もう10年近く前のことですけども、私の職場の先輩で昨年の夏に天に召された方が、夜間部を卒業した学生達の卒業パーティで、頼まれて祝辞を述べました。その祝辞の内容は、あの有名な作家山本周五郎のことに触れながら、昼間部ではなく、働きながら学んだ夜間部の卒業生の人々を激励する意味を込めたものでありました。 山本周五郎という作家は、少年の頃、僕は詳しいことは知らないんですけども、不遇で質屋奉公させられた人であります。ところがその質屋の主人が立派な人だったんでしょうね。あるいはクリスチャンだったと思います。 丁稚見習いの山本周五郎少年に新約聖書と賛美歌をあげたんだそうです。山本周五郎は、そのもらった本を暇があると質屋の蔵の傍らで折に触れて開くようになったらしいのであります。 おそらく賢い少年だということで、その質屋のご主人が目を留めたんだろうと思いますけども、貧しくて学校に行けない、その内に燃える向学心といいますか、それに目を付けて、折に触れて「暇があったらこれを読んでごらん。」と与えたんだろうと思うんですね。 だから読むものが無いもんでしょうから、活字に飢えるようにしておそらく読んだんだろうと思います。しかし聖書の言葉は、そのうちに彼の血肉といったものとなっていったようであります。山本周五郎の作風というのは、私はあんまり知りませんけれども、何か清冽で凛とした気品の高さと申しますか、そういうものを秘めているということはよく知られていますね。 多くの大衆作家とはちょっと違う、おろそかに扱えないと言いますか、そういう作風で知られている訳でありますけども、この山本周五郎という名前は実は、その質屋の主人の名前であったそうであります。 僕はその祝辞で聞いてびっくりしたんです。えっ!と思ったんですけども、だから本名は何といわれるのか実は僕は知らないのでありますけども、自分のペンネームにそのまま名前を頂いたというところに、並々ならぬ感謝の念が込めれている訳であります。 山本周五郎は、自分は歴史上も英雄とか偉人などに関心はない。至誠に生きる普通の人々、その人々の中にある真実について描きたいと、語っているのだそうであります。 確かに彼の書いているテーマはそういうものですね。本当にひっそりと、この世の片隅で生きる人々の中にある真実なるもの。そこに彼は目を留めていった人のようであります。 このように、青少年時代不遇で質屋奉公しなきゃなんなかったという、この山本周五郎という作家の人生に触れながら、そのクリスチャンの先輩である方は、夜間部の卒業生たちに向かって、「夜間部を卒業したくらいでは、今の世の中、大して評価はしてくれない。しかしあなた達は、出世するといういわゆるこの世の成功者になれないとしても、そりゃなかなか難しいだろうし、しかしそうであっても人生の成功者になって欲しい。」、こういうお話でありました。 実はその私の先輩も、山本周五郎に劣らないような人生を歩んで来た人でありましたので、私はその先生の話の裏側にあることをよく分かっておりました。 この人もですね、殆ど昼間の学校に通ったことがないといいますか、小学校と大学だけ昼の普通の学校に通えた。あとはみな夜学で通した。 自分で働いて勉強しないとなりませんでしたから。小学校を出て名古屋の、伊勢の出身の方ですけども、伊勢神宮のある伊勢ですね、そっから名古屋の街におそらく12〜3の頃じゃないでしょうか、14〜5の頃でしょうか、鳥打帽子をかぶって出て行く。そこのご主人にですね、お金を無駄遣いしないで貯めて、夜の学校に行くように勧められて、勉強なさったようであります。 元々非常に優秀だった人のようです。負けなかったんだろうと思います。おそらく同僚なんかには。 それだけの才能もある人だったんでしょうが、学校に行けない。それでですね、お金を貯めながら夜学に行き、専門部に進みました。 我々戦後生まれはあんまりピンときませんけれども、大学に行くには高等学校に行かなきゃいけませんから、中学校出ただけでは行けませんので、大学の専門部というところに行かなきゃならなかったんですね。そこからごくわずかですね、2〜3人くらいしか選ばれなかったそうでありますが、いわゆる普通の学部に進むというコースをたどった方のようであります。 国会図書館の専門研究員として財政の、いわゆる国会議員たちに経済情勢ってものを教えなきゃいけませんから、膨大な調査をしながらですね、いわばレクチャーをする訳です。そういう方であります。 ベック兄がいつか仰ったように、国会議事堂のカウンターか何かの前に「真理はあなた方を吟味する」って書いた。聖書には「真理は汝らを吟味する」「真理はあなた方を吟味する」ですかね、それは聖書の言葉。「真理は私たちを吟味する」という一言を書いてるんだそうでありますけども、そういう話もよくなさいます。 私はその方の晩年、10何年か、傍に一緒にいた訳でありますけども、私の先生が同じだったんです。その方、私からすると私の先生ぐらいの方で、77〜8で今おられたら80近いお方であります。とにかく私の周りにはちょっと見当たらないような、苦学力行の人といいますか、ちょっと珍しい。 生涯かけて倦むことを知らずに学び続けた。背中のキチっと伸びた人で、何かこう風格のあるといいますか、凛たる風格のある方であります。 その方がですね、学徒出陣でいよいよ出て行く時に、クリスチャンだったら私たちの先生になる訳ですけども、その先生が大学の学生たちをみな集めて壮行会をするときに、他の先生たちが「諸君、お国のために死んできてくれたまえ。」なんて挨拶をするのに対して、「諸君、死んじゃならん。」「帰って来なさい。生きて帰って来なさい。どんな戦争でも終わる時がくる。死んではならん。」と言ったそうであります。 それでこの方は、もし生きて帰ることがあったら、あの先生のところに行こう。あの先生に教えを乞おう。と思って出陣なさったそうであります。 あの金谷の特攻基地におられたそうでありますから、前線に出て鉄砲の弾に当たるってな仕事じゃなかったそうでありますけども、帰って来られたらですね、早速その先生のところにいらしたんですね。 聖書を本気で学ぼうか、そういう経路を通った方でしたから、本当に筋金入りでありました。信仰はですね。 この方の2〜3歳くらいになる長女が、めぐみというお名前だったそうでありますが、クリスマスもすっかりおしてるその時に、家でお母さんとお留守番していたのですが、お風呂の熱湯に落ちて亡くなるという、我々にはちょっと想像できないような知らせが、クリスマスのお祝いの席に飛び込んで来たそうです。その親友の方が、今伝道者をしてらっしゃいますが、同じ国会図書館で、かつて同じオフィスにおられた方ですけども、この方が後にその葬儀の席でそういうお話をなさいました。 この私の先輩、一言もそういうこと言わないんですね。 ご自分のそういうことについて、私は、信仰的なこの人は順風満帆で来た人だろうと思って、小さい頃は苦しかったらしいけども、経済的には随分苦労なさったようだけれども、逆に信仰の上では、おそらく真っ直ぐにといいますか、そういうさまざまな試練などはある意味で受けることなしに、あの真っ直ぐに歩んでこられた人かな、なんて思っていたんです。 しかし実はそうじゃなくて、私なんかにはちょっと軽々しく触れれないような経験を経てこられていたんですね。 「私の罪です。」、とただひざまずいて、正座して、「私の罪です。」、と仰ったというのですけども、奥さんのいわば人間的考えで、奥さんの手落ちなんですよね、目を離したわけでしょうから、それを奥さんを一言も責めずにですね、私の罪ですと当時言われた、ということをその親しい伝道者の方が話しておられた。 ですから主に従って行くということを、ある意味での痛切な経験といいますか、それをやっぱりこの方も知っていらっしゃったわけですね。そういうわけで、私はその方の生き様。生き様という言葉あんまり好きじゃないんですけども、その今までのその方の生きてこられた、そういう過程ってなものをある程度知っていましたので、その話の真意を私は素直に理解出来て、心から感動して聞いたわけであります。 山本周五郎という人はそんな人だったのかと思って、改めて感動いたしておりました。 ところが、教員や卒業生の中には、誤解してブーイングする人もいたんですね。夜間部の学生は世の中認めてくれないってなこと言うわけですから、その人は何ていいますか、こう言っちゃ人がああ思うだろう、なんて思う人じゃないんですよね。 中にはこういう人もいるから、こうとられるんじゃないかってことが一切ない人ですね。この人珍しいくらいに。ですから行く所々で、誤解を生むって言いますか、誤解されるというべきか。この方はだけど、この人の言葉は真っ直ぐだということを誰もが段々分かってくるもんですから、いわば信頼といいますか、この人の言っていることはまっとうだという風にみんなが分かるようになるんですけども、それを知らないと、なんて失礼な人だろうってことになるんですね。 私よりも4〜5歳上の、何でもつっかかる癖のある教員が一人いて、早速話終わったら別室に行って、「なんてことを言うんですか!」ってな抗議なんですね。 僕は、何かこりゃ・・・・と思って、その人に言わすと、「卒業生に失礼ではないですか。」っていうことなんです。夜間部の学生を見下してるんじゃないか。 面白いもんでそういう教員っていう方は逆に、資産家の息子なんですね。資産家の行くような大学の出で、お父さんはある大きな会社の重役さんです。それは逆にその人に、この弱者に同情的だっていう余計なある意味でのプレッシャーをかけたっていうんじゃないかと思うんです。 そんなに見なくてもよさそうなものを、大人げもないといいますか、話し終えるとすぐ別室の部屋に行って文句を言う。間に人が入って、まあまあまあまあ、なんていう執り成しをするなんてことでした。 僕はその先輩の人生の意味を知っていましたから、むしろ滑稽でありました。余計なことしなきゃいいのに、と思って。 その方は、あまり恵まれてない。恵まれてないって、今の夜学の学生は昔の夜学の学生とは違うんですよね。むしろ夜学は楽しい、なんて子がいるんですから。昼行けないから夜来る。というんじゃないんですよ。 極めて、もっと軽いんです。ご自分の経験は重かったもんですから、その先生は仰ってるわけですが、結局その方はその学生たちと同じ境遇にかつて生きた人であります。ただ同情だけしてる人たちと違うんですね。僕はそういう思いで、なんか余計なことすんなって思いで、ちょっと割り切れないような思いがしたんですけども。 その先生は、世間は諸君をどう見ようと、山本周五郎のように聖書を読みなさい。正しい生き方を学んで欲しい。そして人生の真の成功者になってもらいたい。こう、エールを送ってらっしゃるわけですね。 この世の成功者といいますか、いわゆる出世をするという生き方に対して、人生の成功者っていうことを仰ったわけです。 その祝辞は、もう忘れ難いわけでありますけども、ここにいらっしゃる3分の1くらいの方々はもう50代半ば、私以上の方々で、今さら遅すぎる話になりますけども、人生の成功者として生きよ!と今さら言われても、もうちょっと遅い。ここにいらっしゃる若い兄弟姉妹たちには、その、ガッツということになるかも知れませんね。 ここには定年で悠々自適でいらっしゃる方々もおられるわけで、要するに人生には二種類のゴールといいますか、目指すべき目標があるということだと思うんですね。 一つはこの世の成功者というゴールであり、もう一つは人生の成功者というゴールであります。 こういう二つのゴールというのはやっぱり、聖書的視点から見ないと分からないんですね。聖書を知って初めて、二つの生き方があるってことがはっきりしてくるわけです。 聖書を知らないと人生の生き方というのは一つしかないんですね。この世しかないんですから。聖書に触れて初めて私たちはもう一つのゴールがあるのだ、ということに気付かされるんじゃないでしょうか。 そしてどっちを選ぶのかという二者択一を私たちはいつか迫られてくるわけであります。 聖書に触れ、今まで自分が生きてきた生き方とは別のもう一つの生き方がある、聖書は私たちにそう突きつけてくるわけですね。そうでないうちは知らないわけです。 聖書を知って初めて、私たちはその決断を迫られてくるんですね。聖書と出会わず、聖書の中から私たちに語りかけてくる、イエス・キリストというこの方と本気に人が向き合わないうちは、この世を越えた別の世界について知ることは出来ません。 ですから、どんなに頑張っても私たちはこの世の人として、この世をわざとして生きる以外に生きようがないのであります。そして、そのことに対して疑問すら持たないんです。他にないのですから。 誰だってそう生きざるを得ないんです。この世ってものを、この世の中にあってこの世を目指して生きる。この世において、自分の能力をいかに発揮するかという生き方しかほかにないんですね。 イエス・キリストという、この世の人ならぬ方に出会わされて初めて、私たちは自分のそれまでの生き方に疑問を投げかけられてまいります。根本的な転換を迫られてくるわけであります。 この世の人生、今までのように、私は自分はこのまま、この事態にいいのか。聖書を読むと人はそのことを考えざるを得ないんですね。 今まで生きてきた生き方、このまんま生きるわけにいかなくなってきた。もう一つの生き方というものに私たちは転換を迫られてくる。この世の人生と天的な人生との選択といいますか、それを人は突きつけられてくるんですね。 イエス・キリストとの出会いとは、イエス・キリストなる方と真っ直ぐに向き合うということは、このとんでもないような人生の生き方の転換を意味するってことになってきます。そのことを抜きにして聖書読んでも、おそらく何の意味もないと言っていいかもしれません。 聖書が私たちに語りかけてくるのは、その問いであります。君はどうするか。今までと同じようになおこの世の人生を歩むか。それともイエス・キリストが指し示しているところの人生に方向転換をするか。 確かに聖書に書いてあることは、この世とは次元の違う世界についてであります。私たちとは全く違う生き方をしているイエス・キリストなる方についてであります。 聖書は本当に独特といいますか、ただ一つ唯一のユニークな本です。この世の諸々の考え方の一つ、バリエーションを、一つの考え方を我々に提議してるんじゃないんです。この世と全く次元の違うとこの別のものを私たちの前に突きつけてくるわけです。 ですから、聖書は私たちが真っ直ぐに向き合って読むようになってくると、人は右にするか左にするか、このまま行くのか方向転換をするのか、その選択を迫られざるを得ないんです。 多くの人が聖書を突きつけられて、苦しむのもそこにあるわけです。ある場合には、もう本当に七転八倒するように、人はその問題の前に立ち往生してしまう。どっちか選らばきゃいけないわけですから。 聖書だけがこういう本じゃないでしょうか。この世に生きていながら、何かを参考にしながら、いい知恵を一つもらいながら、今までのように生きるなどということは出来ないんです。聖書はそういう意味で本当に大変な問題を私たちに突きつけてきます。 イエス・キリストという方は、全ての人間と正反対の方向に向いて生きておられる方。この方と我々は出会わされるわけです。 この方だけが天国に顔を向けていらっしゃるんです。他の人間は全てこの世に向いてる者であります。このイエス・キリストなる方だけが、ただ神の栄光をすべてとして、真っ直ぐにそこを向いて住んでおられるお方なんです。他の人間は全て自らの栄光を求めて生きているからであります。 イエス様は天の御国を目当てとされ、私たちはこの世を目当てとして生きていた者であります。 こうして、いったいどちらが本当なのか、どちらが正しい人生なのか。どちらが人間なるものか、を私たちに問いかけてくるのです。これが聖書のメッセージであると言えるんじゃないでしょうか。聖書は二者択一を迫ってくるものであります。 どうでしょうか、私たちはこの人生の大問題に、二者択一という決定的な節目を経てきたんでしょうか。あれかこれかの問題にきちんと決着をつけてきたんでしょうか。 長い間聖書に親しんできたイエス様が、神の御子であることも信じて、自分の救い主だと信じて、いつも祈り助けてもらっている。しかし自分の人生における二つの問題、二つの中の一つの選択という問題にきちんとした決着をまだつけてはいない。そういう風に感ずることがあるかもしれませんね。しかしこれはどうしても解決されなきゃならない問題であります。 結局聖書を通して私たちが教えられる、とくに使徒たちの手紙が私たちに語りかけてるのは、いつもそこにかかってくるわけです。 もし私たちが聖書をともに読むなら、聖書が何をいってるかに本当に向き合うなら、聖書は誰にとっても分かる本のはずですから、難解で分からないなんてことはありえないんです。全ての人に分かるように書かれているんですから、知ろうと思えば知ることができるんです。誰であっても。 ただ聖書が私たちに語りかけている本当の信仰の在り方、それを本当に私たちが真っ直ぐ向かい合って受け取っているかどうかという問題があるわけです。 今言ったように、イエス様を信じてるし、イエス様は今も生きておられるし、今に答えてもくれる。そのことは経験してしかし、自分の根本的な選択問題はまだ棚上げされている。もしそうであれば、その人にとってイエス・キリストという人は自分のこの世的な生き方をサポートしてくれる都合のいい助け手であります。 私が困った時にイエス様助けてくれる。しかし私の生き方は相変わらずこの世に向かっている。こういうことである限り、これは非常に本人にとっても苦しいことであります。 イエス様にも本人にも困ったことになります。あたかもイエス様は逆方向に向かっている人をズルズルと引きずって進むようなものであります。 前に立って導いたり、後ろからサポートしたりするわけにはいかないわけであります。イエス様が歩んでいらっしゃる道、神の道を自分も心から喜んで歩む。そのことだけが自分の人生の目当てである。というのでなければ結局、私たちは余計なお荷物を一杯ズルズル引きずりながら厄介なことになります。 イエス様が示しておられるように、私たちの信ずる神は比類のない聖なるお方であります。他のなにものもこのお方と同列に置いてはならないのであります。この方を何かのための手段にしてはならないのであります。それは冒涜だからであります。 私たちは心の中にこの方以上に尊ぶものをもっていてはいけないのであります。 主は私たちの心の中をご存知ですから、心の神殿から偶像を排除しない限り、私たちの行う全てのわざは役に立たないわけです。主は祝福されない。それは事実であります。 ですから大切なことはやっぱり、主の前に自分は本当に、主がご覧になって自分の内になにがあるかってこと。主は今言ったようにご自分以上のものを私たちが抱えている限り、私たちを導くことは出来ない、祝福することはできないのであります。 色んなものをごちゃ混ぜにして、いっぱいこん中に押し込んでいながらその中の一つとして信仰があるっていうのであれば、もうこれはですね、厄介なことになりますね。 私たちはそのようなものを全部自分の内から排除しなきゃいけませんし、それは日々なすべきことなんですね。このような礼拝の場で私たちはこのことを示されますけれど、共に祈り、主の前に出るときにそのことを吟味されるわけですが、しかし日々自分の内にあるもの吟味される。そして、 (テープ A面 → B面) 真っ直ぐに主を見てなければ、主を主としてなければ新しく立ち返らなきゃいけない。そこが信仰の力の源なのじゃないかと思うんです。 主の祝福の源といいますか、主が私たちと共にいてくださる。その力の源はそこにあるのじゃないかと思うわけであります。別に遠くにあるわけじゃないのです。自分の内にあるわけであります。 歴代誌第IIによく知られてるように、 歴代誌第II、16:9
イエス様は御父と全く一つの心を持っておられました。力を尽くし、思いを尽くし、全てのものをあげて、全身全霊をもって、イエス様はただ一生、愛されるその道を歩まれました。 イエス様が私たちに指し示している道はそれであります。そこに一切のものが、神様の恵みが、命が湧き出て来る。エゼキエル書14章、これもよく知られてますね。 エゼキエル書14:2-3
エゼキエル書14:6
自分自身の内を清めよ、と言ってるんですね。死んでも清めるように清めよ、そうすれば主は宿ってくださる。そうでなかったら神は私たちから離れて去られるのであります。私たちの祈りは主に届かないのであります。 マタイの福音書6:19-21
マタイの福音書6:24
主はいつでも私たちにそれを問いかけてこられます。私たちのその心をいつも見てこられます。私たちが主の前に立ち返れば主は必ず祝福してくださる。主がご覧になって、よし!ということであれば主は豊かに祝福してくださる。それは間違いのない事実であります。 私たちはこの世を全てとして生きていたころ、この世のわざで達成感を得ようとしたり、自己実現を目指したりしていたころ、がむしゃらに頑張ってそれを生き甲斐だと思い込んでおりました。しばらくは確かに生き甲斐のように思えるんです。一生懸命打ち込んでいると。 しかしそれは一時的で、やがて幻滅するようになります。幻滅をすると疲れだけが残ってきます。そうなると駄馬に鞭打ってももう進めないようなもんで、もうヘタリこんでしまいます。どんなに奮い立たせようとしても、もうダメであります。そのような時に私たちはイエス・キリストなる真理と出会わせて頂いたのであります。 道であり、真理であり、命である方を知るようになったのであります。 イエス様は、疲れ果てへたりこんでる者に、私のくびきを負って私から学びなさい。そうすればたましい安らぎがきますとおっしゃいます。イエス様のくびきを負うとは、イエス様と同じ方向へ向き返るということなんですね。イエス様と共に歩むということです。イエス様の心と思い、イエス様が目指していらっしゃるところ、生き方そのものを自分も共有するということであります。イエス様と一つになることであります。 ここに、新しく生きることのできる秘訣があるのであります。どんなに倒れこんでる人でも立ち上がることの出来る道があるんです。 私たちが動けなくなったのは、方向違いのとこを向いて走っていたからであります。しかし正しい方向に向き返れば、私たちの内には力が与えられてきます。神様が上から命を注ぎ込んでくださるから人は元気になります。 しかし今言ったように、もうこの世に向かって自己追求をやめなければいけません。自分を自分の神とする生き方を、人ははっきり捨てなければいけません。イエス様が十字架で死んでくださった、ご自分の命を捧げてくださった。それはそのような誤った人生、滅びに向かう人生から私たちを救い出すためにであります。 だから私たちも全身全霊をもって、今までの生き方に対してはっきり決別しなきゃいけないんです。簡単に、適当に考えちゃいけないっていうことを、十字架は私たちに教えているんじゃないかと思います。 ローマ人への手紙14:7-9
コリント人への手紙第II、5:15
コリント人への手紙第II、5:17
ガラテヤ人への手紙2:20
エペソ人への手紙2:4-6
エペソ人への手紙2:10
イエス様がそうであるように、私たちも神の栄光をあらわす器とされるべく、神は私たちを罪の中から贖ってくださった。だから神の栄光を現す人生を歩め。そう聖書は繰り返し教えているんですね。 神様の栄光を現すように生きるっていうことほど、人間にとってこんなに素晴らしい人生はないはずであります。それこそ永遠に残る人生の勝利者ってなそういうことだと言えると思うんです。 イエス様は今も生きておられます。このようにイエス様と一つになって歩む者に、確かに全能の御力を現してくださいます。この真理に立つ限り私たちはゆるぐことがないのであります。逆にこの真理に立たなければ、全ては崩れ去るのであります。 私たちはただこの主との関係だけをちゃんと大切にする。自分の立ち所だけをいつも確認する。自分の存在がかかっている、その立ち所をしっかり確認する。それだけで充分なんです。あとは主がなさるんですね。 御心に適わない者を主は排除なさいますし、取り除かれますし、御手をもって裁かれますし、人間がやることは必要ないんです。私たちは一切のものを主に委ねていたら、主と自分の関係だけに深く心を用いて主の前に正しくあると、そこだけに注目しておけばいいのじゃないかと思うんです。あとは主がととのえてくださるのであります。 ベック兄は「絶えず祈れ」の下巻の序文に次のように記しておられます。ベック兄の心の内に秘められている思いと決意に触れるようで、非常に強い印象を受ける言葉ですけども、こう書いていらっしゃるんです。 「あなたの目標は空の恒星のように不動のものでなければなりません。 あなたは攻撃され、非難され、不当な扱いを受け、拒まれ、傷つくことがあるかもしれません。 敵があなたを罵り、友があなたを見捨て、人から軽蔑され、拒否されることがあるかもしれません。 しかし、あなた自身の人生の目標とあなた自身の存在のすべてをかけてゆるがない決意と絶えることのない熱意をもって神があなたに与えられた目標を追求し続けることを、いつも第一に考えるようにしなさい。 主への忠実こそがすべてです。主がお気に召してくださること。大切なのはそれだけです。あなたのこの生き方は、空の恒星のように不動のものでなければいけない。何があってもこの目標の前に立たなきゃいけない」 そういう風に仰ってるんですね。クリスチャンに求められるのはそのような態度といいますか、決意なんじゃないかと思うんです。そしてこのようなところに立つ人にとって、もはや敵は存在し得ない、といいますか克服できない問題はありえない、といって間違いないと思いますね。 読んで頂いたピリピ人への手紙の言葉で、パウロは驚くようなことを申しました。 ピリピ人への手紙4:13
これはパウロの確信だったんですね。何故なら全能者が自分だけくださる。彼は自分の歩みを通してそのことを身をもって知ってきたからであります。 主は生きておられるのであります。問題は私たちの側にあるのであります。私たちがどんなに立っているか。イエス様がご自分の命をもって贖ってくださった、その目標に私たちが本当の意味で目を向けているかどうか。イエス様の十字架の死の重さを私がどの程度受け止めているか。そこにすべてがかかってくるんじゃないかと思うんですね。 ピリピ人への手紙3:12-14
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