クリスチャンのしるし


蘇畑兄

(吉祥寺福音集会、2006/02/26)

引用聖句:ヨハネの福音書3章1節-8節
1さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

一昨日、ある兄弟の葬儀がここで行なわれて、3年ぐらい兄弟と毎月お会いしていたものですから、どうもその方のことが頭にこびりついていて、少しお話をしようかと思って、実はいるわけであります。
「クリスチャンのしるしとはいったい何か。」ということがテーマになります。

昔、最初の人殺しを行なったあのカインに対して、神は一つのしるしを与えられたという非常に不気味な記事が、旧約聖書の中に出てまいります。
人殺しをし、おまえは地上をさまよう者となるという、神様の恐ろしいことばがカインにかけられるわけですけれども、神はカインに一つのしるしを与えられたと書いてあります。
何のしるしかということなのですけれども、私たちには想像の域しかありませんが、昔、ベック兄が貸してくださった創世記のドイツの書物の中に、おそらくそれはカインの目であろうというふうにその聖書講解が書かれており、初めて弟を殺した、殺人をした人の持っている独特の、おそらく目ではないかということを書いていて、ぼくは非常にこの聖書講解と言いますか、それがやはり深いものだなという思いがいたしました。

カインには、恐るべきそういうしるしが与えられた。クリスチャンにはいったい与えられるしるしとは何だろうかということをちょっとその、兄弟との3年ぐらいの交わりを通して考えさせられたのであります。
まるで大学生が、新入生が新しい教科書を手に入れて、先生の授業をきちんと聴こうとでもするかのように、真新しい聖書を持って、毎回私よりも先に家庭集会には来ておられて、キチッといつもの席に座っておられるのであります。
とにかく3年ぐらいの間に、一回か二回ぐらいです。姿が見えなかったのは。キチッと出ておられました。あれだけの出席率ですから今から思うと、よほどの決心で聖書と向き合おうと思われていらっしゃったのだろうと思いますが、最初は戸惑っておられるようでありました。聖書の個所を開くのに何とかついて行くという感じだったのであります。

功成り名遂げた方ですが、聖書をイロハから学ぼうとなさって、ご自分からすれば、若造の行なう聖書の話を、まるで教師の授業を受けるように聴き入っておられるわけであります。
私は、最初は兄弟は聖書の学びに失望なさって、興味を失って、直に来られなくなるだろうと思っていました。どことなく近寄りがたくて、話しかけるのが遠慮されるような、ある固さが感じられるので、4、50人も集まっている兄弟姉妹方だれも近寄らず、ただ見守っているだけでありました。
メッセージが終わると、聖書の授業は終わったとばかりにサッと立ち上がって、玄関に真っ直ぐ向かって行かれるのであります。姉妹の証しなんか聞く耳持たぬということでありました。私はただ聖書を理解したいのだという、兄弟の意思が明確に伝わるような姿勢でありました。

ちょうど大学や研究所で研究するときのように、この聖書というものを学び、研究し究めてみよう。そうすればこれを理解でき、掌中に収めることができるはずだと思われたのではないかと思います。
学び、研究して分からぬはずはないと。
ところが兄弟の心積もりは見事に裏切られ、当てが外れ、話を聴いても、聴いてもただ理解を超えるものだということが実感されたのではないかと思います。

この世の学問的知識とは全く異質の知識が聖書に示されているらしい。人間がどんなに脳漿を絞り出しても、手の中につかまえることができるような、そういう知識ではないらしいと、感じられたのではないかと思います。
パウロがコリント書の中に記していますように、みなさんよくご存知の、コリント人への手紙第I2章の14節です。

コリント人への手紙第I、2:14
14生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

こんな訳のわからない勉強など馬鹿馬鹿しくて続けられるものかと放り出されるのではないかと、私は密かに案じていましたけれども、兄弟は放り出さなかったのであります。
反対に、段々と謙遜に、謙虚に変わられていったのであります。分からない聖書に向き合い、理解を超えた神の存在と向き合うことを続けることによって、頭での理解ではなくて、心の中に徐々に変化が生じて来たのであります。
それはだれの目にも明らかになってきました。お顔の表情が和らいで、笑顔が親しみ深くなって、物腰が謙虚になってきたからであります。

2年ぐらい経ったあと、聖書の学び会に出席なさいました。
「初めて来られた方は簡単で結構ですから、よろしかったら自己紹介をしてください。」とお願いしたら、立ち上がって、お名前を名乗ってから、遠慮深そうに「私は傲慢な者です。」云々と。
このような、傲慢な者という自覚が晩年の兄弟の最も強い自己認識であったようであります。この言葉がいつも口をついて出てくるようでありました。

あのパウロは自分のことを「罪人のかしらパウロ」と自己紹介いたしました。
ご存知でない方も中にいらっしゃるかもしれませんから開いてみます。

テモテへの手紙第I、1:13-15
13私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
14私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

もし人間の中で、最も「聖人」と呼ばれるのにふさわしい人がいるとすれば、それはパウロだと聖書を知る人々はみんな言うのではないでしょうか。パウロ以上の人はいなかったのではないかと思うと思います。
しかし、パウロ自身の自己認識は正反対でありました。罪人のかしらパウロ。これがパウロの差し出す名刺でありました。

兄弟はイエス様に祈ることを知るようになり、日々祈るようになってから、ご自分の内にある傲慢さに深く気付くようになられたようであります。
人間の心とは不思議な理解しがたい闇であります。傲慢な人は自分の傲慢さに気付かず、謙遜にされた人は自分の傲慢さに気付くのだからです。
自分はイエス様を知る前は傲慢だったと、兄弟は仰ったのではありませんでした。ベック兄も葬儀で仰っていましたけれども、そうではありませんでした。「自分は今、自分が傲慢であることを知るようになった。傲慢は私の性質であることがわかった。」と仰っているのであります。

クリスチャンは決して「私はかつて傲慢であった。」とは言いません。「私は傲慢な者です。」これがクリスチャンの告白であります。
兄弟は、「傲慢だった。」と仰らなかったのです。「私は傲慢な者です。」というのが挨拶代わりのようでしたです。
私はこれこそがイエス・キリストと出会った人の真の証しだと思うわけであります。イエス・キリストによってまことの神に出会った人とは、何よりも自らの傲慢と無恥とに気付かされ、主の前にいつでもこうべを垂れて祈る人であります。

兄弟の最晩年、特にここ最近は、イエス様との祈りによる交わりが密だったようであります。
召される2、3日前に姉妹が奥さまのほうに電話をしたら、電話口に兄弟が出られて、「お祈りによっていつもイエス様とお話をしています。」と仰ったと姉妹が教えてくださいました。

西暦4、5世紀ごろに生きて、当時と後世に大きな影響を残した人、キリスト教会の最大の父と呼ばれるアウグスチヌスは、「信仰は第一に謙遜。第二に謙遜。第三にも謙遜である。」と述べているそうであります。
主を知る者は謙遜にさせられざるを得ないからですし、また、謙遜にならない者は主を知ることもできないからであります。人間の知識で無限なる神、永遠なる神をとらえることはできるはずもありません。それに気が付かないから人間は、この世の学問をするかのように、神様を自分の手の中につかまえようとむなしい努力をするのであります。
それは不可能だということ。そういうことは神様の前に、聖なる神の前に赦されないことなのだという恐れを知らないから、何か物を扱うかのように、神様に近づいて行ってつかまえようとするのではないでしょうか。

あるとき、家庭集会で私が、「初めに神」と聖書は書いてある。「初めにことばありき」と書いてある。「初めに神」というところが聖書の出発点であって、そこからでなかったら人間は限りない迷いの中にはいるのだ。
「初めに私ありき」「我ありき」というところから人間が立つから、私たちはもうどんなに探って行っても人生は不可解になってくるわけであります。
懸命に頑張れば頑張るほど、どうにもならなくなっていくわけでありますけれども、聖書はそれが問題だと言っているのだ。「初めに神、天地を造り給える。」「初めにことばありき」なのだという話を、神様の存在について話した、例の調子で終わったら、パッと立ち上がって出て行く前に、「次はトリニティーですね。」と、こういうふうに仰ったのです。

トリニティーとは三位一体のことですね。え〜?!と思って、私は実はその次のときに困り果てた上で、トリニティーの話をしました。
「次はトリニティーの話ですね。」と。「トリニティーを話さなければいけませんね。」ということですから・・・。
しかしこれは難問でしょう。だれもわからないのですから。(笑)
そこでぼくは初めに、初めにこういう有名な例えをしました。あのアウグスチヌスが、アウグスチヌスというのは何だって考え抜かなければ気の済まない人でしたから、だからこのような膨大な本を残しているわけです。ありとあらゆることを考え抜いたわけで、音楽の話までアウグストゥスは残しているわけでしょう。

そのアウグスチヌスが文字通り、このトリニティー、三位一体の話に、聖書の記事に悩みに悩んで、彼はそれを理解しようとしてすっかりお手上げであったらしいのですけれども、伝説ですから。本当かどうか知りませんけれども、アウグストゥスのその伝説であります。
あるとき彼は頭がいっぱいでそのことを考えて、もうわからないものですから、一人の神がどうして三位なのか。それで考えあぐねながら海岸を歩いていた。
そしたら小さなひとりの男の子が海の水を汲んで来ては、自分が掘った小さな穴にこぼして入れる。また汲んで来る。不思議に思って、「君は何をしているのだ。」と言ったら、「あの海の水を全部この穴の中に入れようと思う。」と言ったらアウグスチヌスが「それは不可能だ。」と言った途端に、その子どもは消えて、おまえがやっていることがそのことではないかという、これは天使だったという、それがあのアウグスチヌスの伝説であります。アウグスチヌスはわからなかったのです。結局。

だから私はそのときに、「わかりません、初めからトリニティーというのはわからないのです。昔からわからないのだったのです。ただ聖書にそう書いてあるというしかないのだ。
『わたしは見たのは父を見たのです。』とイエス様は仰ったのだから。『わたしと父とは一つです。』と書いてある。『私たちの内に、信ずる者の内に宿ってくださる御霊も、神の霊である。わたしのものを受けてそれをあなたがたに与えるのだ。』とイエス様は自分の霊とも仰いましたし、聖書はそう書いてあるのであります。
書いてあるというのであって、人間にそれが理解できるか理解できないかは、また別問題であります。」、初めからそう言ったものですから、すっかり納得なさったようであります。これはわからないものだと。

昔、学生時代にベック兄は、大学のドイツ語聖書研究会で三角形を書いて、黒板に書いて、ぼくはそれを通訳させられて、誤訳するものですから、まともに通訳できないものですから、自分で立ち上がって書いて、三角形を書いて、「水は零度以下になると氷になる。固体になる。百度以上を超えると気体になる。同じ水なのだ。H2Oなのだ。しかし氷であり、水蒸気であり、水だ。」という、そういうことを通してトリニティーの話をチラッとなさったことがあって、ぼくはそれが一番わかりやすかったかなという気もするのですけれども、とにかくわかりません。人間には。
だから議論しても無駄なのですけれども、ただ聖書にどう書いてあるかということは議論できるのです。「聖書はこう言っている。」ということは議論できるのであります。
「それは次元の違うこちらの話ですから、そのようなことを議論しても意味無いのではないですか。」と自分の先生に言ったことがありました。そしたら「いや、そうではなくて、聖書はどう言っているかということを、それを、その議論を実はしているのだ。」

大論争があったわけです。昔日本でも。日本だけではなくて、ヨーロッパにもそういうことをめぐっての議論はいっぱいあったわけでありますけれども、兄弟はそのことを知っておられるのか、トリニティーという言葉を使ってこられたことがあります。
結局、聖書に人が真剣に向かい合って格闘すると、何がわかるかと言うと、自分の知恵は全く役に立たないということがわかるわけであります。
大いなる存在の前に段々、段々自分の無力さ、理解の無さ、次元の違う世界というものに気付かされて、人は段々自分というものをわきまえさせられていくわけでしょう。それが、人が聖書と向き合うときに経験させられることです。

聖書をわかって、「聖書はこうだ。つかまえた。」というようなあり方というのは、根本的に危険であると思います。非常に間違いだとぼくは思っています。
そうではないのです。聖書が自分の手の中に収められたかのように、こうするというのは、それはとんでもない誤解であって、そうではなくて私たちは聖書の前に本当に言わば打ち砕かれていく。自分の愚かさ、無力さというものを気付かされて、ボロボロにさせられていくということ。それがぼくは間違いなく健全な信仰のあり方だと思っております。
異端的な誤った信仰の特徴というのは、聖書のことばが何か人間によってわかるかのように、つかまえられるかのように、それを手の中に収めてしまって、ああだ、こうだというふうにその上に立って、自分が切っていくと言いますか、それは人をとんでもない過ちに導いていくものであって、根本的な誤りだというふうに思います。

結局、真剣に聖書にぶつかっていって気が付くことは、自分の存在の頼りなさと言いますか、全く当てにならない存在であるということの自覚ではありませんか。
信仰の父アブラハムが神様に向かって、「私はちりや灰に等しい者ですが。」と言った言葉は有名であります。創世記の中に出てきます。「私はちりや灰に等しい者ですが、申し上げます。」と言いました。
信仰の父と呼ばれるアブラハムの自己認識は、「ちり灰に等しい者アブラハム。」でありました。これが彼の名刺に刷り込まれている名前であります。

イザヤ書40:12-17
12だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。
13だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。
14主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。
15見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。
16レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
17すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。

国々すら、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようなら、いったい人間ひとりはどれくらいのものでしょうか。

イザヤ書40:6-8
6「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
7主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
8草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

「人間は、朝、発生して昼には消えていく霧のようなものではないか。」とヤコブは言いました。
人間の知恵が神の前では無益、無力であることも聖書の厳しい警告であります。

コリント人への手紙第I、3:18-20
18だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。
19なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」
20また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

わきまえのある学者であれば、この聖書のことばに一言も無いでしょう。
人間の知恵、知識の小ささ、無力さを身に沁みているのはおそらく学者です。何と自分のしているのが少ないかということを痛いほど知っていらっしゃるのは、すぐれた学者ではありませんか。
おそらくこの聖書のことばの前に、もう一言も無いだろうと思います。あのニュートンは自分自身のことを、海岸で珍しい・・・

(テープ A面 → B面)

・・・をしようとして、後半生にはそのような書物を残しているそうであります。
知識というものはそういうものでしょう。追い求めれば追い求めるほど、それに頼れないということがよくわかってくるというものではないかと思います。

コリント人への手紙第I、8:1-2
1しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
2人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

恐ろしいことばです。これは。

コリント人への手紙第I、8:3
3しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

おそらく人としては最高の知者であるパウロが、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない。」と言うのですから、本当に恐れ入らざるを得ません。

兄弟のここ3年来のことを思うと、先ほど読んでいただいたあの老学者、国民に尊敬されていたイスラエルの指導者ニコデモの姿が思い浮かべられるわけであります。オーバーラップするわけであります。
有名なヨハネの福音書の3章を読んでいただいたところにあるように、

ヨハネの福音書3:1
1パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

おそらく70代ぐらいになっていた、少なくともなっていた人だろうと思います。そのニコデモがまだ32、3の若きイエス様を訪ねられたわけであります。
イエス様はとても、だけど30歳ぐらいに見えなかったようであります。あなたはまだ50歳にもならないのに、という記事が確かありましたよね。ですから、50前後には見えた、40過ぎには見えたのでしょう。そこに訪ねて来て、

ヨハネの福音書3:2
2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

云々と、イエス様に丁寧な態度を取って、心からの質問をしているわけですけれども。
イエス様は完璧に人を見抜く方ですから、回りくどい話をニコデモにはなさいませんでした。ニコデモに単刀直入に、

ヨハネの福音書3:3
3「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

全く何と言いますか、ここで話をしようと思うのに上からパッと答えが来ると言いますか。話がかみ合わないと言いますか。そういうことがこの問答から見られます。
イエス様は色んな回りくどいことを仰いませんでした。「ニコデモよ。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないのだ。真理が何であるかを悟ることはできないのだ。」と仰っているわけでしょう。

ヨハネの福音書3:9-10
9ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。

イスラエルの教師というのは、神のことを教える、真理を教える教師という意味でしょう。この世の教師ではないのです。
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。ということがあなたはわからないのですか。」と仰っています。
人間の知恵とは次元の違うイエス様の知恵、神のことばにぼう然として、ニコデモは目を白黒させて戸惑っているわけであります。

ヨハネの福音書3:5
5人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

ヨハネの福音書3:4
4「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

こういう食い違った頓珍漢なやり取りをしていますが、このニコデモもまた時が来てからイエス様の仰っていることが段々わかってきたようです。
それはニコデモの記事がヨハネの福音書には二回、出てきますから。イエス様を十字架から取り降ろしたときに、ニコデモは没薬をもって、そのイエス様の遺体にぬぐために来たという記事がヨハネの福音書のあとのほうに出てきますが。
イエス様とのこの出会いを通して、初めは何のことかわからない、しかし不思議なイエス様のことば、不思議なイエス・キリストの人格と言いますか、この世の今まで接したものとは違うあるものをここで彼は感じ取るわけでしょう。そしてこのキリスト・イエス様から目を離さなくなってくる。そして彼らの目は開かれていくようであります。

コリント人への手紙第II、5:17
17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ人への手紙6:14-15
14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

兄弟は3年来、洗礼を受けたいと願いながら突然召されて洗礼の機会が無かったのです。
葬儀の最後のご遺族のご挨拶で、奥様が、「ベックさんから洗礼を受ける機会が無いけれども、自分はこのまま洗礼を受ける機会は無いだろうということを思っておられたのでしょうが、しかし『天国に行ったら、イエス様に洗礼を授けていただく。』と言われた。」ということで、われわれはアッと驚きました。
ベック兄は確かにすばらしいけれど、イエス様から洗礼を受けるのが、きっと、それはもう正解ですよという話をわれわれはしたわけであります。洗礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは真の謙遜ですと言い換えることができるのではないでしょうか。新しい創造のしるし、真のクリスチャンのしるしとは、真の謙遜ではないでしょうか。

私たちは、兄弟の3年来のご様子を間近に見ながら、主のことばが人を変えていく。それを非常に嬉しく思いました。
毎回、家庭集会に出掛けるのは楽しみでありました。突如召されて、今からこの共なる交わりをもてなくて、そのことは非常に残念でありますけれども、まことの救いのしるしとしての謙遜、それを知る者となった。本当にすばらしい主のみわざだと思います。

3年ぐらい前に初めて会っているわけですので、3年ぐらい前の手帳を調べながら、ちょっと、いつ頃お会いしたかなぁと思って色々調べておりましたら、その頃にご紹介した「パスカルの祈り」が自分の手帳にメモられておりました。
あの化学の天才パスカルは次のような祈りのことばを記しております。おそらく人に見せるためのものではないでしょうから、彼が密かに記していたものでしょう。「パスカルの祈り」というものが知られております。最後にそれを読んで終わりたいと思います。

「主よ。今からあなたのご用のためにあなたと共に、またあなたにおいて役立てる以外には、私が健康や長寿をいたずらに願うことがありませんように。
あなたお一人が私にとって、何が最善であるかをご存知です。ですからあなたがご覧になって最も良いと思われることをなさってください。
私の意思をあなたのご意思に従わせてください。そして、へりくだった全き従順の思いをもって清らかな信仰を保ち続け、あなたの永遠の摂理によるご命令を受け取ることができますように。
そしてまたあなたから与えられる全てのものを賛美することができますように。
ブレース・パスカル。」

となっています。




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