべてとなっているのでしょうか。神様をすべてとして生きられる人生に勝る人生はないのであります。 クリスチャンとして生きるということは、主の福音を伝える働きを直接するということではありません。 主はご自分の必要な器をそれぞれ立てて置かれますから、主は、そのために私たちにいろいろな賜物を与えておられますから、私たちは与えられた賜物を正しく使えばいいわけであります。 私たちが主を愛すること、私たちが正直であること、誠実であること、光の中を歩む歩みをすること。それを主は私たちに願っておられるわけでしょう。また、それを主は喜ばれるわけでしょう。 いくら伝道、伝道と言っていても私たちが正直でなかったり、誠実でなかったりするならば、それは決して主の喜ばれるところではないわけであります。それは偽善的なことだからであり、それは主にさばかれなくてはならないことであります。 主からいただいた愛と柔和な心を持って、私たちが温かい心を持ってですね、周りの人々に接すること、そういう生活を私たちが自分の生涯を通して生きること、それを主は望んでいらっしゃるわけであります。 またそういう歩みは私たちにとっても絶えることのない喜びとなるわけであります。マタイの25章の中でイエス様はこういうことをおっしゃっております。 マタイの福音書25:31-40
そのような隠れたところでの主の喜ばれる生き方こそ、クリスチャンが生きるべきものなんじゃないと思うんですね。 主が喜ばれるから私たち自身の絶えざる喜びともなるわけであります。 何かいいことがあるからとか、自分にとって都合のいいことが起こったから喜ぶんじゃないわけであります。そのような生き方をする者と変えていただいたことが感謝のです。 今までは強欲にただ自分のことしか考えられなかった人間が、「人を大切にする」、「人を愛する」と言いますか、自己愛の塊だった人が、「そうではない。他者を大切にすること、それこそが大切なのだ。」、言わばそういうふうに方向転換させられる、そこに気がついていく。 そこにこそほんとうの喜びがある、満たしがある。それが真理を知るということですね。心の目が開かれるということですね。 それが僕はクリスチャンにとっての大いなる祝福だと思いますね。だから、都合のいいことが起ころうと起こるまいと、それはどうでもいいことであります。 主は私たちの目を開いてどこを向くべきか、どこに目を留めるべきか教えてくださったのですから。 マタイの福音書7章21節のところに、反対にこういうことばがあります。非常に厳しいことばです。 マタイの福音書7:21
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。 『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 この人は大いに福音を伝えたらしいのであります。悪霊も追い出し、奇蹟もたくさん行ったと自慢しております。 しかし、主はこう仰せられる。「わたしはあなたを全然知らない。」、気をつけなければいけませんね。私たちの歩み、生活。主が何を望んでいらっしゃるのか。それをわきまえなければいけないのであります。 主に召され、クリスチャンとなったのは、主の栄光を現す器として用いられるためであります。何をするかは問題ではないのです。この世で大いなる働きをしようとしまいと主の評価はそれには関わらないのであります。 私たちに主が与えていらっしゃる使命を私たちが忠実に果たすこと、主が喜ばれるように私たちが生きること、私たちの主にある人生そのものこそが、何ものにも勝る私たちクリスチャンの証しであり、私たちにとってもっとも価値あるものであります。 自分が主によって召し出されてクリスチャンとなりながら、相変わらず自分の好きなように生きるということは、自分が何たるかをわきまえない者であります。 イエス様を信じてもまだ、それ以前のように生きるならば、その人が乏しくいつも問題に喘ぐのは当然であります。 主はご自分の恵みをこの世的な私たちの単なる欲のために用いることを許されないからであります。 主の限りないその富を、主の力を受け取った私たちは、それを主の御用のために使わなければいけないということですね。 主のみこころは今言ったように幾つもの箇所に書いてありますが、最初に読んでいただいたテトスへの手紙を開いてみましょう。 テトスへの手紙2:14
良いわざに熱心な者となるためですね、 ペテロの手紙第I、2:24
私たちが罪から離れて義のために生きるため、義を目標とするため、主が喜びたもう生き方をする者となるため、そのような生き方をするようになるために、主は私たちを罪から救い出してくださった。 十字架にかかってくださったのはそのためなのだとぺテロは言っているのであります。 コリント人への手紙第IIの6章、ここに文字とおり全力を尽くしてキリスト者として走り抜いたパウロの証しの一部がここに出ております。すばらしい、ほんとにすばらしい人生だと思いますね。 コリント人への手紙第II、6:6
このように言っていますね。キリスト者として生きるために人は純潔でなければいけない。そして正しいわきまえを持つこと。寛容と親切。聖霊と偽りのない愛と。彼はこういう生き方をしたのだ。これによって自分はこの福音の証しをしたのだと書いてあるんですね。 この世は泥水のように汚れに汚れておりますけれども、私たちは注意して常にそこから離れて自らを清く保たなければいけないわけであります。 10節の中にはこう書いてありますね。 コリント人への手紙第II、6:10
主は、イエス様を信じたクリスチャンを、世の光、地の塩として、ご自身を証しするために召してくださったのであります。 主の前に正しい生活をすること、これがクリスチャンの喜びであり、また最大の使命なのであります。 最後に歴代誌第IIの16章9節を読みましょう。 歴代誌第II、16:9
主から受けたこの有り余る恵みを、私たちは十二分に生かして使いたいですね。 そしてほんとに自分の生涯をキリスト者として、その証しのために貫くことができればこれに勝る喜びはないのではないかと思っている次第であります。 |