引用聖句:コリント人への手紙第I、10章31節
クリスチャンのあらゆる生活の、あるいは行動の目標は、これですよとパウロは示しています。これは、なんでもかんでもやるには、神様の栄光のために精進しなさいと言ってるのではなくて、私達の行動の最終の目標がそこにあることを見失ってはいけない、枝葉のところに入り込んで目標を失ってしまって、どうでも良いことに、お互いに争ったり、非難してはいけないと、前後の文脈では使っているものなんですね。 目標がなんであるか、そういうことをはっきり見れば、どうでも良いものは、どうでも良いものとして、そこから解放されていくわけですね。 この聖書の中に語られている内容は、大きく分ければ二種類のものがあるのではないかと思うのです。 ひとつは、間違いや、あいまいさがあってはならない事柄についてであって、それは信仰の土台に関する事柄です。聖書は、信仰の土台に関する事柄、すなわち救いという事柄に関しては、非常に明白であり、決してあいまいさを残していないと言えるのではないかと思うのですね。 イエス・キリストが、神の御子であるということ。イエス・キリストの十字架の死と復活という、歴史的な事実を通して、全人類に神さまの救いの道が開かれているということ。このことは、少しもあいまいを許さない、聖書のメッセージであります。 救いのみわざは歴史的事実として行われたこと。イエス・キリストは、今もよみがえり生きてらっしゃること。これについて、議論するひとはいないと思うのです。聖書を知ってるひと、イエス様を信じる人にこのことは明白なことであります。 自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主として信じるなら、誰でも救われることもまた、聖書の中で、ぜんぜんあいまいではありません。 救いというのは、何かについても、聖書ははっきり書いています。救いというのは、罪の支配から、イエス・キリストの支配の中に移されることである。救いというのは、私達が漠然と頭の中であることを解釈したり、理解することではなくて、私達の人生そのものが、生そのものが、自我と悪魔の支配から神の御子イエス・キリストの御支配の中に移されることであって、そのことを通して、神との交わりの中に生きるようになること。 神は命の源ですから、神との交わりを通して永遠の命に預かる者になること。このことも非常にはっきりと、聖書は語っていると思うのですね。 この神との交わりは、私達が肉体のくびきにある時だけではなくて、肉体が滅びた後も関係なく永遠に続いていくものであること。このことも聖書は語っています。 このような救いの事実に関することについては争う余地もないほど、明白でなければなりませんし、確実なものであるわけなんですね。 使徒の働き5:30-31
非常に明白に、語られています。 使徒の働き4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 非常に明白ではないでしょうか。 ローマ人への手紙10:9、13
聖書のみことばは、大切な救いについては少しもあいまいでないということ。100%の断言をしているということなんです。これがひとつ言うことができます。 またさらに聖書は、聖霊について、御霊は悔い改めと信仰へと導かれた人の心に宿ってくださるということ。そして、そのひとは、全く新しく造り変えて導き教えてくださるということ。このことも聖書ははっきり語っています。 テトスへの手紙3:5
誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと、イエス様はおっしゃいましたけれども、私達が本当に悔い改めて、イエス様を信ずる決心をする時に、わたしたちは御霊を頂く者になり、その御霊によって、私達の一番深いところが霊的に造り変えられ、そのことを通して、私達の全人格、全性質が変えられていくのですね。 どんなに自分の力でもあがいても、どうしようもなかった罪の束縛から、イエス様を信じる信仰によって造りかえられるならば、ひとは不思議なほどに、簡単にそこから解放されてくるのであります。 私達はそういう実例をいっぱい知っているんですね。そして、また、私達一人一人の救いの経験を通しても、そのことを知っています。それは、神が、御霊を通してなさることであります。 エペソ人への手紙1:13-14
聖霊こそが、私達の救いの証印であるということ。人はこの聖霊を受けることによって、神さまの語ってらっしゃることがわかるということ。それまでは、何がなんだかちんぷんかんぷんであったことがわかるのであります。 御霊を通してでなければ、私達は、聖書が言っていたことをほとんど理解することができないと思うのですね。本当に救いとは、悔い改めと信仰によって人が本当に砕かれて、神さまの前に光の中に出る時に与えられる、聖霊を通して行われるみわざであります。 このことについても、聖書ははっきり語っています。私達は、こういうことについて議論する余地はないと思います。 イエス様がやがて雲に乗り、万物を更新するために、完成なさるために天から下って来られること。これもまた議論の余地のないことではないでしょうか。 こういうふうに、聖書のメッセージの中には、非常にはっきりした事柄、すなわち信仰の土台に関する事柄がひとつあります。 もうひとつの事柄があると思いますね。それは、信仰の根本原則についてではなくて、この世におけるクリスチャンの信仰生活に関する事柄。あるいは、証しの生活に関するものが、もうひとつであります。 具体的に言いますと、教会というもの、集会というものが、いったいどういうふうにあることが正しいのだろうか? 最近、あちらでもこちらでも、普通の教会から出て来られる方々がいろんなふうに、吉祥寺集会のほうへ押し寄せて来られますね。こちらから、何も働きかけかないのに、古本屋で見つけた本を通してですとか、先日も、はじめて春日部に行きましたら、向こうの教会から、あの何十人、主だった人々が出てこられるわけなんですね。 わたしは、行きながら複雑な思いでいるのですね。本当に、悲しむべきことなんだろうか、喜ぶべきことなんだろうか。 日本中いたるところそうですね。それは、私達一人一人について、かなり深刻な問題を投げかけて来ているわけであります。 あるいはまた、集会や教会のあり方がどういうものかという重大問題がありますし、あるいは、個人的には、私達の生活の設計といいますか、どのようなものが信仰的に正しいのかという問題もありますね。 ひとりの姉妹が、生命保険にはいっていたら、今切り替えないと損をしますと言ってきたのですけど、どうでしょう。クリスチャンとして、生命保険はどんなもんでしょうと、私に尋ねられました。 もちろん、それは、お一人一人の問題ですから、ご自分で決めるべきことですけども、私達は、私達の考えを言いました。神を知らない人は、莫大な生命保険なんかをかけます。自分が残してやれるのは、この何億かの生命保険くらいだからと、私の友人なんかかけますけども、主を知ってるひとは、おのずから別の見方をすると思うのですよね。 そういうことが全く無駄だと言いませんけども、私達はやっぱり全能の主を、生きてらっしゃる方を信頼するなら、おのずとそこには違った見方、違った対処の仕方があると思うのですね。 何十年積み上げて、受け取ったらインフレの結果ほんのわずかな保険金を受け取ってみたり、いっぱい受け取ったらそれにあうほどの、おそらく問題を引き込んでみたり、私はおそらく必要ないんじゃないだろうか。わたしなら、もうちょっと別の対処をしますということで、お話ししたんですけど、こういう具体的、現実的問題が出てくるわけです。 それに対して、絶対的にこれが正しいという確実な答えを聖書は出しているのだろうか。私は出していないと思うのです。 それに対する答えは、これよりは、あれのほうが良い解決ではないかという性格のもの。すなわち、絶対的な性格のものではなくて、相対的な、その場合その場合に、私達がイエス様にあって判断されるべきものとして、聖書は語っているように思うのですね。 ですから、こういう問題については、聖書は信仰の原則問題と違って、こうではないでしょうかと、このほうがベターではないでしょうかと、あいまいさの残るそういう答えしか出てこないと言って良いのではないかと思うのですね。 そして、何がより良い方法であるか。何が、進むべき選択であるかということについては、私達が現実の結果を注意深く読み、観察し、判断し、選択すべきものではないかと思うのですね。 ここでは、信仰という根本原則に立ちながら、冷静な、公平な科学者のような目と態度が必要になるのではないかと思います。 クリスチャン達は、意外と公正のようでありながら、仲間内では、かなり偏狭なものです。これは、信仰者の持っている反面であると思いますけども、よく注意しなければならないことだと思います。 自分と考え方が違ったり、嫌だと思った事実は、なかなか頑固に認めようとしない。意固地になったり、偏屈になったりすることは捨てられなければならないわけであります。 わたくしたちが、正しい道を歩むためには、正しく見る目が、公平に見る目が必要であると思うのですね。どういう事情があったとしても、そのものを外に置いて私達が本当にまっすぐ主の前に、物事を見ていく目が必要と思うのです。 ですから、聖書の学びも、おのずから二つの種類がると思うのです。聖書のの確実な絶対的なメッセージ。答えが100%確実な救いについてのメッセージ。 もうひとつは、私がこのように思うのですがという、兄弟姉妹への示唆というか参考意見といいますか、そういうふうに私達が、それぞれの立場で主の前に導かれていかなければならないと、二種類あると思うのですね。 今言いましたように、集会のあり方とか、集会の運営や組織という問題。集会に関する問題。私達の個人的な生活の設計における主の導きと、私たち自身の計画はどういう関係に立っているのかは、いつもクリスチャンを悩ます難問のひとつであると思います。 主の導きを、わたしたちがどういうふうに吟味するべきなのか、それは、いつも私達がぶつかりあったりする、簡単に割り切れない問題なのではないかと思います。 クリスチャンの生涯は、この問題の狭間にあって、右にゆれ、左にゆれ試行錯誤しながら、前進していくものではないかと思うのです。 たとえば極端な場合には、こういう立場があるんですね。一切の計画を初めから立てません。すべてを主の導きにゆだねるのだ。これこそが正しい信仰の立場だという考え方であります。 もうひとつの立場は、一切の事柄を用意周到に計画し、その計画に従って進行すべきだという立場。極端に言えば、神はもちろん、私達人間に計画する能力、計算する能力、判断する能力、すなわち理性を与えられていますから、神様から与えられた能力を用いることは当然のことであります。 しかし、その能力を信仰の支配のもとに置く必要がある。信仰の支配のもとに置いて、私達は与えられた理性を用いることが、聖書の原則だと思うのです。 信仰抜きに、祈り抜きに、自分の能力を生のままで用いることは正しくないと聖書は言っています。簡単に言ったら、私達はよく祈りながら十分に計画すべきであり、十分に手配し、用意すべきですが、その計画を絶対のものと考えてはいけないのであります。 いつでも、主が介入してくださる余地を、私達は残しておいて、いつでも自分で考えた計画を修整できる、柔軟な態度を保っておくことが信仰の態度だと言えると思うのですね。 人間が、神さまの御心をぜんぶ、真理を知る尽くすことができるなら、私達の決定や計画は動かないものとして良いのですけども、しかし絶対にそういうことはあり得ないのです。 私達の知りえるのは、ほんのわずかな部分にすぎないのであります。 コリント人への手紙第I、13:8-12
聖書は、繰り返し人間が知ってることが、ほんのわずかでしかないこと、それがすべてであるかのように思い違いをしてはならないと、警告をしいていると思うのです。 聖書は、知識に頼ることを非常に戒めていると思います。それは、本当に私達の能力が限られているからであります。神は、私達が持っている能力をすべてご存知であります。そして、それを正しく用いれば、十分に解決できる問題しか私達には与えられないということであります。 100の能力を与えられているひとには、100の問題を。10の能力しか与えられていないひとには、10の問題を解くように言われているわけであります。 私達、人間の世界では、多くの問題を解く人こそ高い評価を受けますけど、神の御前には決してそうではありません。神に与えられた能力を正しく用いたかどうか。単なる結果ではなく、用い方が評価されるのが原則であります。 マタイの福音書25:14-21
よく知られているたとえ話ですね。タンラントというのは、当時のお金の単位なのですけど、これが才能の意味になったり、映画のタレントさんになったりして面白いのですけど、語源はこの聖書のタラントってお金の単位なのですね。 5タラントもうけた人にも、2タラント儲けた人にも、主人がが一字一句全く変わらぬ言葉を与えていることは、深い意味があると思うのですね。神様の前において、結果が単に大きい小さいかは問題になっていないのですね。わたしたちが、神さまから預けられた賜物を正しく運用したかどうか。 本当によく言われるように、管理。わたしたちは管理者、わたしたちの目に見えない精神的な能力の管理者、私達の持っている財産の管理者、時間の管理者、3つの管理者だと思うのですけど、それを正しく管理しているかが問われると思うのです。 パウロは、その管理者にとって必要なのは、忠実さということだと言い換えていますけど、忠実さを問われるわけですね。善かつ忠なるしもべと、昔しの訳にある、これが最高の主のほめ言葉である、主のご褒美の言葉かもしれません。 与えられた賜物を正しく用いる動力は、何かというと、私達の神ご自身に対する愛であると言っているのです。 24節からのところを見てください。 マタイの福音書25:24-25
この、1タンラントの者の目から見る主人とは、散らさない所から集めるひどい方と写ったのです。これこそが、彼の根本的な問題だったようです。神さまの救いを知っている人と、知らない人の大きな違いは、やっぱり神をどういうふうに感じているかということではないでしょうか。 神は厳しい方であるとか、恐い方であるとか。人を朝から晩まで見張る、実に困った方であると、この世の人は思うかもしれません。しかし、主を知っている人は、深い安心と、感謝の源です。 自分の弱さを知り、自分の本当の愚かさと罪深さを知られていることは、決して嫌なことではなく、私達にとって、大きな慰めです。 この1タラント預かったしもべの根本的な問題は、ひどい方だと主人を見ていたことなんですね。 マタイの福音書25:26-29
神さまは、私達の行う行為の単なる結果ではなくて、ご自身に対する私達の魂のあり方、心のあり方ということを、一番見ていらっしゃいます。それは、人間の生ける人格の交わりである限りそうでしょうね。 どんなに能力のない、たとえば発達に遅延のある子供でも、その生き生きとした愛をもって、親を慕ってくれば、もう親は、ほかのもの何もいらないと思いますよね。本当に、それこそが、人格と人格の触れ合いです。 人格は、相手を手段と見ないからです。相手は、いつもその人格にとって、目的だからです。神は、わたしたちの何らかの手段ではないし、私達も神さまの手段ではありません。 私達は、交わりそのものが、お互いがお互いの目的そのものなんですね。現代社会が、すべての人が手段でしかない。あらゆる人が、互いに手段でしかない。そこに現代社会が持っている逆立ちがあると言われていますけど、人間と人間の本来の交わりは、お互いが、お互いにとって目的そのものであること。そういうことなんですね。 ですから、能力の大きい小さい。計画がうまく実行できたかどうかということは、神の御前において、決定的な意味を決して持たないということであります。 ですから、私達の生活における計画、判断が良いことに越したことはないですけれども、それらは、絶対のものでは決してないということであります。 それらは、神の御前に置いては、結局、五十歩、百歩の問題なのであります。大切なことは、私達が自分の無知と、無力さを深く自覚しながら、いつでも主が介入されるのを受け入れる用意をするということ。そのために、祈りをもちつつ、用意し、実行しようという態度を持つことではないでしょうか。 結果は大事でないということで、不熱心や怠慢を正当化しょようとするなら、それはおかしいことですね。私達は、すりかえてはいけないのであって、主の前に勤しむ者でなければならないのは、いうまでもないと思うのですね。 しかし、自分たちが作り上げた集会の組織だとか、個人的な生活設計が動かないものとして、絶対なものとして、勘違いしてはいけない。律法主義、パリサイ主義と言われるものの問題がそこにあるのです。 では主の介入、主が介入なさるとは、どういうことなのでしょうか。何によって、私達は主の介入を判断し、主の御心を判断するのでしょうか。 それは、やっぱり私達の歩む歩みが結ぶ実によって、主は私達が、ご自分の御心を段階段階において示しておられると思うのですよね。だから私達は、注意して、そこから生まれてくる信仰の実がなんであるかということを、ことあるごとに、注意していなければならないと聖書は言っているように思います。 マタイの福音書7:15-20
さっきも言ったように、私達の現実の歩み、あるいは私達の集会というものあり方、私達の個人的な生活のあり方、この証の場が御心にかなったものであるかの解答は、さっき申し上げたように、こっちの方がより良いのではないか、こっちの方がよりすぐれているのでは、という判断する性質ものものだと思います。 その場合やっぱり、私達は冷静な、深く物事を見抜く目を持って、注意深く判断しなければならない。その結果はじめて、私達はより良い方法を主から示されるのだと思うのでよね。 具体的に言うと、この集会の中に、この生活の中に、聖霊の支配による自由があるだろうか?この交わりの中に本当の意味での霊的な解放があるのだろうか? そういうのは、やっぱり信仰の実として、大切な基準ではないだろうかと思うのですね。 コリント人への手紙第II、3:16-18
そこに聖霊のご支配があるかどうか、そのことによる自由と喜びがあるかどうか、そういうことが、私たちがよく見分けるべき重要な点ではないかと思うのですね。 第二に、その自由が、私達をわがままな、好き勝手に導く誤った自由ではなくて、信仰の徳を高める本当の自由。そうなのかどうかという問題です。 ガラテヤ人への手紙5:13
肉の働く機会にしないで、愛を持って互いに仕えあうという、信仰の実が結ばれているかどうか、これもやっぱりよく見ておかなければならない基準だと思うのですね。 そこの交わりを通して、クリスチャン一人一人が成長し、主の目的であるところの、キリストご自身に似た者と変えられていくかどうかも大切な基準であると思うのですね。 エペソ人への手紙4:11-13
そこにおいて、一人一人が成長させらえているのか。霊的にキリストの身たけにまで達するためであると書いてありますけども、そういうような交わりが、集会において、あるいは個人的な歩みにおいて見られるかどうか、それがひとつの点だと思うのですね。 さらに、クリスチャンが単に自分達だけの自己満足に終わらないで、自分たちの交わりに祝されるだけに終わらず、まだ主を知らない人々への救いのために、熱心な態度を持っているかどうかも大切な点ではないでしょうか。 他の人々の救いについて熱心でない信仰、自己犠牲のない信仰は、よどんだ水のように腐敗していくものだと聖書は言っているのです ね。 マタイの福音書10:7-8
主は、私達が救霊に熱心であること、その働きのために仕える態度をしっかり持っている必要性を、ここで語っているのですね。 コリント人への手紙第II、8:1-5
マケドニヤの諸教会の信仰が、熱く燃えていたことがわかりますね。彼らは御心に従って、まず自分自身を主に捧げた。そこから、自分の、自分自身を犠牲にすることをなんとも思わない、喜ぶエネルギーが出てきたのであります。 私達がこういう態度をとるならば、神はさらに私達を満たしてくださると聖書は言っているのですね。私達が、自分自身の中に自己満足してしまうと、私達は本当にパワーを失い、枯渇させてしまうと言っています。 コリント人への手紙第II、9:6-8
このように、いくつかの基準から私達は、私達の集会における交わり、集会のあり方について判断することができると思うのですね。おそらく集会を導いておられる兄弟姉妹は、そういうところから見ておられるのではないか。その結ぶ実を見て、これはいけないとか、この方向は正しいとか、導きを主から受けていると思うのです。 その方向は、具体的にその時々の結果を見ながら主から示されていくものではないか。 結論として言えることは、今言った私達の信仰の証しにかかわること、集会のあり方にかかわること、あるいは個人的な計画にかかわることは、それらがどんなに考えられ周到なものであっても、それらは単に手段でしかないということなのです。 どういう仕組みが良いか。それは何のためにあるかと言えば、ひとつの目的のために使う手段だからですね。ですからそれらの定めや仕組みを不動のものとして、絶対のものとして考えて、肝心な大切な目的を見失うことがあってはいけない。 手段と目的がひっくりかえってしまって、手段が目的のように、それ自身のために守られ、それに従うことこそが肝心であるとなってしまう時に、聖書の言っている律法主義が出てくるのではないかと思うのです。 だから、集会というものの目的、個人的な信仰生活の目的に照らしながら、祈りながら吟味し検討するというのが正しい態度ではないかと思うのです。 マルコの福音書2:23-24、27-28
安息日の目的はなんですか?それは主を中心とし、主を礼拝するためのものなんですね。安息日というのは、「穂を摘んではいけないとか、何キロまでなら歩いてよいとか、そんな馬鹿なことのためにあるのではない。」とイエス様はおっしゃっているのです。 安息日になると、本当に細かい馬鹿みたいな規則があったわけです。それを守ることがすべてになっている。そのことに対して、「そうではない。安息日というのは、主のために、主を礼拝するために、主と人との交わりのためにある。それを殺してはならない。」 小さなことをいっぱい定めて、それが目的のようになってしまう。それをパウロは、「文字は殺し、御霊は生かすのです。」と言っているのですね。律法という手段であるべきものが、すっかり目的化して、人間を支配してしまう。それを守らない者は裁かれてしまう、律法主義、パリサイ主義が出てきてしまう。 イエス様は肝心なものはそれではないと、おっしゃています。 マルコの福音書12:28-31
神を愛すること。人を愛すること。これが律法の目的なのだと言っているのです。かつては適切であったものが、今は不適切になることも多くあると思うのですね。 ですから、動かない所の目的の手段。その手段はいろいろあり得るわけであります。ですから私達は、目的は何かをはっきり意識する必要があると思うのですね。 そして、その目的の手段というものは、その時々によって、私達は変えることができるし、今までそうだと思っても、取りやめることができるし、状況が変わったら今度はこうしようということもできます。 そういう意味で、目的と手段との違いをはっきりと見ていく。そのことで無用な誤解をする必要がない。目的については真剣に争う必要があるかもしれませんが、手段であれば、別に争う必要はないのであります。 どちらがベターであるかという判断ですから、やっぱり経験が豊かな人々の話を聞いたり、自分に気がつかないものを教えてもらったり、そういうことで、私達はそれを良き判断の資料にすることはできると思うのですね。 ですから、私達の証しの目的が何であるか、はっきり見ておくならば、私達がどういうふうに歩まなければならないか、何が集会として進むべき道であるかを導き出されると思うのですね。 ローマ人への手紙14:5-8
パウロがここで言っているのは、一番大事なものは、生きるのも死ぬのも主のためと言う、これが一番大事な目的なのです。あとは、どの日を大事にするとか、何を食べるとか、どうでも良いことだと言っているのです。 ローマ人への手紙14:16-17
ここでも、目的を言い換えていますね、神の国、信仰の目的とは義と平和と聖霊による喜び。これがクリスチャンの証しの目的。あとのことは、その一人一人、本当に主のために確信を持っている所に従って歩みなさいということだと思うのです。 集会で責任を持っておられるベック兄などは、何を判断基準にして、集会というものを見ておられるかと思いながら、その交わりに、本当に生き生きとした喜びがあるかどうか?そこに、本当に、求めてる人々が導かれているかどうか?悔い改めと信仰の起こされている人々が本当にいるかどうか? それが、私達が正しく評価すべき事実であって、それを「ああだ、こうだ」と詭弁を使って捻じ曲げてみたり、自己弁解したり、そういうことは非常に多いのですが、そういうことをやってるならば、私達は、実を結ぶことはできない。大切な、自分達の職務をないがしろにしてしまう。そういう思いで見ていらっしゃるのではと思うのですよね。 教会を批判するとかなんとかって、随分いろんな反論を受けておられるようですけども、そういう次元の問題ではない。 やっぱり、そこに本当に集会、教会の目的であるところの、救いの業が起こされてきて、多くの人々が、どうしようもない悩み、口で言い表すことのできない悩みの中にいる人々がいらっしゃるのですが、そういう人々が、本当に光と解放を見出しているかどうか。 そういうことを、やっぱり私達は、公平に見る必要があると思うのですね。そして、それがそうであるならば、私達もそれを受け入れる必要もあると思うのですよ。そうでなかったら私達が裁かれることになると思うのです。 今言ったように、それらは絶対的な方法ではないのですね。それらは、よりよい方法として主が示されるものであります。 より良い主の御心にかなった交わり。クリスチャンたちのあり方、集い、それはベターな道を選ぶことを示され、それは手段の問題ですから、そのより良い手段を判別する、そのために必要なものは、生きた熱心な信仰を持って、目的に近づこうとしているかどうか、主に対する姿勢ではないでしょうか。 この姿勢がある時に正しい、よりよい道を見出していき、実を結ぶことができると思うのですね。あくまでも大切なことは、私達が自分達に与えられた使命を、正しく真剣に果たそうとする事が根本にあるかどうか問われているのですね。 今日申し上げたことは、私自身にとっても、長い間問題としてあったことですのでお話ししたのですけども、一回、どういうふうに、教会というもの、集会というもの、あるいは、我々の交わりがあるのが正しいのか、この問題について教えられたのでお話ししました。 ぜひ、お一人一人の問題としてもあるはずですので、それを参考にして頂けたらと思います。 |