引用聖句:マタイの福音書4章1節-11節
今日は。しばらくみことばからご一緒に考えてみたいと思います。 今、兄弟がお父さんのことを話されましたが、お父さんは、実は医療ミスで両足切断という、考えられないようなことになられたお方で、私は半年の間で三回くらいお会いしましたが、威厳に富んだ、なかなか生来の性質は頑固な方だったろうなと、思わされるお方でした。 高校の校長を長い間務められて、相当多くの部下たちを率いてこられたらしい、いかにもそういうお方でしたが、われわれの想像を超えるような事態に遭って、本当に一言もご自分の病については洩らさなかったようであります。 じっとして、自分に突然降りかかった、思いがけないことを受け入れておられました。最後にお会いしたときも、もう全部わかってらっしゃるなという感じがしたんですね。切断された両方の膝を、こうして振って、人が来たら歓迎の意を表すって姉妹が言っておられましたけれども。本当に全部わかっておられて、神さまのなさっていることについて、私たちは、本当に言葉もないっていう感じがしたんですね。 ご家族の方々は、それをまざまざと見せられたわけであります。主のなさることが、人の思いを超えていると。 話は全然違いますけれども、アメリカの大統領にブッシュジュニアが就任いたしましたけれども、いわゆるファーストレディになった彼の奥さんの趣味が、ご主人とはまったく異なって、静かに読書することである。特にロシアの文豪ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が愛読書であるということが、何度かマスコミで報道されていました。 今のこの時代に、しかも女性が、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を愛読書とするというのは、私たち聞いていてちょっと意外であると言いますか、いささか驚かされるような気がしたものであります。 というのは、ドストエフスキーという人は、十九世紀後半のロシアの有名な作家でありますけれども、人間の内面にある底知れない闇を見続けた人。この人生に横たわる、深い淵を示し続けた人と言ってもいい。とても面白く読むとか、気晴らしに、息抜きに読むなどということにはいかない作品であります。 彼の作品の名前ですね、「罪と罰」とか、「地下室の手記」とか、「悪霊」とか、「死の家の記録」とかいうような、彼の作品の題名を見ただけでも、これは気楽な本ではないということは見当がつくんですね。 シベリア流刑という、自分自身の極限的な状況での体験を通じて、彼はトルストイのような人道主義的ヒューマニズム、自己完成を目指す理想主義では、人生問題は解決できないということを、痛切に知った人だと言われています。 ドストエフスキーの小説が、非常に暗くて、重いのは、人間の心の深層に隠されている悪魔的なものと、その欲的たる根源、罪という問題を追及してやまず、それを読者の前に彼が突きつけてくるからでありますが、それは読む者自らの内にある狂気と紙一重の世界に気付かせるのであります。 彼の描く人物の多くは、狂気と紙一重の世界にいる人であり、誰もが物事を突き詰めていくと、その世界に入って行きかねない、そのような恐れを読む者に与えるわけであります。 ドストエフスキーは、ただ悪趣味で人を恐れさせるために、そのような人間の正気と狂気の狭間を描いたのではなくて、人間が気が付こうと気が付くまいと、人間とはそのような存在であり、そのような深刻な問題を抱えている者であるということ。 そして、そこからの救いがどこにあるかを、自分の全存在のかかっている問題として、彼は追求しているわけです。だから読む人を、彼の作品はみんな圧倒してくるのであります。 彼が社会主義運動に関わる政治犯として、シベリアに流刑されたときに、彼が手に入れた一冊の本、それが新約聖書だったと言われております。彼は四年間、その牢獄の中でひたすら新約聖書と向き合ったと言われてるんですね。 彼は文字通りの、この世の地獄のようなところで、新約聖書一冊と向かい合い、そこでまことの神、まことの救い主に出会うわけであります。ですから彼の小説の中には、よほど聖書を知っていないと理解できないような箇所が、非常に多く出てきます。 私などは、聖書を知らずして、学生時代に彼の小説を幾つか読んでみて、今改めて開いてみると、全然実は分かっていなかったなという気がするんですね。結局それは、聖書のテーマ、それを徹底的に彼は追求していくからであります。 戦後、マルキストからクリスチャンに転向して話題になった作家に、椎名麟三という人がいますけれども、この人は自分がどういう経緯で180度、異質なクリスチャンになったかについて、自伝のような中で書いております。 それは、ドストエフスキーの作品に触れたからだと、彼は述べてるんですね。戦前の思想警察であった特高に捕われて、監獄で耐えられないような拷問を彼は受けるわけですけれども、その過程で、人間性の内に潜む暗やみ、そういうものに気が付いていくのであります。 拷問を加える官憲の中にだけでなく、自分自身の内にもそれが潜む者であるということ。そのことに彼は戦慄するんですね。光なく、望みなく、生きている、この人間。そういう問題に彼は、打ちのめされていくわけであります。 その問題に気が付くと、社会改革で人生問題がすべて解決するかのように考えるマルクス主義では、どうにもならないのであります。 彼は絶望して、何回か自殺を試みますけれども、死ぬことはできず、絶望とは生きることも死ぬこともできないことだと、述べているのであります。死ぬことができたら、どんなに楽だろうかと彼は思うわけであります。 そのような出口のない暗やみの中から、ドストエフスキーの小説に惹かれて、彼は、その凄まじいような彼の描く世界の背後に不思議な光のようなものがあるということに感じ始めるんですね。 それがどうも聖書から出てくるものらしいと気が付いたと、言っております。こうして彼も、徹底的なマルクス運動にのめりこんでいた男が、聖書に真剣に、それこそ必死に向かい合っていくんですね。 暗やみの中で、必死に何かをつかまえようとして、彼は聖書に向かうわけであります。ドストエフスキーがそうであったように。しかし聖書は読んでみても、なかなかわからないわけです。頻繁に出てくるイエス様の奇跡の記事に面食らって、まったく理解できないんですね。 しかし理解出来ないなりに、繰り返し読むうちに、彼の心の目は開かれていくのであります。あるとき彼は、ルカの福音書の最後の、あるイエス様の復活の記事を読んでいて、まったく今まで理解することのできなかった、その復活されて立っていっらしゃるイエス様が、弟子たちにここに何か食べ物はありますかと言われた、パンを差し上げられたという記事がありますけども、その記事を彼は読んでいて、今までまったく信ずることのできなかったキリストの復活という、この事実に彼の信仰の目が開かれていったということを、彼は、その「凡愚伝」という自伝の中に述べております。 彼の心の目を被っていたベールが取り除かれ、彼は何が救いかをはっきり知るようになるのであります。 人生の問題の根本的解決、すなわち救いとは、マルキシズムが言うように、この世が改善され人々の生活が良くなり、この世で人々は搾取されなくなり、平等になって、社会的なそういう世議が確立されるというようなことではなくて、本当の救いとは、人間が確かな、揺るぐことのない本物の希望を持つようになることである。 例えこの世のすべてが失われても、失われることのない確かな希望があるということに目が開かれることである。彼はこのことを、知っていくわけであります。それは、神がイエス・キリストによってなしてくださった十字架の死と、三日後のよみがえりというこの歴史的事実によって、全人類に提供されているものであるということ。 この人間の想像を超えるような事実にですね、このコチコチのマルキシスト、かつての無神論者は心の目が開かれていくわけです。 それは、人間の努力や知恵によって生み出すことのできるものではなくて、ただ神が人間を救おうとして、御手を伸べてくださった。このキリストを、イエスを通しての救いのみわざによるのだということ。この聖書の語っている救いの事実に、彼は目が開かれていくわけであります。 礼拝のときに兄弟が読まれましたが、 テトスへの手紙3:3-6
ここでパウロが言っているように、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださった。まったくその通りなんですね。神を否定して生きる、無神的な虚無の世界に何の希望も、確信もありえないところのそういう人生。しかも罪の泥沼の中に転び回っているような、そういう人生。しかもその自分自身の姿にすら気が付かないという、本当に絶望的なそういう人生。そういう中から、彼らは救い出されていったんですね。 創造主なる神の存在に気が付かず、神など存在しないものと決め付け、ただひたすら人間自身にだけ目を向けて、人間の理想、人間の自己追求、自己実現というような道を歩むときに、人は遅かれ早かれ行き詰るだろう得なくなるのであります。 自分自身についても、人生そのものについても訳がわからなくなってしまいます。すべてが無意味になってしまうのであります。 ノーベル文学賞を受賞して、最期は猟銃自殺をした、あのヘミングウェイは、「私の道はどこにも通ずることのない道である。」、ベック兄の表現によると、「私の道はどこにも行かない道である。」「それは暗黒へと続く道である。」と記しているそうであります。 日本の川端康成にしてもそうですけれども、この世は、あのような破滅に至る文学者たちに最高の栄誉を贈るのであります。これも一種の狂気ではないかと思いますね。それが、とんでもないことだと思わないほどに、人間の精神は倒錯している。人間の思考は麻痺していると、聖書は言っているのであります。 絶望に至るような文学を生涯書き続けている人、それにこの世は最高の栄誉をもって報い落とすんですね。本当にこれは、何と言っていいのかわかりませんが、驚くべき精神の逆立ち、倒錯だと、言わなければなりません。 人間がまことの創造主なる神を見失うとき、この存在を否定するとき、神を恐れることを知らず自分を自分の神として生きるとき、結局もう人間は滅茶苦茶になる。何が何だかわからなくなる。自分では必死になって一生懸命のつもりなんですけれども、どうすることもできない袋小路に陥ってしまう。そこに本当の問題がある。 ドストエフスキーが言ってることも、結局そのことでありますけれども、彼に作品の中には非常に知性に優れた人々が出てきて、非常に難しい議論をいたします。鋭い頭脳をもって、色んなことを論じます。しかし無茶苦茶な結論を導き出すのであります。しかしそれは、決して十九世紀の、あの後半のロシア、爛熟しきった、ああいう社会の出来事ではなくて、現代でも同じなのであります。 破滅に向かって人々は、本当に知恵を尽くし、力を尽くして、やっていることは破滅に向かって、無意味さに向かって突進していくのであります。 で、ここにいる私たちもかつて同じことやっていたんですね。そして、自分自身ではそこから決して逃れることができず、どんなに自分自身の内を探ってみても、それを超える考えっていうものが出てこない。ただ聖書に触れることを通してだけ、私たちはこの世界とは別の世界ってものに目が開かれていくわけであります。 ローマ人への手紙1:18-25
パウロは、人間が、自分では知者であると誇りながら、しかも神さまの代わりに滅ぶべき人間や、鳥、獣を拝んでいるではないか。その前にひざまずいているではないか。こういうような人間の精神的な倒錯を指摘し、それによって、人々は道徳的堕落の中に入り込んでいってしまうのだと言ってるんですね。 彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからであると書いてます。まことの創造主なる神。この方を知ることなしに、この方との正しい関係に人が立ち戻ることなしに、私たちの人生の修正はきかない。 どんなに私たちが色々努力してみても、私たちの人生の根本的な誤りは修正されない。これが聖書の、私たちに対するメッセージであります。 私は、ブッシュ大統領夫人の読書の趣味についての報道を読んで、自分の学生時代のことを思い出したのであります。当時は大学紛争の嵐が全国に吹き荒れておりました。その紛争に乗じて、マルクス主義者たちが大学を制圧しかねないような状況でありました。 若者たちは、マルクス主義と、その背後にある無神論的な思想に、さらに一歩進むと、虚無主義、ニヒリズムの匂いといいますか、そういうものを嗅ぎながら、この本当に索莫とした思いをしておりました。 わからないながら手探りで、自分の人生について考えさせられたものであります。人生には、マルキストの言うように究極のもの、変わることのないものは、存在しないのだろうか。一体本当に正しいなどということはないのだろうか。自分は何のために生きているのか。自分の人生の目的は一体何か。 そういうことを、荒涼たる感じのしていた時代に、やっぱり人々は、若者たちは悩まざるを得なかったといいますね。 私などは、この集会に通うようになって二〜三年して、あの浅間山の赤軍事件、山荘事件が起こり、その後で十何人かの仲間のリンチ殺害の事実が明らかになり、実に国民全体が戦慄したものであります。 数年前のオウムの事件というのは、結局形は変わっているけれど、あの連合赤軍事件と一緒だったなという思いがするんですね。ただ少し表面的に変わっていただけであります。 昨今の社会風潮は、そのような、マルクス主義的な思想がソビエト連邦の崩壊と一緒に消えてしまったために、かつての緊張を失ってしまって、若者たちもただ金儲けと享楽主義一色に染まっているように、私などには見えるのであります。 真摯に自分の人生の意味を問う、自分は何のために生きるかという、そういうことを本当に真剣に問う、そういうことが失われてしまってるんじゃないか。混乱の中で、人々はただそういう嵐から自分を守ると言いますか、そういうことに汲々としていて、一番肝腎なことを見失いつつあるような気がするんですね。 だから本当に、まるで悩みとは無関係なように今の若者たちが享楽を追求している、そんな気がするんですね。 先ほど、読んでいただいたマタイの福音書の4章の記事は、イエス様の、 (テープ A面 → B面) そして知られている記事であります。悪魔が、四十日四十夜断食し空腹を覚えておられるイエス様のところに近づいて来て、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と誘惑したってことであります。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つののことばによる。」と、イエス様は旧約聖書の言葉を引用して答えられました。何不自由ない、豊かな恵まれた生活をしていながら、明日への希望を失って生きることが耐え難いという老人の方々もいっぱいいらっしゃるのであります。 享楽を追い求め、享楽にふけりながら、毎日がやりきれないほどに退屈だという若者たちも少なくないのであります。 この世の栄誉・栄華に包まれながら、この世の富みも快楽も、知識もまったくむなしいと気が付いたソロモン王は、私は生きていることを憎んだ、日の下で行なわれるわざは私にとって災いだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだと、旧約聖書の伝道者の書の中で言ってるんですね。 人間は、この世の富みや享楽を目的としては生きていくことはできない者なのだ。永遠なるもの、それを求めなくては人は生きれないのだ。そしてそれは、神の言葉にあると聖書は教えているわけであります。 ヨハネの福音書6:63
イエス様はそう仰ってるんですね。わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり、またいのちです。 ヨハネの福音書5:25-26
死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです。聖書に語られる神の言葉に、私たちが向き合うならば、聖書が何を私たちに示そうとしているか。一体真理とは何か。救いとは何か。本当の自分の問題とは一体何か。それを知ろうとして、聖書の言葉に耳を傾けるならば、その人は生きると、イエス様は仰ってるんですね。 その人は救いを見出すようになるというのであります。 先ほどのマタイの福音書の4章。第二番目の悪魔の試みが記されています。 マタイの福音書4:5-7
神を試みさせようと、悪魔はイエス様を誘惑するのであります。しかしわかっていながら神を試みる人は、神への恐れを失うようになります。そして神を恐れなくなるときに、人は正しい道を見分ける判断力をも失っていくのであります。 だから、あなたの神を試みてはならないと聖書は戒めてるんですね。自分のうちで考えれば明らかにわかること、正しいということ、わかることを、私たちがそれを否定し、神さまを試みるようなことをしてはいけないと聖書は言ってるのであります。 人は、神さまの前に自分の心を吟味するならば、何がいけないことか、何が正しいことか、何が否定してはならないことか、何が認めなければならないことかは、わかるのであります。 それは、神が私たちの良心を通して語りかけておられるからなんですね。だから自分の内側に、良心を通して語りかけてくる声に対して、それを試みてはならない。それを試してはならないということ。 それを神の命令として、神の戒めとして、私たちは恐れを持って受けとらなければならないということを、聖書は教えて教えているわけであります。 箴言9:10
主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。神を恐れるということ、これが信仰の出発であると、聖書は教えているのであります。 詩篇34:7-11
詩篇25:12-14
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになると、聖書は言ってるんですね。主の御心を知るために必要なことは、主を恐れる恐れであります。主の御前に自らを偽らない誠実さであります。 マタイの福音書4:8-11
先ほどドストエフスキーという作家は、人間の心の内に潜む悪魔的なもの、そしてそれが寄って来たる根源というものに、彼は飽くことなく目を注いでいた。それを破り出してきた。だから彼の作品を読む人は、ちょっと一種の病的な、こういう眩暈のするような思いに圧倒されると言いますか、読むのが辛くなるような、そういう世界だということを言いました。 ドストエフスキーというのは、人間の中に、あるいは自分自身の中に悪魔的なものが存在するということ、底知れない闇がある、ということ。これをまざまざと知った人であります。だから必死に彼は、それから逃れなければならない。それから救われなければならない。そこに彼は、彼のすべてがそこにかかってくる。その問題に彼は、渾身の思いを馳せているわけですね。 そして彼は、その解決を見出したわけであります。その寄って来たる根源とは何か。それは悪魔というものの本性が神の代わりに、自らを神の位につけようとする傲慢にあるということ、高ぶりにあるということに、ほかならないのであります。 そこに本当の問題があるんですね。被造物でありながら、創造主なる神に代わろうとする恐るべき野望。それが問題の根源にあるということであります。 こうして、悪魔の人間に対する最終的なもくろみ、意図とは、人間が神の代わりに悪魔を崇拝し、その前にひれ伏すということであります。 この三番目の試みの時に、悪魔は、いわば自分の正体を明らかにさらしてくるわけですね。前の二つの誘惑の時には、彼は密かに変装しているわけです。巧みに変装している。 「あなたが神の子なら、下に身を投げてみよ。」、詩篇の言葉の中に「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。」と書いてあるではないか。 これ、詩篇の言葉でありますけれども、そういうようなことをしてイエス様のところに巧妙に近づいて来るんですが、最後は、悪魔は自分の正体を明らかにしてくるんですね。 イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 「引き下がれ、サタン。」、イエス様は、悪魔の子の言葉に対して、間髪を入れないように答えられたように思うんですね。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」これがイエス様の、徹頭徹尾とられた姿勢だったのであります。 そしてこのイエス様と同じ、神への従順に立ち返ることこそ救いにほかならず、それは心からの神さまの御前における降参を意味するんですね。神に背いて生きてきた人生から、神のもとに立ち返ることであります。 イエス様を信ずるとは、本当に白旗を掲げて、まったく徹底的な降参をすること以外のものじゃないと、聖書は私たちに教えてるんですね。 ドストエフスキーも、椎名麟三も、そしてここにいるクリスチャンの方々全員、自分の欲望を自分の神として生きていた人生から、まことの神に立ち返り、神に仕える人生に方向転換した者にほかなりません。 自分自身を何よりも大切にし、自分自身ってものを自分の神として生きてきた。しかしそれは破滅に至るものであるということ。それこそ罪の本質であるということ。だからその生き方をはっきり私たちは拒絶しなきゃいけないということ。金輪際、その生き方に対してはっきりとしたNOを言わなきゃいけないということ。 それが実は、イエス様が十字架の死を通して、私たちに示しておられることであります。 先ほど兄弟が読まれたように、罪のもたらす報酬は死です。私たちがこの罪の人生を進むならば、結局私たちは絶望の中に、出口のない暗やみの中に入って行かざるを得ない。その行き方を方向転換しなさい。 その備えができているか。イエス・キリストのもとにち返りなさい。イエス・キリストを受け入れなさい。イエス・キリストを自分の主として、主に仕えなさい。イエス様が歩んでおられるところに、自分の、自分自身の人生の目的と方向も向け変えなさい。 そこにだけ本当の希望、永遠の希望が見出されるから。そこにだけ本当のいのちがあるということに気が付くから。これこそが真理そのものだから。聖書は私たちにこのように伝えていると思うんですね。 マルコの福音書から一、二箇所読んで、終わりたいと思います。 マルコの福音書12:29-31
イエス様は、ただひたすら心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてご自分の御父、父なる神ご自身を主は愛されたお方であります。自分自身のことを、主は放り出して、自分を捨てて、自分を大切にすることをやめて、神を愛し、神に仕え、そして隣人に仕える、隣人を愛する。 これがイエス様のありかたであります。 自我に縛られて、がんじがらめに生きてる私たちとは正反対のありかたを、イエス様はしておられるんですね。自我、自分自身というものに凝り固まって生きてる、その危険に気が付かなければいけない。そこにこそ、あらゆる問題の根があるということに気が付かなきゃいけない、ということなんです。 コリント人への手紙第II、4:18
見えないものにはっきり目を留めるようになりたい。そこにこそ、私たちの本当の生きる意味と目的があるから。聖書は私たちに、そのように教えているのであります。 |