引用聖句:コロサイ人への手紙2章15節
先月は、雨また雨、また雨、今月に入っても雨がばかり降りましたが、今日は、あったかな日で、感謝であります。 おはようございます。 今の兄弟は、まだ私が学生の頃に、初めて聖書研究会に迷い込んで行った時の、私の信仰の先輩であります。 色々と、こういう本を読め、あぁいう本を読め、と言って色んな先達たちの証しや、信仰の書物の多くを教えていただき、本当に長い、主にある交わりに頂いている兄弟であります。 突然、司会をお願いしまして誠に、動転させまして・・、すいませんでした。そういうつもりじゃ無かったったんですが。(笑い) 今日は、その「イエスキリストへの無条件降伏」というのがテ−マであります。 救いっていうのはどういうことでしょうか? 一言で言いますと、イエスキリストへの無条件の全面降伏、これがですね、救いであります。 で、非常に簡単でありますけれども、ある意味で非常に難しい事柄であります。 救われるということほど、ある意味で簡単なことは無いと思うんです。しかし、ある意味において一番難しいこともまた救われる、ということであります。 何故ならば、私たちが一番降伏することが、嫌いなものだからです。ある意味では、自分の命を捨ててまで、降伏するのを拒むというのが人間の性質だからでもあります。 しかし、この世の中の何処にも希望を見いだすことの出来ない人、サルトンの戯曲の主題じゃないですけれども「出口無し!」っと、結論に達した人、絶望の中におののいている人、何処にも生きる望みと力を見いだすことの出来ない人、その人の為に備えられている、起死快勝、といいますか、起死快晴、といいましょうか。 救われるということは、人間的には惨めさの損底まで下るということであります。 イエスキリストを信ずることは決して格好の良いことではありません。イエスキリストに来る人は全部打ちのめされた人であります。 その誇りをうち砕かれ、面目をまる潰しにされ、そして、イエスキリストの下にひれ伏すのであります。ここにいらっしゃるクリスチャン達は皆そうなんです。 砕かれているから交わりが出来るんです。私たちは、キリストを信ずるということはですね。決して人間として誇るべき事ではありません。 人間的な、あるいは自分の一切の誇りを砕けかれる。これが、神さまの前で無条件降伏するということです。 今から、40年昔、といいますと、私が生まれた頃でありますけれども。まぁ、自分の生まれた頃でありますから全然知りません。 ですけれども私の生まれた頃ですけれどもね、ここにいられる年輩の方々は鮮やかに忘れる事が出来ないと思いますけれど、忘れようとしても、忘れる事は出来ないと思いますけれども、連合国が日本に突きつけた要求がですね、ポツダム宣言というのが、ご存じの様にですね、日本に全面的な無条件降伏でありました。 彼らの要求に一切屈する、屈するか。屈しないか。まぁ、文字通り、イエスかノ−か。これがですね、彼らが突きつけけた、要求でありました。当時の日本は断崖に立っていたと思います。 全ての人が、負けるということを知っていたと思うんですね。海軍などは戦う前から破れると、いうことを知っていたそうなんですが、とても勝てるもんじゃない。あんな大きな国土を持っていたアメリカと、どうして戦争して勝てようかと、思っていたそうですね。 あのぉ、山本五十六ですか、等はですね、はじめっから何ヶ月、じゃあ、暴れましょう。もう、後は、勝てないっていってたことですね。 始めから覚悟していたそうでありますけれども、世の中を知らない陸軍が、リ−ダ−シップをとって、ぐんぐん突進して、滅びに向かって行った様であります。 当時の日本に残されていた道は二つでありました。 100パ−セント敗北するすると分かっている戦争を、続行して、分かっていて、一億総玉砕するか。 当時は一億総玉砕ということが叫ばれていたそうですね。此処に当時の海軍士官の生き残りの兄弟がいらっしゃいますから、一億総玉砕、叫んだ方じゃないでしょうか?(笑い) 本当に、当時は、全部死ぬんだ、と言うことでですね、言っていた様であります。完全に破れると言う事はみんな100パ−セント知っている訳です。それでまだ、その道を行こうとするのか。 もう一つは無条件降伏して、国を連合国に委ねるか。どっちかだった訳です。 私は詳しい事を知りませんが、その当時の事を書いている人々の本のを読みますと、最後までですね、日本という国の名誉、面目を守り通して、絶対、無条件降伏をしないというのが陸軍の立場だった様ですね。 このポツダム宣言を最後まで拒否しようというのが彼らの態度だった様であります。 最後は御前会議という所にかかりまして、なが−−い、御前会議の後ですねぇ、天皇がこれを受諾する、最後の決断をなされたというのは、よく知れられている事であります。 ポツダム宣言がです5月ですか、あのぉ、ドイツが降伏をして、まぁ、たまたま、ベック兄がドイツ人で、私は日本人で・・・、ドイツにはまだ勇ましい人がいる様で、今度はイタリア抜きにやろうじゃないか、(笑い)と、あの、言って来る人もいるそうですけれども、(笑い)まさかそれは冗談ですけどぉ、(笑い)イタリアは早々に切り上げましたから。 あのぁ、兎に角、追いつめられてですね、ドイツが5月、彼らに全面降伏を要求され、それを飲む訳です。それから。ポツダムで宣言され、ソ連が参戦し、原爆が二発投下され、日本はジリジリジリジリ追いつめられて来るわけであります。 この、戦争のリ−ダ−シップを逃げっていた陸軍はその大儀名文をあくまでも撤回しない。自己の立場の正しさをですね、悪までも貫き通そう、というですね、立場であります。 今更どうして後へ引けようか。一度とった立場をどうして撤回できようか。まぁ、これは日本人としてのですね、伝統的な恥の心情であります。 一遍、言い出して、これをどうやって引けようか。昔の人は、男の一言鉄より固し、とカッコイイこと言ったそうですが、ですけれども、そう言うわけには行かないんですね。 この日本の硬直した心情と言いますか、これは日本の昔の武士から引き継いだものだと思いますが、これは本当にね強くある訳であります。 学生時代に観た映画に「日本の一番長い日」というですね、それをドキュメンタリ−風にですねぇ、この、つづった凄い良い映画だったと思いますけれども、それが有りました。 その推移をですねぇ、刻々と、二日か二三日だったでしょうか、それを描いている映画だったんですね。 御前会議が開かれて、当時の阿南陸総ですか、受諾を決定された、後に、帰って、自宅で割腹自殺するシ−ンが映画で描かれておりました。介錯もなしにですね、自分で彼が自殺をやります。 それは良く知られている話でありますけれども、まぁ、一種の阿南陸総なら阿南陸総、陸軍なら陸軍のとった態度にある、彼の選択の結果が現れている訳であります。その道を貫いて彼は死を選ぶわけであります。 それはそれで、一貫した道だとは思いますけれども、結局、そこにしか行き着かざるを得ないという事ですね、これは明らかなことでありました。 この当時の彼らが持っていたモノが何かといいますと、聖書でいいます自分の義と言う事だと思うのです。自分の面子なんですね、最終的にはですね、聖書では律法による自分の義とパウロが、繰り返し、繰り返し言いまして、義という名前を使いますけれども、その正しさとは最終的には自分の面子、自分の名誉、対面といいますか、そういうことにですねぇ、最終的に行き着く所に、聖書は自分の義という所に厳しい批判をしていると思うのですね。 一見正しさにこだわっているかと思うと、実はそうじゃないんです。正しさってことにこだわってないんです。 クリスチャンも正しいってことにこだわります。私たちは、正しいってことですね。 正しいということにですね、こだわるっていいますかね、それに 全存在を委ねるということはクリスチャンの立場ですが、この正しさと自分の義、・・・、自分の義ということからは、区別されなくてはならないと思うのですね、 その時の天皇陛下、今の欽上天皇ですが、御前会議で、国民の苦しみを忍びないで、一切を顧みないで、この無条件降伏を受け入れてた。ということであります。 会議で、ギリギリの問題になっていたのは要するにですね、当時の国体だということだったそうですね。 ただ、そこにだけは条件を付けよう、天皇制だけは存続させて貰いたい、というのが一つの条件だった様ですけれども。 ところが、それも連合国側が認めないと言う事ですから。それも敢えてですが、あのぉ、無条件に受け入れようと決断されたと、いわれておりますけれども。 天皇陛下とマッカ−サ−の会見ということも良く知られている事柄あります。 これは神さまのやっぱり憐れみだと思うのですけれども、マッカ−サ−というのは、敬虔なクリスチャナンなんですねぇ。 彼が子供に父の姿を覚えて貰いたい、と言ったのはですね、この世的に、総司令官とか偉い地位のことではなくて、自分が祈りをすること、隠れたところで、神に祈る、自分の祈りを忘れてもらたくないということが、子供達に伝えたことです。 この無条件降伏を受け入れたということが、今日の日本をあらしめていることなのであります。 戦争というこの世の事柄ですから、一方が100パ−セント正しくて、一方が100パ−セント間違いということはあり得ないと思うんですね。両方に必ず言い分があると思うんです。 ですから、後に開かれた東京裁判なんていうのも法理論上は多くの問題があるんじゃないかと思うんですね。正義の名において戦勝国が敗戦国を裁くというのは、それは、おかしいと思うんですね。 本来、第三者が両方を裁くというのは成り立つと思うんですれども、裁判の名において、正義の名において、裁いたといことはですね、多くの問題を含んでいたんじゃないんでしょうかね。 戦争の後で、ああいう裁判が開かれたのは史上始めてだと聞かされておりますけれども、ただ、本人が絶対、自国は正しいと、信じ込んでいたこと、これが悲劇をもたらした訳であります。 多くの悲惨な結果が出ているにも関わらず、自分が誤っているんではないか?というですね、反省をしなかった。これは、大きな悲劇を生みだしたんじゃないかと思うんですね。 当時の日本と同じように、私達は、全部、二つの道の一つにどちらかに立たされているんじゃないか、と、思うんです。 多かれ少なかれ、クリスチャンになった人々はですね、この二つの前に立たされて、自分自身の我を折って、ホントにですね、心とするその我を砕いて頂いて、キリストの下に、全く、無条件の降伏をしてクリスチャンになってく訳ですね。 だれもその門を通る事なしに、キリストの救いに預かることは出来ないのであります。キリストへの無条件降伏なしには、救いはあり得ない、この門を通ること無しにキリストの救いに預かることは出来ないのであります。 キリストへの無条件降伏無しに、救いはあり得ない。この無条件の全面的な降伏を受諾すること、これにハッキリとした調印をすること、これがクリスチャンとなることであります。 神は、私たちの、この、対面とかですね、この、自分自身の体裁とか、日本人の言っている面子とか言っていることを本当に嫌われます。これを、とことん神は砕いて取り除こうとされるのであります。 神さまの前に一番大きな障害物になっているのがこの誇りであります。面子であります。 何人かを見ていきたいと思います。 まず、旧約聖書、ダビデ王から見て行きたいと思います。サムエル記第II、12章・・・。4人の人を簡単に見て行きたいと思います。 人間の誇り、人間の高ぶり、人間の外面的な面目、そういうモノをうち砕かれるか・・・ サムエル記第IIの12章、ここはですね。ご存じの様に、ダビデ王がですね、姦淫を犯して、殺人の罪まで犯した、後の記事であります。 ダビデ王は自分の忠実な部下でありますウリアの妻バテ・シェバを盗りました。バテ・シェバを盗ってですね、姦淫を犯した為に、バテ・シェバは身ごもりました。そこで、ダビデ王はなんとかこれを覆い隠さなければいけません。 それで前線で戦っているウリヤを呼び戻して、その、何とか姦淫の問題を、隠そう隠そうとしますけれども、ウリヤはその手にのらないんですね。ホントにこれも主がなさっている。前後の記事をご自分で読んでみて下さい。 ウリヤは決して家に帰ろうとしない。私は、ですね、自分の部下が今、命をかけて戦っているのにどうして自分は家に帰れようか、どうして自分は妻の所へ帰れようか。と、言って、絶対帰らないんですね。 彼を酒を飲ませて酔っぱらわせて、なんとか家に帰らせようとする、なんとダビデという人は情けない、情けない様をさらしているか、ということを、私たちは知ります。 あのダビデ王すらさえ、なんと惨めなものであります。このウリヤの忠実な態度をですね、曲げることができないのですね。結局、ダビデがとった態度は、ウリヤを殺すしかなかったんです。 ですから、前線の総指揮官に向かって手紙を書いて、ウリヤに持たせます。それはウリヤを最前線に送り込め、城壁の近くまでやって、彼を戦死させよ。と、いうのがその手紙でした。ウリヤはそれを知らずに、持って行ってそして、そこで戦死をします。 そして、ダビデはですね、しっかり口をぬぐって、知らんふりして、バテ・シェバを自分の所へ召して平気でおります。そこに、主によって遣わされた預言者がナタンであります。 これが12章の1節から始まる所です。 サムエル記第II、12:1-14
まっ、これがナタンを通して主が語られたことでありました。 主は私たちの罪を知らない方ではありません。神の前に隠せおおせるモノはなに一つありません。神は必要とあらば私たちの全てを明るみに引き出されるお方です。 神の目をごまかすことは、誰にも出来ないことです。神が覆っていらっしゃるのは神の憐れみです。しかし、神はそれをあばかれるお方です。 ダビデ王はですね、全天下に彼の恐るべき、恥ずべき罪をですね、赤裸々に暴かれたのであります。これが聖書なんですね。 あの偉大な王であります。旧約聖書の半分位は、ダビデと関係するといわれております。聖書からダビデの名を取ったら、聖書は半分位になるだろうと、まっ、いわれているんですね。それほどに祝福された王ですよね。 神がいかにダビデを愛したかということは聖書のいたると所に書いてあります。 旧約聖書の中で最も神に愛された人といっても良いと思うんですね。ダビデは。ホントに驚く様な神の祝福を受け神の約束を受けた人です。 あなたの末から救い主が出る。あなたの大国は建つ、とこしえに揺るがない。と、までですね。神はダビデにおっしゃったんです。 そのダビデ王が、なんということでしょうか、神は容赦なくして、ダビデの罪を暴かれたのです。ホントに聖書とは恐るべき書物であります。 これは普通の歴史書だったらそうは書かないんです。最高の権力者のですね、そんな悪事を赤裸々に書くなんて事は無いんです。しかし、神は容赦なさいませんでした。 ダビデはこのことを通して、二度と自分自身を誇るということが出来なくなった人であります。ダビデは、決して自分自身が自ら誇り得ない者だ、ということをですね、骨の髄まで知らされた人でありました。 クリスチャンは多かれ少なかれ、そうじゃないでしょうか。 神は私たちの全てを知ってらっしゃいます。私たちが高ぶろうとすると、神はあざ笑われます。「私はあなたの全てを知っている」と、神はおっしゃいます。 ダビデは、ただ神がですね、自分に帰せられる権威だけを着る他に、方法のない者になったのです。 ダビデは自分から王として権威を持って振る舞おうとはしませんでした。ダビデには、もうその資格は無かったからです。ダビデはとことん主の前に砕かれた人物だったんですね。 あれだけの王国を持っていた人です。ホントにその当時のイスラエル王国というのですね、あのエジプトの近くから、今のイラク辺りまで、勢力を持っていました。当時の第一の帝国でした。 その王が民の前に、とことんに砕かれて、彼は荒布をまといですね、主の前に悔い崩れています。 彼の詩篇を読んでみて下さい。ホントにそこに、ダビデのうめきが、嘆きがですね、書かれています。 ダビデは幼子の様に、赤ん坊の様に、主の前を歩む他ない人でした。全ての飾り気を捨てて、見せかけを捨てて、本当に全てを知ってらっしゃる神の前にひれ立つほかない人と変えられたのです。 主は愛する者を時々そうされるのです。 主は愛されるから私たちを二度と誇ることのない様に厳しく打ち据えられる方であります。 このダビデはイスラエルの第二代目の王でした。その前が有名なサウル王でした。 サウル王は、聖書をご自分で読むと分かりますけれども、当時のイスラエルの民達が、他の国々の様に、王を立てて欲しいと厳しく要求してやめませんので、預言者、サムエルが悲しんでですね、 「あなた方の王は神ではないか。神なる主があなた方の王として君臨しているではないか。」と、これをやめさせようとしたのですが、当時のイスラエルの民達がどうしても王が欲しいというので、選ばれたのが、サウル王でした。 並ぶと人より肩が上、高かった、偉丈夫だった様です。 ところが、このサウル王の歩みにおいては、大きな問題を抱えておりました。 サムエル記第Iの15章、15章の1節から。サムエルですね、サムエル記と書いてあるサムエルですけれども、優れた当時の預言者です。 イスラエルを神の言葉を持って治めたところの偉大なる預言者ですけれども、このサムエルによってサウルは選び出されて来るわけですけれども。 サムエル記第I、15:1-3
7節までとんでください。 サムエル記第I、15:7-12
この戦争で勝利してたサウルは、もう、カルメルへ行って自分の記念碑を建てようとしていました。 サウルはもう、神がアマネク人の全てのものを聖絶しなさい、殺しなさい、全てのものは生かしておいてはいけない、とおっしゃったんですけれども、サウルは適当にそこから最も肥えた羊、牛というような、いいものはとって、他のものは殺したんですね。 こういう風に、主のおっしゃる言葉に対して、実にこのサウルという人はですね、割引をして、平気でおるんです。 主の言葉の重みということを、弁えないというのがサウルの特徴の第一として知られるところです。 彼は適当に判断をして何とも思っていませんでした。 13節見ると、 サムエル記第I、15:13
なんとも思わないんですね。 サムエル記第I、15:18-21
21節でサウロは、民がそうやったったのだ。と、書いてありますね。 9節では、しかし、サウロと彼の民はと書いています。聖書は、サウロがそれをやったとハッキリ書いてあるんですね。 サムエル記第I、15:22
サムエル記第I、15:24-30
このサウル王の問題点というのですはね、彼が、本当に第一に主の神のみことばの重さをわきまえないということです。割り引いていっこうに平気でいるということであります。 第二には、このサウロは民を恐れますけれますけれど、神を恐れないてことです。 民の前にたっておるんですね。サウロは神の前に立ってないんです。 人々、人の前に立っておるんです。ですから、私の対面を保つように、今はそれを公にしないで、なんとか私の対面を立てさせて下さい。神が離れて行くのを、彼は極度に怖がっているんですよね。 民を率いるように、民を治めるように、彼に命令されたのは神、ご自身です。神がそのことを命じていらっしゃるんですから、別に、心配することは何も無い訳なんですね。 サウロは自分で王になった人ではありません。神によって、立てられた人です。ですから神が全ての責任を持をとって下さるはずです。 ダビデ王はそう言う態度を取りました。ですから、ダビデは神のご機嫌を取ろうとか、民を恐れるとかいうことは無かったんですね。ただ、主の前に立つことでありました。 ダビデは自分の罪を、満天下に明らかにしたのです。そしてそれにより、本当に砕かれたんです。 しかし、サウロはそうじゃなかったんです。彼は本当に、主の前でなく、いつも人の前、人の前にですね。王としての対面を、王としてのですね、対面を保とう、保とう、と、していた人ですね。まぁ、ここにサウロの悲劇の原因があるんです。 私達が人の前に立つ限り、私たちはいつか、必ず倒れます。間違いのないことです。 主は必ずですね、私たちにその時を与えられる。 わたし達が、神を恐れないで、人を恐れている限り、わたし達は本当に、やってくる時があるのです。 第三番目は新約聖書のペテロであります。ペテロの記事はマルコの福音書、14章、ちょっとみて下さい。 26節から。これは最後の晩餐の終わった後の記事であります。26節、 マルコの福音書14:26-31
ここにですか、ペテロという人の過信といいますか、思い上がりといいますか、肉という性質は、みんな、そうですが、この肉なるペテロの性質が良く出ているんですね。 マルコの福音書14:29
他の弟子達とは、私は別です。私は別格ですよ。と、言うんですね。 ペテロはイエス様に言っているんですねぇ。イエス様は、そのペテロをですね。本当に今にも倒れそうなペテロの姿を良く知っておられました。イエス様の目にはもうすぐペテロは倒れる、ということがこの言葉によって分かったのであります。 他の者がつまずいても、私は大丈夫です。こうしたものがどうして、つまずかずに、おられましょうか。(笑い) 主は、直ぐにそのことに対して、言い返されたんですね。 マルコの福音書14:30
イエス様の目には、肉なるペテロを赤裸々に見ていたんですね。霊のまなこは恐ろしいものです。わたし達のある本質を赤裸々にするからです。 このペテロはですね。66節からちょっと見て下さい。 軍隊達がですね、手に手に松明を持って、剣を持って殺到してきます。そうするとですね、全く彼らは度を失って、まず、逃げるんですね。14章の50節に マルコの福音書14:50
ところがですね。他の弟子達と違ったところが確かにあった。 ペテロはですねぇ、みんないっぺん逃げたんですけど、もういっぺん気力を奮い起こし、彼は主について行こうとしたんですね。確かに、彼はさっきのこと、覚えていました。 まだですね。これでは参らなかったんです。ですから、ペテロは大祭司の家の中まで入って行ったんです。イエス様が連れられて行く。そおっと、忍び込んでいきました。 66節、その前にイエス様が、唾をかけられたり、顔を拳で殴られたりしております。 マルコの福音書14:66-72
ペテロ自身が本当に砕かれた時がこの時でした。人間の肉なるものといいますか、人間というものは当てにならないものです。 ペテロ自身もこんなですね、惨めなみっともないことをやるとは、ついさっきまで思っていなかったはずなんですね。 人間はだれでもそうです。ある時にですねぇ、とんでもない所に倒しめられると、全く訳の分からないですね、自分ではとてもそういう人間だとは思わなかった様なことを平気でやる様なものだと思います。 ですから、自分はそういうことなんかしない。絶対、どういうことがあってもそうじゃない、というのは、それは違うんです。 肉はそうじゃありません。肉なる弱さをさらけ出しているペテロがそこにおります。 彼自身がその時になって初めて、自分がそういう者であるということに気づいている訳なんですね。呪いをかけて、キリストの名を否んだ。これがペテロのやったことなんですね。彼は鶏が鳴いた時、「はっ!」と、我にかえったんです。 そして、イエス様のおっしゃったことを思い出してですね、彼は泣き出したんですね。大の男が・・。ペテロはこの時に、本当に、ま、泣いたのであります。 イエス様は、このことを通してですね、ペテロよ。肉の弱さということを良く覚えておきなさい。肉に立つ限り必ず倒れるのだからこの失敗を忘れてはいけない。この恥をしっかり覚えておきなさい。いつも低くなっていなさい。と、ペテロに仰っていると思うんです。 ペテロは12使徒の頭でした。ペテロは後にですね、その人達の柱になり、全キリスト教会の柱になった人でした。しかし、その為にはペテロは本当の意味で、低くなっている必要があったのだと思います。 ペテロが本当に二度と高ぶる事がないように、主はですね、彼にこの厳しい経験を与えられたんじゃないかと思うんですね。 本当に人の上に立つのであれば、誰よりも低くならなければいけない。主はいつもそういう風におっしゃっています。 御霊や聖霊は、わたし達を低くされるお方であります。肉は私たちを高めようとします。 しかし、そこに立つのであれば、わたし達はペテロと同じ様な、失敗をやるのであります。 こともあろうに救い主の名を、呪いをかけてですね、否定する、否認するということは、ペテロにとっては終生忘れることが出来ない事柄であったはずですね。 他の人達が本当に愛を持って彼を受け入れたから、ペテロは立ち返れたわけです。酷いのだったら、「あんたはもう資格なんかない」なんて言わたかも知れません。しかし、勿論、当時のクリスチャン達はそういうことを言いませんでした。 ペテロは人間としての資格を失っているのも同然でした。ダビデ王が、かつてのダビデ王が、王としての資格を失った様に。 しかし、神はペテロを、むしろ人達の頭として引き上げていらっしゃり、そして、兄弟姉妹方は、彼をですね、主がその様に定められたことを認めて、以前の様な尊敬を持って、ペテロを受け入れたのであります。 ペテロにとってこの経験はどうしても、必要なことの様であります。まぁ、悲しいこの体験こそ、ペテロを主の真の僕たらしめたのであります。 四番目はパウロであります。 まぁ、パウロは、ご存じのように。クリスチャン達の迫害者でありました。その名前は、始めはサウロといいました。何故ならこのパウロはベニア民族の生まれだったからです。第一代目、初代の王のサウロを誇りとして、おそらくつけられたのが、サウロだと思うのですが、サウロのユダヤ名がパウロでありました。 このパウロはですねぇ、また、ユ二−クなタイプの人間だった、と思うんですね。彼は非常に意志の固い、何事にも徹底して止まない所の人だった様であります。 ですから、ある意味でパウロは確信犯なんです。非常に徹底した確信犯です。自分のやっていることには間違いない。昔の神国日本だったと思うんですね。非常に徹底した確信犯で、彼は自分の事の全てをかけた人だったんですね。 自分の立場の正しさに全てを信じて、そのことに全てをかけることの出来るまぁ、そういう人だった様ですね。 このパウロに皆さんご存じの様に、ダマスコの古城でイエス様はご自分を表して下さいました。ちょっとついでに開いてみましょう。 使徒の働き9章。使徒の働きの9章1節から見て下さい。 使徒の働き9:1-9
まぁ、これは良く知られている、ダマスコ途上のパウロの回心の出来事であります。イエスキリストはこのパウロに驚くべき方法をとってご自分を啓示なさいました。パウロは確かに外的にその太陽よりも強い光によってうち倒されましたけれども、同時にパウロのですね、心の中には、神の救い真理の啓示が満ちあふれたと、思うんです。 パウロの生涯というのは、この時の経験ですね、この経験を確認し、この時のことを深める以外のものでは無かった、と、ある人は言っていますが、その通りだと思うんですね。 イエスキリストとの出会いの時に、瞬間に、パウロは、驚くべき真理、神の救いの奥義といいますか、それを示されている訳です。 パウロはこの出会いによって、自分の義と神の義がどの様に違うのか。律法による義と信仰による恵みの義ですね。 信仰によって義とされる義とは、どんなに違うものか、天と地の開きがあると思うんですね。 本当にですね、パウロという人は、自分の正しさを疑うことを知らなかった人です。 義、自分が正しいという思いが、なんと、自分の全存在を狂わせてしまうか。と、いうことをパウロは知った人じゃないかと思うんですね。 罪というモノが、人間の、人間の全存在を、判断力から一切のものをですね。狂わしてしまう、ということは、パウロが一番経験したことじゃないでしょうかね。 神の為に自分の全てをかけてるつもりで、神に対する敵対者と、なっていたのがパウロですから、なんというパラドックス、逆説じゃないでしょうか。 神に自ら逆らっているという気持ちは無かったんですね。パウロには。パウロは神の為に自分は捧げ尽くすと思っていたんです。そのことについては、疑問の予知がなかったんです。 しかし、結果は、やっていたことは、神への敵対者、キリストへの敵対者ですね。 彼はクリスチャン達を迫害し、ステパロの死刑の時には、その責任を負っている者の一人でした。 ですから、そういう意味では、厳しく言えば、クリスチャンの死に対して責任を負っていた人。殺人としの罪を責められても、仕方のない人だったはずです。 ですから、パウロもですね。そのことを終生忘れませんでした。「私はかつて、神に対する、キリストに対する敵対者だった」と、テモテの手紙の中に書いています。 その様な者を知らないでしたことを神は憐れんで下さった。と、書いてますね。本当に、パウロも自らを終生誇れる者とさせらえたのでした。 パウロはある手紙の中で、私は、この、キリストのですね、福音の証印といいますかね。この焼き印を身に帯びている者だと、書いていますね。 本当に、パウロは自分のやって来たことを思うと、主の憐れみだけが、自分をこの世にあらしめる、ということをですね、認めたくなくとも認めざるえなかった人だったんじゃないかと思うんですね。 まぁ、簡単に四の人のことを取り上げましたが、私の言いたいことはですね、イエスキリストへの全面的な、無条件的な降伏、これこそが信仰の決断であります。そして、この決断を通してだけ、わたし達に真理と救いの門が開かれるのであります。 わたし達は別に色々なことを考えることありません。多くの本を読む必要はありません。 天の救いを見いだすために、天の高きに上る必要ありませんし、海の底に下る必要はないと聖書の中に書いてあります。 わたし達に必要な事は、全面的に主を受け入れる。主の前に白旗を掲げる、ということなんです。 何年も、何年も、みことばを聞いて、一生懸命聖書を読んで、何をするかといったら、同じことをするんです。 神さまの前に「憐れんで下さい。私はもうですね。他に道がありません私はただ、滅びにに行くか、救われに行くか、どちらかです。」 「そうぞ、憐れんで下さい。」これが最後の信仰に入る入り口です。 無条件の降伏をします時にですね。私達はそこの、神の偉大さ、永遠の命、神の命が溢れていることに気づきます。これこそが真理だという確信を持つんです。 わたし達は言葉でそれを言い表す事は出来ませんけども、本当にですね、ここにこそ真理がある。 私がホントに、自分の惨めさ自分の罪を認めて、諸手を挙げて神さまの前に降参する時にだけ、命の道が開かれて来るのだ、ということを知ります。それ以外に方法はありません。 そして、また、クリスチャンとしてですね、私が歩む歩みも同じ様に、日々ですね、イエス様に無条件降伏するというと、言った意味じゃないでしょうか。 パウロは、そのロ−マ人への手紙の中で有名なですね、「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」と、書いてありますが、信仰に入る福音によりですね、救いをうけるのも、ただ信仰によります。全面的な無条件によります。 同じ様にわたし達の歩みもただ無条件降伏によるものじゃないでしょうか。 「信仰に始まり信仰に進ませ。」わたし達は何時も神ご自身の前にギブアップすべき者であります。 私たちが自分の悩みや苦しみといったものを解決する時に、私たちは誤解をしてですね、主がその問題を解決してくれる様に思いますね。しかし、聖書がいっていることは、問題それごと主に渡しなさい、ということなんです。 主がその問題を解決されることを待つのではなくて、問題それごと主に差し出すことです。全てのことですね。 わたし達の問題ではないんです。もはや、何時までも自分で自分の問題を抱えておく必要はないんです。 人生の問題でも何でもです。家庭の問題でも、一切の問題を自分で抱えている必要はありません。わたし達は、もう無条件降伏した限りですね、もう、その問題を自分自身で抱えている必要はないのです。 その資格も実はないんです。わたし達全てのものはキリストご自身に差し出すものだと思います。 イエスキリストが御胸のままに処理されますから、その処理されることをわたし達は手伝えば良いのでありますし、それを見させて頂ければ良いのであります。問題それごと、主に捧げること、であります。 クリスチャンは幸いなことに、キリストとの出会いの経験というモノを多かれ少なかれ持っています。 わたし達の人生で一番、大きな出来事、忘れようとしても忘れることの出来ない出来事、わたし達の魂に深く刻まれて消すことの出来ない事、と言えばイエスキリストとの出会いであります。このことによって、わたし達は信仰の内によって歩むことを保たれているのであります。 大切な事は、本当に、無条件降伏すること、また、この聖霊の導きの下に留まり続けることではないでしょうか。わたし達が、我が儘勝手にこの聖霊の導きから、飛び出してしまうと、わたし達の日常生活は、もう混乱をしてきます。 力も喜びも、何もなくなります。荒野の様な人生に逆戻りしてしまいます。 この信仰の領域、主の守りの御手の外に飛び出さないこと。主のご慈愛の外に出て行かないこと。このことは、わたし達に非常に大切なことでは無いでしょうか。 そして、御胸がハッキリしていれば、わたし達は、断固としてその道を選び取るという必要があると思います。 何時までも、示されている御心に対して躊躇していると、疲れ切ってしまいます。 わたし達はどんなに苦しい時でも、どんなにそれが自分にとって厳しい耐え難いことであっても、ハッキリとした御心が示された時、それを選び取るべきです。 もし、そうするのであれば、わたし達は、力を得ることが、出来るのであります。 信仰に立つ決意でありますね。 わたし達は、打ちのめされるのではなくて、本当に主からの力によって、力強く、歩む事が出来るのであります。 時間になりました・・・ |