使徒の働き11


蘇畑兄

(調布学び会、2003/06/26)

引用聖句:使徒の働き7章51節-53節
51かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
52あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
53あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

先回まで、使徒の働きの6章までをともに見てまいりましたので、今日はこの使徒の働きの7章をご一緒に見てみたいと思います。
使徒の働き7章は、前の6章5節で、信仰と聖霊とに満ちた人、という形容句をその頭に乗っけられた、あのステパノの殉教の状況を詳しく記している箇所であります。
クリスチャンであるならば、だれもがステパノ、クリスチャン史上最初の殉教者として知っている名前であります。

クリスチャンとして最初の殉教者が出た、2,000年のクリスチャンの歴史というのは、もうおびただしい殉教者の歴史でもあるわけですけれども、この殉教ということを、どういうふうに見るべきなのかということも、大きなテーマとしてあるかもしれませんね。
聖書は人間をあまり褒めません。人間の行なったわざをあまり大きく取り上げません。その聖書が精一杯と言いますか、ステパノの名前の上に、「信仰と聖霊とに満ちた人」、というふうに呼んだのではないかと思うんですね。

この6章にステパノの名前が出てき、7章でいかにしてステパノが殉教の死を遂げていったかについて、克明に記し、8章のほんの最初のところで、ステパノの葬儀について出てきて、それ以降、おそらく新約聖書の中にいっぺんもステパノの名前は出てこないはずであります。
殉教ということは、確かに大変なことかも知れませんけれど、聖書はそれを特別のこととしては扱っていないと言えるかもしれませんね。

大切なことは、殉教の死に至るかどうかということよりは、むしろ一人一人が与えられた場において、神さまに対して従順に、誠実に歩んで行くということ。
そっちのほうを聖書は、むしろ一番たいせつなこととして伝えているのではないかと思います。

そういうわけで、ステパノの名前は、この8章の始め以後、一回も出てこない。そういうことを考えてみますときにやはり、私たちは、この殉教ってことについて、過分に注意を払うべきではない。
聖書はそういうことを言ってるんだろうというような気もするわけであります。なにか、殉教というのは特別のことであって、特別な人に与えられる大きな信仰上の誉れであって、というような考え方がないわけではなさそうですね。

ともかく聖書が言ってるのは、それぞれの置かれた場において、私たちがいかに主に忠実であるか、そのことが一番たいせつなのだということを教えているのではないかという気もするんですけども、なんせこの、使徒の働き7章というのは、全部で60節から成ってるんですね。
使徒の働きの中で一番長い章なんです。こういうふうに長いと、なに学んでいいか分かんなくて、実は困ってしまって、もうあちらこちら、取留めのないお話になるんじゃないかと思いますけども...

聖書が、われわれが持ってるような形になったのはごく最近です。イエス様が最初に、ナザレの郷里に帰られて、会堂で安息日に立たれた。そうしたら、会堂管理者がイエス様にイザヤ書の巻き物を渡された。
イエス様はお取りになって、イザヤ書に出てくる預言の書に目を留めて、ことばに目を留めて、「今日、これがあなたがたの前で実現したのだ。」と仰ったという記事が、ルカの福音書4章にありますから、ちょっと見てください。

ルカの福音書4:16-21
16それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
17すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
18「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
19主の恵みの年を告げ知らせるために。」
20イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
21イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

イエス様は初めっからそういうことをしようと思って、この会堂で立たれたんじゃないですね。会堂を管理する人が、たまたまイザヤのある巻を、イエス様に渡したわけであります。
当時の羊皮紙で書いてるイザヤ書ですから、もう、何巻から成っているか分からないぐらい膨大なものであるはずですよね。
イザヤ書は60章から成っています。その中のたまたまある巻が渡され、イエス様は、いつも決まって読む箇所があったようですけれども、当時、その安息日に読まれる箇所ていうのが、そこじゃなくて、この預言のみことばを読まれて、「今日、このみことばが成就したのだ。」と仰ったんですね。「わたしがそれである。」と仰ったわけであります。

ご自分の上に生ずるすべてのことは、天の御父である神の予知により、ご計画によるものである。常に寸分の狂いもないっていうことを、イエス様は知っておられたんだと思うんですね。
このときも、ごく当たり前のように、イエス様は出された預言書を取って語られました。
「案ずる必要はない。語るのは聖霊だから。」と、弟子たちにイエス様は、みことばを語るときに、証をするときに、そう教えられましたけども、イエス様は本当に、いつでも自然と言いますか、いつでもイエス様のおことばや行動というのは、自然でありました。

天の父が常にご自分とともにおられ、一瞬たりともご自分から離れられることはないというその事実。イエス様は、この確信の上にいつも歩まれていたからではないかと思うんですね。
ですから、御父はいつでもみこころにかなって、すべてのことを備えておられる。自分はその御父のみこころに常に目を留めて、主が、父が自分に示されるように、それを行なえばよい。
御父は必ずいつでも、その備えを自分にしておられる。イエス様はそれをほんの少しも疑われなかったと言えるんじゃないでしょうか。

そこにイエス様の、いつでも悠々迫らざると言いますか、いつでもその状況にぴったりマッチし、自然な、伸び伸びとしたイエス様のふるまいというのが生まれてくるんじゃないかと思うんですね。
で、大切なことは、御父がイエス様とともにいつでもおられ、すべてのものを備えておられる。これは、決してイエス様ご自身にだけ当てはまることじゃなくて、実は私たちすべての人にも当てはまることなのだ。
御父はそういうふうに私たち一人一人を常に導いておられるのだ。私たち一人一人は、御父から、ほんの片時も忘れられてはいないのだ。このことをイエス様は、繰り返し教えてくださったということであります。

親が自分の子ども一人一人のことを片時も忘れないように、天の父なる神は、私たちから片時も目を離しては絶対いらっしゃらない。これを、イエス様は繰り返し繰り返し私たちに、教えようとなさったわけであります。
だから心配することはない。御父の備えは完全なのだ。その完全な御父の備えをたんとよく見る目をもちなさい。
私たちが見えないところに、問題はあるわけですよね?イエス様はそれがいつもよく見えたわけであります。完全にイエス様は、それを見ておられたのだ。

私たちは信仰を与えられて、心の目が開かれるときに、今まで見えなかったものが見えてまいりますよね?
罪によって私たちの目が閉ざされていたとき、私たちは神さまのみわざなんてのは全然見えなかったわけです。一切は偶然であり、一切は人がやってくることであり、人間のわざとしか思えなかった。それ以上のものは見えなかった。
しかし、信仰の目が開かれて初めて私たちは、見える一切の出来事の背後に、神ご自身が立っていらっしゃるっていうこと。一切の自然的な出来事や人間の関わりの背後にも、やはり神さまが働いておられるということに気が付くわけであります。

信仰の目が開かれて初めて、私たちは、見えない神さまのみわざに、いつも心を向けるようになりますね。そしてそのことを読み取ると言いますか、分かるようになってくる。だから私たちの生活は変わっていくわけであります。
今までは見えるものしか追っかけなかった。人間の頭で考える、考えに立っていくよりほかになかったけれども、今は、まず、見えない主ご自身の導きやみこころにまず目を留めていこう。
主がなにをなしてくださるかそこに心を向けていこう。その道を歩もう。そういうふうに、私たちは段々変えられていくわけであります。その道が分からなかったら、クリスチャンとしての信仰の歩みはできないわけであります。

分かるように、主は私たちに御霊を与えておられる。分かるためには、私たちが罪から離れなきゃいけないということなんですね。
神さまのみこころにかなわない者から、私たちが心して離れるということ。罪をもったまま、私たちは神さまのみこころを知ることはできないというこ
と。
そこに、悔い改めるということがどんなに大切なことなのかということが分かるわけであります。それは単に頭の理解力ということではないんですね。

私たちの上に生ずることには、神の完全なご意志があり、完全なご配慮があるのだ。ただ、私たちの内なる霊的状態が鈍いために、神のそのご計画とご配慮とが理解できないようになり、誤解したり、取り違えたり、とんでもない見当違いのことをしたり、悩んだり、狼狽したり、的外れの反応を私たちは示すわけであります。
イエス様はその霊的状態に、一点の曇りがありませんでしたから、イエス様は常に光の中に立っていらっしゃったから、御父のみこころと導きとを、どこででも、いつでも認めることがおできになったわけであります。

イエス様がいつでもどこででも慌てふためくということがなかった、取り乱すということがイエス様になかった。それは、全能の御父の完全な備えが、ご自分の歩みのすべての道すじに備えられているということを、主はご存知だったからであります。
イエス様はただひたすら、御父のみむねにだけ目を留めて歩んでおられたから、御父は一切のことを備えておられた。イエス様はそのことを片時も、ほんのわずかも疑われることがなかったのであります。

イエス様はさまざまな人々の求めにおいて、色々な所へ出かけられ、色々な状況に出くわされました。予期しないことの連続に直面されながら、イエス様はいつも、先ほど言ったように、自然でありました。イエス様には構えたところは少しもありませんでした。
もちろんそれは、イエス様が常に、ただ、愛のみをもって他者に対しておられたからということもあるんですね。心からの愛や思いやりが溢れるとき、人の言行というのは自然の形になるものであります。
しかし、それだけではなかったということですね。天の全能の父が、その愛のまなざしをもって、いつも見ておられる。全能の腕をいつも差し伸べておられる。イエス様は常に、御父とともにおられる。

そこにあの、イエス様の、いつでも自然である、作られたところがないっていうことですね。そういう、イエス様にはなんらのパフォーマンスがないということですね。常に主は真実でしかあり得なかったというの理由があると思うんですよね。

ヨハネの福音書14:8-10
8ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
10わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様は常に御父とともにいるのであります。

ヨハネの福音書11:41-44
41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。主は、こういうふうに、ご自分が常に御父と一つであることを仰っているわけです。
この御父からイエス様は十字架の上で完全に捨てられたのであります。イエス様だけが経験なさったことだと思いますね。
神さまから完全に見捨てられるっていうような人は、この中にもひとりもいないわけです。生きてる私たちの中にひとりもいませんけども、イエス様だけがこの経験をなさったわけであります。

イエス様のすばらしいところは、ご自分の天の父である神は、ご自分とまったく同じように、私たち人間一人一人の父でもあるということ。そのことを繰り返し言われているということなんですね。
イエス様は正真正銘の神の御子、そのひとり子であるけれど、私たちは贖われて、神の子とされた、いわば養子のようである。そのような身分である。

イエス様と私たちの間には、父なる神から見て、越えられない一線があるというようなことを、イエス様は一切仰らないということであります。
父は、イエス様を愛されたように、私たちをもそれに劣らず愛してらっしゃる。イエス様は、いつもそういうふうに仰ってるんですね。
そこにイエス様の神の御子たる、本当の所以があるんじゃないかと思うんですね。

父がわたしを愛しておられるように、あながたも同じように愛してらっしゃるのだ。天の父がわたしのまことの父であるように、あなたがたもまことの天の父でもあるのだ。イエス様は繰り返しそういうふうに仰ってるんですね。
だから、イエス様と私たちの間には、神さまの御前において、神さまの愛の対象として、なんの、ほんの少しの違いもないのだと仰っているわけであります。

マタイの福音書6:26-33
26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
28なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

マタイの福音書7:7-11
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
9あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
10また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
11してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

私たち、邪な心をもつ人間の親であっても、自分の子どもには最善をなそうと願うではないか。どうして、天の父があなたがたに最善を願わないことがあろうか。もっとも良きものを与えない。与えたいと望まないことがあろうか。
イエス様からすると、これは自分のことだったんですね。神さまの愛は、一人一人に限りなく注がれているのだ。神の子である私たちに対して同じように、あなたがた一人一人に対してもそうなのだ。
神はご自分のいのちと栄光に、一人一人をあずからせたいのだ。わたしがその中にいるように、あなたがたをもそうしたいのだ。それこそが主のみこころなのだ。

イエス様は決して、自分が特別な方だというふうに言ってないんですよね。イエス様は確かに神のひとり子であります。しかし、そうでありながら、イエス様は、あなたがた一人一人も、神さまの前にあっては、わたしと同じようにかけがえのない者なのだ。
先ほど、イエス様が神の御子たる所以だと私が申し上げたのは、そのことなのであります。そういう意味において、イエス様には自他の区別はないのであります。
純然たる愛と言いますか、至高の愛と言いますか、それだけがイエス様の中にあると言えるんじゃないでしょうかね。

絶対的な無私と言いますかね、わたくしのなさと言いますか。そこにイエス様の人格の最大の特徴が見られるんじゃないでしょうか。
もっとも高きにいらっしゃるお方が、すべての人とまったく同じところに立っていらっしゃるんじゃないでしょうか。そしてご自分のその栄光のうちに、私たちをも導き入れようと言ってらっしゃるんじゃないでしょうか。

マタイの福音書10:29-31
29二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
30また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

髪の毛一つ、見落とされてはいないのだ。すごい・・・なんて言いますか、イエス様の意識ですよね。御父が、私たちの髪の毛一筋、見落とされてはいない。私たちのすべてをご存知である。
ここに、先ほど言ったようにイエス様が、慌てふためかれることはない。どのような中にあってもイエス様はいつも平安をもって、ゆとりをもって、常に同じように歩んで行かれる。その秘訣があるんじゃないでしょうかね。

私は学生時代に、いかにしたら人間、平常心を保ち続けるかっていうような修行みたいなものを、自分がいつも動揺ばっかりするもんですから、そんなことを何年間か、随分、大学の勉強は放ったらかしで、それこそ、全エネルギーを注ぐようにしてやっておりました。
いつでも平静であるということは、常に自己コントロールができるということですよね。しかし私が気が付いたことは、結論は、自分の努力とか修行とか、そういうことによって、常に平常心を保ったり、自己支配、完全に自分をコントロールしようとしたりすることは、もちろん不可能であるだけでなく、そういうことを目指してはいけないということであります。

いつかも申し上げましたけれども、初めてベック兄の大学で聴いた聖書研究会で、「自己支配は罪なのだ。」って言うんですね。ぼくは非常に驚いて、自分が目指していること、そのことが罪なのだということに随分驚いたのであります。
神ご自身の支配の下に人間は置かれるべきなのである。イエス様が御父の完全なご支配の中に立たれたように、私たちも自分の力で、「ああしよう。こうしよう。」とか、色んなことを企んだり、努力したりするのではなくて、神ご自身の支配に自分自身をゆだねなきゃいけない。神ご自身の支配を受け入れなきゃいけない。
そこにのみ、本当の意味での心のくつろぎと言いますか、本当の意味での平常心っていうのかな、そういうものが実は生まれてくるんです。

イエス様の、福音書に記されている、このお姿を見るときに、それをいつも思わされるんですね。
自分の努力や自分の力や、すなわち自分の意思とかっていうもので自分を支配し、コントロールしようとする。それは常に、あっちを押さえればこっちが破れ、こっちを押さえるとあっちが破れっていうふうに、収拾つかないようになるものなわけでして、不可能でありますが、不可能であるだけでなく、それは罪なのだということを、やっぱり教えられなければならないなと思うんですね。

神ご自身の支配の下に私たちがひれ伏す、神さまのご支配を従順に受け取ること、そこにだけ、聖書が言う義とされる秘訣があるわけであります。
神さまの前に義とされるんですね。救いというのはそのことにつながっているものですね。

ヨハネの福音書14:12
12まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

イエス様を信ずる者は、イエス様が行なうわざを行ない、それよりもさらに大きなわざを行なう。ここなんかも、本当にすばらしいと言いますか、すごいっていうような感じするんですよね。
イエス様は、「あなたがたは、わたしが行なうわざよりももっと大きなわざをしますよ。」と仰ってるわけであります。

テキストからすっかり離れてしまいましたけれども、いかにクリスチャン信仰史上、最初の殉教者ステパノとはいえ、ステパノについて考えるよりもやはり、イエス様のことについて考えることのほうが益が多いようであります。
また私たちは、イエス様のすばらしさを思い見ると、確かに心の中に喜びが出てまいります。

やはり福音っていうのは、弟子たちがなにをやったかではなくて、主ご自身のすばらしさ、偉大さ、主のこの絶対的な謙遜にあい、そこに現われてくる主の人格と言いますか、完全な人格、そういうものを知るということが、何よりであるように思うわけであります。

聖歌の中に、「主イエスを思うとき、この心は喜びの海に浸るが如し。」というすばらしい歌があります。確かにイエス様のことを知れば知るほど、私たちのうちは満たされてくるという実感をもつのであります。
ステパノも霊のまなこを開かれて、このイエス様を知るようになり、永遠のいのちの確信を握るようになり、本物の朽ちない希望を知るようになったことによって、この世と自我の束縛から根本的に解放されていったに違いないのであります。
ステパノの記事でもっとも印象的なのは、6章の15節だと思いますけれど。

使徒の働き6:15
15議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

議会の席から、ステパノの顔が光り輝いて、御使いのような顔に見えたっていうことなんですね。イエス様の救いにあずかることによって、ステパノはこの世から引き上げられたように、すでに天的存在のような光を内側から発していたわけであります。
特に、命を懸けてこの証言の場に立っているわけですから、彼の内なる霊は激しく燃えて、それが彼の顔の表面に現われてきてるわけですね。光り輝いているわけであります。

コリント人への手紙第II、3:16-18
16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

(テープ A面 → B面)

使徒の働き6:12-14
12また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った。
13そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
14『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

この訴えに対して大祭司は「そのとおりか。」と尋ねた。そう言うのはその7章の始まりであります。ステパノはこの長い弁明の中で、アブラハムから時を越してるんですね。
イスラエルの父と言われるアブラハムから、時を越してモーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンまでのイスラエルの歴史を振り返るわけであります。

使徒の働き7:2-5
2そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、
3『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。
4そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、
5ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。

以前、吉祥寺近辺の姉妹たちに誘われて、創世記を6年ぐらいかけてご一緒に学んだことあるんですね。
それが終わってから、今度は出エジプト記を学ぼうって話になって、ですからぼくは10年ぐらい、毎月1回、姉妹がたの集会に出かけて行っちゃ、一緒に学んだことがあります。
アブラハムがカランに住む以前となっていますけども、アブラハムって人は、創世記を読むと、ウルという町に住んでいたというふうに書かれてるんですね。
今のイラクです。イラクの南方にウルという町があって、そこは月神、月を神として崇拝するという、偶像を崇拝の盛んな地であったと言われております。

むかし、ある伝道者の兄弟が語られたことによると、乙女の、未婚の娘の心臓をえぐり取って捧げるという。そういう儀式が行なわれていたと言われている所だそうでありますけども。
そういう所にいたアブラハムの一家を、神さまは、カナンの地、今のパレスチナの地に導こうとなさるんですけども、カナンの地に行く前に、カランという所、ユーフラテス川の上流にありますね、聖書地図を見ると今もイラク領でしょうね、ずっと上のほうです。
そこに彼らはまず移って、そこから、アブラハムの父親テラでしたか、そのお父さんが亡くなってから、アブラハムは、甥のロトたちと一緒に、今のカナンの地に、神さまから呼び出されてそこに移って行ってるということが、創世記を見ると出てきますけれども、その辺りのことを、ステパノはずっとそこから時を越しているわけであります。

そしてモーセの出エジプト、それからヨシュアが実際にはカナンの地にイスラエルの民を導き入れたこと。それからダビデの時代になり、ソロモンが神殿を建てたということなんですね。
このソロモンが神殿を作ったというとこまで、彼は話して、いきなり言いました。非常に激しい糾弾の言葉を、大祭司たちに浴びせているんですね。そこがさっき読んでいただいた7章の51節なんですけども、

使徒の働き7:46-47
46ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。
47けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。

ご存知のように、神さまはダビデが神殿を作られるのを許されなかったんですね。彼があまりにも戦闘で人の血を流したから。だから、あなたは神殿を建ててはいけないというふうに神さまは仰ったというふうに書いております。預言者の口を通してですね。
だからダビデは、神の宮を建てたいという願いを持ちながら、自分は建てれなかった。それでさまざまな資財を残して、跡継ぎであるソロモンにその建築を依頼するわけであります。

使徒の働き7:48-50
48しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。
49『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。
50わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』

ここまでステパノはずっと語ってきて、突如打ち切るようにして、イスラエルの歴史について振り返るっていうことは、ここで止めているんですけども、なんでここで止めちゃって、突如こうなるんだろうなっていう気もするんですが、それはさっきお読みした6章の13節で、偽りの証人たちが、「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」、これとの関連があるのかもしれませんね。

この聖なる所というのは、神殿のことなんですから、イエス様が、「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日のうちにそれをおこそう。」と、ご自分の御体のことを仰ったことを彼らは捻じ曲げて、イエス様を訴える口実にしましたよね。
同じようなことをステパノは訴えられているもんですから、このソロモンの神殿のところまで言及したのかなっていうような思いもするんですね。
要するにステパノが結論として言ってることは、引用聖句のところであります。これを結論として述べてるわけですね。

使徒の働き7:51-53
51かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
52あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
53あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

神殿と律法について違反してるというふうにあなたがたを訴えているけれど、イエス様をも私をもそういうふうに訴えるけれども、律法と預言者によって、繰り返し預言されていた方を拒んで、十字架につけたのはあなたがたなのだ。
あなたがたも先祖たちと同じように、いつも主の御霊に逆らっているのだ。これがステパノのここで言いたいことの意味のようですね。律法、律法とすぐ言っているけれど、その律法と預言者は、福音書は証してる。それに、本当の意味で律法に聞こうとしてないのはあなたがたなのだということなんですね。

ローマ人への手紙3:19-24
19さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
21しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

私たちがなにか立派な行ないをするようになって、さっきの言葉で言ったら、完全な自己コントロールができるようになって、どういう条件にあっても対応できるような形になって、もう我ながら、これでなかなか立派なものになった、そういうふうにして、人は神さまに受け入れられるのではないと言ってるんですね。

そうではなくて、神さまのご支配を私たちが受け入れることによって、神さまのご支配を全面的に受け入れ、神さまに従順に、神さまの軍門に降ると言いますか、白旗を掲げて、無条件で神さまの前に私たちがひれ伏すということを通して、神は私たちをイエス・キリストのゆえに、私たちのうちに聖霊をもって住んでくださるキリストのゆえに、義と認め、私たちをみこころにかなった者としてくださる。また聖めてくださる。
それが、神の義っていうことの意味なんですね。

それは律法とは別に、しかも律法と預言者によって示されたものなのだ。すでにそれは律法の中に約束されているものなのだと、パウロはここで言っているわけであります。
ですから、7章でステパノが言ったことと符合してるんですね。あなたがたこそ、律法にいつも違反してるのだと、彼はここで言ってるわけですから。
もう一回、使徒の働きの7章の54節からから見てください。

使徒の働き7:54-60
54人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
59こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

この裁判の席で、栄光の御霊がステパノをおおいました。栄光の御霊がステパノのうちに満ちました。そして天が開けて、と書いてありますね。神の臨在なさる永遠の世界がステパノに現われてきたのであります。
神の右にと書いてありますね。イエス様が人間の姿をとっておられることは分かりますが、いったい神はどんな方だったんだろうかと思いますね。

使徒の働き7:55-56
55聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

確かによく読むと、ステパノは、「神が見える。」と書いてないんですね。「人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言ってるんですね。天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見たと書いてありますね。
ステパノは、神ご自身は見てない。イエス様は人間の姿をとっておられますから分かりますね。この方が、イエス様が神の右に立っておられた。ステパノの目には見えなかったはずでしょうが、心に銘じた神のイメージというのはやっぱり、人のようなお姿ではなかったんだろうかと、私にはどうも思えるのであります。

神と身近に触れた人の記事は、聖書の中に何回か出てきますけれど、ただ彼らは、その神さまのご臨在の前に立たされて、震え上がって、目を開ける気力はなかった。
モーセにしても、イザヤにしてもそうですね。しかしそこにどなたか立っていらっしゃる。
そういう神さまの臨在っていうものを、彼らはおそらく濃厚に味わったに違いない。恐れおののいて、顔を上げることはできなかっただろうと思いますけども、ステパノは、ここで、父なる神の右に立っていらっしゃる主ご自身が見える。そう言っていますね。

あのような激しい糾弾の言葉を、ステパノと思えないほどに激しい言葉を同胞たちに浴びせながら、ステパノは、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」、心からそういうふうに願っていたのであります。
「救われてほしい。その頑なな心を捨ててほしい。心を開いて聞いてほしい。」、そういう、同胞たちに対するステパノの激しい厚い愛の叫びが、あのような、「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっている。」という言葉となって、ほとばしり出たんだろうと思うんですね。

天が開けてという言葉は聖書に何回か出てきます。イエス様が洗礼を受けて、水から上がられたときに天が開けて、御霊が鳩のようにご自分の上にくだってこられるのを見たと書いてありますね。
私たちにも天が開けて、主を仰ぎ見ることのできるときが来るのではないかと、私は思っています。たぶん、いよいよのときに。
自分では立ち得ないほどの、そういうギリギリの、私たちにとっての試練のときに、天が開けて、主の栄光を私たちもステパノたちと同じように見るときが来るのではないかと期待してるわけです。

私たちを支え、力を与えるために、必要とあらば主は天を開いて見せてくださる。いつかも申し上げましたように、私たちはこの三次元の世界に住んでますが、神さまはおそらく無限次元のところにおられ、それを少し開けると、私たちに主ご自身が見える。永遠の世界が垣間見える。そういうことだろうと思うんですね。
私たちにもきっとそういうことを、必要とあらば、体験することがあるに違いないと実は私は思っています。

ペテロの手紙第I、4:12-14
12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。




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