引用聖句:マタイの福音書7章7節-8節
今読んでいただいたこのみことばは、非常に有名な聖書のみことばの一つであります。 求めなさいと、イエス様は仰いました。しかし、何を求めなさいとイエス様が仰っているかは、ここでは述べていらっしゃらない。何でも求めよと仰っているのでしょうか。あるいはそうかもしれませんけれども、ともかくイエス様は求めなさいと仰っています。 だれに対して求めなさいと仰っているのかも、ここでは直接に言っておられないのであります。 私たちのうちにある抑え難き求め。求めないでは止まないところのもの、そういうものにイエス様は目を留めて仰っておられるのじゃないかと思いますけれども、 マタイの福音書7:11
神さまは、私たちが心の中で求めてる、その求める思いをちゃんと知っておられるでしょうね。だからだれに求めたらいいのかわからなくても、私たちが求めて止まない思いさえ持っておれば、神さまはちゃんと私たちの心を見て導いてくださる。おそらくそう言って間違いないと思うんですね。 ですからイエス様は、だれに何を求めなさいとも仰らずに、ただ求めなさい、何でもいいから、膝繰りのようでもいいから求めなさい、そうすれば必ず私たちは出会うから、自分の求めてる確かなものにいきつくようになるから。 イエス様は、そのことをご存知でそのように仰られたのじゃないかなと思います。 旧約聖書の中には、神さまが、ダビデの後を継いで王位に着いたソロモンに夢の中で現われて、あなたに何を与えようか願えと、語られたという記事があります。 そのときソロモンは、「善悪を判断して、神の民をさばくために聞き分ける心を私に与えてください」と、答えたもんですから神が非常に喜ばれたと記されています。 「あなたは自分の長寿や富、敵のいのちを求めないで正しい判断力を求めたので、わたしははあなたにそれを与え、更にあなたの求めなかった富と誉れをも与えよう」と言われたと、聖書の中に記されております。 イエス様が、「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それにそえて、すべてのものは与えられる」と、仰ったみことばを思い出すんですね。 このほかにも、イエス様がご自分のあとに付いて来る見知らない青年に、一人はアンデレでありますけれども、アンデレに振り向いて、あなたがたは何を求めるのかと、尋ねられたことがヨハネの福音書の中に出ているのであります。 一体私たち自身は何を求めているのでしょうか。私たち自身の心の奥底にある欲求、抑え難き願い、それは一体何なのでしょうか。 結局のところ、人は意識するとしないとに関わらず、自分の求めているものを始終追っかけて生活しているわけですね。 一体何を求めているんでしょうか。特にこれといって追い求めているものなど自分にはないと、答える人もあるいはおられるかも知れません。 多くの若者たちは、音楽やスポーツを熱狂するようにして追い求めております。彼らは自己実現に向けて驀進、自分の可能性にかけようと、周りの大人や親の意見など耳に入らないかのようであります。彼らはいけるところまでいき、何かにガツーンとぶつからなければ、どうしても気が治まらないと思っているのであります。 私の勤めてる学校でも、中途退学する学生がよくでてきますけれども、聞いてみると、彼らにはやっぱりそういう思いといいますか、焦りがあるんですね。 このままじゃあ、勉強も身を入れてやる気にならないし、ブラブラしてるだけじゃ自分の人生はどうなるんだろうかという、やっぱりそういう焦りに似たものをもっています。 彼らのそういう動機はある意味でひたむきであります。ですからぼくはよくわかるんですね。自分で求めてるのがなんかわからないけれど、とにかくこれじゃダメだ。こんな中途半端なことじゃダメだ。そういう思いをもっているんですね。それで学校を辞めたいって言って来るわけなんです。 彼らはともかく、なんかをつかまえたいんですね。何かに向かって追い立てられるようにして求めてるわけなんですね。彼らは自分で、何を求めているのかよくわかってはいない。それは当然なんです。私たち自身がかつてそうだったから、よくわかるわけです。 ただ何かは知らないけれど、求めて止まないものが彼らの中にあるんです。彼らは結局そのような試みを通して自分自身を知りたい。自分が本当に何をやりたいのかを知りたいと、願っているのだと私は思います。 今の若者たちは、昔と違って豊かな世界に育ってきましたから、お金が欲しいとか、偉くなりたいとかと、いわゆる出世欲というのはあんまりもっていないようであります。そういう意味では、淡白なんです。 そのようなこととは少し次元の異なるもの。自分をかけれるものが欲しいと願っているようであります。お金だとか地位以上のものを望んでいる。要するに、生きがいそのものを追い求めていると、言えるかもしれないんです。 もしそうであれば、昔の人々よりもより人間的、より本質的、より根源的なものに心を向けるようになったと言えるかもしれないですね。 ぼくなんか田舎から出て来るときに、八十、九十くらいの爺さんが隣に、執事の爺さんがおりましたけれども、君は偉くなって先祖の名を上げなきゃなんて言われて、どうもちょっと場違いといいますか、どっかズレを感じたのであります。 日露戦争なんかに行ってる爺さんでしたから、あの時代の人というのは要するにそうなんです。当たり前なんですね。偉くなって、金もうんと貯めて、とにかく先祖の家の名をあげなきゃいけないというようなことを、一生懸命言うのであります。 なんかピンとこないですね、今の人々には。社会がそれだけ成熟してきたということだと言えると思うんですね。単にお金があればいいとか、社会的な地位を手に入れれば満足できるとか、もうそういう次元ではない。 それじゃあ満足できないのだということを、若者たちがそういうふうに知っているというわけであります。 そういう意味では、社会は一歩前進しているといいますか、人間がより根源的なもの、人間の本質的なものってものに、やっぱり向かって来てるんだというふうに言えるかもしれません。 逆に、だからこそまた迷いが一層深いのだと言えるかもしれないんですね。出来合いの目標ってのはないわけであります。だれもが、これだ!って思って行ったら、いわゆる立身出世のようなものではないんであります。 自分自身で手ごたえのある、これだ!と言えるものを彼らは一人一人が求めてるんですね。そういう意味で現代社会の若者たちの大きなさまよい、といいますか、それは、なんていいますか避けることのできない、彼らのもがきなんですね。 確かに今の若者たちは驚くような道徳的な退廃の中にあります。私たちが住んでいたー、二、三十年前の社会環境からしても、今は本当にびっくりするくらいな腐敗の中にあります。親だけが知らないのであります。 そういうところは、確かに大人たちから見て憂慮すべき大変な事態でありますけれども、しかし彼らがやっぱり何か求めているということ、それは間違いがないんですね。 物質的なものに飽き足りて、魂の渇きってものがなお一層切実になってくる。ヒリヒリするほどに人々の内面が渇いてる。あるいは、そういうふうに言えるかもしれませんね。 物的なものに満ち足りると、人は魂の渇きをさらに深く覚えると言えるかもしれません。 ともかく一見すると、人間の求めるものは種々雑多で、人によって異なるようにみえますけれども、それは極表面的なのであって、人間が本当の意味で求めているってものは、本質的には同じなんじゃないでしょうか。 同じものであるからこそ、イエス様は「求めなさい。」とだけ、ただ仰ったのじゃないでしょうか。結局人は、同じものを追い求めて止まないのだということなんじゃないでしょうか。 私も若い頃は、人は色々、それぞれ違うものを求めているように考えていましたけれど、そうではなくて、人間は実のところ心の奥底では同じものを求めているのではないかと思うんですね。ただそれをはっきり目の前に示されないと、自分の求めているものが「これなのだ。」と、なかなか気が付かないということなのかもしれません。 人間はだれでも、共通の根源的な抑えがたい魂の渇きというべきものをもっている、と言えるのじゃないでしょうか。 だれであっても、いいものはいいと思います。金メッキのものよりも、純金製のものの方が誰にとってもいいに決まっています。ただの欲望を満たす物質的なもの、一時的なものよりも、心と魂を満たすところのもの、永続的なもの、人間にとってより本質的なものが大切であるということは、誰でも知っているのであります。ただ具体的にそれがなんなのかを知らないのであります。 金メッキ製と、純金製とでは誰にでもすぐ見分けがつきますけれど、人間の魂に関わることは、容易に見分けがつかないのであります。だから人々は警戒をして、むしろ近づかないようにするのであります。 そのようなものを求める思いを抑えて、封印して、求める思いがいわば休眠状態にあるのじゃないでしょうか。特に大人としての分別がつくと、そういう問題に対しては非常に注意深くなって、尻込みをするのであります。 しかしなんだかのきっかけで、大人たちもまた目覚めるのであります。 伝道者の書3:11
人間は、永遠への憧れっていうものを抑えがたくもっている、それが人間の心の中にある渇きであり、本当の意味での魂の求めているものなのだと言えるんじゃないでしょうか。 どんなにこの世のものだけ求めているように見える人であっても、その人の魂の底には、そういう永遠なるもの、そういうものに対する抑えがたき思いがあるのだと、聖書は教えてるんですね。 そういうものを抑えがたくもっている者、それが人間なんだ、動物と違う、人間の本質なのだと聖書は言ってるわけで、神は人間を創られた時にご自身に似せて創られたと、創世記の中に不思議な言葉が書いていますけども、永遠を思う者として動物のもたないところのもの、霊的なものそういうものを人間だけがもっているのであります。 ですから人間は、いつでもこの思いに渇くようにしているわけなんですね。 この世の生活の中で、この世のことばっかりであくせくして無我夢中でいる時には、なかなかそれに自覚しないかもしれない。しかし自分の求めているものが、この世の与えるものとまた別のものだということに人間がはっきり気付くようになるためには、人間はそれを示されなければいけないんですね。 だから人は、訳がわからずに模索している、そういう長い時間があるんですけども、何らかのきっかけでそれに触れるときがやって来る。すなわち聖書のみことばに触れるときがやってくる。そのときに初めて自分が何を求めていたのかっていうことに人はだんだん気が付くようになってくるんじゃないかと思うんですね。 若者たちががむしゃらに、本当に訳わからずにして突進する。狂ったように音楽を、ギターを肌でですね、本当にこの踊り狂う。そういうのに人々が熱狂いたします。 スポーツに、サッカーに、何々ですね熱狂いたします。彼らは必死に何か求めて手探りしてるんですけども、実は自分たちが本当に求めているものはそれじゃないということに、なかなか気が付かない。 しかしああいう時代を通して、ああいう一時期を通って人は外側にではなくて、自分の内なるものに返って来ると言いますか、目を向けるようになってくる。それはどうも人間としての正常な成長の過程のようであります。 人間は、最初はひたすら外側のものに目を向けて、そういうものによって自分が満たされるかのように、一生懸命追っかけますが、しかしそういう時代を一時期過ぎると落ち着いてきて、自分自身ってものに目を向けるような、一種の脱皮するような段階に来るような気がいたしますね。 自分が本当に求めているもの、それは何なのか。人は聖書のみことばに触れることを通してハッと気付くんじゃないでしょうか。 神は人の心に永遠への思いを与えられた。私たちは永遠なるものに向かって実は渇いているのであります。人生における確かなもの、この消えゆくところのこの世とは違って、本当の揺るがないもの、これこそが確かなと言える人生におけるそういうもの。そういうものを本当は人は求めて止まないわけなんですね。イエス様はそのことをさして仰っているような気がするわけです。 詩篇42:1-2
排ガスだらけの都心にて、窒息しそうなそういうような状態が本当にすがすがしい軽井沢の、あの空気のような所に行くと、本当に生き返ったような気がいたします。 人間がホントにこの世のことだけで心とらわれて、その中でアップアップして窒息しそうになる、そういうたましいが神さまを見上げる永遠なるものに目を向けていく。そうすると私たちのたましいは、本当にホッといたします。新鮮な空気に触れるようにホッとし、新しい力をもらいます。 そういうふうな渇き、抑えがたき願いというものを人はもってるわけですが、そういう自分の求めているものが何かわからないで、模索していながら、しかし必ず私たちの人生の途上では、「あっ。これなんだ。」というものに出くわす時が来るんですね。 そのうち、本物に出会った人に出会う。自分が求めていて、よくわからなかったけれど、その本当のものに触れてそれをもってる人が、私たちの人生の途上に必ず現われてくださるのであります。そのときに、私たちは「あっ。これだ。」と思うわけですね。 人がクリスチャンになるのは、みんなそういう人との出会いを通してです。自分は別のものを思う方向にいたんだけれど、あるときに自分の前に人生の本当のものを知った人、救いを見出した人、真理に目が開かれた人、聖書を通してまことの神に出会った方々が自分の前に現われてくださいます。 そのときに私たちは、「これなのだ。」と、いうことを直感的に感ずるんじゃないでしょうかね。 私は学生時代にそういう出会い、ベック兄を通しての出会いに、また私の大学におられたクリスチャンの先生や、先輩たちを通しての出会いの機会があったわけであります。 私は盛んに別のものに向いてたんですけれども、思いがけずそういう方々が自分の前に現われたことを通して、聖書に触れるようになったんですね。 当時の自分自身のことを振り返ると、確かに今の若者たちと同じように何かわからずして求めて、がむしゃらに突き進んでいたわけであります。自分が求めているものが何かよくわからずにいて、思いもかけず聖書のみことばに触れるようになったのであります。 そして救いを提供されると、今度はそれから何とか逃れようとするのであります。聖書のみことばに触れ、救いにだんだん近づくんですけど、ところが真っ直ぐにそれに向かって進まないでです、何とかそこから逃れようとしたのであります。 しかし八方ふさがりになり、追い詰められてついに降参し、救いを受け入れると自分が求めていたものは本当にこれだったのだと、心の底から納得するのであります。 その救いというのは、そういう順序なんですね。大喜びで救いを受け入れたかと言うと、どうもそうじゃなかったんですね。 救いを求めていながら、救いを前にするとそこから何とか逃れようとするのであります。ですから自分が信仰に導き入れられたことを振り返ると、本当になんて言いますか、救いを見いだしたことはまったく自分の手柄にはならないんですね。全然自分の手柄ではないのであります。 まったく逆であって、自分が救いに導き入れられたことを思い起こす度に、そこにあるのは自分自身の愚かさと恥であり、神ご自身の正しさと、一方的な恵みであります。 罪の滅びに瀕していながら、なお救いを拒もうという二重の愚かさと恥がそこにあるのであります。 神さまと出会うということは、自分の本当の姿が実は明らかにされるということです。自分が知りたいと思わなかった、自分の本当の姿が実は、自分の目の前に明らかにされるということです。 ですから神さまとの出会い、すなわち私たちの救いというものは、本当に一方で言ったら自分の本当にみじめな恥の姿というものを明らかにされる、ということなんですね。神さまとの出会いというのは、そういうものです。 お一人お一人、主との出会いの経験を振り返ってみてください。自分のみじめさというものを本当に知らされたということが、そこに必ず一緒になっているんですね。 主はそのような形でしか、私たちをお救いにならないんです。私たちの愚かさや、みじめさや、恥というものを通してだけ人は神さまの救いの中に導き入れられていくからなんです。 それはなぜかというと、私たちが罪の根であるところの高ぶりから解放されるためです。私たちの内側にある誇りや高ぶりというものが、根本的に取り除かれるために、神は必ず私たちの本当のみじめな罪の状態を明らかになさることによって、ご自分の恵みを表わされるんです。なぜならば罪の根本にあるのは人間の傲慢だからです。 自分自身を誇ろうとする思いこそが罪の根であり、神さまが一番忌み嫌われるものだからであります。 ローマ人への手紙3:25-27
人が救われるのは、ただ一方的な主の恵みにより、信仰によってなんですね。それは私たちの誇りが取り除かれるためでもあるのであります。 繰り返し言うように、誇りこそ、高ぶりこそ私たちを過ちに陥らせ、破滅に導くところの罪の根っこにあるものだからであります。 (テープ A面 → B面) コリント人への手紙第I、1:26-29
エペソ人への手紙2:3-5、8-9
神さまのなさることは本当に不思議なことなんですね。主との出会い、私たちが救いというものを見いだす主との出会いの体験というのは本当に私たち自身にとっては、みじめ極まりない体験なんです。 しかしそれを通して、私たちは主の恵みと主の御栄えと言いますか、栄光におおわれるんですね。そういういつも二つのものと言いますか、その中に救いってのが現われてくる。 繰り返し言うように、それは人間ってものがもってる罪の性質、それを神が根本的に取り除こうとしていらっしゃるからなんですね。 高ぶりという人間の心の中にある牙みたいなもんですが、それが砕かれる、取り除かれる。狼のように鋭い牙をもっていた者でありますが、羊のように取り除かれる。まったく無力な者と言いますか、自分の力ではまったくどうしようもない者、そういう者に人は変えられる。 しかしそこに神さまの力が働いてくださいます。それが聖書が言っている新しい創造なんですね。主を知ることによって人間が新しく創られていくということがそこにあるわけであります。 ですから、いつも私たちは自分の救いの、あの体験っていうこと、主との出会いの経験ということを振り返る度に、本当に自分のみじめな罪と、主の救いの恵みというものをいつも思わされるのですね。繰り返し言ってるように、それは私たちが誇ることのないためであります。 先日、最近救われたある会社の社長さんの証しをお聞きしたのですけれども、主が人を救うためになさることはいつでも同じなのだと、改めて思ったものでした。人が救いに導かれるのは、みんな同じパターンを通るんですね。 主は、人が本当に降参し、主から離れる心配がなくなるまで、何度も何度も試練を与えられます。主のところに来て、「あー、これでやっと山を越えたか」と思って安心してると、更に山が立ちはだかってきます。結局自分自身では気付いていない、自分の心の底にあるこの世への思いを主は明らかにし、そのような者からはっきり決別しなくては、信仰に立つことはできないのだということを私たちに教えてこられるんです。 自分では、「あー、もう、これで何とか題解決した。あー、主を信じた。」と思っているんですが、実は自分の心の奥底にある問題は、もっともっと深いと思ってるんですね。 機会があれば、チャンスがあれば、いつでも主から離れてこの世に戻っていこうという人間の思いなんです。 そしてそのような主のレッスンを通して、訓練を通して、人は主から離れることがどんなに恐るべきことか、信仰を失うってことがどんなに絶望的なことかを学ぶようになるんですね。 神を信じ、イエス様を信ずるということは、文字通り「ALL OR NOTHING」なんです。すべてかゼロかなんですね。そのことをはっきり知らなければいけない。そして主から離れ、信仰を失うことのないように、私たちが心から恐れるようになると主の試練のときは過ぎ去るのであります。 そうでない限り、私たちが主とこの世とを両天秤にかけている限り、主の試練っていうのは取り去られないのであります。 ヤコブの手紙4:4
神さまを信じてると言いながらこの世に媚びてしまう、この世のご機嫌を取ろうとしてしまう、そういうところが私たちの内に残ってる限り、私たちの問題、試練は残ってるんですね。神さまはそのことをよくご存知なんです。そこを探っておられるということなんですね。 主を信ずるっていうことは、そこにはっきり一線を引くということなんです。そこにはっきりとした一線を引くときに、キリスト者としての背筋が伸びてくるんですね。そこに、凛たると言いますか、信仰の背骨というものがはっきり立つのであります。 主を信じている、主のものとしてこの世から贖い出されたと言いながら、いつもこの世っていうものの引力に引かれちゃ、そこに寄っていくと言いますか、あのロトみたいなもんですけども、いつもそこに段々段々にじり寄っていく、そこが問題なんですね。 神さまはそれを赦されない。それは非常に曖昧なものと言いますか、ミックスしたものなんですね。この世というものと信仰というものが。 霊的なるものと、肉的なるもの、いつも私たちはごちゃ混ぜにして、そこに何とか妥協を見出してそこに安住したいと思ってる。主はそれをちゃんとご存知であります。それを明らかにするために、主は私たちの内側を探ってこられる。それが試練ということの意味なんですね。 その六十過ぎの社長さんは、ここ一年くらいもう本当に追い詰められるようにして、半分ノイローゼになるくらいに、会社にはたして出れるかっていうくらいに、こんなお歳になりながら追い詰められていたんです。 ある兄弟の親友なんで。アメリカ赴任時代から長いお付き合いをしていらっしゃる。ご家族みたいに付き合ってらっしゃる方なんですけども、そういう意味では、私たちが救われて本当に純粋な信仰を主にもってるときに、私たちの意識しないところで主はそういう人を通して導いて来られるんですね。 ですから私たちが、ただ無条件に喜んで、信仰の喜びに私たちが浸って喜んでいるときに、私たちは意識しないんですけども、そういう時を通して主は新しい人を信仰に導いてくださいます。そういうことを通して、主は私たちの信仰を強めてくださいます。 このように、「あなたの信仰にわたしは報いているよ。」、そういうことを、そういう経験を通して主は教えてくださるんですね。 それは私たちの信仰、言ってみれば今の場合で言うと、兄弟の信仰というものを主は本当に励ましておられるということでもあります。そういう証しを通して、六十を過ぎた大きな会社の社長さんが、追い詰められて最初はもうほどほどにして、これは逃げようと思って、しばらく来られた後は逃げておられたらしいんですけども、かなり体調がおかしくなり、たまらなくなって、もういっぺん、兄姉に会わないように集会にソーーっといらしたらしいんですけども、そしたら息子さんに見つかって、握手までされて、そんなもんなんですよ、見られないようにと思って行くと必ず明るみに出される。 やっぱり神さまは、侮れないと言いますか、みんな見通していらっしゃるんですよね。本当にバレないようにとか、会わないようにと思って行くときにかぎって、隅に隠れておれない。 イエス様の後についてって、あのピラトの屋敷ですか、あそこまで行き大祭司の中庭に行って、明け方のまだ闇の中に半分身を潜めて隠れていようとしたペテロに、女中がわざわざ来て、「あなたはあのガリラヤ人と一緒でしたね。」、しかも3回も追い回してペテロを逃さない。 あれは、主が指さしてるんですよね、そこに隠れようとしているペテロを。 ヨナ書で、ヨナが主の御心に背いて逆方向に逃れようとして、渡りに船と商船に乗って地中海へ出てって、船の一番底の方に隠れて眠ってると、そうすると、嵐によって引っ張り出されて、ヨナがくじ引いたらヨナに当たる。神さまから逃れられる人はいないんですね。本当に私たちは主の目の前に置かれてるんです。 しかし主によってこういうふうに見張られてるっていうことは、本当に感謝なんですね。ありがたいことなんです。主から逃れられないってことは、本当に大きな祝福なんですよね。 私たちは時として、咎めるところを感じたりすると、主から逃れてソーっと隠れていたいと思いますが、神さまはそれを赦されない。私たちの、自分のありのままのみじめさ、自分の罪、咎、そういうものを主の前に明らかにして悔い改めない限り、主はいつも私たちを指さしておられる。 悔い改めることが、結局一番の早道なんですよね。なかなかそれをしないもんですから、バカなことをやるわけですね。主の前に、本当に頭を垂れて悔い改めて新しく立てば、立ち返れば、それで終わり。解決。咎めが取れるんですよ。そういうもんですね。これでいいかと思うと、また問題がのしかかって来る。そういうことですね。 兄弟が証ししておられましたけれども、二回も三回も試みが迫ってくる。それは今言ったように、私たちの立ち所を私たちがはっきり自覚するようになるためなんです。 主を信ずるとはどういうことなのか、はっきりそのことをわきまえるようになるためなんですね。主は中途半端なお方じゃないのだなあ、信仰というものは徹底したことを要求されるんだなあ、ということを私たちがはっきり知るためなんです。 考えてみれば、信仰と救いに勝るものは何もありません。これと比べればこの世の富も誉れもまったく比較にならないはずです。神ご自身にとらえられ、神ご自身にいつも監視されるようにして、いつも神さまに見張られているということ。神さま以外のものに心を奪われてはいけないと、主からいつもそのことを教えられるということ。場合によってはそのために鞭打たれるということ。これはある意味での大きな光栄のはずなんですね。 このことをなかなか悟らない、私たちは本当に愚かであります。自分自身を含めて、人間とはこれほどに御しがたいものであります。これが人間の罪の性質であります。だからこそ、この世を去るときまで油断するわけにいかないんですね。 クリスチャンはいつも目覚めていて、自分自身に気を付けなきゃいけない。聖書はそう言っているのであります。 信仰をもっているつもりでありながら、同じ問題から逃れられずに悩み続けるという場合が非常にありますね。 さっきも言ったように、その理由は明らかなんです。なかなかその理由に気が付かない場合が多いようですけども、それはその悩みが無くなれば、主を必要としないという思いがその人の内にあるからなんですね。 いわばその悩みによって、かろうじて主とつながれているわけです。その人がみずから主を愛そうとしないので、主は悩みによってその人をご自分につなぎ止めていらっしゃるということにほかなりません。 非常に悲しいことですけれども、これもまた人間に対する主の愛と忍耐のわざであります。 すべての良いものは主の中にあり、主を愛することに勝る祝福は単に無いにも関わらず、私たちが心から主を愛そうとしないので、主は私たちをそれに気が付くように、見放すことなく、悩みによって私たちをとらえ、ご自分から離されないのであります。 私たちが心から主を愛するようになれば...愛するようになるってことは、主を真実をもって愛し従おうと決心するということですよ。 自分の心の中で、自然に主を愛する愛が出てくるかのように、それを待ってて私はなかなか主を、主に対する愛がないっていうようなことをいうのは、それは誤解であります。 そうじゃないんですね。愛というのはやっぱり私たちの決心であります。 真実をもって、私のすべてを見通しておられる主の前に、あるがままの真実な、見せかけではなくて真実をもって主を愛そう。そして主の御心を大切にしよう。主を愛するっていうことは、イエス様が仰ったように、主の御心を大切にするってことですね。 主が私たちに語っていらっしゃるみことばを、私たちが本当に大切にするということであります。主を愛さない人は、主の言葉を軽んじます。ご主人を愛さない奥さんは、ご主人の言葉を軽んずるもんです。愛する相手の言葉は大切に受け取るものでしょ。 愛と真実というものは切り離すことのできないものです。信仰っていうのは、神さまの私たちに注がれている愛に対して、私たちもまたその真実をもって愛に応えよという、私たちの心からの決心ですよ。 そのときに、実は私たちを苦しめてきた問題もまた取り去られる、消えてゆくということを経験するはずです。たとえ同じ問題が残っていたとしても、もうその問題に悩まなくなるものです。逆にその問題に感謝さえするようになるんじゃないでしょうか。 この問題がなければ、私はもっとも大切なもの、信仰の真理に気がつかないままでいたであろうと、思うんじゃないでしょうか。 信仰とは、真実をもって主と向き合うことです。真実とは、一切の打算、損得勘定から離れた真心のことです。 主が求めておられるのは、そのような信頼、信仰なんですね。神さまが与えてくださるさまざまな恵みよりも、主ご自身に対して真実であるっていうことこそが、信仰の眼目だと思います。 主と真っ直ぐに真実に向き合う、そういう信仰のはっきりとした態度から力が生まれてくるんですね。問題に立ち向かうところの力も与えられてくるんですね。 問題に押し潰されない、揺るがない確信もそこから生まれてくるものです。 ちょうど一週間前に、ある姉妹の葬儀がありましたけれど、ここにいらっしゃる姉妹が証しを短くしてくださいました。ボロボロになったからだで、癌の痛みの中で、姉妹は心から喜んで、「私の祈りはすべてきかれた。」と、言われたということであります。 この世的に考えればまったく驚くべきことですけれども、姉妹の長ーい苦しみ、悩みに対する主の解決法。彼女のうめき、叫ぶような長い間の祈りに対する完全な解決はこれだ、と姉妹ご自身がはっきりと理解されたということなんですね。 彼女は、もう心から喜ばれたのであります。まったく奇蹟としか思えないのであります。極限状況の中で姉妹は、主ご自身こそ何ものにも勝る自分の分け前、自分の受け取り分だと悟られ、大いに喜ばれたのであります。 私も姉妹のそのご様子を拝見して、本当に感謝でした。彼女のあの長い悩み。どんなに人がアドバイスしても、彼女のその固い心、悩みに凝り固まった心を誰も開けることはできませんでした。それは堅い岩盤のようでした。 しかしだれも想像しなかったようなことを通して、絶望的な癌という病を通して、一気に主は彼女のその固い心を打ち砕かれました。解放されました。こっぱ微塵に彼女のその問題自身も砕かれたんですね。 あまりにもそれは短い、一瞬の出来事のようでしたから周りの人々は驚いたのであります。 改めてこの救いの素晴らしさ、この信仰の偉大さってものを目の当たりにするような気がいたしました。 本当に、私たちが与えられてる信仰に勝るものはない。これほど驚くべき力のあるものはないっていうことを見せられます。 詩篇16:2、5-6
主こそ私の私の受け取るべき土地である、私のゆずりの地所であるという意味ですね。 姉妹はこのことを、はっきり病床で、死の床で知られたわけであります。 詩篇34:1-3
聖書が私たちに示しているこの信仰、この救いというのは結局、私たちの全生涯をかけるべきものなんですね。私たちは主と出会って、ただ一つの目当て、主ご自身という目当てに向かって、自分のこの生涯をひたむきに歩まなければならないと、聖書は教えているわけであります。 それこそがすべてだからなんです。主を私たちのすべてとしたいものであります。ただこの一つの目当てだけを目指して、一生懸命走りたいものであります。 |