救いのかぎ


蘇畑兄

(テープ聞き取り)

私の個人的に尊敬するクリスチャンの先輩で、音楽の方の専門家なんですけども、その方が書いていらっしゃる一文がありますからちょっとお読みします。

「この宇宙は意味もなく偶然に存在しているのではありません。
私たちは信仰によって、この宇宙が愛によって創造されたことを知らせていただきました。愛によって創造された宇宙は、また愛によって完成されるに違いありません。そして人は創造の冠であり、神の愛はとりわけ深く私たち一人一人に注がれているのです。
このことを思えば、『思い煩い』が、何ゆえに重大な罪であるかということが分かります。それはまどろむことも眠ることもなく、私たちを見守っていてくださる神様に対する、『不信』に他ならないからです。

神の愛に生きる私たちには生存競争はいらないのです。人生の目的は人を押しのけて出世することではありません。人生の真の目的は、キリストによって罪を赦され、神の義を与えられ、神の国の民とさせていただくこと以外にはありません。
この目的を達し得て他の何を失っても、人生は成功です。この目的を達し得ずしてたとえ何を得ても、人生は失敗の一語に尽きます。」

「人生の真の目的は、キリストによって罪を赦され、神の義を与えられ、神の国の民とさせていただくこと以外にはありません。」
「私たちの人生の目標は、まことの神を知ること、神との交わりの中に入れられること。神との交わりの中に永遠に生きる者とさせていただくこと、このことに尽きる」というのであります。
「これを得て、私たちの人生は勝利そのものであり、これを得ずしてどんなことがあったとしても、それは失敗の一語に尽きる」と、こういうふうに語っていらっしゃいますね。
長い信仰の歩みを通してこの方も、真実そのもののキリスト者でいらっしゃいますけれども、深い確信に満ちた証しだと思うんですね。

どのようにしたら私たちは、生けるまことの神を知ることができるんでしょうか。本当に神様という方は、私たちと具体的な交わりを持ってくださる方なんでしょうか。ただ言葉だけで、クリスチャンがそういうようなこと言ってるんじゃないでしょうか。本当に私たちは、自分の人生の歩みの中において、生ける神を体験的に知ることができるのでしょうか。
これが根本的な問題だと思うんです。

聖書は「誰でも、まことの神を知ることができる」「誰でも、神との生きた交わりを持つことができる」「私は、まことの神を知ることができた」「私は、真理を知ることができた」「私は、救いとは何かを、本当に知るようになった」と、心から人は証しすることができる、このように聖書は言ってるのであります。
どうしたら人は、この人生の目的そのものを、自分のものとしてつかむことができるのでしょうか。私たちは今まで長い間学んできたように、イエス様はまことの神を知るために必要なこと、救いを知るために必要なことを短くおっしゃったんですね。
マルコの福音書の中でイエス様は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」、このように宣教の最初の言葉としておっしゃったのであります。

「悔い改めて福音を信じなさい。」、まことの神を知るための条件は、2つであります。
「悔い改めること」、そして「心から信じ、信頼すること」なんですね。

本当の意味で恵まれた人生、豊かな人生、確信を持って将来に向かって歩むことのできる人生、その人生を送るために必要なものは、まことの信仰であります。正しい信仰こそ、幸福で、望みのある人生の確実な土台であります。まことの神への信仰なしには、この世界には何の望みもないのであります。
神様を知らなければ人生に望みはないですよね?もうこの先何にもないんです。ただ後を振りかえるだけ。なつかしく後ろを振り返ることはできるかもしれませんけども、将来に向かって、本当に輝くばかりの確信を持って、「感謝して私はこの人生を進むことができる」とは言えないんです。
神様を知らずして、この世界はいろいろな楽しみを追い求めることはできるかもしれませんけども、それは虚しいものなんです。どんなにこの世の様々なものを追い求めたとしても、その人に本当の意味での確信は生まれてこないんです。ただ次から次にさまよっているだけなんです。「もっといいものがあるんじゃないか」と言っては次々と蝶が花から花へと飛びまわるようにして一向に定まりがない。ただそういうことを繰り返すだけなんです。
ルターが言ったように、「私はここに立つ」「私はこの土台の上に立つ」という、心からの確信を持つことを人はできないんです。まことの神を知らずしてこの世界は、手探りで歩むための暗やみでしかないのであります。そこには確かなものは何一つとして見出すことはできないからであります。

それでは、そのような恵まれた人生を歩むために大切なものは、一体なんでしょうか。それはイエス様がここで言われているように、「罪を悔い改めること」、そして「幼子のように、素直に神を信じ、神のみことばに信頼すること」であると聖書は言っているのであります。
神様の前において自分の罪に気づき、それを素直に認めることのできる人、この人は本当に幸せな人です。

私たちは、なかなか自分の罪を認めようとはしない者なんです。言い訳ばっかりするんです。「いやあ、あれがああだったから、こうなったんだ」と、なかなか人は認めないんですね。
本当に「それは私のせいです」、「私は、神様の前に罪を持っている者です」と素直に言うことのできる人、その人はもう救いの間近にいる人なんです。そこまで人の心が開かれれば、もう救いはすぐ前にあります。
このように人の心が本当に神様の前に素直にされれば、聖書で言ってる「砕かれ」ですね、一切の弁明をやめて主の御前に「自分は、何一つとして、実は言い訳をすることができない者である」ことを認めて、神様の前に出る時に、そして自分の今までの罪の歩みから離れる決心をする時に、私たちは救いの門が開かれてくることに必ず気がつくはずなんです。

救われるために必要なことは、本当にイエス様がおっしゃってるように、「幼子のように素直にへりくだること」なんです。神様の御前に、一切の弁明を捨てることなんです。
罪を悔い改めることなしには、私たちは「救いとは何か」を絶対に知ることはできません。たとえどれほどその人が聖書の勉強をしたとしても、どんなに頭で福音を理解したとしても、その人は悔い改めることなしに、「救いは何であるか」ということを知ることは絶対にできません。
救いの門は、神様の前における真実な悔い改めを通してだけ開かれていくものです。聖書が語っている真理を、人は悔い改めることなしに悟ることは絶対にできないんです。

多くの人たちが様々な重荷に苦しんで集会に来てくださいます。それは本当に喜ばしいことです。必死に助けを求めて来られる方がいっぱいいるんですね。しかしなかなか救いが分からないで、重荷が取り去られないで、おんなじところをグルグル回ってる人々もまた多いんです。
どうして同じところをグルグル回るんでしょうか。どうして救いが分からないのでしょうか。どうして重荷から解放されないんでしょうか。その理由は、一言で言うことができるんです。それは「悔い改めること」に気がつかないからです。
その人は、神様からの助けと恵みを求めていのるでしょうね。「どうか助けてください。私の家庭は、私の人生は、行き詰まってもう二進も三進もいかなくなっている。音をたててすべてが崩れていきそうな感じがする」。
おそらく、そういう思いを持って神様に助けを求められるでしょう。それはもちろん大切なことですけれども、その人が、神様が自分に求めていらっしゃる「悔い改めの必要」に気がつかないからです。

「神様、私のどこがいけないのでしょうか。私はどこをどのように改めればよいのでしょうか。私の問題の原因という『罪』とは一体どういうことなのでしょうか。どうか教えてください。
『罪を悔い改める』ということは、どういうことなのかをどうか私に示してください」
こういうふうに祈るようになると、人は心の目を開かれるようになるんです。
「神様の語りかけを聞いてみよう。私が何をお願いするかではなくて、主は何を望んでいらっしゃるかに深く心を用いていこう」。
そういうふうに、人ので心のあり方が180度変わるようになってくると、その人は全く違う土台の上に立つようになってきます。

「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」サムエルはそういうふうに祈ったんですね。
「主よ。私は、どうしたらいいのでしょうか。」とパウロは、イエス様に出遭った時に、ダマスコの途上で言ったんですよ。パウロが最初に発した言葉はそれでした。「主よ。私はどうすべきでしょうか」「あなたの御心を教えてください」という祈りですね。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。

とダビデは祈ったんです。

どうか、私を探ってください。何をしたらいいのか、私にどうか示してください。
私は、あなたに従っていきますから

これが、祈りであります。この祈りによって、人は自分の思いではなくて、自分の願いではなくて、神の望んでいらっしゃることに心を向けるようになっていきます。自分自身から目を離して、神を仰ぎ見るように変えられていくんです。
それが文字通り、「信仰」ということの意味でしょう。信じて仰ぎ見るんです。それまで自分のことばっかり考え、自分の問題ばっかり考えて、もう朝から晩まで頭の中おかしくなるまでに、「どうしたらいいもんだろうか、この問題は」、「どうしたら、この息子は何とか立ち直るんだろうか」、「どうしたら、この家が立ち直っていくんだろうか?」、もうそんなことばっかりで、どうすることもできなかった人が、そのことじゃなくて、それは傍らに置いて、
「主よ、どうかあなたの御心を教えてください。私はそれに従います」
こういうふうにして心を向け変えるときにはじめて、人は逃れ道があることに気がつきます。「ああ、逃れ道は上の方にある」、神ご自身を仰ぎ見るときに、そこに逃れ道がある、門があることに気がついてくるんです。

自分がどのように考えるか、自分がどういうふうに感じるかっていうことは大事ではないんです。神はどのように望んでいらっしゃるかが大切なのです。神様を中心とし、神ご自身の御心から出発するんです。
だからまず、主の御心が問われるべきなんです。イエス様がおっしゃったように、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
これは、クリスチャンの生活の人生の原理なんですよ。原理、原則、大原則なんです。ここに立って生きる人は決して失敗しません。その人は、本当に豊かな人生を、必ず送るようになるんです。

すべては神の御心を求めることから出るべきなのに、出発すべきなのに、神様を知るまでの私たちの人生は、いつでも自分の思いからまず出発するんです。「私は、このように考えてる」、「私は、これを目標としている」、「私は、これをいいものだと思っている」、本当にいつでも「自分」ですね。
「はじめに言葉があった。」と、聖書は言ってますけども、「はじめに私ありき」ですね。「私」ばっかりなんです。そういうふうな歩みをするから、結局破綻してしまうんですね。身動きが取れなくなるんです。

自分の手に握って、自分の願い通りにしようとしてることを、本来のあるべき姿の通り神の御手にお返しすることです。御心にゆだねることです。「御心に従っていこう」と決心することです。これが本当の意味での「悔い改め」であり、「信仰」なんです。
私たちが、自分の持っているすべてのもの、自分の財産とか、家庭だとか、大切な家族だとか、そして私が一番しっかり握って離そうとしない自分自身をも神の御手にお返しすること、神のご支配に服すること、これが本当の意味での、実は「悔い改め」ということなんです。
救いはここからだけもたらされるからです。私たちは、ここに本当の意味での解放を見出すのです。

イエス様が、「貧しい者はさいわいです」とおっしゃった一つの理由は、豊かなる人はなかなか手放せないからです。
簡単に言いますと、巨万の財産があったらちょっとやっぱり惜しいんです。何もなければもうしれたもんですよ、差し出すのは。もともとないのですから。
豊かに才能持ってる人は、その才能によって自分を表していこう、自分をこの世で大いなる者としていこうとするから、もう大変な戦い場ですね。だから破滅の淵に落ちて行くのは、どちらかといったら天才的な人物、豊かな芸術的な才能を持ってる人たちですね。そういう人たちに限って、人生は惨憺たるものなんです。悪魔はその背後にひそんでいるんですよ。
その人の豊かな天分だとか、その人の豊かなこの世の宝物とかというものの背後に悪魔は立っているんです。それをもって人々を自分の支配のもとに引き寄せていくんですね。それは悪魔のやり方なんです。

万物は神によって創造されたのですから、神ご自身が本当の意味での唯一の主権者でいらっしゃるんですから、私たちがすべてのものを神ご自身の御手にお返しすることは正しいことなのです。
この神の主権を認めないで、自分の人生への神様の介入を一切拒絶して、自分自身を自分の神のようにして生きること、これがいつも言ってるように罪の本質なんです。
罪というのは、私たちが行なってる様々な「失敗」、単なるそういうものじゃないんです。それはよく言われるように「罪のぬけがら」なんです。最も恐ろしい罪は、人間が自分の人生から神を締め出そうとすること。
「あなたはいらない。私と関係を持たないでほしい。私は私が望むままに、私は自分を『自分の王』として生きるのだから!」、こういうふうに神に対して人間が敵対しようとすること、これこそが罪の本質なんです。
これを聖書は、この全巻を通して繰り返し語っているんです。

ドアを閉めて、絶対に家の中に入れないんですね。「ここは私の城であり、私の思うようにこれはしてくのだから!」って言うんです。ですからイエス様は、あのヨハネの黙示録の有名なことばの中に、
「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
そこに入って、ともに交わりを持つ、「わたしのいのちに、あなたをあずからせよう」と、おっしゃっているんです。ですから私たちの人生そのものに神ご自身を受け入れること、私たちの生活を神のご支配のもとにゆだねることです。そして神の御心に従って、自分の生活を整えていくことです。

主の御心にかなわないものを、家の中から外に出さなきゃ駄目なんです。神様を知らないときには、変な絵でも写真でもいっぱい貼ってあるでしょう?だけどクリスチャンになれば、みんなそれを捨てるんです。
「ああ、この本はいけない」、捨てなければ駄目なんです。ふさわしくないからです。自分の家から、御心にかなわないものを捨てていくんです。それを「きよめ」というんです。そのようにして、その人の生活そのものが神様によって整えられていくんですね。
「ああ、この習慣はよくない」、だからやめるようになるんです。「こういう友人関係も、ふさわしくない」、だからその友人関係から離れるんです。「こういう趣味もやめなければいけない」と、その時気づくようになります。
ですから神様は、私たちを整えていかれるんですね。現実の信仰生活ということは、そういうことなんです。
ただ神様を漫然と信じて、「私は信じています」ということじゃない。そうじゃなくてみことばに照らして示されたものを、一つ一つ整えていくんです。そうして私たちは、本当の意味で霊的に癒された者、健康な者、その結果やっぱり肉体的にも健康的に整えられて、人は元気な者にだんだん変えられていくんです。

神様が私たちの問題を解決してくださる方法は、そういう方法なんですね。ある瞬間にその病を癒されるというよりも、その人の生活そのものが新しく変えられることを通して、より健全な者、より確かな者に人はなっていくんですね。
そうじゃなくて、「一瞬に何か経験した!」なんて言ってやってると、危なっかしいんです。その次またおかしくなるんですから。ですからそれはあんまり健全じゃありません。
神様の癒しは、ゆっくりゆっくり私たちの生活の根から増していってくださるものなんですね。

明治維新の時に大政奉還が行なわれて、新しい日本になりましたね。第二次世界大戦で、一億総玉砕という本当に滅亡の淵にあった日本が、アメリカや連合国側に無条件降伏して、本当の意味で新生日本になったんですよ。
今日のこの繁栄と自由というのは、あの無条件降伏からはじまったんです。その当時の方々は、実感としておわかりでしょう。全く一言も注文をつけれなかったんですね。そうだったんです。彼らがいいと思うように、日本はそれに従わなければいけない。それを飲んだんですよ。その結果、日本はどう?良かったでしょう?本当に自由で豊かな国になったんですね。

同じことを神は私たちにしようとなさってるんです。無条件降伏する時には、日本の国内では大変だったでしょ?軍部が最後まで抵抗しようとして、大変な危機があの一日あったんですね。
だから、私たちの中でも同じようなんですよ。「やあ、神様に無条件降伏なんかしたら大変じゃないか!」、最後までなんとかぎりぎりまで抵抗しようとするかもしれないんですね。
ですけども、「神様に自分の人生を明け渡そう。それ以外に自分の人生に望みはないから」、「本当に絶望しかないから」、そのことが分かると、人は本当にその苦しい自分の内面の戦いにも関わらず、「イエス様を受け入れて、従っていこう」と決心するようになるんです。
自分の人生の支配権を神ご自身に明け渡して、本当の意味で新しい人生がそこに開かれてくるんです。イエス様が約束していらっしゃるように、まことのいのちが私たちのうちに注ぎ込まれてきます。私たちは、それを経験することができますよ。

「永遠のいのち」というものは、全然私たちの味わうことのできないものじゃないんです。私たちはこの地上にあって、「ああ、確かに神様との生きた交わりとは、こういうことだ」、「これが『永遠のいのち』だなあ」ということを、全部ではないけれど、ほんの少しかもしれないけれど、人は知るようになるんです。
天国というものの、前の味を、人はこの地上にあって味わう者となるんです。だからクリスチャンは喜んで歩むことができるんですよ。すでに「ここに、天の御国が来ている」と人は感じるようになるんですね。

「神の国は、『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と、イエス様はおっしゃったんですね。
悔い改めて神様に立ち返る時に、すでにそこに天の御国がはじまるんです。その芽がそこに生え出てくるんです。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

「自分自身のものではないことを、知らないのですか」と言ってますね。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」、「もう自分のこの持てるすべてのもの、自分自身も、もはや自分のものではないのだ」、「これは、イエス・キリストという尊い代価を払って、神のものとされているのだ」、このことを深く覚えている人は、祝福された歩みをします。

自分の人生を、自分の力で、自分の栄光を追い求めて生きようとすること、その結果どこもかしこもおかしくなってくるんですね。破ればかりが広がってくるんです。頑張れば頑張るほど、ますますひどくなっていくんです。
自分の人生と自分自身とを神の御手にお返しすれば、神はその傷を癒して私たちの人生の破れをきれいに治してくださるんです。

エレミヤ書3:22
22背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。

と書いてありますね。「わたしがあなたがたの背信を癒そう」、「様々な問題を癒そう」と書いてます。

イザヤ書44:22
22わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

「わたしは、イエス・キリストのあの『死』によって、『十字架の血潮』によってあなたを贖ったからだ。あなたを買い取ったからだ。その代価をもうあなたのために払ったからだ。だから帰ってきなさい。あなたの罪はかすみのようにぬぐいさられたからだ」、これが神様の呼びかけなんですね。

怖いのは、神様を押しのけ、無視してでも自分の欲するところにいこうとする、私たちの頑固な頑なな自我でありまた欲なんです。我欲なんです。
「人生の支配者・主人として、御子イエス・キリストを信じ受け入れること」、このことは自分の欲するように進むこと、生きることの放棄の選・・・

(テープ A面 → B面)

生き方そのものを変えないで、「問題だけ解決してほしい!」と言うから駄目なんです。神様はそういう要求に対しては答えてくださいません。
多くの人の誤りは、「同じように生きたい」「今までのように人生を生きてきたい」と思っています。自分の目標を達成したいと思っています。しかしそこで何度も挫折をして、どうにもできなくなったから、「どうか、その問題だけを取り除いて欲しい」と言います。神はそういうことに対しては「NO」とおっしゃるんですね。
神が私たち一人一人に切に求めておられるのは、方向転換であります。「悔い改め」と「信仰」です。それは私たちからすべてのものを奪い取るためではなくて、私たちに「すべてのものを与えるためである」とおっしゃるんですね。
私たちの滅びの人生、罪、咎と、汚れと、恥と、死の人生に変えて、永遠のいのちと、まことの望み、天の御国の栄光にあずからせようとして、神は「救い」を提供していらっしゃるのであります。

神様の主権を踏みにじって、神に敵対している私たちの罪の解決のために、イエス様を全人類の身代わりとして、神は十字架にかけてくださったんです。イエス様は神にのろわれ、捨てられたんです。この十字架の罪の贖いのゆえに、だれでも悔い改めて神のみもとに立ち返ることが許されている、と聖書は言っているんです。

ペテロの手紙第I、2:22-25
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

イエス様が死んでくださったために、私たちはその打ち傷によって癒されたんですね。罪から離れることができるようになったんです。
もしイエス様が死んでおられなければ、私たちはどんなに罪から離れようと頑張っても無理ですよ。それは逃れられません。イエス様が死んでよみがえられたために、私たちはイエス様を信じ受け入れることによって、罪の束縛から解き放たれるのであります。

コロサイ人への手紙1:19-22
19なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
20その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
21あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
22今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

「かつては神を離れ、心において敵となって悪い行ないの中にあったのですが」、「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました」。

コリント人への手紙第II、5:18-21
18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエス様は私たちの代わりに罪そのものとされた、のろいそのものとされた、そのようにして神によって捨て去られたのであります。だからイエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と十字架の上で叫ばれたんですね。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
イエス様だけが、神によって完全に生きたまま捨て去られた体験をなさったお方です。神に対する自分のそむきの罪を悔い改め、イエス様を信じる人には、キリストの御霊が宿ってくださいます。この御霊によって、それまで勝つことのできなかった罪の力にも打ち勝つことができるようになるのであります。
さっき言ったように、「もしイエス様が死んでくださらなければ、私たちは罪から離れることができない」と言った理由はそこにあります。

イエス様が私たちに与えてくださる御霊によって人は、今までどうしても離れることのできなかったものから、簡単に離れるようになるんです。
吉祥寺集会でいっぱいアルコール中毒とか薬物中毒で、もう大変な目にあった人々がおられるでしょう。小さな集会ができるぐらいそういう方々がおられます。そういう人たちはどんなに頑張っても駄目だったんですね。
もう家庭は滅茶苦茶。本当に絶望的なものだったんです。だけどそういう方々が、そのような力から解放される理由は、その人たちの中に御霊が与えられるからなんです。その結果今まで欲しくて欲しくて仕方がなかったものが、今は離れたいものになるんです。おぞましいものになってくるんです。
真理の御霊によって、きよめ、導いてくださるように、神は一人一人に臨んでくださるんです。

テトスの手紙3:3-7
3私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
4しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
6神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
7それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

テトスの手紙3:5
5神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

本当にその通りなんですね。私たちはどんなに頑張っても、義なる行ないをすることはできませんでした。罪によって雁字搦めだったんです。それをイエス様は御霊を注ぐことによって解放してくださったんです。

エペソ人への手紙1:3、13-14
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
13またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

「約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます」、御霊を持たない人はキリストのものではない、と聖書に書いてあります。
聖霊を内に持っていなければ、その人はクリスチャンではありません。その人は聖書の言ってることを全然理解することができないんです。聖書が語っていることを理解できるようになるのは、ただその人の内に御霊が宿ってくださるからなんです。人間の知恵によって聖書は全然分からないものです。
このように神は、イエス様の死とよみがえりを通して私たちに御霊を与えてくださり、私たちを罪の奴隷の状態から解放してくださり、本当にご自分の自由な交わりの中に導き入れてくださるんですね。
これは私たちが経験することのできるものなんです。問題は私たちが本当に「自分もそれを欲しい」と願うかどうかです。本当に、「私も主を信じたい」「神様を信じたい」「私も信仰によって生きる者になりたい」「もう、このような、何十年も生きてきたこの人生を、そのまま生きるのは御免だ。もう十分です」、そういうふうに、本当に私たちが願うかどうかなんですね。

「悔い改めて、福音を信ぜよ」、イエス様はおっしゃいました。悔い改めること、主に立ち返ることです。そして主の約束のみことばに素直に信頼することも非常に大切なことです。
いたずらに自分の罪を後悔ばかりして、自分自身を責めてばかりいる人々もいますけれども、それは主の御心ではないのであります。重荷となっている自分の罪は告白されるべきです。自分のたましいを圧迫して自分の良心を本当に苦しめている問題があれば、主の御前に告白されるべきだし、それを明るみに出さなければなりません。
しかし神様の赦しの約束に信頼して、喜んで前進すべきなんです。それが主の御心だからです。

「クリスチャンだから」と言って、良心的に生きるべきだと思い込んで、もう自分の罪に対して「自分を許せない」と言って悩んでいる人々がいっぱいいます。悩みがあんまり激しくて、もう身動きとれない状態の人々もいますけれども、それは主の御心ではないんです。
さっきも言ったように主の御心が大事なんです。「神は何とおっしゃっているか」「神は、何を望んでいるか」が大事なんです。神は「悔い改めて生きよ」とおっしゃるからです。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白してそれから離れる者は、それを捨てる者は、恵みを受ける」と書いています。主の御前に、私たちは出て、主に悔い改めて、後は光の中を力強く歩むべきなんです。それが神の喜ばれることです。

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの罪を贖った」、と聖書は言ってるんですね。神はそのように私たちの罪を喜んで赦そうとなさっています。ですから神様の御前に出て、自分の罪を主の御前に悔い改めて、神の喜ばれるように光の中を喜んで歩むべきです。それが、主の御心なんですね。

その点、あの有名なダビデ王の信仰は模範的なんです。最後にサムエル記第IIを読んでみましょうか。サムエル記第IIの12章。旧約聖書の中でダビデほど祝福された人は、おそらくいなかったかもしれません。ですけども、私たちはダビデほどの罪は犯してません。ダビデの犯した罪は、それはすごい罪でした。あれだけの罪を犯していても神は、本当にダビデを赦し、豊かに祝福してくださったんです。
だから、本当にそういう意味では、ダビデは私たちにとって大きな慰めであります。

サムエル記第IIの12章の始めの方から。有名な記事です。
ダビデが自分の忠実な部下ウリヤの妻、バテ・シェバを取って、この姦淫の結果子どもを生むんですね。
ウリヤはすごいですよ、ダビデは非常に卑劣なことをやったんです。ウリヤが自分のためにいのちをかけて前線に出てるんですね。戦場にいるわけです。この彼がいない間に、バテ・シェバをたまたま見つけて、このバテ・シェバという人もまた、よろしくなかったんです。そして姦淫を犯して、その結果身ごもったんです。
そのことを知った時になんとダビデは戦場からウリヤを呼び戻したんです。そして彼に酒を飲ませて、ほんとにへつらいの言葉までやって、王たる者が「ウリヤよ、家に帰りなさい」、「きみの妻のところに行きなさい」と言ったんです。帰そうとしたんです。しかしウリヤは帰らなかった。神が止められてるんですね。
神はダビデのしたことを怒られた。聖書の中にそのことが書いてあります。神は、「これは神の御心をそこなった」、神はこれを全部明らかにしないでは済まなかったんです。だからウリヤは帰らなかったんです。
門の所にいて部下たちと一緒に寝たんです。「私の部下は、今戦場でいのちをかけて戦っています。どうして私は妻のところに帰ることができよう」と言ったんですね。ダビデはお手上げになったんですよ。どうすることもできなくなったんです。
その結果なんと、その戦場の司令官に手紙を送ったんですね。ウリヤに持たせて自分の手紙を送ったんです。「ウリヤを最前線に出して、戦死させなさい」
恐るべきことでしょう?あのダビデが。そのためにヨアブはですね、ダビデ王の手紙の通りに前線に出したんですね。敵を攻めているその城壁の前まで出したんです。その結果ウリヤは戦死したんです。その時に神は、ダビデの罪を全天下に明らかになさろうとされたんですね。
ナタンという預言者を遣わして、ダビデの王居に遣わしたんです。これがこの12章の記事です。神は恐るべき方です。だから12節にこう書いてあるでしょう。

サムエル記第II、12:12
12あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」

「あなたのすべての罪をあばく」とおっしゃったんですね。その時に、

サムエル記第II、12:13-15
13ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
14しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
15こうしてナタンは自分の家へ戻った。

パウロが書いたように、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」、と言いましたけれども、神はすべてのものを見通しておられます。そしてすべてのものをさばかれます。
神は侮ることのできない方です。神はこのダビデを全天下に明らかにされたんですね。3,000年後にもまだ私たちはダビデのこの痛ましい罪を読むんですよ。

サムエル記第II、12:15-23
15こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
16ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
17彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
18七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。
19しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
20するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。
21すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」
22ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。
23しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」

もう主の御心はなされたんです。それであれば信仰を持って主がなさったことを、「主よ。あなたがなさったことは正しいことです」「あなたのさばきは、正しいのです」と言ってこれを受け入れる、これが真の信仰なんですね。
もうダビデは、それに対してグズグズ言うことはしませんでした。嘆くこともしなかったんです。「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」です。
ダビデはここで、ヨブと同じことを言ってるんですね。それが信仰なんです。ですからクリスチャンは、いつまでもグズグズ自分の問題にとらわれて、つぶやいてはいけないし、いつまでも何の益もない嘆きを繰り返してはいけないんです。それは不信仰の現われなんです。

神がさばきを下され、御心を現わされ、「それでよし」とおっしゃっておれば、私たちはそれを「よし」としななければいけないんですね。そして立って歩むべきなんです。このダビデの信仰に、私たちは大きく学ぶべきだと思うんですね。
クリスチャンにも様々な問題があるし、様々な悲しみもあります。ですが私たちは、この世の人のように悲しまないんです。パウロが言ってるように「この世の悲しみは死をもたらすけれども、悔い改めに至らしめる悲しみは救いをもたらす」、と彼は書きましたけれども、それが正しい態度だということなんですね。

そういう意味で、信仰の人として、私たちはいつも雄々しく立つべきであります。「雄々しくありなさい」と主はおっしゃるからなんですね。このような、ダビデのような信仰にならいたいものだと思います。

そこまでで、終わりましょうか。




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