引用聖句:ヨハネの福音書8章31節-32節
イエス様は、こう言われました。 わたしたちは、普通、自分に問題があることを人に知られたくない。つらい問題があっても、問題がないようにふるまうというのが、私達、日本人には多いのではないでしょうかね。 もちろん、自分の問題を吹聴する必要はありませんが、大切なことは、問題を人に知られないようにすることではなくて、本当の解決を得ることではないでしょうか。 問題の重荷から、本当の意味で、解放されることこそが大切です。そうすれば、人々の目はどうでも良いと、気が付いてくるものなのですね。大切なことは、問題の本当の解決です。これこそが解決ですと自分で確信できることを見いだすことです。 ヨハネの福音書の8章を最初に読んで頂きました。真理は、あなたがたを自由にする。わたしたちを押しつぶしてしまいそうなあらゆる重荷から・・・・。 あらゆる不安から心配から、解放されることができる。神にとって不可能なことは何もないのであります。問題は、私達が、真理をただしく知るかどうかであります。そのことに、すべてがかっているんですね。 私達を救い得る真理とは、なんのことですか?それを教えてください。これが「求道」というものであります。漫然と何か聖書の話しを聞けば、それで良いってことじゃなくて、本当に、「これだ。これが、聖書の言ってる真理なのだ。」と知る必要があるのであります。 神様は、イエス様は、聖書を通して、私達に語り続けてらっしゃるわけですが、私達が、なかなか悟らないのであります。どうして、真理を悟ることができないのでしょうか。 それは、結局、私達がこの世につける欲のせいなのではないでしょうか?自己愛のせい。自我のかたまってるせいで、私達の目がさえぎられているのではないでしょうか。 そのため、いつまでたっても、重荷から逃れることができない。そういう人々がいっぱいいらっしゃるんですね。重荷から、本当の意味で離れなければ、私達は真理に対して盲目のままであり、重荷は私達から去ることはない。 真理を知るために、いったい何が問題なのか。何から、私達は離れなければならないのか。聖書を読んでいくと、そのことがわかっていくんですね。 たとえばここにひとりの青年がいます。彼は、もう長い間ノイローゼで、症状が重くなると精神科の病院に入院し、快方に向かうと、何とか自立しようとアルバイトして、生活をし、その繰り返しの中にあります。 彼本人も、家族も、そのために長い間苦しんで来たのであります。本人も家族も、なんとかそこから解放されたい。立ち直って、彼に自立してもらいたい。本人も家族も、もがき苦しんでいるのであります。 しかし、同じ状態の繰り返しで、5年、10年。根本的に何も変わらない。集会に加わって、信仰の歩みらしいものをしているように見えます。でも、結局、人生は依然として変わっていない。 「わが生涯は、改まりぬ。」、新しい人生が自分に開かれた。その確信や喜びが、彼にはないのであります。その同じ問題によって、一喜一鬱の繰り返しであります。鉄の鎖に縛り付けられているようであります。鉄の罠にかけられ、必死にそこから血を流し、もがいている。そういう状態の人がいっぱいいらっしゃるということです。何とかその罠を抜けようとして、一生懸命です。疲れ果てるまで、そうなんです。 いったいその鉄の鎖を断ち切ることはできるのでありましょうか。もちろん、できるのであります。神にとって不可能なことは何もないからであります。 ヘブル人への手紙7:25
ヘブル人への手紙11:6
神は、全能の神であります。そして、できないことは、何もないはずである。私達は、こういうふうにかたく信じなければいけません。 聖書は、そのことを私達に教えていますね。神様にできないことは何もない。だから私達が、鉄の鎖に縛られて、逃れることができないのであれば、何か間違いがあるか、行き違いがあるか、どこかに問題が残っているからなんですね。 その青年は、聖書も読みますし、もちろん祈ることもします。しかし信仰について、どこか誤解があるようであります。それは、どういうことかといいますと、彼は、「元気になりたい。強くなりたい。」と切に願っているのであります。 自分の弱い意志や、くじけやすい心を強くするために、信仰の力を彼は欲しい。そう願っているようであります。 彼は、自分が弱い人間だからダメだと思っているようであります。だから彼は、強い人間、神経の図太いような人に憧れています。自分は、誠実だけど弱いと考えているようです。だから、もっと強くなりたい。図太いくらいの人間になりたいと、思っているようなんです。 この世のバリバリ活躍している人が、うらやましいのであります。自分も、そのようになりたいのであります。ところが、信仰にいくらか首をつっこんでみても、そんな人間に自分は、一行にならないのであります。だから、信仰にも納得できないのであります。 この青年の生き方の根本はどこにあるかといいますと、彼が、目指しているものは、華々しい自己実現であります。 彼が、追い求めたいと望んでいるのは、この世の生活を人並みに、あるいは、人並み以上に享受したい。この世の落伍者とされたくない。この世的な評価をちゃんと受けたい。そういうことであります。 要するに、彼の宝も心も、この世にあります。彼の、国籍はこの世の中にあるのであります。 正直なところ、彼にとってこの世がすべてであります。彼は、自ら誇れるような、あるいは他の人々にも誇れるような、人間に立ち直りたいと切に祈っています。彼は、元気になってこの世に帰って行きたい。人々がやってるように、そこで活躍したいというふうに願っているんですね。 彼の本音は、できれば、信仰の助けなしに、自分の友人達と同じように、元気に生活がしたい。そういうことであります。 元気になって主に仕えよう。主に喜ばれるような生活をしよう。この地上にあって主の栄光を現す生き方をしたいと願っているのではない。 彼の目指してる目標は、主、ご自身ではなく、相変わらず生まれてこのこのかた以来の自分自身なのであります。彼は、自分自身が大事なのであります。彼の神は、イエス様でなく、あいかわらず彼自身であります。 聖書を読んでいくと、聖書は私達をふたつのものの前に立たせることに気が付いてくるのです。私達が、どういう生き方を選ぶか、その岐路に私達を立たせるのです。 この世というものを目標とし、この世の人として生きていくのか、そうでなくて、天の御国を目当てとし、私達が、天に国籍を持つ者として生きるのか?そこを、聖書は、私達に問いかけてくるのです。 それが、私達がはっきり答えなければならない問題なんですね。それは、どっちでも良いというものではありません。どこに立つのかということを、はっきり私達は、選び取らなければなりません。その選択なしに信仰の歩みはできません。 多くの人々が、悩んでる理由は、結局のところ簡単にいったら、この世にしがみついて、この世だけが後生大事だと考えていて、この世にあって、この世にあるものを追い求めていきたいと願っているところに、実はその人を本当に苦しめている、その人を悩みの中に突き落としている問題の原因があることに気が付かないのです。 人間は、この世のものを追い求めて生きるべきものではないのです。神ご自身を追い求めて、永遠なるものを求めて生きるべきものなのです。 私達の国籍は天にあるといっているように、天国を自分の国として、はっきりその立場に立って生きるとき、はじめて人は、この世の様々な重荷から解放されて、正しく生きることができる。 この世にあって、神様が本当に望んでいらっしゃるような、人間の生きるべき生き方をできるようになるのは、私達が天国を国籍として、そこを立ちどころとして生きる時にのみ、可能なのであります。 ところが、天国に本当に、自分の心を向けようとはしない。天の宝こそが、追い求めるべきところの朽ちない宝だということに、なかなか目を向けようとしない。それは、なにか聖書では書いてあるけれども、本当に欲しいのはこの世の宝。この世が、自分にとっては、追い求めているものである。そこに多くの人々の悩みの原因、、彼らが、押しつぶされそうになっている重荷の原因がある。これは、間違いないことなんですね。 自分を悩ませ、自分をつぶしそうになっているのは、この世というものに、自分が心を奪われ、縛り付けられている。そこに、原因があると、はっきり気づかなければならない、ですね。 マタイの福音書4:8-10
悪魔は一瞬にして、イエス様にこの世の栄耀栄華を見せたと書いてあります。そして、もしひれ伏して私を拝むなら、全部、わたしはあなたに差し上げましょう。 恐ろしい誘惑でしょう。どうでしょうかね。こういう誘惑の前に立たされて、立ち得る人はいるんでしょうかね。本当に、身震いするような誘惑であります。 多くの人々は、これによって、もう本当にいちころで、身を滅ぼしていったんですよ。どうか、こういう誘惑にあわないように切に祈りたいものです。 私は、だいじょうぶだろうと思っていても、ぜんぜん当てになりません。本当に恐ろしいことです。 でも、イエス様は間髪を入れずに、下がれサタンとおっしゃったのです。 マタイの福音書4:10
イエス様は、この、立って動きませんでした。だから、イエス様は、救い主と言えたのであります。 人間を滅ぼすのは、私達を神様から引き離してこの世に引っ張り込む悪魔の誘惑なんです。だから、イエス様を信じ救われたクリスチャンにとって、一番、警戒しなければならないのは、「この世」なるものなのであります。 そこからはっきり身を離していなければなりません。もちろん私達は、この世の中に生きています。でも、この世に属してはいけません。 悪魔は、いつもこの世にひっぱりこもうとするから、気をつけてそこから身を離していなくてはいけない。この世の人として生きてはいけない。そういうふうに、この世と、自分との間にはっきりした一線がひかれていること。そのことを、パウロは、「この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられた」という意味を言ったのですね。 そこに、いつも、主の十字架が立っている。そこに、はじめてパウロの自由がありましたし、本当の勝利があったのであります。いかなるものであっても、この世の物によって、縛られてはならない。神様がよしとなされなければ、それは受け取ってはいけない。それが、聖書の言っていることです。 そして、この世のはっきりした信仰の立場によってのみ、はじめて、人は元気になるのです。精神的な心の悩み、病いから本当の意味で解放されてくるのです。 だから、さっきも言いましたように、人が真理に盲目になるのは、欲のせいであります。この世に対する欲のせいなのです。それによって、人は身を滅ぼしていきます。 それが、どんなに恐ろしいかということに気がつかないのです。5年も、10年も、場合によっては、20年も悩んでるんですよ。鎖に縛られて。 イエス様が、どう生きられたか、ちゃんと調べれば、わかって来るはずなんですね。主は、どのように歩まれたか。下がれ、サタン。主にだけ仕えなさい。 確かに、この世は一見すると、栄耀栄華、すばらしく見えますね。しかし、その背後に動めいているのは悪魔であります。聖書では、同じところに非常にある秘密を、明らかにする言葉がはいっています。 マタイの福音書4:9
悪魔は、「わたしは、思う人にあげることができる。あなたにも、あげることができる。」とイエス様に言ってきたのですね。 その青年の目は、天の宝に向けられることはなく、彼の心は天の宝を思って喜び踊ることもありません。ただ、この世の宝に手が届かない自分は悲しいのです。 自分のその宿命を恨んでいるのであります。ほかの人々は、あんなに元気にやれるのに、自分はいつまでたっても一歩も全身できない。泥の中に足をとられたように、彼はいつもひとり、そこでもがき苦しんで居るんですね。もっと、私達は、聖書の真理に目を向けなければなりません。 聖書は、何を真理といい、何を救いというのか!本当に、人を、あらゆる苦しみから解放することができるのか?このことを真剣に私達は問うべきなんですね。そうすれば、聖書は、その答えを与えるからであります。 単なる気休めでは、何の役にも立ちません。信仰は力であります。神の国は言葉ではなく力であると、パウロは書きましたけど、どのような困難な要塞であっても、それを破壊する力を言っとるんですね。 気をつけるべきは、私達の心のうちにある、この世に対する欲なんです。自己愛なんです。それによって、縛られているから、この世の悩みが襲いかかって、私達を押しつぶしていくのです。 ピリピ人への手紙3:5-6
この世ですばらしいものをパウロはいっぱい持っていました。自信に満ち満ちていました。人から、うらやましがられた男でありました。 ピリピ人への手紙3:7-9
ピリピ人への手紙3:17-20
マタイの福音書には、こうあります。 マタイの福音書6:19-21
ペテロの手紙第I、1:3-4
ペテロの手紙第I、1:6-8
ペテロの手紙第I、1:18-19
このペテロの手紙を読むと、本当にペテロが喜び踊っているのがわかります。これが問題なんですね。これがあれば、あとのことはどうってことないんですね。 信仰、救いを、それをその人が本当に知って、もううれしくてうれしくて仕方ない。天の宝を思うときに、この救いを思うとき、心の中から喜びが湧いてくる。これが、一番大事なことなのかもしれませんね。そうすれば、人は自然に天の宝に心を向けるようになるから、この世は味気ないと失望するようになるから、それが、ほんとの順序だと思いますね。 かつて、私たちもこの世の楽しさを追い求めておりました。この前の土曜日、地方の集会に寄りました。そこに、1、2年前からいらっしゃってるご夫妻がおられるのです。やや異端の教会におふたりとも長くいらっしゃいました。 この方も、少し精神的に悩みをひきずっておられて、かなりの年輩、もう60過ぎていらっしゃいますかね。自分は、昨年まで宴会が好きで、国鉄に勤めてらっしゃいましたが、宴会があると、もう率先して準備していたそうです。どんちゃん騒ぎが楽しかった。 しかし、やっと今年から、それがつまらなくなってきたとおっしゃいました。いい兆候ですねと言いました。そういうものなんです。酒を飲んでどんちゃん騒ぎして、楽しい。楽しいんだったら、これは、なんと押さえつけようとしても無理です。機会があったら、楽しいほうに行くわけですから、どんなに縄でしばって監視しても、そちらに行くわけです。 大事なことは、それはもう嫌だ、そういう中に身を置くのはもう苦痛でたまらない、そういうことですよね。 この世の楽しみ、かつては楽しく、あるいは生き甲斐だったものが味気なくて仕方ない。昔は、総天然色で輝いているように見えたものが、今は、全く、白黒画面で輝きがない。しかし、そのかわり、聖書の話しを聞き礼拝に出ると魂の底から喜びが湧いてくる。元気になる。それですね。 2週間くらい前、老人ホームに、3年ぶりに90近い姉妹を尋ねました。ほとんど目も見えなくなって、そこにはいっておられます。みんなで、彼女の部屋で賛美しました。 そしたら、ドアの所にもう一人婦人が来て、賛美を聞かせてくださいとおっしゃるので、交わりました。昔、カトリックにおられたそうです。賛美して聖書を読み祈ったのです。 「カトリックとプロテスタントが一緒になろうとする動きがありますが、あれはできるんでしょうか?」って、むつかしい話しをされてきました。 「そういうのは大事なことでなくて、大事なのは信仰によって救われることですから、そういうことはどうでも良いじゃないですか。」と言ったら、彼女は、「わたしは、不可能だと思います。カトリックではマリヤさまが・・・」とおっしゃいます。「マリヤさまは、信仰の対象ではありませんよ。」と説明すると彼女はわかっているようでありました。 信仰によってひたむきに生きること。祈ることを知ってる人は、人の言うこともよく聞きます。いつでも、祈り、神様の言葉に耳を傾けている人は、いつもその心の心棒がまっすぐで、ぐじゃぐじゃになりません。はっきりした心棒がないと、老いると人はぐじゃぐじゃです。 しかし、人間的な機能は衰えても、日々、神様に祈って、生き生きした交わりを持っていることは大事なのですね。 ペテロが、持っている救いの喜び。それによって、この世のかかわりから身を離すようになる。それが「きよめ」ってことなんですよ。 聖書が言っている「きよめ」、きよくなることは、この世よとの間にはっきりした一線が引かれることなんですね。 この世の中にはいっていくと、またむなしい味気なさでがっかりする。その90歳のカトリックおばあちゃんが、帰り際に、そのようなことをおっしゃいました。信仰の霊、信仰の交わりによって生き生きとしてきよめられる。 それがないと、窒息してしまいます。排気ガズが充満しているような所で、だんだん疲れてきます。しかし、信仰の交わりによって、わたしたちは力を与えられます。それは、クリスチャンが体験している事実であります。 ヨハネの手紙第I、2:15-17
本当に、これは事実です。しかり、アーメンです。ある年齢までいくと、これは疑いもない事実であります。しかし、若い時、この世が魅力に富んで見える時、なかなか、そうはいかない。その悩んでる青年の耳には、主からの語りかけが聞こえないようであります。 彼は、ただ、自分の願いを叫ぶだけで、主が自分に何を語りかけようとされているか知ろうとしないのであります。サムエルが、言ったように、「主よ、語ってください。しもべは聞いています。」 信仰というのは、このことですね。本当に、主の前に静まる。「主よ、どうぞ語ってください。あなたのみこころを教えてください。私の、心のうちを照らしてください。」そういうふうに、主の前に静まること。 主の語りかけを聞こうとしないこと、自分の願い、ああしたい、こうしたい、ああできたら、どんなに良いだろう、こうなったら、どんなに素晴らしいだろう。 そんなことばっかりで満ちている。その誤りに、気が付かなければなりませんね。自分が、願っていること。「ああ、なったら良いな。」「こう、なったら良いな。」喉から手が出るほど、欲しいと思ってること。それが、ほんとは大事なものじゃなくて、自分に何を主は語ろうとしているのか、聞こうとすること。 パウロは、イエス様と出会った時のことを書いています。「主よ。私は、どうすべきでしょうか。」、「私は、何をしたら良いのでしょうか?」と、語りました。 自分を、かたわらに置いて、主の細い御声を、主の語りかけを聞こうとする。こういう態度が大切なのです。主の声に引き出されなければ、その罠から、鉄の鎖から人は逃れられないのです。 大切なことは、主の御声を聞こうとすることです。主の御心を知ろうとすることです。この世での自分の願望が実現されることではありません。 主の御心こそが真実であり、この世での自分の願望は、自分の欲にすぎません。 わたしは、自分の側につくのではなく、主の側にはっきり立たなければなりません。そこにだけ、命があり、主の救いがあるからなんです。本当の希望が、あるからなんです。私達を、人生の暗闇から救い出す光。それは、そこにだけあるんですね。 詩篇25:4-5、8-10
要するに、神様が、どんなに偉大な方であるかに気がつかないでいるのです。 アブラハムやダビデや、モーセが気がついたように、自分は全能の主の前にいるのだ。アブラハムは、私は、塵、灰に等しいと言いましたが、自分はそのような者であると、人は気がつけば、主の前にひれふして、主が語ることを聞こうとするようになるんじゃないでしょうかね。 聖書が示し、自分が信じてる神が、どんなお方であるか気がつかないばかりに、私達は信仰を誤解してしまう。 ダビデなんかは、本当に彼の詩篇を読めばわかるように、ぺっしゃんこになってますよ。神の前に立つ時は、塵灰の中に身を置いて、自分が無の存在のごとく、感じているんですね。 この詩篇の祈りもそうです。主の前に、本当に魂を沈めて、どうか語ってください、あなたの道を示してください、あなたの道こそ恵みとまことに満ちているから。 そういう意味では、信仰は、主の偉大さを知るということ、そのことに尽きるかもしれません。 主の偉大さを知れば、私達はじたばたしないのです。愚かな考えや行動に振り回されないで、主の前に静まる、低くなる、それを当然のこととして行えるようになるはずなんですね。 そして、そこからだけ、本当の力が、知恵が、湧き出てくるからなんです。 詩篇18:30-34
ダビデの確信に満ちた告白であります。主の道を歩むときにだけ、私達は、主によって強くされるのであります。自ら強くなるのではありません。 あの青年は、本当は、主から離れて自分で強くなりたい、本当は、主に頼らなくて自分だけでやっていきたい、自分で自信に満ちたい、別に自分を誇りたい、そう思ったのです。 でも聖書は、ただ主を誇れ、人間を誇りに思ってはいけない。なぜなら、人間は誇るに値しない。栄光は、ただ神ご自身だけに帰されなければならないのであります。神だけが、栄光にふさわしいお方だからであります。 コリント人への手紙第I、10:31
主に栄光をきするように生きなさいと、聖書は言っています。 ローマ人への手紙14:7-8
パウロは、このように生きる決心をしたからこそ、圧倒的な勝利者とされていったのです。 ちっぽけな自分の力や、自分の意志や、自分の知恵に頼んで、全く、一寸先も見えない世の中を生きようというのは、無謀のきわみです。パウロはそれに気がついたのです。 イエス様と共に歩み、共に生きる。キリストの力によって生かされる。そこに、福音の真理があると気がついたのです。 イエス様とひとつになること。イエス様に似る者になること。それが、聖書が一貫して私達に教えていること。なぜなら、そこに、真理があるからです。 毎日、気をつけましょう。 一番、大事なのは、自分自身について死ぬということ。自分の我が儘に対して、死ぬこと、自分勝手な歩みに対して死ぬこと。大事なのは、キリストのうちに生きること。主によって生かされること。 それこそが、間違いない真理だからです。そうすれば、私達は、間違いなく主の恵みによって満ちることができます。 これは、聖書の約束です。聖書の示す、新しい満たされた人生にはいっていきたいものであります。 戻る |