使徒の働き13


蘇畑兄

(調布学び会、2003/09/25)

・・・初代教会の最初の七人の執事として選ばれた中の一人、ピリポの伝道について記している箇所であります。
ピリポの伝道については、使徒の働きの中で8章しか扱っていないんですね。
この前申し上げましたように、ほとんどはペテロとパウロの伝道の働きが、この使徒の働きの全体をカバーしてるわけですけれども、その中に、このステパノとピリポの話が挿入されたような形で、7章と8章に入っているということであります。

そしてこの8章の後半部分、25節から40節にあたる部分は、お読みすると明らかなように、そのピリポが、エチオピアの女王、カンダケの高官である、ある名前の記されていない宦官を導いたという話であります。
このピリポの働きについては、実は、五月の御代田の喜びの集いで、ベック兄が圧倒されるような深い学びをされました。
是非、まだ聞いてらっしゃらない方は、テープを取り寄せて、お聞きくださるようにお勧めしたいんですけども、ちょうどこの箇所を学ばれたのであります。
私はそれを聞きながら、それは私がここを学ぶこと必要はない、学ぶことできないなと思いながら、実はお聞きしておりました。ですから、是非ですね、そのテープを聞いてください。

そこでベック兄が語られた学びのポイントは、ピリポの伝道の視点についてでありました。
バンクーバーですか、そこに喜びの集いでいらっしゃったときに、今回はバンクーバーの市内に建っている、陸上の短距離ランナーの有名な銅像の写真を私は正面から撮りました。
「主は生きておられる」の第何号かに銅像の写真が出ていますけれども、そのランナーの目は、真っ直ぐに前だけを向いていたということでありました。

そして、このランナーのように、ゴールを目指して、ただひたすら真っ直ぐ前を見て、走らなければいけないと、改めて自分は思わされたのだということをそこで語っておられました。
主のみこころのままに、何十里の道のりもいとわないで、それこそ埃にまみれながら、東奔西走するピリポの伝道の姿勢に私たちも大いに学ばなければならないと、そういう主旨の、ベック兄ご自身の伝道者としての覚悟のほどが、そこにオーバーラップして、非常に強い感銘を受けざるを得ないようなメッセージでありました。是非、お聞きいただきたいと思います。

それでは少し、ちょっと表面的なことになると思いますけれども、見ていきたいんですが、今日は25節からですね。

使徒の働き8:25
25このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。

使徒たちというんですから、この8章の前半に出てくるペテロとヨハネのことでしょうけれども、たぶんピリポも一緒にサマリヤの地域から、エルサレムへの帰途についたということなんじゃないでしょうかね。
イスラエルの国っていうのは、一番北のほうにガリラヤ地方ってのがありますね。ガリラヤ湖を中心にしたナザレの町。そこにあったんです。イエス様が育たれた。そしてその次がサマリヤ地方ですね。
そしてそのあと、一番南がユダヤっていいますか、エルサレムを中心にした地域になっていますね。全体で四国ぐらいの大きさだと言われてますから、ちいちゃなところですけども。

ガリラヤ、サマリヤ、ユダヤという三つの大きな地域に分かれているわけです。そこで特にサマリヤっていうところに、サマリヤ人と言われる、イスラエルの聖徒的な人々からはいつも見下げられていた、軽蔑を受けていた、雑婚させられて、むかし純粋のユダヤ人ではない、人々が住んでいたわけですね。
そしてそこにさまざまな異邦の習慣が入り込んで来たために、イスラエル人たちは、サマリヤ人を非常に軽んじた。軽蔑した。挨拶すらしてはいけないというふうに考えていたですね。
犬猿の仲にある人々だったんですけども、そのサマリヤの多くの村々でも、福音を宣べ伝えながら、彼らはエルサレムに帰って来たということであります。

ところが、主の御使いを通してピリポに、ガザへ下る道へ行くようにという記事が26節に書いてありますね。

使徒の働き8:26
26ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)

当時の古いガザということがありますけども、ガザの町も古いのと新しいのがあったらしくて、古いガザ、荒れ果てたガザと呼ばれていたと書いていますが、今日で言えばあのパレスチナガザ地区ですよね。
今盛んに、イスラエルとパレスチナとの間の紛争のひとつの拠点となっていますけども、海に面したガザ地区というのがありますね。
あのガザ地区は今、イスラエルが高い壁でおおうとしているわけですね。境界線を作って、そこに閉じ込めようとしている。
それでまた、反発を招いてるわけですけども、そのガザ地区。その辺りに、ガザと言われる小さな町があったんでしょう。

エルサレムからだいたい二十里くらいの距離になります。その道がアフリカに通ずる主要街道だったようでありますから、いわば、ガザ街道とでも言いますか。そこに出てきなさいという御使いの指示だったと書いてあります。
ピリポはその指示に従って、そこに出て行きますと、そこにエチオピアの女王、カンダケの高官である宦官が、馬車に乗ってイザヤ書の53章を読んでいた。というふうに書かれております。

使徒の働き8:27-28
27そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
28いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

と書いてます。カンダケというのは、私の持っている大きなコンコーダンス付きの聖書の注によりますと、エチオピアの女王の世襲的称号だそうだあります。
ちょうどパロという名前が、エジプトの王の世襲的称号であります。ローマ帝国の皇帝をカイザルというふうに呼ぶような。日本のも同じですね。日本の天皇も同じですね。天皇という名前が世襲的称号であります。
そういうふうに、エチオピアの女王も称号がカンダケという言葉だそうです。

そしてここに、新約聖書でただ一度だけ現われてるように思われる宦官という言葉がきてまいります。
私はこの言葉がどうも引っかかるんですね。この「宦」という字自体、あまり見慣れない字ですよね。ウ冠。家の中に、「臣(しん)」という字があって、これ、家来のことですけども・・・。

要するに、宮殿の中で王に仕える家来のことでありますけども、しかし宦官というのは、ご存知のように去勢された男性のことであります。
このような宦官というような存在は、日本の歴史ではほとんど聞いたことがありませんから、日本の歴史上には、存在しなかったんじゃないかと思いますけども、いかがでしょうかね?
なかには、そういう場合があったかもしれませんけれども、われわれの国にはほとんど存在しなかったですね・・・何て言いますかね・・・役職と言いますか。その役職に就く男性ですね。

前後しますが、旧約聖書には実は頻繁に出てくるんですね。そして、中国の王宮では、古来当たり前のものとして存在していたようであります。だから、このような文字を作ったんだと思いますね。中国では。
この宦官というのは、王の財産を管理したり、側に仕えたり、色々な約束もあったようですけども、特に王の後宮、いわゆるハーレムを管理、監督する役目があったわけですね。
ですからこういうような去勢をされた男が人為的につくり出されてきたわけであります。おぞましく、非人間的な話であります。

この宦官という非常にこう悲惨な、この役に就かされる男たちは、その役目柄、王宮の奥深くに潜り込むわけですから。しかも、王の寵愛を受けてる側室だとか、妃だとか、そういう人との間にコミュニケーションが、密なコミュニケーションがどうしてもできますから、ドロドロとした権力抗争に絡んで、暗躍をするようになるわけですね。
ときには自ら王の殺害を実行するような陰謀実するにたけたものができてくるわけです。

旧約聖書の中に、宦官が王を殺したという記事が出てきますけども、そういう、王を殺す、広辞苑なんか引きますと、中国の歴代の王朝ではもう頻繁にそういうのが、暗やみの子と言いますか、非常にこういびつな人間性が見いだされてくる。そういうのが宦官だったそうなんですが、ちょっと短く書かれています。
歪められた人間性から当然、そういうようないびつな性質をもった人間が出てくるんですね。

興味深いことは、聖書はこのような、去勢という人為的、作為的なことがらを、動物に対してすら禁じているということなんですね。
人間に対しては許していないというところが、われわれの目に留まるわけであります。

レビ記22:24
24あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主にささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。

牛や羊をささげる場合に、去勢されたものをささげてはならない。動物にそういう去勢を施してはならないことも書いてあります。

申命記23:1
1こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。

こう言えば宦官のような人間っていうのは、主の集会に加わってはならない。こういう厳しい定めを聖書は記しているわけですね。
ですから、宦官という役人の存在自体が、非聖書的、異教的な制度であり、聖書を知らない、聖書から離れた、まことの神さまを知らない社会のですね。
いわば、残酷な性格を現わすもののひとつだったと言うことができるんですね。

子どもを火で焼いてささげたり、乙女の心臓を祭壇にささげたりというのは古代の、特に中近東世界の普通のことだったようであります。
ですから、旧約聖書では度々そのような、異教のおぞましい風習に倣ってはいけないという、主の警告が繰り返されているわけであります。

聖書のまことの神が、このような人間を犠牲にして、祭壇にささげるっていうことを一度として許しておられないということ。これは古代の、さまざな宗教儀式の中でまったくユニークな、ただひとつの、聖書の聖書たる所以と言いますか、まことの主なる神の定めだったのだなということを思わされるんですね。
人柱、人身御供ということをどこでも古来は、古代社会で行なわれていたわけですけども。聖書は何千年のむかしから、それをしてはならないと、厳しく禁じているわけです。

申命記12:31
31あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

彼らの異教の風習に染まってはならないと、ここで言われていますね。彼らはその神々に、自分たちの息子や娘を火で焼いてささげることさえしてるのである。
あなたがたは、これから入って行くカナンの地において、七つの部族がいるけれど、その部族の風習に染まってはならない。こういうふうに、主は命令していらっしゃるわけであります。

エレミヤ書32:35
35わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌みきらうべきことを行なうために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた。」

旧約聖書の中には、異邦の王が戦で追い詰められて、どうにもならなくなったときに、自分の跡継ぎの王子を火で焼いてささげたという話が出てきます。
それによって、ある意味で国民の、民の心を一ヶ所に引き寄せて、徹底的な抗戦と言いますか、そこに導くための、要は覚悟を示すっていうところもありましたけども、自分の王子を火で焼いてささげた記事が出てきますけども、こういうようなことを、私たちの主なる神は、まことの神は、決してしてはならないと繰り返し繰り返し、旧約聖書の中にはなんべんも出てきますよね。
このことば、それを命じてられたということなんです。

アブラハムに命じられた、イサクの反対の例があるではないかと、多くの人々は思うかもしれませんが、神さまは許されないんですよね。最後は。
アブラハムの信仰を試すために、神さまは、彼の最大の宝物であるイサクを手放せ、わたしにささげよと命じられました。
目に入れても痛くないような、イサク。自分にとっては命そのものである、ひとり息子イサク。神さまはこのアブラハムの心を、イサクから切り分けるために、主ご自身にまず向けるために、神ご自身をまず何よりもまして大事なものとして彼が見上げるために、彼の手から、イサクを手離せと命じられたわけですね。
アブラハムはこのことばに、即座に従うわけですけれど、

創世記22:9-14
9ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。」、御使いの声が響き渡ったわけであります。アブラハムに神さまが、イサクを焼いてささげよと命じられたという記事だけを聞いている人々は、何て残忍な、残酷な神さまだろうと誤解しかねませんよね。
しかし神さまが、人の命をささげよと命じられたことは一度もないということなんですね。これは私たちはしっかり覚えておかなければならないと思います。

これらのことを見ると、聖書が何千年のむかしから伝えてる神さまの定めというものが、いかに、要はヒューマンなものであるか。人間に対する細かい配慮に満ち満ちたものであるかということが分かると思いますよね。
決して残忍な、残酷なものなどではないのであります。
懲らしめるとき、人を懲らしめるとき、三十九までは叩いていいんですね。四十回叩いてはいけない。処罰を受ける者を、それ以上辱しめてはならないというような規定もありますけれど、そういうことを聖書は私たちがよく読んでみると、決して聖書の掟というものは、現代人の目から見て、野蛮なものなどではないと言えると思うんですね。

いわゆる文明の発達とともに、社会の制度は、人間に優しいもの、ヒューマンなもの、人間的なものに進行したかのようによく言われます。
古代の残酷な制度から脱却してきたと考えられていますけども、それは聖書的な考えがむしろ普及してきた結果、異教的な残酷さが取り除かれていったのであって、聖書の定めそのものは、初っめからヒューマンなもの、人間への十二分な配慮に満ちたものであったと言えると思うんですね。

最近のヨーロッパ諸国では、この人間主義と言いますか、ヒューマニティと言いますか、ヒューマニズムと言いますか、そういうものが極端な形までいってしまった。
例えば、同性同士の結婚を認めるというような法律がどっかでできたというようなことが書いてありましたけども、とんでもないようなことが行なわれています。
それは決して人間を大切にするっていう考えではなくて、とんでもないことであって、聖書はそれを死罪に値すると、むしろ述べているのであって、この規定は決して非人間的なもの、古臭いものなどではないと言わなきゃならないと思いますね。

宦官というような制度に、そういうことすら神さまの定めについて、そういうふうに思わされます。しかし驚くべきことに、人身御供をおぞましいものとして厳しく禁ずる、許さないこの同じ神が、人間の罪の贖いのためにご自分のひとり子を十字架に架けられ、なだめの供え物とされたということ。
このコントラストと言いますかね。それは本当に大きなものですよね。

決して、人間を神さまの怒りをなだめる、供え物として、神の怒りを静めるものとしてささげてはならない。あれだけ厳しく禁じておきながら、その同じ神が、ご自分のひとり子を十字架に架けられた。神の怒りを静めるための供え物とされた。
このことを、私たちは忘れてはならないと思うんですね。

ローマ人への手紙3:23-26
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

25節に、神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになった。
神さまの怒りを静める供え物、犠牲の供え物として、イエス様を十字架に架けられたと言ってるんですね。

コリント人への手紙第II、5:21
21神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

イエス様の十字架というのは、何とおぞましいものでしょう。生きた人間を焼いてささげるよりも、もっとおぞましいものですね。
私たちの救いは、このイエス様の十字架という、目をそむけざるを得ないほどの、おぞましい・・・神さまの、この、激しい怒りの象徴ですね。
そのことによって、私たちの救いというのはもたらされているのであるということ。私たちの信仰というのは、その上に立っているのだということを、私たちは忘れてはならないと思うんですね。

このおぞましいイエス様の十字架の死ということ。これは神の怒りのなだめのためであり、同時にまた、人類の罪を神さまが赦してくださるためのみわざである。そこに、神さまの私たちを救おうとするギリギリの、神さまの決断と言いますか、もうこれ以上現わし得ない神さまのみこころの啓示が、ここにあるのだと聖書は言ってるんですね。
神さまの聖さと、神さまの正しさというのは、どのようなわずかな罪さえも、見逃すことのできないものである。黙認することのできないものであるということを現わしてるんですね。
したがって、どんな弁解をも神さまは認められないということなんです。

私たちは、自分の罪に気が付いたときに、何とか口実をもうけて、言い逃れをしようとして、神さまの前に素直に、本当にその通りだっていうことを認めるときがある。そういう経験をした者ですね。
しかし、そういう態度を取り続けている限り、私たちは本当の意味の解放というもの、救いによる解放というものを経験できないのであります。神さまはすべてをご存知なのだ。
神さまの宣告に対して、私たちは一言もこれに弁解することは許されないのだ。弁解をするならばそれは偽りだということを、私たちは知らなければならないんですね。

ローマ人への手紙3:19
19すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

すべての口がふさがれてるということは、人が一切の弁解を、もはやできないということなんですね。
確かにそれは私の罪である。確かに私は罪を犯した。そのことを私たちは、神さまが仰るとおりにそれを認めるということを言ってるわけです。

ローマ人への手紙3:4
4それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

神さまがそう仰るとき、「神さま、あなたの仰るとおりです。あなたの判断は正しい。」、私たちがそのことを心から認めさせられるんですね。
そのことを霊的破産というんでしょうね。私たちが口実をもうけては、言い逃れをしてる間、人は霊的な破産を経験しないんですね。「そのとおりです。仰るとおり。」、そのように主のみことば、正しい主の判断は全面的に正しい、そうして主の前にこうべを垂れされる。全面的に降参をする。受け入れる。
そのときの私たちの今まで何とか支えてきた、維持してきたプライドっていうものが根本から砕かれていくのですね。

人間は自分のプライドで自分を支えてくるわけですけども、ですからそのプライドが崩れることを必死に逃れようとして、自分の破産を認めないわけですけれど。
破産、霊的に破産、本当の意味で主の仰るとおりだということを認め、そのときに私たちの一番厄介な問題であった自我、プライド、自分を誇るその誇り、それが取り除かれていくわけであります。
そしてただ信仰にすがるよりほかにない、そのことを知るようになるんですね。

ダビデは、「私の罪は、常に私の目の前にある。」と言っています。しかし、主に身を避ける者は、だれも罪に定められることがない。
そのことを、ダビデは知った人だったんです。
ダビデの詩篇というのは、この主によって与えられる信仰による義、それをダビデは喜びをもってうたったんですね。

私たちクリスチャンも霊的に破産してしまうと、もはやあの古き自分を支えていた自我、自分の誇りにもはや返ることはできないんですね。それを砕かれているわけです。
その結果、私たちは罪に生きる者という点を常に素直に認めさせられる。
その結果、主が私たちに与えてくださる信仰による義、ただ主を信じるという、その義により頼む者と変えられていきますね。これこそが本当の勝利の秘訣、本当の自由と解放の秘訣である。
そのことがイエス様に似た柔和な人間性っていうものを私たちのうちに形作っている秘訣でもあるわけですね。

イエス様の十字架というものと、神さまが人身御供というものを忌まわしい、異教の風習として厳しくこれを拒絶されるということとのコントラストということを、是非覚えていてほしいと思うんですね。
先ほどの使徒の働きのほうにちょっと戻りますけれど、宦官っていうのは、そういうふうに本当におぞましい、異教の風習であります。

まったく、神さまが与えた人間性を損なわれた、いびつにされた人間なんですね。本当にあわれな人間であります。
その宦官が、おそらく毎年でしょうね、エチオピアから長い道のりをものともしないで、礼拝のためにエルサレムに上っていた。祭りの度ごとに上っていたでしょう。
どんな境遇の中でも真っ直ぐな心をもち、真理を求める思いをもつ人々はいるものであります。

そういう人々のことをイエス様は、心の貧しい人と仰ったんですね。どんな境遇の中に置かれていても、その境遇によって支配されるのではなくて、それに真実なるもの、真理なるものに向かおうとする、そういう心をもつ人ですね。そういう人。それが心貧しき人。
人間の良心というものは、いかなる境遇や環境によっても決定付けられることのない、ただひとつのものと言っていいんじゃないかと思うんですね。
どのような外面的な状況からも自由であるうる唯一のもの。これがぼくは人間の常識っていうもんじゃないだろうかという思い、いつもいたします。
ただ一ヶ所、天に向かって開いてる窓のようなものであって、どんなものもこれを覆い隠すことはできない。それが人間に与えられた良心だろうと思うんですね。

例えば、人間のもつさまざまな能力というものは、環境によって決定付けられますね。
すばらしいヴァイオリニストは、幼いときからその訓練を受けなければ、ヴァイオリニストにはなれないわけであります。絶対になれません。
色んなものがそうですね。私たちのからだもそうでしょうね。健康なからだであるということはやっぱり、そういう環境が整えられているからであります。

しかし人間の良心というものは、どんな貧しい、あるいはどんなに厳しい歪んだ境遇のもとであっても、損なわれずに、正しいことを正しいと判断する能力をもっているものなんじゃないでしょうか。
これこそ人間だけに与えられた、神さまが与えてくださってる、永遠の世界に通ずる窓みたいなもんだろうと思うんですね。
人間が肉体をもちながら、霊的存在でもあるという根拠は、そこにあると思いますね。

良心が目覚めなければ、人は真理を悟ることができません。良心が目覚めなければ、人は神の国にはいることはできません。
しかし同時に良心が目覚めると、人は自分自身の苦痛に気が付く。こういう二律背反がすでにあるということなんです。

私たちの良心が眠ったままである限り、私たちは信心に対して鈍感であります。神のみことばに対して盲目なんですね。本当に悲しいほどにそうなんです。
しかし、人の良心が目覚めされられてくると、私たちは自分の罪に気が付かないわけにはいかない。ダビデが言ったように、わが罪は常にわが目の前にありであります。
そういう、二律背反、そういう狭間にいつも私たちは置かれてしまうわけです。

その問題の解決こそが、イエス・キリストの十字架による神さまの義なのである。
信仰によってひとりひとりに与えられるところの、神の義なのである。それが聖書が一貫して私たちに語っていることであります。

良心が鋭敏でなかったら、よくわれわれが学んでいるように、神さまに仕えることはできないんですね。
鈍磨した良心によって、人は神さまの器とはなれないわけであります。しかし、敏感な鋭敏な良心というものは常に自分自身の罪の自覚・・・

(テープ A面 → B面)

・・・止めると私たちは自分の罪に責められて、逃れ場を無くしてしまうんですね。
そして、神さまの義のほうへと追い込まれていく。ここにしか立つことができない。ここに立たなければならない。聖書はそういうふうに教えているわけであります。
それ以外に私たちに逃れ場はないんですね。それ以外に私たちは生きることはできないということ、たちどころはないということであります。

使徒の働き8:29
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

と書いてあります。26節には先ほどお読みしましたけども、「主の使いがピリポに向かってこう言った。」と書いてありますね。
引っかかるでしょうね。具体的に一体どういうことが起こったんでしょうか。
しかし、具体的にはなにも記されていないわけです。聖書には、こういう箇所がいっぱいあるんですね。御霊がピリポに示した、主の使いがこう語られた。
ピリポはどういう経験したんだろう。分からないですよね。

そして私たちも、信仰の歩みをするにつれてだんだん、こういうことにあんまり気を使わないようになっていくんですね。
最初はそこを詮索するかもしれませんが、あまり気にかけないで、先に進んでいくようになりますね。
アウグスチヌスが、聖書の示す世界は入り口は狭いけれども、中は広大無辺である。所々に神秘のヴェールがかけられているというふうに書いてますけども、まったくその通りですね。

人間には知ることが許されないあるヴェールが、神秘のヴェールが信仰の道のいたるところと言いますか、あちらこちらにかかっている。
そのヴェールを無理に引き剥がそうとしてはならないと私たちは気が付くようになりますね。
神さまを知るようになるにつれて私たちは、人間がその分をわきまえて、立ち止まらなければならないこと。それを越えてはならないこと。踏み込んではならないことということがあるのだと知らされていきます。
どこまでいっても人間には理解のできないことがたくさんあるのだということを、わきまえるようになるんですよね。

伝道者の書でしたかね、「明らかにされていることは人間のもの。秘められていることは、隠されていることは神のもの。」という言葉が確かありましたね?
この分別を失って、理解できないことはすべて否定するという態度を取るようになったのが、いわゆる啓蒙主義時代以降の近代人というものなんですよ。

人間に理解できないことは否定する。しかしそうじゃないんですね。私たちは、その狭き門、聖書のみことばに触れて、自分の罪ということに目覚めさせられて、イエス様の十字架を見上げるように導かれていくにつれて、人間に理解できない、圧倒的な多くの事柄が実はあるのだということ。神さまはそのある部分を、私たちに必要な部分を、啓示してくださるに過ぎないのだということ。そういう霊的な、事柄ってものに初めて目が開けていくんですね。


そして、自分の知りえないことに対しては、私たちは、そのままにして謙虚に神さまのがわにある秘密として、神秘としてそれをそのまま受け入れる。
必要なものは神さまが必ず教えてくださる。だから必要でもないものを無理に手を突っ込んで知ろうとしてはいけない。そういうことを学ばされるわけです。
主の使いが、御霊がピリポに語ったと書いてある。それも、私たちはそのままにして進むことができるわけであります。ピリポは、この御霊の示しに従って宦官の場所に近づいて語りかけます。

使徒の働き8:30-31
30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
31すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。

何という開かれた心でしょうか。天に謙遜にさせられた心かと思いますね。備えられたたましいということでしょうね。全然身構えないんですね。
この宦官は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」こういうふうに言って、ピリポを招いて、そこにすわってもらった。と書いてあるのであります。

使徒の働き8:32-35
32彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
33彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
34宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
35ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

一番、福音の福音たるところをこの宦官は読んでいたわけですね。イザヤ書の53章になりますけども、ピリポはこのみことばから説き起こして、イエス様による罪の贖いと復活について、そして神さまの義について、詳しく語ったわけでしょう。
イザヤ書の53章、ちょっと開けてみましょうか。

イザヤ書53:4-12
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
10しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

まことに、イエス様の贖いのみわざを、これほど言い尽くした箇所はないんじゃないかと思いますね。宦官はこの福音を信じたのであります。
彼の開かれた心。人の心を開かれるのは、やっぱり主なんでしょうね。宦官が心を開いたっていうのも、主が宦官の心を開いてくださった。彼の心を本当に謙虚にしてくださった。
然りを然り、否を否と言う、砕かれた心を主が与えてくださったということでしょうか。彼はこの救いの贈り物を真っ直ぐに受け取ったわけであります。

使徒の働き8:36-40
36道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」
37〔異本は三七節をこのあとに挿入している。「そこでピリポは言った。『もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。』すると彼は答えて言った。『私は、イエス・キリストが神の御子であると信じます。』」〕
38そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
39水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
40それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

と書いてありますね。

イザヤ書56:3-5
3主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と。
4まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
5わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

すばらしい約束ですね。
宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と。私には息子や娘たちも与えられない。だから、そういうみじめな者だと言ってはならない。
わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
文字通りこの宦官は、それを得たわけであります。

ペテロの手紙第I、1:18-21
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
20キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
21あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

ペテロの手紙第I、2:22-25
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

宦官のこの信仰への一歩が、彼の人生に革命をもたらしました。またその人生を通して、周りの多くの人々の人生を変えていったに違いないのであります。
エチオピアっていう国が、周辺をアラブ諸国、イスラム世界に囲まれながら唯一キリスト教国と言われるのは、この個人によるのだということをよく聞きますけれど、あるいは本当かもしれませんね。
確かに、あのアフリカのアラブ世界にあって、あの国は古来イエス・キリストを信じる信仰が、多く根付いた国であります。
この宦官の、そういう回心がこれに関わってるのかもしれないっていう思いがいたします。

私たちの信仰に生きよ。今までのむなしい人生に決別して、外見だとか、見栄だとか、自尊心だとか、中身は空っぽでボロボロでありながら、ただ上っ面だけを何とか取り繕って生きていくという、このむなしい人生から脱出して、それと決別して、遠し歩みであっても、真実な犠牲に生きよ。そのためにこの信仰を受け入れよ。
こういうふうな、私たちの信仰への一歩が、私たちの人生を、根本的に変えていくんですね。それは、最後は非常に大きな距離となっていくわけであります。

先日、集会の姉妹の葬儀がありました。そのとき姉妹が書かれたという、教会案内のパンフレットが紹介されました。
ちょっとお読みしますからお聞きください。

『私たちはよく、「もったいない。」という言葉を使います。
立派な家が長い間空き家になってれば、「何ともったいない。」と言うし、新しい着物を汚してしまえば、「せっかくの着物を・・・」と、たまらなく悲しくなります。

リンゴ一切れ落としただけで、「ああ、惜しいことをした。」「もったいないことをした。」「損をした。」とつぶやきます。
まして、思い出のある貴重品や仕入れのための多額の金銭を落としたとしたら、どうでしょう。
慌てて探し求め、ついにはひどく失望し、中には、絶望の果てに自殺するという人もあり、ショックのために、精神異常をきたすこともあるでしょう。

程度の違いはあっても、こうしたもったいない事件や、問題を数え上げたら、限りのないことです。
食べこぼす一粒のご飯から、どこかのお役人のつまみ食い、一億円という大きなことまで、実にさまざまなものがあります。

けれども、この地上で一番もったいないことは何でしょうか。ご飯粒も空き家も税金のつまみ食いも確かにもったいないことでしょうが、神が私たちを愛してくださっておられるという事実をもし無視したり、気付かなかったら、それこそ本当にもったいないことです。

神の愛は、心の不安を除いて平安を、悲しみを消して喜びを、絶望を変えて希望を与えるからです。
神は私たちを愛するあまりに、御子イエス・キリストを十字架に架けて、私たちの罪の身代わりとしてくださいました。
この身代わりの罪の処罰を信じる者には、だれでも罪の赦しを与えると、神は約束しておられます。
この罪の赦しは、永遠の救いを得て、天国にいくためにはどうしても必要な条件なのです。

私もかつては、長い間神を知らずにさまよっておりましたが、今では、愛の神の御翼の陰で、神の恵みとキリストの贖罪のみわざに賛美の声を上げながら、心安らかに憩う者となりました。
泣き虫であった私の心は変えられて、新しい希望と平安とに満たされる身となったのです。

このキリストの尊い犠牲こそ、神が地上でなされた最大のみわざであり、最高の愛の表現なのです。
このことが自分自身のためであるかどうかは、すべての人がもっとも真剣に、また、緊急に確かめなければならない重大なことです。なぜなら、この決定があなたの将来を永遠に確定するからです。
天国にはいるこの条件を受け入れるか、拒否するかは、死後の問題としてだけでなく、生涯の方向をも、生活態度をも決定します。

神はあなたを愛しておられます。あなたの目には見えないでしょうが、今神はあなたに向かって、手を差し伸べておられます。
多くの人は、この神の愛に、この恵みの宝に気付いておりません。なんともったいないことでしょう。
人生にとって、これほど大きな損失はないからです。
目先の損得だけでなく、永遠の問題を根本的にまず解決しましょう。
せっかくの人生です。「もったいない。」と人にも、神にも言われないように心して歩みましょう。』

何というすばらしいメッセージでしょうか。私が延々と今まで話したよりはるかに、福音が語られてるんじゃないでしょうか。




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