引用聖句:ヨナ書1章1節-17節、2章1節-10節
ヨナ書から、ご一緒に考えさせていただきたいと思います。 このヨナ書、短い4章からなっている書物でありますけれども、このヨナという預言者は、そうですね、列王記第IIの14章というところに一箇所だけ、ヨナについての記事が出ていますから、ちょっと開けてください。 列王記第II、14:23-25
ここに、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナというふうに出ておりますけれども、このヨナという預言者が生きていた時代というのは、ほぼ、紀元前八百年くらい、七百五十年から八百年くらいの年代だろうということであります。 このヨナという言葉の意味は、鳩という意味だそうです。非常に愛らしい、平和の象徴であるところの名前が、ヨナという意味なんだそうですけども、このヨナは、最初の外国宣教師と言いますか、聖書における初めての海外、外国に遣わされた宣教師だということであります。 私はヨナ書を読むたびに、こんなこと言っちゃ失礼ですけども、ヨナっていう人は何て言いますか、後で出てきますけども、気が短くて、怒りっぽくて、忍耐がなくて、こう言っちゃ悪いですが、預言者の中の劣等生じゃあるまいかって思いをして読んでるんですね。 天国に行ったら怒られるかもしれませんけれども、何かいかにも預言者らしからぬ人物であります。 ヨナ書の1章の1節から3節までは、ヨナが神の召命を拒んで、何とかして逃げようとして、必死になって逃げて行く姿が描かれております。 ヨナ書1:1-3
と書いてあります。ニネベという町は、どういう町かといいますと、当時おそらく世界最強の帝国であったでありましょう、アッシリヤ帝国の首都であります。 今のイラクを中心としてエジプトまで。西はエジプトの方。そして東の方はペルシャ、今のイラン方面までおおっていたところの、大帝国のようであります。その首都がニネベであります。 このニネベは、チグリス川の東側に位置してる町でありました。いつの時代でもそうでしたけれども、大帝国の首都として、栄華に酔い、同時に罪に沈淪していたところの町でありました。 本当に人間っていうのは悲しいものであります。平安が与えられ、問題がなくなると、すぐ罪の中に入って行く。私たちはそういう、非常に悲しいと言いますか、悲惨な性質を持っております。 平和が与えられると怖いというのであります。そう言って、戦争がいいかと言ったらそうじゃないんですけれども、私たちは本当に、問題がないとすぐ罪の中に住み込むところの者であります。 人類の歴史はすでにそうでありました。ニネベがそうでありました。 彼らの罪は、腐敗しきって、おそらく神の御前に罪の叫びが届いたのじゃないかと思うんですね。聖書にはしばしばそういう表現が出てきます。 それで神は、このイスラエルの預言者ヨナにある日、ニネベに行って、悔い改めをせまるように、「神のさばきがある。悔い改めなさい。」というメッセージを伝えるようにヨナを召されたのであります。 ところが、ヨナはこれに従おうとはしませんでした。ヨナはこれ以前に、先ほど預言をした列王記第IIのほうにありましたけれども、あの時代に、このヨナ書とあの時期とどっちが早いかわかりませんけれども、私の思うところでは、おそらく先ほどの列王記第IIの14章のほうが後の時期だろうと思うんですね。 なぜならば、預言者たる者が、神の御声を拒んで、何とか逃げおおせようということを考えるってことこそ、考えられないことだからであります。 彼が主を知っておるならば、主の預言者として、すでに立たせられていた人であるならば、こんなに彼が頑強に抵抗して逃げようとしなかったのじゃないだろうかと思うんですね。 ヨナは、どうしてニネベに行くのを拒んだんでしょうか。一つには大帝国の首都、しかも、いつも小さなイスラエルやユダヤの国々を、圧するところの巨大な帝国の首都に、自分が立ち向かうことなどできないっていう恐れがあったからじゃないでしょうか。 自分のような無力な人間が、そんな使命を引き受けることはとてもできない。それは、おそらくヨナのうちにあった恐れじゃないだろうかと思います。 一人の人が、主に召されて遣わさせるということは、それは、本当に大変なことだと思うんですね。確かに人間としては最大の栄誉かもしれません。これ以上の誉れはないかもしれません。 しかし、前途に横たわる困難を思うときに、だれも「私ならできる。」ということは言えないと思いますね。やっぱり逃れようとする。それが、人の本当の姿じゃないだろうかと思います。 モーセも、主に呼び出されたときには、何とかして逃げようとしました。何とか口実を作って、尻込みをしたのであります。しかし、主は激しく怒られたために、モーセは行かざるを得なかったと、出エジプト記の中に書いてあります。 ニネベに行って、「罪を悔い改めよ。」などと言ったら、ニネベの人々にどんな目にあわされるかわからない。下手をすると、命を奪われるかもしれない。それは当然ですね、このヨナに、予期されたことじゃないでしょうか。 ベック兄から以前聞いた話によりますと、アフリカに行きたいと思ってらっしゃったと。ところが、いざ遣わされる前になって、日本での働きを終えて帰ってこられた伝道者が、「日本という国は非常に難しい国だ。私考えなきゃいけません。日本に行かなければいけない。」っていうメッセージをなさったそうです。 本当に、日本というのは伝道者にとって、かたーい国だったのです。それでベック兄は、本当に行きたくなかった。アフリカに行きたかった。だけれども、もう逃れられないということでいらした。ということを、聞いたことがあります。 ですけれども、主が器としてさせられるということは、そうじゃないかと思うんですね。私たちの目にいいということは、主の目にいいことじゃないわけであります。 私たちはいつもいい、自分の目にいいというときには、それは罪に引かれるからであります。自分の好み。自分の本当に楽しみといいますか、自分の目にいいということは、それはやっぱり危険なことであります。 しかし主は、もっともふさわしい道を知っておられるわけであります。ヨナは行きたくなかった。とても自分の手に負える仕事ではない。それは、ヨナが思っていたことだったんですね。容易なことではないはずであります。 もう一つの理由は、ヨナ自身が4章の中で言っておりますけども、ヨナのうちには、あの敵国の、あのアッシリア人なんかは、罪の中に死んだほうがいい、神のさばきによって滅んだほうがよい。 彼らなどは、悔い改めないで、そのまま滅びの道に進んでいったらいいという思いがあったんですね。 偏狭な愛国心といいますか、それがヨナのもっていたもう一つの面だったというふうに言われております。ヨナが、4章の1節で、神が悔い改めたニネベの人々を赦されたために、 ヨナ書4:1-3
ニネベの人々が赦されたってことに対して、腹を立てている、非常に奇妙な預言者がいるわけであります。 ヨナはそういう意味で、非常に偏狭な、せまい考えをもっていた人でした。おそらく旧約時代のイスラエル人、ユダヤ人てのはみんなそう考えていたんじゃないかと思うんですね。 彼らは、神の恵みにあずかるのは自分らだけだというふうな考えを、頑固にもっていたわけでしょう。今でももっているはずです。 ユダヤ教徒というのは、選民。私たちは「せんみん」というと、卑しいという字を書くように思いますけど、そうじゃなくて、選ばれたという意味なんですね。 ユダヤ人が選民意識もっているというときには、彼らはエリート意識をもっているということで、自分たちは民族の中で、全世界の中で選ばれた民であるというふうに考えていました。 そして、そのために、彼らは異邦人というものを、何かイヌころか何かのように、非常に汚らしいもののように考えていたようです。そういう彼らの選民意識が、今日の、特殊なユダヤ社会というものを作ってる。それが他の国々から、ユダヤ人として排斥された一つの理由でもあるようであります。 ヨナという預言者は、まだ人間のたましいに目を向けてはいなかったようです。ただ外的なことが支配したり、支配されたり、豊かであったり、貧しかったり、色んな、そういう外的な人間の関係にだけ、目を向けていたのではないでしょうか。 私たちが信仰の目をもって見るときに、人間はただ二つの種類に分けられるのじゃないかと思うんですね。 それは、そのたましいが、神さまを知っているか。神を仰いでいるたましいであるか。 それとも、悪魔の支配のもとに置かれてるたましいか。おそらくイエス・キリストはいつもそういうふうに人を見られたのじゃないかと思うんですね。 私たちがいつも神さまに問われているのは、私たちのたましいがどこを見てるかということだと思います。クリスチャン一人一人にしてもそうであります。 今私たちはどこにいるんでしょうか。どこを見てるんでしょうか。私たちの心はどこにあるんでしょうか。それを主は、いつも私たちに問いかけられるのじゃないでしょうか。 あなたはどこにいますかと、神はアダムに伝えられたと言われておりますけれども、本当にいつも私たち自身に、神は問いかけておられるのであります。 ヨナは、ともかくそんな大それた、困難な召命を受け入れたくなかったんですね。神によって引き出されたくなかったのであります。 彼はおそらく一人のイスラエル人として、平凡な人生を、穏やかに過ごしたかったと思うんですね。何も好き好んで、こんな険しい人生に漕ぎ出して行く人っていうのはいないと思うんですね。 やむを得ないから、避けられないから、自分がそこを通って行かなければほかに道がないし、人間がそこまで立ったときに初めて、私たちはそこに行く決意を固めれるのでないでしょうか。 ヨナは何とかして、この主の召命から逃れようといたしました。そして彼は、タルシシュへ行こうとしたんですね。タルシシュというのは、ジブラルタル海峡の、スペインの一番南の突端ですね。地中海の出口であります。 ですから、当時の感覚からいったら、地の果てじゃなかったのだろうかと思うんですね。地の果てまで逃げよう。逃げたら、神が諦めてくださると思ったかもしれません。 そしてタルシシュへ向けて、ヨッパに下りました。ヨッパといえば、新約聖書に度々出てくる港町であります。シモン・ペテロが、あの皮なめしシモンでしたか、家に寄ったっていうのが、ヨッパのところには出ておりますが、そこから彼は、タルシシュ行きの船を見つけて、船賃を払ってその船に乗りました。 3節の終わりのほうに、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。本当に主の御顔を避けて、逃げようとしたんですね。本当に駄々っ子のようです。しようのないヨナであります。 しかしヨナって人は、実にはっきりしてるんですね。行くのでもない、行かないのでもないっていうことはありません。どうしてもヤダと言って、彼は必死になって、神の召命からのがれようとしてるのであります。 この船賃、おそらく相当の船賃でしょう。タルシシュ行きの船、当時の船ですから、これに多くの船賃を払って、彼は乗り込みました。 ヨナ書1:4-5
ここは、追跡される箇所であります。神はどこまでも私たちを引いてくださいます。神の手からのがれうる人はひとりもいません。 私たちがどこに隠れようと、神の目から隠れることはできないのであります。ヨナは逃げましたけれども、神は暴風をもって、ヨナを引いてこられました。 日本の諺などには、歌などにはよく、「板子一枚下は地獄」だという歌がありますね。板子一枚。船の板一枚下は地獄であります。本当に、海上ってのは、荒れると凄まじいものだと言われます。 この前のあるキャンプのときも、私たちより二、三歳上の、ある船会社のキャプテンがいらっしゃいました。 非常に楽しく交わりいただいたんですけれども、おそらく何十万tという船を動かして、何年も海の生活をなさった人だったんですね。その人が言っておられましたけども、一年に一件くらいは、どうしようもない暴風に襲われるんだそうで、その時には計器を見ながら、動揺しないようにして、顔には表わさないけど、必死な祈りが心の中に出てくるんだと正直に言われましたですね。 本当に私は、「神さまに叫んでください。そういうときには頑張らないで、神さま助けてくださいと仰ってください。」っていうふうに、申し上げたんです。 そういう、自然の猛威といいますか、それは人間の強がりだとか、虚勢だとか、大言壮語だとか、そういうものを打ち砕くものであります。ああいう経験をなさると、本当に人間は成長させられるのじゃないかなと思うんですね。 大言壮語するのは、そういうことを知らないで、頭の中でばかりものを考えている人々であります。むかし、バルネイという学者がいたそうです。それこそ頭で考える言葉っかりやる学者であります。 そのバルネイという学者が、故郷を遠く離れて船旅をしている途中、この人は大の無神論者で、神はいないということを船の中でも吹聴していた人だったんだそうですけれども、その旅の途中ものすごい嵐に襲われて、もう絶体絶命だ彼が覚悟したときに、彼は思わず「神さま、助けてください。」というふうに叫んだんだそうですね。 それで、運良く嵐が凪いで助かったときに、だれ言うともなく、バルネイの無神論は丘の上では立派だけれども、海の上では通用しないというふうに噂が広がったんだそうです。 無神論というのは、丘の上だけであります。私たちにものが、問題がないときにだけ、私たちは大きなことが言えるんですね。強がりを言えるんです。 真夜中にはだれでもが、すべての人が神を信じるというような言葉もあります。本当に、闇が私たちをおおうときに、私たちはだれでも「神さま!」っていう、抑え難い叫びをもつのであります。 5節で水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。絶体絶命の状況であったと、ここに書かれてあります。 水夫たちは、恐怖のあまりもう死を覚悟して、最後のところで、彼らが一番大事にしているところの積荷を、投げ捨てなければなりませんでした。死と隣り合わせの恐怖ですね。絶体絶命の窮地であります。 自分のいのちを救うために、すべての、それ以外のものを投げ捨て始める。そのギリギリに人が追い詰められているところが、ここに描かれております。 私たちが、もし絶体絶命のところまで追い詰められるならば幸いであります。そうするならば、私たちに神のみことばは本当にわかります。イエス様の救いも、私たちが本当に追い詰められるならば、わかるんですね。 私たちは、イエス・キリストの救いを、時として、あんまりに安易に考えがちだと思うんです。非常に誤解をしてる場合が多いんじゃないかと思うんですね。 神の御子が十字架の上で死ななければならない。恥と苦痛にさらされて、神から捨て去られなければならないという事実を、私たちはどれほど深刻に受け止めているでしょうか。 イエス様の十字架の救いというのは、神さまの、それこそ絶体絶命のみわざであります。神がイエス・キリストのいのちを通して、私たちを罪の滅びの中から救い出そうとしておられてる。それが、この十字架であります。 私たちもイエス・キリストの救いを見出そうとするならば、船員たちが積荷を海に投げ捨てていったように、救いの妨げになるようなものは、すべて捨て去るべきです。 自分勝手な生活を、悔い改める決心もしないで、救いというものを体験することはできないと、言うことができると思うんですね。 私たちは、自分の手にいっぱい色んなものをもっていながら、そのまま救いの門に入るっていうことは、できないことなんです。本当に、すべてのものを手放す、放り捨てる必要があるのじゃないかと思うんですね。 水夫たちが、恐れ、おじ惑ってる中に、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいたというのですから、すっごい神経の太い人物であります。 ぐっすり寝込んでいたようなものだってなことを言ってるところがありますけれども、ヨナはまったく平気で、船底でぐっすり寝込んでるとありました。 ヨナ書1:6
この事態にあって、まだ神を恐れずに眠っている者がいる。これは船長にとっては許せないことだったと思うんですね。みんなが一生懸命になって、神に助けを求めてる中に、寝込んでいるヨナ。船長はヨナを起こしました。「祈りなさい。」と言いました。 ヨナは願えたでしょうか。ヨナは祈れなかったと思うんですね。意識してのがれている限り、自分が意識して逆らって生きている限り、祈れるわけはないのであります。 (テープ A面 → B面) ヨナ書1:8
くじを引くとヨナに当たりました。 神は、くじをもってヨナを引き出されたんですね。人込みの中に隠れて、自分の正体を隠そうとしたヨナを、神は光の中に引き出されたのであります。ヨナは自分が何者であるか、何を成して来たかを告白しなければなりませんでした。 私たちは人込みの中に隠れて、陰に隠れたままで、救いを見いだすってことはできないんですね。私たちは自分の正体を明らかにしなければなりません。 私たちは、光の中に出て来なければならないんです。あるときに私たちはその決意を迫られるんです。 私は十六年前になりますけど、初めてこの集会に案内されて来ましたけれども、義理で来たんですね。来ようと思って来たんじゃなかったんですね。 断れなくって来たんですけども、そのときに本当に、人に見られまい、そこで話をしてくださった私の先生がおられたんですけども、その先生に見られるまいと思って、人の後ろに小さく隠れるようにして、話を聞いたことを今でも覚えておるんですね。出て行きたくなかったんですね。 やっぱり自分の中に閉じこもっていたかった。光の中に出て行きたくなかったのであります。挨拶もしないで、逃げるように帰ったことがあるんですけれども、本当に神は私たちを、光の中に出て来なさい。自分のあるままを認めて、出て来なさいと、仰います。 救いというものは、自分のあるがままを光の中に出すところから始まるんですね。 マルコの福音書5:25-34
彼女は人々の中に出たくなかったんですね。光の中に出たくなかったんです。ただ、病だけを癒やしてもらいたかった。それがこの女の思いでした。そっと行って、そっと癒やされて帰りたいっていうことでした。 しかし主は、それを許されなかったんです。もし彼が、彼女が、イエス・キリストの前に出て行かなかったなら、イエス・キリストの前にひれ伏して、真実を余すところなく語らなかったならば、彼女のたましいは救われなかったと思うんですね。本当の意味で、たましいの解放はなかったはずです。 彼女は癒やされたかもしれませんけれども、救いを経験することはなかったと思います。イエス様は、単なる肉体の癒やしだけを欲しいとは思われなかったんですね。 彼女の、闇の中にいるところのたましい、それを本当に光の中に引き出されたいと、イエス様はおっしゃいました。ですからしつこく見回されたんです。彼女は、恐れおののきながらも、主の前に出て行きました。 まことの回心とは何でしょうか。それは神の光の中を歩もうという決心が与えられること。私たちが自分の、罪のわざを捨てて、本当に罪の汚れや偽りの生活を捨てて、光の中を歩みたい。 それこそまことの回心であります。私たちがそこに至らなければ、結局信仰は虚しいと思うんですね。光の中に出て行こう、光の中を歩もう、それが一番大切なことだと思います。もういっぺんヨナ書を開いてください。 ヨナ書1:9-10
ヨナは自分が、天地を造られたこの主、ヤウェイの神、この神からのがれようとして来たのだということを、正直に告白してます。 嵐はそれでも止みませんでした。それで11節以下に、彼は嵐の中に投げ込まれるということを、自分で提案してますね。 ヨナ書1:17
と書いてます。 神のおおわれる、伸べられるその御手に、観念して、のがれられないということを認めて、悔い改めの祈りをするような、それがこの2章の中に出てるんですね。 ヨナは、自分の罪を認めたときに、本当に徹底的に砕かれていただろうか。おそらく、砕かれていなかったんじゃないだろうか。まだ砕かれない。それで主は、彼を魚の腹の中に閉じ込められたのじゃないだろうかと、思われます。 ヨナを徹底的に砕くために、神はヨナを、この闇の中に、魚の腹の中に閉じ込められたのでしょう。この2章2節のところに、「よみの腹の中から」と書いてますね。海の真中の深みから、波と大波が自分の上を乗り越えていった。 ヨナ書2:5
苦しさにヨナは呻いています。深淵がヨナを取り巻いています。ヨナは本当に身動きのできない中に、入れられているんですね。この、暗やみと絶望の中から、ヨナは神を仰ぎ見て、そこで彼は祈っているんですね。 ヨナ書2:7
神は、私たちが悔い改めるときに、即座に赦して、受け入れてくださいます。真心から悔い改めるときこそ、試練が終わるときだと思うんですね。 ヨナは本当に、この魚の腹の中で悔い改めました。そのときに主は、彼を赦されたのであります。 ヨナ書2:8-9
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。非常に深い言葉じゃないでしょうか。神以外のものに心を留めるということは、神の恵みをないがしろにすることである、失うことである。救いは主からのものです。 ヨナ書2:10
と書いてあります。 ヨナが預言者として立てられ、用いられるようになったのは、この本当に苦い体験の後のことじゃないだろうかと思うんですね。 ヨナって人が、さっきも言いましたように、本当に気短な人であった、それはこの4章のほうに出ていますけれども、私はヨナ書を読むたびにそう思うって言ったのは、自分が本当に忍耐の足りない、気短な人間な者でありますから、ヨナを見ると吹き出してしまうんですね。 本当に忍耐を学ばければいけないと、熱く思わされます。ヨナはすぐ、何かあると、もう泣き言ばっかり言ってるんですね。「私のいのちを奪ってください。」とか、4章の3節なんかには、 ヨナ書4:3
ヨナ書4:8
本当に何と忍耐のない人だろうかと、自分自身のことをも省みなされます。 申し上げたいことは、私たちが真実に悔い改めるとき、そのときこそ、主の試練が終わるときである。私たちが悔い改めるならば即座に主は、私たちを受け入れて、赦してくださるということであります。 |