引用聖句:使徒の働き12章1節-11節
聖書は、この地上に数限りなくある本の中でまったく独特の、他のすべての書物とは比較することのできない、独逸の地位を占めるものであります。 なぜならそれは、まことの神のご存在と神の救いのご計画についての、神ご自身による啓示の書であるからであります。 聖書以外の本はすべて、人間がこの世のことを調べたり考えたりして書いたものであります。あるいはこの世を越えた世界。例えば真理とかいのちとか来世とか永遠とかという、この世を越えたことがらについての本も、あるにはありますけれども、それらは人々がただ自らの想像によって勝手に作り上げた、フィクションにほかなりません。 健全で正直な人であるならば、それが自分の願いや憧れ、理想を描いたフィクションにすぎない。あるいは文学にすぎない。そういうふうに認めます。 例えば詩人というのはそういうものですね。自分の胸の中に宿る願い、憧れ、理想、そういうようなものを詩の形をもってうたいあげるのが詩人であります。 それが実在するものだと言ってるわけじゃないのであります。そういう、現実をはるかにかけ離れた麗しい、そういうもの。永遠の憧れをうたいあげるもの。それによって、確かにそういう言葉は人間のたましいを浄化すると言いますか、この世の卑しいさまざまなものにわれわれが関わっている、人間の思いがいつも下に向いていく、そういうものから人間のたましいを上の方に引き上げていくという確かにそういう力をもっているはずですね。 そこに優れた文学とか詩と言われてるものの意味があるわけでしょ。 あるいは音楽なんかにしてもそうでしょうね。確かに優れた音楽というのは、私のように音楽なんかよく分からない人間でも、優れたクラッシクなんかを聴くと、確かに人間の内面と言いますか、たましいが清められていくような、そういうものをわれわれは感じますから、そこに真の意味での芸術や文学の価値があるんでしょうね。 しかしそれは、あくまでもこの人たちのうちから出てきた思いの結晶であります。そのことを彼らは知っておりますし認めます。 不健全な病的な精神の人々は、それらがなんの根拠もないにも関わらず、本当のものと思い込むという、そういうことになりますね。 ですからパウロが警告したように、それは単なる言い伝えによる幼稚なものなのである、なんの根拠もないものであるから、気を付けなさい。 当時のギリシヤ、ローマの哲学について彼は、コロサイ人への手紙の中で述べておりますね。 根拠がない、単なる言い伝えによるものであるということ。そこの上に人間は、本当の意味で確信をもって立つことができないということ。だから私たちはそういうものの上に、過った土台に立ってはいけないのだということを、聖書は私たちに伝えるわけであります。 この世のもの。無数の本がありますけども、大半はこの世について人が考えたもの、調べたもの。科学とはそういうものですね。 この地上について調査したもの、研究したものであります。今言ったように、そうでないものは単なる人々のフィクションであります。 3月20日。この前の土曜日が春分の日で、彼岸の中日と言いますか。私は彼岸というのが何日構成から成り立つのかさっぱり分からなくて、やっと夕べ広辞苑を開いて見て初めて、彼岸というのは七日だそうですね。前三日、後三日ですね。その真ん中が春分の日なのだということを初めて知りました。 そんなことも知らないのかと笑われそうですけども、春分の日が、その彼岸のちょうど真ん中の日ということですね。彼岸とは河の向こう岸のことであります。来世のことであります。 それに対して河のこちら側。今私たちが立っているこの岸、これが現世でありまして、これを此岸と言いますね。この岸という意味で此岸ですね。 此岸にいる人間には、もともと彼岸のことは知りようがないわけであります。死なないと行けない世界なわけですから。ですから彼岸なるところが存在するのかどうか、死ねばすべて終わりで彼岸など存在しないと考えてる唯物論的な考えをもっている人は現代いっぱいいますね。 科学で証明することのできないものは存在しないものである、というふうに思い込んでる人々もいっぱいいるわけであります。 その彼岸のことを、彼岸から来てくださったただ一人の方が明らかにしてくださった。永遠の世界からこの地上に、人のかたちをとって、下って来られた方がいらっしゃるのである。 これこそが新約聖書の福音の確信にほかならないということ。これこそが聖書全体を支える土台であるということを私たちは知っております。 この土台が確実なものだからこそ、私たちの信仰と、信仰によって生きる生涯とが本当の意味をもちうるのだということ。このことを、クリスチャンはよく知っていますよね。 ヨハネの福音書1:14
ことばは人となって、人間のかたちをとってこの地上に来てくださった。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられたと書いていますね。 ヨハネの福音書1:18
かの世界から、永遠なるかの世界から、人間がどうしても手に届くことが不可能なあの永遠の世界から、日本的、仏教的表現で言えば彼岸から此岸に、神のひとり子が2,000年前に来てくださった。 これこそが福音、喜びの訪れですよね。だから私たちは確信をもって信ずることができるのだということでしたね。 このイエスという方は、嘘を言うはずはない。この方はどう考えても嘘を言ってる方ではない。弟子たちの証言はどう考えても、彼らが作り話をしてるとは思えない。 彼らのその真実さ、その正直さですね。そのことを認めざるを得なかった人々が、信じがたいことを信じたわけであります。 ヨハネの福音書3:11-13
人はこの地上から天に上ることはできない。しかし、天から神のひとり子が来てくださった。これが私たちの信ずる信仰の土台であります。 私たちクリスチャンは、単に美しい夢を語り合って喜ぶおめでたい、とんでもなくずれた人間たちではないのであります。 クリスチャンたちが何よりも嘘を嫌うように、何よりも真実でなければならない。このことを何よりも、クリスチャンがその生活において大切にするように。 聖書は真実の証言だから私たちはこの上に立ちうるのであります。 コリント人への手紙第I、15:58
私たちの信仰の土台は作り事ではないから、本当のことなのだから、むだにはならないのだとパウロはここで書いてるんですね。 このような比類のない書物。パウロの表現を用いれば、神の栄光の福音を収めた器である新約聖書。この新約聖書の中に、その神の光と対照的にこの世の闇を代表するような人々の一族が登場いたします。 それがヘロデの一族であります。先ほど読んでいただいた、使徒の働きの12章の冒頭に出てくるのがヘロデでありますが、この使徒の働きの12章の主役は、ペテロとこのヘロデ王ですね。 使徒の働き12:1-2
と書いてあります。イエス様の降誕のときから、イエス様のいのちを付け狙い、それに関係して幼児殺しをしたあのヘロデ大王に始まるヘロデ一族。 パウロの囚人としてのローマ送還を決定した際の、裁判に立ち会うヘロデ・アグリッパ二世まで、あとでちょっと見ますけども、使徒の働き25章から26章に出てきますが、数えてみると、七十年間くらいに亘って次々に、このヘロデ一家の王たちが登場してまいります。 ですから、福音書からこの使徒の働きまで通る時間に亘って、次から次にヘロデの子孫が登場してくる。こうして、神のわざに抗って、非道の限りを尽くしていく一家であります。 調べてみると、イエス様を裏切ったユダなどよりも、ぼくはこのヘロデ一家の罪のほうがもっと残虐であり、陰謀に満ち、淫乱さにおいても目を覆うばかりのものではないかと思いますね。 いったいユダと、本当に罪が重いのはどこなんだろうなどと私などは思うわけですね。ユダなんかは、一時的な迷いと言いますか、悪魔によって、そのたましいを迷わされた人間だと思いますけども、むしろユダなんかのほうが、迷いにすぎないのじゃないかっていうような感じすらしますけども、弁護のしすぎになりますかね。 確かにユダは後悔したのであります。死刑になるとは思っていなかった。イエス様が死刑の判決を受けたときに、ユダは驚いちゃったんですね。 まさかこうなるとは思わなかった。それで彼は自分がそのために、貰ったお金でしたね、七十シェケルでしたか、それを持って祭司たちに返しに行ったと書いてますね。私は罪のない人の血を売ってしまった。 「私は罪を犯した。」とユダは言ったと書いてあります。「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言われたので、彼はその金を持って、神殿の賽銭箱ですか、そこに投げ入れ、行って首を吊って死んだと書いていますね。 ぼくはこのユダのほうがよほど、人間としてまともだったというふうに思うわけです。 ヘロデ一家には、そのような良心の痛みっていうようなものはないのであります。 それはユダは、光に接していたからなのだ。ユダはイエス様の側にいて、彼の良心は目覚めていたんですね。良心の痛みということですね。 自分の行なった罪ということについて、彼ははっきり自覚をしたわけであります。そういう意味において、やはりユダというのは光に接していた人であった。 ヘロデ一家というのは、まったくこの光を知らなかった一家なのじゃないかという気がするわけですね。ですから、みなさんもこの聖書読むと、ヘロデ、ヘロデがしょっちゅう出てきて、どのヘロデかちょっと分からなくなると思いますから、ここでちょっとヘロデ一家を簡単におさらいをしておきましょう。 聖書に出てくるヘロデ一家の名前は、四、五人おりますから、まず整理をしておきます。 まず一番有名なのがヘロデ大王であります。もともとユダヤ人ではなく、エドム人であったというふうに聖書は注解で記していますけれども、そうですね、 マタイの福音書2:1
と書いてあります。ヘロデ王の時代。これがヘロデ大王と呼ばれている人物であります。 私の持ってる注解書付きの大きな聖書の注を読みますと、紀元前三十七年から紀元前四年にかけて、ローマ元老院からユダヤ王に任ぜられた。 エルサレム神殿の再建に着手し、「ヘロデ大王」と呼ばれたが、その家系は純粋なユダヤ人ではなく、エドム人であったと書いてあります。 紀元前三十七年から紀元前四年まで、ということは三十四年間、彼はユダヤの王として異邦の、自分の民族ではない民族を治めました。紀元前四年に死んだということが歴史の上で分かっているわけであります。 ヨセフォスの古代史ですから有名な当時の本が残っていますね。こういう本が残っているということは、本当にありがたいことで、ああいうところに歴史学なんてのは馬鹿にならないと言いますか、人間のわざにすぎないけれども、役に立つなっていう、改めて思いますね。 紀元前四年に、このヘロデ大王が死んだという記録が残っているもんですから、そこに、イエス様がお生まれになった年月、その年というものとのズレ、それが六年ぐらい違うということが分かってくるわけであります。 マタイの福音書2:16
これがヘロデが晩年に犯した、幼児殺しの悲劇でありますけれども、ベツレヘムとその近辺って言うんですから、ベツレヘムにお生まれになるということで、救い主が・・・。 それで近辺の二歳以下の男の子を殺させたと書いていますから、よく言われているように、当時のベツレヘム近辺の二歳以下の男の数というのは知れたもんだったろうと言われております。 だからそんなに多くなかったろうと言われてますね。二歳以下の男の子、ですから大体、少なくとも二年くらい前にイエス様が誕生したということが分かるわけであります。 まさか死ぬ直前になって、そういうことを命じたとは思えませんから、少し余裕をもったとしても、紀元前六年ぐらいになる。イエス様の誕生がそういうことになりますね。 独裁者の常で、いつも周りの人々への猜疑心に怯えて、自分の妻や子どもたちを次々に殺していったのであります。 大体、長男、次男、三男あたりは全部彼の手によって殺されております。 当時の皇帝は、あの有名なアウグストです。ローマ皇帝。このアウグストも、彼が命じてるわけですよね。その、彼を王としてるのはローマの元老院ですから、この皇帝アウグストも呆れて、ヘロデの子になるよりも豚の子のほうがよいと言ったという記録が残ってるんですね。 それくらい残忍極まりなかった。それは、われわれが頻繁に聞くその独裁者ですね。最近の独裁者たちの動向を聞くと分かりますよね。いつの時代も変わらないのであります。 段々エスカレートしてって、もう分からないんですね。人間としての本来の尺度というものがずれていってしまう。人として。そういうことはもう、どっか吹っ飛んじゃってしまうということですね。それがこのヘロデ大王であります。 ヘロデ大王は、紀元前四年に死にましたから、そうすると、彼に殺されないで残った息子たちは末のほうに残るわけです。上のほうは次から次に殺されていきますから。 それはみんなほとんど母親が違うんですけれども、殺されずに残った息子の三人の中から、父親の王国を分割して統治させていくのであります。ですからこの三人は王とは呼ばれていません。 聖書はそのところをきちっと区別して書いてるんですね。国主と呼んでおります。王とは呼んでおりません。アケラオ、アンテパス、ピリポですね。これが聖書に出てくるヘロデの跡を継いだ三人の息子たちであります。 マタイの福音書2:22
と書かれていますね。 マタイの福音書2:19-21
しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、ガリラヤのほうに行ったと書いてありますね。 アケラオはですから、紀元前四年にこの父ヘロデ大王が死んだときに、父親が治めていた一番中心部分、ユダヤ、サマリヤ方面、ユダヤ地方を彼は分割して統治するようにローマの元老院は決定するわけです。 しかし西暦六年、彼は統治期間ですから、十年くらいしてから、皇帝アウグストによってその残忍な、無能で残忍な性格のゆえに、彼は流刑に処せられております。追放されております。 アケラオ、これがヘロデ大王のいわば正統を継いだ、何番目かの息子でありますが、そのもう次の、ガリラヤ地方をおもに治めたのがアンテパスという、これもまた聖書にヘロデという名前で出てくるもんですから、われわれは混乱する国主であります。 ヘロデ・アンテパスというふうに区別をするために言われてるんですね。 マタイの福音書14:1-2
こういうふうに出てきます。この国主ヘロデっていうのが、アケラオの実の弟ですね。母親もですからいっしょであります。この二人については。 このヘロデ、国主ヘロデ、すなわちアンテパス、これは有名なあのヘロデヤとのスキャンダルを起こした男であります。 自分の腹違いの兄弟ですね、またこれもピリポっていうんですね。 これはヘロデとは言われませんが、ピリポ。この妻だったヘロデヤ。このヘロデヤっていうのもまた姪なんですよ。自分たちの。 このヘロデヤが叔父と結婚したんですけども、この叔父の羽振りがどうもよくないもんですから、どうも力のありそうなヘロデ・アンテパスに寝返るわけですね。 こうして、このことに黙っておれなかったのが、バプテスマのヨハネでありました。見過ごすことができなかった。それがあのバプテスマのヨハネが、殺害される原因になってきましたね。 マタイの福音書14:3-8
聖書に出てきませんけども、これはサロメですよね。色んな戯曲、色んなそういうものの題材になったあのサロメであります。この母にしてこの娘ですね。 宴会の席上で、血にまみれたバプテスマのヨハネの首を、盆に受けて平然として母親のところに持って行く娘ですから、もう驚くべきでありますけども、これが、国主ヘロデと呼ばれてるヘロデ・アンテパスであります。 この人は西暦三十九年までっていうんですから、随分長いんですが、四十何年に登庁してるわけですけども、最期は、このヘロデヤとともに流刑に処せられて、その流刑になった年に死んでおります。三十九年ですね。 イエス様が、「あの狐にこう言えと言った。」、イエス様が人に向かって語った最大の悪口はこのことばでしょう。 ルカの福音書13:31-33
「行って、あの狐にこう言いなさい。」、特定の人に向かって、イエス様が投げつけたことばとしてはこれが最高のものですね。 「ああ。わざわいなるかなパリサイ人。」、律法学者っていうふうな形でイエス様は白くなられた墓よってなかたちで仰いましたね。しかしそれは律法学者やパリサイ人っていう、そういう不特定多数の、そういう人々に向かってであります。 しかし、この国主ヘロデに対しては、さすがにイエス様も、「あの狐」と仰ったんですね。 三番目は、ヘロデ大王を継いだ三番目の息子はピリポといいます。これはさっき言ったヘロデヤの夫であるピリポとは名前はいっしょですけども、別人であります。 このピリポは、ガリラヤ湖よりももっと北のほうですね。パレスチナの北東部の地域を割り当てられたと書いていますから、一番力がなかったんでしょうかね。 このピリポのことは、ピリポ・カイザリヤという町の名前で出てきますね。マタイの福音書の16章。イエス様がご自分の十字架の死と三日目のよみがえりについて初めて打ち明けられたとき、イエス様はピリポ・カイザリヤの地方に行かれましたね。 イエス様がご在世中、一番遠くまで足をのばされたのはここでした。 地図を開いて見るとヘルボン山が近くにあります。万年雪をいただいていると言われているそのヘルボン山ですね。その雪解け水がガリラヤ湖に流れ込んでいるわけですが、そこにピリポ・カイザリヤっていう町がありました。 このピリポが、国主ピリポがカイザルに、ご機嫌を取るために作って名前を付けた町なんですね。 マタイの福音書16:13
ですね。この国主ピリポ。この男が三番目ですね。 四番目が、使徒の働きの12章、今日のわれわれの箇所の主人公の一人であります。もう一回、使徒の働きの12章に戻りたいのですが、ヘロデまたヘロデですから、これは通常ヘロデ・アグリッパというふうに呼ばれていると思うんですが、このヘロデ・アグリッパがもう一人出てくるんですね。 ですからこのヘロデ・アグリッパは、ここで出てくるのは一世であります。このヘロデ王と書いてある、この12章のヘロデ王。いわゆるヘロデ・アグリッパ一世ですね。これはヘロデ大王の孫であります。 先ほど出てきたあの旧約聖書のイザベルにも匹敵しそうな、あの恐るべき女性ヘロデヤの実の兄貴なんですね。これがヘロデ・アグリッパ一世であります。 ですから、このヘロデ・アグリッパ一世は国主ではなくて王であります。 ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、パレスチナ北東部、すべての領土を、ローマ皇帝から認められた、ヘロデ大王に匹敵するぐらいの領地を初めて、子孫の中では治めた王ですね。これが今日の主役のひとりですね。 これは、ヤコブを殺害する人のひとりですね。代表者のひとり。ヤコブを剣にかけて殺すということをやってますね。そしてペテロの投獄を行なう人物であります。 この人は、この12章の一番最後のところに、 使徒の働き12:23
と書いてますね。王服に異言をただして演説をした。そうしたら彼に媚びへつらう群衆どもが「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けたもんですから、そのとき主は彼を打たれたと書いてますね。 このヘロデ・アグリッパ一世。この年代も分かっております。西暦四十四年、五十四歳だったと、歴史の本は明確にこれを記述しておりますから、五十四歳ですね。 西暦四十四年ですね。イエス様が天に帰られてから十五、六年。十数年ぐらいなということも分かりますね。 もうひとり最後に、五番目にもうひとり出てきます。ヘロデ・アグリッパ二世。この一世の子どもであります。 これは後でもう一回出てきますけども、ちょっと見ておきますと、 使徒の働き25:13-14
云々と書いていますね。 パウロがローマ皇帝、当時のローマ皇帝ネロのもとに護送されて行くそのときのカイザリヤにおける、裁判の席に立ち会ったのがこのヘロデ・アグリッパ二世であります。 ちょうどネロの時代ですね。 ネロにも気に入られたそうであります。彼はネロによって領土を新しく与えられたりしております。このヘロデ・アグリッパ二世、パウロのローマ護送と関わりあう人物ですけども、この忌まわしいのは、この章に出てくるベルニケっていう女性。 実は、これ実の妹なんです。この実の妹と同棲してるのであります。 当時、それは世の中に知れ渡っていた事実だったんですね。こうして、母も父も同じですよ。実の妹でありますが、こういう関係にある二人ですね。これなどは、ヘロデを奪ったヘロデ・アンテパスよりも忌むべき乱倫であります。 このようなことが平然と行なわれていたというところに、当時の異教社会の闇の深さと言いますか、そういうものを聖書はやっぱり教えてると思いますね。 この時代よりもはるか以前、旧約聖書はレビ記の中で一切のこういう関係を、民の中から断ち切られなければならないっていうことばでもって記しあげております。 読むのがおぞましいような記事ですから、あとでお読みになったらいいと思いますね。レビ記の18章に、そういうことがずっと書かれております。 聖書の教えの高さ、その光と正しさと言いますか、そういうものを、私たちは改めて思わされますね。 (テープ A面 → B面) ユダヤの民はその律法をもっていたのであります。ですから、多くの場合は石でもって打ち殺されると言いますかね、それは民から除かれなければならないっていう、聖書の規定があったのであります。 本当に新約聖書、光に満ち満ちた神の御子のことばとイエス様の人格と言いますか、そういうものの背景に、このヘロデ一家という、この本当に深い闇が置かれているということ。 それこそ、輝く真珠を載せる黒いビロードの、黒い布地のように、コントラストというのは実に鮮やかと言いますかね、罪の世の暗黒というものを、われわれに教えるのじゃないかと思いますね。 そういう中に神の御子の福音ははいって来たのであります。ヨハネの福音書の1章のみことばを私たちは思い出しますね。 ヨハネの福音書1:4-5
こういう事実を少し調べていくと、私たちは本当におぞましい罪の世界、そこに光り輝く神の御子、神のことばなるイエス様が来てくださった、光が照り輝いてきた、そのことを改めて感ずるわけであります。 その暗やみから出てきなさい。光の中を歩め。それが聖書の呼びかけですね。 このようないわば暗黒の手が、ヤコブに伸び、さらにペテロにも伸びようとしていた。それが使徒の働きの12章であります。 使徒の働き12:3
と書いてありますね。種なしパンの祝いの時期っていうのは、過越しの祭りのことですから、春分の日を過ぎたばっかりの頃でしょう。 三月の終わりから四月にかけて、この薄ら寒いと言いますか、このときにイエス様も十字架につけられたんですから。 ちょうどその時期にペテロに、このヘロデ王の手が伸びてくるのであります。しかし勝負は初めからついているわけであります。最終的にさばかれ、滅びるのは光に逆らう悪の世界でありますから。 クリスチャンは安心して、この光が最終的には勝利するのだ、一時的に苦しむかもしれないけれどしかし、勝利はすでに初めからわれわれに与えられているのだ、そのことを彼らは知っておりましたね。 知らないのは一生懸命手を伸ばしている連中であって、それで何とかなると思っていますが、それに対して、彼らはそうではないということを知っておりました。 マタイの福音書10:26-28
真に恐るべき方はだれなのか。イエス様は、弟子たちにそのように教えられました。 それ以外のものは本当の意味で恐れるに足りないものであるということ。大切なことは主の光の中にとどまり続けるということであるということ。それだけが本当の意味での勝利なのだということでありました。 一切のものは遅かれ早かれ明らかになるからであります。 ヨハネの福音書12:31
ヨハネの福音書14:30
イエス様は、この世の力が無力であること。本質において無力であることですね。そのことを知っておられましたから。 その者は、この世を支配する者、悪魔ですね。これはヘロデ一族の背後にある闇の力、悪魔。それは結局滅びるものなのだ。わたしに対して力はないのだと仰るのであります。 あのヤコブ、十二使徒の中の最初の殉教者はヤコブでありました。 クリスチャンの中の最初の殉教者はステパノでしたね。ステパノについてはあんなに長々しく、一章全体を使って詳述していた聖書が、このヤコブについてはたった一行も、半分ぐらいの、一節の半分ぐらいで片付けちゃっていますね。 使徒の働き12:2
もうあとはなにもないのであります。なんともあっけらかんとしておりますね。大変なことでしょうにと思うけども、聖書にはやっぱり神さまのなにかご配慮があるんでしょうね。 イエス様はどういうわけか、ペテロとヤコブとヨハネの三人をいつも身近に伴われたんですね。十二使徒の中でもなぜか、聖書は理由を書いておりませんね。 聖書の記事を見ると、この重大なときと言いますか、本当にこのなんて言うのかな、イエス様の本当の苦しみのときとか、ことをなんかなさる、あんまり多くの人が見てないほうがいいようなときとか、そういうときには、イエス様は、この三人を連れて行かれるんですね。ひとりでもあんまりなされませんかね。 クリスチャンの兄弟姉妹の働きは原則として複数ですよね。ひとりはいませんね。ひとりだと誘惑が危ないということもあるんですね。おそらく。ひとりでなにかをするっていうことは、常に誘惑が伴う。ですからひとりでは、どっかにしても、ひとりで出かけるということはあんまりないですね。イエス様もどうもですね、そんな感じしますね。 あの会堂管理者の娘が十二歳になっていたと聖書に書いてる、マルコの福音書5章なんかに出てくるあの、もうすでに死んでしまっていた会堂管理者の娘をよみがえらせたときに、イエス様はこのペテロとヤコブとヨハネの三人を連れて行かれたと書いてあります。 あとの人々を家から出したんですね。そして手を取って、「娘よ。あなたに言う。起きなさい。タリタクミ。」と仰ったというふうに、聖書はそのまま原語で書いてありますけども、あるいは、イエス様がこの、ヘルボン山の近くに行かれたとき、ピリポ・カイザリヤの近くに行かれたとき、イエス様の御姿が山の上で真っ白に光り輝いた。衣まで、光り輝き、イエス様自身のおそらくお顔を含めて輝いたんでしょうね。 そのいわゆる、変貌山と言われていますけども、その変貌山の出来事と言われている記事なんかも、聖書は福音書の中に何回か出てきますが、そのときもペテロとヤコブとヨハネの三人をイエス様は連れて行かれてるんですね。 このヤコブとヨハネというのは、非常に気性の荒い人だったようであります。ボアネルゲとイエス様があだ名をつけたと書いてます。「雷の子」ということだそうでありますが、イエス様のところに夜来て、「天の御国であなたの右と左に私たち兄弟を座らせてください。その位に着けさせてください。」とイエス様に密かに取り引きをしようとして、イエス様に叱責されるという記事がありましたね。 マタイの福音書20:22-27
本当の偉さとはなにか。イエス様はこのとき、この二人の出来事を通して諭されましたね。 この二人はイエス様に対して、「その杯を飲むことができる。」と返事をしたのであります。ペテロの最後の晩餐のときに、「主のためなら、牢屋でも死でも覚悟はできております。」と言いましたね。 本人は忘れているかもしれませんが、主は覚えておられる。そして本人に思い当たらせるのであります。 このときにヤコブも、あるいはペテロももちろん無知の上に行ったわけであります。 本当のことは理解できないまま、彼らは「杯を飲むことができる。」と言い、ペテロはペテロで、「死の覚悟はできている。」と大見得を切りました。 人間の言葉っていうのは、なかなか大変なものですね。昔の人々はですから言葉を軽々しく、われわれは口に出すということを戒めたものですけれども、言葉というのは、やはり主が聞いておられるということ。 それを私たちは、あるときになって思い当たらせられるということ。聖書の記事を読むとわれわれはそれを色んなところで見るわけでありますけれども、ヤコブは、イエス様が十字架に架かられたあの杯を、ヤコブもまたここで飲むわけであります。 死ということですよね。杯を飲むということはね。 「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」とイエス様が仰ってる。それに対してできると、なんのことか分からずに言ったんですよ。彼はね。 それに対して、このみことばは成就いたします。 ヤコブの殉教の死については今言ったように、わずか一節、数文字で終わっているんですね。あれだけ野心満々であり、本当にだれよりも先に立ちたいと思ってたこのヤコブですね。 彼が真理に目を開かれていくにつれて、そういうものが意味のないことであり、価値のないものであるということに気が付いていく。ですからヤコブの殉教の死が一節足らずで終わってるということも、ふさわしいのかもしれませんね。 ヤコブは、「天に宝を積む。」ということの意味を本当の意味で悟った人でしょうから。ヤコブにふさわしいと言えるんじゃないでしょうかね。 こうして、12章の主人公であるペテロが捕えられるのであります。 四人一組の兵士四組に、ヘロデは引き渡したと書いてありますね。十億人の兵士が厳重な見張りをしていたわけであります。それこそネズミ一匹通さない、そういう厳重な警戒をしたわけであります。 使徒の働き12:4-5
と書いていますね。この晩、ペテロはなんとぐっすり寝込んでおりました。 使徒の働き12:7
わき腹をたたいて、ペテロは起こされなきゃなりませんでした。なんていう、安心した寝姿でありましょうか。 主の御手にゆだねきって安心してたんですね。だから熟睡してたわけであります。 ペテロの中にあった主の平安というものを、私たちはこの記事から十分知ることができますね。 人はたましいに平安がないと眠れないものであります。イエス様がガリラヤ湖の波が打ち込んでくる舟のともに枕をして熟睡しておられた。 あのように、「主よ。私たちが溺れ死んでもかまわないのですか。」と漁師たちが恐れた中で、イエス様はゆっくり、眠っておられました。 このペテロも、本当にイエス様がなさったように、そのあとを歩んでるんだなということがよく分かりますね。 ペテロは、この日のペテロはなんにも自分ではしないのであります。ただ、開かれていく扉を通って進むだけであります。もう一回6節まで返りましょうか。 使徒の働き12:6-11
私たちは使徒の働きの5章でおんなじ記事を見ましたよね。このときにはペテロだけじゃなくて、使徒たちとなってますから、複数の人たちが牢に入れられ、御使いが彼らを引き出したという経験が短く書いております。 ですから、このときペテロはもう二回目でありました。 ペテロはいつでも主が開かれる扉を通って行く、自分の前に主が開いてくださる道を通って歩む、これがペテロの歩み方であります。こじ開けないんですね。 主が示してくださる。主は私たちの髪の毛一筋見落とされることはないと書いてあります。ですから、主が開かれる道を、よーく見極めなきゃいけませんね。 そしてそこを進むのであります。 主が開かれるかどうか、それが大切であります。扉は何度も開かれていきました。しかしペテロほどの、主のなさる奇蹟を身を持って多く経験した人は、ほかにいないんじゃないでしょうかね。 もちろん歴史上、数え切れないほどのクリスチャンたちがいましたし、クリスチャンたちは、自分が経験したそういう様々ないわゆる奇蹟というものをあまり口に出しませんね。それは聖なる出来事であり、神さまの領域に属するものですから、そういうことをあまり語らないものであります。 それは慎まなきゃならないということを、御霊によって示されてるからなんです。 ですから多くの、主に仕えたしもべたちが多くの奇蹟を経験してるはずであります。しかしそれは、人々の目には触れられていないんですね。聖書が、こういうふうな形で記録を残してるわけです。 ガリラヤ湖の水の上を、イエス様の命令によって、イエス様のほうに歩いて行った人でしょ?このペテロという人は。事実、歩いて行ったんですよ。だから聖書はこれを記録してるわけです。 死人をよみがえらせたんでしたね。ペテロは。われわれはそれをこの前、見ましたですよね。タビタ。ドルカスの話で、やもめのドルカスを、ペテロは死んで何日か経ってた彼女を、「タビタ。起きなさい。」と言ったといってよみがえらせております。 ペテロの腰からぶら下げている手ぬぐいとか、彼の影に人は触れただけで、病気は治るわけであります。驚くべきことですよね。 しかし、何べんも言うように、ペテロっていう人は自分が何者であるかを知っていたのであります。彼はガリラヤの漁師なのであります。 文字も書けなかったかもしれませんね。パウロのように当時のギリシャ語、喋れなかったんじゃないでしょうかね。本当に無学の、単なる本当に田舎出の、単なる漁師ですよ。 しかも、ギリギリのところになって、イエス様を知らないなどと、三回も主を否むっていうような経験をする。そういう人物ですよね。 ペテロは、自分が何者かをわきまえておりました。そこに、主が彼をこれだけ用いられたということの意味もあるんでしょうね。 自分がなにかこう、人並み以上の超能力をもつようになったかのような、そういう危険がペテロになかったということでしょう。 今、彼は幾重もの看守の牢から御使いによって引き出されるのであります。看守たちの目から見れば、牢の扉は閉まったままで一度も開いてはいないわけであります。がっちり閉められているんですからね。扉の前に何人も兵士たちが立ってるんですから。 だから、兵士たちの目から見れば、なんにも起こってないはずなんですが、ペテロの目から見ると、目の前の扉は次々に開いていくのであります。 イエス様はよみがえられたあと、閉め切った部屋の中に、扉を開けずに入って来られたとヨハネの福音書は記してますね。ですからペテロも同じ経験をしてるわけであります。 ペテロはなにか夢を見てるように、幻を見てるように自分で思ったというふうに書いておりますが、こういうふうにして、彼は牢から引き出され、自分のために祈っていた、これはエルサレムでの話、エルサレムの、あのマルコの家に行っておりますね。 使徒の働き12:12
教会は彼のために祈っていたというのはそこですね。ここで祈っておった。ロダという女中が対応に出て来て、びっくりして、ペテロの声だとわかると、ドアも開けないで、奥へ駆け込んで行ったというようなことが書いていますが・・・。 こうして、 使徒の働き12:18-19
神さまのみわざを不思議とも思わないで、それゆえに神を恐れようともしないほどに鈍磨してしまっているヘロデ・アグリッパ一世ですね。 平然と十数人もの兵士を処刑させよと命じて、自分はエルサレムからカイザリヤに下って行ったと書かれております。 使徒の働き12:23
と書いてますが、さっき言ったヨセフォスによると、ヘロデは民衆に演説してる最中に激しい腹痛に襲われ、五日後に死んだということが記録されているようであります。 五日後に死んだということですが、その腹痛の原因ですね、これを書いてるのは医者ルカですからね、虫にかまれて息が絶えたと書いてる、その、「虫にかまれて。」っていうこと、単なる例えとして言ってるんじゃないでしょうね。 子どもの、日曜学校の、この物語の漫画を、聖書物語をいつかどっかで見たことがあります。その中で、このヘロデ・アグリッパ一世が演説をしていてね、その演説してる途中に、彼の足もとからサソリでしたかね?そういうのが上がっていくっていうんですね。 ことが書かれていてね、こういうふうに解釈してるのかなと思ったことありますが、虫にかまれて死んだ。サソリだったのかなんか知りませんが・・虫と書いてるんですから、やっぱりなにか、そういうものがとりついたのかもしれませんね。 肝心なペテロの、主人公のペテロのことは、かけ足で走り、その前のヘロデ一家について、ドロドロとしたヘロデ一家について、すっかり時間を取りましたけれども、とりあえず、12章をいっぺんで終わりまでいったことにはなりますが、ここで終わります。 |