主を知る者


蘇畑兄

(テープ聞き取り、1994)

引用聖句:マラキ書3章13節-18節
13「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」
14あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
15今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。
16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

おはようございます。しばらくの間聖書のみことばから少し考えてみたいと思います。
この前のノルウェーのリレハンメル冬季オリンピックというのは、日本選手が活躍しそうだと言うんで、私は初めて冬季オリンピックというものをテレビを通してよく見る機会がありました。
最近のああいう情報システムというのは、非常に優れているせいかですね、足元から飛んで行く様子がよく見えて、なかなか素晴らしいものだと思って見ておりましたけれども、その日本選手の活躍は前評判ほどではなくて、ちょっと、私たちがっかりしましたけれども、それと同時にオリンピックの話題と言いますか、スキャンダルとして世界中の関心を惹いた出来事に、ご承知のようにアメリカのケリガン選手の殴打事件というものがありました。

私たちの関心半分は日本選手の活躍ぶりに、後の残りはこの事件の首謀者なる二人がどういうふうな活躍をするかとか、どうだとかってなそういうふうなニュースを随分見せられたわけであります。
ところがその容疑者のハーディング選手なる人が、司法取引に応じて十万ドルでしたかね、罰金支払いとアマチュアスケート界からの永久追放処分を受け入れる代わりに、この殴打事件による訴追を受けないということになったと、2〜3日前のテレビで報じられましたので、私たちは驚いたのであります。

甘いアメリカという国は、何とも奇妙な国だと私たち日本人は思ったのであります。ケリガン選手の殴打事件の首謀者として逮捕された、そのハーディング選手の前の夫も、司法取引きに応じてハーディング選手自身がこの事件に関わっていたことを証言して、この証言からこれは悪質な事件である、ハーディングというあの女の子は、顔は可愛い顔をしているけれども、なかなかの厄介な性悪娘だとわれわれも憤りを感じたわけであります。

オリンピックの出場権をめぐって、ライバルの肝心の足をですね、狙わしてこれを打たせるというのはですね、立たせないようにするってのは非常に悪質であると、われわれも何とも彼女の顔を見る度に、小憎らしい思いをして見ていたんです。
ところがその肝心なハーディング選手が、また司法取引に応じてこの事件の決着はついたと言うのであります。
私たち日本人のような、ある種の潔癖症の国民から見るとこのことはいい加減な妥協で、犯罪を見逃しており、神聖なるべき法の侵害と思えるわけでして、どうも納得がいかないなあと、他人事ながらそういうふうに感じておりました。
そしてその晩のニュースステーションなるものをチラッと見てみると、たまたまそのことの解説をしていたのであります。
アメリカっていう国では、日本ではないような司法取引という言葉をよく私たちは耳にします。昔のコーチャンでしたかね、ロッキード事件のときのアメリカの一人の容疑者も、有罪という法による裁きを免除するということを約束して、彼に真相を語らせたわけであります。

どうしてこういうことが行なわれるんだろうかと思ってたんですけども、アメリカ通のその弁護士さんが出て、その解説をしていたんですね。
大きな悪を暴くためには、小さな悪は見逃すのもやむを得ないというんですね。アメリカでは割り切ると、肝心なここにその根っこがあると思ったら、それを暴いて叩くといいますか、それを処分するためには小さな悪はやむを得ぬと見逃してやろうということがひとつあるんだそうです。
捜査や裁判が長引くと、国民の税金が無駄に使われるから、非常にそれも考慮されるんだそうです。いかにも現実主義の国アメリカ、いわゆるプラグマティズムの伝統の根強いアメリカだなあと思いました。

そしたらその番組の解説者をしてる朝日新聞の論説員だと思いますけど、側にいる人が、アメリカで暮らした経験から自分はこう思うという意見を述べたのであります。
彼が言うには、あちらはキリスト教国だから、人間はみなある人の言葉により、「つみびと」と言わなかった、「ざいにん」で不完全だと考えていると言うのであります。だからこの世の裁判も所詮完全なものではありえない。完全な裁判は神さまによって行なわれるのである。だからあのような、司法取引きっていうような形で処分されるのではないかということを彼が言われたのであります。

私は、ノンクリスチャンの解説を聞いて初めて、それならばよくわかると納得したのであります。
まあ、この論説委員の確かに的を射ったと思われる感想を聞いて、ニュースキャスター、彼はぼくと同年の、同学科の卒業生らしいんですが、それじゃあ日本では冤罪だとかですね、裁判の誤審だとかと言って、よくこれでは死んでも死にきれないというようなこと言うけれども、あちらでは、じゃあ死んでこそ真相が明らかになる、死んだら正しい裁判がなされるってことになるわけだなあ、と何だかますます分からなくなってきたというような冗談を言っておりました。
日本人は裁判でこんな処置を受けた、死んでも死にきれん!とよく言いますけれども、アメリカでは、いや死んでこそ正しい裁きが行なわれるのである。死んでそこで決着は付くのだ、と人は思うわけであります。
彼のその冗談を聞きながら、本当にそうなのだ、それが聖書のいってることだ、と強く感じさせられたんであります。
死んでからこそ本当のことが明らかになり、死んだ後にこそいわゆる本当の決着が付くのである。本当の意味で、私たちの人生につじつまが合うのは、死んだときである、死んだ後である。
確かにこれこそが、聖書の教えていることであります。だからアメリカ人は最終的な、本当のことは、神がご存知であり、神が裁かれるのである。誰もそこから逃れることは出来ないのである。
だから最終的な裁きは神の御手にゆだねて、とりあえず大事なもの、決着を付けなければならないものから付けていかねばならない。

やっぱりこれは考えさせられる事柄であります。
一見いい加減に思えるけれども、本当はいい加減じゃないといいますか、肝心なところはキチッキチッと押さえてるわけであります。
日本人は逆に、すべてのものに決着を、正しい決着を付けてくださる方を信じないから、なんとしてもこの世で決着を付けなければならんのであります。根掘り葉掘り、もう細かいところまで、それこそ潔癖症になってですね、一向に先に進まないわけであります。

肝心なところは、神が押さえてくださる、そういう大胆な、何ていいますか、彼らのわれわれから見えるラフな、非常に実用的な、早い対応の仕方っていうのがやっぱり出てくるっていうのは、これはなるほど私たちには、非常に考えさせられるところをもっておるわけであります。初めて私は、その司法取引きなるものの本当の意味が分かったような気がしたのであります。
アメリカ人はいい加減でしょうがないなってな感じをもっていましたけれども、いやそうじゃない。いい加減だっちゅうんだったら、人間のやることみんないい加減でしかない。
人間がやることは、結局のところは五十歩百歩に過ぎない。本当のところは厳格な、完全な決着は、神ご自身が一人一人を終わりの日に、ご自分の前で裁いてくださる、そこにゆだねざるを得ない。

これはやっぱり、背後に聖書の神という、信仰ってものに根ざしている者であると。これは確かな指摘であります。
神さまが最後に決着を付けてくださるっていう信仰があって初めて、私たちはこの世で少々悪い目にあおうと、誤解されようと、理不尽な目に遭おうとそんなにいきり立たなくても済むわけであります。何が何でも、筋を通そうと息巻かなくてもよいわけであります。
神さまを本気で信ずる人は、ですから自然と鷹揚になれるわけであります。

クリスチャンは、概して寛容だと言われますけども、それは単なる我慢をしてるのではないわけであります。この世ではなくて、来たるべき世界、そこに目を留めているからであります。
神のご支配という、目に見えないこの事実に目を留めているからそれが出てくるわけであります。

一番この世の不義不正をがなりたてて、社会運動じゃ、社会改革だといってお互いに最後は激しい対立や、下馬棒なんかを振るうのは、あれは無神論者のやることであります。ご存知のように、マルキストのいつもの手段であります。
彼らは、この世で決着を付けなければならないのであります。

かの世というのは、来たるべき世なんて彼らにはありえないのであります。だからこの世で何としても平等でなきゃいけない。金持ちから金も奪って来なきゃならない。いつも正義だ、何だ、不平等だということで、結果として引き起こすことはお互いにどうすることも出来ないような対立、抗争の中に巻き込んでいくわけであります。

あるクリスチャンが言ったように、マルクス主義社会というのは、パンを豊かに生み出すという、そのことのために作り上げられた社会でありますけれども、最終的にはパンも手に入らなくなった資本主義社会は、不平等であるから社会主義社会というものを作らないといけないといかん。マルクスの思想に立たなきゃいけない、とやってみてその結果は、肝心なパンすら得ることが出来ない社会になってしまった。行き詰って、崩壊してしまっているのは、われわれの見てる通りであります。

肝心なことは、イエス様が仰ったように、パンのみで生きるにあらずで、本当に私たちを豊かな、十分な生活に導くのも、やっぱり目に見えないところの神を信ずるという信仰から生まれてくるものである、ということは、やっぱり、これは正しいと言わなければならないのであります。
目に見えない神のご支配ってものを信じ、この方にゆだね、この方の前を歩むということを通して、私たちは人間の小さな計算からすると、間尺にあわないように見えますけれども、本当はそうではないということをですね、教えられるのではないかと思うんですね。

神さまを信ずることによって生まれる寛容さ、鷹揚さというのは、神が目に見えないけれどもすべてを支配しておられ、神が正しく報いてくださる、この信仰からもたらされるものであります。
こういう鷹揚さ、寛容さっていうものは、いわゆるキリスト者の与えられている自由のひとつの表われであります。先ほども言ったようにこの余裕や、寛容さとは逆に、やたらと正義を振り回そうとし、やたらと攻撃的であり、性急な感じを抱くというものはですね、それは決して信仰の態度ではないわけであります。

クリスチャンになると、世の不正や不義を糾弾することに一生懸命になるっていうな人々もいますけども、それは誤解、信仰の誤解ではないかと思うんですね。
イエス様の救いにあずかることによって、人はこの世のものから根本的に自由にさせられるのであります。
この世のものが、すべて消え行くものであり、永遠のものは来たるべき神の国にあるだ、とはっきり知らされるからであります。

私たちは、絶対のものが何であるかを知って初めて、それ以外のものを相対化することが出来るのであります。
あってもいいしなくてもよい、どうしてもしがみつかなくてもよいものであるということを人が知るのは、どうしても大事なものが何であるかってことを、はっきり知ることによってであります。
絶対なるものを知って初めて、この世というものが相対的なものであって、何が何でも必要なものではないのだとはっきり納得出来るのであります。
なくてならないものが何であるかを知ることによって、私たちはこの世のものから根本的に自由なものとしての立場を与えられるわけであります。

先ほど礼拝の時に兄弟が読まれたように、わたしの言葉に留まる者は自由な者となる。真理はあなたがたを自由にすると、イエス様は仰いましたけども、クリスチャンの特徴とは何かというと、それは自由をもっているということであります。
いわゆる信仰熱心な人がクリスチャンらしい人ではなくて、内なる自由をもっている人こそが、キリストの香りを放っている人ではないかなと思います。
何かに憑かれたような、信仰の熱心なる者は異端に多いのであります。そうではなくて、この世からの自由というものを与えられていることこそが、本当の意味で、福音の力ではないかと思うんですね。

ある人が言っていますように、私たちの信仰っていうものが、正しい道を進んでいるかどうかということを見る見分け、ひとつの目安というものがある。それは何かというと自分の権利だとか、自分の主張というもの、声高な権利や権利のですね、主張というのがいつの間にか声をひそめる、弱くなる、そういうことがその信仰というものの、成長のひとつの目安になる、というようなことを言ってますけども、ぼくはそれはその通りだと思います。
神さまを知らない人の特徴は、やたらと自己主張し、自分の権利の侵害を許さないって態度を取る人ですけども、信仰によって歩む人はそういうものから離れるようになるわけであります。

もちろん昔からこの世のものを軽んじ、この世のものに背を向けてこの世を嘲笑して生きる人々はいるものであります。いわゆるニヒリストというのは、そういう人々であります。虚無主義者はそうであります。しかし単にこの世を虚しい世界である、理不尽な、不条理な世界だとしてこれに背を向けるだけの人生であれば、それはまったく非生産的であり、悲劇以外の何ものでもないのであります。
この世というものは相対的であり、一時的な世界だけれども、しかし絶対の、永遠の世界があることを知って初めて、私たちは健全な土台の上に立つことが出来るわけであります。永遠のものがあるっていうこと、そのことをはっきり知らない限り、私たちはこの世ってものに対して背を向けるってことがあっても、それは何の意味もないものでしかないわけであります。
永遠のものがあって初めて、この世ってものが一時的なものであり、過ぎ行くものであるという、この世の本質というものが明らかに見えてくるのであります。

この世に生きていながら、この世を絶対なものと決してしてしないで、この世に何か望みがあるかのように考えないで、来たるべき神の御国こそが本当の意味での望みとなりうるし、この御国の基準こそが基準とされるべきであるということ、来たるべき神の国をこの地上における人生の土台とすること、そこにだけ正しい本来のあるべき人生が与えられてくる、開かれてくる、これが聖書が私たちに示していることではないかと思うんですね。

人はこの世に生きておりますと、どうしてもこの世に意味を求めようとし、この世に望みをおこうとするし、この世を絶対のものとして見ていこうとするのでありますが、この世に生きながらもこの世が絶対なものでなく、この世に確かな望みがありうるのではなく、来たるべき神の御国にこそ、神ご自身にこそ真実の望みがあること、だからこの世を生きるけれども、私たちはこの世に目を留めるのではなくて、来たるべき御国に神ご自身に目を留めて歩まなければならないこと、これこそが非常に大切なこの人生のある意味で謎を解くところの鍵とも言えるほどに大切なものではないか、と思うんです。
この世の人はこの世で生きて、この世の中に人生の意味を探り、この世の中で本当の満足を得、望みを見いだそうとするから、いつも同じところをグルグル回るだけの虚しい何の結果も出ないところの、同じところ回るだけの人生になるわけであります。
本当の解決を見いだすことは出来ないわけであります。

そうではなくて、この世にそのようなものを期待してはいけない、そのようなものはこの世にありえないこと、神ご自身にだけ見えざる神ご自身に目を留めること、天の御国にこそ本当の望みがあること、そういう意味において来たるべき御国こそが、実はこの世における私たちの人生の本当の土台であり、基準であること、このことこそがどうしても必要な私たちの知るべき、捕まえるべき、重要な事実であり、真理であると言えるのではないかと思うんです。
先ほども言ったように、もしこの見えざる神のご支配、神の存在を私たちがはっきりと知らなければ、この世界は不条理に満ちているのであります。だれでも自分の都合のいいように、自分が正しいというふうにしか人は言わないのでありますし、またそのようにしか感じられないのであります。この人の言うことを聞くと、もっともだと思うし、反対の人のことをいうと、またもっともだと思うのであります。

この人が真っ白で、他の人が真っ黒ってことはないのであります。この人もあの人も、それぞれが五十歩百歩なわけであります。そうなってくると人間の裁き、人間の判断ていうものはどうしても不完全なものとならざるを得ないわけであります。
ある人が真っ白で、他の人が真っ黒であれば非常に簡単なんですが、お互いに必ずそこには五十歩百歩の点が出てくるもんですから、私たちは完全な判断をすることは出来ないのであります。

この世界は考えれば考えるほど、厳密であろうとすればすれほど、完全であればあろうとするほど、不可能な不条理な世界であります。しかしこういう不条理な私たちの人生を、然りとして受け入れさせるところの真理。いやそれでもよいとして確かに私たちはそれを安んじて受け入れさせるところのもの、その真理、それを啓示するためにイエス様はこの世に来られたわけであります。
それは神ご自身がいらっしゃること、神が最終的な裁き主であり、神が報いてくださる方であること、だからこの神を望みとして神に、見えざる神のご支配に服して生きなければならないこと、このことを示すためにイエス様は来てくださったわけであります。

ヨハネの福音書18:36-37
36イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。
37わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

この不条理に満ちた、謎のこの人生を然りとして、私たちに確信をもって受け入れさせる真理を示すために、わたしはこの世に来たとイエス様は仰っているのであります。
確かにイエス・キリストとの出会いを通して、私たちはこの世、この過ぎ行く世界、この不条理に満ち悪に満ちている世界の中にあっても、私たちはそれに絶望しないで、打ちひしがれないで、確信をもってそこにあっても立つことが出来るのであります。
イエス様は、私たちにその真理を啓示するために来られたお方であり、またご自身が真理であるばかりでなく、神の奥義そのものでもあると呼ばれているのであります。

コロサイ人への手紙1:26-27
26これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
27神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

イエス・キリストによって、神の奥義が啓示されたと言っているのであります。この奥義とは深玄極まるので容易に近づくことの出来ないっていうものではなくて、実に単純明快な事実を示したものであります。
すなわちまことの神がおられ、永遠の世界が存在し、神は正しく報いられるということであります。だから永遠の世界に望みをおき、神を恐れ、敬い、神の御心を求めて生きるべきである。これが聖書が私たちに示している単純明快な事実であります。
神が報いてくださる。神が恵んでくださる。この神を恐れて歩まなければいけない。すべてのことを知り、すべてのことを支配しておられるこの神ご自身に目を留めなければ、私たちの人生はまったく何が何だか分からない、不条理そのもの、混沌そのものに転化してしまうのでありますが、神がおられ、神が裁かれ、報いられ、このことに目を留めるときに、私たちは力強く歩むことが出来るわけであります。

テモテへの手紙第I、6:17-19
17この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
18また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
19また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように、人々に教え、戒めなさい、とパウロは書き送ってるわけであります。
この世に望みを置かないように。特にこの世の富に望みを置かないように。それは永遠のいのちとは何の関係もないものであります。

伝道者の書12:13-14
13結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてであると教えています。この人生でもっとも大切なこと、もっとも重要なことは間違いなく、神を信じ、神を恐れ、神の道に立って歩むことであります。これ以上にこの世で大事なもの、価値あるものはないのであります。
すでにこのことをはっきり示されておるクリスチャンたちは、ここにいらっしゃる方々、本当に幸いであります。

ヘブル人への手紙11:6
6信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ヘブル人への手紙11:13-16
13これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

詩篇119:36-37
36私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。
37むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。

ダニエル書12:13
13あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。信仰の道を歩み通すこと、このことに勝る素晴らしいことはこの地上にはないのです。聖書で繰り返し励まされているように、この信仰の道を真っ直ぐに、倦まず弛まずに前進したいものだと思います。




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