引用聖句:使徒の働き16章31節
今読んでいただいた使徒の働き16章の31節、非常に有名なことばです。パウロとシラスがピリピの牢屋の看守に対して答えたことばだと記されています。 「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した看守、獄吏に対してふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 こういう確信に満ちたことばを語ったのであります。 この聖書のみことばは考えてみますと、この聖書全体においてもっとも大切なフレーズである、一節であると言うことができるかもしれません。 なぜならばこのみことばが語られないならば、たとえどんなに深い該博な聖書の説きあかしがあったとしても、所詮は絵に描いた餅に終わってしまうからであります。 日本語では画竜点睛を欠くという言葉があります。竜の絵を描いて、最後に目を入れなければ一番肝心なものが欠けてしまうという意味で、画竜点睛を欠くと昔から言いました。肝心要な一点が欠けてしまうことになるからであります。 たとえどんなに多くの聖書の知識を身に付けたとしても、どんなに長い年月をかけて聖書の研究に取り組んだとしても、その人がイエス様を心から信ずるという信仰がもしないならば、結局その人は救いが何であるかを体験的に知ることができないからであります。 それと同時に聖書が何を言っているのか、本当のところはその人は理解することすらできないからであります。主イエスを信ずる信仰があって初めて私たちは聖書が何を語ろうとしているのであり、救いが何であるかということ本当の意味で知ることができるのであります。 そういう意味において聖書全体における肝心要のポイント、それが主イエスを信ずるということです。 いつの時代でも聖書批判をする職業的神学者や聖書学者たちがいっぱいいます。さらには、牧師さんたちまで今日、聖書の重要なメッセージを真っ向から否定して平気な人々がいらっしゃいます。 今日は先ほどもわれわれがいっしょに祝ったようにイースターであります。聖書の一番大切なメッセージ、神の御子イエス様が十字架に架かり、三日目によみがえってご自分が本当に救い主であることを明らかになさったという、その聖書の根本的なメッセージを受け入れない、信じないという牧師さんたちもいっぱいいらっしゃるのです。強度幻想に過ぎないと言い放っている、平然と言い放っている牧師さんたちもいるのです。 こういう人たちが専門家という権威を振り回して、聖書に近づいて来る人たちをつまずかせていますけれど、その理由は非常に簡単なのです。 なぜそういう専門家たちが、神学者たちが、聖書学者たちが、牧師さんたちがどうしてそういう聖書のメッセージを否定するかと言うと、理由は非常に簡単なのです。彼らが本当の意味でイエス様を受け入れていないからです。 幼子のようにイエス様を信じ受け入れるということをしたことがなかったからです。彼らは自分たちが聖書を理解できていないということすらわかっておりません。それでいながら、自分たちは聖書の専門家であると思い込んでいますから何という悲劇でしょうか。あるいは何という喜劇でしょうか。 かつてイエス様がパリサイ人や律法学者たちを激しく叱責されたのと同じ状況がそこにはあるからであります。 マタイの福音書の23章。2,000年前も今日も結局変わらないのです。 マタイの福音書23:13
14節の終わりのところです。最後のところ。 マタイの福音書23:14
専門家という権威によって聖書に救いを求める多くの人々をつまずかせてしまう。あなたがたのその責任は非常に重いのだ。人一倍厳しい罰を受けなければならないのだとイエス様は仰ったのです。 考えてみますと聖書とは非常に厄介な書物です。なぜなら、いくら読んだとしても、人間の通常の理解力では理解することができないからです。 単なる頭の知識で、理解で聖書を把握しようとする人々を神はその入り口でシャットアウトしてしまっているからです。 救いという神の真理の伝道の中に導き入れられるには、理性による理解とは別の道によるほかないのであります。それこそが主イエスを信じるという信仰による道であります。これ以外のどのような道を通しても人は聖書の真理を知ることは絶対にできないのであります。 そういう意味において聖書は実に厄介な書物なのです。コリント人への手紙第Iの2章の14節。こう書いています。 コリント人への手紙第I、2:14
この世の人にとっては愚かなのです。理解することはできないと書いてあります。それが実は聖書の真理なのです。 1章の18節から見てください。 コリント人への手紙第I、1:18-21
神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたと書いてあります。ある意味においてパウロの痛烈な皮肉がここに込められてもいます。 コリントという町はギリシアの町ですから。人間の知恵を最高のものとして、誇りにしたのがギリシア人ですから。そのギリシアの知恵に対してパウロは真っ向からこれに挑戦状を突きつけているのであります。 「人間の知恵よ。おまえの力がどれぐらいのものか。」、パウロはこういうふうに真っ向から人間の誇りとする知恵のむなしさを喝破するすると同時に、人の愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたと言っています。ある意味で非常なる皮肉でもあります。 しかしまた別の意味においては、聖書とは本当にありがたい本なのです。なぜならば、まったく無学文盲の人ですらその真理をはっきりつかまえることができるからです。 人間にとってもっとも大切な問題。救いということに関わる問題において、神は人間をまったく平等に扱っておられるのだということがわかるからであります。 確かに人間には生まれながらにして能力に違いがあります。社会的な地位や貧富の差というものもできてきます。 しかしそのようなものは神様から見ると本質的なものではない。どうでもいいものなのでしょう。なぜなら、頭がいい人が必ずしも人生の成功者にはならないから。本当の幸せを手に入れることはできないから。 この世にたくさんの富や地位も持っている人が必ずしも人生の勝利者ではないということを私たちは知っています。 神が人間に与えられているさまざまな能力とか地位とか富というようなものは、他の人々の益のために神がその人にあずけていらっしゃるものであると聖書は言っています。 私たちに神様が与えておられる才能は私たちが自分を誇るために神様が与えているのではないのであります。そうではなくて、私たちがこれを神様のみこころに従って、多くの人々のために本当に正しく用いるために私たちにあずけられているものです。 ですから私たちはこれを間違って誇ってはならないと聖書は言っています。なぜなら神はその責任を私たちに問う時が必ずあると仰っているのです。 私たちはかつてそのことを知りませんでしたから、自分が人より少し優れていると思うといい気になって、自分より優れている者を見ると、おれはかなわないと尻尾を巻いて。いつも自分を誇る思いといつも劣等感に悩むという、こういう関係から人間は逃れられないのであります。 しかし聖書を知って初めて私たちはこの問題から根本的に解放されるのです。なぜならば、私たちに与えられているタラントは、私たちが本当の意味で人々の役に立つように用いるために私たちにあずけられているものだからです。 ですから周りの人々にとって本当に益にならないものであれば、それは神様から与えられている本当の恵みではない。賜物ではないのであります。 コリント人への手紙第I、4:7
あのアウグストゥス、西洋の思想に根本的な影響を与えたと言われる、あの初代教会のリーダーであったアウグストゥス。彼が座右の銘として、いつも自分を戒めるために、深く心に覚えていたみことばだと言われています。 「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」 私はキリスト集会に来て非常に大きく教えられたことのひとつが、これでした。ベック兄はいつも「兄弟姉妹の本当の祝福にならないような、人の持っている才能は何の役にも立たない。たとえば、どんなに音楽のすばらしい才能を持っていても、それが周りの人々の、それを聴く人々を本当の意味で喜ばせ、祝福するものでなければ何の意味もない。」 「私はこんなにすばらしい音楽の才能を持っていますよ。」、「これだけすばらしいピアノが弾けますよ。」っていう、そういうものであれば何の役にも立たない。 それは神様がその人に与えている、本当の意味での賜物ではない。才能ではない。そういうふうに厳しく教えられたほどです。 だから、周りの人々が本当の意味で祝福されるように、ひとりひとりの持っている才能、賜物、新約聖書で言っているタラントです、それは活かされなければいけないのです。その人自身の誇りになるものであれば、何の意味もないのであります。 こういうふうに、人間に与えられているさまざまな才能というのが、本当は神様に仕え、周りの人々に本当に役に立つために私たちにあずけられているものだということがわかると、私たちは才能があるとか、ないとか、そういう問題から根本的に解放されて自由になるのであります。 すばらしい才能を持っている人を羨む必要もないし、才能がないからといって劣等感を持つ必要もないわけです。何の意味もないのであります。 多くあずけられている人が、多く主のために働くべきです。多く与えられている人は、多くの責任を負うのだと聖書は言っています。 もしこの真理に気が付くなら、この世の多くの争い、社会的闘争の原因は消えていくに違いないと思っています。なぜなら、この世の争いの原因はねたみだからです。ねたみであり、高ぶりであり、誇りだからです。 人間には何一つとして自らを誇る資格はないのであるということ。一切のものは神様から恵みとして私たちにあずけられているものであるということ。神様の御栄を現わすために、周りの多くの人々に本当の喜びとなるために、私たちにそれは神様があずけていらっしゃるものであるということ。 そのことに気が付けば、私たちはもう劣等感に悩む必要はないのであります。人を羨む必要もないのです。 ただ、注意して自分にあずけられている賜物を十分に活かして、正しく用いなければならないという責任を自覚するはずです。 こういうふうにして、確かに多くのひとりひとりの才能の違いがある。置かれている位置や立場の違いがある。 しかし今言ったようにそれは、神様が私たちにご自分の栄光を現わすべく、人々に本当に仕えるために私たちにあずけているものであるということ。だから責任を伴なうものであるということであります。 しかし、神はなくてはならないただ一つのものを得る能力についてだけ、人間に何の差別、区別もつけていらっしゃらないのであります。まことの救いという真理をつかまえるために、人間には何の区別もありません。 どんなに知的障害を持っている人であっても、聖書の真理をはっきりつかまえることができます。 知能的に本当に劣っているように見える人々のほうが、驚くべき実は深い聖書理解を、神に対する理解をもっているということを私たちは知るのであります。 マタイの福音書11:25-26
イエス様はこのとき感極まるようにして、「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。」と賛美しています。 これらのこと、この驚くべき真理を、この全宇宙よりも偉大なる真理を、あなたは賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わされた。これこそがみこころにかなったことだと仰っています。 パウロが言っているように、それはこの世の知者たちをはずかしめるためである。神はこの世の愚かな者を選び、その者に真理を啓示された。そう言っています。 人間の知恵というものを神様の前において人が誇ることのないために神はこうなさったのであります。 コリント人への手紙第I、1:26-29
コリント人への手紙第I、1:31
古い訳ですと、「誇る者は主を誇れ。」 コリント人への手紙第I、1:31
誤って、間違って人間を誇ってはいけない。これは聖書が繰り返し私たちに伝えている戒めです。なぜなら私たちは本当の意味で自らを誇ることのできる者ではないからであります。 ここにいらっしゃる兄弟姉妹たちが、どういうふうに信仰に導かれたかということはだいたい見ています。 見ていると、みなさんは集会にいらっしゃって、最初はまったくの別世界に戸惑って、入り口からちょっと好奇心をもって覘いたり、ちょっと半信半疑で距離を置きながらクリスチャンたちなる人種をちょっと観察していたりということです。 しかしそのうちに、これは本気だということに気が付いて、顔つきが変わってきます。 そういうふうにしてクリスチャンとしての生涯を歩み始められたのですが、私の場合はちょっと違うと思うのです。 というのは、私はまだ二十歳過ぎでしたから、理解することができなければ信じることはできないと頑固に思っている時代でしたので、ちょっとぼくと比べると、みなさんの信仰に導かれたプロセスというのは、ちょっと違うなぁというような感じがするのです。 なんせガチガチの学生でしたから、とにかく聖書が自分に理解できなければもう信じられないと思って、聖書の前に本当に立ち往生していたのです。何とか理解しようと思ったからです。 ですから、聖書が人間の理解をはるかに超える本であるということはもう身に沁みるほど私は痛切に経験させられました。これはもう人間の通常の理解、理性ではもうどうにもならないと身に沁みて感じたのです。 結局自分が手離すまいと懸命に握り締めているものを次々に手離させられるという経験をひとつひとつさせられて、丸裸にされて、ついには本当に降参せざるを得なかった。 それが実は私の聖書との格闘の経緯でした。自分がしっかり持って離さないものを結局ひとつひとつ離させられていく過程、それが主に近づいていくプロセスだったのです。 まず最初に私が手離させられたのは何かと言うと、自分のプライドだったのです。このプライドを徹底的に本当の意味で手離さなければならないのだということを私は教えられました。聖書にぶつかりながら。 それまでの自分の人生を支えていたのはプライドでした。何があっても失うまいと思っていたのはプライドでした。ただそれによって私は生きていたのです。すべての人がそうなのです。 実は自分自身への誇りと言いますか、自分を誇ると言いますか、それだけが人を支えているのではないでしょうか。しかし聖書と出会うことによって、神は私のこのプライドというものを徹底的に剥ぎ取られていくのであります。 創世記にあのヤコブが神様と格闘して、足のもものつがいを外されてびっこをひくようになったという不思議な記事がありますけれど、結局神は私の支えであったプライドを徹底的に打ち砕かれるという、そういう形を通して私に臨んで来られたということを私はよく覚えています。 神は私の罪と咎とを光の中に出すことによって、わたしはあなたの全人生を知っているということを私に明らかにすることによって、私が顔を上げることのできない者であるということを示されたのです。 もうひとつ、私の自信と過信とをもみ殻のように粉々に吹き飛ばすことによって、一瞬にして吹き飛ばすことによって神は、私の支えであった自分自身へのプライドを徹底的に剥ぎ取っていかれたのであります。私にとってこれは、もう身を切られるように痛いことでした。 しかしそれ無しに神の御前に出て行くことはできないということを学ばなければなりませんでした。 その経験を通してそれ以降、自分のプライドというものを神様は赦さないのだということ。これを忘れることはできないのであります。 最後に私が手離させられたのは何かと言いますと、自分の理解力への信頼というものでした。自分に理解できないことは受け入れられないという、頑固な態度。私はついにこれをもまた手離さなければならなくなったのです。 私は誤った信仰を非常に恐れていました。狂信ということを非常に警戒していました。世の中にはいっぱい狂信があるからです。だから間違った信仰、信じてはいけないものを信じないということについて非常に警戒していました。 ですから理解できるかどうかということは私にとっては手離すことのできない物差しだったのです。しかし最後はこの問題が実は神様から問われているということに気が付いてきました。 あくまで自分の理解力に従うというのであれば、私を導くのは所詮私自身であって、私以上の存在ではあり得ないのです。 自分自身に頼る生き方をして来て、もうどうにもならないという状況に立ち至っているのに、自分以上の存在は理解できないから信じられないというのは、まったくの袋小路にはまっているようなものです。 自分の力でどうにもならないのに、自分以上のものは理解できないから信じられないというのは、もうどうにもならない言い訳です。 自分が理解できるものしか信じないというのであれば、結局私を導くのは私以外にないのであります。こうしてついに自分の理解を超えるものを信じるかどうか、文字通り信じて飛び込むかどうか。そのところに立たされざるを得なかったのであります。 理解できないからやめたと言って、元来た道に引き返すことができればいいのですけれど、私にはもうできなかったのです。なぜならもう、私はこの世界に、この世に本当の意味での希望がないということをよくわかっていたからです。 聖書を拒絶して、聖書をもう閉じて、もう私に理解できないからおさらばだといって、私はもう元の生活に戻ることはできませんでした。なぜならそれはもう私にとっては何の望みもない人生だったからです。 結局、主なる神は私に向かって「あなたはわたしを神と信じるか。」と問いかけていらっしゃるということに気が付いたのであります。 最後は神を神として信ずるかどうかという問題。主への真実な信頼というものを神様が問うているのであります。 「あなたはわたしを信じますか。」、私は神様に向かって何とか理解しようとして、「あれがわからない、これがわからない。」と言っているのですけれども、主はそれについては答えないで、「あなたはわたしを信じますか。」、「あなたはわたしを真実なる者として信じますか。」、「あなたの心はどうなのですか。」これが結局神様の私への問いかけであるということに気が付いてきたのであります。 神は私たちの理解力を問題にしていないということ。そうではなくて、神ご自身に対する私たちの真実な信頼を神は求めていらっしゃるということ。 小さな赤ちゃんは自分のお父さんやお母さんのことは理解できません。お父さんがどうやって金を稼いで来て、毎日の生活を支えているかなんていうことは説明してももちろんわかりません。 親がどんな人生観を持っているか、赤ちゃんはどんなにたとえ親が説明してあげてもわかりません。 しかし赤ちゃんは理解できないけれど自分のお父さんとお母さんを信頼しています。親の信頼を疑うことなく、そのふところでゆっくり、いつも安心して眠ることができますでしょう。 赤ちゃんは信頼という一番大事なことを知っているから、日々満たされ、守られ、養われているのです。親を理解することができるまで親が与える食事は要らないというのであれば、子どもはもうとっくに死ななければなりません。 そうではないのであります。人間にとって根本的に大事なのは理解ではありません。信頼であります。 聖書が「信仰によって救われる」と言っていることの意味はそこにあるのであります。人間はどんなに頭がいいと思っても、この無限の宇宙を無から創造された神を理解することは不可能であります。 むかし初めてベック兄に会ったときにベック兄が、「人間が理性でもって神を理解できると思うのは根本的に間違いである。」と仰られて、びっくりしたことがありました。 理解できないものをどうして人間は信ずることができるかとぼくはそのとき非常に不思議に思いました。 近代人の、現代人の根本的な間違いは、理解するということを一番の中心に置くことであります。 理解できないものは存在しない。理解できないものは根本的に否定するというところに現代人の根本的な愚かさがあります。そこに現代という世界のどうにもならない、実は行き詰まりの原因があります。聖書はこのことを何千年の昔から言っているのであります。聖書に触れて初めて私たちはこの真理に気が付いていくのです。 一番大切な人格関係は何か。人間と人間との関係において、一番大事なものは何か。それは信頼ということです。信頼が崩れて、一切が崩れていくでしょう。 信頼ということを聖書は愛とも言っています。愛があって初めてそこに強固な人間関係が生まれてきます。愛が失われ、信頼が失われるときに一切のものは根底から崩れていきます。 ですから神は、主は知者たちの知恵を笑われると書いています。知者たちの知恵が役に立たない無益であると主は知っておられると聖書は書いているのであります。 ヘブル人への手紙11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはない。どんなに私たちが一生懸命がんばろうと、神を信ずる信仰がなければ、神は受け入れられませんと聖書は言っています。神を信ずることが神に喜ばれる第一の条件なのです。主への信仰、真実な信頼がなければ何ものも生まれて来ないのであります。 主なる神への真実な信頼と信仰、これこそ人生のアルファであり、オメガであります。ですから人が救われるのは信仰による、義と認められるのは信仰によると聖書は繰り返し繰り返し語っているのであります。 私には引き返してもこの世に解決がないということをわかっていましたから、信じて受け入れる、主に従うという以外に方法が無かったというのが、私がクリスチャンになった本当の正直な事実です。ほかに方法が無かったからです。 もう、理解できないけれど。理解できるかどうかということはもうそばに置いて、聖書が言っていることに従って、イエス様を信じ受け入れようという決心だったのです。 よく例え話に言われるように、火事か何かで二階の窓から飛び降りなければ助からない子どもみたいなものです。下で両手を広げて、受け止めようと待っている父親を信じて飛び込むかどうか。そこにすべてがかかってくるのです。 最後は神を信じ、またその御子である救い主イエスを信ずるという信仰にすべてがかかるのであります。 だからどんなに大変な経験をした人であろうと、それほど大変な経験をしたことがない人であろうと関係なくて、最後は子どものように主を信ずるかどうか、「イエス様を信じます。そして主に従っていきます。」、この信仰によって私たちのうちに革命が起こってくるのです。間違いない革命が。 驚くべき革命が私たちの内面に、そして私たちの人生そのものに起こってくるのであります。それ以外に主を知る方法はないし、主の救いを経験する方法はないのであります。 ローマ人への手紙3:21-24
エペソ人への手紙2:8-9
はっきり語られています。神の御前にボロボロの存在として、ただ一方的な恵みにあずかるだけの者として、一切の権利を主張することのできない者として出て行くのです。人間にはそれ以外に方法がないのであります。神様の前に弁解できる人はひとりもいないからなのです。 だから神は私たちの口を封じられると聖書は書いています。人はもう、神様の前に出ると何の言い逃れもできないのであります。神はすべてをご存知だからです。 あのルカの福音書15章の放蕩息子のように、もうボロボロの者として、びっこを引いて、神様の前にただ頭を下げて、主の恵みにあずかる者として出て行くだけです。 その者を神は、そういう人だけを受け入れられるのです。その者に神はご自分の子どもとしての特権をお与えになる。 ご自分の息子としての印としての指輪を与えたと書いています。指輪をはめさせたと書いてあります。一番上等の着物を着せ、足に靴をはかせなさいと父親はこの放蕩息子のために言ったと書いてあります。 食べて祝おうではないか。この息子は死んでいたのがよみがえったのだからと、父親は大宴会を開いたと書いています。 人間が神様の本当の祝福にあずかるのは、神の子としての立場に人間がはいることができるのは、ただ一切の弁解を捨てて、ありのままに主の前に出て行くだけなのです。 要するに、イエス様を神がお遣わしになった救い主、贖い主として素直に信じ、信頼して日々主に従うことです。 イエス様がいつも御父を愛し、その愛のうちを歩まれたように、私たちもイエス様を愛し、その愛のうちに日々留まることです。 そうすれば確かに聖書のみことばが真実であるということを私たちは疑うことはできません。天国への希望が段々明らかにされていきます。 いつも私たちを脅かしていた死の恐怖からいつの間にか解放されてくるのであります。 さまざまな罪に陥らないように主は守ってくださり、よこしまな邪悪な心と生活を主はいつも聖めてくださいます。 主から離れれば私たちの心はいつもよこしまな曲がった方向に行きます。救われている人でも同じであります。 しかしクリスチャンは自分の心に注意する、気を付けることを聖書を通して知っています。聖霊が私たちの心をいつも見張っています。間違ったところに行かないように。よこしまな思いを抱かないように。主の光の中に留まるように。・・・ (テープ A面 → B面) ・・・中に入ってみて初めて、そこにあるのが何かがわかるのであります。入らないままいくら門の外に立っていて頭で考えても、それは現実のものではないのです。 「入って行きなさい。」と主が語りかけていらっしゃるその声に従ってみよう。イエス様を信頼してみよう。聖書を信じようと決心して入ると、驚くべき世界がそこに開かれていきますし、聖書のみことばの真実性というのが疑うことができないほど確かなものであるということに人は気が付くのです。 最後に2、3ヶ所みことばを読んで終わりましょう。 ヨハネの福音書5:24
もうすでに、死からいのちに移っているのです。いのちが、イエス様を信じたその時に、私たちのうちに永遠のいのちが宿るようになるのです。 経験してみてください。これが本当だということがわかるはずです。 ヨハネの福音書7:37-38
ここでも、わたしを信じる者は、と書いてあります。わたしを理解する者は、と書いていないのであります。 ヨハネの福音書11:40 もしあなたがわたしのことばを信じるなら、あなたは神の栄光がどんなものであるかを、はっきりと見るようになります。 ここでも「信ずる」のです。 ヨハネの福音書14:1
ヨハネの福音書20:27-29
「信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」 このみことばを本当に受け入れて信じていただきたい。そうすればわかりますから。 そこまでで終わります。 |