引用聖句:マルコの福音書1章14節-15節
今日の聖書からの学びのテーマをあえて付けますと、「救いに至らせる信仰」ということになるだろうと思っています。 最近、とは言わず、いつも、と言ったほうがいいかもしれませんが、私たちの集会の内側と外側のどちらを見ても強く感じさせられることは、正しい信仰の必要性ということです。 特に、この世の若者たちの道徳的水準はどんどんレベルダウンしつつあるようですが、自分のたましいの救いについて真剣な問題として受け止めているのかどうか、疑わしいような若い人々、いや、若い人々だけではなく、罪の真剣な悔い改めを知らない人々が間違った安心感をもったまま、大勢集会に集っているのではないだろうかという懸念がいつもあるからです。 神の前における自分の罪について恐れおののき、もがき苦しんだこともなく、自分の罪が神に赦されているのかどうかについて深く心配したこともないような人々が、神を恐れることを知らないまま、都合の良い、便利な場所として集会を見ているのではないかという懸念が心をよぎるのであります。 このような心配はもちろん、教会の歴史の始まりから常に付きまとってきた問題であり、「Born again Christian」、すなわち、本当に新しく生まれ変わったクリスチャンたちをいつも悩ました問題であります。 教会があまりにも安易に罪の赦しという恵みばかりを強調して、神のさばきについて教えないからではないかといった自己批判なども、近年、ドイツの教会などに起こったということを聞いています。 私たちは常に神様の愛と、その反面における神様の罪に対する徹底的な厳しさということを両方正しく受け取らなければ、結局私たちの信仰は私たちを救いに至らし得ないのだということを忘れてはならないのであります。 エレミヤ書の6章の中によく知られていることばが記されています。 エレミヤ書6:14
エレミヤの時代の偽預言者に対する主のみことばとしてエレミヤが取り次いだ個所であります。 安きなしに、「安き、安き。」と言うという、そういう神様の厳しいことばなのですが、ここで警告されているように、人々の傷を表面的に手軽にいやして、人々が真の平安を知らないのに、平安だ、平安だと思い込んでしまう。 そういうふうになるとキリストの教会は、この世の罪の力に取り込まれて混乱を来たし、収拾つかなくなり、ついには有害無益なものとなって、主によって取り除かれるようになると聖書は告げています。 血の主を世の光としての使命を果たすことができない教会は主によってさばかれていきます。 ヨハネの黙示録の2章5節にヨハネを通して語られた主のことばが記されています。 ヨハネの黙示録2:5
エペソの教会に対する主のみことばです。わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。教会が教会でなくなってしまう。主によって取りのぞかれてしまうということであります。 イエス様ご自身も、まだ教会が存在する以前からこのことについて語っておられます。 マタイの福音書13:24-30
やがてこの地上におかれるご自身の教会について、このように語っておられます。 常に主のわざの陰に、背後に悪魔の手が伸びてくる。必ずそういうことになってしまう。ですからクリスチャンたちは常に目を覚ましていなければいけません。そうしないといつの間にか主の集いが主の集いでなくなってしまう。世を腐敗から守る塩としての役割を失い、やみを照らす、人を正しく導かなければならない光としての働きを失ってしまうわけであります。 もともと教会はこの世の人々を罪の滅びと苦しみから救い出すためにこの世におかれているものです。 ただ、ここにいらっしゃる大勢の兄弟姉妹たちのように、救われた人々の聖められた天的な、先ほど兄弟が仰ったように、天国の味を私たちがそれを前もって味わう。 よく天国の前味と言っていますけれども、そういうような交わりの場、霊的な交わりのためだけにおかれているのではありません。真に主を恐れる、悔い改めた兄弟姉妹の交わりほど、本当にすばらしいものは確かにありません。それは真実な交わりだからであります。 ですから私たちクリスチャンは、こういうような集会にともに集うことを何よりもの喜びと感じています。 しかし、私たちがそのような喜びを味わうためにだけ教会はあるのではないわけであります。 かつて私たちがそうであったように、人生の旅に疲れ果てて、出口が無くて、どうにもならなくなって、そこで集会に招かれた。そこで本当の問題の解決と安らぎを見いだした。そのように、教会の真の使命は、この世を救い、きよめることであります。 教会は罪人を救い、天国へと導くところであります。すなわち、天国への門であります。 イエス様は、「わたしはあなたに天国の門を授けよう。」とペテロに向かって仰いました。 教会だけが天国への門であります。そこで救いが語られるからであります。そのためにキリストの救いの福音を証しする場が教会であります。 ですから教会の門は、神から離れたこの世で罪を罪とも気が付かない、罪にまみれて苦しんでいる人々に対して常に開かれていなければならないわけであります。 罪人は常に教会によって歓迎されなければならないわけです。そうでなければ、霊的な病院としての、天国への門としての教会の存在理由が無いからであります。「医者を必要とするのは健康な者ではなく病人です。」とイエス様は仰ったのですから。 ですから、罪人を喜んで迎えることをやめた教会は無用なものとなるわけであります。 罪に苦しむ人、さらには罪の自覚さえなく、罪に苦しむことすらしないような人々が教会に来ることは、何ら問題ではないわけであります。罪に苦しむ人よりも、罪の自覚すらない人のほうが重症だということになりますから。 こうして教会は常にこの世の罪まみれの、常に罪にまみれた世に対して門が開かれているのですから、この世の罪が濁流のように教会内に流れ込んで来るのは、いわば当然なわけです。病人が病院へ来るのは当然のように、であります。 問題はそのことではなくて、罪を罪ともわきまえない人々が大勢押しかけて来ることが問題ではなくて、教会がそのようなこの世の罪を聖め、いやし、救う力を持ち続けているかどうかということが問題だということになってまいります。 こうして責任はクリスチャン自身にあるということになります。病気があまりにひどくて、病人があまりに大勢来るから、病院を閉じるというのであれば、その病院は失格であります。 もともと、本当の病院ではないわけであります。こういうことを思い見るときに、教会の形成にあずかるクリスチャンひとりひとりの覚悟が問われてくるということになります。 クリスチャンになるとは、この霊的な戦いに加わることを意味するからであります。 中途半端な心構えではとても持続できない戦いへ参加させられるようなものでしょうか。 私は若いときに、吉祥寺集会に導かれて、そこで本当の私の問題の解決を得ました。 もうこれでよかったと思って、伝道し、教会に身をささげたのはベックさんとその一家なのだから、私は時々手伝いするぐらいでいいだろうと思ったら、次から次に用を言いつけてくるのです。 もうとにかく何と言いますか、これもこれもやらなければいけないのかぁ、というようなぐらい、とにかくその集会の会堂を壊したり、建てたり、その絨毯を一日中ひかされたり、これはいったいどういうことだと思っていたのですから、容赦なくというような感じでした。それは当然だと。 あなたクリスチャンでしょ、というような感じで、ベックさんたちが言ってくるものですから、私は当てが外れたと言いますか、随分驚いたわけですけれども。 ベックさんは結局、クリスチャンになった兄弟姉妹は、ともに戦わなければいけない。そのために召されているのだということをもう初めから、そういう信仰の訓練でした。 よくベックさんたちが昔、今は仰らないかなぁ、「お客さんではダメなのだ。あの兄弟姉妹はお客さんですよ。」というようなことを昔よく仰いました。 お客さんではダメなのです。成長しないからなのです。主に仕えるために犠牲を払う用意がなければ、信仰は結局、力のない信仰です。生まれたけれども成長しない赤ちゃんであります。 芽を出したけれども、本当にいびつな植物みたいなものになります。そういう意味で、私たちは否が応でも実は、この教会を建て上げるために、この世に対して他のいかなるものよりも大切な使命を負っている主の教会を建て上げるために、実は召し出されているのだということを聖書を読むと分かってくるわけであります。 ペテロの手紙第Iの2章をちょっと見てください。 ペテロの手紙第I、2:4-5
霊の家、これは教会のことです。あなたがたひとりひとりがそれを築くために切り出された生ける石なのだ。 私たちは救われて、「ああ助かった、これで問題は解決した。」、では終わりではないのだ。聖書は、キリストの教会こそ奥義中の奥義だと言っているのですから、真面目に聖書を向かい合おうと思ったら、これから逃げられないのであります。 エペソ人への手紙の2章の19節。 エペソ人への手紙2:19-22
同じくエペソ人への手紙の3章8節から11節。 エペソ人への手紙3:8-11
教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためである。この前の火曜日の学び会でベック兄が仰ってました。この教会の奥義というのは、パウロにだけ啓示されたと思うというような意味のことを仰っていましたけれども、パウロは、キリストの教会こそ真理の土台であるというふうに述べています。神の奥義だとここで言っております。 ですから、クリスチャンがひとりひとり救われて、それで終わりということではないのであります。 それはひとつの教会のとして、生ける霊の家としてこの世におかれなければならない。この世に、やみの世に対して神の奥義を問う教会を通して啓示されているからであるということであります。 真の教会だけがさっき言ったように、天国への門だからであります。真の教会にだけ主は臨在なさり、その交わりとみことばを通して私たちの目を開いていかれるからであります。 また、教会での交わりを通して、先ほども言ったように、クリスチャンは成長していくのです。わがままを砕かれていくのです。 自分の気に入らなければ、パッとすぐふくれっ面をしてみたり、本当に、気に入らないことがあると子どものように駄々をこねる。そういうことは教会での訓練を通して改められていくのです。 常に自分ではないということ。常に主の前に私たちはひれ伏さなければならないということ。自分の考えを優先してはならないということ。そういうことを学ぶのは教会での交わりを通してなのであります。 クリスチャンになるということは、その訓練を受けるということ。それを覚悟するということであります。 私などは学生時代に導かれて、今まで、六十過ぎるまで、何よりも集会に行くことが楽しくて、礼拝への参加や兄弟たちのメッセージを聴くことが嬉しくて、またそれによって元気を与えられるから集っていたのであります。この世の罪と戦う教会の責任ということについては、あまり深く考えようとはしなかったのです。 しかしこういうことを考えながら、この聖書の学びの準備をして思わされたことは、集会に行くことがそれ自体楽しいことであり、嬉しいことであるということはやっぱり一番大切なことなのだという思いであります。 そうではなくて、これはクリスチャンとしての主への義務だからというようなことが優先されると、やっぱりこれはまずいだろうと思うのです。 いつかもここでお話したように、「伝道において一番大切なものは、正しい、厳密な聖書知識でしょう?」、という質問に対して、私の学生時代の恩師であり、クリスチャンだった先生がその人に対して、「いや、喜びです。」というふうに厳かに言い切られたということをこの前もご紹介しました。 先生のその「いや、喜びです。」ということばを本の題名にして、その愛弟子のひとりで伝道者である方がちいちゃな本を出して、「いや、喜びです。」というのが本の題名になっていますけれども。 ヘブライ語を勉強し、ギリシャ語を勉強し、この意味はどうのこうのというようなことをやって、それが一番大事なことだろうというのに対して、「いや、そうではない。福音宣教において一番大事なのは喜びなのだ。」と先生はこれを譲らなかったわけでありますけれども、すぐれた信仰の先達のことばは、やはり非常に重要な意味を持っているのだということを思わされたわけであります。 結局大切なことは、集会に喜びがあるということ。しかしこの喜びとは、この世の喜びや楽しさではなくて、たましいの深いところでの喜びであり、楽しさであり、その意味で天的な、霊的な喜び、楽しさであるということになります。 主を知って、主の前に悔い改めて、真実を尊ぶ者としていただいて、お互いに真実なそういう交わり、それが本当に今まで知らなかった喜び、楽しさのわけですけれども、それこそが聖徒たちの交わりと言われているものです。 結局そのために大切なことは、集会においてみことばの純粋性が常に保たれることだということになるのではないかと思います。 みことばにふれる人々、たましいの渇きをもって真理を求める人々が、真理を知って、罪から救われ、きよめられ、神様が人間を創造された初めの姿を取り戻していく。 神が最初に人間を造られたときにご自分の似姿に造られたと聖書にありますけれども、それを人間は罪によって全く失ってしまいました。獣とあまり変わりないような姿になりはてました。 そういう者を神はご自分のひとり子によって救い出してくださった。初めて私たちは人間とはどうあるべきものかということを教えられた。目が開かれたわけであります。 その神様が最初に創造された初めの人の姿をわれわれは回復していく。結局それが私たちのこの地上における歩みです。 そうして天国への希望に生きる者に変えられていく。永遠の神の祝福の中にいれられるようになっていくわけであります。神のみことばはそのことをなしてくださるわけであります。 コリント人への手紙第IIの2章の17節。パウロはこう言っています。 コリント人への手紙第II、2:17
混ぜ物をしてはならないということです。 テサロニケ人への手紙第Iの2章3節と4節。 テサロニケ人への手紙第I、2:3-4
パウロはいつも福音を語るときに、このことを忘れなかったということでしょう。主は私たちの心をご存知です。だから、神の御前において語らなければならないのだと聖書は言っているわけであります。 結局、人間を新しく造り変えることができるのは、ただみことばだけなのであります。ですから私たちのできること、また成すべきことは、時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えるということになってきます。 先ほど開けたペテロの手紙第I、1章の23節。 ペテロの手紙第I、1:23-25
人を新しく生まれ変えさせるもの、それは主のみことばであります。 ヘブル人への手紙の4章12節。よく知られているみことばです。 ヘブル人への手紙4:12
エレミヤ書の23章の29節。主の御告げです。 エレミヤ書23:29
主のことばは人の頑なな心を金槌が岩を砕くように砕くことができる。人を悔い改めに導き、人をいやすことができる。人を全く新しい霊をもって造り変えることができる。 それは結局、人間の言葉ではないわけであります。ただ神のみことばだけがこれを成すことができるわけであります。ですからパウロは最後の手紙でテモテに、時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えなさいと書き送っているわけであります。 こうして改めてみことばの力、それを正しく伝えることの大切さに気付かされます。ただ正しくみこころを伝え、あとはみことば自身の力にゆだねればよいという結論になります。 集会の内側、外側を見て、私たちは嘆かず、悔い改めのない人々に失望せず、ただ神のみことばを正しく伝えるということに力を尽くせばいいということになってまいります。 メッセージが、みことばが混ぜ物を入れられて不純になるときに集会は、教会は結局堕落していくわけでしょう。力を失うわけでしょう。 と言って、人間のことばで人をつかまえて叱責してみたり、「なっとらん。」と言って怒ってみたりしても何の役にも立たない。それは人の心を変えることができないからであります。忍耐強く、聖書のことばを真っ直ぐに私たちは語り続けなければならないということになります。 マルコの福音書4:26-29
種を蒔いて、夜は寝、朝は起き、そうこうしているうちに、種は自然に芽を出す。 人間が芽を出せ、芽を出せと言って頑張って叱咤激励しているわけではない。種はおのずから芽を出すとイエス様は仰いました。ちょうど同じようだということなのです。 伝道者の書の11章1節に不思議なことばが書いてあります。 伝道者の書11:1
あなたのパンを水の上に投げよ。何か無駄なような感じです。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。 ある先生がこの個所を、「パンとはみことばであり、水とは聖霊の水なのだ。あなたの主のみことばを聖霊の水の上に投げよ。」というようなことを仰っていて、驚いたことがありますけれども。 聖霊に託して、主のみことばを投げればいい。ずっと後の日になって、それは実を結ぶものとなってくるからということのようです。 ですから、世の罪をいたずらに嘆くことをやめて、悔い改めない人々にがっかりしないで、主のみことばを忍耐強く伝え続けること。これが結局、教会の使命だということになりそうであります。 あれもこれもやれと言われればできませんが、ただ一つのこととなればできます。教会の仕事があれもこれもあって、何とか委員会、何とか委員会、婦人会だ何だらということで、どうもそれで追われるらしいのであります。 この世の教会というのは、もうそれでくたびれ果ててへとへとのようであります。しかし私たちの集会はそれを一切やめました。 自由にその思いを与えられた人々が一緒にやりましょう、声を掛け合って、集会所の掃除に行きましょう、今日はだれだれさんの葬儀があるから、さあ行きましょう、みんな電話で連絡を取り合いながら、私たちはその時その時集って、やっています。 そしてそこに集まって一緒にやると、非常に元気が出てきます。疲れるのではなくて、本当に霊的な満たしを得て、みんな元気で帰って行きます。 スケジュールを色々立てて、あれをいつやり、これをいつやりということをやっていると、本当にそれに振り回されてしまうだろうと思います。しかし、ただ一つのことでいいということになればできます。みことばを正しく伝えること。そうすれば必要に応じて主は私たちに知恵を与えて、必要に応じてひとりひとりを導いて働かせてくださるようです。 先ほど最初に読んでいただいたのは、イエス様が公生涯として立たれたときの開口一番のみことばであります。 イエス様がナザレの村から大工としての30年くらいの生活をやめて、父の招命に応じて、その時が来た時に、主が仰った最初のことばとして記されているのがそれであります。 「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい。」、主はこういうふうに最初に仰ったのです。 人が救われるためには罪の真実な悔い改めが必要不可欠なのです。人がまことの神に立ち返るためには、まず真実な良心に立ち戻らなければいけません。今まで眠っていた自分の良心が目覚めなければいけません。 良心が目覚めれば人は自分の罪がどんなものかが分かってきます。罪の悔い改めなしに人は本物の人生への新しい出発をなすことは絶対にできないからです。神は真実な神だからです。 これまでの間違った偽りの多い自分の人生、それがよく分かってくるはずです。 本当に、神様と人が出会うと、自分が本当に嘘で固めてきたということを人は気が付くわけであります。しかしこれを清算しないわけにいかない。そうしなければ本物の人生の出発ができないわけであります。 聖書に真っ直ぐに向き合うと、人が真理に本当に真正面から向き合うと決心すると、然りを然り、否を否という覚悟をもって、もうごまかすのはやめるという決心をもって聖書に向き合うと、人は結局二者択一の前に立たされるのであります。 罪を悔い改めて神に立ち返るか、これを選ぶかどうかということなのです。曖昧にしたままあえてやり過ごすかどうか。人は結局自らを偽るか、偽らなければ悔い改めるかどちらかでしょう。 使徒の働きの20章の17節から。 使徒の働き20:17-21
パウロの決別のことばですけれども、「もうあなたがたと二度と会うことはないであろう。」、彼はそのことを予感していて、そのあとエルサレムに行き、捕えられて、ローマに護送されて行きますけれども、その時の最後の彼の決別のことばであります。非常に心を打つこのことばです。 この後ろに続いていますけれども。そのときパウロはそこでこう言っています。二つのことを言っているわけであります。 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、律法をもっているユダヤ人、選びの民にも、律法を知らないギリシヤ人、すなわち異邦人にも、全ての人々に向かってという意味です。 聖書で言うときのユダヤ人にもギリシヤ人にもという意味は。二つのことを自分ははっきりと主張した。 一つは神に対する悔い改めであり、もう一つは私たちの主イエスに対する信仰であるということであります。まことの救いを得るための不可欠の条件がこの二つなのですということです。どうでしょうか。 問題は、私たちは自分の罪の人生にはっきりとした清算をし、悔い改めたでしょうか。新しい出発をしたでしょうか。これが一つの重要な問題です。そして、イエス様を自分の心のうちに迎え入れたでしょうか。イエス様に従う決心をしたかどうか。これが聖書で言っている一番大切なことになります。 いくらこれまでの人生を清算し、新しい人生を始める決心をしても、これから従う方が本物でなければ、その悲劇はとてつもないほどに大きなものになってきます。 イエス様はマタイの福音書の12章の中でこういう例え話を語っておられますが。 マタイの福音書12:43-45
ある意味で、信仰は両刃の剣であり、信仰ほど怖いものはない。だから人は慎重でなければいけない。何にもまさって正しい信仰ということに配慮しなければいけない。 信仰ではなくて自分の考えで信仰と言いながら動いている分にはいいわけです。これは自分が主人なのですから。自分の判断で。全部、結局、動けば、それはこの世の人の生き方です。クリスチャンはそうではないわけであります。 熟考します。確かに深くものを考えて正しい判断を仰ぎますけれども、最終的には私たちは自分の判断に立つのではなくて、主の判断を選ばなければいけないのであります。 正しい信仰は正しい神、正しい救いに主を信ずる信仰でなければならないわけであります。正しい信仰の対象、まことの救い主はイエス・キリストだというのがクリスチャンの揺るぎない主張であります。 この方以外に救いはない。これが繰り返し、繰り返し聖書の語っているところであります。この方だけがまことの神の御子だからであります。 神の御子であることを証明している。それが主のなさったわざであり、イエス様の復活であります。 正しい信仰の揺るがない土台、指針として聖書が与えられていることは何とありがたいことかと改めて感じたのです。 私たちには聖書がある。常に聖書を指針として、ここに立つことができる。それがどんなに大きな恵みなのかということを改めて思ったのであります。 神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰。これがまことの救いに至らせる信仰であります。聖書は、パウロは最後のその手紙の中で、 テモテへの手紙第II、3:15-17
と書いています。 本当に、聖書が与えられていることのありがたさを改めて感じたわけであります。 そこまでで終わりましょう。 |