引用聖句:マタイの福音書6章24節-34節
これからしばらく、ともに聖書の中から学んでみたいと思います。 私は20何年か前に、田舎の奄美大島から出てきまして、一年間予備校に通いました。大学を受験したら、大体予想のように失敗したもんですから、予備校に一年通っとりましたけども、ある大学のよく知られている国語の、日本文学か何かの先生がそこで授業してました。 「ある問題が出て文章を読む時に、いったいどういうことが主題になっているかわからないときには、一つの手としては、そこに一番多くくり返してでてくる言葉に注目してごらん、何べんでてくるか数えてみてごらん。」なんてこと言われたことがあるんです。それをずっと覚えております。 以前、ここでベック兄のローマ人への手紙の研究会が、随分何年にもわたって持たれたことがあります。今度、もうじきベック兄のローマ人への手紙の本が2冊になって出るそうですけども、非常に楽しみにしてますが、私たちは若い時に素晴らしい研究を何年にもわたって聞いたことがあります。 そのときに、あの有名なローマ人への手紙の7章にきた時、パウロの非常な苦悩について、パウロがうめきをもって「ああ、われ悩める人かな」と有名な文章があります。この個所にきて、ベック兄がこの個所で一番多く出てくる言葉は何か知ってますか?そういうふうに聞かれたことがありました。そしたら、僕は何だろう思ってたんですけど、ある兄弟がすぐ、それは「私」という言葉です。「Ich」(イッヒ)とドイツ語でいうんですけども、「私」という言葉が一番出てくるということです。確かに数えてみると何10回と出てくるのであります。 なるほどなあと思って、私はハッとしたのを覚えてるんですけども、パウロがそこでくり返しくり返し言ってる言葉は、実は「私」という言葉なんです。 数えてみますと、彼はこのわれというものに直視し、われというものにがんじがらめになって、「ああ、われ悩める人かな」と絶望の声を上げるのであります。パウロ自身がこの自分ということに目を向け、とことん向けるときに彼自身が出口のない、がんじがらめの絶望の中に捕らえられてしまうのがよく出とるんです。 あとでよく数えてみてください。何10回出てくるんです。ところが8章に変っていきますと、有名な勝利の章でありますけど、その中に一番多く出てくるのは、「御霊」という言葉なんです。「私」は出てこないんです。 そこでくり返しくり返し、「御霊は」、「御霊の法則が」、そういうことがくり返しくり返し出てきます。確かにそういうこと見ていきますと、私たちはそこで挙げられている言葉が、実は非常に重要だと気づくわけです。ときどき何を学んでいいかわからん時に、同じ言葉が何回くらい出てくるか思って、よく私たちも数えます。みなさんもやってみると、面白いことがわかる時があるのであります。 今お読みしていただきました、このマタイの福音書6章の個所は非常に素晴らしい個所です。何べん読んでも私たちは慰めを受けます。イエス・キリストでなければ語れない言葉であります。 いつも思いますけれども、イエス様の語られた言葉は一生懸命考えた言葉ではありません。天のいのちの源からおのずと流れてくるようなみことばであります。本当に自然であり非常に透徹しており、非常に聖くいのちに満ちた言葉であります。この25節からの言葉にはイエス様は「心配」という言葉を7回挙げられていらっしゃるんです。 マタイの福音書6:25
マタイの福音書6:27-28
マタイの福音書6:31
マタイの福音書6:34
イエス様はここで、僅か10節の中に7回「心配しなさんな」ということをおっしゃったのであります。このことは逆に考えますと、私たちがいかに心配しやすい者かということではないでしょうか。 本当に私たちは様々の心配に捕えられるのであります。本当に日頃はそうでもないかも知れませんけれども、ある何かの問題が出てきたりしますと、その心配の中に捕えられてしまって、もう他のことを見る余裕すら失うことが多いのではないでしょうか。 心配すること、思い煩うことが無益であることはわかっておりますが、しかし心配するのがまた私たちの当然の姿でもあるんです。私などもよく心配します。 ある姉妹が以前、数年前に、ネアカとか、ネクラなどという言葉が盛んに発明された頃ですけども、はじめは何のことかと思ってましたけれども、あの人はネアカ、ネクラとか、根っから明るいという人と、どうも根が暗い人、なかなか面白い言葉ですけれども、僕を、「蘇畑兄はネクラですね。」て、言うんです。 僕は、自分でまさかと思ったんですけど、そう言えば、言われてみると、どうも僕はネクラらしいと納得ができました。で、確かにどちらかと分けられりゃネクラだと言ってもそうだなぁと思ったのであります。 私などは生れつき楽観的な人間ではないです。どう考えても悲観論者であります。悲観論者だから実はクリスチャンになったのだと言うことなのかも知れません。根っから僕が物事を全然心配しなかったりするような、楽観的な生れつきだったら、おそらく世の中けっこう楽しいと思って、今でも飛んだり跳ねたりしてたと思うんです。しかし僕はそういうことあんまりなかったように思うんです。かなり神経質の方でありましたし、今もそうだろうと思っております。 小さい頃の思い出があるんですけども、私の田舎は昔、小学生の頃は交通機関といったらポンポン船しかなかったんです。焼玉エンジンのくさい重油の匂い。東京で育ったみなさん方は、全然そういうことは体験ないと思いますけど、船の中に入るとそれで気分が悪くなるくらいの重油の匂いで、あの焼玉エンジンのポンポンポンというエンジン音を起こすのであります。 私のところから街の方まで行こうとすると、朝4時頃起こされ、寝不足のまま行きますから、それで小さな船室に入れられますと、すっかり気分が悪かったのをよく覚えとるんですけれども、凪になったりすると、この小さな船に鈴なりに人が乗ったりするわけです。 一人で乗ったりする時はそうでもないんですけども、家族で用があって乗ったりすると、そしてこんなに鈴なりに乗っているけれども、もしものことがあったらどうするんだろか。私なんかは泳げるけど、泳げない母や姉がそばにいるけど、どうするんだろうかなと思ったりして、僕は非常にそのことを心配したことがある。そういうことがあるたびに心配したもんであります。 心配だけならいいんですけど、他人のことを心配しているうちに、どうもいらいらしてきたり、どうものん気そうにしている家族を見ると不機嫌になったりしたもんです。 余計な心配しなくても、たとえもしものことがあっても、おそらく自分のことすら間に合わんだろうと思うんですけども、まだ小さいうちから自分の母や姉のこと心配するのですから、厄介なことでありました。 こういう心配っていいますか、もしもこうなったらどうしようか?そういうようなことって、人の生れつきの性質であり、そういうことを全然気にしないで、別に船がひっくり返えるというわけでもなかろうから、心配しないで楽しめばいいんですけども、なかなかそうでなくて、いろいろなところに気がまわって心配していたことを思い出します。 根っから心配しない人という人が確かにいるもので、いっこうに平気な人、羨ましい人もいますけども、しかし心配しないということが、それ事体羨むべきものかどうか、場合によりけりだと思うんです。心配すべきことに心配する。しかしその心配を生ける神様を知って、そこにゆだねるということが大事であります。 ときどき心配しない人がいる。私の義理の叔父に、6年位くも膜下出血で倒れたままで亡くなった叔父がいましたけども、この叔父はどういうわけか迫りくる死に対して全然心配しないんです。信仰があって心配しないなら素晴らしいんですけれども、信仰はないのであります。 この叔父の枕もとに、私は何べんか福音を語ろうとやってみましたけれども、私は全然受け付けられませんでした。お迎えが来た時、出発する時出発すればいいんだって言うんです。あっけられらかんとしているんです。 そう遠くないうちに自分は死ぬこと、それわかってるわけでありますけど、そうなったらそれで出発すればいいじゃないかって、これじゃ僕はびっくりしたことが今でもあります。 死の床にいながらそのこと真剣に心配しないって人は、僕ははじめてで、その一人の人だけしか経験がありません。 もう、闘病に疲れていたのかそれはわかりませんけれども、まったく死の恐れがなかったということはなかったと思うんです。それまでは体の具合いが悪いとやっぱり検査をしてもらった時、自分は異常がないと言った時があったんですから、まさか死を恐れない人はいないと思うんですけども、こういうふうになってくると、それもまた困ったものであります。 私たちの体の神経について考えてみてもそうです。神経が正常である限り神経は痛みを正しく伝えるのであります。私たちの神経が痛みを伝えないことは、決して喜ぶことではないのであります。 麻痺していることは危険なことであります。神経が、確かに過敏であれば困りますけれども、神経が鋭敏であることは、これは正しいあり方ではないか思うんです。 ですから正しいことについて、正しい配慮をする、心配をする。これは人として当たり前のことであります。麻薬中毒の人々や道徳的な倒錯をしているような人々がときどきいますけれども、特に都会に多いのですけれども、ああいう人々を見聞きするときには何か、病的な不気味さを私は感じて嫌な気分がするんです。 麻薬患者はあえて自分の肉体を麻痺させようとする人々であります。新宿なんか行きますとシンナーなんか吸って、以前はよく若い人々が駅でたむろしてましたけども、あえて自分の肉体機能を麻痺させるようにという非常に不健全な、異常な精神的作用であります。これはやっぱり恐るべき異常なあり方だと思うんです。 私たちは健全でなきゃいけない。当たり前のことを当たり前と感じなければならない。当たり前のことを私たちは見分けることができなければいけない、大きくゆがんできていることを一向に気づかないということは非常に危険なことであります。 ですからある意味で心配すること、痛みを感じることは良いことであり、正しいことだと言えると思うんです。心配しないということが無責任の性格のうちであったりすることも、往々にしてあるからです。 ですから大切なことは、この心配、思い煩いを先ほども言いましたように、神の御手にお委ねすることであります。心配がないのではないんです。クリスチャンは心配しないんではないんです。クリスチャンには多くの心配があります。思い煩いがあります。ですけれども、主の御手にお委ねするということ、それを教えられている者と言えばいいんじゃないかと思うんです。 聖書はどのようなことであっても、自分が負いきれない責任を自分で負おうとしてはならないと言っています。神が責任を取ってくださる。驚くべきことですけども、神は人間に対して、私はあなたの一切のことの責任を負ってあげようとおっしゃってるいるのであります。 私たちの罪の責任、私たちの生活の破綻の責任、いろいろな失敗の責任、そういう全ての責任を神は私たちに代わって負ってくださる。自分で背負い切れない責任を負おうとしなさんなと神様はおっしゃるんです。 責任感の強い人ほど、ある意味で心配する者、ある意味で重荷を負い込む者であります。主はご自分がそれらの全てのことを負うから、だからあなたは結果を全部神様に委ねて神様の導きに従いなさい。責任を取ろうと思ってはいけないとおっしゃるのです。ただ示される事柄に従って行きなさいと、そういうふうに主はおっしゃるわけであります。 この前の喜びへのコンサートや軽井沢のキャンプでも、ある兄弟が面白い証しをなさいましたけれども、私はあれを聞いていながら、非常にその通りだなと思ってました。 兄弟は、その10年近い赤字の会社、いっぺんも黒字を出したことのない会社をかかえて、大変な状態だったそうです。これ以上会社を続けることは社会的罪悪であると友人から言われて、天に代わって成敗するなんて驚かされたんだそうですけれども、そのどうしようもなくなった兄弟が集会へいらして、会社の経営を他人に代わってもらいたいんだけれども、そんな赤字の会社を引き受けてくれる人は誰もいない。 しかしこの全能なる神様に自分の会社の経営をしてもらおう、神様に責任を負ってもらおうということを決心したんだって言うんです。そして本当に、自分が責任を負うのでなくて、会社の責任を全部、聖書が約束していらっしゃるイエス・キリストに取ってもらおうと決心したんだそうです。 めずらしい信仰の動機だと思うんですけども、兄弟が言うにはそれから2年間、会社は黒字に転じてきて、今は日本のゴルフ界を二分するような力を持ってきているようなことをおっしゃってました。本当にこれは素晴らしいことだと思うんです。 何であっても、家庭の問題であっても、仕事の問題であっても、主に責任を取ってもらおう、主に委ねよう。自分は神様が自分におっしゃることを、ただ心配しないでやって行こう。これが本当に信仰の態度じゃないでしょうか。本当に重荷のない、重荷を下ろした態度ではないかと思うんです。 クリスチャンの生活態度というのは、自分が本来負いきれない責任まで負おうとしないこと、そして結果と責任は神に委ねて、今言いましたように示された導きに従って、力を尽くして歩むことと言えるのではないかと思います。 子供を持つ親として、ここにいらっしゃる兄弟方も一番の関心事っていうのは、自分が家族をちゃんと面倒をみなければいけないということじゃないかと思うんです。私にも子供は5人おりますけども、今までので言ったら60過ぎないと一番下の子供は20歳にならないのであります。この子供たちを私はいったい、本当に責任を持って育てることができるんだろうかと問うてみますと、私にはその自信が全然ないわけであります。 思いがけない話だと思われるかも知れませんけれども、全然自信ないです。大体、私が60歳まで生きているという保証はないのであります。今日のようにいろんな事柄で多くの人々が死んでいく、それを目の当たりに見ます時に、本当にこの子供たちに親としての責任を取り得るだろうか、果たし得るだろうかという思いが出てくるのです。 私たちは考えてみますと自分の家族を養うという最も重要で、また最も狭い範囲の責任すら果たすことができるとは言えないのであります。最も身近な妻子すら、妻や子供たちへの責任すら負いうるかのどうか、誰も断言できないのであります。 幼子を残して生涯を終えなければならない、若い父や母が大勢いらっしゃるのであります。本当に私たちは明日のこともわからない身であります。 ヤコブの手紙4:13-16
私たちは明日のこともわからない者であります。責任を負うなどということは、とても言えないことであります。一番安全な方法というのは、結局自分のその家庭の問題も、子供を養うというその問題も、全能者である神の御手に差し出すということ、神によって責任を負っていただくということ、このことが大切なことではないかと思うんです。 この子たちのことを全部、自分が責任をもって育てなければならないなどと思ってくると、私たちはそれだけの重荷でも相当なものであります。実際に果たせないことであります。 ですから大切なことは、自分でそれをしようとするのではなくて、自分で責任をもって子供たちを育てようとするのじゃなくて、妻子を養おうということじゃなく、主に養ってもらおう、この子たちのこと家庭のこと全部、主になしてもらおう、主に責任を負ってもらおうという態度を取るることではないかと思うんです。 聖書は、私たちの持ってる全てのものは、神のご自身から与えられているもの、預けられてるものだといいます。私たちの家庭も、子供たちも、それは主が私たちに与えていらっしゃるものであれば、預けているものであります。 ですからそれらのものは、まず第一には神ご自身のものだということであります。ですから神が責任を取ってくださるっていうことなんです。 マルチン・ルターの有名な賛美歌に「神はわがやぐら」という賛美歌がありますけれども、私の先生にちょっと聞いて、うろ覚えで正確ではないんですけれども、この「神はわがやぐら」という賛美歌の4番の一番最後が、賛美歌と聖歌の訳が違うんです。 賛美歌の訳はどうなっているかというと「わが命も、たからも、とらばとりね、神の国は、なおわれにあり、」これが賛美歌の訳であります。 ところがわれわれの聖歌には「この命も、たからも、名も、子らも妻もささげ奉らん、神の国のため。」となってるんです。 賛美歌の方は「子らも妻もささげ奉らん」を省いちゃってるわけなんですけれども、本当は、ルターの訳は「子らも妻もささげ奉らん」の方が正しいんだそうです。ところがこの賛美歌を訳した人々が「子らも妻もささげ奉らん」て、本当に自分たちに言えるかと言ったら言えないてんで、これを省いちゃったんです。 私はそれを聞いてびっくりしちゃったんですけども、80歳近い信仰の老先生が、たまたま学校でお茶を飲んでいた時にそういう話をなさったんであります。 ぎりぎりまできて、本当に私はいいと、ルターは、私のいのちも捧げましょう、宝をも捧げましょう、子らも妻も捧げるとなってきて本当に捧げうるかと、そういうふうに訳者たちが深刻に考えてしまって、抜いちゃったということですから、面白いことだと思うんです。しかし考えようによってはルターはそういうことを言ってるんじゃなくて、むしろ一番安全な方法は全てのものを主ご自身に捧げること、このことが一番安全なのだということを私たちは読み取ることができるのではないでしょうか。 自分が本当に守らなければならないそのものを、自分が守ることができない。だからそれらのものは主のものですから本来、だから主に本当の意味で差し出しておくこと。自分の心のうちにおいても、そういう整理をしておくこと。これは主のものです、主から預かったものです、だから主に責任を取ってもらいます。そして私は私のなすべきことを一生懸命やりましょうという態度ではないかと思うんです。 一番安全な方法は、どうも主に差し出すことであるように思います。エレミヤ書49章11節、これは以前ある兄弟がバニヤンの自伝の中にあったと言って教えてくださって、私ははじめてこういうみことばもあるんだなあと気づきましたが、バニヤンが知恵遅れの子か、何かの子をかかえて牢獄に捕えられて、彼は信仰のために何年も牢獄の中に閉じ込められていた人ですから、その牢獄の中で自分の不具の知恵遅れの残してきた子供のことを思って、非常な苦悩をしている中に与えられたみことばだということで、非常に印象の深い言葉であります。 エレミヤ書49:11
「あなたのみなしごたちを見捨てよ。」これは非常に厳しい冷淡な態度のように見えます。あなたの子供たちを捨てなさいというんです。私が彼らを生きながらえさせる。私が彼らを生かそう。私が彼らを守ろう。私が引き受けようと神はおっしゃるのです。 私たちは力もないのに、何もできないのに、「私が。私が。私がやらなきゃ。」と思って思い煩います。かえってだめにしてしまいます。しかし主は「私に委ねなさい。私が生かそう。私が責任を持とう。」とおっしゃってるんです。これは本当に大切なことではないかと思うんです。 自分が全ての責任を取らなきゃならんと思うと、本当に私たちはいろんなことに心配しなければなりません。 体が病に罹らないように、経済的にいろんな破綻がこないように、いろんなことに気をつけなければならないのであります。しかし私たちが主に委ねて、主に責任を負ってもらうならば、私たちは本当に休んでいることができます。 私たちは往々にしてこのことを忘れて、自分が主から預かってることを忘れて、本来は主のものであるという性質の主張を忘れて、自分のものであるかのように考え違いをして、与えられた境遇に満足して、それを私物化しようとします。それを守ろうといつのまにかやってしまいます。 (テープ A面 → B面) しもべは責任を取る必要はありませんし、その資格もありません。主人がその責任を取る資格をもっておられます。だから私たちはしもべとして主人のみことばに従うだけでよいのであります。 詩篇55:22
詩篇121:1-8
すばらしい主の約束であります。神は私たちを限りない愛をもって愛してらっしゃるから、だから心配するなとイエス様はおっしゃっているのであります。 イエス・キリストを信ずるクリスチャンの生活というのは、そういう意味で非常に単純な生活であります。イエス様がおっしゃっているように...、もういっぺんマタイの福音書6章を開けてください。 マタイの福音書6:31-34
全ての責任を神に取ってもらって、私たちはただ神の国とその義を求めて歩みなさいとおっしゃってるんです。結果について心配しないで、ただ神の国とその義とを求めるという生活をしなさいと言ってるんです。非常に単純であります。クリスチャンの生活は非常に単純な原理なんです。 ただ一つのことを追い求める生活でありますから、非常にシンプルです。クリスチャンライフというのは本当にシンプルな、シンプルライフであります。単純な生活であります。神の国とその義とを求めるという生活であります。 そうすれば、主は最善を私たちになしてくださると約束しておられます。神の国と神の義を追い求めるという人生をへりくだって、信仰をもって送り通した人こそ、本当の意味での人生の成功者ではないかと私は思います。 たとえ私の生涯は貧しい生涯であったとしても、まったく名もなき生涯であったとしても、逆境の生涯であったとしても、神の国と神の義とを本当にひたすら求めて歩み通したならば、私たちは本当に人生の勝利者であり、本当の意味での人生の成功者と思うんです。 本当に思い煩うことの多い者であります。自分自身を振り返りますと本当にいろんなことに思い煩い、その中に巻き込まれやすい者でありますけれども、あらためて考えます時に、本当に聖書は私たちが主に委ねること、主が責任を取ってくださることをくり返し言ってるのですから、全てを主の御手に差し出したい。 そうすれば、確かに約束されてるように主の平安が与えられるということを思うものであります。足りませんけども、そこで終わります。 |