引用聖句:ローマ人への手紙3章21節-22節
しばらくまたご一緒に聖書を通して教えられることについて考えてみたいと思います。 人間の中には真面目さとか誠実さとか良心的とかということなど、歯牙にもかけないように生きている人、金だとか名誉の虜になって王者のように生きている人も中にはいますけれども、大多数の人間はやはり心の奥底で真面目に生きたいと願っているのではないかと思います。 少し前に桶川駅で白昼刺し殺された女子学生の、いわゆるストーカー殺人事件の首謀者とみなされ、警察から追われていた二十代の青年が北海道の湖でこの厳冬の中自殺したらしく、その死体が発見されたとのマスコミ報道がありました。 詳しいことは知りませんけれども、その少し前テレビで報道されていることを耳にして、この若者の異様さというのが心に残りました。 通常の若者の枠をまったく踏み越えてるように思えるこの容疑者の青年の異様さに、ギョッとしたものですけれども、その結末にこの予感が当たったようにも思ったものであります。 とても二十歳代の青年らしい、実らぬ恋慕に思い余っての凶行などというものではなくて、若くして風俗業界に身を置いて、いわゆる金と欲と色ですか、それにすっかり染まり切った人間が、人生というものをすっかり見限った、見くびった上での凶行ではないかという気がしたからです。 この若者には、人生を真面目に生きなくてはいけないのだという思いなどまったく無くなっていたんじゃないか。 人間を超えた大いなる存在の畏敬などというものをこの青年はまったく失っていたんじゃないか。心に良心の痛みをも悲しみも感じない人間になっていたのじゃないかという気がしたからであります。だから異様な感じがしたのであります。 この若者は警察に捕まっても、自分のその凶行犯罪を悔いるという思いを持たない、申し訳ないと心底詫びるつもりのない人間で、だから家族から自首を勧められても断じて拒んだのだと思うのであります。 更生の意思を持たなかった。人間らしく生きようという思いがまったく失われていた若者ではなかったかと思うんです。 人間、ここまで恐れる心を、良心を失ってしまえばどうしようもないという気がします。 その青年の沖縄での不良仲間のひとりが、彼を怖いと思ったとテレビでちょっと語っておりました。彼に一片の良心すら失われているのではないかということのようであります。 悩みながら、恐れながら、戸惑いながらの過ちなら許せますけれども。また、救いがあるという気がしますけど、一切そのようなためらいがなく、後悔もない、その青年はやっぱり、これ異様であります。 彼にとってこの世は彼自身の人生をまったく紙くずのように無価値なものであり、生きるということに何の意味も尊厳というものも見いだすことがなかったようであります。 彼の指図で殺されたその女子学生もまた、似たり寄ったりの生き方をしていたのじゃないかという気がするんです。 ついでですけれども、このような学生が出ると、彼女の在籍した女子大学は入学志願者がガーッと減ってくる。そういうような被害まで受けることになるのであります。 最近の厳しい大学をめぐる状況においては本当に学校も頭を抱えてるんじゃないかと思うんです。余談になりましたが、しかしこのような人間は多くはいないはずであります。 普通は、「誠実でありたい。どのように生きることが正しいのか、よくは分からなくても、自分自身というものを欺くことがなくできれば、誠実に良心に添って生きたい。」、そういうふうに願うのであります。 あるいはまた、このような誠実な生き方への願いがあるからこそ、自分の良心にしばしばそむく自分の弱さに私たちは心痛めるのじゃないかと思うんです。 イエス様が心の貧しい者は幸いだと言われたのは、このような心の痛みをいつも感じる人、誠実に良心に偽らないで生きたいと願いながら、しかし自分の弱さのゆえにいつも失敗ばかりするし、自分自身を裏切ってしまう。 そういう自分にいつも責められるところの弱さをもってる人間。そういう人のことをイエス様はむしろ、心の貧しい者と仰ったのじゃないかと思うんです。 人間としてあるまじき、恐るべき凶行にも平然として動かないという心は、これはとてもイエス様の言われる心貧しき者ではない。それの反対なのじゃないかと思うんです。 うぶな、無垢な心は傷付きやすい心ですけども、その傷付きやすい心が本当は貧しき心だと言えるのじゃないでしょうか。 だから私たちは傷付くこと、自分の心にいつも責められたりすること、そのことをマイナスに考える必要はないのじゃないかと思うのです。 そういう心こそが大切なのだとイエス様は仰ってるように思うのであります。 いつも躊躇し、迷いながら、こうじゃないのじゃないだろうかという思いをもちながらいること。 それは決して決して悪いことじゃない。むしろそうであることのほうが喜ぶべきことなんだと言えるのじゃないかと思います。 ところで、神さまを知らない、信じない人間。イエス様の救いを自分のものとして受け取っていない人間にとってのもっとも道徳的な生き方とは、今も言ったように、自らの良心にそむかないということ。この誠実さということになります。 もちろん人間は常に自分の良心の声に完全に従うということはできませんから、そのことは認めなくてはなりませんけれども、少なくとも、そのように生きようという姿勢は顕示しなくてはならない。 こういう生き方の姿勢のことを誠実と言ってるんじゃないかと思うんです。 私たちは正直であればあるほど、自分が欠陥だらけの、弱点だらけの者であるということ。 時に追い詰められると嘘も言うし、自分で恥らざるを得ないような弱さを抱えているということ。そういうことを私たちはよく知っております。 しかし、であるけれども、やはり自分の良心というものに従って生きていこう。そういう姿勢を誠実な人だと私たちは言ってるんじゃないかと思うんです。 いわゆる、高潔な人格などと言うとき、そのような生き方を指すんじゃないかと思います。 有名な大哲学者カントなどは、信仰の恵みに浴して、信仰による神の義によって生きたという人よりは、むしろ信仰の手前に立ち止まって、神さまが人間に与えられている良心と言いますか、そういうものの尊厳さに心打たれた人です。 そういう道徳律というものを実践すること、そこに人生の意味があるというふうに考えた人のようであります。 彼がいつ思い起こしても、この荘厳な思いに打たれるふたつのものがあると、有名なことを言ったんです。 ひとつは、さらに輝くところの、瞬くところの主の光であり、もうひとつは、人間の心の中にある動かすことのできない良心である。彼はそういうことを言いました。 信仰によって歩まない人間の最高の生き方というのは結局、自分の良心に従って誠実に生きようという、そういうことに尽きるんじゃないかと思うんです。 誠実に生きるという生き方は、この世の生き方としては最良のものだと言えると思いますが、しかしこの生き方というのは、信仰が私たちの心に満たすところは本当の満たし、力、希望というものをもたらすことができないのであります。 誠実な人間はいつも自分の心の奥底に悲しみを味わう人であり、悲哀の人であります。 このカント的な生き方というものを、全力を挙げて生きたような人がドイツの有名な社会革新マックス・ウエーバーという人がいますけれども、二十世紀の最大の思想家のひとりだと言われていますけれども、彼なんかの生涯を見ると、もう確かにもの凄いある意味での渾身の力を尽くして生きた人のように思いますが、最後は力尽きて、疲労困憊して、この世を去っていった人ではないかという気がするんです。 誠実に問題に向かい合って、それに自分の持てる力を出し尽していく。それは確かに英雄的な生き方であります。 彼は文字通りそういう意味では英雄的な人だったと言えると思うんです。 しかし、彼が五十幾つかで死んだときのそのデスマスクなんかには、本当に疲労困憊した表情が浮き彫りにされていて、彼の壮絶な人生と言いますか、そういうものの結末を見せられる思いがするんです。 神さまが私たちに提供していらっしゃるところの信仰の恵みに浴して生きるところの生き方。 これがあとで言う神の義ということでありますが、それに対して、今言ったような生き方、自らの誠実さというところに立って生きるというのが聖書で言うところの律法による義であります。 行ないによる律法の義。こういう二つの生き方が私たちの前に置かれているわけであります。 誠実に生きるという生き方は今言ったように、この世の生き方としては尊敬すべき最良のものでしょう。 私たちはそういう方々を私たちの周りにやっぱり多く見るのであります。 「ああ、この人は誠実だなぁ。誠実に生きようとしていらっしゃるなぁ。」ということを見ます。 私たちはもちろんそういう人々に対して敬意を払います。しかし私たちはもっともっとすばらしい生き方があるのだということを聖書を通して教えられ、また自分もある程度体験しているのであります。 誠実な人間は私たちは尊敬し、良心的であるということに敬意を払いますけれども、しかしそれだけでは足りないのだということ。それよりももっとすぐれた生き方。神さまが私たちに提供していらっしゃるところの生き方というものがあるのだ。 それは人間を内側から満たしていくところのものであり、本当の意味で私たちのたましいに力を与えるものであり、私たちの生まれつきの肉の力にも打ち勝たせる、そういう力強さを私たちに与えてくれるところのもであるということもも、ちろん私たちは完全でありませんけれども、十分経験させられるところなんです。 さまざまな悪の力、惑わしに打ち勝って、また色んなこの世の汚れ、よごれから私たちを聖く守ってくださるところの力も、信仰によって与えられるのだということ。 そういうものがあることを私たちは信仰によって知っている者ですから、だからこのことを気付いてほしいと切に願うわけであります。 確かにカント的な生き方とよく言われて、さっき言ったように、そういうこの良心的な、誠実な生き方。そういうもの。 真面目である人がかつて目指したような、だれもが心引かれたような、そういう生き方。 そういうものの限界というものをはっきり見極めて、それにまさるところの神さまの力。それによって支えられ生かされるところの信仰の生涯というのがあるのだということを、それがクリスチャンが声を大にして実は叫びたい、伝えたいことなのであります。 誠実という生き方は、結局自分自身に対する誠実ということであります。 信仰はそうじゃなくて、主ご自身、神さまに、イエス様に対する誠実さということであります。 人間が向き合うのは自分自身ではなくて、神ご自身であり、救い主イエス様であります。自分の心に誠実なのではなくて、神さまのみこころに忠実たろうとする態度、これが信仰の態度であります。 確かに人間の良心というものは、神さまから与えられた内なる律法であります。 それ自身は確かに正しいものでありますが、しかし人間の心は常に曇りなき良心を映すものではありません。 しばしば自分に都合のいいように私たちは物事を捻じ曲げていきます。自分勝手な願いに従っているだけなのに、自分は自分の心に誠実に行動してるなどと思い込んでる人間は非常に多いものであります。 ご存知のようにエレミヤは、「人間の心ほど邪悪なものはない。それは直らない。」と言いました。 確かに人間には良心が与えられていますけれども、しかしその神さまの与えてくださる、その良心、その良心をそのまま映さないところの、私たちの実にこの自分勝手な、邪まな欺きやすい心というのがあるのであります。 自分の心に欺かれていながら、それに気が付かない人々が多くいて、しかもその人々が誠実に生きていると、自分は思っているところに実は大きな悲劇がある。問題があるわけです。 このように、神のみもとに来ようとしないで、自分では最善の生き方を志してるつもりで誠実に、懸命に努力するんですけれども、しかし客観的な基準を持っていないために、いつも揺るがないところの確かな方向を指す羅針盤を持たないために、結局のところ、その歩みはその人が願っているものとはすっかり違ってしまう。定まりのないものとなっていきます。 そういうことが精々関の山だと言ってもいいんです。 自分自身の外側に揺るがないところの確かな基準というものを持つもの。それが信仰であります。 聖書のみことばに立ち、神さまの基準というところに目を留めなきゃいけない。そうでなかったら結局、自分では真面目なつもりでいながら、人間は迷いに迷って、その迷っていることにすら気が付かないということになってしまうのだ。 そのことを教えられるようになったから、それを悟らされたから、クリスチャンはまず聖書のみことばに立ち返ろうといたします。 立つべきところは神ご自身のところであるというふうに考えさせられます。このことは揺るがせないで、徹底的にそこに立たなければならないということなんです。 中途半端に、適当にやってると必ず、二進も三進も行かなくなるからなんです。 信仰は割り引いてしまったら役に立たないと言いますか、割り引いてはいけないものなんです。 神はそういうふうに混ぜ合わされておかれるお方じゃないからなんです。それがやっぱり義にして聖なる神と聖書が言ってることの意味であります。 自分自身に誠実である。自分に真っ直ぐに向き合うという、さっき言ったように、この世で最もすぐれた生き方というのは、そういう限界をもつわけでありますけども、しかし自分自身というのがいつも揺れ動いてしまっている。定まりがない。だからその歩みは結局、一生懸命であるかもしれないけれども、いつも不安定であります。 「人の目にはまっすぐに見える道がある。しかしその終わりは死の道である。」というふうに箴言で言っていますけれど、人間がどんなに頑張ってもこれは、その限界から抜け出れないと言って間違いないです。 そういうような生き方というものを、人は終生貫くということは、99%の人間は不可能であって、その志は必ず半ばにして崩れて行ってしまうと思います。 精々、易きに付いて諦めるということが多くの人々の末路じゃないかと思うんです。 人生の最後まで高邁なそのような生き方を持続できる人は稀ですし、一生懸命それを努力したとしても、さっき言ったように、それは挫折の連続であります。 跳んでは落ち、落ちては跳び、小野道風の見た蛙はついにその柳の枝に跳び付いたわけでありますが、人間の道徳的な生き方にはそういう解決はないと言わざるを得ないのであります。 精々のところ、跳んでは落ち、落ちては跳び、それの繰り返し。 ギリシャ神話に、シシウスの神話というのがあると言われていますが、一生懸命岩を押して、大きな石を押して、山の頂まで登ると、登った途端にその石が反対側に落ちて行く。 またそれを押し上げて、また山の上に持って行く。また反対に落ちるっていう、こういう刑罰を与えられたシシウスという人のこと。そのギリシャ神話に出て来る話だと言われていますが、結局それが関の山じゃないかと思うんです。 繰り返し言いましたように、そういう生き方は第一に従うべき基準が自分自身に置かれていて、自分の外側にある客観的なものでないから、きわめて私意的であるということです。 自分のいいようにしか、結局その方向にもって行くより人間はほかにない。確実な羅針盤がないということです。 第二に、人間は自分が満足できるほど十分に良心に従って生きる力を持っていないということです。 その結果、挫折や破綻の苦悶というのが付きまとうのであり、ついには諦めるよりほかにない。やっぱりダメなんだということにしかならないということであります。 さっきも言ったように、これは聖書的に言えば、自分の行ないによる律法の義というものを求めていく生き方であります。 正しくありたい、誠実に生きたい、そう願いながら、結末は挫折であり、悲しみであり、諦めであると。そういう生き方には完成というものはないのであります。 コリント人への手紙第II、3:6
文字というのは、これ、律法のことなんですが、律法に従う生き方は人を殺し、御霊によって生かされる生き方、これが信仰による生き方であるという意味でありますが。 文字は殺し、御霊は生かすからです。 ローマ人への手紙7:9-14
律法は正しく、それが聖なるものである。それはそのとおりである。 しかし自分が本気に、この律法に従って生きようと目覚めてきたとき、私はかつて律法なしに生きていましたがと書いてますが、かつては正しく生きよう。誠実に生きよう。などとは思わないで過ごしてきた。 しかし、目覚めて、正しく生きようと。律法というものを真剣に受け止めて生き始めたら、かえって自分はがんじがらめになってしまう。そういうことが分かってきたというのであります。 律法に従う生き方というものが、結局自分をむしろ破綻へと追い詰めていくとパウロは言ってるわけであります。 売られて罪の下にある者です。自分は罪のもとに売り渡されている者であるというんです。 どうしてこのような逆説が生ずるかと言えば、それは自分自身に対して誠実に、忠実にというあくまで自分というものを出発点として人間が生きるからであります。初めに私ありきという立ちどころに立っているからであります。 自分がどういうふうに考えるか。自分がどういうふうに感ずるか。自分はどうか。というこの自分の判断がすべての基準となっている生き方であります。 自分、自分と一切の出発点が自分というものに置かれております。要するに、自分が自分にとっての神さまなのであります。 自分自身は自分の神として生きているということこそ、もっとも根本的な誤りであります。 人間はなかなかその誤りに気が付かず、またその誤りの恐ろしさに気付きません。その一切の出発点を自分自身に置くという誤りが、生活のすべて、人生の方向全体を狂わせてしまうという恐ろしさに気付きません。 本人は真面目なつもりですから、誠実に生きようとするつもりですから、厄介なのであります。 どんなに誠実に、真面目にと思っていても、方向が間違ってしまっていては、その真面目さはかえって仇になってしまいます。 聖書が罪と呼んでるものは根本的には、この自分自身を出発点とし、中心とする生き方のこと。神さまを出発点とし、神さまを中心にしようとしない人間のありかた。生き方のことであります。 神のもとに立ち返って、神さまのみこころから物事を見ていかないと、それに従うという態度に立たないと、結局頑張れば頑張るほど、誠実であればあるほどむしろ身動きが取れなくなってしまう。 だから私たちのその出発点を根本的に私たちは改めなければいけない。 自分がどうかではなくて、神ご自身はどうなのか。自分はどのように考えるかではなくて、主はどのように自分に語っていらっしゃるのかというところに目を向けなければいけないのであります。それが根本的に大切なことなんです。 真面目でありながら、悩んで、蜘蛛の巣に捕われたように、もう何がどうなってるのかもう、糸口すら見いだせなくなって、獲物がちょうど蜘蛛の巣に捕えられたようにもう、身動き取れなくなってる。そういう人々は結構います。 若者たち。特に真面目な人々によく見られます。 本人は一生懸命だし、真面目だし、ところが何が何だか分からないんです。本人は糸口すら分からないんです。 どこに問題のその最初の糸口があるかすら、本人、分からなくなってしまう。行けども、行けども迷路に迷ってしまって、もうそもそもの問題が何であったかすら分からなくなってしまう。 そういう人々は非常に多くいるのであります。 問題の解決は、結局私たちが神さまをないがしろにして、自分をあらゆることの基準として、自分の考えから出発し、自分に誠実に生きようとし、自分自分、一切は自分というところに立っているからであります。 そういう考え方こそ、そういう生き方こそが、根本的に問題なのだということ。 正しそうに思える考え方をするかしないかじゃなくて、まず私たちは自分の考えを捨てて、神ご自身のみこころというところを見なきゃいけない。そこに歩もうとしなきゃいけない。これが信仰であります。 人間の生き方の根本の方向転換であります。 (テープ A面 → B面) 私たちは神さまを知らなかったとき、色んなことでずいぶん考え、解決もないのに悩んだものであります。 それこそ、真面目に考えなきゃならんと思って、色々考えるんです。で、結論は出て来ないのであります。 しかしクリスチャンになってから、自分でどうのこうの考えるということじゃなくて、神さまはなんと仰るのか。神さまのみこころは何かと考えるようになってきました。そこに立たなければ結局ダメだということを知るようになりました。 聖書が罪と言ってるのは、実はここに立とうとしない人間のありかたのことであります。 神さまが悲しまれるから悪であります。罪であります。 そしてそれはいのちへではなく、死に至るものであります。祝福ではなくて、のろいをもたらすものであります。 ローマ人への手紙3:21-24
律法とは別に、神の義が示された。と聖書は教えています。 ローマ人への手紙3:28
今までの生きていたその生き方の原理、原則から私たちははっきり別のところに立たなければいけないということです。 それなしに、問題の解決はあり得ないんです。律法の立場に立つことを止め、信仰の立場に立つという、そこを受け取るという以外に人はないのであります。 信仰の立場に立てば、道が真っ直ぐに開かれてまいります。そうでなかったら、藪を角で突付いて身動き取れない山羊みたいなもので、もう二進も三進もいきません。 ヘブル人への手紙11:6
信仰がまず第一なんです。私たちの行ないを通して、良き結果を得て神さまに喜ばれるという順序ではないんです。 まず神さまを信ずる。まず神さまのみこころに立つ。そのことによってだけ私たちは本当の意味で力強く前進することができるんです。 信仰によってだけ私たちは、この人生を本当の意味で勝利して歩むことができる。と聖書は言ってるわけです。 ヘブル人への手紙11:33-34
と書いていますね。信仰によって、であります。 神さまのみこころに立って、そこから歩むということ。それが聖書が言ってる大原則なんです。 ローマ人への手紙14:23
神のみもとに立ち返ってそこから歩むのでなければ、私たちは一切の努力は空しいということなんです。 神を信じ、従う。そのためにイエス様を受け入れ、イエス様に従う。この信仰こそ、すべての善なるものの始まりであり、救いをもたらすものである。これなくしては果てしない迷いだけがあるのであります。 エレミヤ書17:5-7
エレミヤ書17:13
主のもとに行くということです。それこそが何にもまさって大事なことなんだということなんです。 ローマ人への手紙4:3-5
すべて信仰から始まる。すべて主に立ち返るところから道は開けて来る。 信仰が第一であります。信仰が最初であります。聖書が私たちに教えていることはこのことであります。 |