主と真っ直ぐに向き合わなきゃいけない


蘇畑兄

(中町家庭集会、1999/10/21)

先日もちょっとお話したことですけれども、色々な家庭集会、東京近辺だけじゃなくて、色んな集会を巡って本当に気の毒に思うことは、若くして挫折を経験し、すっかり自信を失って、この社会の何もかもが怖くなり、身動きが取れないでいる若者たちが非常に多いということです。
穴蔵の中に落ち込んだまま、いつまでもそこから這い出せないかのように、苦しんでいる青年たちが至るところにいるということであります。
様子を見てると、蟻地獄に捕らえられて、必死にもがいている蟻のようなものです。這い出そうとしてはズルズル引き摺り下ろされているように苦しみ、悩み、その苦悩のために心身ともに疲れている。そういう人が非常に多くいます。

私たちの人間の体とは不思議なもので、心が病むと体も同じように疲れ切ってしまうのであります。心身ともに弱っているから、他の人から何か少しでも厳しい感じのするアドバイスを受けるとそれだけでもう拒絶反応を起こしてしまうのです。自分の殻の中にすぐ閉じこもってしまうんです。
心を開いて真剣に聞こうという姿勢をなかなか持てなくなるようです。ですからますます状態は悪くなって、悪循環に陥るわけであります。

心を開いて素直に真剣に聞いてみよう。そして自分自身のどこがいったい間違っているのか、自分の悩みの本当の原因は何なのか、それを聖書は何と言っているのか聞いてみよう。そしてその原因を知ってそこから解放されたい。
そういうふうに真っ直ぐに向き合うことができれば、聖書は必ず私たちの心の闇に光を投じて来ますから、人は必ず逃れ道を見いだすようになるわけです。
しかし、もう自分の殻の中に逃げ込んでしまう。そういうことの繰り返しによっていつまでたっても同じ状態から抜けられない。

勇気を出して、自分自身の問題を真っ直ぐに見つめることは辛いことかも知れないけれど、しかし勇気を出して、真っ直ぐに向き合おう。聖書は何と言ってるかを本当に心開いて聞いてみよう。そういうふうに人が意を決して一歩踏み出すならば、聖書は必ずその人をその暗やみの穴の中から引き出すことができます。
聖書のみことばに従って、自分の生活を一日一日生きていこうと私たちは本当に決心するならば、必ずその人は一日一日引き出されて健やかになるものであります。
そのことを思うと非常に残念な気がするんです。なかなかそういう態度を取ろうとしない。何年も同じ状態の中に苦しむわけです。

人間はつまるところ本質的には同じであります。その本質は何かと言うと、罪の性質において同じだということなんです。
人間の一番根っこにある本質というのは結局罪の性質だと言っていいと思います。だから、私たちの問題の根っこはみんな同じなんです。
そういう悩んでいる人々が集会に集うようになり、信仰を求めて、救われたいと求めながら、穴蔵から脱出できない理由というのは、どこにあるのかということは非常にぼくははっきりしていると思うんです。

そういうふうな悩みで苦しんでいる人々だけでなくて、自分は長い間信仰を求めているけれども、なかなか救いがわからないというすべての人に共通している問題がそこにあると思うんです。
それはいったい何かと言うと、そういう人々は心の奥底では、すなわち本心では、神さまなしに生きていたいと望んでいるということなんです。信仰などなくても元気で楽しく毎日暮らしている多くの人々がいるわけです。自分の周りに。

かつて自分もそうだったんです。できるならば自分も集会なんかには来ないで、好きなように、自分が目指している目標に向かって、すなわち自己実現に向かってまい進したい。これが実は本音なんです。
そういうふうに問うてみると、確かに本人にはそれがそのとおりだという手ごたえがあるようなんです。

「本当に主の前に出て来たいんですか?」、「できれば神さまのところに行きたくないんじゃないですか?」
「いや、そうです。」と言ってくれればいいんですけども、なかなか「そうです。」とも言ってくれないんです。あとで言うように、人間はみんなそういう者なんだからです。
人間は、クリスチャンもクリスチャンでない人も、その本質において、自分勝手に生きたいという強固な願望を持っているんです。

クリスチャンだからそういう思いがないというのは嘘なんです。
クリスチャンもいつもわがままに生きたい、自分の好きなように生きようという強烈な、実は思いに引きずり回される。そういうものなんです。その狭間に立たされているものなんです。
本当は神さまのところに行こうとは思わない。自分もかつてのように元気に、自分の思う道を行きたいと思っております。ところが挫折をしてしまい、心身の歯車がどこかで狂ってしまって、身動きが取れない状態になっているから、だから元のように元気にしてもらいたい。それが彼らの本音なんです。

そのためにだけ、仕方がないから、勧められるから信仰というものに触れようと。そういうふうに考えるんです。
要するに、神の助けを求めているけれど、本当は神さまのところに心から行きたいとは思っていないという根強い頑なな心を持っているのであります。
神に対する自分のこの頑なな心にハッと気付いて、これだから自分には本当の信仰がわからないのだ。本当の救いの喜びも自分にはわからないのだと気が付かなくてはいけないんです。

神さまは物ではありませんから、生きていらっしゃる人格ですから、あなたを本当に必要としたくありませんけれども、今少しだけ手を貸してほしい、そのあとじゃもう関係をもちたくないからさっさと逃げるつもりだなどと心の底で思っている人間に、ご自分を現わされないのは当然だと言わなければならない。

イザヤ書45:15
15イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。

これはよく知られてるみことばで、おそらくそれとは違った意味なんでしょうけれども、「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」、神さまは私たちからご自分を隠されることがしばしばあるんです。
私たちが本当に心を尽くして、思いを尽くして本当に真実に神さまを求めようとしなければ、私たちのすぐそばに神さまがおられても、それに私たちは気が付かないんです。

人間の間もそうなんですけども、親子の関係もそうなんですが、どんなに親が子どものことを心配し、愛しているか日夜心を砕いていても毎日顔をつき合せていながら子どもの心にはそれがわからないんです。不思議なものである。
あるとき気が付いて、こんなに自分のことを心配していてくれたのか、初めてすぐそばにいる親の本当の心がわかると言いますか、そうときが来るかもしれませんが、神さまもいっしょなんです。

神は私たちの近くにいらっしゃり、私たちに熱いまなざしをもって目を留めておられるんだけれど、人間が本当に自分自身の本心を見失っているもんですから、自分でありながら自分でないもんですから、そばにおられる神さまのことがわからないんです。
それは神さまがいらっしゃらないからじゃなくて、私たちの目が盲目だからなんです。私たちの心が閉ざされているからなんです。本当に大切なものに気が付かないで、どうでもいいようなものに心をすっかり奪われている。

この世の中を見ると本当に大変な世の中になっています。世の中は無茶苦茶であります。人々は本当に恥を忘れ、自分の欲望にしたがって、幼い、若いうちからもう、今の日本はどうなるだろうかと心配でなりません。
夕べもテレビの中で、高校生のだいたい半分くらいが進学もせず、就職もしないんだと言っていました。先生たちが一生懸命になって何とか奔走して校長を始め、指揮を取っているんだけども、われ関せずなんです。
人々を呼んで講堂に集めて、話を聞いてもらおうとしても、ほとんど高校生たちが携帯電話を出してペラペラペラペラ喋ってるんです。校長先生が憤慨して、「ちゃんと聞きなさい!」なんて言ってるんだけど、全然聞く耳がない。

仕事をしようともせず、学校に行こうともせず、家に居て、一日中テレビのパソコンなんか、ゲームです。夜はちょっとどこかでアルバイトして。なんて言っております。
自分の将来についての不安というものはないんだろうか。いったいこれで自分はまともに生きていけるかって、そういう不安はないんだろうかと不思議でならないんです。

親も子どもが気が付くまではどうしようもないと言って、そばにいながら父親もお手上げのようであります。なんとも厄介ですね。
日本の将来、本当に真っ暗。右を見ても左を見てもこの国は本当にこれ、真っ暗闇じゃないか。今の高校生の女の子たちがやってること。今、日本中のどこの書店でも並んでる週刊誌やその類いというのはおそらく本当に腰を抜かすようなものじゃないかと思うんです。

前も言いましたけども、あるフランスの女子留学生が日本を去るときに、真面目な顔をして、第三発目の原爆も日本に落ちると思うと言ったっていうんですけど。ぼくはその記事を読んでたら忘れられないんです。
本当に日本みたいに悪い国はいくらとあるかもしれませんよ。もちろん。われわれ知りませんから。しかしこんなに不道徳な節操が社会全体をおおっているという国はあるのか。ぼくは本当にそういう意味で実は恐ろしい思いをしております。

経済がどうのこうのなんてみんな騒いでるけど、もっと深く恐るべきわれわれの社会の病根はもっと違うところにあるんじゃないだろうか。
豊かな中に満ち足りて、本当に花恥らうべき乙女たちも何の恥ももたなくなってるのじゃないか。本当に恐るべきことにならないのか。
心ある人はみんな、その深い恐れをもっているんじゃないでしょうか。

イザヤ書54:7-8
7「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。
8怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。

怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠した。いくら言っても聞かなければ、親は黙らなければ否はありません。どんなに心配してあげても聞く耳がなければ、馬耳東風であれば、親も顔をそむけなければいけない。
神さまはほんのしばらくそうしたんだと仰るから、ほんのしばらくの間見捨てたけれど、大きなあわれみをもって、あなたを集める。ほんのしばらくわたしの顔をあなたからもう隠したけれど、わたしの永遠の愛は変わらない。こう仰ってるんです。

人間は本当に自分の心に気が付かなければいけないんです。自分の心が本当になんとあらぬもの、求めてはならないものだけに向けられてきたのか。自分の心はなんと浅ましかったのか。
そういうことに気が付いて初めて、そこにいわば果てしのない心の世界と言いますか。永遠の世界というものが開かれていくわけです。

この目に見える世界というのは有限でありますけども、人間の心の中に私たちが自分の心の盲目さに気が付いて、迷いに気が付いて初めて、本心に立ち返るときに、そこに生ける神との永遠の世界というものが広がっていきます。開かれてまいります。
そこに気が付かない限り結局私たちの人生は絶望なんです。出口がないんです。

今の若い人々は結局豊かさの中にいながらまったく目的がない。真面目に働いたって仕方がないじゃないかと昨日言っておりました。
会社潰れるじゃないか。一生懸命就職しても会社は潰れてしまったりして、馬鹿らしいじゃない。
金儲けて豊かに暮らしたってしれたもんじゃないか。これで偉くなってみたってそれも大したことないじゃないかとみんな知ってるんです。もう。小学校、中学校のあたりでです。

要するにしらけているんです。本当の意味で自分が自分の全生涯をかけて、これだというものがもうないんじゃないかと思ってるんです。
だから一日、日長一日ボォーっとしながらテレビゲームに興じているんです。
そういうものとは違った本当に不変なるものがあるということ。本当に人が生きるに値するところの人生なのだということ。それに気が付くためには私たちは何に気が付かなきゃいけないのか。実は自分の内なるものに気が付かなきゃいけないんです。

自分が祈り求めている相手に対して自分の心が何と不真実なものなのか。不誠実なのか。
卑しくもまことの神さまに向かって自分は祈っているつもりだけど、自分の心は神さまの前に何とも不真実であり、神さまの前に向かっているようでありながら心はあらぬ方向に向いて平気なんです。自分のそういう心の有りように気が付いて、私たちは本当に驚かなければいけないんです。
恥じ入らなければならない。何という自分は不真実な態度を神さまに取っているんだろうかと気が付いて、心を翻さなきゃいけないんです。それが悔い改めなんです。

神さまに対する正しい態度が何であるかに気が付かないで、それでいながら神さまは全然祈りに聞いてくれない。神なんかいないんじゃないのかと言うんです。
実はこのまことの神さまに対する自分の心の不真実さ、不誠実さこそが、聖書が言ってる罪というものなんです。

まっすぐに心を神さまに向けて、まっすぐに神さまとの交わりの中に生きようとしない。そうじゃなくて、口先だけじゃこう言うけれども、心はまったく違う方向にあるということ。これが聖書は言っている罪なんです。そしてこれこそが私たちの人生の最大問題なんです。
私たちの人生のあらゆる問題の根っこなんです。

イザヤ書59:1-2
1見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
2あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

誤解していけないことは、人間が完璧にできないことを罪と言ってないということでしょ?そうじゃない。
私たちは本当にいつまでいっても、まったく神さまの目から見るとしようのない者なんです。何やっても上手くいかないし、何やってもダメなんです。
しかしただ一つ神さまとの間に自分の心を欺かない。神さまに対して真っ直ぐに向き合わなきゃいけない。

ダメなものはダメ。間違っているものは間違っているものとして素直に神さまの前に真っ直ぐに向き合わなきゃいけない。
すなわちそれが心は神さまの前に開かれているということなんです。
何一つ主の前に取り繕うことなしに、あるがままに、「主よ。そのとおりです。私はこのようなものです。あなたはこのことをご存知です。だけどあなたは受け入れてください。」、こういうふうに本当に子どもが安心して親の前に自分のすべてを親の手にゆだねるように、赤ちゃんであれば。

そういうふうに本当に分け隔てないところの神さまとの何ら妨げのない心と心とたましいのつながり。それが信仰であり、それが神さまの切に求めていらっしゃることなんです。
立派に私たちが生きれるか生きれないかということを神さまは問わないんです。
私たちの心がご自分に対して本当に真っ直ぐに向けられているかどうかだけを神さまは問うていらっしゃるのです。

なぜならば、そこから一切の良きものが見いだされてくるからです。私たちの心身の疲れを癒やし、私たちの傷を癒やし、私たちの生活を聖めていく、泉の底から湧いてくるから。
大切なことはただそこの一点なんです。信仰において一番大事な点は、私たちが気を付けておくべきなのはそれなんです。
すなわち主を欺いてはならない。主と真っ直ぐに自分は向き合わなきゃいけない。いつでも主の前にあるがままに、正直に出て行くこと。主に語りかけることなんです。

この関係が途切れるときに神さまがここで仰ってるように、しきりとなると言ってますけれど、これが聖書の言ってる罪というものなんです。
自分に本当に神さまのことがわからない。聖書を読んでいるけれども信仰がわからないっていう方は多いんです。それはよくわかります。
そのわからない理由は結局のところ、私たちが本当に神さまの前に主を恐れると言いますか、畏敬すると言いますか。主が自分の心の奥底まで見ていらっしゃるということに気が付かない。

主の前に本当に深い恐れをもって立とうとしない。だから神さまがわからない。神さまの前に立つことがどういうことかがわからないから、自分の神さまの前における態度がとんでもない誤りなのだということに気が付かないのです。
ここに多くの人々の悲劇があります。救いと解放を求めながらそれを見いだすことができないで、いつまでももがいて苦しんでいる人たちの本当の悲劇の原因はそこにあるんです。本当の意味で結局主を尊んでいないんです。

「主よ。主よ。」と言うけれど、イエス様が仰ったように、「主よ、主よと言う者が天の御国にはいるのではない。」と仰いましたけれども、口では「主よ、主よ。」と言ってるかもしれない、祈ってるかもしれないけど全然主を心から崇めているわけじゃない。あらゆるものにまさって尊ぶべきお方こそ神であると思ってるわけじゃない。
何か趣味の人と言いますか。色々いいものがあるけれど、その中の一つ。神さまに対しても私たちは向き合っていない。ここに実は多くの本当の悲劇の原因があるんじゃないか。

わたしはわたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしを軽んずる者は退けられる。でしたか?何かそんなことばありますね。サムエルの中にあります。

サムエル記第I、2:30
30それゆえ、――イスラエルの神、主の御告げだ――あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、――主の御告げだ――絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

私たちが主を本当に大切にしなきゃいけない。なぜならば神はそうされなければならないお方だからなんです。聖なる唯一の主権者だからです。
だからその方の前に私たちが主を本当の意味で恐れ尊ぶ、主を大切にする。そうするときに主は私たちを尊んでくださる。大事な宝物のように扱ってくださる。
そう聖書は約束しているんです。神はご自分の者を聖なる者として聖別なさるんです。

神はご自分の者を、悪しき者がこれを傷つけたりすることがないように、汚したりすることがないように神は守ってくださるんです。それは神の聖なる者だからなんです。神さまを信ずるということは結局そういうことです。
この神さまの前に本当に私たちがいかに何にもまさって聖なる方、尊ぶべき方、一切のものにまさって尊い宝であると私たちが心の中にはっきりそういう受け止め方をすることです。そうすれば人はさまざまな問題から解放されていきます。

主は私たちの問題の根っこを取り去ってくださる方です。主はその御目をもって、全地を見渡し、その心がご自分と一つになっている人々に御力をあらわされる。
これも歴代誌第IIの方にある有名なみことばです。主はいつも私たちの心の底に目を留めていらっしゃる。そして私たちが主と真っ直ぐにつながっているときに主はご自分の力をあらわしてくださいます。それが信仰の力です。

歴代誌第II、16:9
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」

(テープ A面 → B面)

・・・決して神はこのことをなさらない。

神が私たちに答えてくださらないのは私たちのがわに何か自分の気が付かない誤りが実はあるからなんです。自分では気が付かないけれど、何か主のみこころにかなわないものが自分の内にあって、それが取り除かれていないからなんです。
しかし人はなかなかそのようには思わないですぐ、「神さまは聞いてくださらない。信仰をもっても何にも助けがない。」と言います。
「だからもう祈りも聖書も読むことをやめた。」とよく言います。

自分が信仰だと思っているものが実は信仰ではないのだと気が付かないんです。自分の信仰はこれでいいのだろうかと本当に真剣に考えないんです。だから苦しみと悩みはいつまでもその人を追っかけているんです。
その問題を通して主の前に正しく立つということを私たちが気が付くように神さまは結局それを用いておられるんです。人間が苦しむのは自分の愚かさや自分の誤りによるのであって、神さまのせいではありません。

神さまが自分を苦しめるのだと誤解をして神さまを恨む人もいますが、神さまの責任ではないのであります。私たちの頑なさのせいなんです。
その試練を通して私たちの心の目を開こうと主はしていらっしゃるだけなんです。先ほども言ったように、私たちの心の奥底には、神さまから離れて自分の好きなように生きたいという強固な思いが存在するのです。
イエス様を信じ、神のみもとに立ち返ってきたクリスチャンの心の中にも、厄介な罪の根っこは依然として焼け残った、ちょうどやけぼっくいのようにくすぶっているんです。

私たちはこの恐るべき事実をはっきり知っていなければいけません。ペテロがその第一の手紙の中で言っているように。

ペテロの手紙第I、5:8-9
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている。だから、身を慎み、目をさましていなさい。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさいと言っています。
悪魔の誘惑に誘い出される危険が私たちの内になければ、この戦いはないんです。しかしそうじゃないということを彼は言っています。

悪魔の誘惑に反応するものがいつでも私たちの中にあるから、だから、身を慎み、目をさましていなさいと言っているのです。
みことばによって武装をしなさい。エペソ人への手紙の中に出て来る有名なことばのように、いつも目をさまし、祈っていなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

心は燃えていても、肉体は弱いのだとイエス様は仰いましたけれども、もうクリスチャンになったから安全だということはないんです。この誘惑から免れて、もう何の危険もないということはないんです。
クリスチャンの特権とは何かと言うと、この誘惑が自分にいつも押しかけてきているということを、自分はいつもそれに反応しうる者であるということを、そのことがよくわかってるんです。

この世の人は全然そのことはわかっていません。まったく盲目なんです。神さまを知らない人は罪に対してまったく盲目で鈍感でしょ?何をやったらどういう結果になって危ないかについて全然わきまえがないんです。平気で罪の中にはいっていきます。
しかし信仰が与えられると、何よりも罪の怖さに、恐ろしさに気が付かされているということです。だから悪魔の誘惑に陥らないように祈ることを知ってるんです。主が守ってくださる。主に逃げ込むことを知っているんです。

自分勝手に生きていたけれど、それが破滅に至るものだと今ではよくわかっています。だから主とのこの絆を、信仰の絆を断ち切ったら大変なことになる。自分にとってそれは命綱なのであると知るようになっているんです。
マタイの福音書の6章。イエス様が教えてくださった主の祈りの中の一節。

マタイの福音書6:13
13私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

私たちを試みに合わせないで、悪からお救いくださいと祈りなさいと書いてます。
さまざまな悪の誘惑からどうか私を守ってください。そういうものが私に近付かないように守ってください。私は信仰があると思ってるけれど、どんなに危険なものか、もろいものかわからないから、どうか私をそういう誘惑から遠ざけてください。そういう意味です。
自分が誘惑に近付くことがないように、どうか守ってくださいということです。

大切なことは、あえて自ら近付かないということなんです。できるだけ避けることです。誘惑の中に入って、そこで一生懸命悪戦苦闘して打ち勝つんじゃないんです。大切なことは近付かないことです。
悪の気配があるもの、あれは匂いでわかるんです。第六カ勘でわかるもんですね。そこに悪の匂いがする。罪が宿っている。そういうものは勘で分かるものなんです。
だからそういうものから注意して離れるんです。それが結局聖書が言っている光の中を歩むということなんです。

そこにクリスチャンの生き方がこの世の人の生き方と一線を画するところが出てきます。
この世の人がやっていることを同じようにやり、無神経に同じところに行き、同じような付き合いをしているときに、キリスト者としての歩みはぼかされてきます。そういうものから注意して離れること。
もちろんこの世の仕事や色んなものがあるし、われわれはそれを外れるわけにいきませんけれども、しかしそこに罪があるということ。そういうことに気が付けばそこから離れなければいけないんです。

そうすれば主は私たちとともにいてくださり、私たちを無用な問題から救い出してくださいます。私たちの生活のすべてを主は守ってくださるんです。
この世の人は何が避けるべきものであり、何から自分は離れなきゃならないかっていう分別もはっきりつきません。
しかし信仰が与えられれば私たちはそれをわかっていきます。この世の人は罪の恐ろしさに気が付かないから平気でいますが、クリスチャンは罪の恐ろしさに気が付いています。私たちの足もとにいつも滅びの淵というものがあるということ。それに私たちは気付かされているんです。だから祈りをもってそこに陥らないように日々目をさまして歩むんです。

この世の人々は、何でそんなに怖がるのか。なぜそんなにクリスチャンはこの世というものに警戒するのか。おそらく訝しがるでしょうね。それは彼らが盲目だからです。
この盲目のゆえに毎日新聞で報告され、報道されるようなさまざまな悲劇が後から後から起こってくるんです。
自分の夫を愛人といっしょに殺し、息子まで殺してるんです。あの長崎の事件なんかは。なんていうことでしょうか。人間の罪がどんなに恐ろしいものか私たちの前にはいくらでもそれがあるわけです。

神さまに対する自分の不真実さ、神さまを拒もうとする態度こそ、自分を苦悩と破綻へと追い込む罪にほかならないと気付いて、この罪から本当に離れること。神に立ち返ること。主との真実な交わりに日々生きようと決心すること。
これがあらゆる問題の解決の唯一の方法なんです。
主とのこのつながりこそが私たちにとって何よりも大切な命綱なんです。だから何があってもこの信仰にとどまると、私たちは決心して歩まなければならないんです。私たちの信仰にこの全存在がかかっているわけであります。

神のひとり子は十字架に架かられ、生きながらにしてイエス様は地獄の苦しみを味わわれたわけですが、それこそわれわれが信じている信仰の中心であります。このことを考えると、私たちがイエス様を信ずるということはいったいどういうことなのか。
どんなにそれが私たちの全存在のかかっているものなのかということを、それを知るのは当たり前のことです。
多くの人々が何と気楽に信じ、何と気楽なその信仰によって相変わらず悩みの中で苦しんでいることだろうかと思うんです。

イエス様が仰ったように、力を尽くし、思いを尽くし、心を尽くしてあなたの主である神を愛せよ。これが神さまが望んでいらっしゃるものであります。それこそ信仰なんです。
今、私は夜眠る前に布団の中にもぐって、寝るまでの30分とか、場合には一時間とか夢中になって一時間半ぐらいかかるときもあって、夜更かしをしてしまうときもありますけど、カトリックの信者が書いた「高山右近」という最近出た本があって、いっぺん高山右近についてちょっと詳しく知りたいなぁと思ったもんですから、なかなか詳細な彼の足跡を記しております。

著者は精神医学者です。それが作家に転向したわけですけれども、生半可な信仰ではなさそうで、読みながら本当に高山右近というかの武将ですね、生涯を読みながら本当に心を打たれます。
あの戦国の時代から最後は彼はマニラに一族ごと流されていくわけですけれども、徳川家康の禁教令によって。自分の大名の一切のものを、領地から一切を捨てて行くわけです。彼は喜んで殉教の死を遂げようとして、その用意をしてるわけですけれども、イエス様のあとに従いたい。

その一切の侮辱と一切の苦難も自分もまたいっしょに受けたいという切なる思いをもっているわけですが、そうはならずにマニラに送られますが、その生涯を克明に書いております。あの時代にすごい人々がいっぱいいたんだなぁと思うんです。
驚くことは、あの高山右近という武将がそのバテレンの神父さんたちとの交わりを通して、ポルトガル語やスペイン語というものが非常に流暢だったそうです。
向こうでびっくりされたらしいです。そのマニラで。ラテン語なんかも彼は相当に精通して、ラテン語の文献をそのまま読んでるんです。これは細川ガラシャなんかもそうだと、びっくりしましたけれども。

あの当時のいわゆるキリシタンたちは真剣に、そのわずかの信仰書を懸命に読んだんです。文字通り自分の生涯をかけたんです。あの時代の人々はそういうもんだというふうにわきまえていたようであります。
実はそういう信仰こそが本当の意味で力のある信仰なんです。何ものにも圧倒的な勝利を得る信仰というのはやっぱり私たちが本当に、この主こそ自分のすべてなのだ。一切に勝るのだ。すべてをかけて自分は後悔しないのだという、この心の底に本当にしっかり据わってる信仰。これが本当の意味での信仰です。パウロが言っている。

一切のものを打ち破る。どのような要塞をも打ち破るものだと彼は書いていますけれども。私たちもまた本当に主をすべてとしてこの人生を過ごすことができれば、これに勝る光栄はないのではないか。人間として。
どうでしょうか。この世のさまざまなものを求めてむなしく生きるよりも、不変なるものに自分のすべてを投じて、まことのこの救い主を自分のすべてとして生きる。

こんなにすばらしい、光栄に満ちた人生はないのじゃないかと思うんです。私たち普通の信者がこの世に生きなきゃいけないということなんです。特別の堅信者がとか何とかじゃなくて、私たち普通のクリスチャンがやはりこの世に生きること。それがやっぱり聖書が私たちに示している信仰であります。
この信仰によって私たちはあらゆる問題に対する本当の勝利者となることができる。私は本当にそうだと確信しています。

そこまでで終わりたいと思います。




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