引用聖句:マラキ書3章10節
天地を造られたまことの神様を知り、神が備えてくださっている救いを知るもっとも確実な方法は何か。 もちろん聖書がなければなりませんし、それは不可欠ですけれども、それと同じくらいに「祈りがなければ駄目だ。」、主を知ることはできないと断言していいのではないかと思います。 神様がおられるということをまだ信じられないという人であっても、もしその人が「この絶望の中から救われたい。」「この苦しみから救っていただきたい。」と願うならば、祈ればいいのであります。 何でもいいから正直に心の中にある願いごとを神様に申し上げればいいのであります。 祈り続けるうちに神様は必ず導いてくださり、祈る者の心の目を開いて救いが何であるかを教え、救ってくださいます。 私は学生の頃、不思議な導きによって、ベック兄とお会いしました。今から39年前、6月の半ば頃でした。大学でのことであります。ベックさんの目には、「嫌とは言わさない。」というような真剣な眼差しがありました。 私は聖書には深い関心を持っていましたけど、教会に行くつもりはないし、クリスチャンになるつもりはない。ですから教会にまで行くつもりはないので、「それはちょっと……」と言いながら、でもベックさんの「嫌とは言わせない。あなたはどうしても来なければならない。」という目の中にある強い思いを感じざるを得なかったものですから、断り切れずに「じゃ、一日だけ参ります。」と答えて2日目、日曜日の晩に行ったのであります。6月の半ばでした。 それから僅か一ヶ月足らず、7月の半ばを過ぎると大学は夏休みになりますので、行かないと思っていた吉祥寺集会に毎週行かないわけにはいかないという、もう追い詰められてしまうと言うか、自分では考えてもいなかったようなことが身に迫って来たものですから、行くようになったわけであります。 そうしたところへ郷里の父から、「2ヶ月近くもある長い夏休みなので話もあるので帰って来い。」と言われて帰ることになったものですから、日曜日の礼拝の後にベック兄にそういうことを申し上げて、「しばらく郷里に帰ってまいります。」と申しました。 あの頃は古い木造の建物でしたけど、ベック兄は、「あなたは聖書を持っていますか?」と聞かれて、聖書はギデオンの和英の聖書とか、ろくに読めないドイツ語の聖書とか、そんなものは持っていましたけど、普通の聖書は持っていなかったので、「いえ、持っていません。」と答えましたら聖書を持って来られて「これを持って行きなさい。」と仰いました。 そして更に「何でもいいから祈りなさい。」と仰ったのであります。 私は、そのベックさんが仰ったことばが耳に残ったものですから、知らず知らずのうちに段々と祈るようになりました。人は求めているならば必要なことだけはちゃんと耳に入るようであります。必要なことだけは心に残るようであります。 それから貸していただいた古い口語訳の聖書でしたけれども、その聖書を一人でマタイの福音書から読み始めました。 聖書はわからないですよね。一応読んでも何を言っているのかわからない。わからないんですけど、しかし読み進んでヨハネの福音書まで行きました。 そこで私はちょっと困ったんですね。福音書というのはどうも未信者に向かって書いているようだけど、それ以降の手紙などはクリスチャンに向けて書いているらしいということで、ローマ人への手紙から始まるこの手紙などを私が読む必要があるのだろうか、とちょっと思案しておりました。 そうしたら、夜、夢を見たのであります。実に鮮やかな夢でありました。かつてこのことは一度だけ話したことがありますが、私の前にベックさんが立っていらっしゃるんです。僕はその時はっきり質問したんですよ。 「この手紙は私が読む必要がないものですか。読まなくてもいいですか。」とお聞きしたら、当時のベックさんの日本語はまだ癖があったのですが、「それは上手くない。」言われたんですね。それが耳に残って「面白い日本語を使う人だな。」と思ったんですよ。はっきり「上手くない。」と答えられるんですね。それで「そうか。」と思って僕は手紙の最後まで読んで行ったのであります。 慰めの章と言われる、ヘブル人への手紙13章のことばは慰めに満ちていて助かり、私にとって忘れられがたいものでした。そんなことがあって私は聖書に頻繁に出てくる「夢」というのはほんとなんだな、と思うようになりました。 神様は夢を持って語られることは確かだということは、実はその経験から知るようになったのであります。そういうことを通して「何でもいいから祈りなさい。」と言われたこともあり、初めはどう祈っていいかもわからなかったけれども、私は段々と心にある悩み、夜眠れない苦しさ。そういうことなどを祈るようになっていたわけであります。 そういうことを通しても祈りが確実に主によって聞かれるものであり、主は導いてくださるのだということを、私は自分のその小さな経験から申し上げているわけであります。 誰もがそうであるように、万物の創造者である神の存在は一応信じることができたとしても、どうして救われるためにはイエス・キリストなる方を信じなければならないのか、わかりませんよね。私もそうでした。しかし、そうであっても構わないのです。 いくらかは信じることができそうな神様に向かって祈ればいいのです。先ほど兄弟が仰ったように、祈れば主は必ず答えてくださいます。 神様は必ずイエス様の十字架の死と復活にこそ、イエス様の救いの奥義が秘められていることを、ここにこそほんとの意味での問題の解決があることを、主イエス・キリストこそが神様に至る唯一の道であることを教えてくださいます。 それは神ご自身が何よりも人の救いを願っていらっしゃるからであります。 そのために神はご自分のひとり児を犠牲にされたのですから、その犠牲が無駄になることのないようにひとりで多くの人が救われるようにと願っていらっしゃるからであります。 テモテへの手紙第I、2:4-5
ではどうしてキリストでなければならないのでしょうか。 その理由も次の一節に書いてあるのであります。 テモテへの手紙第I、2:6
イエス様はご自身の贖いの死と、死からの復活という人類にとって最大の喜びであり、ペテロが言っているように「生ける望みそのものである福音」によって、ご自分がまことの救い主であることを証しされたからであります。 人は神様に心から向き合うことによって、すなわち絶えず心から祈るように変えられて初めて、自分の本当の姿を知るようになって来ます。 またそれゆえに自分のほんとうの問題が何であるかに気が付くのであります。 祈ることがなければ何事も始まらないのではないでしょうか。真実な方に正直に向き合うことによって、人は正直に自分の本当の姿を見つめるようにもなるからであります。 恐れないで真実を知ろう。本当のことを知ろう。たとえそれによって自分にとってどんなに不都合なことであっても、本当の問題を知ろう。 聖書を通してそれがあるならば、それを知りたいと本当に思うようになれば、神様はそれを知るための光をも私たちに与えてくださるのであります。 「みことばの戸が開くと光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える。」と詩篇の119編の中にあります。 人が、「本気になって真実を知ろう。自分がどうなっても構わない。自分がそれによってどんなに痛もうといいから本物を知ろう。」、人がそのように決心するならば主は必ずその人に光を照らしてくださいます。 そうすれば人は自分がどんなに不正直であったか、表面を繕うものであり、自分も人をも欺く者であったか、自分がどんなに恥に満ちた者であるか、必ずそのことを明らかに気が付くはずであります。 こうして初めて「罪を偽りと恥に満ちた人生に決別しよう。」と決心するようになるのであります。本気になるのであります。 もうこのような偽りの人生、見せ掛けの人生とははっきり自分は別れようと決心するようになるんです。小さくてもいいから、見栄えがなくてもいいから真実な人生へ立ち返ろうと願うように人は変えられて行くのであります。 そうでなければ自分の人生は空しく、何も実を結ばないからとはっきり知るようになるからであります。すなわち、本当の意味での悔い改めの決心が人の心に起こるようになってくるのであります。 先ほど引用されたルカの福音書15章の後ろの方にあの放蕩息子の記事が出てきますね。 彼は本心に立ち返ったんですよ。もう表面的な見せ掛けだけの空しい人生と決別しなければならない。何の意味もないから。真実でなければ一切は空しいのだから。彼はそれに気が付いたのであります。 正しい自己認識を与え、自分の本当の問題を明らかにし、その根本的な解決へと導くものは主への祈りであります。人が本気になって神と向き合う、自分のほんとの姿を知る決心をする。それこそがどうしても必要なことであります。詩篇の139編にダビデの有名な祈りがあります。 詩篇139:23-24
お医者さんが私たちの病根を冷静に、客観的に正確に知らべていくように、私たちは自分の心の奥底にある状態、自分の心が病んでいるんではないか、主の前にそれを調べてもらわななければいけない。 そうして初めて人の歩みというのは健全になるのであります。本物に立ち返るのであります。そして、それでなければ一切は空しいのであります。 この世に人が悔い改めて主に立ち返り、主の真理の小道を歩むことを心から喜ぶように変えられると主の恵みはいたるところに備えられており、満ちているということ、私たちの回りに主の憐れみ、恵みが満ちているということを人は知るようになるのだと聖書は教えているのであります。 詩篇25:10
主のみこころを喜びとするように人間が変えられれば、それは真実なるものに人が心を向けようと望むようになるからです。 だから主のみことばはすべて自分にとって大きな宝物となるから。そういう風になるときに、主の恵みは私たちの回りに、歩む道筋に溢れているのだと、この詩篇の作者ダビデは言っているのであります。 詩篇65:9-13
あなたの通られた後にはあぶらがしたたっている。恵みが豊かに溢れている。そういう風に詩篇の作者は歌っています。 詩篇84:5-7
その心の中にシオンへの大路のある人は。主との生き生きとした交わりの中に生かされている人は何と幸いなことでしょう。 この作者は歌っているのであります。涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とする。 先ほどの兄弟のお話にもありましたけれども、また主は大きな問題にも、小さな問題にも常に私たちの祈りに答えてくださることを実は経験するようになってまいります。 主は祈りに必ず答えて導いてくださる。救いを心から求める者に対して必ず救いを明らかにしてくださると同時に、また日常生活のどうでもいいような小さなことについても祈りに答えて、ご自分が私たちのどんな祈りをも聞き漏らされないこと。 更にどのようなこともすべて成し得ることを私たちに知らせたいと主は望んでおられるのであります。私たちはそれを日ごろの小さな経験を通して経験するようになるのであります。 最近の小さな経験からお話します。私は元々記憶力は乏しいというよりも、自分の関心の持てないことについては極端に理解力と記憶力が低下していくタイプの人間であります。 よく兄弟姉妹に、「前にも言ったじゃないの。」と言われます。あなたのお父さんは何てお名前ですか、と何べんも同じことを聞くものですから呆れられるんですけど、人の名前なんか何べん聞いても憶えられないという記憶力の弱さがあります。 だけど、例えば衝撃的なことと言いますか、自分の心に強烈に跳ね返ってくるようなことは忘れないんです。まあそれは誰でもそうでしょうけど、私はそれが極端であると自分でもわかっております。歳を取るごとに益々物忘れの傾向が強まっております。 先日も末娘がこの4月から就職したので、私の扶養家族から離れることになるために、共済の健康保険の対象者から外す手続きが必要なわけです。 早くそれをしないとその間にもし病院へ行くことになると困から、職場の担当者のところで手続きをしてくれと家内に頼まれて、「あ、わかった。」と言って家を出るんですが、それを忘れては家に帰って来るということ繰り返すわけです。 「今日はちゃんとやってくるから。」と言って家を出ては、忘れて帰ってくることを3回ほど繰り返しました。その内どうにも自信がなくなって祈って出かけました。 祈ることの必要性については気が付いていたのですけど、こんな小さなことは祈るまでもないとして祈らなかったのです。しかし、いざその時になるときれいさっぱり忘れてしまうものですから、3回失敗した後に仕方なくて祈って出かけたのであります。 「今日は帰るまでにそのことを思い出させてください。」と祈ったのはほんの短く祈っただけですよ。 するとこの日もすっかり忘れていたんですが、仕事を終えて帰るときに部屋を出て鍵を掛けた途端、そのことを思い出したのです。実に鮮やかでした。 私たちの尊敬する大先輩のアウグス・ティヌスは人間の記憶力について実に驚くようなことを書いております。 深い広い蔵みたいなものがあって、その蔵のいろんなところに人間は自分の受けた知識を記憶の束にしながら詰め込んで置いてある。そしてそれは何処まで広いのかわからないというようなことを書いてあるんです。 その深い記憶の蔵の中からあることがらを引っ張り出してくるわけでしょう。その時々において必要な知識を人はどうして記憶の蔵から引き出してくるのか、自分でも実はわからないのであります。 「どうして私はある時にそのことを思い出すことができるのか。」と考えてもわからないでしょう。 結局そのことも最終的に支配しておられるのは主であります。私が果たして何日か、何時間かのあとに思い出せることができると一体どうして保障できるでしょうか。 人間にはできないのであります。ですから祈りが必要なのだ、と思います。 話を元に戻しますと、私はこの鍵を閉めたときにパッと閃いたときに、我ながら驚いたのであります。 こうして4回目にして手続きを終えることができましたけれども、このことによって主はどんな小さなことでも祈るならば主は忘れない。 主は答えてくださるということを改めて知ってとても嬉しくなりました。 昔よく集会に伝道のために立ち寄ってくれた、ある兄弟は仰っていました。「自分は、ほぼ一年中伝道旅行で日本中歩き回っているんですけど、一切目覚まし時計を使ったことがありません。」ということでした。「朝の何時何分頃にどうぞ、主よ、起こしてください。」と祈るので目覚まし時計は使わないというわけです。 今はホテルに行くとアラームのサービスがありますから便利ですけど、かつて兄弟姉妹の家に泊まったり、いろんなところに泊まったりしながらメッセンジャーを勤めた兄弟たちは、そのタイトなスケジュールの中で、主にお願いしてちゃんと起こしていただくと仰っていたことを思い出したのであります。 このような小さな経験を通しても私たちは「主は生きておられる」ということを体験できるのであります。 以前春日部の家庭集会でもお話したことですけど、何ヶ月か前、末娘が東京駅近くの眼科医院でアルバイトしていた頃、夜バイトを終えて帰宅の途中電車の中で、風邪のせいか気分が悪くなって嘔吐しそうだと、電車の中で吐きそうだから守られるように祈って欲しいと携帯メールが家内の携帯に届いたと家内が言うものですから、わざわざメールを送ってくるぐらいですから祈らないわけにいかないと思って私自分の部屋で短く祈りました。 それこそ1分か、1分30秒くらいのものです。「主よ、どうか守ってください。よろしくお願いします。」とそのくらいです。それから1時間半ぐらいして娘は八王子の丘の上にある家に帰って来ました。 「どうだった?」と聞くと少し吐いてハンカチで押えて何とか処理したと言うものですから「祈りは聞かれなかったのか。」とややガッカリしたのですけど、それから数分後に娘はトイレに駆け込んで激しく嘔吐したのであります。それを見て私たちは「主の守りは充分であった。」と思わされたのであります。祈りはちゃんと聞いてもらえたのだという主の祈りへの答えの確かさを確認したことでした。 更にもう一つ、これも春日部の家庭集会の前日の晩でしたけど、メッセージの用意をして12時ごろになってもうそろそろ休んで明日少し早めに起きて見直そうと思って、パソコンを閉じようとした時、フリーズしてしまって動かないのであります。 日頃パソコンをあまり使わないものでフリーズした経験がないのです。ほとんどわからなくてワードで文章を打つことしかできないので困ってしまいました。もう押しても引いても動かないのです。 そこでパソコンに詳しい次女に電話して慌てて来てもらいました。「保存はしてあるの。保存してあれば大丈夫だと思うけど。」と言います。 保存することもわからないし、そういうことは何もわからないので「いや何もしていない。」と言いますと「それは駄目かも知れない。」と言いながら、マニュアルでも探しているのか部屋を行ったり来たりしながら、あれこれ調べてやってくれたけどフリーズは解除できませんでした。 このような状況になって相手は機械ですからね、機械相手じゃどうにもならないだろうと思ったんですが、やはり祈ってみようと思って私は密かに祈りました、「主よ。困っちゃった。どうしたらいいんでしょうか。」と主に祈っておりました。 娘はいろいろ試みてやってくれたんですがやむを得なくて一旦電源を切って再起動させました。それから「ゴミ箱」ってありますでしょう。あれをパーッと出して探していたらちゃんと残っていたんですね。 「あった!」と言うもんですから、びっくりしたのであります。これはどういうことか、パソコンに疎い私はまったくわからないのですが、やはり驚きでありました。助かって翌日何とか家庭集会に出かけたのであります。やはり主には不可能はないのだと改めて経験したことであります。 身の回りの小さな生活のことですけど、確実に言えることは祈ってみてください。「困っています。主よ。どうかよろしくお願いします。」 裏切られることはありません。今まで数え切れないくらいこの経験をして来たからであります。「主は生きておられる。」 私たちが失敗する前から実は主は知っておられるからその前に手を打っていらっしゃるということでしょうね。 もう聖書流に言えば、私たちが生まれる前から、この天地の基を据えられる前から、私が今頃こういう失敗をすると主はご存知なんでしょうね。ですから既に手を打っていらっしゃるんだろうと思います。 「もう駄目だ。もう手遅れだ。」ということが実はないんですね。こういう経験を私たちは今までに何べんも経験して来たんですね。 ですからやっていただきたいんです。本気になって人が主に祈るならば、主はその祈りに答えられます。主は真実な方ですから私たちを失望させられることがない。これは確かなことであります。 詩篇50:15
「悩みの日には我を呼べ。我、汝を助けん。」、口語訳の有名なところであります。「悩みの日にはわたしを呼び求めなさい。」 「主よ。私を助けてください。私は今まであなたを侮っていたけれど、神なんかいやしないとか、神なんか関係ないとか大口を叩いて来たけれど、主よ。どうにもならない。憐れんでください。私の傲慢をどうか赦してください。」 人がそのように心から叫ぶならば、主は私たちが今までどんなに無礼千万な態度を主に取っていたにも関わらず、そうであろうとなかろうと主は必ず耳を傾け、手を伸ばしてくださいます。 詩篇65:2
ダビデは、数限りなく主の祈りの応えを知っていた人ですからこのように言っているんですね。 詩篇65:3-4
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。私たちは主の御前に罪に満ちた者であります。顔を上げることのできない者であります。惨めな者であります。 しかし、それでも主は私たちの祈りに耳を傾けてくださるのであります。 「主よ。どうぞ憐れんでください。」と私たちが主の前に砕かれるならば、ひれ伏すならばです。 詩篇66:19
主は私の祈りを聞かれた。間違いなく聞いてくださるのであります。 マルコの福音書10:27
どんなことでも神は成してくださるのであります。私たちが主の前に本当に頭を下げて「主よ。憐れんでください。」そういうふうに私たちが言うかどうか、主の前に本当に降参するかどうか、それが問題であります。 イエス様を信じるとは、キリスト者になるということは、心からから主の前に降参することであります。白旗を掲げて主の前にひれ伏すことであります。そういう者に主は目を留めてくださいます。必ずその者の祈りを聞いてくださるからであります。 先ほど兄弟に読んでいただいた、マラキ書の3章10節の後半を読んで終わりたいと思います。 マラキ書3:10
ぜひ、主を試していただきたいと思います。 |