引用聖句:エレミヤ書2章1節-3節
神様は聖書を通して、「ご自分に対する信仰」というのと「この地上における結婚」が、非常に似てるものであることをよく語っていらっしゃいます。 「まことの信仰」というもの、すなわち「神様を信ずる」っていうことと、「この地上におけるですね、男女の結婚」が、非常似てるものであること、神様は、ご自分への信仰をこの地上における私たちの結婚にたとえていらっしゃるということ、旧約聖書を読むとそれがよく出てくるわけです。 とくに、このエレミヤ書なんか読みますと非常にどぎつい言葉をもって、神はイスラエルの「不信」を非常に強く責めていらっしゃるのが、出てきますね。 私がはじめて聖書を読んだときに、非常にその表現の厳しさに、激しさに非常に驚いた経験があります。 聖書というのは、もっともっと上品なことを書いてるもんだろうと思うと、実に激しい言葉をもって 「姦淫の女よ。きみが姦淫しなかった場所が、そこにあるか?」…、非常に強い言葉をもって、語っとるんですね。これには、非常に驚いたことであります。 聖書は、あたりさわりのないきれ〜いな言葉を並べてはおりません。非常に激しい言葉をもって、私たちの心の奥底をえぐり出してくるところもあります。 神は、厳しい方であると同時に、徹底的に愛に富める方であり、聖なる方であると同時に、徹底的に厳しい真実をえぐり出される方でもあるということを、私たちは聖書から教えられるんですね。 聖書は、なんて言いますかね、あたりさわりのない書物じゃないんです。実に厳しい書物なんですね。 イスラエルの民は、まことの主である神、自分の夫であるべき神を捨てて、神々に走って行きました。そのことを神は、「姦淫の女よ。」と責めてらっしゃるんですね。 「わたしのもとに帰れ。わたしは、あなたの姦淫を赦そう」と言っていらっしゃるわけです。 お読みいただきましたところは、その主の責めることばのはじまる、その最初に出てくるところなんですけども、 エレミヤ書2:2
このように、まことの神さまを信ずるという信仰が神さまによって、私たちのこの地上における結婚生活にたとえられてるということは、非常に深い意味があるのではないかと思うんですね。 要するに聖書は、この地上における結婚っていうものが、非常に神聖なものとして、これを祝福していらっしゃるということであります。 なんか、求道して、神様を知って、信じて、クリスチャンになったころは、なんか結婚なんていうものは、そんな勧められるべきではないかのような、まるでパウロのようにめとらず独りでいるのが、なんか神様のみこころにかなっているかのような思いを持っていたものであります。 しかし、聖書をよく見ていきますと、そうではないということを教えられていきます。 神様は、信仰と結婚を同じようなものとたとえることによって、結婚というものが、単なる人間の本能的な要求に発するものだけではなくて、神のみこころにかなうもの、神に祝福された事柄であるということを、教えておられるようです。 同時に結婚というものがですね、神聖なものであることをも、教えておらるるのではないかと思うんですね。 神は、結婚を信仰にたとえることによって、私たちのこの地上における結婚生活を祝福されると同時に、これをきよめようとしていらっしゃる、のではないか、と思われます。 正しい、健全な結婚生活といいますか、家庭生活に、どうしても、必要なものは二つあるんじゃないかと思うんですね。 ここにいらっしゃる方々は、はるかに私よりも人生の先輩であり、結婚生活の先輩の方々が大半ですけれども、ですから、おこがましいんですが、健全な結婚生活、家庭生活には、二つのものが、どうしても必要だと思うんです。それは何かといいますと、 祝福に満たされてること、祝福されてること。 もう一つは何か、 その結婚生活が、きよめられてるということ。 ではないか、と思うんです。この男女、エロースの愛ですけれども、しょせん人間の愛はエロースの愛ですが、そういう男女の愛というものが、祝福された神様の賜物であると同時に、神様によってきよめられているということ。きよく保たれてるということ。 この二つがどうしても必要な事柄ではないか。 そして、その「祝福」と家庭の「きよさ」ということは、根源的には正しい信仰からだけ生み出されるものではないだろうかと思います。 ご承知のように、現代社会の最大の危機は、家庭の崩壊だと思うんですね... それが一番激しいのが、アメリカだと言われてますけれども、本当にすべてのものを持っていながら、一番肝心な土台から腐っていってしまっている。崩れ去っていってしまっている。 それが現代の世界の、社会の一番大きな危機ではないかと思うんですね。 ですから結局その原因はなにかといいますと、結婚の正しい意味、結婚というものと、男女の単なる共同生活と言いますか、同棲と言いますか、そういうものとの区別ができなくなってきているというところに、その原因があるんじゃないかと思うんですね。 欲望の赴くままに放縦に陥るというところに、家庭生活の、結婚生活の破たんがあるのではないかと思います。 現代世界においては、故意に単なる人間の欲望の放縦ということと、そこが問題が一方にあり、他方においては、今度はもう一つの極端があります。 結婚というものを、避ける生き方、疑義する生き方であります。 パウロは、「結婚を禁ずるということは異端の教えである。だから注意しなければならない。」とガラテヤ人への手紙の中に書きました。 「後の時代には異端がはびこります。それは、いろんなですねことを、禁じます。結婚を禁じたり、いろんなことを、禁ずるようになります。」というふうに彼は忠告しております。 こういう両極の生き方に対して、結婚というものが、人間の単なる欲しいままの放縦に流れるという一つの、現代社会に蔓延してるところの生き方と、もう一つは結婚なんていうものを、むしろこう避けるべきものとして、必要悪のように考えると言いますか、そういう生き方。 この両方も、聖書は根本的に否定しているということができるのではないかと思うんですね。 神様は、この地上における異性間の愛、さっき言いましたように、それはエロースの愛といいます。 エロースの愛というのは、自分に持っていないものを相手が持っている。相手に自分の心惹くところのものがあるために、そのことのために、その人を愛するようになる愛のことはすべて、エロースの愛と言うんだそうです。 相手が素晴らしく頭がいいから、相手に尊敬を覚える。これもエロースの愛なんですね。ある人に素晴らしい賜物があるから、それを愛する。 相手が素晴らしい容貌を持ってるから、それに惹かれる。そういうことを含めて全部、エロースの愛というんだそうです。 このエロースの愛をも、もちろん神様が、私たちに与えてくださったものであります。神様の祝福の一つであります。 こういうふうに、神は私たちにエロースの愛を与えてくださり、それを祝福してくださってるわけですね。だから結婚生活があるわけであります。 と同時に、これを神はきよいものとして、きよめ分かたれようとしてくださる。これが聖書の語っているところではないだろうかと思うんです。 そしてこういうふうに、人間の生まれつきの愛が祝福されると同時に、きよめられるということは、これは人間の力ではどうしても不可能なことではないかと思います。 ただ神ご自身が、その家庭生活の中に、結婚生活の中にご臨在してくださるときに、ともにいてくださるときにだけ、この二つのものが私たちに与えられるものではないかと思うんですね。 現代の社会の根本的な問題は、やはりそこにあるのではないかと思うんです。 神ご自身が、私たちの家庭にいらっしゃらないこと。これこそがすべての問題の原因ではないかと思うんです。 クリスチャン生活は、堅苦しいものではありませんね。単なる厳格主義ではありませんね。 多くの人々が、クリスチャンであると堅苦しい、じつに厳格そのものだなんて思ってつまずく場合が多いんですけれども、それは違うと思います。 本当の信仰は、本当に楽しいものだ、ほんとに嬉しいものだ、喜びのあふれるものだと思います。それでなければ人は耐えることはできない、と思うんですね。 間違った意味での厳格主義、謹厳主義、それは決して聖書的ではないと思うんですね。 やっぱり、いのちの喜びがあふれでてくるところのものでなければおかしいと思います。クリスチャンホームは、楽しい家庭であるべきだと思います。喜びのいつもあふれる家庭であるべきだと思いますね。 しかし同時にそこに、神様がそこをきよめてくださる、その二つがひじょうな調和を持ってうまく実現するところ、それが神様の臨在される家庭ではないかと思うんですね。 人間の力でこの二つはバランスがとれないんです。どっちかに必ず流れていくんですね。厳格であると全然つまらないんです。戦々恐々としてるんです。 駄目なものは駄目だと、しっかり、そういう態度を厳しくとりながらも、そこに楽しみがあふれでてくるというところ。これが、神様の祝福される場であります。だから、放縦ではないんですね。喜びの場所ですけれども、それは放縦とは違います。 そういうふうに、神はほんとにご臨在されるところにおいては、人間がどんなに頑張ってもできない調和が生まれてきます。 正しさがありながら、同時にそこに豊かな愛があります。一面厳しさがありながら、そこに豊かな赦しがあるんですね。それが神のなさるところなんですね。 これは、私たちの人間の考えや制度によってつくりだされるものではないのだと思わされます。 余談ですけれども、かつて私たちの、日本だとか東洋での家庭生活・結婚生活というものを律してきたのは、おもに儒教だったと思うんですね。 儒教の教えが、家庭生活の崩壊のはどめを掛けてきた力ではなかったかと思うんですね。 そういうものは、聖書の立場から考えますときに、正しい信仰の一時的な代用品であったということができると思うんです。 儒教は、儒教としての意味を持っていたようです。しかしそれは一時的な代用品ですね。 なぜかといいますと、もはや現代においては、儒教の権威の前に頭を垂れる人は、ほとんどいないからなんですね。現代人はもうもはや、儒教という孔子や孟子の教えに、権威を認めることはできないんです。 言いかえると現代のように、知識の満ちている時代においては、孔子や孟子の権威は十分それを支えることはできないということなんですね。 なぜかといいますと、現代人は孔子や孟子の教えの権威の根拠を問うているからです。 「孔子や孟子は偉かった。確かに偉かったけれども、しかし彼らも同じ人間である。私も同じ人間である。」 現代人は、みんなそういうふうに考えるようになってきました。ですから、現代人の前にですね、真に権威を持ち得る者は、究極の神ご自身以外のものではないと思うんですね。 神ご自身だけが、現代人に対して本当の意味での権威を持ち得るんです。それ以外のものは、もはや現代人の前に権威を持ち得ないんです。 昔の人々は、天皇陛下の前に、天皇陛下の権威を恐れてその前にひれ伏しましたね。しかし、今はだれも天皇陛下の権威は認めてはおりません。 一つの制度的な、天皇制の一つの制度にすぎないとみんな知っているんです。被造物の前に人々はひれ伏すことはできないんですね。 すなわち、現代人の持ってる様々な知識が、偶像というものを破壊する役割を演じているからであります。そういう意味で、知識はひじょうに有効な働きをしてると思うんですね。 現代人は、ある権威を示されるとそれの根拠をとことん問うようになってくからです。そして、それが何もほんとの意味での権威を持ち得ないことにすぐ気づいてくるからなんですね。 仏教ももはやほんとの意味での権威を持ち得ないでしょう。 先ほど、兄弟もおっしゃいましたけども、私はいつも思いますが、仏教というのは、せいぜい哲理だと思います。哲学ですね。一種の哲学であります。それが仏教のエッセンスだと思いますね。 その哲理と、人間の悟りと、土俗信仰とが、混ざり合ったものですね、それがおそらく仏教っていうもんでしょう。 ですから現代の、様々な知識を小さい時から身につけている現代人が、仏教というものを本当に信じるかというと、私は信じ得ないと思います。 なぜなら、仏教には根拠がないからです。阿弥陀如来というものに対しては根拠がないからです。はっきりいいますと、作り話だからです。 親鸞も言いましたように、「わからない」と言ったんですから。「救われる根拠は確かか?」と聞かれたとき、親鸞は「私も知らない」と言いましたね。 それは、正直な告白だと思うんですね。ただ「地獄に落ちるんならば、自分はもともと地獄に落ちるべき者だから、それでもよい。」と言ったんですね。それが、親鸞の告白であります。 「南無阿弥陀仏と唱えれば、救われると言いますけども、本当ですか?」と問い詰められて「私も知らない。」ですね、 「阿弥陀如来というものが、西方浄土の救い主と辞典には出ておりますが、西の方にある極楽浄土の教主、救い主だと言いますけども、いったいそれはどこの話ですか。」、「阿弥陀如来ってのは、いったいどこから出てきたんですか?」 私たちは、その根拠がはっきりしない、そういうものをほんとの意味で信じることはできないんですね。全身全霊を持って受け入れることはできないんです。 現代人が本当の意味で、私は、納得し得るもの、全身全霊を持って受け取ることができるものは、聖書だけだと思ってます。聖書のみが、私たちの人生とこの世界をほんとの意味で、明らかにしていると、あの深く確信しています。 本題に戻りますと、先ほど言いましたように、神はしばしばご自分を「夫」に、イスラエルを「妻」にたとえられました。 結婚においては、男が女に対してプロポーズするのが (一時録音中断) 福音伝道にひじょうに熱心な人でした。ある人は、もともと学者なんかになろうと思わなかったんです。 韓国に渡って、当時の朝鮮に渡って伝道してこようと思って、決心していた人なんですね。ところがその道がなかなか開かれずに、 (一時録音中断) 「学校に、大学に帰れ」という学校からの要請を固辞するんですね。「やだ」と言うんですけども二度、三度と来るあれを、結局彼は主のみこころとしてその道に住んでいた人なんですね。 ですから、ひじょうに激しい戦闘、信仰の戦いの生活を送った、尊敬すべき先達だと思うんですが、ある人はあの生長の家というのが信仰として成り立たないということを、一点の共有解と思うんですが、なぜかというと、生長の家というのはいろんな教えを、聖書の教えや仏教の教え、いろんな教えをある人が選んできて、そしてそれを今度は信じようっていう…これは、やっぱおかしいってんですね。根本的に。 自分で選んできたものを、自分でそれを信ずるってことはもともとおかしいんだ。自分が言わば、一切のものの上に立っていながら信ずる信条を選び出して、それを信ずるっていうのは信仰にはならない (一時録音中断) ことができるならば、神様よりも私たちの方が上に立ってるからです。自分の判断力で選ぶのであれば、それはほんとの意味での信仰といわないんですね。 ですから、聖書は逆のことを言ってます。「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだのだ。」と神はおっしゃてるんですね。 信仰は選択ではないんです。決断なんですね。ある人がいってるように、その通りです。 信仰は、私たちが選ぶんじゃないんです。神様が、私たちを捕らえてくださって、「どうしますか、あなたはわたしを受け入れますか?」 その時に私たちが行なうのが、決断なんですね。「はい。そうします。」 創世記の12章は、神が信仰の父、あのイスラエルの最初の父祖になりますけども、イスラエルの先祖は、このアブラハムからはじまりますが、アブラハム、この当時アブラムといっておりましたが、このアブラムに神がはじめて語られたことばは12章の1節なんですね。 創世記12:1
(テープ A面 → B面) 創世記12:2-3
神ご自身が語ってくださるっていうことなんです。いつでもそうなんです。 17章までとんでください。創世記の17章、1節。 創世記17:1-3
云々と、書いてありますね。神ご自身の方から、アブラハムに現われたんです。 私たちはいろんな宗教の中から、あれにしようか、これにしようか、神々の中から、この神にしようか、あの神にしようかっていうふうに、選ぶんじゃないんですね。 私たちは、別に神様なんて信じようと思わなかった。神様から遠く離れて生活していたんです。 そういう自分に神が近づいて来てくださった!のですね。神が私たちに近づいて来られて、プロポーズをしてくださるんです。 「わたしに従いませんか?わたしに、貞節を尽くしませんか?わたしは、自分のすべてをあなたに与えよう。」と、神は私たちにおっしゃるんです。アブラハムに語られた通りにですね。 結婚というのは厳粛なものですね。あと数日しますと、集会の兄弟と姉妹が結婚しますね。ひじょうにおめでたい式があります。 私も10年ぐらい前に結婚したんですけれども、結婚ということを現実に自分が、その問題に突き当たると、かつて考えてたのとはずいぶん違う、厳粛なもんだなという感じがしたんですね。 一人の男性が一人の女性をめとるってことは、これはほんとにしんどいことだなと、ほんとにあの思ったことです。 私は結婚して、第一の印象はもうあの、ほっとしたって感じでしたですね。 あの、ほんとに言えば、しんどいことだと思いました。簡単に軽く考えてたんですが、…結婚なんていうのは、好きな人がおれば、その人と一緒に生活すると、気楽に考えとったんですが、そんなものじゃないんだなっていうことですね。ほんとに思わされましたですね。 結婚っていう問題に突き当たると、自分のそれまでの歩みというものが根本的に問われるという感じするんですね。自分っていうものが根本的に問われるわけであります。ここで。 それは男性でも女性でも同じだと思うんですね。ほんとに問われるのであります。 ですから、結婚というものを安易に考えて安易に行なう人は、よほどの愚かな人か、おめでたい人どうだろうかと思うんですね。互いに自分自身のすべてを託し合うわけですから、少し真面目に考えれば考えるほど厳しいものだなと思わざるをえません。 結婚という問題に突き当たるときに、私たちはお互いが自分の真実な姿をそこで明らかにしなければならないってことなんですね。そうでなくして、私たちはお互いを受け入れることは、できないからなんですね。 結婚問題に突き当たって、プロポーズされて、いつまでもよそ行きの気取った態度では駄目でしょ?それじゃ駄目なんです。それじゃ一行に話は進まないんですね。 そうじゃなくてやっぱり、自分の真実を、そこで明らかにする必要が出てくるんですね。 自分の心のうちをほんとに正直に相手に伝える必要があるわけでしょ?そのためには、謙遜と真実さが要求されてきます。 「私はこのような、人間なんです。」、「どうか、私を受け入れてください」、そういうふうな態度がどうしても必要になってくるのじゃないでしょうか。 そして、そこに立たなければ、結婚は実は危ういということだと思うんですね。 ですから結婚問題に直面するときに、特にクリスチャンはそうですけども、そのときに砕かれるんです。 今までのような、どことなく、なんていいますか、みんなそうなんですが、独身の男女というのはみんなそうなんですね。自分をおのずから知らずして、なんて言いますか、肩に力が入って、自分自身をガードして、それは当たり前っていえば当たり前なんですが、そういうものですね。 しかし結婚問題は、そういうことを、私たちのそういう態度をはぎとってしまう。砕いてしまう。 私たちが自分の真実をほんとに表すこと、そのために謙遜になること。私たちに迫ってくるものであります。 結局、結婚の最大の要件っていうものは、お互いの真実な姿、真実をありのままお互いが受け入れるということ。その愛と信頼といいますか。それが、結婚の最大の要件ではないだろうかと思うんですね。 「信仰」が結局それと同じだ、ということなんです。私の言いたいことは、結婚も大事ですけども、信仰は、実にまさにその通りだということなんです。 私たちは、神様の御声を聞くときに、神様が私たちにプロポーズをしてくださるんですから、それは聖書で何べんも言ってるようにですね、イエス・キリストは、私たちの花婿ですから、イエス様の救いを受けるってことは、キリストの花嫁としての立場を与えられることだ、と書いてあるんですね。 ですからその時に、私たちは今までのようになんかよそ行きの、気取ったような、そういうこの態度を砕かれなければならないんですね。 「私はこういうものです。」、「私は本当にこのようにつまらない者です。」ね。 「私はこのようにみじめな者です。」、「私はこのように負いめを負っている者です。」 そういうことを認めざるを得ない。そのことをまた主に明らかにせざるを得ないのであります。 「あぁ!この人と結婚しよう。」そういうに決心することは、それこそ大決心ですよね。 人間の数がどれぐらいいるかわかりませんが、何十億ですね。その中から一人を選ぶといいますか、その人を選ぶわけですから、大変なことであります。 男性にとっても大変ですけども、女性にとっても大変。ほんとに大変なことだと思いますね。 しかし、人がそういうふうに決心するのは、やっぱりお互いにほんとの真実、お互いが真実に触れ合うからだと思うんですね。相手の真実さに触れ合うからだと思うんです。 「あぁ、この人なら信頼できる。この人なら一緒に歩んでいける。」、そういうふうに人が、心の深いところで、真実というものが共鳴しあうから人は結婚という事柄に踏み切れるのではないかと思うんですね。それがなければ、なかなか踏み切れるものではないと思います。 結婚は損得ではないですね。そんなのんきなものじゃありませんね。ともに立ち、ともに倒れる。 昔の言葉では「運命共同体」的な関係ですから、私たちは相手の真実さに打たれて、「あぁ。この人となら、一緒に安心して、やれるのではないか。」、そういうな思いから踏み出して行くのではないかと思うんですね。 信仰もおんなじだと思います。私たちは、愛と信頼が感じられる相手の前では、素直になることができます。素直になれるところでは自由があります。 神は、私たちに近づいてこられ、ご自分を受け入れるように、と私たちに語られるのです。プロポーズされるわけです。 この世のだけでなく、永遠の世界までの主人として、夫として、「わたしを受け入れませんか」と、神は私たちに個人的に語られるのであります。 ですから、このプロポーズを受けるときに、私たちは重大な決心を迫られるのであります。 この世での結婚問題にあれほど慎重になるのですから、あれほど悩むのですから、信仰ははるかにそれ以上であります。 昔から「おとめ」っていうのは、今の「おとめ」はどうか知りませんが、昔から「おとめ」は警戒心が強い、容易に心を開かないものの代名詞みたいなもんですね。ちょっと触ると、パァー!っとはじくようなところがある。 今はどうもそれがなくなってしまって、非常に駄目だと思うんですが。 こういう「おとめ」の持っている警戒心、なかなか心を開かない慎重さっていうのは、僕はやはり神様が与えてくださったものだと思うんですね。 やっぱりそれは正しいもの見分けようとする本能的なものだと思うんです。容易に異性を受け入れるような女性だったら大変ですね、これは。 同じように信仰というものも、じつはそうなんですね。信仰っていうことを、私が真実に考えれば考えるほど、信仰というものがいかに重大なものか...ということを考えざるを得ませんね。 人が容易に信仰を受け入れないのは、言わば当然なんです。自分のすべてを託すものを、そう簡単に受け入れられることないじゃないか。僕はそれは当然だと思うんですね。 ヨハネの黙示録の3章の20節。イエス様は私たちに、有名なみことばを通してご自分がプロポーズしていらっしゃることを教えておられます。3章の20節です。ヨハネの黙示録の3章の20節。 ヨハネの黙示録3:20
同じ、ともなる生活をしようと、主はおっしゃってるんですね。 コリント人への手紙第IIの5章、20節。コリント人への手紙第IIの5章20節。 コリント人への手紙第II、5:20
この「和解」ってことばを「プロポーズ」といってもいいんですね。 「神のプロポーズを受け入れなさい。わたしの花嫁になりなさい。わたしの愛しい妻となりなさい。」と神は私たちにおっしゃってるんですね。 神はご自分の御子イエス・キリストの花嫁として、私たちを召しておられるのだと聖書は言ってます。イエス様は神の御子です。王子のようなもんですね。 しかし、私たちは身分の卑しい娘のようなものです。ですから、私たちはこの神様からのですね、申し出を聞くときに、「自分が卑しい者である」こと、「神様の前に『あなたの前には出るにふさわしくない』者である」こと、「自分は罪人である」ことを知るのであります。 イエス様はご自分の、この真実の中に私たちを招き入れて、真実な交わりを私たちに与えようと招いておられるのであります。 結婚生活において今度、結婚をしてこれから歩むときに、一番大事なものは何か? それはおそらく、お互いがお互いを裏切らないということではないかと思うんですね。真実であるということだと思うんです。 結婚生活において、おそらく最も大切なものは、この地上における結婚生活において大切なものは、お互いの貞節ではないかと思うんですね。ヤコブの手紙の4章4節。ここで「貞操」ということばが使われていますね。 ヤコブの手紙4:4
貞操、貞節、ですね。これを、聖書は私たちに厳しく求めていくのですね。 夫と妻における貞節が失われるときに、必ず神への貞節が失われます。 先ほど、信仰というものは、結婚の生活にたとえられると言いましたけれども、クリスチャンの神様への真実さ、忠実さというのは、どうも夫婦、夫と妻の間の忠実さに必ず現われてくるように思えるんですね。 ですから、この地上における結婚生活が正しく保たれなければならない意味が、そこにあるように思うんです。 夫婦関係の破たんというものは、神と人との信仰の破たんを必ず意味してるからだと聖書は言ってるからなんですね。 テモテへの手紙第I、1:19-20
この地上における私たちの歩みにおいて、夫婦の関係の破たん、結婚生活の破たん、家庭生活の破たんというのは、即信仰の破たんを意味してるのだ。破たんから出てくるものである。 どっちか一方は確かで他方は破たんしてるということは、考えられないということであります。 正しい信仰のあるところに、正しい夫と妻の関係が必ずあると聖書は言ってるんですね。 逆に言いますと、繰り返し言いますと、正しい夫と妻の関係が成り立たずして、正しい信仰はあり得ない。ということなんですね。 「あなたの夫を連れて来なさい。」、「あなたの妻を連れて来なさい。」と言われたら、私たちの信仰の実質がわかるということであります。一番根源的にそこに触れてくる問題だということだと思うんですね。信仰というものが。 この世の結婚生活は、今言ったように多くの深い意味を持っているように思います。しかしこれはさらに、もっと深い意味を持っていると聖書は言ってます。 この世での結婚ていう問題は、永遠の世界でのキリストとの、キリストと教会、キリストとキリストを信ずる者との間の完全な一体関係のひな型であるということであります。 エペソ人への手紙の5章。結婚式によく読まれるところですけども、5章の25節。25節から。 エペソ人への手紙5:25-27
ここにま、夫婦の関係が、キリストと教会にたとえられています。 「キリストは、妻をあがなうためにご自分のすべてを捨てた。そのように夫よ、あなたも妻のために自分のすべてを与えよ。」と言ってるわけです。 ヨハネの黙示録の19章。一番最後の箇所にはこういう、「小羊の婚姻」と言われる箇所が描かれています。 これは天国における祝宴を表してるわけですね。救いが完成するときに、神様のご計画が完成するときに起こることとして、ヨハネは記録しとるわけです。19章の6節から8節まで。 ヨハネの黙示録19:6-8
「小羊の婚姻のときが来て、花嫁はその用意ができたのだから、」、この「花嫁」というのは教会のことですね。 「教会」というのは建物じゃありませんね、クリスチャン一人一人のことです。クリスチャンの集まりのことを「教会」と呼んでるんです。 なんか、結婚式でのメッセージみたいなヘンな話になりましたけれども、 もともとそういう意味じゃなかったんですが、要するに「信仰というのは霊的な意味での結婚」ていうことなんです。聖書が言ってるのは。 そのためには、ほんとに何よりも真実さ、キリストに対するで真実さというものが要求されてくるってことなんです。貞潔ということが、要求されてくるということなんですね。 そして、このキリストとの結婚生活こそ、結婚こそ地上の夫と妻のお互い同士の結婚生活の真の土台でもあるのだということであります。 |