こういうふうにして、聖書のみことばについてこう学ぶ機会を、兄弟方は色んな場においてしなければならないんですけれども、初めの、この聖書の書かれた頃の人たち、あるいはクリスチャンたちは、私たちが学ぶようには学ばなかっただろうと思うんですね。 というのは、その当時は聖書はないのですから、彼らはあらかじめ時間をかけて、長い間祈ったり、色々調べたりして学ぶということはおそらく無かったろうと思うんですね。 兄弟姉妹が集まれば、そこで導かれるようにみたされた思いをもって、おそらく立って証しをしたろうと思いますね。証しだったんじゃないかと思うんですね。 証しが即、メッセージだったんだろうと思うんですけども、私たちは聖書を与えられていて、旧約聖書や新約聖書を前にしながら、あるときには苦闘したりするわけであります。 本当に、集まったところで導かれるままに、みことばが伝えられたらどんなにいいだろうかと、私たちもどんなにホッとするだろうかと思うんですけれども、これからしばらくの間、みことばから見ていきたいと思います。 ご承知のように、この私たち人間に関わることがらのうちで、仰ほどその人にとって重大な影響力をもつものはないと思うんですね。 信仰以外のことがらはすべて生活の一部であります。そしてそれは、生活の手段に過ぎないものであります。例えばスポーツだとか、娯楽というものは、一時の気晴らしであって、生活に潤いを与えるものであるということを私たち知っております。 私たちの職業といえども、人生の目的そのものではないということを私たちは知っております。それは、生きる糧を得るということが第一でしょう。もちろん、生きる糧を得るというその仕事を通して、私たちは知らず知らずのうちにお互いに、世のために人のために何らかの意味で役に立っているわけではありますけれども、しかし仕事は私たちの生活の糧を得るということがおそらく一義であると思うんですね。 このように、仕事も趣味も生活の一部であって、生活のためのもの、生活に仕えるものでありますけれども、信仰はそうではありません。 ときどき、信仰というものを誤解なさる多くの人々は、信仰もほどほどにするように。生活を顧みないで、この信仰信仰ばっかり言っちゃいけないってなことをよく言われますけれども、本来の信仰っていうのは、生活の上に立つもの、私たちの生活を支配するものが信仰ではないでしょうか。 私たちの生活の一部っていうのではなくて、その生活を根本的に方向付けるもの、私たちの生活に意味を与えるもの、生活を支配するものが、信仰であります。すなわち、生活のために信仰があるのではなくて、信仰のために生活があるのだ。生活が信仰に仕えるのだというふうに言うことができるのではないかと思うんですね。 このように信仰とは、その信仰をもつ人にとって、全生活を支配する言わば主人のようなものであります。それが本当の意味での信仰ではないでしょうか。 信仰が単なる生活の一部であり、単なる趣味みたいなものであれば、それは大したことはないわけです。ところが逆に、信仰というものが私たちの全生活を支配し、方向付けるために、それゆえに信仰というものが非常に重大な意味をもってくるわけであります。 ですから、信仰が正しいものかどうか、信仰が全うなものであるかどうかということは、私たちの生活というものを根本的に決めてくるものですから、信仰がいったいどういうものかってことですね、正しい信仰であるかということは、非常に重要な問題をもっているわけです。 多くの人々が、信仰について警戒心を抱くのは、きわめて健全な感覚の表われであります。無用心に信仰に近づくことこそ、おかしいのであります。信仰は私たちの生活のごく一部ではなくて、取ったり付けたりできるもんではなくて、すべてを決めてくるものだからであります。 特に兄弟方であれば、それがよくわかると思うんですね。信仰は警戒して私たちは生きてきたわけです。変なものを持ち込まれてはかなわん。変なものに関わったらたまらんと思って、信仰なんていうと、私たちは厳しい拒絶反応を示して来たのではないでしょうか。 それが当たり前なんですね。それは本能的に信仰というものを、信仰は何かということをある程度わきまえているからなんであります。趣味ならば、そうでなくてもいいんですね。サークルですか、「じゃあ、行って、ちょっとやって来ましょう。」、気に合わなければ捨てましょう。自分の好みに合ってどうにでも変えればいいわけです。 仕事でもある程度そうであります。しかし信仰はそうではないということであります。 ある兄弟によりますと、長崎では昔から隠れキリシタンなんかが盛んだったところだったからでしょうけれども、キリシタンになるってことは、生き胆を取られるっていうふうに、昔から言うんだそうです。 それはなかなか面白い表現だとおもうんですね。生き胆というのは、その人がたましいを奪われるっていうことですから。逆に言えば、たましいを奪われない信仰は嘘だっていうことなんですね。たましいを奪われないで、ごく一部だけ、何かの一部だけに関わっているという信仰は、それは嘘だっていうことであります。 ですから、たましいを奪われてもいいかどうかっていう、そういうことでありますから、実に信仰というのは大変な問題であります。 ですから、私たちは正しい信仰、正しい救いというものを、本当の意味でつかまえ、その真理の確信の上に立たざるを得ないのであります。 本当の救いを見出さなければ、正しい揺るがぬ岩の上に立たなければ、大変なことになるわけであります。ですから、私たちは正しい道を通って救いの門に入る必要があるのであります。 イエス様は、「救いの門は小さくて狭い。力を尽くして、その狭き門から入りなさい。」と、語られましたけれども、私たちも本当に正しい救いの門から入って行くべきであると思うんですね。 今、五千円札の肖像になりましたけれども、新渡戸稲造っていう先生、あの人は大変な博学な人で、昔東大の学長をしていた、南原繁という先生が、新渡戸先生なんかの教え子なんですけど、明治、大正、昭和の三代にかけて、あれほどの博学な人はいないだろうと、南原先生が書いておられますけれども、とにかく大変な博学な方でありました。 札幌の学校で内村鑑三なんかとともにイエス・キリストを受け入れた、当時の七人のうちの一人なんですね。この人は奥さんをメアリーっていって、あのアメリカの女性でしたけれども、お子さんがなくて、若い頃から日本とアメリカの架け橋になるっていうのが、あの人の生涯の夢だったそうですけれども、アメリカ人に日本の立場を述べて、文字通り第二次世界大戦の勃発を何とか防ごうと願いをもって、アメリカを駆け回る途中で客死なさった方なんですね。 アメリカにいらしたときに、日本という国を知ってもらうために、あの人が書いた本が有名な「武士道」という英文の本があります。弟子の矢内原忠雄先生が翻訳をしていまして、岩波文庫の中に納められていますけれども、大変な博学であるということはわかるんですね。 世界の、古今東西の色んなこと挙げながら、日本人というものはいったいどういうものか、日本人の倫理体系というものは何か、唯一の神を信じないで、どうして日本人はいったい生きていけるのか、今まで生きてきたかということを、奥さんのメアリーさんにしょっちゅう聞かれるもんですから、それを何とか、ひとつ書いてみようと思って書いたということを、序文に書いておりますけれども、そういうのがあります。 この人は、色んな、非常に大変な多才な人でしたから、色んな法学博士や、農学博士、色んな学位をいくつももっていたりなさった人ですけれども、後に旧制一校の校長先生をなさいまして、多くの影響を与えた人だったんですね。 あの人を通して福音に導かれたのが、今言った方々でありました。この人は、週にいっぺん、何曜日かに、午後の時間なんかを空けて、いつでも学生たちに「来なさい。自分に話があったらいつでも来るように。」、場所を設けていつも待ってたらしいんですけども、それで学生たちは色んな人生の問題を抱えて新渡戸先生のところへ行って、新渡戸先生はそこで、その学生たちに多くのアドバイスを与えながら、その中の一部が聖書に向かっていったわけであります。 その中で、この新渡戸先生があるときに、その教え子たちに信仰について、「私の信仰は、キリスト教の横門からそっと入ったような信仰だ。」と、ご自分のことを言ったと書いてあるんですね。 興味深い表現なんですけれども、あの人の親友であった内村は、あれは正門から入って行った。自分は横の門から入って行ったんだよって、その人々に話したっていうのがどっかに書いてるんです。 それは何かと言いますと、自分はどうしてキリスト教徒になったかと言ったら、自分は寂しさがたまらなくて、自分は本当に耐え難いような寂しさをいつも感じてたもんですから、それが自分が救いを求めていった動機だった。 というのは、あの人山形の人ですから、東京に出て来て、維新の頃に、動乱期に、明治十年前後ですけれども、出て来て、あの人たちが東京から船に乗って、函館から札幌に向かった頃は、ちょうど明治十年のあの、西南の役の頃であります。西郷隆盛が辞任する頃であります。 それで、札幌農学校での何年間かの学業を経て、東京からずっとまわって、数年ぶりで自分の両親に会える喜びで、やっとたどり着いたら、お母さんの葬儀が終わったばっかりのときであったんであります。あの人はあまりのことに、ショックで気を失ったっていうことが言われております。 とにかく思いもかけないこと。あまりの寂しさに打ちのめされてしまったと言われておりますけれども、そういうこと話されながら、自分はその寂しさっていうことから、信仰の門を叩いたのだっていうような、横道から、横の門から入ったていうようなことを言っておられて、興味深いんですけれども、もちろん人間のもってる寂しさっていうのも、これはやっぱり罪の結果ですから、決して横の門ではなかろうと思うんですね。 人間が抑えがたい寂寞さといいますか、孤独を感ずるっていうのも、神さまから離れているから、その結果であります。満たされない孤独感に襲われるのは、神さまを知らないがゆえであります。決してそれは横の門だとは言えないと思うんですけど、そういう表現をしていらっしゃるんですね。 私たちは色んなきっかけをもって、動機をもってイエス様のところに来るわけなんですけれども、読んでいただきましたように、イエス様は、「医者を必要とするのは病人である。わたしは罪人を救うために来たのだ。わたしが招いているのは義人ではなくて、罪人なのだ。」という、イエス様のお言葉、これが聖書のいう救いの門の入口であります。 ルカの福音書5:31-32
私たちが、本当にイエス様のところに行くのに、どういうところから行ったのか。これは、吟味する、検討する必要があるんじゃないかと思うんですね。 例えば、この世の人々は、キリスト教というと、どちらかと言えば真面目な人々が行くものである。品行方正な、道徳的に立派な人々が、教会なんか行くもんである。また、どことなく、生活にも余裕のありそうな人々が行くものであるというふうに考えているんじゃないでしょうか。 昔、キリスト教ブームで、人々が教会に殺到したのが、ヨーロッパの新鮮な文化に触れて、非常に圧倒されたからでありました。教会っていうのを、何かこの世の、身分の安定した人々、暮らし向きの豊かそうな人、いわゆる上流の人々が行くようなものだ。クリスチャンとは何かそういうものだというような感じをもっていらっしゃる人々も、多いのではないかと思うのですね。 「私もああいうふうな、立派な人になりたい。何か人々から尊敬されそうな、何か人格者になりたい。」、すなわち何らかの意味で、自分自身を高めたいと思って教会にもし来るならば、それは聖書が言ってる、イエス様が仰ってるのとは違うのだということなんであります。 もちろんそういう、良きものに憧れるということ、その自体はいいことであります。立派な人になりたいということは、悪い人になりたいと思うよりももちろんいいことであります。ああいう立派な人になりたいという、人の素直な願望は良きことなんですね。 しかし、何らかの意味で自分自身を高めたいという、こういう信仰、これを自己完成型の信仰と名付けておきますと、自己完成型の信仰というのは、これは必ず挫折するところの、誤解するところの、危ない、実は土台をもたないところの立場なんですね。 道徳主義的な自己完成型の信仰というのは、実は信仰ではないのであります。その一人の典型は有島武郎だと思いますけれども、彼は福音を誤解しました。その結果、もう自分自身を含め、キリスト教徒を偽善者だと思わないわけにはいきませんでした。 彼はそういうことを盛んに書いたんですね。最後は、正面から福音に挑戦してきました。はっきりと背教の宣言をしました。そして最後は、自殺をしていったのであります。 いかに、信仰というのが恐るべきものであるか、これをいい加減に扱えないということですね。それを私たちは有島武郎の例をとってみても、もちろんすぐわかります。 本物に触れるということは、ある意味で非常に危険なものであります。そういうことに関心のある人は、彼のことを調べてみたらいいと思いますね。 小山内薫にしてもそうですけども、多くの人々がそういうところに触れながら、誤解していったのであります。そして盛んに悪口を言うんですね。最後は自分を導いた内村鑑三なんかのことについて悪口を言うのであります。新聞に書き立てるのであります。 背教者なんていう連載小説を書いて、それは彼を導いた人も別に聖人じゃないんですね、彼らは勝手に誤解しているのであります。私は単なる罪人だといくら言っても理解せんのですね。偽善者だと思ってしょうがないわけです。 だから、そういう人こそ、実に迷惑千万な話だろうと思うんですけれども、その人々こそが、実は問題なんですね。 信仰というのは、あくまでも私たち自分の問題であります。神さまと自分との問題。ほかの人がどうだろうか、自分に聖書のみことばを語ってくれる人がどうだろうか、そういうことは別にどうでもいいのであります。そういうことにかまけている余裕は実はないのであります。私たちが、あくまでも私たちの責任において、神さまを見上げるのであります。 この自己完成型の信仰というのは、実は信仰ではないということなんですね。 一つのその例が、聖書に出る場合、 マルコの福音書10:17-22
この有望な青年には、実は何でもあるんですね。この青年は非常に品行方正であります。人々が嘱望している若いサドカイ派の青年であることが後で分かります。ほかの箇所を見ると分かりますけども、大金持ちの息子であります。すなわちこの青年は、この世の富み、この世の善き評判、洋々たる前途を持っています。さらにこの青年はこう考えたんですね。その上にさらに永遠のいのちを獲得できればなあ、そうすればすべては揃います。これが、この青年の実は考えていたことなんですね。何とも欲張りな青年ですけども、要するに、どこまでも自分を富ませたい。自分を太らせたい。自分を霊肉ともに豊かならしめたい。これがこの青年の方向であります。目指している方向であります。 イエス様はすぐそのことを見抜かれました。そしてこの青年に、いつくしんで言われたと書いてありますから、この青年が、単純、素朴にそう思っている、間違いに気付かないでそのように考えている、この世の人が普通考えるように、そういうものを善として信じて、善きものをあれもこれも手に入れようと思っているこの青年の、ある意味で無邪気な用件に対して、主はいつくしんで言われたのであります。 彼自身は、根本的な結果に気付かなかったからなんですね。イエス様は、あなたの進んで行く方向、目指している方向は、どこまで進んで行っても永遠のいのちには至らないと、仰ってるわけです。正反対にあるのですから。永遠のいのちっていうのは。 イエス様は逆だと仰るんですね。本来はそういうところに永遠のいのちっていうものはないわけです。まったく正反対のところに、永遠のいのちは備えられています。すなわち、「自分自身はどうでもよい、神の御名のあがめられんことを。」 ヨハネは言いましたように、「私は衰えなければならない。私は衰え、彼は栄えなければならない。」、私は問題ではないというところに、実は永遠のいのちは開かれているのであります。この青年は、このことに気が付きませんでした。 クリスチャンになるということ、決してこの世的に立派な人間になるということではありません。自分自身を高めることでもありません。 第二の誤った門があると思うんですね。それは、私の家のすぐ近くには、異端の宗派の教会があるんですけども、時々その人々たちが家庭訪問をして来ます。この間も道に出ますと、五、六人が自転車にズラっと並んで、一戸一戸の家に張り付くようにして、総攻撃をかけておりました。 なかなか、人の話は全然聞く耳ありませんから、全然説得も何もないわけですけれども、とにかく徹底的に訓練され、洗脳されていますから、容易なことでは彼らの方向を変えることはできないのでありますけれども、その人たちの言ってることっていうのは、「自分たちは例外。自分たちは特別に選ばれた少数者である。」という考え方なんですね。 この世では、今、誤解されているし、色々な不運もあるけれども、しかしかの日にはで、自分たちは神さまによって約束された特別の、特権を与えられて、この世を支配する者となるという考え方なんですね。 霊的エリート型信仰と名付けておきますと、霊的に自分たちがエリートだっていう考え方なんですね。世の人々はそれが理解できないだけで、今は自分たちは、迫害されたり人々にどうのこうの言われたりしているけれども、「今に見ておれ。」ということなんですね。そういう、根強い思いがあります。狂信的な異端に多いタイプはこれであります。 「今に見ておれ。」、こういう思い、口には出さないかもしれんけれども、私たちこそが、ごく選ばれた者なんだ、特別に選ばれた者なんだっていう、何て言いますか、ある種の恨みと言ってはいけませんけれども、そういう一種の敵がい心と言いますか、そういうものが彼らの活動を支える力になっているのではないかと推測されますけれども、そういうものが根底に見られます。 自分が、今救われているということ、自分は滅びの中から救い出されているということ、そのことを本当に感謝ができるっていうようないもんじゃないんですね。それとはほど遠いことであります。いつの日か見ておれと、自分たちの言っていることが本当だっていうことがわかるのだ、この思いなんですね。 本当に自分の、今与えられている恵みを感謝することができるということではないのであります。 カール・ヒルティという、有名なスイスの公法学者であり、クリスチャンがおりますけども、「眠られぬ夜のために」という有名な本を書いた人ですけども、ある人はマルクス主義が誤りだということは何によってわかるかというと、それが人々のねたみだとか、恨みの心情に訴えてくるところに、マルクス主義の虚偽性っていうものがあるということを言ってますけども、その通りなんですね。 色んな仮説、色んな論理を積み上げようとも、根にあるものは、自分たちを虐げやがって言いますか、自分たちを搾取しやがってと言いますか、「今に見ておれ。」ってな心情であります。 それがマルクス主義の、ある意味での情熱をなしてるということ。それは間違いのない事実であります。だから、いかに論旨の通ったことを言おうとも、その背後にそういう感情が根底にあるということは、すでにそれが虚偽であるということ。光に属する者ではないということ。やみのわざであるということこれは、明らかなんですね。 聖書は何よりも、私たちがその動機において、心情において、光の中にあるかどうか、これが問題であります。 第一には、どんなふうに説明し、どういうふうに解明するかっていうこと。どういう対策を立てるかということは、ある意味で第二義的なもんであります。そうでなくて、私たちの行為が人に対する批判がましいことから出ていないか。人に対する恨みとかつらみとか、そういうものからこのことが出ていないかどうか、そこが実は問題なんですね。 もしそういうことがあれば、それは神さまのわざではないのであります。例えどんなことであっても、それは神さまのわざにはならないんですね。だからそれは避けなければいけないわけです。 聖書を突き詰めると、人を愛さないことはすでに罪なのです。人に冷ややかな、この冷淡な冷ややかなる思いを向けてる、そのこと自身がもう罪なんであります。それを正当化するために、どんな理由をもってこようとしても、それは神さまの前には受け入れられないことなんですね。 異端ってものの持っている、そこには何て言いますか、ある種のこの世に対する復讐心と言いますか、そういう心情ってものが根強く見れるのですね。感謝する、自分のような者が本当に救われているということに対する感謝や賛美とかいうものとはほど遠いのであります。 だから、自分らのサークル以外のものに対した、非常な、 (テープ A面 → B面) 聖書は確かに、クリスチャンがこの世を支配する者となるということをはっきり言っております。 ヨハネの黙示録2:26-29
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。これはクリスチャンに約束されている言葉なんです。 神は、ご自分が、この罪の世の中から贖い出された者に対して、すべてのものをイエス・キリストとともに与えよう。すべてのものを、イエス・キリストとともなる相続人として、ご自分の造られたみわざを継がせようと、仰っているのですね。 もう、驚くべき約束であります。私たちには想像すら出来ない。神が造られた一切のもの、これはイエス・キリストが受け取るものでありますけども、そのイエス・キリストとともなる共同の相続人であると、聖書の中には繰り返し書いてます。すべてはあなたがたのものですと、聖書の中には書いてあるんですね。本当に、それはすごいものであります。 私たちが死んだ後か、あるいはこの世が完成されるときでしょうか、驚くべきことがらがあると書いてあるんですね。 私たちは、今の世においては確かに色んな闘いがありますし、色んな困窮がありますし、色んなことがあるけれども、神はすべてのものをその子たちに与えよう。執行として取らせようと仰ってるわけです。確かに支配する者となるんですね。 しかしそれは、クリスチャンが真理に立っているがゆえに、(テープが一瞬途切れました)究極の支配者であるがゆえにそうなのであって、人間の野心とか、人間のこの世に対する復讐心とか、そういうものを満たすためのものなのでは全然ないわけです。 信仰というものにおいて、最も恐るべきものは霊的な装いをしている、肉的な思いであります。霊的に見えるんだけれども、その中身は肉であります。肉的なものが霊的な装いをするということこそが、実は私たちの歩みにおいて最も恐るべきことなんですね。 すなわち、人間が信仰というものを自分の野心とか、野望を達成する一つの手段に用いるということ。これよりは全く無信仰のほうがはるかに安全であります。もし、何かを利用して、自分の願いを達したいと思うならば、この世のことでそれを達するべきです。信仰においてそれを利用してはいけません。それは恐るべきことだからであります。 ですから神は、出エジプト記の30章を見てください。 出エジプト記30:37-38
あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。神さまは、このところをよく読みますとわかりますように、祭壇にささげるところの、礼拝を表わすところの香でありますけども、その香はこういう比率で作りなさいと仰ってるんですね。細かく比率をつけております。 しかし、それと同じ比率で自分のために香を作って、それをかいではいけない。それをする者は、民の中から断ち切られるからだと仰ったんですね。神のものを自分のものとして使うなということなんです。 神に属するものを、あたかも自分から出たかのように偽ってはならないということなんですね。これは非常に厳しい神さまの警告なんですね。霊的な装いをした肉なる思い。これを達成しようとして、いつも働いているのが悪魔の、サタンの正体だからなんですね。ですから、最も大きな危険にさらされているのは、実は未信者の世界ではありません。そうではなくて、最も大きな危険にさらされるのは、ある意味で信者の世界であります。堕落した信仰ほど、恐ろしいものはないからなんです。 おそらく歴史上最も恐るべき犯罪が犯されたのは、この世の人々の間においてではなくて、堕落したキリスト教会においてだったろうと思います。おそらく歴史を、私たちが調べていけば、そのことは容易にわかると思うんですね。なぜならば、この世の人々は聖なるものと聖でないものとを分けることができないんです。区別する力を持っていません。しかしキリスト教徒は、何が聖なるものであり、何がそうでないかを知っているはずです。ですから、世の人々の知らないで、平気で他の人々が踏みにじってるのに対して、私たちが信仰的に堕落するときに、私たちは知っていながら、聖なるものを冒涜することになります。ですから神のさばきは、私たちにとって一番、実は恐るべきものであります。 大変な無神論者は、だいたい聖職者の子から出てくるのであります。それは、旧約聖書を見てもそうですね。エリの子どもたち見てもそうです。普通の人のやるようなことではないんですね。あのエリの子どもたちがやったことは。 ですから私たちは、本当に気を付けなければいけないと思うんですね。信仰って言いますか、これは私たちのこと、私たちから出たことではありません。神さまから出たことであり、神のものであります。 誤って、まるで自分たちから出たことであるかのように、人々や子どもたちが受け取らないように注意しなければならないのであります。 第三番目の動機と言いますか、イエス・キリストのところに来るのは、人生そのものに行き詰って、どうにも仕方がなくなって、助けを求めてイエス様のところに来る人であります。罪人型の信仰であります。 ルカの福音書に出てくる、15章に出てくる放蕩息子のように、人生の破綻者として見事に打ちのめされて、イエス・キリストのところに来る人。この人は幸いなんであります。 その人は、自己完成を目指す余裕なんてもう全然ありません。そういうことは、余裕のある人々の志すもの、自分自身に自信満々の人が志すものでありますから、この人にはその余裕はないのであります。 エリート意識などはとてもでないですけども、持てる人ではありません、自分の愚かさ、無力さ、みじめさ、それにも関わらず、高ぶる自分自身を恥じ入って、恥としている人。こういう人が、イエス・キリストのもとに来る。助けを求めて来る人であります。助けを求めて来る、救いを求めて来る人。 これこそが、本当の意味でイエス・キリストと出会う人なんであります。こういう人は、神が自分に下さるものは、自分と自分の恥と罪にも関わらず、与えられる恵みですから、それは恵み以外の何ものでもないということをよく知っています。 誇るということほど、実は自分の本当の姿と関係のないものはない、無縁なものはないということを、知らされている人であります。 コリント人への手紙第I、1:26-31
「誇る者は主を誇れ」ですね。本当の意味で誇りうる者は、主ご自身だけであります。いかなる者であれ、私たちが自分自身を誇る、自分に与えられた恵みですら、自分のものであるかのように誇る。人間の誇りというのは実に厄介なものですけれども、この誇りによって、私たちは盲目になり、頑固になり、愚かな者になるわけですから、本当に厄介な者ですけれども、神は何よりもこの誇りを取り除こうとしておられるのであります。 神の御前でだれをも誇らせないためです。聖書は繰り返し、そのことを言っています。救いが無代価で、恵みで与えられたその理由は何かと言いますと、私たちから一切の誇りを取り除くためであると、神は言うのであります。 神が忌み嫌われるものは、実は私たちの誇り、誤った誇りであるということがわかります。罪人として、イエス・キリストのもとに来る人は、誇ることができません。その誇りを徹底的に取り除かれた人、自分が誇り得ないということをはっきりと認めた人、告白した人、これがクリスチャンだと言っていいと思うんですね。 それをするのが嫌ですから、私たちはかつて、十字架から目を逸らそうとし、イエス・キリストの前にひざまずくことを避けようとしたのであります。自分自身のすべての誇りを、本当、誇ることできないのですから。 本当に誇りに価するものがあって誇るなって言うんだったら、それはちょっと無理かもしれませんが、もともと誇ることはできないということなんですね。 それを知らされて、それをまた知らされるだけでなく、要求されているわけでありますけども、それを何とか認めようとせずに、逃げ惑い、何だかんだと言い訳をしてる者。それが私たちの姿であります。 イエス様のところに来る者は、罪人として来る者は、一切の誇りを砕かれたところの、本当のあわれむべき重荷に押し潰されようとして来た私たちであります。 イエス様のところに来る者は、私たちの重荷の原因であるものが何かをはっきりと示されるようになってきます。それが罪であります。罪こそが、私たちの重荷の原因であり、私たちの寂しさの原因であり、私たちの不安の、恐れの原因であり、私たちの家庭の破綻の原因であり、一切の原因は罪だということが、聖書の指摘するところでありま す。 罪を悔い改めて、罪から離れて、イエス・キリストを受け入れて、人は救われるのであります。自分の罪を知ること、また罪から離れて、イエス・キリストを受け入れるということ。これは大変なことであります。人間の努力や、人間の知恵でできることなどではないんですね。 人は自分自身の罪を知ることもできませんけれども、罪を知ったからといって、そこから離れるということ、あるいはイエス・キリストを自分の主として受け入れるということは、人間の力によってできるようなことではありません。神の救いのご計画によらなければ、ありえないことであります。すべては神ご自身の、人の思いを超えた救いの配慮によるというのが、聖書の言っていることであります。 ローマ人への手紙11:36
すべては神の御手からで、私たちはその恵みによって、この驚くべき救いに招き入れられている者であります。 |