引用聖句:ローマ人への手紙10章11節-14節、17節
どのような人でも自分自身で聖書を読むなり、だれかを通して聖書のことばを聞くか、するのでなければ、まことの神と神の救いについて知ることは、決してできません。 だれも自分の頭でまことの神についての正しい知識を作り出すことはできず、いわんや、神が用意しておられるという救いについて思いつくことはできないからです。 ですからパウロはここで、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによると述べているのであります。聞かなければ、人はまことの神がどういうお方であるかを知ることができず、私たちのために備えられているという救いについて、人は知ることはできないからであります。 この世の思想や哲学は人間の内側から作り出されたものでしょうが、まことの神と救いについての知識は、神ご自身のがわから人間に示されるものであり、神の啓示の書である聖書から教えられる以外には知りようのないものだからです。 ですから、真理を知りたい、救いを見いだしたいと願う人はだれでも、自分で考えるのではなくて、まず、聖書は何と言っているのか知らなければなりませんし、聖書の語るところを聞かなければならないのであります。まず聞いて、そののち悟るようになること。これが正しい順序であると聖書は言っています。 旧約聖書の預言者たちは、イスラエルよ、聞け。あなたの神、主はこう仰せられると叫びました。イエス様もよく、聞く耳のある者は聞くがよいと仰いました。 聞くことなくしては、だれも知ることができず、知ることなくしては、だれも信じ受け入れることができないからです。 ここにいるすべてのクリスチャンが、だれかによって聖書のことばを伝えられ、それまで全く知らなかった世界の存在を知るようになって、クリスチャンに変えられていったのです。人から人への口づてに、この救いの知識は伝えられていったのであります。 聖書は、本の中の本。英語で言うと、「The book.」です。定冠詞付きの本と呼ばれておりますけれども、ともかくほかの本と比べようがない、不思議な本であります。それは明らかに人間の知恵を超えている本であります。 人間の知恵によって書かれたものであるならば、どんなに難しそうな内容であっても、所詮は人間の世界から生み出されたものとしての限界をおのずからもっています。 この世から出たものだから、この世の知恵に納まるものであります。しかし聖書は、この世の知恵の枠には納まらない本であります。 ですから、実に不思議なのです。聖書がほかに例を見ない本であり、不思議な本であるとは、難解な考えが書かれているからなのではありません。聖書の教えは、むしろ、子どもでも十分に理解できるような、単純なものと言えるかもしれません。 難解なことが尊い教えだと誤解しがちなこの世の知者たちには、あまりにも単純で、拍子抜けするほどかもしれません。 聖書が他の本と根本的に異なるのは、考えが難しいか易しいかという問題ではなくて、聖書が事実として書いていることがとても信じがたいような、私たちの常識をはるかに超えるようなことだという点にあります。 すなわち、教えではなくて、事実についての記述が摩訶不思議と言うか、他に例がない、何の億面もなしに次から次へと奇蹟の記事が出てくるからです。 聖書の最大の特徴は、それがたくさんの奇蹟を事実として記しているところにあります。そこが、それ以外の全ての本との決定的な違いであると言うことができます。 私たちは聖書に、真理と言われるものが示されている、救いというものが啓示されているというから、聖書を読もうとするのですけれども、否が応でも不思議な奇蹟を次々と行ない、また、普通の人間の語ることとは、いささか異なることを語るイエスという人に注目せざるを得なくなります。 イエス様を裁判の席でさばいた、当時のローマ総督ピラトがユダヤ人たちに対して、イエス様を指して、「さあ、この人だ。この人を見よ。」と叫んだとありますけれども、私たちは否が応でも、このイエスなる人を注視せざるを得なくなるのであります。 聖書を真剣に読む人は、このイエスという不思議な存在とぶつからざるを得ないのであります。 いったいこの人はどういう人なのだろう。いったいこれは何者なのだろう。結局、私たちが聖書を知ろうと思えば、このイエスなる不思議なる人格にぶつかっていくのです。まことに不思議なのであります。 ヨハネの福音書の5章の中で、イエス様は自分でこう仰っています。 ヨハネの福音書5:39
聖書は、わたしについて証言しているのだ。聖書を解く鍵はわたしにあるのだという意味でしょう。 いったいこのイエスなる人物とは何者なのだろう。心の貧しい者は幸いである。天国はその人のものだからですという不思議なことを言う方です。悲しむ者は幸いです。その人はなぐさめられるからです。 語ることばにも、確かに不思議な響きが感じられますでしょう。 普通の人はちょっと考えないようなこと、言えないようなことをこの人は確かに言っているのでありますが、何よりも、どうしてこのような奇蹟をこの人はするのだろうか。 どうしてこの人は激しく涙するガリラヤ湖の上を歩くのだろうか。どうして死んで四日目になり、腐っているはずのラザロを墓の中からよみがえらせることができるのだろうか。 聖書記者たちは本当のことを書いたのだろうか。彼らは作り事を書いたのではないのだろうか。だれもがこの理解できない聖書の記事の前に戸惑うわけであります。 聖書を読んで戸惑わない人は、一人もいません。いったいこれは人間に信ずることのできるものなのだろうかどうか。どういうふうにこれは解釈すべきなのだろうか。このことで悩まなかった人は、おそらく一人もいないはずです。 マタイの福音書の8章23節から。 マタイの福音書8:23-27
弟子たちは驚いたのです。いったいこの方はどういう方なのだろう。いったいこの人は何者なのだろう。 弟子たちは三年半くらい、このイエスなる、ヨセフの子と言われた大工、ナザレの大工をしていたという、このイエスという方といっしょに生活をしました。24時間、いっしょにいたのです。 この人の言うこと、なすことを彼らはつぶさに見ていたのでありますけれども、彼らは時々、この深い恐れにとらわれるのであります。聖書のあちらこちらにこれは出てくるのです。この人はいったいどういう人なのだろう。 イエスという人格の、ある不思議なと言いますか、神秘的なと言いますか、これがキリストの聖なるひとつの人格に彼らが触れるときなのですが、彼らの理解を超えた聖なる存在として、キリストの神性の啓示に彼らが出会うところが何ヶ所も出てくるのです。 彼らはそのときに、まるで見たことのない、全く知らない存在として、このイエスなる方の前に呆然として恐れるのであります。 おもにイエス様の12弟子たちですけれども、このとき舟に乗っていたのは、12弟子でしょう。 その弟子たちのうちの何人かは、もう生まれながらにしてガリラヤ湖を自分たちの庭のように育った漁師たちでした。ペテロ、ヨハネ、アンデレ、ヤコブ。彼らは漁師でありますから、嵐、突風に怖じ恐れたのであります。 しかし大工であるはずの、あのナザレのイエスは、安らかに寝息を立てていたことがほかの福音書を見ても分かります。イエス様はぐっすり寝込んでおられた。 漁師である彼らが恐れて、突然の突風に恐れて、深く眠り込んでいるイエスに、「私たちが溺れ死んでもいいのですか。」と言って、怖じ恐れたと書いてあります。 「どうして恐れるのか。どうして信仰がないのだ。」、イエス様は彼らにそう仰って、風と波とを叱りつけ、それらは治まったのであります。自然現象をもご自分の命令で服すことのできる、この人はいったい何者だ。驚かざるを得ません。 イエス様のこの弟子たちはイエス様のことばや教えに驚くこともないわけではありませんでしたが、しかし多くの場合には、イエス様の語りたい本当の意味を理解できませんでしたから、きょとんとしていることが多くありました。 この12弟子たちはお互いの間で、だれが一番偉いかというようなことばかり、席次争いばかりをする、ただの庶民でした。ただのそういう人たちでした。ですから、頓珍漢なことばかりやっているということが福音書を読むとわかります。 イエス様は本当にこの弟子たちを見ながら、いつになったら彼らの目は開かれるのだろう、いつになったら彼らは真理を知るようになるのだろう。イエス様は非常に忍耐強く、この三年半の間、弟子たちを導いていらっしゃることがわかります。 イエス様はそういう意味ですばらしい教師であるということもわかるのですが、とにかく弟子たちは、イエス様の言っていることとは正反対のほうを向いていることがしばしばでありました。 マルコの福音書の9章30節です。 マルコの福音書9:30-32
やっぱり彼らはこのことを聞くのを恐れていた。イエス様のことばに彼らはこういう恐れを感じたり、驚いたりしていたということも聖書は言っています。 マルコの福音書9:33-34
ちょっと恥ずかしかったのでしょう。だから彼らは返事できなかったのであります。 マルコの福音書9:35-37
ほかの個所では、イエス様は、この幼子のように、自分を一番低くする者が、一番高いのだ。と弟子たちに仰ったと書いてあります。 弟子たちはこういうふうに頓珍漢でした。 マルコの福音書10:23-27
彼らは、ますます驚いて互いに言った。こういうふうに弟子たちは、イエス様のおことばの意味が分からなかったり、ある場合には、非常に驚いたりしています。 しかしイエス様のなさる奇蹟を体験するときには、恐怖のあまり、叫び声を上げたのです。それは彼らの理解をあまりにも大きく超えることだったからです。 人は全く理解を超えた事態に突然直面すると、精神に混乱をきたしますから、パニックに陥ります。どう対応したらいいか分からないから、人は精神に混乱をきたすわけであります。弟子たちはしばしば、このようなことを表わしています。 マルコの福音書6:45-51
この前の個所にイエス様は、4,000人ですか、5,000人ですか、男だけで数千人の人々に、5つのパンと2匹の魚と書いています、干し魚でしょう。それを与えて、人々は満腹し、その残りを集めると、12かごでしたか、それにいっぱいになったということがその前に書いてあります。 こういうことを書いているのが聖書だということなのであります。これは、何か人間があることを説得させようとして、理解させようとして書いているという、この世の書物とは違うわけでしょう。 いわば聖書は、人間にとってはもう、腰を抜かさんばかりの、実はこういう事実を示している本であるということであります。 目の前で見ていた弟子たちがしばしば、それこそ腰を抜かしそうになるわけですから、その記事を読む人々がどうしてこれを理解し、納得できるのでしょうか。 要するに彼らは、この世の人ならぬ人、この世とは別の世界から来られた人を見ており、接しているのにも関わらず、そのことに気が付かず、イエス様をこの世の人だと考えているから、どうしても理解できないで混乱しているということであります。 実はイエス様は繰り返し、ご自分がこの世から出たものではないこと、天から下って来た方だと言われているにも関わらず、弟子たちにはそれはもう何の意味か分かりませんでした。彼らはやはり、ひとりの偉大なラビとして、このイエスなる方を見ていたのであります。 不思議な人格をもっていて、確かに一度この方に触れると、人はこの人から離れられないと言いますか、ある不思議な吸引力をもっていたのでしょう。彼らはもう、すべてを放り出して付いて行く。それだけの思いにさせられたのですから。 キリストのまなざしに触れる人は、そういうものを感じたようであります。しかし、やはり、彼らはこのイエスなる方をひとりの偉大なラビとしか理解できなかったのではないかと思います。 すなわち聖書は、このイエスという方を通して、この世とは異なる永遠の世界、神の国の存在を私たちに啓示しようとしているのだということであります。 この世を超えるところの、この世とは別の次元の世界というのが存在するのだ。そこからイエス様はこの地上に来ておられるのだ。このことを理解させようとして聖書は私たちに語りかけている本にほかならないのであります。 ところが、この世しか知らない、この世がすべてだと考えるよりほかにない私たちにはいくらこの聖書が私たちに色んな事実を通して、この世を超える世界の存在を示そうとしても、なかなか受け入れることができない。 だからこの奇蹟の記事は事実ではないのではないか。何かの例えとして、一種の比喩なのではないかというふうに考えようとする人々がいつまでもあとをたたないのです。 聖書がこの世界を超えた世界の存在について、実はわれわれに証ししているのです。イエスという方がこれから文字通り、異次元の世界から来ていらっしゃるわけであります。 イエス様は三日目に死なれましたけれども、よみがえって、弟子たちの見ている前で天に上げられたと聖書は書いてあるのです。 イエス様は2,033年前、2,000年前から、歳を取っていらっしゃらないのです。時間と空間の外側に存在なさるらしいのであります。 私たちは時間と空間の制約から決して逃れることは出来ませんけれども、この世界を創造された方は、この時間と空間の制約の外側にいらっしゃるのだ。 ペテロが言っているように、主にとって1年は1,000年のごとく、1,000年は1年のごとくであると彼は書いていますけれども、そういうものなのだ。ペテロはのちにこのことを悟ったのです。彼の手紙はそう書いてあります。 イエス様がガリラヤ湖の水の上を向かい風で進めない、あの舟の側を通られるときに、ペテロは大声を上げました。ペテロ自身もイエス様の招きによってガリラヤ湖の上を歩いたと書いてあるのです。 まさに聖書というのは、もうわれわれのこの世の常識をはるかに超えるものであります。 だから聖書は私たちの単なるこの世の理解力、常識、常識の枠内に収まらない、その事実をあえて繰り返し、繰り返し私たちに突きつけていると言えるわけであります。 ヨハネの福音書1:10-11
ヨハネの福音書1:14
ことばが人となって、肉体をとって私たちのこの地上に来てくださった。これが聖書の言っていることです。 ヨハネの福音書3:12-13
ヨハネの福音書3:31-32
聖書にはいっぱいこういう記事が書かれております。6章をもう一ヶ所見ましょうか。 ヨハネの福音書6:38
ヨハネの福音書6:51
わたしは天から下って来たのだ。地から出た者ではないのだ。イエス様が何度も何度も、こう語っていらっしゃるのですが、人間は、そんな馬鹿なことがあるはずがない。あなたはナザレのイエスではないか。この世から出たのではないかと言うわけです。 イエス様は、聖書が言っているように、神のことばが人となってこの地上に来られた方である。すなわち、生ける神の御子キリストなのである。聖書が言いたいことはそのことであります。 事実ペテロもイエス様を、あなたは生ける神の子キリストですと言いながら、生ける神の子キリストとはどういう方か分かっていないから、どうにもならなかったのであります。マタイの福音書16章13節を見てください。 マタイの福音書16:13-17
マタイの福音書16:21-23
尊敬する大切なあなたが、そんな十字架に架けられ、殺されるなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがありません。 ペテロにしたら、心からの尊敬と愛の表現でイエス様をつかまえて、いさめたのですが、「下がれ。サタン。」とイエス様に随分厳しいことを言われたのです。 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」、あなたの愛情は肉的な愛情なのだ。あなたがわたしを愛し、尊敬しているのは分かるけれど、それは人としての愛情なのだ。それとは別なのだ。イエス様は、「下がれ。サタン。」とペテロに仰ったのです。 ペテロはおそらく、何の意味か分からなかったと思います。こんなに叱られて。「悪魔よ。退け。」というのですから。ペテロの背後に実は悪魔が、イエス様の十字架への道を妨げようとして働いていることをイエス様は見抜いていらっしゃったからです。 結局、「あなたこそ生ける神の御子キリストです。」と言い、イエス様に「バルヨナ・シモン。あなたは幸いだ。」と喜ばれたそのあとで、「下がれ。サタン。」と言われている。要するに、訳が分からないのであります。 結局明らかなことは、どんなに目の前でイエス様の奇蹟を繰り返し見せられ、どんなに多くのことばを聞かされても、それだけでは心の目、霊の目、信仰の目は開かれないということであります。 肉の目でどんな奇蹟を見て、肉の耳でどんなに多くのイエス様のことばを直接聞いても、人には悟ることができないのであります。何とも悲しいことであります。 私たちの持って生まれているこの肉なるもの。生まれながらの理解力と霊なるもの。私たちの心を開いて、聖書の真理を見させてくれる、その理解力とは、全く別の次元のようです。 いったいどうしたら、この奇蹟の書、聖書を人は信ずることができるのでしょうか。だれも分からないのです。ただ、何とか、聖書が語っている真理を知りたい、救いを見いだしたいと願って止まない人だけが、この不可能と思える鍵を開けることができるようであります。 マルクス主義者からクリスチャンになった、あの作家の椎名麟三は、絶望のあまり首を吊ろうとして、三回とか四回、縄の中に首を入れたことはあるけれども、もう、死ぬことは出来なかった。彼はこう書いています。 絶望とは生きることも死ぬことも出来ないことだと。椎名麟三といったら、ぼくは本当に絶望ということの、そのどうにも出来ないそのことに苦しみぬいた人だと思います。 マルクス主義運動のために逮捕され、戦前でしょう、獄中で拷問を受ける。そういう経験から彼は、彼以上の凄まじい経験をした、あのドストエフスキーの作品にふれるようになります。 そしてドストエフスキーの作品の背後に、不思議な光が、これは聖書なのだ、聖書からその光が来ているということに気がついて、椎名麟三は聖書と必死の格闘をしたようであります。 あの旧約聖書のヤコブ、絶望の暗やみの中で一晩中、神様にしがみついて格闘したと聖書が言っている、あのヤコブのように、彼は聖書と格闘したようであります。 そして、どうしても信ずることの出来なかったキリストの奇蹟の記事、彼はそれをルカの福音書の24章だと言っていますが、復活されたイエス様が弟子たちの前に現われて、彼らのために用意していた魚を一切れイエスが食べたという記事がありますが、そこを読んでいたとき、今までどうしても受け入れられなかった聖書の奇蹟の記事が自分の心の中にスーッとはいって来た。 椎名麟三は彼の証しの中でそういうふうに述べております。 要するに、何としても救いを見いだしたい、信ずることができるものなら、何とかして自分も信じたい。そういうふうに心から願う人だから、彼は救いを見いだしたのであります。 彼は求め続けたから、彼は得たのであります。たたきなさい、そうすれば開かれるとイエス様が仰ったとおりです。求め続けることによって、聖書と正面から取り組むことによって、彼の頑なな心は砕かれていったのでしょう。 人間の知恵を一番高いところに置いて、人間に理解できないものは存在しないものであるかのように考えている、その過ち。 人間の理解力はどんなに小さいものであるか。そういうことを彼は聖書と向き合うことを通し徐々に教えられていったと思います。謙遜にされ、そして自分の数々の罪を彼は自覚するようになり、悔い改めて信ずる者へと変えられたのであります。 聖書は、聖書と正面から向き合う者を、その者にさまざまな試練を、訓練を与えられます。神はご自分に近づく者にむちを加えられると書いてあります。 人間の全く思い違いをしているそのこと、自分が何か大した者であるかのように人間はみな錯覚しているわけですけれども、それが神様の前にちり灰に等しいような者であるということに人は気付かされなければいけない。 そして初めて聖書の世界というのが、どんなに偉大なものであるかということに目が開かれていくわけでしょう。 ですから私たちは、勇気をふるって聖書の真理と向き合わなければならないのであります。聖書はそれに近づく人の本当の姿を明らかにしていきます。私たちがどのような人間であるかを聖書は暴露していきます。しかし、それに私たちはひるんではいけません。 自分がどういうものであるかを正面から見る勇気を持たなければいけません。ごまかしを捨てなければいけません。然りと然り、否を否という、イエス様が仰っているそのとおりに私たちは自分をしっかり見なければいけません。 それは私たちをいやして、罪から救うために必要なこと。どうしても必要なことだからです。 人間の最大の問題である死に対しても、打ち勝つことのできる真の勝利を得させるもの。聖書はそういうものだからです。だから恐れないで、私たちは聖書と向き合わなければならないのであります。 懸命に、ひるむことなく聖書と向き合う人は必ず真理が何であるかを悟るようになります。 人生において一番すばらしい宝物を見つけ出したと、心から喜ぶ者に変えられていくからであります。 最後に、テモテへの手紙第IIの3章15節です。 テモテへの手紙第II、3:15-16
是非、聖書が何を言っているかを知ろうとしていただきたい。そのことをお勧めいたします。 |