おはようございます。また、ご一緒に聖書からしばらくの間、学んでみたいと思います。 今兄弟に読んでいただいた箇所を読んでみると、昔学生の頃ですからもうずいぶん前、30年くらい前ですけど、当時の我々の集会はいわゆる集会系と言われる、全国の他の集会たちと同じ交わりを持っておりました。 お正月の成人式の休日は、朝から晩まで日本中で伝道している兄弟とか、宣教師の方々が一堂に介して、もう朝から晩まで学びの集いがありました。 くたびれ果てましたけれども、しかし、兄弟たちからみことばをいっぱいいただいた訳であります。当時日本におられたアイルランドの宣教師でマレンさんとおっしゃるおじいさんがいました。 我々はムーラン、ムーラン、みんなムーラン兄弟と言っていましたけど、マレンがほんとだとベック兄がおっしゃっていました。 面白いおじいさんで、聖書のみことばを読みながら、途中でご自分で独特の節で歌になったりするんですね。楽しいおじいさんでした。 もう帰っていらして、恐らく地上にはいらっしゃらないだろうと思いますけれども、そのムーラン宣教師が、この箇所を取り上げながら、 「いつも土台ばっかりを据えてはいけない、屋上に達するように信仰の歩みをたたいていかなければいけない。いつも年がら年中、信仰の基礎ばかりを据え直していてはいけない。」と、おっしゃっていたことを忘れがたく、時々思い出すんです。 しかしまた同時に、私たちクリスチャンの信仰の歩みというのは、節目節目においてさまざまな問題に突き当たる毎に、自分の信仰の原点に立ち返るということの繰り返しではないかと思うんです。 ここにもう何十年の信仰生活を続けて来られた兄弟姉妹がたちおられますけど、この地上の信仰生涯を終えるその時まで、ご自分の信仰の原点、自分が信仰に導かれた時の、その原点をいつも思い返しながら、そこに立ち返るということの繰り返しじゃないかと思うんです。 いつの間にか信仰の歩みがぼけてしまって、訳がわからなくなって迷い始めますね、自分の歩みが定かでなくなって来る。 その時にもういっぺん信仰の原点に立ち返る。そういうことを私たちは繰り返しているんじゃないかと思います。 それで私自身もそうなんですけど、いつも自分がイエス様を信じて救われた時のことを思い返しながら、そこに立ち返っている訳です。 そういう意味で自分にとって大切なことというのは、自分自身の考えとか、感情とかという土台の上に立っちゃいけない、主のみことば、主は我々に何を示していらっしゃるのかという、主の御心という土台の上に常に立ち返らなければいけない。 そうしなかったら身動きが取れなくなってしまうということであります。いつも私たち人間の性質として、いつでも自分自身から出るんですね。初めにいつでも「私ありき。」なんです。 私はどう思うのか、私の感情はどうなのか、というところからいつも物事を見て行こうとする。自分自身に忠実であろうといたします。 しかし聖書はそう言ってないと思うんです。初めに「みことばありき。」なんです。初めに主ご自身という土台。ここから私たちは新しく出発し始めなければ、そうしなければ身動き取れなくなってしまう、と思うんです。 私たちはかつて問題を抱えて、まあ自分自身を責めて、最初は他人を責めるのかも知れませんけれども、自分自身を責めて、「駄目だ。自分は駄目だ。」と思っております。どうにもならん、と。 しかし聖書を学ぶことによって、その駄目な自分自身というところから出発している点、それはどうでもいい、それを傍らに置いて主ご自身の御心に立って生活しよう。そういう風に聖書が教えているんですね。 新しい土台の上に立たなきゃいけない。主がそれを私たちに示しておられる。こちらに立て、そういうことを教えておられる。そこに気がついて、主の招きに応じて、自分自身にはその資格はないけれど、主はそうおっしゃっている。そこで主の前に出て行くことが出来たと思うんです。 例えば、礼拝の時でも立って祈ることが出来ない場合もあるんですね。立って公に祈ることがつらいと言いますか、自分にはどうも自分の惨めな状況に心が萎えてしまう。そういうこともしばしばある訳ですが、しかし主は主を信ずる者が祈ることを、主を賛美することを望んでいらっしゃる。 これは主の御心である。だから敢えて私たちは祈らなければいけない。主を賛美する義務があるのであります。 自分の状態を省みて「うん、まあ今日は祈る資格がありそうだからひとつ祈ろう。」と言うんだったら、私たちはもう祈れなくなりますよね。(笑い) もう毎日黙っていなければいけません。そうじゃないんですね。 主は賛美を受けられることを喜ばれる。クリスチャンには今日賛美すべき義務がある。兄弟には公に主を褒め称えるべき義務を持っている。だから私たちは敢えて資格はないけれども、ただ主が善しとなさる、主の御心がそこにあるから私たちは主を褒め称えなければならないんです。 そしてそのことによって私たちは強められて行きますよね。ですから結局いつでも私たちの出発点は、主の御心、主のみことばという土台であります。それを新しく日々私たちがそこで敢えて立つかどうか、これが私は信仰という選択だろうと思います。 信仰とはそういう意味において、主の御心に敢えて立つということではありませんか。そうしなかったら私たちは身動き取れないです。 自縄自縛の中に陥るに違いないんですよね。悔い改めて、主に立ち返って、主のみことばに立つ。それが大事なんじゃないでしょうか。 聖書によりますと、私たち人間の良心というのは、それは律法として与えられると書いてありますね。 人間の良心というのは神様の律法である。ですから私たちは自分の良心ということに照らし合わせると、まあ、いつも自分の良心は自分をさばいている訳ですから、自分に対して誠実であり、自分に対して良心的であろうとすると私たちはつらく立ち上がれないでしょうね。 自分のさまざまな罪、さまざまなこれまでの人生に於ける失敗、数あるミステイクで、私たちはうつむいてしまうだけでしょう。 自らを省みて、天地に恥じないなんてというのは、それは儒教の教えでは良く言いますけど、クリスチャンには有り得ないことです。 「俯仰天地に恥じず。自ら反みて編(なお)くんば、千万人といえども吾ゆかん。」というのは孟子の言葉ですけど、そういう自らに恥じないということばは、クリスチャンには有り得ませんね。 御霊を通して、私たちは自分がどんなに恥ずべき罪咎の多い者であるかということを知っているからであります。人は正直で誠実でなければならない。特にクリスチャンは内なる御霊が、私たちの偽りを見逃されないために、不真実を押し通すということは出来ない。そういう風にされている訳です。 しかし私たちは自分自身に対して誠実であるのではなくて、主のみことばに対して敢えて立つ。そこにいつでも私たちの信仰の立ちどころがあるだろうということなんですね。 ゼカリヤ書を読むと、そこに大祭司ヨシュアの惨めな姿が書いてあります。 ゼカリヤ書3:1-5
大祭司ヨシュアがよごれた服を着て、サタンに訴えられて、黙って立ちつくしている姿がそこにある訳です。そこで主は御使いを通して、彼のよごれた服を脱がせ、「見よ。私は彼の不義を除いた、彼に礼服を着せよう。」「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」とこういう風に主はおっしゃるんです。 私たちもしばしばこういうような状況に立たされるんじゃないでしょうか。自分の良心に咎めを感じて、悄然としてうつむいてしまう。黙してしまう。 しかしいくら自分を責めても何の解決にもなりません。一切の弁明も役に立ちません。自分が責められるだけのことは確かだったんですね。 そこで聖書はなんて言っているのかということなんです。聖書が私たちに語っているものが、常に大切なのはそこなんじゃないでしょうか。 聖書は「信仰による神の義に拠り頼め。」と言っているんですね。 ここで言う「礼服を着せよ。」この言葉が、「神の義」ということばによく符号していると思いますね。きよいターバン、主は信仰によって私たちを義と認めてくださる。悔い改めて立ち返るものを主は、「義なる者」とおっしゃってくださるのであります。 ここにだけ私たちの立ちどころがあると言えるのではないでしょうか。 これ以外にはないのであります。これ以外の立ちどころに立ってどんなに戦かおうと、私たちは堂々巡りの役に立たない自己弁明を繰り返すだけでどうにもなりません。 そうではなくて、主は信ずる者を義と認めてくださる。そこに私たちの唯一揺るがない土台があるのだと聖書は繰り返して言っているのであります。 ローマ人への手紙3:19-24
これが福音の恐らく中心です。私たちの信仰の一番大事な確信ではありませんか。 ローマ人への手紙8:1
主の贈り物である赦しと義とを受け入れ、主の御胸にすがって、主の栄光の蔭に生きるべきであるという歩みをするべきである。新しい歩みをするべきである。自分で自分自身を裁いてはならないと聖書は言っているわけです。 もっと言いますと、人間には自分自身を裁くという権限は与えられていないと言った方がいいかも知れませんね。 人を裁くのは主である。主ご自身だけが私たちを裁く権限を持っていらっしゃる。 箴言にあるように、人を裁くのは主である。コリント人への手紙第Iの中にあるように、パウロは「私は私自身を裁くことはしない、私を裁くのは主である。」と言っています。 もちろん自分自身を省みて、自分の正しくない行為、自分の生活を改める。そういう意味で自分自身を裁くということは大切です。 自分のみことばに相応しくないところに、自分自身を吟味すること、そういう意味で自分自身を裁きなさい。主によって裁かれないためであるとパウロが言っているところもありますけれども、ここで言っているのはそういう意味とは違うんです。 自分で自分を裁くことは自裁と言いますね。江藤淳なんかが、ああいう方が自らの命を絶ちます。自裁と言いますけれども、自らを裁くんですね。 それは自ら命を絶つことでありますけど、自裁が罪で赦されない理由というのはそういうところにあるんでしょうね。人間には自分自身を裁く権限は与えられていないから、私自身が、私自身を究極的に裁くことは罪であります。聖書はそう言っているんです。 私は私自身を究極的な意味で裁いてはならないのであります。裁くのはただ、主ご自身の権限であるということなんです。そして主の御心は私たちを裁くのではなく、私たちを救うことにあるということなんです。 大切なのは主の御心であります。聖書は何と言っているか、そこに真理という土台があるからであります。主は何を望まれ、何と語っていらっしゃるのか、それが大切なんです。 私たちを不毛の堂々巡りから解放するものは、主の御心に立つという私たちの信仰であります。ここにしか私たちの救いの道がないからであります。 信仰こそ勝利に導くというのは、結局そのことだと思うんです。自分がどういう状態にあろうと、あるまいと関係なく、敢えて主の約束の上に立ち、主のみことばの上に立つ。 それがいつも大切な信仰の原点なのではないだろうか。この地上の歩みを終えるその時まで、必要な原点なのじゃないだろうかということなんです。 自分の考えや感情に従うことを拒絶して、主が提供してくださっている土台の上に立つという選択だろうと思います。 私たち日本人というのは、あるいはアジア人全体がそうかも知れませんが、どちらかと言うと内省的です。自己凝視的であります。 「お前はいつも自分の中に入り込んじゃって、うつむいていて自分を見つめて、それで身動き取れない。」だから消極的ということなんじゃないでしょうかね。 それからすると西洋の方々の方がどちらかと言うと内省的よりも、むしろ外側に目を向けてと言いますか、そういう風に私には見えるんです。 自分の外側にある客観的な基準というものに目を向ける。自分自身への誠実ではなくて、客観的な基準に対する忠実さと言いますか、そういうところに健全な人間の土台が生き方があるということが言えませんでしょうか。 ある日本人の哲学者が「日本人と誠実」という本を書いていて、私は非常に興味深く読んだことがありますが、日本人というのは、誠実ということを非常に重要な徳目とするんです。自分自身に偽らない、自分自身と生きるという、そこに拘る訳です。 先ほど言いましたように、聖書は自分自身の良心というのは、神の律法が人間の良心として与えられている。確かにそうなんです。ですからそこから自分自身というのを、いつもその基準に照らしますと、私たちはどうしても消極的に成らざるを得ないと言いますか、臆するんです。そういう気がいたしますね。 自分の自分自身の内なるそういう警告に目を向けるのではなくて、神が私たちに提供していらっしゃるその土台の上に立つ。それがどうしても大切ではないかと思うんです。 聖書は何と言っているか、主の御心は何か、最終的な唯一の裁判官である主なる神が全人類の救いのために道を用意してくださった。人間ひとりひとりの罪の贖いを成し、罪を消し去り、罪をもう認めないという救いのみわざを主は成してくださった。 そういうことを聖書は私たちに伝えている訳であります。 死刑囚が、大統領の特赦によって放免されたようなものです。 朝も兄姉たちとちょっとお話ししたんですけど、皆さんご存知なのか沖縄の教会で伝道していらっしゃる方に、新垣三郎という牧師がいらっしゃるらしいですね。 熊本集会のある姉妹のお兄さんはノンフィクション作家なんですかね、何年か前に私に本をくださいました。「地獄の虹」という本だったんですけれども、それが沖縄の新垣牧師の、不思議としか言いようのないような、地獄からの生還のような経歴をテレビで放映するために、カメラマンも付いて、ずっとこの人と一緒になってその足跡を追っかけたんです。その記録なんです。 サイパンであの激しい戦争の最中に、上司の命令によって若い十七、八のその少年が日本人、二人を殺す。それによってアメリカの軍から死刑の判決を受け、ハワイに送られ、ハワイで無期懲役、終身刑に減刑されますけれども、その中で絶望的な状態の中で荒れ狂っていたその青年が、聖書と出会ってまったく生まれ変わって行く。 模範囚となって、その彼の生き方をアメリカ軍の刑務所の責任者、所長がアメリカ大統領に繰り返し繰り返し特赦を願い出て、中々許可されませんけれども、遂に彼が大統領特赦になって、彼の無期懲役、終身刑が取り止めになって、日本に帰って来る。 沖縄で伝道していらっしゃるようです。セブンスデーの牧師さんということみたいでしたけれども。そういう数奇な運命と言いますか、考えられないような戦犯の中で守られながら、今働いていらっしゃるようです。 まあ、死刑囚が大統領特赦によって罪を赦されるようなものです。ちょうど私たちもそういう者であると聖書は言っている訳であります。 ゼパニヤ書1:7
イザヤ書43:25
へブル人への手紙9:11-14
へブル人への手紙10:8-10
へブル人への手紙10:14
へブル人への手紙10:17-19
神は御子イエス・キリストを十字架につけられ、その死と復活とによって、私たち全人類の罪の贖いと、永遠の命への道を備えてくださったのであります。 イエス様が死なれることによって、どうして自分の罪の負い目が赦されるのか、それは納得できないとおっしゃる方も多いんです。 ひとりひとりの罪に対して、神が御子 (テープ A面 → B面) ですけど中々このことを認めようとしない、受け入れようとしない方もおられますね。 夏目漱石なんかがそう書いております。どうしてそういうことがあり得ようかと言って、彼は一蹴するんですけれども、ある意味でもっともな疑問かも知れません。 神が自らの正義を曲げてしまっているのではないか。人の罪をキリストの死によって赦すとはいったいどういうことなのか。神の正義が捻じ曲げられているのではないか。こういう疑問ですね。 しかし神様は主権者ですから、主権者は法を定める権威を持っていらっしゃる方ですから、主権者であるがゆえに、主権者が定めた罪の解決の方法というのは、正当なものであると言えないんでしょうかね。 厳密に僕はそれは言えると思っているんですけども。成り立つと思っているんですが。聖書は、神はご自分のひとり子を十字架につけることによって、ご自分の正義をまっとうされているのだ。神の正義はほんの僅かも歪められてはいないのだ。神の完全な正しさはこれによって貫かれているのだ。 だから神様の救いと、神の赦しと、神の義というのは、イエス様を通して初めて調和しているのだ。聖書はそう言っている訳です。 私たちはそれを受け入れている訳であります。神はご自分の正しさを寸分も曲げることなしに、人間の罪の赦しを成就されているのです。御子イエス・キリストによる贖いのみわざなのだ。これでいいのだといいますか、神様の判断によると、これは完璧なのであります。 それに対して「おかしい。」と言って文句をつける人間もいる。どうなんでしょうか。人間から見ると納得いかないでしょうかね。不条理なんでしょうか。 しかし人間のレベルではそう見えるかも知れませんが、神様の知恵ではそうでない。神様の更に高い深い条理、道理がそこには貫かれている。決して神様はご自分の義を曲げてはおられない。 そういう風に聖書は言っている訳です。僕はそれは正しいと思います。 神は決して人間の罪を無条件に見逃してはおられない。人間の罪は罪として徹底的に神は裁いておられる。ただイエス・キリストの上において、それを裁かれた。聖書はそう言っているのであります。 ローマ人への手紙3:25-26
パウロはここで神様が義であることは、寸分も揺るいではいないのだと言っているんです。こうして神ご自身が義である、義であるからイエス・キリストの命の代価による、そしてそれを信じて受け入れる信仰によって、そこに神様は救いを提供されているのだと言っているんです。 神の約束、みことばという見えないもの、のちに成就することを神様に信頼するゆえに信頼し、そのみことばを土台として立つ。それが信仰だろうと思いますね。 へブル人への手紙の11章にはそういうように歩んだ人々のことが出て来ますね。 へブル人への手紙11:1-2
と書いてありますね。信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものですと「信仰の定義」が紹介されているんですけれども、望んでいることがらを保証するもの、望んでいることがらとは救いであり、解放であり、喜びであり、希望であり、生き生きとした力である勝利の生活、勝利の人生と、そういうようなものじゃありませんか。 そういうものを保証するというのは、神様のみことばに立つという信仰なのだ。この信仰がそういうものを保証するのだという意味でしょうね。 そういうすべてのものは、主のみことばの信頼によって確かなものとして保証される。その土台というものをもつようになるということじゃないでしょうか。 主のみことばという土台の上に立って初めてそれは保証されている。確かなものは目に見えない約束も、主のみことばという土台に立って、初めて揺るがない確信となるということなんじゃないでしょうか。 このヘブル人への手紙11章には、信仰によってということばが22〜23回出て来ます。信仰によって、信仰によって...各節が信仰によってという書き出しから始まっていると言っていいくらいです。 彼らは敢えて主のみことばに立ったということじゃないでしょうか。主がおっしゃっているから私はそこに立つ、このみことばに立って歩むということじゃないですかね。 いつまでも自分自身を責めて、座り込んで、しゃがんで、いつまでもそこにいること。それは何の解決もない訳です。そうではなくて、主の約束に立ち返って歩む。結局私たちの信仰生涯とはその繰り返しなんじゃないですかね。 聖書は私たちに常に主に立ち返って歩めと言っていると思うんです。主なる神が一番喜ばれることは、私たちが主のご真実を、主の約束を違えないことであるというように、主のご真実に信頼することじゃないですか。心から信頼することです。 ヘブル人への手紙11:6
人間でもそうですよね。いつでも自分を信頼してくれる友人ほどありがたいものはありません。いろんな誤解を人から受けている中であっても、「いや、彼はそうじゃない。」あるいは、「彼女はそうじゃない。」と言って、いつも自分を信頼してくれる友人がいてくれると、私たちは慰められます。ほんとにうれしいですよね。 逆に、反対にいつでも疑われていると、人間は耐え難いものです。 神が一番喜ばれるのは、私たちが立派な何か大きなことをやることよりも、間違いなく私たちが主を信頼しているということじゃないでしょうか。 恐らく人間のやることは大したことじゃないですよ。この万物をお造りになった神様からご覧になって、私たちがどんなに頑張って何か凄いことをやったからといって、恐らく主の目から見れば大したことじゃないでしょうね。 主がもっとも喜ばれることは、恐らく主はご真実であり、その主を信頼して揺るがないことじゃないでしょうか。イエス様を信じて、救われて初めて私たちは信ずるということはこんなに大切なことなのだ。自分が信じるということは、相手にとって一番大きな喜びなんだということに気がついて来ます。 そしてそのことを神様は義と認めてくださる。神の義とはそういう意味なんですけれども、なるほどと納得するんですよ。 神様を信じようとはしないで頑張って、肩をいからせて、顔をしかめて一生懸命自分の義を立てようとする。正しく生きようとする。それが律法による義ということなんですが、神様を信頼しようとはしないで、自分の義を立てようとして生きる。 それがどんなに神様の御心から遠いかということにやっと気がつくんですね。 確かに主が提供しておられる救いを受け取ることによって、イエス・キリストという神の義そのものを感謝して受け取ることによって、初めて私たちは信じるということこそが、人格関係の最大の重要なものだということに初めて気がつくんじゃないですかね。 神様と人間との関係、人間と人間との関係、その関係において一番尊いものは恐らく信ずることですよ。相手の誠実さ、相手の忠実さ、そのことが一番大事なのだと聖書は言っているんです。 そしてこの神様に対する人間の信頼、神の真実さを信ずるというこの信頼、これこそがあらゆる良きものの源泉なのだ。 あらゆる命の、愛の、正しさの、あるいは平安の、満たしの、希望の一切のものの源泉というのは、そこなのだというのが聖書の言っていることではないかと思うんです。 義人は信仰によって生きる。結局信仰によって人は救われるのだと聖書が言っていることの意味は、そこにあるんじゃないかと思います。 自分自身の惨めさにもかかわらず、常にこの主のみことばに立ち返って、主を信頼して歩みたいですね。そうでなかったら、私たちは流されてしまうからです。自分の立つべき岩を失ってしまうからなんです。 イザヤ書7:9
この後半のことば、もしあなたがたが信じなければ、長くたつことはできない。主を信じる、主のみことばに立つ。これこそが命綱なのであります。 先ほど、お読みしたヘブル人への手紙の10章、礼拝の時にちょっとお読みしましたけど、もう一度お読みして終わります。 ヘブル人への手紙10:35-39
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