引用聖句:ヘブル人への手紙11章16節
もう何年か前ですけれども、NHKの時代劇のドラマに、仲代達也という有名な名優が演じていて、非常にすばらしい劇だなと思ったのに、『三屋清左衛門残日録』という、藤沢周平の、作品が演じられていました。 「残日録」その家督を息子に譲って、引退をしてる初老の侍の日常を描いた作品だったんです。もう日が暮れかかっているけれど、まだ日没までには少し間がある。それを「残日」と呼んでおります。「残日録」、ぼくはこの本は読んだことはありませんけれども、そのドラマの最初に、そういうナレーションが入ってくるんですね。 もう日が暮れているけれど、日没までにまだ少しまだ、人生のそういうところにさしかかっている初老の人物の終焉を描いた、非常に心温まるようなドラマが、何回か放映されました。 私たち人間っていうのは誰でも、自分の人生は確かに終わりに向かって進んでるけれど、しかしまったく終わるまでには、まだ少し間がある。本当はわかりませんね。本当はどうかわかりませんけれども、みんなそう思ってるわけであります。 ここにいらっしゃる老兄弟姉妹たちは、本当にもう日が暮れかかっていますが、しかし日没までにはまだ少し間があります。西の空がまだ明るみを残しております。そういう実感でしょうね。 前にいっらっしゃる二人の若い兄弟たちは、「いやー、まだまだお日さまは頭の上にすら昇ってはいない。これからである。」、おそらくそういう思いを持っていらっしゃるだろうと思います。 いずれにしても私たちは、静まって、振り返るときに、自分の人生の歩みはこれでいいのだろうかという思いを持たざるを得ません。それは若くても、年老いていてもであります。この地上での一度限りの人生を私たちは生きておりますけれども、せっかくの人生ですから、これを無駄に浪費することなく大事にしたい、価値ある人生を生きたいと願わないわけにはいかないわけであります。 世の中にはもう、初めっから投げやりに、この貴重な人生を、もう捨て鉢になって生きるって人は、稀にはいるわけでありますけれども、多くの人々はそうは生きれない。そういう思いを持たざるを得ないわけですね。 それは当然であります。いくらでも無尽蔵にあるものならば、浪費しようがどうしようが構いませんけれど、ただ一度限り、ただ一つの、一つであるというところに、この私たちの人生の、また人間のいのちのかけがえのなさの理由があるわけです。 それではいったいかけがえのない人生を大切に、大事に生きるとはどういうことなんだろうか。本当に価値ある人生とは何だろうか。永続的な意味を用いる人生とはいったい何か。 だれもがこういう問いをもつわけであります。そういうこと考えない人はいない。そこが、人間の人間たるところのはずです。人間だけが、自分の生きるということに対して、そういう問いを問い続けて止まないわけであります。 動物はそういうことありえないですね。聖書が言っているように、それは人間が永遠への思いというものを与えられている霊的な存在だからでしょうね。 永遠というものを人間はすでに知っている。教えられていないけれども、そういうこと知ってるもんですから、だから人は、この限られた人生というものをいかにしたら意味あるものに、すなわち永遠なるものにつなげていくことができるかという思いを、誰もが心の奥底、たましいの底にもつわけであります。 それに対する答えを見出さなければならないということなんですけれども、まず大きく二つの生き方が区別できるのではないかと思います。 一つは、この世をすべてとして生きるという生き方であります。神の存在を認めることをせず、永遠の世界というものを信じようとはしないで、ただこの世での生き甲斐、ただこの世でのいわゆる成功というものを追い求めて生きるという生き方。これが一つの典型的な生き方であります。 この世で成功するためには、いったい何が必要なんでしょうか。いうまでもなく、この世の求めていることに、他の人々よりもよく応えることができる。この世が要求するものを、だれよりもよく差し出すことができるという人こそが、この世で成功する人であります。 この世の求めに応じることができなければ、この世的には脱落者ですよ。成功というのは、相手が求めるものを的確にだれよりもよく差し出すことができる人なわけであります。要するに、この世の流れによって、あるいはこの世の流れを先取りして、これに応えることができる人間こそが、この世の成功者になれるんじゃないでしょうか。 ですから、ぼやっとしている人は成功者になりませんね。目から鼻に抜けるといいますけども、そういう非常に機敏な人、太閤秀吉みたいなそういう人でなければ、取り残されていってしまうわけであります。 要するにこの世が何を求めてるのかということを先取りして、それに応えていくということ、この世の企業なんていうのはみんなそうですよね。この世の生涯というのは、みんなそうであります。そういう人がビジネスで成功するわけであります。 また何事かにおいて成功しようと思えば、それを好きであるということが、欠かせない条件でしょうね。優れた音楽家になるには、音楽が好きで好きでたまらないということが、おそらく絶対条件でしょう。 寝ても覚めても音楽のことが、メロディーが響いてくるとか、そういう人でないと本当の意味で、きちっとした音楽になれないでしょうね。そして、優れた音楽家を心から尊敬し、音楽の価値を信じて疑わないそういうことが、成功の条件であるはずであります。 逆に言えば、自分が心の中で軽蔑していることにおいて、人は絶対成功することはできないというか、はずですよね。心の中で、「つまらん。」なんて思っていること、やっているなら成功することは絶対にありえない。そりゃそうであります。 成功するためには、自分がやろうと思っているものを、本当に尊ばなきゃいけないんですね。尊いことだと信じてなきゃいけないわけであります。ですから、この世で私たちが成功するためには、この世の価値を信じ、この世の誉れってものを大事にするのでなきゃなんないわけです。 この世の価値に疑問を感じ、どうしても心の底から共感できないという人は、この世で成功することはできないはずであります。この世というものは、この世を敬い、尊敬し、この世ってものの価値を慕う人間に対してだけ、この世の成功という誉れを与えてくれるはずであります。自分を心の中で軽蔑する人間に、名誉を与える人間などというのはどこにもいないわけです。 王さまが家臣に名誉を与えるってときには、本当に自分を心底敬ってくれる、その家臣に栄誉を与えるわけであって、自分を心の中で馬鹿にしてる家臣に、「おまえは立派だ。」と言って勲章あげる人いませんよね。たとえ相手がどんなにできようと、そんなことありえないわけであります。 そういうわけで、何事かにおいて成功したいならば、それを心から尊ぶ、尊いものだと本当にわれわれが思うということ、そういう態度を取るということが欠かせない条件でしょうね。 心の中で軽蔑しながら成功だけしようってのは、ちょっと虫が良すぎるだろうし、そうはいかないわけであります。 こうして、この世をすべてとし、この世の成功を追い求めることによって、自分の人生を価値ある人生としたい。このような生き方をしている人々は私たちの周りにたくさんいるわけであります。 そのように、生きる気力の無い人は、一種の人生の敗北者というような感じですね。職場で輝いているように見えるのは、そういうふうな生き方をしている人々じゃないでしょうか。 もちろん、ただの利己的動機からだけ、自分の成功を追い求めているというのではないでしょうけれども、世のため、人のために役立ちたいという願いもあるに違いないけれども、いずれにしても、この世というものが生き甲斐のすべてで、こういう一つの生き方、一番多く見られる生き方があるということですね。 これは私たちがよく、毎日接している人々の生き方であります。 もう一つの生き方は、この世をすべてとすることには、どうしても満足できない。この世をすべてとして生きるっていう生き方には耐えられない、永遠なる世界に目を向けて、生きようという、そういう生き方ですね。 すなわち、聖書を通しまことの神さまの存在を知るようになったということによって、この神さまの御前に、神さまの基準によって、価値ある生き方をしたいと願うようになった人々の生き方であります。 クリスチャンの求める生き方というのは、結局それであります。私たちもかつてはこの世がすべてだと考えて生きていた者ですけれども、聖書を知るようになって、この世っていうものが過ぎ行くものであるということ、だからそこに永遠の価値を求めようとしてはならないということ、永遠なるものはただまことの主なる神ご自身だけだということ、そのことを、私たちは知るようになったんですね。 そして、そこに心を向けなかったらもう生きていけない。この世だけの人生っていうのは望みがない。そういうことを知るようになった。 霊的な渇きを常に心の中に持つようになった。この世のものだけでは、どうしても満ち足ることができないという、そういう渇き。霊の渇きというものを与えられるようになった。それがまことの神さまを知るようになった人々、クリスチャンの生き方であります。 このふたつの生き方は、本質的に、根本的に違うんですね。西と東が違うように違う。とんでもないほどに違うということになってきます。そこに、私たちクリスチャンの、何ていうのかな、人生におけるひとつの闘いといいますか、過ぎ行くこの地上に身を置きながら、毎日毎日この地上の生活をしなきゃならないという課題をもちながら、しかも永遠っていう世界に目を向け、そこに自分の目的と意味ってものを置いてる生き方。こういう私たちのあり方が出てきますね。 そういう意味で、クリスチャンってのは二元的な存在って言っていいかもしれませんね。このつかの間の地上に足を踏みながら、永遠なるものにたましいを向けて生きるという生き方。 クリスチャンでない人々は、そんなふたつのものもたないんですよ。ただひとつですね。一元的と言いますか。このひとつですね。だから、この世の人にはクリスチャンのもってるような問題というのは出てこないですね。 クリスチャンはこのふたつの間に置かれているってところに、私たちの日々の、クリスチャンとして生きる課題が日々出てくる。ある意味でのクリスチャンたちの闘いの課題。クリスチャンだけしか知らない悩みが出てきますでしょう。 今、姉妹が、お嬢さんが未信者の男性と結婚しましたと、悲しい報告をいたしましたけれども、こんなことはこの世の人だったら悲しまないです。「やー、めでたい、めでたいじゃないですか。」 だけど、クリスチャンだから、心の中に深い悲しみや痛みというものを覚えるわけです。神さまを信じ、神さまを知っていながら、この世の人と同じようなところに帰って行く。それはクリスチャンのもつ痛みですよね。私たちはそういう痛みをいつも受けるんですね。クリスチャンならではの悲しみですよね。 パウロが言ってるように、「私のうちに深い悲しみがある。私は神さまの前に真実を語らん。私のうちに深い悲しみがある。」と、彼は手紙の中で書いてますけども、それは神さまに背いてる同族のユダヤ人に対する、彼の耐え難いような悲しみのことだったんですね。 とにかく、とんでもないほどに異なるのであります。聖書のいたるところにそれは出てきますから、私たちはこれに目を閉じるわけにはいかないですね。 例えば、 ペテロの手紙第I、1:13-17
ペテロの手紙第I、4:7-10
万物の終わりが近づきました。ですから祈りのために心を整え身を慎みなさい。クリスチャンというのは、そういうふうに生きなきゃならないものだと言ってるんですね。 私たちに与えられているさまざまな能力は、神さまからの預かりものだから、その恵みの良き管理者として、正しく用いるように気を付けなさい。そういうことを繰り返し語っているわけであります。 ペテロだけじゃなくて、聖書全体がそう言ってるんですね。ペテロの手紙第IIの3章、ここの部分はもっとすごいことが書いてあります。 ペテロの手紙第II、3:10-13
これなどは、もうこの世のあらゆる価値観とは隔絶しております。この地上の一切のものが、音をたててくずれ落ちるのだ。焼き払われてしまうのだ。だからあなたがたは、それに耐え得る、正しい信仰の歩みをしなければならない。そう言ってるんですね。 この二つの生き方には、今言ったように、根本的な違いが、まるで水と油のように違うわけであります。 私たちは日々、こういうみことばに接していますから、この世の中に無自覚に出て行こうとすると、引き止められてきますよね。「ちょっと待て。おまえはそれでいいのか。」と、しょっちゅう、このみことばによって引き戻され、問い直されてるわけであります。 それが私たちクリスチャンの、日々の歩みになるわけですね。自分の人生のすべての意味と目的が置かれているところが違うのですから、この世の人の生き方とクリスチャンの生き方とは、はっきり違わなければいけない。 同じで、見分けがつかないんであれば、それは私たちの信仰というのが疑わしいと言わざるを得ないでしょうね。 私の教員仲間たち、広く研究者といわれる人々の世界でも、時々クリスチャンと称する人々に出会います。けれども、どうもそういう方々にとっては、神の国よりも仲間うちの、この世の学会の方が権威があって、尊いかのような印象を受けることが多いのであります。 クリスチャンであるという信仰なんか、申し訳程度って言っちゃ悪いけれども、何かそんな感じがするんですね。 私のかつての仲間には、クリスチャン系の大学の教員に変わるために、にわかクリスチャンになって、突然年賀状に、主の御名をあがめますなんて書いてきて、驚いちゃった男がおります。 どういうつもりでいったい信仰告白といいますか、それをしたんだろうかと思うんですけれども。神を信じ、キリストを信ずるということが、どんなに重たいことかっていうことに気が付いていないんですね。少し真面目になりゃわかるはずであります。 神の御子が十字架にかかるということ。私たちの二千年に及ぶ大先輩たちや、数々の多くのクリスチャンたちが、多くの場合殉教の死を遂げてきました。自分の一切のものを、彼らは信仰のために投げ出していきました。 そういう歴史っていうことを少しでも真面目に考えれば、私たちはそんな安直に、ちょっと仕事を得るための条件にクリスチャン信仰が必要であるってことじゃ、私もクリスチャンになります、そういう誓約は、これは人間性の問題になってくるんじゃないかという気がしますね。 この世の有利な立場を手に入れるために、神を利用するということは非常に危険だ、神さまに対する冒涜であります。そのことに気が付かないですね。 マタイの福音書6:19-21
マタイの福音書6:24
天国に属し、この世にも属するわけにはいかない。二重国籍はダメだと言ってるんですね。どちらかでなければいけないということであります。 今言ったように、イエス様が仰ってるように、人は二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、一方を重んじて他方を軽んずるからだとありますけれど、 聖書が私たちに示してる信仰、永遠のいのちへの道、不滅のいのちが提供されている。 それを受け取るのが信仰でありますけども、その価値はまったく知らない。あるいはまったく無関心で、信仰ってものを手軽に考えてる人々も多くいるのであります。少しばかりの報酬や待遇の良さと、地位の安定と、世間の評判のために、永遠のいのちを取り逃がしてしまうのではないかと思うんですね。 永遠のいのちなるものについて、自分の罪と滅びがあるということについて、深刻に考えたことがないのであります。何と愚かなことではないでしょうか。 ルカの福音書12:15-21
イエス様は、そう仰ったんですね。この世の人は、自分のために富むことにばっかり、全勢力をあげてささげています。生涯、ただそのことばっかり。自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこの通りです。 神さまの前に富むということ。神さまの前に... (テープ A面 → B面) 決意して、それを握って放さないというのでなきゃいけない。なぜなら、そうすれば神さまは、必ず豊かに報いられるからです。必ず私たちの人生を祝福してくださるからなんですね。本当の意味で、私たちを満たしてくださるからなんですね。 神に信頼し抜いて、必要を満たしてもらえなかったという人はないのであります。 今言ったような、そういうケースもままあるんですね。 反対にクリスチャンになると、この世の立場上、不利になるからと、信仰から逃げ回っているような人々もいます。そういう人も知っています。 両方とも、この世の損得が第一なんですね。そういうふうに人生を渡って行こうとしてるわけです。 真理こそが第一でなければならない、じゃないでしょうか。特にこの世の真理を求めると称する、この世の学者たちが、真理を本当の意味で第一だとはしないで、損得を第一として生きている。だいたい、おそらくほとんどそういうんじゃないんでしょうかね。 ヨハネの福音書の17章。イエス様の語られたことばですね... ヨハネの福音書17:14-16
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。 イエス様を信ずるということ、キリストに属する者となること、神の所有となることは、そういうことだと聖書は私たちに教えているわけであります。 ピリピ人への手紙3:17-20
私たちの国籍は天にあります。自分がどこに属するかということを、先ほども言ったようにはっきり私たちは選ばなきゃいけないし、自覚しなければならないということですね。 ある姉妹がかつて証しされているように、昔北海道から来た伝道者の兄弟が、リンカーンが指導したあのアメリカ南北戦争の話をなさったらしいんですね。 ある兵士が、北側の兵士、南側の兵士で戦うわけですけども、北側の兵士が南側の兵士の服装をすれば、南側から攻撃されないですね。考えあぐねた上に、その兵士の服を半分づつ着た。それで両方から挟み撃ちにされるという話をなさった。 それを聞いてその姉妹、確かにまだ信仰半分、半分クリスチャンって感じ、半分くらい身をいれていた、ちょっとクリスチャン信仰ってものをまだ冷めた目で見ると言いますか、どことなくそういうふうにして見ておられた、そのご婦人が、その話を聞いたときに、心刺されたらしいのであります。 主の前に本当に悔い改めざるを得なかっというんです。確かにそうなんですね。 クリスチャン信仰もいいけれど、ほどほどにはすまなくなるときがやって来るんですね。どちらに立つのかということを迫られるときがやって来ますし、それを早く来なきゃいけないということですね。 日暮れて、日没まではまだ間がある。そこまで言っちゃいけないんですね。大半を無駄にしてしまう。だから、あなたの若い日にあなたの創造主を覚えよというのは、そういうことですよね。 大半終わってしまってからじゃ、もったいないわけであります。 コリント人への手紙第II、6:14-18
分離せよ。この世に気を付けてそこから離れよ。この世の罪から分離せよ。そうすれば、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。 神さまが望んでらっしゃるのは、その聖い交わりなんですね。それを通して、神さまはご自分の祝福を降り注いでくださるんですね。そういうことなしに、神さまの恵みを得ようということは、それは間違いなんです。 神さまが、「何をなせ。」と仰ってるか、何を望んでいらっしゃるかということに関して無頓着でありながら、神さまの祝福を得たいというのは、これはダメですね。 それは虫がいいと言いますか、お門違いですね。相手から恵みを得たいんだったら、相手が何を望んでいるかってことを知らないと、それはダメですよね。 主が何を望んでいらっしゃるかということを知らないで、恵みだけを欲しいというクリスチャンがいっぱいいるんじゃないでしょうか。だからいくら祈っても答えはないということなんですね。 ガラテヤ人へ手紙6:14
イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものがあっては、決してならない。自分の心の中にそれ以外のものを誇る思いがあってはならないと、パウロはここで断言してると言えるかもしれませんね。 先ほど、この世ってものは自らを尊び、慕う人に、この世の誉れを報いとして与えると言いましたけれど、そしてそれはすべての場合に当てはまるわけですけども、同じようにまことの主なる神は、ご自分を他のあらゆるものに勝って尊び、慕う人に、ご自分の誉れを報いとして与えられるんです。この原則は曲げられることがないんです。 心から主なる神を神として尊ぶということ、神さまを尊ぶということはあらゆるものに勝るということですよ。神という存在はあらゆるものに勝る、至高の存在ですねよね。 この神さまに対して、私たちがそのような態度を取るときに、初めて私たちは本当の意味で、主なる神を信ずるということになります。 神を信ずるということは、具体的には心から神さまを尊ぶ、敬い、慕うということなんです。生き生きとした、神さまに対する慕う思いなしに、信仰というのはありえないんですね。 「神さまを信じているよ。それは認めてる。」ということかもしれませんけれども、本当の生きた信仰というのは、そういうことじゃありませんね。 ある人を好きで好きでたまらないように、それは、生き生きとした愛ですよね。同じように男女の関係でいったら、そういう恋愛と言いますか。異性を恋い慕うという、だれもが経験をするような感情ですね。 親子の関係にしてもそうでしょう。ちょっと性質が違いますけども、やっぱりそこに生き生きとした、子どもへの熱い思いや、親に対する、子どもからの立場からの、親を尊敬し、敬い、慕うという思いがありますね。 その関係が、本当の意味での人と人との人格的な交わりなんですよね。 私たちの家庭生活と言いますか、そういうものを本当の意味で満たすものは、その関係ですよね。お互いがホントに心から大切にし合ってる。それが言葉や、何気ない行ないや色んなことがらににじみ出てくる。そういう家庭ってものは、本当の意味で私たちを満たすものであります。真の満足を与えるものですよね。 そういう本当の人間関係、家庭の本当の土台になるのが、本当の意味での信仰なんです。神さまを心から慕うそういう信仰。 私の娘が先日、最初に勤めた会社でこき使われてと言いますか、もう、わずか一年半か二年ぐらいの間に三回、病院に入院しましたけれども、夜中に救急車でこの子を私たち夫婦は三回、病院に連れて行きましたけれども、ストレスなんですね。 それがもうちょっとどこかに来るんですけども、お腹を痛がって、困っちゃって、最初は大学病院に連れて行きました。夜十時とか、十一時近くまで、入りたての女の子が営業で外を回って、ろくに食事もしないもんですから、顔には吹き出物が出てくるし、これは大変だということで辞めさせたわけですけども、そして今、集会の方が経営している会社に勤めております。 そこでは随分、天国みたいなようであります。毎日帰って来て食事はしますし、お昼ご飯はみんなタダだそうですね。玄米とか、野菜がたっぷり入っていて、それでいい人は全部タダで食事も出るんだそうですけども、二年くらい苦労したせいか、うちの娘には素晴らしい職場として感謝しておりますけども、娘が言うには、「自分は最初の会社に居て、最初は、自分は信仰があるから、信仰のない人よりも強い。」、と思ってたそうです。自信があったんですね。 しかし実際にやってみると、自分の方が最初にまいってしまって、自分の信仰ってものを初めて気付かされたらしいんですね。 神さまは祈ったら答えてくださるし、助けてくださるということは自分は知っていた。事実そうだった。しかし自分が神さまを、主を心から愛するということ。イエス様を心から慕って愛するっていうことは、自分にとってはまったくなかった。そういうことは、考えたこともなかったっていうようなことを言っておりました。そしてそのことに気が付いたらしいのであります。 初めて、主から離れるっていうことは、どんなに怖いことか、今まで、これで自分の信仰なんていいもんだろうかっていうある種の後ろめたさがあったって言うんですけども、こんな信仰で、本当に信仰なんだろうかと思ったそうですけども、今初めて、主のそばにいるってことの素晴らしさって言うのかな、嬉しさっていうものを本当に知るようになったって言って、確かに以前からすると、一人でよく聖書を読んでいるようであります。 それはいい経験だったなと言って、ある晩、寝る前、十二時過ぎに食堂に入ったら、娘が風呂から上がって、休む前にちょっとの時間、そこで話すともなくそんな話を彼女から聞きながら、本当に良かったなと思って、大きな恵みだったなというふうに、私としては非常に嬉しいわけであります。 何かどことなく曖昧で、しっかりつかまえてなかったような信仰というものが、彼女に本当にこれだというふうに気が付いたようなんですね。 初めて、主から離れるってことは、どんなに恐ろしいことなのかということを気付くという、そんなことを言っております。 日曜学校の先生として、朝早く家から出て行ったり、どうもそういう変化はそこから出て来たんだなと思って、急にそういうことをやりだしたりするもんですから、本人がそういうことを話したので、なるほどと、得心したわけであります。 前もいつかお話したことがありましたけれども... サムエル記第I、2:30
わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。主を大切にする人を主は大切になさる。主を軽んずる者を主は軽んじられる。 こういうわけで、主を心から私たちが恋い慕うということですよね。あのダビデの詩篇なんか見ると、本当に、溢れるように、主に対する恋い慕う彼の思いがほとばしってるでしょ。 パウロにしても、押さえがたい主への思いですよね。彼らの手紙の中に表われているのは。それが信仰なんですね。この信仰こそが、神さまの求め賜い、もっとも喜び賜うものだということ。それが信仰による義人は生きるってことの意味なんです。 信仰によって人は義とされる。信仰による義人は生きるっていう、それはそういうことを言ってるんですね。神さまに対して冷ややかな、どっか見下ろすような、斜めで見るような、そういうことで私たちがどんなに生きようと、神さまはそれを善しとなさらないですよね。 この万物の創造主であり、主権者であられる神は、それを受け入れられない。それは当然であります。どんなに秀才で、失敗を犯さない息子であっても、自分の親を軽蔑してる息子をどうして親が受け入れることができましょうか。 成績はいつもビリけつかもしれないけども、いつも恋い慕って、親のところに来る子どもを親は愛さないでしょうか。それこそが、なくてならないものじゃないでしょうか。 信仰によって義と認められるということは、そういうことなんですね。律法主義というのは、それと正反対のことなんです。神を拒絶しながら、神さまに対して敵対するような立場をとりながら、私はどこも落ち度はない、どこも責められるべきことはない。こういう態度、これが律法主義、パリサイ主義ということの意味なんです。 ですから、価値ある人生の第一条件というのは、信仰なんですね。信仰がなければ神に喜ばれることはない。ヘブル人への手紙の11章の6節にそうと書いてあります。 信仰があって初めて、いっさいの価値あることは始まるのであります。神さまは全能の神であります。私たちの頭の髪の毛、一筋見落とされることのない全能の主であります。ですから、信ずる者は決してがっかりさせられることはないと、聖書は繰り返し約束してるんですね。彼に信頼する者は、決して失望させられることはないと、主は仰っています。 ですから私たちは、このことを信じて、神さまにとって不可能なことはないのだということを信じて、今言ったように、主を尊び主に従う、この信仰の態度を揺るがさないということであります。 主の御胸にかなう歩みこそ、真に価値ある人生ですよね。主をあらゆるものに勝ってすばらしい方として、事実そうなんですけれども、その事実そうであるように、私たちが尊び、慕う信仰から、自然に主の御胸に従う人生を歩みたい。神さまが喜ばれる人生を歩みたいという願いが生まれてくるのであります。 そこから初めて、私たちの生活が聖められたものと変えられていくということが出てくるんですね。 神さまを慕うから、神さまを喜ぶから、だから主の御胸にかなうことをしたいと願うようになるから、私たちは自分の生活を、人生そのものを、今までのこの世のさまざまな欲望やけがれによってグチャグチャになっていた生活を、整えて、聖められた者に変えていってもらえるんですね。 主の栄光となる人生、神さまの栄光を現わすものとなる、そういう生涯を送りたい、そういう願いが出てくるんじゃないでしょうか。 神さまの名をけがさないように、人々の前で、「何だ、あれが彼の信ずる神か。キリストか。」ということがあってはならない。そうでないように生きようと願うんですね。 それが、主の栄光を現わす人生ということの意味ですね。 主の御名を辱めることを、私たちはときとして行ないますけれど、そういうことに注意して生きる、それが私たちの人生を聖めていくことでもあるわけであります。 だから聖書は繰り返し、「光の中を歩め。あなたがたは、光の中に光の子として召されたのだから。光の中を歩め。」と言ってるんですね。 それこそが祝福、即、祝福につながるものなんですね。神さまは光の中を歩む人を豊かに祝福されるからなんですね。神さまの栄光のために生きよう。神さまの前に、光のうちを歩もう。そういうふうに私たちが変えられなければ、私たちの現実のクリスチャン生活というのは、やっぱり中身の乏しいものであるに違いないんですね。 「実を結ばない。」と、よくベック兄が仰いますけども、実を結ばない歩みになるのは、私たちが光の中を歩まないからですよね。非常に理由ははっきりしております。主を喜び、主に喜ばれる歩みをしようとしないからですよね。 そしてそのためには、私たちが日々、祈りの中に生活するということかな。祈りというのは、主の御心をいつも問い求めるということです。そのためには別に黙ってひざまづいて祈らなきゃならないということばかりじゃいですね。 私たちは、色んなことしながら、ふと立ち止まって、主の御心を求める、主を見上げる、そういう態度が必要なんだと、聖書は言ってるわけであります。 何箇所かお読みして終わりましょう。 ローマ人への手紙12:1-2
心の一新によって自分を変えなさい。深く悔い改めて、立ち返りなさい。今までの心を、はっきり方向転換させなさい。そうすれば何が良いことであるか、何が主の御心であるかがわかりますということですね。 コリント人への手紙第I、6:19-20
もはや自分自身のものでないことを知らないのかと、言ってますね。私たちは、代価を払って、イエス様の死という代価を払って神のものとされたのです。だから神の栄光を現わせと、言ってるんですね。 |