引用聖句:使徒の働き9章19節-25節
人生と信仰の両面の大先輩に兄弟に、いつも司会をしていただいて、私はあのお歳になるときに、あんなに柔らかい心をもって主の前に立ってるだろうかという思いをいつもいたしております。 歳をとって、さまざまな信仰の経験をしてきて、かえってそれが妨げになって、柔らかな主の前に本当にこう、へりくだる心を失いかねない。そういう危険性もあるんじゃないかというような思いをしてるんですけれど、そういう意味で、本当に歳をとるにつれて低く柔和な者とならなければいけない。 そうしないと内なるいのちが硬直化してしまう。そういう危惧というものを、日ごろ抱いてる者であります。 耳が聞こえなくなって、ひたすら主が内側に語りかけてくださる細き御声にだけ、思いを潜めることができれば、そっちのほうが確かに、幸いではないかという気がいたしますね。 聞かなくてもいい多くのことがこの世の中には満ちていますから。見なくてもいい多くのことがらがこの世の中には充満していますから、むしろ肉の耳は聞こえず、肉の目は見えない、霊の目をもって主を見上げ、耳をもって主の御声をいつも静かに聞く。 そのほうがむしろ恵まれることなのかもしれないなという思いがいたしますね。 いずれにしても、主は私たちに最善をしてくださる。私たちに益にならないことはなされない。そのことを私たちはいつも覚えることができますので、感謝であります。 今まで、この使徒の働きを見てまいりましたけれども、使徒の働きの1章から5章までは、十二使徒たち、おもにペテロの伝道の様子が記されております。 ペテロとそばにいつもヨハネが立ってると言いますか。そういうシーンが繰り返し出てまいりました。 それまで三年半の間、教え導いてくださったイエス様が突然、目の前からいなくなったのですから、最初はどうしたら良いのか分からず、危うく弟子たちの群れは散り散りバラバラに四散霧氷しかねなかったのであります。 その群れの核となって、ある程度のまとまりをもっていた人々の数は、百二十人くらいであったと1章の15節の中に出ておりましたですね。 その中核と言いますか、まとまっていた百二十人くらいの弟子たち、その中にはイエス様の母マリヤも含まれていたと書いてありますが、イエス様の兄弟たち、ヤコブたちもいたようであります。 その百二十人くらいの群れの外側に、イエス様がイスラエル全土で伝道されたときに、みことばを聞いた多くの人々がいたのであります。 いわば弟子の予備軍のような形を成していたんじゃないかと思うんですね。 イエス様によって彼らに伝えられたみことばは、知らず知らずのうちに根を下ろして、芽を出そうとしていたのじゃないでしょうか。 イエス様はそのときの苦労をご存知で、生前寸暇を惜しんでみことばを伝え続けられたようであります。 地を耕し、種を蒔いておられたのであります。刈り入れのときがやって来るか。主はそのことを見通して、寸暇を惜しんで、ご自分が種を蒔いていらっしゃるときにその実はまだ現われてこなくても、それをのちにたくして、ひたすら主は前進をして行かれたようですね。 私たちはこの町にとどまるわけにはいかないのだ。みことばを繋がなきゃいけないって言って、主は一ヶ所にとどまることを知らなかったことが福音書の中に出ています。 イエス様はまず、霊的には何のわきまえもない十二弟子たちを召し出されました。彼らは本当にチンプンカンプンでありました。 いつもイエス様の仰ることを誤解しては、ズレたことばっかりやっている、ごくごくわれらと変わらない、平凡な人々でありました。 イエス様はこの十二弟子をあえて、この世では何の位もないような・・・漁師とか、みんなから見下げられる収税人とか、そういう人々をご自分の弟子として選び出されました。 彼らを常にご自分の身近に置いて、ご自分の伝道の働きに彼らを加えられました。そして、霊的な成長と訓練を施していかれたわけであります。 寝食を共にし、いわば手塩にかけるようにして、この十二使徒たちを主は育てられたわけであります。徐々に伝道の働きの規模が広がるにつれて、イエス様はこの十二弟子たちを伝道へ遣わして、のちへの備えを段々していかれますね。福音書の中にそれが出てまいります。 イエス様は、弟子たちの目から見れば、突然、取り去られたように思えますが、しかし、主ご自身の目から見れば、準備万端、すべては整っていた。ということなんでしょうね。 わずか三年半で、これだけのことをよくなさったもんだと思いますけれども、それが主のみわざの完全さということではないかと思います。 イエス様は、確かに比類のない優れた教師でありました。弟子を育てる。人を提供させる。そういうことにおいてもイエス様は確かに比類のない方だったなと思うんですね。 最後の最後において、あの十字架に架かる、あの土壇場において、弟子たちの中心的存在であるべきあのペテロを、あのような形で徹底的に、いわば破綻させる。 ペテロの肉的な思い上がった、本当に、彼の高ぶりというものを、イエス様は徹底的に取り除いていかれる。 ああいうことを考えてみると、すごいことであります。イエス様が十字架に架かられるというそのギリギリのそのところにおいて、ペテロの信仰の目というのは、初めて開かれていく。彼は徹底的に自分の弱さというものに気付いていく。 数時間前まで、主とともに死ぬ覚悟はできているなんて大言壮語していた、そのペテロが「私はあの人を知らない。」、のろいをかけて三度も誓ったという、そういうことを通してペテロはもう徹底的に、彼はいわば霊的な破産と言いますか、自己破産に追い込まれていきますね。 彼はそのとき、自分とユダとの間にはほんとに差はないのだ、自分とあの裏切り者のユダとの間にほとんどの差はない、そういうこともはっきり彼は知るようになるわけであります。 そういうことを通してイエス様は十字架に架かられ、よみがえられ、そして天に引き上げられていかれ、そういうひとつひとつの出来事を私たちが見るときに、今も言ったように、主の訓練は完璧であったということですね。 そして主は、この弟子たちに福音を託されました。聖霊をもって弟子たちのうちに働き、その聖霊によって彼らを導く。その用意をすっかり整えられました。本当に主は比類のない教師であります。 風前の灯のような小さな弟子たちの群れも、イエス様の復活を目で見、聖霊の降臨を受けて、激しく燃え盛る燎原の火のように増え広がっていきました。 その勢いは何者によっても押し止めることはできませんでした。あの地上最強の国、ローマ帝国も、この小さなクリスチャンたちの信仰を押さえ込むことはできませんでした。 火を消そうとして叩かれれば叩かれるほど、火が飛び散って広がっていくかのように、ローマ帝国の隅々にこの福音は伝えられていったのであります。 その草創期の力強い前進の様子が、今までわれわれが見たように、1章から5章に記されていたわけですが、弟子の数が数千人に膨れ上がって、そこから執事の必要が出てきて、ステパノやピリポの働きの紹介となっていたということを見ましたですね。 6章から8章まで、そういう話が挿入されているんですね。 そして9章でついに、あの使徒パウロが、福音宣教の表舞台に引き出されるわけであります。しかしこの9章は、パウロの登場を紹介しただけで、パウロはすぐに、いわば舞台の袖に引っ込むような形になって、ペテロの伝道が記されています。 もっぱら、パウロの伝道の様子に焦点が合わされるようになるのは、13章以降ですね。ルカは、そこから終わりまでひたすらパウロの働きに焦点を合わせて、記述していくわけであります。 前も言ったように、おもに前半がペテロの伝道の様子を。そして後半がパウロの、特に異邦人伝道への様子が記されているんでしたですね。 先回学んだように、迫害者サウロは天からの光にうたれるというような、まったくユニークな仕方で瞬時に回心させられ、今までの立場とは正反対の立場に立つ者に変えられてしまいました。 確かに、私たちひとりひとり、本当に罪を悔い改めて、罪の人生っていうものにはっきり決別をして、主に立ち返るという経験というのは、本当に人生における最も厳粛な、またこれ以上重みのない経験であります。 ひとりひとりにとって、これほど重要な経験はありません。ですけれども、このパウロの回心ほど劇的と言うか、そういう回心はないはずですよね。 歴史に「もし」ということは許れないけど、もしこのパウロがここで回心しなかったら、福音の、二千年に亘るこの広がりというのはどうなったんだろうか。想像もつきませんね。 パウロという、あるいはそのユダヤ名がサウロ。サウロという青年が、天からの光にうたれて、ダマスコ城門に近い所で地に倒れて、しかも、よみがえられた主の声を直接にはっきり聞いた。 この驚くべき経験を通して、イエス様のあの十二使徒たちではできなかったような、あのユダヤ人の限界を突破して、世界に向かって福音が広がっていく。そういう大きな福音宣教の節目と言いますか、それがパウロの回心ですよね。 一瞬にして舞台はグルッと回転するかのようですね。迫害者から宣教者へと一日で変えられていくんですから、これはサウロ自身にとってもたまったものではないはずであります。 あまりにも大きな転換ですから、これはしかしパウロ自身も辛い話ですよね。 かつての仲間たちのがわから見ても、例えば徐々に徐々にサウロがユダヤ教パリサイ派の教義に疑問を抱いて、福音に心を向けるようになっていったっていうんならまだしも、そのような素振りは少しもないわけですから。確信に満ちていたのですから。 パリサイ人であるということ、パリサイ主義者であるということ、ユダヤ教を征討する者であるという、そういう確信に満ち満ちていたパウロが、ユダヤ教パリサイ主義のいわば頂点から一気に反対側へと落ちていくように、彼は豹変していくわけですので、これはユダヤ人たちから裏切り者としての激しい恨みをかうのは当然であります。 どうしてパウロは、サウロは一瞬にしてこの立場の転換、パリサイ人からクリスチャンへと変えられたのか。その回心を拒むことはできなかったのかと言いますと、その理由はただ一つでありました。 イエス様の復活が、弟子たちの証言どおり事実であるということが、疑いの余地なく、彼に知らされたからであります。 この事実のゆえに、自分自身の立場の誤り、クリスチャン信仰の正しさ、すなわちキリストの救いの確かさというのは、パウロにとってはもう、明々白々となったのであります。 もう、ほかの一切のことはもうパウロにとっては問題にはならなかったんですね。その一瞬で。 確かにあの弟子たちが証言しているように、十字架につけられたイエスはよみがえられた。事実、自分にこのように臨んで語りかけてこられた。 わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスだとパウロに仰ったんですから。 イエス様の復活という、サウロにとっても想像を絶するようなとてつもない事実が、サウロのそれまでのパリサイ人としての、その確信を根本からくつがえしていったのであります。 彼はユダヤの最もすぐれた律法学者について、若いうちから研鑚を積んでいた人でしたよね。律法論、ユダヤ教の教義、そういうものを彼は、懸命に学んだ人でありました。 しかし、このダマスコ途上のこの出来事を通して、それら一切のものはもう、その瞬間に何の役にも立たないものとなっていきました。 彼はそのとき、救いが何であるかということをはっきりと知ったからであります。 よみがえられた、この神の御子イエス・キリスト、この方こそ救い主であり、この方こそ確かに信ずる者を救われる方である。そのことをパウロは疑いようもなく知ったということなんですね。 イエスこそキリスト。自分たちユダヤ民族が、旧約聖書によって神の約束として長い間待ち望んでいた、まことの救い主であるということ。 事実イエス・キリストは、死を滅ぼしてくださったのだ。こうして本物の望み、救いとは死への勝利にほかならないのだと、はっきりサウロは気が付いたのであります。 それまで彼は、救いとはなんだったか、何のことか分からなかったでしょうね。 神の御子が人となってこの地上に来られて、十字架で罪の贖いをして、三日目によみがえられるなどということは、これはユダヤ人にとっても、全然理解のできないことだったのであります。 ですから彼らがユダヤ教を信じ、その救いとか何とか言っても結局、救いとは何なのか。パウロはまったくそれまで分からなかったんですね。 しかし、イエス様のあの復活の事実に出会ったときに、彼は自分たちが待ち望んでいた救いとは何なのかということを、はっきり知るようになったわけであります。 テモテへの手紙第II、1:9-12
キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されました。パウロはこの瞬間に、救いとはなにか、彼が考えているものをはるかに超えているものであるということ、彼が思いもしなかったことだということ、そのことをはっきり知ったということなんですね。 そのとき、細々とした律法の解釈などはまったくどうでもよいものだ、それだけじゃ何の意味もないということ。救いの中心は永遠のいのちなのだ。そしてそれは、このナザレのイエスによって今、明らかに示されたのだ。 このイエスの復活によって、これが確かなものであることが保証されたのだと、サウロははっきり知ったわけであります。 ですから彼の今までの立ちどころは一瞬にして瓦解していったわけであります。 人間的に考えたら彼は、もう今までの仲間たちには弁明のしようがなかったんですね。どう言ったって彼らにはもう通じないんですから。 それでありながら、彼は今までの仲間たちのところに出て行かなきゃいけない。 シナゴーグに出て行って、その会堂に出て行って、イエスこそ神の子であると言わなきゃいけない。これはパウロにとっては大変なことですよね。 彼はすぐに、その使徒の働きの9章に戻ってみますと、 使徒の働き9:20
と書いてありますね。いわゆるシナゴーグであります。ユダヤ人たちはその当時、ヨーロッパ全世界に散っていて、散った先々で、シナゴーグ、会堂を作っていたわけですね。そしてそこに集まっていた。 その会堂はいつもエルサレムの方に向いていたそうでありますけども、そういう形で、ユダヤ人というのはどこに行っても、散り散りばらばらにならなかったんですね。 サウロは、クリスチャン信仰のことは、そのほかなにも知らなかったわけでしょう。細々したことはなにも知らないわけです。 ただ、このナザレのイエスが、間違いなく神の御子なのだ、そしてこれこそが本質的なことなのだ、これこそが救いの本質なのだ、そういうことでしたから、彼は大胆に語りえたわけですね。 ローマ人への手紙1:2-4
旧約聖書において前から約束されていたものである、預言者たちを通して。しかしそれは御子に関することなんだ。それは初めて分かったんですね、このときになって。 救い主が来る、メシヤが来るってことは知っていましたけど、まさかこのメシヤが神のひとり子であるということ。神のひとり子が人となってこの地上にいらっしゃった。その方であるということは、ユダヤ人はだれも知らないわけであります。 御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に、どっかで密かにじゃなくて公に、多くの証言たちの前で、全世界に向けて神の子として示された方である。 すなわち、私たちの主イエス・キリストだと彼は述べていますね。 ユダヤ人は長い間、メシヤの来るのを待ち望んでいたわけですけども、その方が今、来られているのだ。このお方こそナザレのイエスなのだ。これがパウロの伝えたことであります。 ペテロの手紙第I、1:10-12
御使いたちですら、気が付かなかったことかもしれませんね。ですから、神の送りなるキリストと聖書は呼んでるわけですから。神さまのみこころの深くに、今まで秘められていたところのその救いの計画が、今明らかになった。これが使徒たちの証言であります。 ここにいっらしゃる姉妹のご主人の葬儀を何年か前にして、多摩葬祭場に行ったとき、そのご親戚の方とお茶を飲みながら、色々雑談をしておりました。 そうするとその、ぼくらより少しお若いぐらいのご婦人が、「あの世から帰って来た人はいないんですものね。」と私に言われました。 彼女の言いたいことは、「あなたたちクリスチャンは、天国、天国と仰るけれど、しかしあの世から帰って来た人はいないんですよね?」ということでした。ぼくは、黙っていました。 聖書はいったい何を伝えているのか。このクリスチャンと言われる人々はいったい何を信じているのか。本気になって知ろうという思いがなければ、無駄かなっていう思いがしたからだったのであります。 「いやぁ。あの世から帰って来た方が一人いらっしゃる。」、これを私たちはあれほど言ってるんですけど、どうも、福音のメッセージはいつもそれなんですけれど、そしてその葬儀でもそれが語られてるんですけども、「そういう人はひとりもいないんですものねぇー。」と念を押してこられるのであります。 どうして、世界中で多くの人々が、このクリスチャン信仰というものをもつようになったのか。しかも、彼らはそこに自分のすべてをかけている。そういう人々がどうしているのか。これはなにかそこにあるんじゃないのか。 聖書の中に、なにかとてつもないようなものがあるのじゃないか。それは一体なんなのだろう。そういう思いをもって、自ら、それを知ろうと、それと向き合おうという思いを人はもたない限り、この聖書の伝える救いっていうものがどういうものか、本当の意味で、自分のものとできないのじゃないだろうかという思いがしますね。 サウロの燃えるような証言に、ユダヤ人たちはうろたえた。そう書いてあります。 使徒の働き9:22
使徒の働き9:21
これはどうも、ユダヤ人たちが語っている言葉ですよね。シナゴーグにいたユダヤ人たちの言葉なんですね。ですから、この御名をっていう表現っていうのはどうも当たらないですよね。 「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ者たち。」っていう前の、口語訳に書いているように、「この名を呼ぶ者たち」というふうにしないとちょっと、「この御名を呼ぶ者たち」っていうのはやや、前後のコンテキストからして、表現としてはまずいなっていう、気がいたしますが、ちょっと調べてみますと、前の訳はちゃんと「この名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。」 イエスという名を、呼ぶ者だけを滅ぼした者だ。この御名っていうのは、これはクリスチャンの表現でなきゃいけませんね。 かつてのパウロの仲間であったユダヤ人たちは、初めはうろたえましたが、その後、激しい迫害へと転じていきます。サウロは、自分がクリスチャンたちを迫害したように、かつての仲間たちから迫害され続けなければなりませんでした。 厳しいですよね。 使徒の働き9:16
ということばがあるということを、この前そのことを申し上げました。これ、イエス様が、アナニヤに向かって言ったときのことばですね。 あのサウロが、わたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。 これは・・・すごいことばですよ。わたしは彼を祝福し、彼を大いに用いようっていうんなら分かりますけども。このサウロが、わたしの名を伝えるために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりだ。 なんか、神さまのみことばの厳しさっていうのに、私たちは本当にいっつも、ゾクッとさせられます。こういう表現っていうのが、聖書にはあちらこちらに出てくる。 主は、きちんと清算を求めてこられますね。主は赦しの神ですけれども、義の神であります。例えば、人の物を盗んできた子どもが、自分のその悪い行ないを認めて、詫びるときに、親は許しますよ。 しかし、それを返してきなさいと言いませんか?言わない親だったら、これは厄介な親ですね。正しいっていうことからズレてる親ですね。ひとりで行けなければ一緒について行って、謝ってくれますよ。 神さまもそうなんです。私たちの罪の清算を要求なさるお方なんです。なぜならば、私たちは罪から離れるっていう、このことを通して初めて私たちは、神さまの光の中にある恵みがどんなものであるかを知るのであるし、私たちの人生は、主の祝福の中に満たされるようになるからであります。 悔い改めて主を信ずるということは、自分の罪っていうことを曖昧にするっていうこととは全然違うのであります。 パウロに主は、彼が今までクリスチャンたちにやったことを報いとして苦しめる、そういう意味じゃもちろんないんですよ。 ないのですけれど、主は、私たちがやったことを、私たちにさせるんですよ。 気が付かれることがおありでしょ?忘れていたけど、「ああ、私もこんなことをしたことがある。人に対して。」、そのとおり自分に返ってくるんですよ。 そのときに、「ああ、これは主がなさっている。」ということに気が付くはずであります。 そういう意味で、聖書の神は聖なる方であります。義の神であります。だからこそ本当の意味で、私たちが慕うべき神なのであります。 さっきも言ったように、人の物を盗んで悪かったと言ってる子どもの、盗んできた物を、「ああ、よしよし。」と言って、どっかに隠しておくなんて親じゃ、やっぱりダメですよね。 こういう親を子どもは本当に尊敬はできませんよね。 やはり、「清算してきなさい。謝って返してきなさい。」、こういう親こそが、本当の意味で子どもの尊敬と信頼、本当の意味での頼りがいっていうものを、子どもがもつ親であります。 聖書の神は一貫してそのような方であると、聖書は伝えているわけです。 ですからパウロは、「間違ってはいけない。神は侮られるような方ではない。人は自分が蒔いたものを刈り取るのだ。」と、ガラテヤ人への手紙の中に書き記しました。多くのクリスチャンたちが間違っているからなんですね。 神さまを信じたから、神さまは私たちの罪を赦してくださるからといって、罪に対して悔い改めるということをしようとしなくなってしまう。それに対してパウロは、そうじゃないのだと言ってるのであります。 本当の愛とは、私たちを本当の真実なる正しさの中に立たせるものであります。それが聖書の神であります。それがイエス様の十字架の意味であります。 パウロは、もう伝道の始めから、命の危険をしょっちゅう感じなければなりませんでした。 使徒の働き9:23-25
と書いていますね。このことを、パウロはガラテヤ人への手紙の中に書いております。自分がつり降ろされたときのことを。 彼の回心からのことを振り返ってから書いていますから、長いですけどもお読みしますので。 ガラテヤ人への手紙1:11-24
まず、パウロはこのダマスコで回心したとき、しばらくしてアラビヤに出て行ったと書いていますね。そしてダマスコに戻ったと書いてあります。 このアラビヤというのは、どうもこの聖書の注なんか読みますと、ダマスコの近辺の荒野であったろうと言われていますね。私たちが今言ってるアラビヤ半島の所じゃなくて、ダマスコ近辺の荒野、そういうところに身を退いて、しばらく静かに過ごしたようであります。そして再びダマスコに戻ったんですね。 コリント人への手紙第IIの11章に、あのパウロが自分の受けた苦難についてあえてこのことを言おう!と言って、開き直るようにして書いている有名な箇所ありますね。 パウロはこういうことを吹聴することについては、本当に恥ずかしく思う。しかし私は、あえて愚かになって、これを言うのだと書いていますね。 ですから、吹聴しようとして言ってるんじゃないんですけども、時の状況がどうも、多くの人々が自分らの受けた苦難や色んなことを手柄のようにして話して、弟子たちを惑わすもんですから、パウロはここで語ってるんですね。 コリント人への手紙第II、11:21-33
さっきの箇所ですよね。9章の中に、パウロを弟子たちが、かごにつるして城壁から降ろしたと言っていることですね。 パウロはこうして、ダマスコで危うくなって、このままいったら殺されるということは分かったもんですから、夜中に城壁伝いに、かごに乗っけてつり降ろされて、そこをのがれます。 それから、 使徒の働き9:26-30
と書いていますね。三年・・・それから三年してと書いてありましたね。さっきのガラテヤ人への手紙の中で、三年経ったころに、初めて彼はエルサレムに上った。 そして当時のエルサレム教会の柱だったのは、イエス様の肉の兄弟、ヤコブだったと言われていますね。ヤコブがエルサレムの母教会の、いわば柱として、多くの兄弟姉妹たちの信頼を得ていたようであります。 もちろんそこにはペテロもいましたし、ヨハネもいたわけですね。彼は最初にケパをたずねたと書いてありましたね。さっきのガラテヤ人への手紙のところで。 ガラテヤ人への手紙1:18
ケパというのはペテロのことですから。十五日間滞在した。 ガラテヤ人への手紙1:19
と言っております。このときにエルサレムの兄弟姉妹たちは、サウロを恐れて、彼を受け入れようとはしなかった。そこで、あのバルナバがまた出てきますね。 バルナバというのは慰めの子という意味でしたね。すてきな名前です。 そのバルナバが、仲介者として立ってくれた。のちにまたこのバルナバは、パウロを引っ張り出して、伝道へといざなっていった人なんですけども。 バルナバが間をとりもって、パウロのことを保障してくれるんですね。 彼はダマスコに行く途中で主に会ったということ。ダマスコで大胆にイエスの御名を宣べ伝え、それで殺されそうになった。そういうことを、兄弟たちに伝えた。とりもってくれた。保障してくれた。 それで使徒たちは、彼を受け入れたというわけであります。 しかし、29節にも出てきますけれども、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。サウロは行く所々で、人々の迫害、殺害の対象となってくるんですね。本当に。 自分がかつてやったように彼は、行く所々で敵意に、同胞からの敵意に遭遇するわけであります。 使徒の働き9:30
と書いてますね。 ガラテヤ人への手紙1:21
と書いていますね。それがこの9章の30節と符合してるところなんですけども、シリヤというのは聖書地図を見たら分かりますけども、アンテオケっていう町のあるところです。 このアンテオケが、異邦人伝道の拠点になったところなんですね。エルサレムにまず教会ができて、その次に多くの兄弟たちが集まり、異邦人伝道に出かけていく拠点になったのは、エルサレムの教会ではありませんでした。アンテオケの教会でした。 パウロやバルナバはアンテオケの教会を拠点にするようになっていくわけです。シリヤっていうのはアンテオケですね。キリキヤっていうのはタルソ。 彼の生まれ故郷のタルソのある州ですよね。これも聖書地図を見るとすぐ分かります。 使徒の働き9:30
彼がいると危険なもんですから、彼の郷里のタルソに、兄弟たちは彼を送ったのであります。そこで何年間かいたか分かりませんけども、サウロは静かに、伝道の一線から退いてそこに過ごすんですね。 使徒の働き9:31
こうして教会は、と書いていますね。ある聖書講解をしている方は、サウロがいなくなったおかげで、どうもそういう意味も含まれてるかもしれない。 こうして教会は、しっかりと根付いて、多くの人々も導かれるようになった。まだサウロが立つべき時じゃなかったんでしょうね。 サウロはタルソに、静かに退却すべきだったんでしょうね。出て行くところ、行くところで、騒動ばっかり作り出していくようなサウロですから、彼は遠くキリキヤの首都であるタルソに退いて。 かつてモーセが、ミデヤンの荒野に四十年間羊を追って過ごさなければならなかったように。働き盛りの四十歳から八十歳までですよ。 モーセは、一介の羊飼いとしてミデヤンの荒野で身を潜めなければならなかったんですね。 かつてベック兄が学ばれたことを今でも覚えていますけど、一番働き盛りの頃じゃないですか。モーセは百二十何歳まで生きましたか。 ところがその四十年。分別盛りの四十歳から八十歳。モーセは本当に世から忘れ去られ、ミデヤンの荒野で羊飼いとして過ごしました。 まるで枯れていく柴のように、モーセは人間的な力を失っていかなければならなかった。しかし枯れた柴に、モーセは主の不思議な火が燃え盛るのを見たんですよね。あのホレブの山でですね。 人間的にはもう力は残ってないんじゃないか、一番大事な盛りは過ぎたのじゃないかと思うときこそ、むしろ神は、このモーセを呼び出されたのだと仰ったことを、今でも覚えております。 主に、本当の意味で用いられる器となるために、サウロは退く必要があったようであります。 32節以降は、ペテロの働きがずっと続いていきますね。12章まで。簡単に、残りのところを見ておきたいんですけども、ペテロによるアイネヤの病のいやしと、タビタという女性。死んでしまった姉妹をペテロがよみがえらせた記事がそこに出てきますよね。 使徒の働き9:32-35
ルダというのは地図を見たら分かるように、エルサレムからほんの数キロ地中海の方に下った所です。そこでアイネヤという人を、ペテロが、「床を取りなさい。」といい、これでいやすんですからね。 かつてイエス様が、あの中風の人たちをいやされたように、ただの人間、われわれとそうあまり変わらないペテロが、こういうふうにして人の病をいやすのでありますから、本当に驚きですよね。 さらにもっと、そのヨッパでやっとタビタのことが出てきます。 使徒の働き9:36
ドルカスというのは、カモシカっていう意味でしたね。タビタ。 使徒の働き9:37-40
あのおっちょこちょいのペテロが、そそっかしくて失敗ばかりして、イエス様からこっぴどく叱られたようなことばっかりしていたあのペテロが、とても人間わざとは思えないような、いや事実人間わざではない、このような奇蹟を行なうのであります。 イエス様が仰ったように、「あなたがたは、わたしが行なうわざよりもっと大きなわざをするようになる。」と仰いましたけれど、本当に、この弟子たちがこれをやるんですね。 こんな力を与えられても、ペテロは自分がごくごく平凡な人間であるということをよくわきまえていたということは、すばらしいですね。 それは前も言ったように、ペテロがあのイエス様を否むという、決定的な経験を通ってきたからなんですよ。 彼が大声で泣いたと書いてあるように、泣き崩れたと書いてますが、「イエス様を知らない。」、もう二度とあの弟子たちのところに自分たちと同じあの仲間のところにもう、どういう顔をして帰って行くのか。 今まで兄貴分のような風、その大きな顔をして、なんかあると、私がリーダーだと言わんばかりにいつもしゃしゃり出て、そうしていた自分が、「私はあの人を知らない。」、のろいをかけて誓ったと書いてるように、彼は本当に決定的なところで、イエス・キリストの弟子ではない、私はあの人のことをまったく知らないと言ったのであります。 これこそが実はこのペテロの、信仰の力の秘訣なんですよ。彼が、主からこういうわざを行なう力を与えられる、賜物を。それはペテロが、自分がどんな人間であるかということを徹底的に知る者となっているからなんです。 病のいやしとか、死者をよみがえらせるという奇蹟が、それ自体本当の意味で価値あるものなどではないのだ。真に価値あるものというのはただ、救いにあずかるということだけなのだ。 人のたましいは本当に、主に立ち返って、悔い改めて主に立ち返って、本当の意味で新しくされる。永遠のいのちにあずかるということ、それだけが、本当に価値あるものなのだということをペテロがよく知っていたということですね。 だから彼は、逆に言うと、このような奇蹟を行なう、いやしの賜物を主から与えられていたんですね。それがペテロにとって、妨げとならなかったからですよね。 もし、こういう力が与えられると、それはとんでもない方向にその人を誤らせてしまうかもしれない。そういう危険は大いにあるわけですけれど、特に、そういうようなことを今の世の中でできたら、もう大変なことになるでしょうね。 マスコミは取り上げて、もう一大センセーションが起こるに違いないし、多くの信者を獲得し、教祖様として崇められるに違いないですよね。 なにもできない人々が、そういうこといっぱいやってるんですから。しかしペテロは、そういうことによっても全然つまずかなかったのであります。 パウロも同じように、あとでそういう彼の行なったことがこの使徒の働きの中に出てきます。何箇所か。この10章以降、さらにペテロの上に起こったこと。驚くような、主のみわざが記されています。 あとしばらくはそういう意味で、またペテロに戻って見ていきたいと思います。 今日は一応そこまでで終わりたいと思います。 |