使徒の働き12


蘇畑兄

(調布学び会、2003/08/19)

引用聖句:使徒の働き8章1節-8節
1サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
2敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
3サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
4他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
5ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
6群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
7汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8それでその町に大きな喜びが起こった。

以前も申しましたように、四つの福音書というのはイエス様の言行録であります。
マタイが伝えたところの、イエス・キリストがこう語られ、こういうことを行なったという言行録が、マタイの福音書でありますし、マルコ、ルカ、ヨハネ、みんなそうですね。

使徒の働き。われわれの以前の聖書では使徒行伝と呼びましたけれども、これはまた文字通り、使徒たちの言行録であります。彼らがいったいどういうことを行ない、何を語ったかということを、ギリシャ人の医者、ルカが、いかにも医者らしい客観的なと言いますか、冷静な目をもって、書き記したのが使徒の働きですね。
しかしこの使徒行伝というのは、昔からクリスチャンたちによって聖霊行伝であると言われてきたわけであります。この使徒たちの背後にあって、実際に働いておられるのは、主の御霊である。ですから、使徒行伝というよりは、聖霊行伝なのであるということを言われてるということは以前、ご紹介しました。

確かに、信仰の働きにおいて決定的に重要なことは、言うまでもなく聖霊のご支配に服するということであります。働き人たちが、聖霊の宿となってるクリスチャン一人一人が、常に聖霊の支配というものに、本当に敏感であると言いますか、その支配に服するということなくては、私たちの信仰の働きは何の役にも立たないのだということを、常に覚えておかなければならないですね。
私たちの肉が、肉なるままで出てきたら、それはその働きをまったく汚してしまう。ですからクリスチャンっていうのは、一人一人が責任を負うっていうわけですけれども、イエス様はヨハネの福音書の中で、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらさない。」と仰いましたけれども、その通りであります。

確かに主の御霊こそが、本当の意味での働きの主人公でありますけれども、この使徒の働きの中で、その御霊に動かされて、具体的に活動している中心人物はふたりであります。
よく全体を見てみますと、結局この使徒の働き、28章ありますけども、それは前半がペテロの働きについて、後半はもっぱらパウロの伝道の様子について書き記してるということが分かるんですね。
1章から前半の12章まではペテロの宣教活動、13章から28章までの14章、これはパウロの活動を詳細に記しているんですね。前半の1章から12章のペテロの宣教活動の記述の中に、いわば割り込むような形で、この7章と8章のステパノとピリポの活動が記録されてるってことが見てとれます。

私たちは、この6章のところで、あまりに兄弟姉妹の数が増え広がってきたために、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが置き去りにされるっていう、ヘブル語を使うユダヤ人たちに比べると、どうも色んな配慮が彼らに行き届かないっていう不満が出てきたもんですから、使徒たちが、じゃあ、あなたがたの中から評判の良い、知恵に満ちた人、要するに兄弟姉妹から信頼されてる信仰の人たちを七人選んでください、と言ったもんですから選び出されたと書いていましたですね。

使徒の働き6:5-6
5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6この人たちを使徒たちの前に立たせた。

と書いてありますね。いわゆる執事と言われる人々ですね。
私たちの集会では、監督とか執事とか長老とかっていうことは使いませんので、われわれもピンと来ませんけれども、この中にいらっしゃる、教会から来られた方々は、ごく馴染みのある言葉じゃないでしょうか。
今日は開きませんけれども、執事という言葉は、牧会書簡と言われているテモテでしたか?、の中に、執事っていう人はこういう人を選びなさい、大酒飲みではなくとか、正しい良心をもって、信仰の奥義をしっかり保っている人でなきゃいけないとか、結婚してる人でなきゃいけない、そういう条件をパウロが書き記していますね。

その子どもは、反抗的でない子どもじゃなきゃいけないなんて条件が入っていて、反抗的な子どもをもっていたりすると厄介なことになりますけれども、自分の家庭を治めれない人に集会は任せれないのだと、パウロは書いています。
執事というのはおもに、みことばを宣べ伝える人々じゃなかったんですね。ここで問題になってるような、例えば食糧の配給とか、そういう細々とした身の回りのこと、それをみことばを伝える人々を背後からサポートするような、そういう人々が七人の執事たちだったわけですけれども、多くの兄弟姉妹の一致するところによって選び出されたステパノとピリポを、主は使徒たちに劣らない、いわば伝道の宣教の器として立てていかれるのであります。

彼らは、いつの間にか主によって引き出されて、多くの人々に主の福音を語る、彼らの言葉とその行いに非常に力が伴ってくる、そういうふうにして、彼らはむしろ執事というよりも、みことばに仕えるように段々変えられていってるわけですね。

集会内での兄弟姉妹たちの働きということについては、非常に興味深い、また非常に大切なことですけれども、徐々に主が各人を用い、立てていかれるという過程を私たちは長い集会の歩みから見てまいりました。
本人も気が付かないような賜物が現われてくるんですね。本人はそういうふうに思ってないんですね。自分にそういう信仰の働きの賜物があるなんていうふうには感じていないわけですけれども、様々な機会の中で自然に、人の主から与えられてる賜物が明らかになってくるんですね。そしてそれが用いられていく。

私たちは、ベック兄を通して始められたキリスト集会というところに属していますから、その集会というもの、あるいはいわゆる教会、エクレシアと言いますか、そういうものが、本当に主の生きたからだであるということ、ですから一人一人がそれぞれの賜物に応じて、主の働きをしていかなきゃいけないということ。主の栄光を現わすために、全員がひとつの霊的な建物に組み上げられていかなきゃいけないということ、そういうことを私たちは知っていますね。

われわれのこの集会っていうのは、もうベック兄が一貫して、主のみからだなる教会を建てあげる。一人一人がふさわしい賜物によって、主の働きをしていかなきゃいけない。組み合わされていかなきゃいけない。
それを一貫して、始めっから追い求めてきたところに、集会のパワー現われてきてるような気がいたしますね。
ただ、ですから、兄弟姉妹には必ず賜物が与えられているはずであります。必ずそうなんです。だから、それを用いなきゃいけないんですね。ただ大事なことは、その人に主からの思いが与えられるということのようであります。

よくベック兄姉が言われるように、自分がなにか役割を演じたいというような思いからでは、集会の働きの妨げになってきます。それが霊的な、全体の調和を破ってしまうんですね。
ちぐはぐなところがそこにできてしまいます。不調和感と言いますか、ある違和感がそこに生みだされてくるんです。
そうすると、周りの兄弟姉妹は忍耐を強いられてきます。困っちゃう。だけどもなかなか本人が気が付かない。それを兄弟姉妹たちが、ある時がきて気が付く。そういうふうにして成長していったり、場合によっては、何らかの形でそこから取り除かなきゃなんなくなっちゃう。そういう過程というのを、よくみなさんご覧になってるだろうと思いますね。また、自分の失敗を通して、そういうことを学んでいくのであります。

主から出たものか、その人の、いわば人間的な熱心さと言いますか、人間的な思いなのかというのが、やっぱり大事な区別なんですね。そしてそれはやがて明らかになってくるんですね。必ず明らかになってきます。
ですから、主に呼び出されて、われわれは主の器とならなければいけないですね。熱心かもしんないけども、自分なりの熱心、自分なりの肉なる熱心っていうのは、結局妨げを生み出すんですね。
信仰の働きにおいて大切なことは、やっぱり正しい動機だと思いますね。少しでも、私たちのうちに不純なるものがあると、結局それは全部を壊してしまうんですね。

ですから私たちは、ともすると尻込みばかりするようになるんですけどね。自分の思いじゃないか?これは本当に、自分がなすべきことなのか?ということで、どちらかというと、大胆に出て行くことをしないということが多いわけですけども、その辺りはなかなか難しいことですね。
やたらと出て行っては、むしろぶち壊してしまう、妨げになる。それを恐れて私たちは非常に慎重になる。引っ込み思案になると言いますか。そういうこともあるわけですが。

テサロニケ人への手紙第I、2:3-5
3私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。
4私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
5ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

これがパウロのいつも心にかけていたことだったんですね。私たちの心をお調べになる神を、喜ばせようとして語るのだ。このことの証人は神ご自身なのだと、彼は申しました。
信仰の働きにおいて何より大事なことは、私たちの内側が聖められるということだということなんですね。
前回は使徒の働きの7章の、ステパノの殉教について駆け足で見て済ませました。あんまり長くて、とても一つ一つ見ていけませんでしたから、もう駆け足で見ましたけれども、クリスチャン信仰修行の殉教者第一号がステパノであります。

しかし、冷静に聖書全体を読んで教えられることは、ともすると、殉教ということを、なんかクリスチャンの最大の手柄であるかのように、クリスチャン自身が考えがちであるにも関わらず、聖書は決してそのようには述べていないということでありました。
特別なこととして、聖書はそういうことを取り上げてはいないということですね。肉と霊の違いといった感じですかね。

ペテロは、逆さ十字架刑によって殉教したというふうに言い伝えられていますし、それはおそらく間違いないと思いますね。パウロはローマ市民であったために、十字架刑ということは許されなかった。斬首刑だと言われていますね。
ところが、これだけの使徒の働きを書きながら、ルカは、ペテロの殉教の死についても、パウロの殉教の死についても何事も記さなかった。このことは感謝だっていうことを語ってるですね。

私の存じ上げてる伝道者がいらっしゃいます。あえてペテロやパウロの殉教について書かなかったっていうことは、やっぱりそれには意味があるんだっていうことを仰っていますが、そのような殉教っていうことを、ことさら強調しないっていうところに、聖書の聖なる書物という、字源を改めて教えられる思いでありました。
聖なる方は、ただ神ご自身のみである。聖なるわざは、ただ神のみわざだけなのである。どのようなわざをも、人間は自分の手柄として、信仰の手柄として堂々と胸を張って、神さまの前に持ち出すことはできない。
「さあ、私はこれだけのことをやりました、命を捧げました、ひとつ高い値段をつけてください。」、そういうようなことを許されないのだ。そういうことを、やっぱり聖書は言ってるのじゃないかと思いますね。

「人間はただ乞食のように、恵みを乞う者としてだけ、神の御前に立ち得るのだ。」というのは、ルターの言葉だそうであります。
ルターは、人間のいかなるわざも、神の御前においては取るに足りないものなのだ、無の如きものなのだ、神の尊厳はそのように絶対的なものだっていうことをわきまえた人だったと言えるんじゃないでしょうか。
ルターのこういうような言い方に対して、だからクリスチャン信仰は奴隷的な、奴隷の信仰だなどと言う批判者が、いつも世の中には出て来ますけども、それは逆であって、このような絶対者だけが、あらゆる被造物から、いかなる被造物とも比べることのできない、いわば絶対的な方だけが真に人間を救い得る、絶望から救い得るのだということを、ルターは身をもって知ったからだろうと思うんですね。
私たちと、程度の違いでしかないような神ではない。聖書が伝える神は、人間とあらゆるすべての被造物と、次元を異にする絶対者なのである。そのことを言ってるのじゃないかと思いますね。

先ほど読んでいただいた、使徒の働きの8章は、二番目として挙げられた執事ピリポの伝道の様子を記述しています。7章すべてがステパノの言行録ですね。殉教に至る彼の語ったこと、なしたこと。8章は、この七人のうちの二番目の執事のピリポ、ピリポの伝道を記しているわけですね。
このピリポについては、のちに21章でもう一回出てくるんですね。ついでにちょっと見ておきましょうか。
使徒の働きの7章の21節から。パウロが、最後のエルサレム上りをいたしまして、ここから彼はローマに送られて行く、そのところなんですけども、パウロの最後のエルサレム上りの途中にパウロが寄った場所が、このツロという所ですね。

使徒の働き21:7-9
7私たちはツロからの航海を終えて、トレマイに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
8翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。
9この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。

と書いていますね。ですからピリポはこのときも健在ですね。パウロの伝道生涯の終わりに近いこの頃も、ピリポはカイザリヤにいたと書いてありますね。
ツロ、トレマイ、カイザリヤ。これみんなイスラエルの海辺の町。ちいちゃな町でありますが、カイザリヤにいたとなっています。
ですからピリポについては、もう一度ここに出てきます。私はこの前、ステパノについては8章の始め以外には出てこないなんていうようなことを言いましたけども、使徒の働きではあと二回、名前は出てきますね。ちょっと訂正いたします。
パウロの弁明。ステパノの殉教の死に立ち会ったというパウロの弁明のときに、いっぺんステパノの名前があげられていますし、二回出てきますね。
それ以後の手紙その類には、ステパノの名前は一度も用いられてはおりません。

そこで、この使徒の働きの8章を見ますと、内容はふたつの大きなトピックスからなっているわけです。前半と後半に分けることもできますね。前半の24節までは、あわれむべき魔術師シモンっていう男の話。
もうひとつは、エチオピアの女王カンダケの高官であった、ある宦官の回心の記事が語られているわけであります。今日はその前半の、この魔術師シモンという人との、ピリポやペテロ、ヨハネのやり取りだけをちょっと見てみたいと思うんですけれども。

使徒の働き8:1-3
1サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
2敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
3サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

ここではサウロについて少し触れられていますね。この8章の次の9章から、そのサウロの回心、パウロの回心が出てきますので、ある意味で伏線と言いますか。サウロという人がステパノの殉教の死を一部始終見たということですね。
おそらく怒りをたぎらせて、サウロは激しい憎しみをもってこのキリシタン、キリスト教徒のひとりであるステパノを見つめていたと思うんですけども、このステパノの死に至るですね、一部始終を観察していたこのサウロ。

これが、後に彼に大きな回心の伏線として置かれているということは、間違いないと思うんですね。ある意味でステパノの死を通して、サウロという人物がパウロに生まれ変わっていくというふうに言っていいかもしれませんけれども、それがこの8章の序論みたいになっていますね。
ステパノの殉教の死をきっかけとして、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こります。当時は教会というのは、エルサレムにしかありませんから、後にエルサレムが、母教会と言いますか、最大の母教会となり、アンテオケに異邦人伝道の拠点がパウロやバルナバを中心にして置かれますね。

この時点では、エルサレムしか教会がないわけです。激しく燃え盛ってる火を消そうとして、木の枝を切ってきて叩くようなもんでしょうか。そうすると火の粉が飛び散って広がっていくように、この信仰は、迫害者たちの思惑とは違って、イスラエル全土へ、全世界へと広がっていくわけであります。
このピリポは、8章の4節からもう一回見てください。

使徒の働き8:4-8
4他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
5ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
6群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
7汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8それでその町に大きな喜びが起こった。

ピリポもステパノと同じように、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていたとあります。彼の言葉とわざに力が満ちていたんですね。
ですからサマリヤって言ったら、ユダヤ人と犬猿の仲の町ですけれども、その人々がやっぱりピリポの語ることに真剣に耳を傾けたわけですね。御霊の働くときに、人間のそういう思いなどを越えて、人の心は捕らえられていくということでしょうか。

確かに私たちにもそのような力があって、苦しんでる多くの人々の病をいやすことができればなと思うことがないのではありません。
「汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。」と書いてあるんですね。
あまりにも多くの人々が長い間、心とからだを病んで苦しんでいるからであります。

確かにああいう人々は、その病から解放してあげることができたらどんなにいいだろうと、誰もがやっぱり思いますよね。この時代の聖徒たちは、その力が与えられていたわけですから。
しかし、そのような不思議を行なう力への願いは、やはりサタンの誘いのような気がするわけであります。あのエバを誘って、知恵の木の実を味わわせたサタンの声なのじゃないかという気がするんですね。
ただ真理のみことば、光である主のみことばだけでいいのだとしなければならないに違いありません。病のいやしは一時であり、たましいの救いは永遠のことであります。

言い逃れのように聞こえるかもしれないけれども、これがやはりクリスチャンの立ちどころでなきゃならないだろうと思うんですね。
確かに辛そうであるし、大変である。本人だけでなく、周りの人々も永遠と続く、その重荷に耐え難い思いをなさるかもしれない。イエス様のおられたこの時代、弟子たちのこの時代は、彼らはそれをいやしたわけですね。
ですから今も、そういうことに熱心な伝道者の方々もいらっしゃるようですね。そういうところを強調なさった。しかしその結果は、決して良くない。これがベック兄の警告ですね。そういう働きの結果は、少しも良いものは残らない。むしろ危険である。そういうふうに仰っています。

ですから私たちは、罪と罪の悔い改めだけを説かなければいけないということだと思いますね。ただ、非情なような気がしますけれど。それがどうも聖書の、私たちに伝えていること。
私たちの立つべきところとして、教えてることなのじゃないかという気がいたします。
8章の9節から24節は、魔術師シモンという人物についての記述であります。

使徒の働き8:9-11
9ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
10小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
11人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。

魔術というのは、いつもあるような、いわば偽診療、偽のでたらめな、いい加減な診療業務を施すことや、呪術を行なっていたようであります。そして人々を騙していながら、なにか本物であるかのように振舞って、自分を人間以上の者と自称していた。
大能と呼ばれる、神の力だというふうに自称していた、いわばやましい的人物ですね。詐欺師であります。

ここ十年くらい、日本でも次々とこういう人々が排出しましたよね。本当にこの十年というのは、すべて奇妙な十年でしたですよね。失われた十年なんて普通呼んでますけども、その、バブルが崩壊する前後からの十年間というのは、やたらと奇妙な人々が出てきましたですね。
われわれの学生時代までは、マルクス主義という巨大なイデオロギーがあって、それとしのぎを削っていたんですが、そのマルキシズムなるものが音を立てて崩れてしまった後には、奇妙な、そういう宗教的ないかがわしいものが次から次に出てきましたね。

あのようなでたらめな人物に、多くのエリートたちが絶対服従して、ついていくんですね。破滅へ至らされるわけですから、人間というのは、いかに狂気に陥りやすいかということですね。考えれば考えるほど、唖然とするわけであります。
この魔術師シモンは、滑稽なところがあるというべきかもしれませんね。多くの人々がピリポの言葉とわざに驚いて、ピリポに注目をして、尊敬してついて行くので、自分のその人々の群れに加わって、よく分からないままに一緒にバプテスマを受けて、仲間になったつもりでいたのであります。
そして、ピリポのこの奇跡に驚いて、自分のあのような奇跡を行なう力がほしいものだと願っているのであります。

使徒の働き8:12-17
12しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
13シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
14さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
15ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
16彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
17ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

しかし、考えてみるとすごいことですね。ユダヤ人と本当に犬猿の仲であったサマリヤ人。挨拶すらしないようなサマリヤ人たちが、イエス様を信じてバプテスマを受けるようになったと言うんですから。
これは大変なことだったろうと思いますが、そこで、エルサレムの教会ではペテロとヨハネを遣わしたということですね。
このエルサレムの教会の中心人物は、イエス様の弟のヤコブです。ヤコブがエルサレム教会の、もっとも重んじられていた兄弟だったんですね。

そして十二使徒の筆頭であったペテロがいたわけですから、このエルサレムの教会は、ペテロとヨハネをわざわざサマリヤの町に遣わしたわけであります。
魔術師シモンは思ったでしょうね。ピリポよりも偉い男がやって来たのか。なんせ、人を偉いか偉くないかで見る男ですから。もっと偉いやつがいるか、ということでしょうね。
ピリポから、もっとも偉いらしい二人に乗り換えたんじゃないでしょうか。さっさと。そして、ペテロとヨハネに付きまとって、離れなかったようであります。

使徒の働き8:16-17
16彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
17ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

と書いてますね。
この記事は、ぼくにはよく分からないんです。どういうことを言ってるのか、意味がよく分からないんですね。なにか、彼らが手を置いたら、外側からだれかが見ても分からない変化が、彼らに起こったのかどうか。そういうことが書いてませんね。
例えばペンテコステのときに、彼らが聖霊を受けたときに異言を語った、主を賛美したということは書いてあります。このあとのほうにも出てくるんですけど、ペテロが彼らの言葉を聞いて突然、聖霊が下って、聞いてる人々が異言を語り、主を賛美し始めたっていうようなことが出てきますが、そういうこと書いてないんですね。ここではね。

聖霊を受けたということは、どうもよく分かりませんね。聖霊っていうのは、その悔い改めとイエス様を信じ受け入れる信仰にともなって、必ず与えられるはずなものですから、一体どういうことなのか、ぼくにはよく理解できないんですけども、聖書には何箇所かこういう箇所が出てくるんですね。
通り良き管。主の用いられる器にはやはり、主の力が強く働かれますね。同じみことばだから、だれが宣べても同じかって言うと、そうじゃないわけですね。
これは、われわれ経験するとおりで、主のみことばに力があるんだから、だれが伝えても同じはずだと言うけれども、実はそうじゃないわけなんですね。そのみことばが本当に、その人を通して、その人の人格を通して働きかける。

そういうわけですので、やっぱりだれが語るのか、だれが交わるのかということは、決定的な意味をもってるようですね。ふたりが主に用いられた器であった。ペテロとヨハネですね。
本当に大きく変えられていた人々でしたから、彼らがこのサマリヤ町に下って、心開いてる多くの人々と交わって、それによって彼らの確信が強められ、霊が強められたっていうことは、もちろんあるだろうと思いますけれども、この箇所はよく理解できないところであります。

しかしここでの問題は、魔術師シモンがただ他の人々以上に能力を身につけて、人々から偉大な人間、人間以上の存在として崇められたいというところにあったということなんですね。
この魔術師シモンの関心がここでの問題なんです。彼は今までずっとそういうふうにして生きてきた人であります。人々を驚かして、自分を偉大な者だと思わせる。そういう人間でしたから、自分の力以上に本物のピリポの力を見て、自分はいわばいかがわしいんですから、彼のやってる事実とか、偽診療というのはでたらめなんですから。
ところが、彼はピリポのやってることを見て驚いたんですね。これは自分の知らないですね、すごい力だ。

乗り換えようってわけでしょ?こっちがいいと。そうしたらもっと自分は人々の関心を引く者となる。もっと人々に崇められる者となる。そういうことですよね。
この魔術師シモンは、この願いを赤裸々に表現して恥じなかったんです。あまりにも正直と言うべきか、幼稚と言うべきかですね。

使徒の働き8:18-19
18使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
19「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。

よくも言うなと言いますか、みなさんどうですか。唖然となさいませんか。こういう人もいた。しかしこれは、あまりにも正直と言うべきなんじゃないか。幼稚と言うべきなのか。場所柄もわきまえる力がないのかって、普通思うわけですけども、堂々と金を持って来て、その権威を私にも譲ってくれって言うんですよね。
しかもバプテスマも受けたっていうんです。

かつての十二使徒たちは、互いの間でだれが一番偉いかっていう論戦を行ないましたね。それでも、イエス様にそのことを問われると恥じたのか、口をつぐんだと書いてあるんです。

マルコの福音書9:33-34
33カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」
34彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。

彼らはさすがに、イエス様にそのことを問われたときには、口をつぐんだんですよ。自分たちの間で集まってはいつも背比べばっかりして、「あれより上だ。おれのほうが上だ。」とか、そういうことしか関心のないって言いますか。本当に十二使徒たちですね。
ところがこの魔術師シモンは、それを恥じることもなかったんですね。人間が人間以上の存在になろうとすること。しかもそのことによって、人々の賞賛を得ようとすること。この願望は、・・・・・

(テープ A面 → B面)

そういうふうな願望がもっとも恐ろしい罪なのでしょうか。このことについて深く考えていく必要があるんですね。
というのは、人間はこの魔術師シモン、今さっき言ったように、幼稚だろうか、あまりにも正直だろうかと言いましたけども、人間の本質にすくってる願いというもの、これによって人間は突き動かされている。そしてほとんどの場合、それによって人間は破滅の道を辿って行く。
小さい問題であればお互いの間の争い、ねたみ、そねみ、そういうものから、最後は多くの、人間的に見たら優秀な連中が破滅への道を辿って行く。それはこのシモンのもっている願望にほかならないんですね。

私たちは小さいうちから、一生懸命勉強しなさいと教えられたり、立派な人間になりなさいってなことを教えられますが、一歩間違うとこのシモンと同じですね。
それこそ、人並み以上っていうのはまだいいけれども、人並み以上どころか、人間以上の存在と言いますか、そういうものに人間が心を向けていくと言いますか、そういうことを通して破滅していくっていう、そういうわれわれ人間の歴史ってのは、そういう人々の屍、死屍累累と言いますか、そういうふうに言って間違ってはないと思うんですね。

ですからこの魔術師シモンという男は、重大な問題と意図してるわけです。何ゆえにそれが恐るべき罪なのか。聖書が警告して止まないところの、私たちはそこから救い出さそうとするところの問題なのか、ということを、私たちはよく知らなければならないということなんですね。
第一に、人間は決して人間以上の存在にはなり得ないということですね。人間以上の存在、神さまのような存在、神秘的存在とでも言いましょうか、人間を超えた、神さまのような存在にはなり得ないという事実であります。
これは事実であります。人間は死を免れ得ない有限な存在であること。自分の生死を左右できないだけじゃなくて、イエス様が仰ったように、髪の毛一筋、白くも黒くもできない、無力な存在だということであります。

私たちの生存を支えてる水や空気や食物というもの。それによって、われわれ支えられますけども、それらを吸収する私たち自身のもってる味覚とか嗅覚とか、そういう機能すら、実は私たち自身の力の及ぶ範囲外のものなんです。
私は、求道中の頃でしたけども、食欲をまったくなくしてしまったことがあって、物の味がしないんですね。自分のこの舌の味がしないって言いますか。そういうことあるもんかと思って、驚いたことがあります。
色んなとき、おひとりおひとり経験なさるだろうと思うんですが、いつも、ご馳走は美味しいわけじゃないんですね。全然それが飲み込めないと言いますか、食べる気すらしないっていうことはいくらもあるわけですね。

そうなってくると、自分の舌の感覚なのに、どうにもならない。結局、まったく無力なんですね。自分の体の機能でありながら、もう自分には手も足もでない。そういうものだっていうことを気付かされるわけです。
インドから伝わるヨガなんてのがあって、人々を引きつけたりしますでしょ。なんかヨガでもやったら人間離れした人間になれるんじゃないかって。自分の身体機能を、思いのままコントロールできるかのように宣伝するんですけどもね、そんなことはできっこないんですね。
だから、自分の体を自分でコントロールしようなんていう、愚かなこと考えないで、神さまを恐れて、正しく歩むっていうことなんですよ。大事なことは。

それこそが健全な、あるいは健康の秘訣だと聖書は言ってるわけで、なにか自分の思いが思いのままにこうできる、それが優れた能力の証しであるかのように考えますけど、それはまったく間違いですね。見せかけではそう思うかもしれませんけども、本当はそうじゃありません。
ですから私たちは、そういうのに目もくれずに、私たちの身体機能を与え、人間医学がどんなに発達しても、医学のとらえない、この神秘だと言われてる人間のこの体。こういうものも、全部神さまが私たちに与え、神さまがご支配なさっているものであります。
ですから、主の前に、私たちは正しく立つということ。これがあらゆることの基本なのだ。大切なことはそれなのだということを、聖書は教えてるんですね。

人間はそういう意味で、徹底的な無力な存在であるということ。とてもそれをジャンプした次元の異なった、神秘的存在なんかになり得るかのように言うのは、それは、まったくの誤解であるということ。幻想にすぎないってうことがまず第一であります。
第二に、人間はそういうものになり得ないだけでなく、神さまの存在、神秘的な存在っていうのは、ただ神にのみ耐えられうる立場だっていうことであります。
すなわち、神が占めておられる地位と言いますか、それはただ、まことの神のみが占めることのできるようなもの。他の一切の被造物には耐えられないようなもの、地位であるということであります。

ちょっと意味が通じづらいかと思いますけども、万物の存在の意味と価値の源泉は、神のみが用いるものであって、いかなる被造物もこれをもち得ない。源泉たり得ないんですね。
うまい例えがないんですが、例えば小さな子どもは大会社の社長の立場には耐えられません。
同じように、被造物というものは、どんなに神さまを装うとしても、それは耐え得ない。被造物には耐えることができないような立場なのだということであります。

第三に、人々からの賞賛っていうものは、究極的にはやはり、あてにならないものなのだということですね。世間の人気っていうものほど、うつろいやすいものはない。
どんなに熱狂して支持する群衆も、明日になってくると、全然違ってくる。それは聖書を見ても分かるとおりであります。
またそれは、必ずしも真実の評価に基づいていないということ。また、人の賞賛というものは、その、永続的なものではむしろあり得ないからであります。
イザヤ書の14章に、恐ろしいことが書いてあります。

イザヤ書14:12-15
12暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
13あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』
15しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

この箇所は、バビロンの王に直接語られていることばだと言われてますけど、昔からクリスチャンは、悪魔が、天使が悪魔に落ちていった、その理由であるというんですね。

イザヤ書14:13-14
13あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
14密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

神のようになろう。

イザヤ書14:15
15しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

人間の内にある恐るべき思い。自分を人間以上のものにしようとするこの思い。これが実は悪魔の本質につながっているんですね。人間の心の奥底を下っていき、そこを見ていくと、果てしのないと言いますか、震源みたいな何が出てくるか分からないっていう感じがしますでしょ?みなさん、いかがですか。
自分の心の中を見ていくと、本当にそれは深い淵ですよね?何がこう、湧き出てくるか分からない。そういうものであります。人間の・・・悪魔によって、罪の中に引きずり込まれてる人間の本性の中には、この悪魔の性質が宿ってるんです。だから私たちはですね、ゾッとするわけですね。これから逃れなきゃいけないと思うわけですね。

マタイの福音書の4章。悪魔がイエス様を誘惑したときの記事でありますが、

マタイの福音書4:8-10
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

悪魔は一瞬にしてこの世のすべての栄華を見せたっていうんですね。イエス様の前に。恐るべきことですよね。この世の栄誉、栄華を一瞬に目の前に見せられて、これをあげよう、私を拝むならと言われたら、みなさんどうですか?自信ありますか?NOと言えますか?
ぼくなんか自信ないですよ。思う度に恐ろしいなと思いますね。

「引き下がれ、サタン。」
実はぼくは、今、ちょっと小さくなって外してるんですけども、婚約指輪に、この4章の10節を刻んでるんです。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
悪魔の誘惑はこういうもので、とてもではないけれど、これは太刀打ちできないっていう恐れがあるからなんですね。あのアダムとエバなどは、一言でこれにハマッっていったんですよ。
イエス様だけですよ。「下がれ、サタン。」と言えたのは。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』、イエス様は全身全霊をもって、ここに立たれたんですね。

要するに、栄誉、栄華っていうのは、この世の人々の賞賛ってことでしょ?
最初、さっきお読みした、バビロン王へのあのことばは、彼の傲慢ですよね。人間以上のものになろう。神のようになれますよと言って、木の実を食べたのがエバでしたね。あの知恵の実を食べてごらん、あなたがたは神のようになるから。恐るべきことでしょ?
人間の悲劇はここから出てくるわけですね。破滅はここから出てくるわけです。

ヨハネの福音書5:41
41わたしは人からの栄誉は受けません。

これ、イエス様のおことばですね。

ヨハネの福音書5:44
44互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。

お互いの栄誉は受け合いながら、お互いでお互いをほめ合いながら、しかし神さまの前に出ようとしない。神さまの評価、神さまの栄誉を求めようとしない。あなたがたにどうして信ずることができようかと、イエス様仰ったんですね。

ヨハネの福音書8:54
54イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。

父が、神ご自身が良しと仰らなければ、この地球上の人たちが全部良しと言ったって、それは全然意味がないんですね。神さまが受け入れられなければ、人がどんなに賞賛しようと、それはむなしいではないかと、イエス様は仰るわけであります。

ガラテヤ人への手紙1:10
10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

パウロの決意ですね。人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えない。彼は常にこの心構えをもっていたということですね。

魔術師シモンの中に赤裸々に現われているあの願い。そしてあらゆる人間の、いわば本質とすらなっているところの、この恐るべき性質。果てしなき自己拡大と言ってもいいですかね。
バビロン的自己拡大という言葉があるそうでありますけども、バビロンっていうのは、果てしなく自己拡大をしていこうという国だった。それが破滅に至るわけですけれども、真理っていうのは、それとは反対の極にあるわけですね。すなわち、自己否定にあるわけでしょ?
自己拡大、自分というものを人間以上のものとしようという、この恐るべき願望。それと正反対のところに聖書の真理が指し示されているわけですね。自己否定ですよ。

私が大切ではない。そういうことに気付かされるときに私たちは本当に驚きますね。腰を抜かしそうになります。自分がひたすら追い求めて来た生き方と正反対の方向に、実は真理というものはあるのだ。
それが一言で言うと、愛と言ってもいいですね。自己否定。自己放棄。謙遜。
そういうところを聖書は指し示していますね。

コリント人への手紙第I、13:4-9
4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
6不正を喜ばずに真理を喜びます。
7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
8愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
9というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

コリント人への手紙第I、13:13
13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

人間は逆立ちした状態から突っ走っているんですね。そこに人間の罪というもののもってる、どうにもならない性格があるわけなんですね。ですから私たち人間は、この魔術師シモンのようなあり方から、状況から救い出される必要があるのであります。
不可能な幻想を抱いてみたり、破滅に至る誤った野心に導かれたり、むなしい賞賛を追い求めるという人生から、真理に根ざした人生に立ち返らなければいけないですね。そこにだけ揺るがない生き方があるからであります。
真理に根ざした人生。それが、今言ったように、聖書が示している自己否定。神とひとつに仕えるという、そこに立つ。信仰の人生とはそういうことでありますけれども、そうでなければいけないと聖書は伝えてるわけですね。

ピリポやペテロ、ヨハネたちが伝えている救いの福音というのは、そのことを言っているにも関わらず、この魔術師シモンは、逆にこの信仰にともなうすばらしい力を用いて、自分のその愚かな野心を遂げようと願ってる人物なんですね。そのために金を持って来て差し出したんです。
信仰という霊的な事柄を利用して、この世的な野心を満たそうとするところに、昔からいわゆる宗教家と言われる人々の世界の、腐敗の原因がありますね。

神さまを恐れなかったら、信仰とか宗教と言われるものほど恐ろしいことはないですよね。神の名を語って、人々の上に君臨して、欲しいままにふるまうんですから、さまざまな偽宗教がどんなに恐ろしいかっていうことを、私たちはもう、嫌というほど、見せられてるわけです。
神さまの名を語って、それを自分の欲を満たすために神さまの名を用いるということ。これほどに神さまに対する冒涜はありませんから、神のさばきはそのような人々に対して、もっとも厳しいわけであります。

ヤコブの手紙の3章の1節にはヤコブはこう書いていますね。

ヤコブの手紙3:1
1私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

警告を発していますね。主の前に責任が重大である。少しでも、わたくししてはならないということなんです。神さまのわざを、神さまのものをごまかして、自分のものにしてはいけないということなんです。
神さまのさばきは免れないから。だから、多くの者が教師になってはいけないのだと、ヤコブは言ったんですね。
お門違いというのは、この魔術師シモンのことであります。自分の入るべき門を間違えて入った人物ですよ。これはね。

使徒の働きの8章にもういっぺん返って、

使徒の働き8:20-24
20ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
21あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
22だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
23あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
24シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

ペテロはおそらく初めて、この魔術師シモンを見たときに、見抜いたと思います。彼がどういう思いをもっているかですね。

使徒の働き8:23
23あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」

ペテロはそのときに、ああシモンが、そのとおり自分の本性を現わしてきた。それを彼は見てるわけですね。苦い胆汁と不義のきずなの中にいることがわかっている。ペテロの目から見ると、この魔術師シモンという男は、まるで泡縄によって縛り付けられているように、苦い胆汁と不義のきずな、それが泡縄でグルグル巻いてるように、彼はその中にいるということなんですね。

コリント人への手紙第II、6:14-15
14正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
15キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。

コリント人への手紙第II、6:16
16神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

光の中に暗やみをまとった人物が入って来ました。しかも彼はそのことに気が付きませんでした。そういうのがちょうど、この魔術師シモンなんですね。彼の心の中には、みことばの光はまったく届いていないようであります。
あのアナニヤとサッピラは、自分たちの偽善と欺きが罪だということに気付いておりましたから、それを隠そうとしたんですね。自分たちの地所を売って来て、その代金を半分残しておいて、一部持って来て、「はい。全部です。」と言った。
そのときに彼らは分かっていたんですね。それが欺きだということが。だから、彼らはそれを一生懸命隠したんです。それは彼らに御霊が宿っていたからであります。だから彼らはそのことに気が付いたんです。

しかしこの魔術師シモンには、そのかけらすらないんですね。彼はそれが悪事などとは思っていない。とんでもないことだとは思っていないからです。彼はまったくこの群れとは関係のない人物であります。
光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょうと言われてる人ですね。

そういう意味で、この魔術師シモンという人は、じつにあわれむべき人物なんですね。人々を欺き、幻惑することを仕事としてきた彼の良心は、人一倍鈍麻していたようであります。
福音のことばに触れ、罪を指摘されていながらも、全然彼は感じなかったようであります。魔術という偽りのわざが、それを行なう人間を偽りによって塗り固めてしまうんでしょうね。だから魔術というものが警告されているわけですね。
魔術と言ったって、実際に魔術なんてことは人間にできないんですから。ごまかしなんですから。

ところが、人をごまかすということが習い性になってくると、聖書の真理のことばを語られても、その人の良心には届かないんですね。麻痺してるわけであります。
自らの良心を欺かない真面目さっていうことが、やっぱりどんなに大事かっていうことだと思いますね。嘘八百並べて、儲かればそれでいいっていうような、そういう商売をしてる人々も世の中にいっぱいいるだろうと思いますけれども、そういうことやってると、人の心っていうのは、真理に対して本当に鈍感になってしまう。そういうことが言えるんじゃないでしょうかね。

コリント人への手紙第II、4:1-4
1こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
2恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4そのばあい、この世の神が

この世の神っていうのは悪魔のことですよ。これは。そのばあい、この世の神が、悪魔が、

コリント人への手紙第II、4:4-6
4不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、この魔術師シモンという、本当にあわれな一人の男を通して、人間の内に潜んでる恐るべき問題がなにかっていうことを、知ることができるわけです。
そしてそれからの救いこそが、キリストの福音にほかならないということを、ここで確認する必要があると思うんですね。
じゃあ、今日は半分までいきましたけども、これで終わります。




戻る