引用聖句:ローマ人への手紙、11章22節、33節
ある兄弟は、もうすぐ82歳だそうですけれども、最近聞こえなかった耳が開きまして、兄弟によると驚きだそうですが、やっぱり主の恵みだと思いますね。 集会にいらっしゃっても、よく聞こえないんじゃ本当に不便だと思いますけど、兄弟の「みことばを聞こう」というその気迫と言いますか、熱心のゆえに主が奇跡をを起こされて、耳が開いたのだそうです。 やっぱり主は、人の思いを超えることを成してくださいますよね。確かにそうだと思います。 ちょうど一年くらい前のこの家庭集会に、アメリカから帰国されたばかりの、沖縄ご出身のご婦人が出席され、終わってからかなり長い自己紹介をされたことを、記憶されている方々は多いと思うんですね。 そうとう進行している癌を患っておられ、アメリカで生涯を終えるつもりであったのに、たまたまアメリカの方でこの集会のことを知って、自分でも驚くほどに簡単にイエス様を信ずるようになり、救われ、そのために人生計画はすっかり変わってしまったらしいのであります。 今までも、病気という病気はほとんど経験され、腎臓も一つは摘出して片方しかないと言っておられましたが、そのような方で、病気もさんざん、やれるだけやったせいか、死もそれほど怖いとは感じなくなっている、ということでありました。 「多くの煩雑な苦しみの多い人間関係などから逃れられれば、癌で死ぬこともそんなに悪いことではない。」、そのような思いを持ったご婦人だったのではないか、と思われたのであります。 この世に執着するような思いはもう無く、「こんな人生はもうたくさんだ。」というのが、心の底にある思いだったんじゃないかと思うんですね。 ところが、思いがけず救われ、今まで知らなかった喜びが、心の内から湧き出てくるようになったらしいのであります。恐ろしい死への不安から救われて、喜ぶクリスチャンは多くいますけれども、この人はそれとはどうも少し違うようであります。 どこかで、この人生、もう終わりにしたい、と死を心待ちにしていたのに救われたことによって、思いもかけず内側から活気が湧き出て来て、今までの計画通り、知人のだれもいない外国の小奇麗な街で、花に囲まれて、家で人生を終えようと、そういう風に思っていらしたのに、そういう訳に行かなくなったって言うんですね。 その方は、その死に場所と定めていた外国の街から、まるで冬眠から覚めた熊かなにかのように、起き上がり、初めて、簡単には売れないと思っていた家もすぐ売れて、日本に帰って来られたということでありました。 その後、御代田の喜びの集いで一度、そして昨年11月の沖縄の喜びの集いで一度、短くご挨拶程度のお交わりをしたのですけども、先々週、実は久しぶりに沖縄の集会をお訪ねする、ということになって、自宅で一人療養している彼女を、沖縄の兄弟たちと一緒にお訪ねしたのであります。 癌はかなり進行しているようで、体重も20Kgと言ったかなあ、なんか10Kgか、20Kgかちょっと忘れましたけれども、そんなに落ちて、でも、まともに見えるんですね。 それは良かったですね、と僕らは言ったんです。今が丁度いいいぐらいじゃないですか、なんて言ったんですが、彼女は椅子に腰掛けて、二時間近くだったと思いますけど、元気に話をしながら、楽しいひと時を過ごしました。 二十代半ばくらいに見える娘さんが通って来て、買い物などを手伝っているということでしたけど、一人で何とか生活をし、時々病院に行く。だけども、治療はもう施せない、そういう感じのようでありました。 それで、その姉妹の生い立ちを、問わず語りに聞いていたのですが、沖縄の兄弟姉妹によると、彼女のお父さんは、松下幸之助さんみたいな人で、沖縄では誰ひとり知らない人がいない実業家だそうであります。 その組、コンツェルンと言いますか、いくつもの企業を傘下に置いてる会社があって、沖縄経済を今も相当に仕切っているそうであります。 確かに那覇の街なんかを通ると、その会社の看板が出ていますから、なるほどなと思ったんですけど・・・。 ただ、例に洩れず、親類縁者を巻き込んだ相続問題で、彼女としては、もう郷里を捨てようと決心するほどの嫌な思いを、たっぷり味わったのじゃないかと思ったんですね。そのために、アメリカへ移住なさったんだろうと思ったんですが、そのことのついては多くは語られませんでした。 彼女のベッドの傍らに、そのご両親の写真が掛かっておって、確かに実業界で活躍なさっただけの立派な風貌をしおられました。 戦時中、献身的に日本軍のために働き、港湾施設とか、空港建設などでは、この人がいなければ動かなかったということなんですね。 そこで、彼女のお父さんの恩に報いようと、牛島中将が最後に長い電文を政府に送って、「沖縄県民はほんとによく戦った、と。本土の復興の暁には特別の恩顧を賜らんことを。」という風に電文を送ったことは有名なんですね。 この牛島中将が、「あの一家を何とか助けたい。」っていうんで、沖縄戦の末期に、戦闘機二機を用意して、福岡の板付空港まで送ったというんですね。 これは驚きました。民間人を戦闘機に乗せて送らせたというんですが、当時、実際そこらの姉妹はアメリカの戦闘機の追撃を受けながら飛んだことを憶えているということでした。 戦後、アメリカはこの方の力に目を留めて、彼を引っ張り出して、戦犯として処分をするんじゃなくて、米軍への協力を要請した訳ですね。だから、戦後のこの方の事業は、むしろ戦前に増して盛んになったんじゃないかと思うんですね。沖縄の様々な施設を作るのに米軍が引っ張り出した訳ですから・・・。 お話を聞きながら、随分この方は波乱万丈と言ったら大袈裟ですけど、大変な人生を辿られたんだなあ、と思いました。しかしまた、ある意味では誰もがひとりひとり数奇な運命の持ち主といえないこともないと思うんですよね。 お一人お一人の人生をちょっと深く入って聞けば、やっぱり一人一人それなりに大変な道を通って来られたんじゃないか、という気もする訳です。 実は、その時姉妹が漏らされた一言が心にかかって、こういう彼女のご紹介を長々といたしましたした。 姉妹は不思議そうに、「体調が悪くてとても起き上がれない。」というような時でも、集会の兄弟姉妹が訪ねて来られると、ケロッとすると言うんですね。 元気になって何時間でも語り合える。別に初めから終わりまで信仰の話、聖書の話だけする訳ではないんです。世間話もするんですけどほんとに不思議な気がする、と。彼女がそのように話されたことが、非常に私の心に残ったのであります。 疲れ果てて、あるいは様々な思い煩いや不安に疲労困憊して、食欲もないような、食べ物も受け付けないような人でも、こういう集会にいらっしゃって、共に賛美したりお祈りを聞いたり、聖書のみことばに触れたりすると不思議に食べ物が美味しいのであります。集会に来て、食べ物を食べないって人、僕は見たことがないですね。 普通一人でいたら食欲がなくて、ほとんど食べ物を受け付けないという方でも、こういう家庭集会なんかにいらっしゃると、非常に美味しそうに食べるんですよ。それはやっぱり人は心の中に、やすらぎがあって始めて人は食べ物の味もわかるんですね。 僕もちょっとそういう経験をしました。もう、まるで砂を噛むような、「食べ物ってこんな味のないものなのか。」というような感じがするぐらい、食事を受け付けないっていいますか。体はぴんぴんしていながら、まだ若くて力溢れていながら、ほとんど物が食べられないって思いをしたんですね。 人間の舌の味なんて、ちょっとした何かのきかっけで、麻痺するものだということ、味も分からなくなり得るということです。 それは人間の、「魂のあり方」といいますか、心の問題と非常に大きな関わりがあるんですね。食べ物が美味しいというのはほんとに感謝だと思いますよ。その人の心の中に、本当にほっとするやすらぎがある時に初めて、食べるものが美味しいし、飲むものが美味しいんですね。平安なくしてほんとにどんなご馳走もですね、砂を噛むようなものであるのであります。 私はその彼女の、そういうお話をを聞きながら、「本当にそうだ。」と思ったんですね。兄弟姉妹がそこにいらっしゃる。一緒に他愛無いような世間話を交わしながらでも、そこにほんとに平安がある。だから力が出て来るんですね。うれしくなって来るのであります。 私たちは聖書の話をもちろんしましたけれど、彼女の生い立ちやその他、とんでもないような沖縄戦脱出劇などの話を聞きながら、二時間ぐらい過ごしたんですから、本当にイエス様が「わたしの名において、二人三人いるところに、わたしもそのなかにいる。」と、おっしゃっているように、主の御霊が共にそこにいらっしゃるんですね。 それが私たちの心に触れて来るものですから、ゆったりとして、くつろいで、心置きなくいろいろな話を交わすのであります。 イエス様を信ずるようになり、この人生の海の嵐から救い出され、経験を共に持つものですから、分かち合うものですから、そこから不思議な共感と信頼といいますか、そういうのがそこにかもし出される訳ですね。聖書的にいえば、「霊的な一致」がそこにある訳です。 ですから、癌の末期の姉妹を前にしながら私たちは何の屈託もなく、何の気兼ねすることなしに、時には冗談を言い合いながら、豊かな信仰の交わりの時を持つ訳であります。 それは別に彼女だけではないんですね。行くところ先々で、私たちはほんとにそういう豊かな交わりをいただきます。大丈夫かなと思っていると、ほんとに帰りは私たちの方が、満たされるような思いでいつも帰るんです。 よくクリスチャンの先輩たちが、天国の前味を味わうという表現をなさるんですが、天国の前の味なんです。まだ、天国そのものは味わってないんだけど、天国の味はこういうものかなあ、という前味ですね。これを味わうという表現をなさるんですけど、確かにそうなんですね。 この世の人が見れば不思議なですね、この世のものならぬ光景なんじゃないかと思うんですね。「癌」なんてことばは、癌患者の前では口にすることすら出来ないようなピリピリした状況で、普通はなかなか気疲れするものであります。 しかし、信仰にある兄弟姉妹においては、全然そういうことは問題にならないんです。イエス様の御霊のご支配がある訳ですね。 主の御霊が支配なさるところ、すなわち、言い換えると主が受け入れられているところ、ということなんですが、イエス様がひとりひとりに受け入れられている、そのところにおいては、本当に深いやすらぎが生まれて来るのであります。 先ほども言いましたように、人間は心底安心するようになると、喜びも元気なパワーも自然に湧き出てくるもののようなんですね。 エネルギーなんていうは、「さあ、頑張って何とか。」って出すものじゃなくて、本当のやすらぎの中から湧き出てくるものだ、と僕は思うんですよね。 そうでなかったら長く持たないんです。頑張らなくても持続出来るものでなくては、すぐエネルギーが枯渇してしまっちゃだめですね。 救い主を知らず、心に不安を抱えていると、必死に頑張って自分を鞭打たないと人は立ち得ない者でありますが、しかし、その力もすぐに枯渇し、息切れをしてしまいます。 元々、枯れそうになっている地下水をギーギー言わせながら汲み上げようとするポンプみたいなもので、私たちは振り返るとよくそれを思い出すんですね。自分の力で何とか立とうとするものですから、すぐ疲れ果ててしまいます。 しかし、イエス様の招きに応じて人がですね、悔い改める決心をして立ち返れば、自分の今までの人生に決別をして、主の前に悔い改めて立ち返れば、イエス様を受け入れれば、汲めども尽きない命の水が湧き上がってくるのであります。 満々と水をたたえた水脈につながるようなもので、私たちは自然に心が潤されるのを感ずるのであります。豊かにされてくるのを感ずるんですね。 カサカサに渇ききっていた私たちの魂が、本当に満たされてくるのであります。そういう、「内なる満たしから溢れてくるもの」それがやっぱり人に伝わるんじゃないでしょうかねえ。それが人に感じられるやすらぎとしてですね、感じられていくんじゃないか、と思うんですよね。 それがやっぱりほんとうの信仰の証しなんじゃないか、という気がいたします。 その人がそこにいるだけで、何かやすらぎみたいなものが漂うっていいますか、そういうものでありたいと思うんですがね。 イエス様が至るところで語っていらっしゃるのがそういうみことばであります。マタイの福音書11章28節はよく知られている箇所ですね。 マタイの福音書11:28-29
ヨハネの福音書4:13-14
ヨハネの福音書7:37-38
エレミヤ書17:5-8
イザヤ書40:28-31
この姉妹などは、あまりにも渇きが深すぎて、そのために逆に渇きを自覚しないほどだったのじゃないかなあ、との思いがいたしました。 死を怖いと思わない。もう、この世とおさらばしたい。そう思うまでに、心身共に疲れておられたんじゃないだろうか、という気がするんですね。 人生の旅路に疲れ果てて、くたくたになって、そしてイエス様のもとに行って救いに与る。これは、なにもこの姉妹だけのことではないのであります。 あの有名な大画家の、レンブラントのデッサン画に、「放蕩息子の帰還」という小さな作品があるんですね。 もちろん、イエス様がたとえられたルカの福音書15章の記事を主題に採ったものですけど、ぼろをまとって、やっと杖にすがって辿りついて来た、その息子が杖を傍らに置いたまま、父親の懐に顔を埋めて抱きかかえられている。そういう絵であります。 私たち誰しもが、この放蕩息子なんだということなんですね。 神様から遠く離れ、「神様なんかいない。」とか、「神様なんか必要としない。」とか言って、好き勝手に生きようとして、ぼろぼろになって疲れ果ててしまう。そういうどん底の中から、放蕩息子が父のもとに帰ろうと決心した訳であります。私たちひとりひとりがこの放蕩息子なんですね。 エペソ人への手紙2:8-9
「救い」というのは、ほんとに一方的な救いですね。どうにも出来なくなっているところに、待ち受けている神様の御手であります。 我々はもう力尽きて、そこに、どうにもならん時に差し伸ばされている神様の救いの御手ですよね。それを受け入れて、そこに自分自身を委ねて、人は救われる訳であります。 救われることは何と簡単なことだろう、ということなんですね。誰もがまったく自分のいさおしとは関係なく、ただ悔い改めと信仰によって救われるのだからであります。ほかに手立てはないからであります。 救いは自分には必要ない。自分は自分の力でやってみる。誰しもがそう思ったんじゃないでしょうかね。 それは自分の、「いさおし」ということでありますが、自分のいさおしによって、自分の技によって、何とかやれるはずだ。神様の助けはいらない。そういうものをいさおしというのでありますが、そうじゃなくて、ただ立ち返ろうという悔い改めと、イエス様を自分の救い主として信じ、受け入れるという信仰によってですね、人は先ほど言った、このぼろぼろの疲れ果てた人生から引き出していただく。魂の深い平安を宿す者となるんですね。 ローマ人への手紙3:21-24
救われるということは、何と簡単なことだろう。救われたいと望む人は、必ず救われるのだから、ということなんですね。救われることの容易さであります。 しかしもう一つ、最近思わされることは、改めて感ずることは、私たちひとりひとりを狙う悪魔の罠の恐ろしさであります。すべての人間を取り囲むようにして、罪はあるからであります。 私たちは誰しも罪の真っ只中で生きているからであります。この事に気付かずして生きるってことはどんなに恐ろしいことか、ということなんですね。 イエス様を知って初めて、心の目が開かれて初めて、罪の恐ろしさに私たちは身震いをするんですね。 自分が、罪の真っ只中に、日々生きているんだということを、この世とはそのようなところだということを、その自覚を充分持たなければ、私たちの歩みはどんなに危ういことか、と思うんですね。 簡単に私たちは悪魔の罠にかかってしまうのであります。罪の恐ろしさ、私たちは危うくそれで滅びかけたんですから。滅びの淵に落ちかけたんですから。 その恐ろしさに気付かされ、悪魔の罠の巧妙さということを、身に徹するように教えられることがどんなに大切なことか、と思うんですね。 ペテロの手紙第I、5:8-9
本当にこの世には罪が満ち溢れております。いろいろな機会を通して、悪魔は私たちを罪の中に、引き落とそうとしていますね。そのことに気が付かずして、多くの人々が、平気で闊歩しています。特に若者たちがそうですね。 哀歌3:22-24
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ、と書いてありますね。 新聞報道を見ても、社会面はいつも凶悪事件が出ております。なんかの弾みで、私たちもああいうことをしなかったというのは、やっぱり主のあわれみだと聖書は言っているんですね。 保険金を掛けちゃ、自分の知人の夫を何人も殺す看護婦さんがいたり、ほんとにすごい訳なんですけども、しかし、私たちとあれは無縁だとはいえないと思うんですね。 なんかの弾みでハマり込んだ深みから、人はああいうことに追い詰められて行く訳ですから、私たちが滅びうせなかったのは、主のあわれみによるのであります。主がその道から守ってくださったからであります。 詩篇130:1-2、6
深い淵から、どこにも脱出の術がないような、深い淵の底から神様に呼ばわっている、その詩篇なんですね。主よ。深い淵から私はあなたを呼び求めます。 マルチンルターの有名な賛美歌に、「深き淵より」という賛美歌がありますけど、絶望的な深い暗い淵の底からですね、人が神様に呼びかける。私たちはそういうことを通して、初めて目が開かれて来るんですね。 罪というものが何であるか、この人生がどういうところなのか、骨身にこたえるような、うめくような経験をしないとですね、私たちはほんとに悟らないんですね。本当にどうにもならない愚かさを、私たちは持っているのであります。 詩篇119:67、71-72
すばらしいですよね。この人の心の目は開かれたのであります。何が本当に朽ちない宝なのか、この人は知ったのであります。 しかし、それは絶望的な苦しみを通してだったんですね。どうにもならない苦しみを通して、目が開かれるんですね。 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。痛さを経験して初めて、罪の痛さと苦味を経験して初めて、またそれを通して神様に呼ばわって初めて、私たちは聖書があれほど私たちに警告している罪の問題に気がつきます。 それから離れて、神様が私たちに用意してくださっている、それこそ、蜜の滴りよりも甘い神様の憐れみ、恵み、救い、そういうものを体験するようになるんですね。神の御子の十字架の死が必要なほどに、自分には大変な問題があったのだ、と気付くのは主を知ってからですね。 イエス様がこの地上に人となってくだって来られ、十字架に架かって、あの罪の購いの死を遂げてくださった。そのことによって初めて私たちは罪の解決を与えられた。罪の縄目から開放され、神様との交わりに入れていただいた。人間の想像を絶することであります。 コリント人への手紙第I、2:7-10、14
振り返ってみると、主を求めるきっかけとなった、自分の辛かったこと、本当に生きる望みはないんじゃないかと思うような、自分にとっては耐えがたかった経験というのは、今振り返ってみると本当に、、私にとって宝ものだったなという思いがするんですよね。 主を恐れること。ほんとにそれによって教えていただいたからです。罪というものに対して、本当に細心の注意を払って、警戒しなければならないよ、ということをいつも思いますね。 したたかな主の鞭といいますか、私の高ぶりゆえに、主の懲らしめをいただいたばかりに、主を恐れることを学んだ。そのお陰で、滅びの道から守られている。それは私にとって、何よりもすばらしい経験なんですね。 主の恵みはそういう意味では、何か厳しい主の懲らしめと裏表のようですね。 懲らしめを受けずして、主の恵みをなかなか人は理解できないのじゃないか、という気がするんですね。 人としては、あまり痛い目に遭わないで、苦しみなんかに遭わないで、主を知ることが出来れば、真っ直ぐに主の道を歩むことが出来れば、どんなにいいかと思いますけれど、どうも私たちはそんなに賢くなさそうであります。 頑固なロバのように頑固で、鞭で打ち叩かれなければ、ロバは主人の言うことを聞かない、そういう言葉がありますけど、私たちのうなじが硬いために、なかなか、この首のうなじが硬いために主が分からないんですね。 ローマ人への手紙6:17-18、20-23
私たちの目の前に、神の聖い信仰の道が開かれて来たのであります。永遠の命に至る道が開かれて来たんですね。 私たちはもう、後ろを振り返らないで、その道をひたぶるに走ればいいんですよ。私たちの人生の意味と目的は、そこにあるからなんです。 罪の奴隷であった時には、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。罪に対して鈍感でした。平気でした。嘘も、汚れも、見せかけも、私たちは大して気にも留めませんでした。 それらのものの行き着く所は死です。私たちはそれが暗闇に通ずるものであることを、闇の道であることに気付かせていただいたんですね。 今は光の道が私たちの前に開かれているのであります。そのために、どんなに大喜びで力を尽くしてもですね、悔いは残らないと思うんですよね。 ローマ人への手紙11章、先ほど司会の兄弟に読んでいただきましたが、今日のテーマというのはその二つのことであります。 ローマ人への手紙11:22-23
今、倒れている人の上に神の厳しい裁きがあります。しかし、彼らも悔い改めるなら、立ち上がるのです。神のいつくしみを受けるようになるのです。 こういう風に、パウロはユダヤ人と我々異邦人とを比べて言ったんですね。今、神から見放されて、捨てられているのは、あの約束の民ユダヤ人です。 彼らが頑なになり、神様に反抗し、自分たちを選ばれたエリートの民だと思い上がって、まったく霊的に盲目になったそのために、今は彼らは捨てられているのです。 倒れた者の上にあるのは厳しさですね。この倒れた者、というのはユダヤ人のことなんですね。 しかし、あなたがた異邦人は神の恵みに与っている。 しかし、彼らは元々、神様に選ばれた民なのだから、彼らもまた、悔い改めて立ち返る時が来るのだ。野生種であるオリーブの木から、あなたがたが切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につながげられているのだから。彼らがつながるのは簡単なことだ、と24節に書かれていますね。 信仰を与えられ、神様の恵みに与かることは、本当に簡単なことであります。我々の側に、何の資格も要求されないからなんですね。正直に自分の人生の破綻を認めること。それが大切なんですね。 主よ、その通りです。あなたがおっしゃる通り、私はそのような者です。そして初めて、私たちは主に立ち返ることが出来るからなんですね。 偽りを捨て、虚礼を捨て、ただあるがままの真実さを持って、主に立ち返る。その時に、人の魂はほんとに生かされるようになるんですね。 ローマ人への手紙11:33
信仰をいただいている私たちの回りに、この世の罪が満ち満ちているということを、私たちはそのことに本当に気がついて、心から備えをして行かないと危ういということ。そのこともまた、もう一つの面として思わされるんですね。 それが、信仰を生きる私たちの何というのかなあ、信仰の道の一つの険しさというのかなあ、そういう風にもいえるんじゃないかと思うんですね。 主を恐れることを知ってほんとうに良かった。自分の力を尽くして罪から離れて生きよう、と聖書を通して教えられていることの恵みの大きさであります。ヘブル人への手紙の12章にクリスチャンへの、励ましの言葉があります。 ヘブル人への手紙12:1-4
殉教の死を遂げたことはない、といっているんですね。 クリスチャンとは、罪を敵として生きるように選ばれた、選び出された人々でもあるんですね。光の中を歩むために、私たちが罪に対して、武装して生きるように、主はそのために、私たちを選んでもおられる訳です。 ローマ人への手紙12:1-2
この恵まれた信仰の馳せ場を、力を尽くしてまっとうしたいものだと思っております。 |