使徒の働き10


蘇畑兄

(調布学び会、2003/05/19)

引用聖句:使徒の働き6章1節-7節
1そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
2そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
4そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

今日は使徒の働きの6章を中心に見たいと思います。
先回は、使徒の働きの5章の後半について私の学んだところをお伝えしたわけですね。大祭司やサドカイ派の人々、すなわち当時のユダヤ社会を支配していた支配層が、ペテロを初め使徒たちの、なんて言うのかな、活躍と言いますか、多くの人々が彼らのところに行くことにねたみに燃えてと、5章の17節に書いていますが、ねたみに燃えて、彼らを捕え、留置所に入れ、議会を開いて裁判にかけようとしたということであります。

ところがその前の晩、主の使いが、天使が牢の戸を開いて、使徒たちを牢から連れ出して、「宮に行って、みことばを宣べ伝えよ。」と言ったと書いてますね。
かつてはあれほど、イエス様のなさる不思議な奇蹟に腰を抜かさんばかりになって、この方は一体だれなのだろうと、イエス様の奇蹟の度に繰り返し取り乱し、混乱して、驚愕していた弟子たちが、今では天使のなさる奇蹟にせい然としているわけであります。別に驚いていないのであります。
復活されたイエス様を自分の目で見、聖霊によって心のまなこを開かれてからは、彼らはかつてイエス様が教えられたように、神にとって不可能なことはなんにもないということを、よく分かるようになったのであります。

神は死人を復活させ、人間を押して水の上をも歩ませ、生きたまま、あのエリヤのように、天国へと火の車に乗って引き上げられることもおできになるのだ。このことを、使徒たちは本当によく分かったのであります。
神はなんでもなすことができるのだと、心から信ずることのできる人は、本当に幸せな人であります。

よく、幼子のようにならなければ天の国に入ることはできない。イエス様が語られたんですけども、幼子っていうのは、大人のように訳知りではありませんね。断崖の上に立って、ひょっとしたら飛べるんじゃないかと思うのが子どもであります。
クリスチャンは、信仰を与えられると、場合によっては飛べるんじゃないかと、神さまはそれもなすことができるというように、心から信ずることができるようになるんですね。

かつては、そんなことは絶対ありえない、そう思って動かなかったことも、いや、必要とあらば神はこのことをなさってくださるのだ。これを堅く信ずることができるということ。なんて自由な心を与えられているんだろうと思うんですね。

この使徒たちのように、神はなんでもおできになるのだということを知るようになると、人はもう、鉄のような自然法則の必然性から内面的に解放されるのであります。
この世の科学が明らかにする自然法則も絶対ではないと、信ずることができる人間に変えられていくんですね。
私は学生時代に、ある本を読んでると、人生論みたいな、なんのために生きるかというような、要は哲学書みたいな、そんな感じの本だったんですが、エントロピー増大の法則に触れてる説明がありました。

私の理解は今でも正しいかどうか分からないし、うろ覚えなんですけども、エントロピー増大の法則ってのは、物理学の法則。熱に比較してますかね。その、熱に関する学問の法則らしいんですけども、この法則によるとどうも、全宇宙の活動はいつかは必ず止むという、そういう法則のようであります。
たぶんそうだろうと思う。そういう意味だったと思うんですけども、一切のこの宇宙の活動というのは、必然的に、そのエントロピー増大の法則に従って、最後はで静止するということだったと思うんですね。
それを読みながら、なんか無力感を覚えたことを、忘れがたく覚えていますね。

世の知者たちは、なんだかんだと色んな理屈をこねて、色んな思想を説くけれども、人間とこの全宇宙すべての営みの行き着いたところは、すべてが静止した死滅の世界なのか。
これは鉄のような、必然性をもつ科学的法則であるから、これからどうしても逃れることはできないのだ。そういうような、なんかこう、無力感と言いますか、この中でいったいなんのために生きるかっていう解を、答えを見いださなきゃならないなんていうことはできるのか。
そういう思いをもったことを覚えております。

一切が虚無に帰する。これ、100%なほど確かな科学法則であるということですね。そういう世界で、意味ある人生を生きなきゃならないっていうのは、これはやりきれない。
当時、池袋の下宿屋さんの二階の三畳の部屋におりましたけれども、夜空を見上げながら、そのような思いをしていたことをよく覚えております。
しかしながら嬉しいことに、私はこの科学法則のもたらすその無力感から自由になりました。絶対なるものは、いわゆる科学的法則ではなく、生きておられる神ご自身だけだと知るようになったからです。
神は自然法則を定めておられるお方でありますが、必要なときには、その自然法則をも踏み越えられるお方だということを聖書を通して知るようになったからなんですね。

神は何度でもこの宇宙を創造することができるお方である。そういうことを、ごく当たり前のこととして私は知るようになったのであります。
この「創造」という言葉がポイントですね。科学の世界には創造ということはありえないのであります。創造とは無から有を生み出すということだからです。聖書の証するまことの神は、万物の創造主なる神である。これが、聖書が高らかに宣言するものなんですね。

この神さまのことを知らなきゃ、やっぱりどうにもならないのだ、人生ってのは。そういうことをつくづく思うんですよね。そうでなかったら、科学は私をがんじがらめに法則の中に、その枠が私たちにくい込んでくるわけですね。
しかし、創造主なる神ご自身だけが、本当の意味で絶対者なる方である。それ以外の一切のものは絶対ではないということを、私たちは聖書の無数の記事を通して分かるわけであります。

ですからこのことを知らない、ただ自然法則と言ったらもうどうにもならない、絶対の決まり事だというふうに考えている人々にとっては、聖書っていうものは、まったく次元を異にした世界を、私たちにさし示しているのであり、そのために、人は聖書の前に立つと、面食らってしまうんですね。
聖書以外の書物というのは、まじめな書物というのは、私たちの人間の理性の範囲の中で書かれているわけでありますから、分かるわけですけども、聖書だけが人間の理性を超えるですね。

世界についてあちらこちらで、それが顔を出してくるんですね。もちろん私たちに分かることが、それが基調でありますけども、それが大半でありますけども、その中に私たちの理解を超えた、今言ったように、その自然法則ってものを踏み越えたところが顔を出してくるわけですね。
そこで私たちは戸惑ってしまって、いったいこれはどういうことなのかという、あのイエス様の奇蹟の度に、いったいこの方はどういうお方なのだろうと言って、混乱を起こさせられる。
とにかく、その理解を超えたものの前に立たされて、困惑するあの使徒たち。ああいうようなことを、私たちは聖書を読むと感ずるわけですね。

そして、あの使徒たちが信仰の目を開かれたとき、ああ、神さまはなんでもできるお方だ。目に見えない、この見える世界の背後にあるところの神のご支配。一切のものを支配しておられる神さまの存在。これこそが絶対なのだということに目が開かれていくときに、彼らは、今までどうすることもできなかった、その理解を超えた壁を軽々と踏み越えて行きますね。
「この自由っていうのは本当に貴重である。私にとってはそうだよ。」と。
今の科学万能の時代、それがすべてだと思ってる人々は、このことをやっぱり知らなきゃいけないと私は切に思ってるわけです。

イザヤ書40:26
26目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。

イザヤ書40:28
28あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

イザヤ書45:18
18天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。

イザヤ書65:17-18
17見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
18だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。

聖書の神。まことの神はこのような方である。できないことはなにひとつない。絶対的な存在である。神さまが、ご自分の定められた自然法則を破られるときがありますね。踏み越えられるときがありますね。
聖書はさっき言ったように、それが多くの記事として記されているわけですね。
しかし考えてみれば、神さまがこの自然法則を踏み越えられる、破られるときは、決まって、私たちにあわれみを示すためですね。そのときだけですね。

そうでないときに自然法則を無視されたら、飛んでる飛行機は落ちるわけでありますから大変ですが、そうじゃなくて、私たちに特別な助け合いを示すときにだけ、主はこの法則を踏み越えて、破ってくださるということが言えるんじゃないでしょうか。
このことを知るということはなんと大きな恵みでしょうか。主はなんでもなすことができるんですね。

こういうようなことを言いますと、よくそれで学校の教師が務まるなと、仲間たちからおそらく呆れられると思うんですね。かつて、進化論を認めないと私が言うもんですから、教師の先輩に驚いた目で見られたことがあります。
猿がいくら進化したからといって霊的存在に変わるとは、私には絶対に信じられないのであります。

人間と他の動物との間には、量的な程度の差ではなくて、超えることのできない質的な相違があると私は考えています。聖書は、人間だけがこの地上の動物の中で、神の霊を吹き込まれている存在だと言っているんですね。
ある動物が進化していくと、そういう霊的なものになる。そういうことは、私にはどう考えても受け入れられないのであります。
このように、創造主なる神のご存在を知って初めて、人間は自然法則的な宿命論から自由になるのではないかと思ってるんですね。
ですから科学者たちこそ、科学の限界を認識し、科学の法則を絶対視しないことが必要だと危惧しています。そのためには、聖書が私たちに伝えている神の存在を、やっぱり知らなければいけないですね。そのように考えているんですね。

前置きが長くなりましたけれども、もういっぺん、使徒の働きの6章に戻りますと、使徒の働きの4章から、使徒たちへの迫害が始まりました。そして5章になって、彼らは捕えられて、牢に入れられます。
段々段々、信仰への迫害が強まっていく様子が分かります。もう一回4章の21節を見ますと、この大祭司たちは、

使徒の働き4:21
21そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。

と書いてますね。ふたりをおどしました。そして釈放したのであります。

使徒の働き5:39-40
39彼らは彼に説得され、
40使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。

むち打ちが加えられてきました。こうして7章では、最初の殉教者ステパノの記事が克明に記されてるんですね。こうして殉教の死というのが起こり始めたんですね。信仰に対する迫害が段々段々、強まっいくのです。
7章では、このステパノの裁判と殉教の死だけが取り上げられて記録されていますが、使徒の働きの第6章は、先ほど読んでいただいたそれは、ステパノが聖書に登場するいきさつについて述べているわけですね。

使徒の働き6:1
1そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

このギリシヤ語を使うユダヤ人というのは、このコンコーダンス中の聖書の記事によると、ユダヤ以外の外国で生まれたユダヤ人だったそうです。その頃に、一般的に使われていた言葉はギリシヤ語でしたので、彼らはヘブル語が使えなかったんですかね。
この、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと、ユダヤの地で生まれたユダヤ人たちというのが、聖書にずっと出てきますね。で、両者が信仰をもって、ひとつの群れに加えられたら、そこで色んな行き違いが起こってくるわけですね。
毎日の配給でなおざりにされていたというのですから、4章で見たような、あの初代教会の共産制的な生活が続いていたということだと思いますね。

使徒の働き6:2-3
2そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

と書いてます。十二使徒は弟子たち全員を呼び集めて、と書いてますが、全員っていう言葉は注がついていますね。弟子たちの群れと書いてますね。群れを呼び集めた、こう言った、このような話をしたと書いてますね。そして5節を、6章の5節を読みますと、

使徒の働き6:5
5この提案は全員の承認するところとなり、

と書いてますね。男性信者だけで数千人いたわけですから、この人たち全部が、この問題のために相談を受けていたとも思えないんですけれども、聖書にはそういう表現がしばしばありますので、文字通り全員って言うわけじゃ、おそらくないんでしょうけども、多くの救われた兄弟たちに、十二使徒たちはこういう提案をして、みんながそれを同意したので、七人の人々が選ばれたということのようですね。

教会というのは段々段々、時代が進むにつれて、いわゆる聖職者と信徒に二分されて、重要な事項の決定は、信徒はあずからないような、そういう形に段々なっていったんじゃないかと思いますけども、初代教会はその点は開かれていたと言いますか、多くの人々がともにそれを考え、「そうしよう。」ということだったようですね。
しかし、教会の運営というのは、本当に難しいだろうなと思いますね。指導と合意というもののバランスが容易ではないっていうことは、考えると分かりますね。

同じレベルに皆立っとれば話は簡単なんですがそうじゃないわけですからね。信仰の理解において随分大きな開きが、ここのクリスチャンたちにはあった。そういう場合にいったいどうするのかということは、二千年来、クリスチャンの群れが頭を悩ませた問題だし、また色んな不一致が生まれてきた原因でもあると思うんです。
これは本当に大変だろうと思いますね。

クリスチャンの群れ、エクレシア、われわれは集会と呼んでますけども、それは例えば、同じ親からの血を受け継いだ、本当の切るに切れない絆で結ばれている、例えば家族というようなもの。
人間の集団の中でもっとも親密な、もっとも根源的な、そういうものとぼくは非常に似てると言いますか、そういうもんだと思うんですね。
家庭っていうのはもちろん、これ、生まれながらの自然的な絆です。エクレシアというのは霊的な絆という違いはありますけども、もっとも、この、親密な、人間の生活の中でもっとも根本的な、理想的な集団。共同生活だろうと思うんですけどもね。
ですから、ひとつの家族を考えてみると、一番分かりやすいだろうと思うんですね。エクレシアというのは。

家族の中には、今生まれたばかりの赤ちゃんもいるかもしれない。一心に、家族の問題をしょって、自分のすべてをささげて、父長と言いますか、家父長もおります。
四六時中、家族のことを考えて、夫を支えて配慮をし、一切の犠牲を惜しまない母親って存在いますね。そういう人たちがひとつの生活を営んでるわけですから、おそらく、エクレシアというのは、これに対応するもんだと思ってるんですね。

だからクリスチャンっていうのは、その集会の中に、エクレシアの中から生まれてくるもんですよね。霊的な意味で言えばですよ。ちょうど家庭に子どもが生まれてくるように、クリスチャンというのはエクレシアの中に生まれてくるものですね。
どこから、よそから来て、クリスチャンになったというふうにわれわれ考えますけども、霊的な次元で言うとそうじゃなくて、そのエクレシアの中から、新しく生まれてきたたましいですよね。いのちです。ですからそう意味で、霊的な勇気が湧いてくるわけですよ。

そういう性質を、集会とか教会というのはもってるんですね。だからこれが、単なるその教会を開いて、なんかを決めてとか、そういう、今は教会はみんなそうやってるようでありますけども、そういうものが本当に馴染むのかどうかというのが、これは大いに疑問ですね。
おそらく理想的なエクレシアはそうではないだろう。だが人間の弱さと言いますか、不完全さと言いますか、そのエクレシアの不完全さがあるもんですから、そういう形式を取るんだろうと思いますけどね。
この時代においては、十二使徒たちは群れの全員に呼び集めてこう言ったということですね。やっぱりちょっと、そういう意味で、考えさせらるところがあるということであります。

結局のところ、私たちの集会、あるいはエクレシアというのは、エクレシアに属する信徒全員の信仰が生きているものかどうか、その一点にかかってくるんじゃないでしょうかね。それとも形骸化してしまってるのか。
ですからこれこれの制度を作れば、いつまでも集会は、すばらしくあり続けるっていうわけじゃないですね。どう考えてもそうじゃない。
そうであれば、安直で簡単なんですけどそうじゃないんですね。結局、ひとりひとりの信仰がいつでも問われているっていうもの。それがやっぱり信仰の真理に、関わるっていうのはそういうところなんだろうなと、いつも思わされるんですよね。
こうすれば大丈夫だっていうような、そういうシステムなんかないっていうことですね。

この十二使徒たちは、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち七人を選びなさい、と提案したわけです。兄弟姉妹たち全員の、いわゆる注目の一致する人を選んでほしいということなんですね。
教会とか集会と言われる、この信仰の群れは、濃密な人間関係の営まれるところであります。なんせ、自分の肉の家族の中には私たちは十数年しかいませんけども、その集会にはぼくは三十五年くらいいるわけです。

場合によっては、四十年、五十年って信仰の交わりを深めていくわけでしょ?その間にさまざまな問題に、集会としてぶつかる。その度に私たちは、その問題にぶつかる度に、自分という人間がどのような人間かっていうことを明らかにしていくわけです。
ベック兄が仰ってたようにですね、問題がないと意味が分からないんですよ。問題が起こってくると、私たちの信仰というのは明らかになるわけです。あるいは私たち自身っていうものがそれで明らかになるわけです。

何年も何十年も、週に何回も私たちは会っている。さまざまな問題で力を合わせたり、色んなことをして交わりを持つわけですから、これは、私たちひとりひとりが何者であるかっていうことは、もう否が応でも明らかですね。
私たちに付いてるメッキがみんな剥がれちゃうんですよ。すぐ剥がれちゃう。
すべてを知っておられる神さまの御前に立つというのが、クリスチャン信仰ですから、私たちはかつて、自分では気が付かなかったかもしれないけども、仮面を被って生きてきたんですよ。自分というものを巧みに表に出さないようにしながら。しかし、信仰に触れて、私たちはそれが許されない。そういう生き方じゃ結局ダメなのだということを、気付かされますね。

貧弱そのものの自分を、私たちは明らかにしなきゃならない。だから最初は、それは厳しい、辛いことなんですよね。なかなかそうはしない。しかし、自分のありのままと言いますか、自分というものを、本当に素直に主の前に明らかにして、そうした人々のともなる信仰の歩み、それが集会です。エクレシアです。
そうでないと、このクリスチャンの群れに人は入れないんですから。
正直な自分自身に立ち返るということが、結局、本当の意味での悔い改めということですよね。さまざまな見せかけの人生から離れて、真実な歩みに一歩踏み出さなきゃいけないということですね。

私たちはその決心をしたわけです。そうでなければ結局、自分の人生は虚しいっていうことに気付かされたからですね。本当のものじゃないんですから。
こういうわけで、私たちクリスチャンは集会という交わりの場において、実は厳しい信仰の試験を受けてるようなもんなんですね。
評判の良い人たち。多くの兄弟姉妹たちが見て、「ああ、この人は確かだ。」、ではないか、「この人の信仰は、確かなものだ。この人にやってもらうべきではないか。」、こういうふうに選び出したんですね。
これはどうも、当時の使徒たちのやっぱり原則だったようですね。例えば、

使徒の働き16:1-3
1それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、
2ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
3パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。

ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で、テモテは信用を得ていたんですね。評判の良い人だった。みんなが認めていた。見事な。だからパウロは、テモテに目を留めて、しかも兄弟たちが彼を、確かだと評価して、その裏づけを得て、テモテを自分の伝道に連れて行ったんですね。
こうしてテモテは、パウロにとって終生もっとも近い信仰の兄弟となりましたね。

テモテへの手紙第I、3:1-7
1「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。
2ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、
3酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、
4自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
5――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――
6また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。
7また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

非常に用意周到ですよね。パウロの基準というのは。色んな点を指摘しながら、最後は、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけない。そうしないと、悪魔のわなに陥ることがあるからだ。そしりを受けて、悪魔のわなに陥らないために。
信仰で、すっかり自分の世界しか目に入らなくて、まわりの未信者のことに気が行かない。そのことによって評判が悪い。そういうことが起こってくると、どうでもいいようなことでそしりを受ける。それが結局、悪魔のわなに陥ることになるからと彼は言ってるんですね。

しかしそういうことは、信仰に真っ直ぐ生きるということを、その人が自分の生涯の目標として、唯一の目標として見失わない限り、自然についてくるものなんでしょうね。ただ、主の前に歩む。
そういう、すべてをご存知の主の前に歩む。主がくださる誉れを、朽ちない誉れを唯一の目当てとして、それが最高のものであるということを知って、そこに自分の人生の目標を定めて、ひたむきに生きる。
そういうことを通して、その人の信仰の確かさ、また未信者との間の、関係というものをみな整えられるんじゃないでしょうか。

ひとつの信仰から出てくる結果だろうと思うんですよね。だから、ここにはこうしなきゃならない。ここの主を知らない人々にも、なにか気に入ってもらわなきゃならんとか、そんなことじゃなくて、信仰に立って、当たり前に生きることによって、自然に、この主を知らない人々からも、受け入れられ・・・

(テープ A面 → B面)

使徒の働きの6章にもう一回返りますと、こうして七人が選び出された。

使徒の働き6:5-6
5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6この人たちを使徒たちの前に立たせた。

と書いてますね。信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、この、上についている信仰と聖霊とに満ちたっていうのは、ステパノにだけかかってるんでしょうかねぇ。特に強調してるようですね。たぶんステパノにだけかかってるんでしょうね。

もちろん、御霊と知恵とに満ちた人々であったことは間違いないわけでしょうけども、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、これはおそらくステパノに関する啓沃じゃないかと思いますがね。
もちろんあとで、ピリポが出てきますね。
この七人は、コンコーダンス付きの聖書では説明があって、この七人の名前は全員ギリシヤ風の名前だそうであります。ユダヤ系の名前はないんだそうです。要するに外国生まれのユダヤ人だったわけですね。
こうして、ギリシヤ語を使うこのユダヤ人たちの世話をするにはふさわしいってわけで、この七人が選び出されたわけですね。こうして、特に毎日の配給でなおざりにされていた、こういう不満を取り除くために、立てたっていうわけですね。こういうのを、どうも執事と言うんだろうと思うんですね。教会の執事。

私たちの集会には監督とか、長老とか執事とかってのはないもんですから、ぼくなんかはそういうことを全然知らないんですね。教会の人たちに言われたら笑われるだろうと思いますけども。
ただ、執事の役割を果たしている方々は大勢いらっしゃるわけですよね。名前はないけれど。

テモテへの手紙第I、3:8-12
8執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、
9きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。
10まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。
11婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。
12執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。

云々と書いてますね。これもコンコーダンスによると、執事っていうのは、元来は食卓で給仕する者の意と書いてます。ですからあの七人は、まったく執事というべき者だったんですね。
クリスチャンの群れの、さまざまな生活上の配慮をしてあげる人々だったということですね。この七人の最初の執事、教会の中で初めて定められた執事というのは、この七人でありますけども、この七人の中で、聖書に、このあとの取り上げられるのは、ステパノとピリポの二人だけであります。

この二人は、兄弟姉妹たちから、執事として推薦されますけれども、主は、この二人をみことばを伝える者として用いていきますね。
ですから、この人はこれにふさわしいだろうと思ってやってもらううちに、段々段々、この人の賜物と言いますか、今まで秘められていた賜物があらわになっていく。こうして、その人をもっと生かされる奉仕に導かれていく。どうもそういうもののようですね。

使徒の働き6:7
7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

教会はこのように整えられていき、力強く前進を始めてきたということでしょう。祭司たち、今までは反対派に立ち迫害してる、そういう聖役が、祭司たちですけれども、ユダヤ教の祭司たちが、次々と信仰に導き入れられるようになったというのであります。
残りの6章の8節以降、7章の終わりまで、ステパノに焦点が合わされていきます。知恵と御霊に満ちた人ですね。ステパノ。

使徒の働き6:8-10
8さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。
9ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
10しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。

リベルテンというのは、奴隷から解放されたユダヤ人のことだそうです。で、そのまた子孫たちをも言うんだそうですけども、リベルテンですね。自由な者という意味でしょ。今のリバティ(liberty)なんかにあたる言葉ですね。
リベルテンの会堂に属する人々との議論が起こって、知恵と御霊によって語ったので、だれもこれに太刀打ちすることはできなかったのであります。

使徒の働き6:11-14
11そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせた。
12また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った。
13そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
14『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

ここでも、イエス様の裁判とまったく同じようなシーンが繰り返されてくるんですね。本当によく似てますよね。あまりにもよく似てるので、弟子はその師にまさらずと言われた、イエス様のあのお言葉を彷彿するのであります。
この前の4章でも、5章でもそういうような感じのシーンが出てきましたけれども、事実を捻じ曲げて、彼らをなんとか罪にしようとする人々。それに対して、いわゆる自己弁解をしないで、「いや。こうなんですよ。」、ただ真実を真っ直ぐに宣べ伝えているイエス様と弟子たち。

これが、ずっとこれが続いていくわけですね。もう一方では、もう青筋を立てて、なんとかやり込めよう、やり込めようとしてやってるユダヤ人の祭司長始め、祭司たち、サドカイ人たち、それに対して、なんて言いますかね、平静に真実をもって答えるキリスト者たち。この対照が非常によくあらわれてくるのであります。

マタイの福音書10:24-26
24弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
25弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
26だから、彼らを恐れてはいけません。

マタイの福音書10:17-20
17人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。
18また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
19人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
20というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

このとき、ステパノの顔は輝いて天使のようだったと、6章の最後の節に書いてますね。

使徒の働き6:15
15議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

輝いていたんですね、確かに。イエス様が預言なさったように彼は、裁判に引き出されて、多くの人々の前でみことばを証しなきゃなりませんでした。
そして、そのまま彼は、そこで死を遂げて行くわけですけども、このときに聖霊がステパノをおおった。知恵と御霊の人であったステパノを、さらにこのとき、御霊がさらに彼を満たしたのでしょうね。
ですから彼の顔は、遠くから見ても、御使いの顔のようであったと聖書は言っているわけであります。

ペテロの手紙第I、4:12-14
12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

ペテロは自分の経験からこのことを書いてるんでしょうね。キリストの名のために非難を受けるなら、そのとき栄光の御霊、すなわち神の御霊が私たちをおおう。御霊の力が即にそのとき現わされるからだと言っています。
ステパノは、こうして裁判に立たされ、克明に彼が語ったこと、最後に彼が石打ちの刑で死ぬこと、それが次の7章のテーマとして引き継がれているわけです。




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