真実と誠実


蘇畑兄

(八王子家庭集会、2003/10/09)

引用聖句:テモテへの手紙第II、2章13節
13私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

今日、ちょっとご一緒に考えたいと思うのは、ちょっと話が理屈っぽいことになって分かりづらいと思いますけども、真実と誠実ということについて、聖書からちょっと見てみたいと思うんですね。
真実であることと、誠実であるということについて、ちょっと考えてみたいんです。

真実という言葉と誠実という言葉は、非常に似かよった意味を持っていて、私たちはそれがどのように違うか、あんまり考えたこともほとんどありません。
よく使っていながら、厳密にその区別があるのかどうかすら考えたこともないのであります。
しかし、やはり何らかの微妙な意味の違い、ニュアンスの違いはあるようですね。というのは、日本語訳の聖書には、真実という言葉は数え切れないほど多く使われてるのに対して、誠実という言葉はほとんど出てこないのであります。
誠実という聖書の箇所を覚えていらっしゃる方、どうでしょうか。いらっしゃるでしょうかね。

1、2ヶ所頭に浮かぶかもしれませんね。ですけども、パッとひらめいて、「どこにある。」っていうふうに指摘できる人はほとんどいらっしゃらないだろうと思うぐらい、誠実という言葉はほとんど使われてないのであります。
なんで真実という言葉はあれだけ多く使われていながら、今お読みしたように、

テモテへの手紙第II、2:13
13私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

イエス・キリストのことなんですけれども、こういうふうに出てくるのに、「キリストは誠実である。」というふうな表現は一切使われないのであります。
ちなみに、英語ではどのような言葉があたるのかなと思って調べてみますと、かなり明確にニュアンスが違ってきます。
真実という言葉は「true」ということですね。あるいは「truth」
誠実というのは、「sincere」、「sincerity」という言葉になっているんですね。

「truth」とか「true」というのは、「本当のこと」という意味でありますけれども、「sincere」っていう言葉は、「真面目であること」という意味にはっきりなるのであります。
ですから、誠実ということは、英語表記すると、真面目であることであり、真実ということは本当のことということであります。

こうなると、なるほどと、そのニュアンスの違いにある程度納得がいきますし、聖書が真実という言葉を非常に多く用いながら、誠実という言葉をほとんど使わない理由が分かる気がするんですね。
誠実=真面目であるということは、人間の心構えのことです。あることに取り組む心の姿勢が真面目であるということですね。真剣であるということであります。
その行なわれていること自体が正しいこと、真理にかなっていること、本当のことかどうかということは、そこでは問題にならないのであります。それは人間の心構えのことだからです。

確かに人が真面目であり、物事に対して真剣に向き合うということは大切なことですよね。人間の立派な徳目でありますけれども、しかしもっとも大切なことは、偽物ではなくて本物であるということ。正しく真理にかなっているということのほうであることは明らかであります。
なぜなら人間は、真面目に、真剣に間違ったことを行なうことがあるからであります。
そうなるとこれは大変なことです。何が正しくて、本当のことかをまず最初に明らかにして、それから真面目に、ひたむきに、真剣に、すなわち誠実にそれに打ち込む、精進するということが必要な順序ではないでしょうか。

このように、真実と誠実ということが気になるのは、私たち日本人がともすると、人は誠実でありさえすれば良い、誠実であれば許されると考えていて、一体何が本当のものか、何が真理にかなった正しいことかということを、二の次にしがちな傾向があるという気がするからであります。
真理とか真実というものは、結局人間には分かりっこないから、せめて誠実であろう。誠実であれば許してもよいというふうな考え方を、私たちはするんじゃないでしょうか。
その人のことがらに対して望む真面目さということ、それが日本人にとって非常に中心的な、徳目となるということが言えるんじゃないかと思うんですね。
しかし先ほど言ったように、誠実に地下鉄にサリンをまく人もいるわけであります。彼らは実に真面目でしたね。中には本当に普通のちゃらんぽらんな人よりよほど真面目な人々もいましたですよ。
世のため、人のために生きようとして決心した立派なお医者さんたちもおりました。彼らは実に誠実な人間だったろうと思いますね。上の指導者はでたらめな、実にいかがわしい、やまし的人物のようでありましたけども、手先になった人々は、本当に人格的にはすぐれた人々が多く含まれていたということは事実であります。

そこで分かりやすく、この真実という言葉と、誠実という言葉を次のように定義してみようと思うんですね。
聖書が使ってる真実とは、神さまに対して正直であり、神さまに対して忠実であるということ。これが、聖書が使ってる真実という言葉の意味ではないかと思います。
それに対して誠実(まじめ)とは、自分自身に対して正直であろうとすること。自分自身に対して忠実であろうとすること。自分の感じていること。考えていること。それに対して忠実であろうとする態度というふうにいうと、ほぼ明確になるんじゃないだろうかと思うんですね。

むかし、東大の倫理学の先生が、「日本人と誠実」というものを書いていて、私はそこがどうも引っかかっていたもんですから、読んでみて非常に興味深かった記憶があります。
内容はすっかり忘れちゃったんですけども、たぶん今言ってるようなことを、日本人の倫理観の特徴として述べていたんじゃないだろうかという気がするんですね。自分自身を裏切らないという生き方。

私たちはそういう人たちを見て、「誠実で立派な人間だ。」、「でたらめじゃないか。」そういうふうに言いますよね。
いわゆる日本の人格者というのはそういうタイプを指していると思います。自分自身と向き合っているということですね。
その人が向き合ってるのは、自分自身であります。自分の心を偽らない。

人の考えとして受け入れるけども、認めるけども、しかし自分は譲らない。自分の立場というものはそういうこの・・・人間ですから、自分というものにこだわらざるを得ない。
自分というものが中心にすわっていますね。わたくしというものに常に執着せざるを得ない。

わたくしにまとわりつく生き方ってものが、そこからどうしても出てくるんじゃないか。そこから面子とか体面という問題が出てくるのだ。
あんたはそうだけど、私はどうもそう思えないんだって譲らない。面子にかけても何とか・・・っていうこの人は誠実であります。自分を偽らないんですから。

そこに、しかし聖書からみると問題がある。私たちはよかれと思って、私たちの生き方の最大の徳目と思っているところに、実は問題が潜んでいるのだ。
そこを、私たちは聖書の光をあてにとるときに、それを気付かされるのではないかと思うわけですね。
それは他者であるところの神さまと向き合ったあり方であります。

真実というものは今言ったように、神さまの前に、神さまからして、正しい神さまに対して人間が忠実であるという、向き合った世界ですね。他者と。
ところが、誠実というのは、あくまでも、自分自身という閉ざされた世界の出来事であります。
信仰というのは、神さまと向き合う交わりの世界ですね。

先ほど、お祈りのこと言いましたけども、お祈りというのは神さまとの対話であります。生きていらっしゃる神さまと語り合うことであります。
相手がいるのであります。語りかけると相手が応えてくださる。
英語では「dialogue(ダイアローグ)」と言います。相手がいる。

それに対して誠実というのはひとりごと。ぶつぶつ、ぶつぶつひとりごとを自問自答している世界。「monologue(モノローグ)」と言いますかね。独自の世界。
そういう基本的な人間のあり方というのが出てくるんじゃないかということなんですね。

誠実が問題となる世界というのは、己だけの閉ざされた交わりのない世界であります。そこに私たちは、ひたすら自分と向き合いながら、自分を偽らないということですね。
そういう生き方っていうものを、懸命にしようとしてきたんです。それだけが唯一の、われわれの目指すべき倫理ではなかった。
そこに、実は私たち日本人の根本的なあり方における問題が潜んでるのではないか。

ぼくは、これは正しい指摘だろうと思いますね。そこを根本から打ち破ると言いますか、突破していくもの。それが実は聖書のメッセージにほかならない。
現代人の悩みの根本にあるのは、多くの人と一緒にいながら、ひとりひとりがたまらない孤独に不安を覚える。
「孤独は田舎にはない、大都会にあるのだ。」と誰かが言いましたけれども、新宿のあの雑踏の中に紛れながら、人は孤独の不安に駆られるんですね。

全然関わりのない人、そういう人の中にひとりひとり、同じ家庭にいても、そういうことがあるんじゃないでしょうかね。どうでしょうか。
閉ざされた孤独の世界。
若いときにはむしろそういう孤独な世界を、ひとり、むしろ求めて、そういうところに行こうとする傾向があるわけですけど、人間は本当の孤独には耐えることのできない者であります。

孤独の世界というのは死の世界であります。交わりのない、出口のない闇の世界であります。孤独というのは恐怖であります。
本当の意味での交わりの中にあって、人は生き生きと生きるんですね。喜びをもって生きる。
神さまとの交わりの世界というのは、開かれた世界であります。光の中にある世界ですね。そういう交わりの中に人は出て行かなきゃいけない。

神さまの呼びかけっていうのは、「そこから出て来なさい。あなたの閉ざされた孤独の世界。ただ自分自身と向き合ってだけいる世界からわたしの前に出て来なさい。」
これが神さまの呼びかけなんですよね。
私たちはこれに対してはっきりと態度を決定しなきゃならない。グズグズ言い訳をしないで、駆け引きをしないで、「はい。おことばの通り出てまいります。」、「白旗を掲げて要塞から出てまいります。」、そういうことが、本当の意味での悔い改めということなんです。

それを曖昧にして、なんか出て行くようでもあり、出て行かないようでもあり、なんか潔くないと言いますか、はっきりしないというのは、それは神さまの招きに対するそれこそ誠実な応答ではないんですね。正直な応答ではないのであります。

信仰というのは、よくベック兄が仰ってたように、白旗を掲げて降参することなんですね。
本当に惨めなものですよ。クリスチャンとして、神さまの前に出るというのは。
何らわれわれの誇りになるものじゃないし、手柄になるもんじゃないし、もうどうにもなりません。もう仕様がありません。降参いたします。

日本が50年前にアメリカに追い詰められて、ついに白旗を掲げて無条件降伏をして武装解除されたように、聖書には武装解除という言葉が出ていますけども、イエス様によって武装解除されて、今までの神さまを拒絶するという自分自身をすべてとする、そういう世界にはっきりと終止を打つ、それがどうしても必要なんです。
神さまを拒絶するとき、人はその交わりのない閉ざされた孤独の世界の中に、ただ自分自身をすべてとして、自分自身と向き合って生きるという、こういうそれこそ死に至るあり方になってしまうのであります。

人間を滅びに至らせる罪とは、神さまを拒絶し、神なき人生を生きるということなんです。
そこではいくら誠実に人間が生きようと頑張っても、結局八方ふさがりになってしまうんです。
誠実であればあるほど、人は自分を偽らないということを真剣に考えれば考えるほど、取り組めば取り組むほど、人はどうにもならない状況に追い詰められていくんですよ。
それはもう今まで多くの人々がそういう悲劇をたどっているんですね。

誠実であるということは、それは悪いことではありません。しかし根本的な大きな欠陥をそれは含んでいるのだ。
自分自身に対する誠実という生き方ではなくて、神さまに対する真実という、神さまの前に私が正しく忠実と言いますか、神さまと向かい合って生きるという、そこにいかなければならないんですね。

この問題は、結局聖書が言っている律法の義ということともつながっているのです。
律法の義というのは、ひたすら自分自身の義、自分自身と向き合うところのものになっていくわけなんですけども、要するにすべての出発点を自分自身というものに置くところ、ここに誠実ということの問題があるわけです。

初めにロゴスありき、初めに言葉ありき、初めに神ありきというのが聖書の出発点なんですけども、そうじゃなくて初めにわたくしありき、こういうふうに考えてしまうんですね。
出発点から転倒してしまっている。物事が逆立ちしてしまうから到達点も、また転倒してしまってどうにもならないのであります。

一番最初のボタンを掛け違えているって、ある伝道者が仰っていましたけども、最初のボタンを掛け違ったら、あとはどんなにしたってダメで、合わないわけであります。
最初を直さないとダメですよね。どんなに立派な人間の道徳的な規範であろうと、最初がずれてしまうと、どうにもならないですね。

箴言14:12
12人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

ちょうどそんなもんじゃないでしょうかね、日本人の誠実というものは。どうも根本的な問題を含んでいる。
至誠とか、日本人はそういう言葉が好きであります。至誠ですね。しかし、そこに問題が含まれているわけですね。
ローマ人への手紙の11章36節。初めにエゴありき、初めにわたくしありきという人間のあり方に対して、聖書は、

ローマ人への手紙11:36
36というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

とパウロは書いていますね。すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るからです。
聖書の最初の、旧約聖書の創世記1章1節のことば。「初めに神。天地を造り給えり。」ですね。初めに神さまであります。だからこの神さまが何を語られるか、神さまに対して私たちが正しく向き合うとうこと。そこがなににもまして出発点でなければならないということなんですね。

自分がどう考えるかということは二の次にしなきゃいけない。それはそばに置いとかなきゃいけない。
自分がどう感ずるかということも距離を置いて、待てよと突き放しておかなきゃいけない。
そこに真実なものが含まれるかもしれないけど、まずはそれそばに置いて、距離を置いて突き放してみなきゃいけませんね。

そうでなくても自分の考えとか、自分の感性というものに対してはもの凄い執着をして人に指一本触れさせないなんてのは、芸術家には多いですね。
自分のあれにはちょっとでもなにか言ったらもの凄い形相で叱られたりされます。
自分へのこだわり。自分の感性とか見方とかってものに対して、強烈なこだわりをするんですね。それは間違いであります。

クリスチャンの自由というのは、ある意味で自分自身からの自由ですね。根本的には。
自分がどう考えるかとか、感ずるかということは大したことないと。どうでもいい。それによって、われわれは本当の意味で生きるわけじゃないから、それは付け足しのようなものであって、神さまがどうご覧になるかというところに、私たちは常に立ち返らなきゃいけないんですね。

「初めに神」であります。神さまが出発点であり、終着点であります。そうでない人生は出口のない世界。行き詰まってしまうんですね。
ヘミングウェイっていう、あのノーベル文学賞を得たアメリカの作家は、「私の道はどこにも行き場のない道である。それは暗黒への道である。」というふうに書いたと言われてますけども、ご存知のように猟銃自殺をしましたですね。

自分の口に猟銃を突っ込んで、足で引き金を引いた人であります。非常に雄々しい生き方を示しながら、結局最後はどうにもならなかったんですね。
自分のすべて、人生のすべてとする生き方は根本的に否定されなければならない。
そうでなかったら人間は破滅してしまう。それが聖書の指摘してる罪というものの意味であります。

先ほども言ったように、誠実であるということはもちろん悪いことではなくて、良いことであります。
しかし人間の出発点が逆転してるので、それは逆に人間を追い詰めていってしまうのであります。

ローマ人への手紙7:12-14
12ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
13では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
14私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。

(テープ A面 → B面)

このローマ人への手紙7章っていうのは、非常に有名な箇所ですね。

ローマ人への手紙7:18
18私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

こういう言葉は、むかしからよく知られているみことばです。パウロの悲痛な、絶望的な叫びですね。このローマ人への手紙7章はですね、

「私」という言葉が31回出てきます。私、私、数えてみてください。31回ですよ。
エゴ。ギリシャ語で私というのはエゴというんです。この言葉が31回。私、私、私、私ですよ。驚くべきことですね。
25節しかないのに、31回出てくるんです。ここに罪というものの本質があるっていうことなんです。

人は生まれいずると、物心つくと、もう私でしょ?私、私、私ですよ。
いかにして人を押しのけて、私。自分自身でもそのうち親も周りもそうはやし立てるから、みんな私、私でボロボロになっちゃうんですね。
心身症にかかってしまう。

それは、逆転してるからなんですね。自己追求こそ罪なんです。人はそれをはっきり自覚していかなきゃならない。
自分のエゴというものを人生の中心に据えて、エゴに仕える。
「エゴのしもべか?」、そう言ったら変な話ですけど、自分自身のご機嫌伺いをする。自分がしたいと思うことを、それをなんとか実現しようとする。そうでないとご機嫌が悪い。

だからいつも人間はイライラするんでしょうね。自分の思うようになりませんから。相手がいますから。
この世には色んな障害がありますから、自分の要求を追い求めるだけに人間はいつも苛立たずざるを得ませんでしょうね。
問題はそうじゃなくて正反対なんですね。自分ではない。自分を中心に置いてはならない。

神ご自身を自分の人生の中心としなければならない。この神ご自身に仕え、神のしもべの立場を取らなければならない。
神のしもべという言葉は、クリスチャンにとって最高の栄誉ある称号であります。神のしもべですね。
モーセにしても、アブラハムにしても、ダビデやパウロにしても神のしもべですね。それが彼らの称号であります。

このしもべという言葉は、元の言葉ではもっと強い言葉だそうですね。奴隷という言葉だそうです。
われわれの聖書では「しもべ」と訳されたり、「奴隷」と訳されたりしますけども。
まず、

ピリピ人への手紙3:17-19
17兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり・・・これ、エゴってことですよね。
彼らの神は彼らの腹っていう・・お腹のことらしいんですけども、元々は欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。

ローマ人への手紙6:17-18
17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

ローマ人への手紙6:20-23
20罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
23罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

罪の奴隷、言い換えるとエゴの奴隷ということです。
自分を自分の人生における主人公として、自分を自分の神として生きる、それを罪の奴隷と言ってるんですね。
そういう生き方。それこそが自分の悩みの本当の原因なのだということに気が付いて、そのあり方とはっきり決別する、信仰の生涯にはいる、信仰に生きる。17節はそのことを言ってるんですね。

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、エゴの奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に、これは福音ってことですね、伝えられた教えの規準に、福音に心からそれを受け入れて、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
イエス・キリストのご支配を受け入れて、キリストのご支配の中に身を置くことです。

それによってしか、本当の意味での、私たちの人生の根本的な解決はあり得ない。そのことによってだけ私たちは、本当の平和、家庭内における平和、罪からの聖め、義の奴隷っていうこと書いてますね、そういう道が開かれてくるんですよね。
聖潔に至る実を得たと言っていますね。私たちの人生が聖められてくる。そうでない限り、どんなに頑張ってもダメなのだと聖書は断定してるわけですね。
自分を自分の神として、自分の栄光を求めて生きてはならないのであります。それは破滅に至る道だからです。
それは真理にかなった人生ではないのであります。それはまことのいのちに至る道ではないのであります。
破滅から救われるために、その人生に決別して正しい道に立ち返れ。そこにいのちがあり、真理があるから。
これが聖書の呼びかけですね。

いかがでしょうかね。人間はなかなか自分というものに執着して、自分の人生ってものをがっちり自分の手に持とうとして、なかなか大変なものですよね。
その闘いというのが、本当に簡単なものじゃないかもしれませんね。あのヤコブが一晩中神の御使いと格闘して、夜が明けるまで死闘を演じたと創世記に出て来ますけども、御使いが最後に彼のもものつがいを折って、ヤコブはびっこを引くようになったと書いてますが・・・。
死闘を演ずるんですね。

人は本当に必死になって、自分というものを手放さないように頑張ろうとしますけれど、神さまはヤコブをそういう形で解放なさいましたね。
私たちもその選択が必要ですね。そうしないと・・イエス様をただ漫然と信じてると言いながら、やっぱり私たちの人生の根底にあるのはエゴである。
そのことから一向に信仰の力と言いますか、恵みと言うのかな?信仰の実というものが全然私たちの生活に現われてこない。

いつも問題を抱えながら、問題のために立ち往生ばっかりしている。それは漫然と信じているということなんですけども、聖書が言ってるのは、そういうことじゃないってことですね。
あなたの本当の人生の主人はだれか。それに服する用意があるか。そのことを私たちに問うているわけであります。

(テープ一時中断)

死は終わりではない。これこそが最大の希望、最大の喜びであります。

ペテロの手紙第I、1:18-21
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
21あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

ペテロの手紙第I、1:3-5
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
4また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

神さまを信ずることによって、私たちは本当の希望を持つようになるということなんですね。
死はもはや終わりではないということ。死の彼方に確かな望みがあるということ。それはイエス様が死者の中からよみがえられたことによって与えられた生ける望みであるということをペテロはそこに言ってるとおりですね。
さらにそのことによって私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださったと書いてありますね。

イエス様を信じ、イエス様に従っていこう。この世の規準ではなくて、神さまを信ずるという新しい規準に従って、神さまの道を生きる者と変えられていくんですね。
そうするとその歩みに対して、神さまが本当の必要を満たしてくださり、祝福を備えていてくださる。
多くの人々が、私たちをいつの間にか信頼してくれるようになってくださる。そういうことを通しても、私たちに助けを与えてくださる。

それはただひとえに神さまを信ずる信仰の賜物なんですね。神さまを信ずるがゆえに、神さまの道を生きようと決心するがゆえに、神さまは私たちに必要なものを、次から次に備えてくださるんです。
そういう歩みを五年、十年、二十年、そういうふうに私たちが続けていくと、祝福はさらに増してくるのであります。

だから大事なことは、目先のことを追い求めて、目先のなにか自分にとって良いと思われることを追いかけるというんじゃなくて、神さまの道を、自分は真っ直ぐに生きよう、神さまが喜ばれるように生きよう、そういう、これが信仰ですよね、この信仰によって主は、本当に祝福してくださるということなんですね。
まことの望みを持ち、主の正しい道を生きる。これに私たちの人生は尽きるわけであります。

第三番目に、このまことの希望があるからこそ、クリスチャンはこの世のさまざまな悪の力だとか、この世の小さな損得だとか、駆け引きだとか、そういうものに引かれないで生きる力、真っ直ぐに生きる力が与えられるのではないかと思うんですね。
すべては信仰から出てくるんですね。信仰がなければ神に喜ばれることはない。信仰による義人は生きるっていうふうに、聖書は信仰に立つということが、あらゆることの基本だと言っていますけども、確かにそうだと思うんですよね。

マタイの福音書4:8-11
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
11すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

悪魔はこの世のすべての栄誉、栄華を一瞬にしてイエス様に見せたのであります。そして、「もしひれ伏して拝むなら、これをすべて与えよう。」と言ったんですね。
なんという恐るべき誘惑でしょうか。ぼくはこの荒野の試みの三つの試みの中で、最大のこの試みはこの三番目のものだったと思いますね。
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

マタイの福音書10:37-39
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

非常に厳しいことばですよね。人々はこのことばを読むと、本当にすくんでしまうんじゃないかと思いますね。
イエス様以上に自分の父や母を愛する者は、それは、キリストを信じる者にふさわしくない。自分の息子や娘を主以上に愛する者は、クリスチャンとしてふさわしい者ではないと言ってるのであります。

この世に主を第一にすることこそが、実は私たちの家族を本当の意味で愛する、本当の意味で恵まれた家庭を営む本当の土台なんですけども、そのことが分からずに、私たちはこのことばを受け入れられないとよく思うわけであります。
ヨハネの福音書12章の25節。もう少し厳しいことばを、イエス様はここで語っています。

ヨハネの福音書12:25
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

「この世でそのいのちを憎む者は」、と書いてますね。エゴというものを憎む者ですね。その人は永遠のいのちに至るのだと言っていますね。
結局、自己否定ということが真理に至る非常に重要な要件ですね。
イエス様の道を歩むために、私たちは自己否定、そこにいつも目を留めなきゃいけないんですね。

かつては私たちは正反対の人生を歩んでいたわけです。自己追求、自己拡張ですね。
もう、自分をいかにして拡大していくか。そういう人生を歩んで来たんですね。
果てしなき自己拡張、拡大、自己拡大。バビロン的自己拡大って言うんだそうですけども、あのネブカデネザル王が、無限に自分の領土を広げようとして、最後は自滅していくようにですね。

最後は精神障害を起こして、自分をなにか家畜、獣だと自分を思い込むという病気にかかったネブカデネザル王の記事がダニエル書に出て来ますけれども。
家畜のように野に出て草を食んだあの大王が、そういうふうなことになっていきますけども、そういう、この・・・なにか私たちが正しい人生の目標であるかのように教えられた、一生懸命努力しなきゃならないと言われてきたのが、実はそこに大きな問題がある。落とし穴がある。
そのことを、私たちははっきり知るべきであります。敵は本能寺にあり?敵はわが内にありであります。敵は私であります。

悪魔というのは、人間の名誉心とか、人間のそういう誇りとか、そういうものにつけ込んで入って来ますから、エゴというものを虜にするのが悪魔のやり方ですから、だからそこに来たら、「ああ、悪魔だなぁ。悪魔が自分の内に、自分に接近しているなぁ。」、そういうことを、私たちは感じ取らなきゃいけませんね。
そして自分の高ぶりってことを、気を付けなきゃいけないということであります。

実はそのことこそが、イエス様の十字架の死の意味するものであります。
徹底的な自己否定こそいのちに至る道なのだ。十字架の死こそが永遠のいのちに至る、神さまの救いの道なのだということなんですね。

自己否定。自分に対する死という、踏み切りにくい死ということを受け入れることなしに、天国の門は開かないんですね。天国の門とはそういうものじゃない。
この世のエゴをしょったまま、そのままに生きたまま、天国の門に入るわけにはいかない。そうであるならば私たちは信仰がなんであるか、おそらく分からないままで終わってしまう。
福音というのはなんなのか。真理とはなにか。結局、訳分からないってことになるでしょうね。

ガラテヤ人への手紙2:19
19しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

苦言すると、私たちは誠実という生き方を一生懸命追求しました。その結果私たちは絶望に至りました。破産してしまいました。
それは神さまに生きる者となるためなんですね。神に生きるために、神に立ち返り、神に信頼し、神さまとの交わりに生きるために、誠実という生き方、その律法によって誠実という生き方を止めました。

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ人への手紙6:14
14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

パウロの堅い決心ですよ。主イエス・キリストの十字架以外に誇ることがあってはならない。世界は十字架によって、この世界は私に対して十字架につけられ、私もまたこの世界に対して十字架につけられたのだ。

こういうパウロの信仰に立つことこそ、神さまが私たちに実は求めていらっしゃるものである。
そしてそれだけが本当の意味で圧倒的な力のある者なのだ。
本当の意味での勝利を私たちに与えうるものなのだということだと思います。




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