引用聖句:使徒の働き1章15節-26節
パウロが生きてるときに言ってるように、私たちが弱いときこそ本当に支えられる。 今までの、多くの兄弟姉妹の方々の歩みを見ながら、自分にはまったく自信がない、自分の信仰にも自信がない、そういう状態の者を、主はいざというときに本当に祝福される。溢れるように恵みで満たしてくださる。そういうことをいつも教えられるんですね。 だから大事なことは、強い信仰をもつ必要はない。あるがままに本当に自分の弱さを受け入れて、ただ主にありのままにゆだねること、おすがりすることだということを改めて教えられますね。 この使徒の働きを一緒に学んでいきましょうということなんですけども、手探り状態で、どういうふうにいくのか分かりませんが、導かれるままにご一緒に学んでいきたいというふうに思ってます。 前回は、使徒の働きの1章1節から14節までを概観いたしましたが、簡単に振り返ってみますと、どういうことだったかというと、まず第一に、この使徒の働きという新約聖書中きわめて重要な書物は、ルカの福音書の姉妹編、その後編として、ギリシャ人医師ルカによって書かれたものであるということでした。 執筆年代は紀元61年頃のことであります。 この使徒の働きは、新約聖書の中で四福音書のすぐ後ろに置かれていて、この書物の後ろは21通の手紙。使徒たちの書いた手紙がずっと続いております。そして最後にヨハネの黙示録という形になっています。全部で27冊、いわゆる27巻からなっています。 旧約聖書が39巻からなっていて、合計で66巻であるということ。この66という巻数は、イザヤ書が66章からなっていて、非常に並行しているというんですね。よく言われてるもんですから、覚えやすいと思います。 四福音書は、イエス様の言語録であります。イエスという方がどういうことを語られたか、どういうことをなさったか、その事実を記録したもの、これが福音書です。 そしてイエス様の活動された舞台は、当時のイスラエル国家の領土内に限定されていましたね。そこから少し外れることもありましたけれども、ほぼイエス様は、当時のイスラエルの国家の中を動かれました。 面積にして私たちの国の四国ぐらいだと言われています。そのイスラエルの地に誕生した神のいのちの福音が、イスラエルの地からどのような経緯によって、どのように世界中に広がっていったか。 イエス様の復活。昇天されたあと、三十年以上の間の福音宣教、福音の浸透と広がりの記録が、この使徒の働きであります。ですから当時の教会の様子や、使徒たちが書き残した21通の手紙の背景となっていた事情なども、この使徒の働きと照合することによって、はっきりしてくることがあるわけです。 ともかく、使徒たちの手紙がおもに福音とは何か、信仰とは何か、クリスチャンはどのように歩むべきか、この世の問題に対してどう対処すべきか、そういうような教えであるのに対して、この使徒の働きは事実についての記録だということです。その点、四福音書と同じ性質をもっています。 そして大切なことは、聖書の中で一番重要なものは、教えではなく事実であるということではないかと思うんですね。どういう教えが記されているかではなくて、どのような事実が記されているかが大切なのではないかと思うんです。 私は学生時代に、聖書が人類最高の知恵のひとつである。さまざまな森厳な事がらを教えているものらしいということは、段々色んな書物から知って、聖書を直に読んでみて、驚いたんですね。 それは教えというよりも、とんでもないような事実の記録と言いますか、とても信じられないような、私が考えてもいなかったような事実の、記録にほかならないということでした。 結局のところ、私たちの救いの確信の土台となるのは、使徒たちが証言し、記録している事実であります。イエス様がまことの神の御子であるという事実。イエス様が十字架にかかり、そして復活されたという事実。神の救いのみわざがイエス・キリストというひとりの方を通して、成就されたというこの事実なのだ。 それが一番大切な聖書のメッセージなのだということを、覚えておくべきではないかと思いますね。 私たちの信仰が、色んな試みによって動かされるときがやって来る。しかしそのときに私たちの立つべきところは、この聖書が伝えている事実であります。 ですからこの同じルカは、ルカの福音書の中で、テオピロに対して、あなたが聞かれたことは正確な事実であることを、知っていただきたいのだ。そういうことを、彼は1章の4節の中に書いたわけであります。 多くの思想家や哲学者たちが深淵な信仰論議、聖書論議はするけれども、聖書が私たちに突きつけているこの驚くべき事実についてはまったく無視して、まるで気が付かないかのように、聖書に書かれているこれだけの不思議な事実を、まったく素通りしてしまって、さまざまな議論をするんですね。それは本当に的外れであります。 聖書についての一番重要な判断は、この聖書の語るところが、とんでもない荒唐無稽な作り話なのか、それとも事実についての記録なのかということであります。 私たちが聖書と正面から向き合うべきことは、この聖書が私たちに示している事実についての判断なんですね。 あなたはどう思いますか?これを事実として受け入れますか?それとも、この聖書の書いてる事がらはまったく荒唐無稽な、とんでもない作り話なのか。単なる比喩なのか。 そういうことを、私たちが正面からこれと向かい合うことなんですね。 聖書の記事を読むと、例えとして語られているものは、例えとしてちゃんと述べられているわけです。そうではなくて、当たり前に読めば、彼らが語っているのは自分らが見たこと、聞いたこと、その事実を伝えているということなんですね。 そういう意味で、この使徒の働きまでは、その前の四つの福音書と同じように事実の記録であるということ。そういう意味において、この使徒の働きは、非常に深い意味をもっている、重要性をもっている、そういう書物と言えるのではないかということが、まず一つであります。 第二に、イエス様の復活については、四福音書とももちろん詳細に記録していますけれども、そのあとの昇天についてのちゃんとした記述はないのであります。そのことについて記しているのはこの使徒の働きだけですね。 ルカの福音書の中に最後にちょっとだけ書かれている。しかしルカは、この使徒の働きでもういっぺん取り上げるつもりでいましたから、ルカの福音書の最後では、ほんの少しだけ触れているだけですね。 彼はこの姉妹編を、後編を書くつもりでいましたので、ああいうふうな形で触れられているということは読み比べてみると分かります。 マタイ、マルコ、ヨハネの三人は、イエス様の生前の数々の奇跡と復活の直接の目撃者でした。彼らはずっとイエス様のそばにいた人であります。 マルコは、この十二使徒たちと同じほど長くはいなかったでしょうけれども、それでもイエス様を直接に見ていたようであります。 直接に主がなさっていたさまざまな奇跡を見ていたんですね。彼らはそれを見るたびに驚いてだけいましたね。これは一体何ていう、この方はどういうお方だろう、そういうような驚きをいつも彼らはもっております。 イエス様が何かなさるたびに、彼らは本当に驚いたのであります。 イエス様だから、何でもできるといって、そのイエス様のなさる奇跡に慣れっこになったんじゃないんですね。イエス様がなさるたびに彼らは、自分らには理解できないこのイエスという方が、そういう理解できないものの前に立ってる戸惑い驚きというのが、私たちのうちにいつも起こってきてる。 そういうことが福音書の中に度々記されています。この方はどういうお方なのだろう。一緒に三年近くもいながら、彼らはそういうことを言わざるを得なかったんですね。 しかし、この三日目の復活のときに、彼らは今までの疑問が、言わば解けるわけであります。イエス様は確かに神の御子である。うちに神聖を宿し給うお方である。この方は単なる聖者ではない。神の御子である。 彼らは、そのことをはっきり分かるわけですね。今まで見た数々の奇跡とは違って、イエス様の復活ということがらに彼らが直面したときに、言わば、これですべては決着がついたと言いますか、これで分かった。 ぼくはそう、彼らは思ったんだろうと思うんですね。言わばこの復活でもう決まりなんです。今までの彼らの戸惑い、イエス様の奇跡の前にいつも、彼らが判断ができなくなって、呆然と立ちすくんでしまう。そういうことが、はっきりしてきたんですね。これで分かった。やっとイエス様が仰ってきたことの意味が分かった。 ですから、イエス様が復活したときに、もうこれで万事OK、彼らの福音についてのメッセージはここで終わるわけです。これ以上は、もう記述する必要はそれほどなかったのかもしれないんですね。 マルコの福音書が最初に書かれたと言われていますけども、マルコは切迫した中で書いてるのか、最後は非常に簡潔に終わっていますね。時代がそういう時代だったらしい。非常に切迫していたらしい。ということもあります。 しかし、このギリシャ人ルカは、おそらくパウロの宣教によって信仰に導かれた人であるはずです。ですからそういう意味で、彼はかなり遅れてこの信仰に触れた人でしょう。 ですから上の三人とは違った視点を持っていたわけです。だれもが当然知りたいと思う、イエス様の誕生のいきさつについて彼は知りたかったんですね。 当然です。よみがえられたイエス様はその後どうなさったんですか?いつ天に昇られたんですか?私たちもそのことを知りたいわけです。ルカはそのことを記録したんですね。 イエス様が復活のあと四十日、この地上におられたっていう、これだけはルカだけがそこで記してるわけです。 そしてベタニヤ、オリーブ山の近くだそうですけども、ルカの福音書によるとベタニヤの近くまで連れて行ったと書いてます。ここではオリーブ山と書いてますが、ベタニヤというものは、オリーブ山の東斜面にある村だそうです。ですから大体その辺りまで行かれたんですね。 そして弟子たちが見ている前で雲に包まれて、天に昇られたと。 ちなみに、来年2002年の暦に当てはめますと、3月29日の金曜日がイエス様が十字架に架かられた受難節に当たります。3月30日、土曜日が過越しの祭り。その次の3月31日がイエス様の復活の日曜日。 そのあと四十日目となると、5月の9日になります。教会暦を調べてみますと、そういうふうに来年の暦になっております。 イエス様が天に昇られたのは5月9日木曜日。日にちは違いますけど、この曜日はいつも変わりません。そういう関係があるということが分かりますね。 第三番目に、十一使徒や他の弟子たちだけでなく、イエス様の母マリヤ、それから肉の弟ヤコブやユダ、それ以外の兄弟たちもあるいは姉妹たちもでしょう、イエス様の復活の証人となり、この救いにあずかっていたという事実の重要性についてであります。 イエス様がこの地上におられた当時、ご生前って言ったらちょっと言葉が、意味が、ニュアンスが違ってきますけども、言わばイエス様の生前にはやや反発していた弟ヤコブが、のちにエルサレム教会の柱になり、長老ヤコブでしたか。そういう名前で呼ばれていますね。エルサレム教会の中心だったのは、イエス様の弟ヤコブであります。 伝承によりますと、このヤコブは高い塔の上から、突き落とされて殉教の死を遂げたと言われてるそうです。このヤコブ、人間的に言えば、ヤコブや弟ユダほどイエス様を信ずるのに、もっとも難しい立場の人間はいなかったと言えるのではないかと思いますね。長い間いっしょに育ったんですから。 そのお兄さんを、神のひとり子、神と同じ神聖を持たれるお方、こういうことを肉親が信ずるということは、これは人間的に考えると大変なことですね。上からの啓示なくしてイエス様の復活の御姿を彼らが拝することなしに、ありえなかったことだと言えるんじゃないかと思いますね。 そういう意味で、ヤコブの手紙とユダの手紙は、詳細に、注意して読まれたらいいと思います。彼らがイエス・キリストについて何と言ってるか、比べてお読みになってください。 もちろん、われらの主イエス・キリストという言葉を、何回か彼らは使っておりますし、他の使徒たちとの証しとまったく同じ信仰の証しをしているんですね。 そこで、きょうのテキストはこの1章の15節から以下ということになります。すっ飛ばしてしまって2章のほうに行くべきかと思ったんですけども、少し目を通してるうちに、段々そこだけで時間を取ってしまったので、そこをご一緒にみたいと思うんですね。 今、読んでいただきましたように、この1章の15節から26節までは、イエス様を売ってついには自殺したあのユダのこと。そのユダに代わって十二使徒のひとりとなるべき人物の選定の経緯が記されいるわけであります。 このユダについては、あまり集会でも学ばれませんし、あまり学びたくないという思いが私たちのうちにあるのかもしれませんね。人類史上もっとも忌むべき名の代名詞となってるのがこのユダという名前だからです。 もともとこのユダという名前は、イスラエルの民の中では非常に誉れある名前だったんですね。イエス様はユダ族の四子としてお生まれになったからです。ダビデもユダ族から生まれたからです。 このユダという言葉の意味は、賛美という意味ですよね。旧約聖書の、ヤコブが生んだ十二人の男の中の四番目。これがユダであります。 創世記の29章をちょっと見てください。ヤコブが王子ラバンの娘、長女のレアをめとって、生んだときの記事がここに書いてあります。 創世記29:31-35
このレアと妹ラケルが、夫ヤコブをめぐって本当に激しい女の闘いを繰り広げるわけですけども、このレアは、どちらと言うとヤコブにあまり好かれなかった。ヤコブはラケルを愛したんですね。ラケルが見目麗しかったからのようであります。 ヤコブは妹ラケルを愛し、レアを避けようとしていた。そのレアに、主は恵みを施されたんですね。ラケルはなかなか子どもを与えられなかったと書いてあります。このレアが四番目に産んだ子が、ユダだったんですね。 このユダは旧約聖書を読むと、本当にイスラエルのグループの中心となった男であります。 ところが、この新約聖書のユダの主に対する裏切りによって、ユダという言葉は本当に忌まわしい名前になったんですね。このユダについてはもちろん、福音書の中にそのいきさつが書いていますが、何箇所かちょっと見てみたいと思います。 マタイの福音書26:20-25
最後の晩餐のシーンですね。 ヨハネの福音書13:21-31
ユダが外に出て行ったときに、イエス様が保護したと書いてますね。「今、今こそ人のこは栄光を受けました。」 十字架への道が決まったんですね。そのときが来た。それはユダが最後の晩餐の席から出て行ったとき、イエス様が保護したと書いてあります。 マタイの福音書27:1-10
このユダの様子を見ると、ユダはどうしてイエス様を売ったのかちょっとよく分からないんですね。ユダは、イエス様に罪がないということはよく知っていました。だから彼はそう言ってるわけですね。「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」 律法学者や祭司長たちにイエス様を売り渡したあとの成り行きを見てユダは、「とんでもないことになった。自分の思ったようなことではない、思ったこと以上の大変な騒動になった。」、そういうふうに思ったんでしょうね。彼がイエス様を憎んで、「何があってもこれを敵に売り渡して。」とか、そういうつもりではなかったようなんですね。 ですからよく言われるように、イエス様を追い込めば、自分たちが願っているように、この人は立ち上がるんじゃないか。今の、このイスラエルの国家をローマの支配から解放してくれるんじゃないか。 イスカリオテのユダは、そういう思いを持っていたかもしれない。それを多くの人々はそう考えてるわけですね。彼はイエス様を通してイスラエルの国の解放を願っていた、いわば政治運動家だったんじゃないかと思われますね。 陶器師の畑というのは、陶器師が、その陶器用の土を掘るもんですから、その畑に大きな穴ができるんだそうです。その穴が、その墓地として使われたんだそうですね。ですから旅人たちの、不慮の死に対して、そういうふうな所を墓地にして、そこに遺体を納め、そのためにこの土地を買ったんですね。 銀貨三十枚というのは奴隷ひとりの値段だそうです。この8節、9節に書かれているみことばは、エレミヤ書というよりも、ゼカリヤ書辺りに出ている預言の言葉ですね。 こういうふうに、このユダという人物のことを、われわれ聖書から見るときに、一体どう判断すべきなのか、分からないんですね。 さっきも言ったように、もうユダについては、一種のタブーのようにクリスチャンの中にはなってるような気がします。しかしユダだけを、特別の人間として弾劾できるかと言うと、実はそうではないんですね。ユダは特別の極悪人ではありませんでした。 ユダだけが特別の悪者ではありませんでした。聖書的に見て、私たちすべてが、ユダとまったく変わりない。私たちすべて人間がユダたりうるのだということですね。それが聖書の言ってることなんですね。 そのことをだれよりも痛切に感じていたのが、ここでユダのことを語っているペテロなんですね。さっきの使徒の働き1章のところにもう一回帰ってほしいんですけども、ペテロは自分が、本当にこのユダと一歩の差しかなかったということを、身をもって経験した人でした。 最後の晩餐のあとで、ユダがイエス様を売りますね。そしてそのあと、イエス様につまずいた使徒はペテロでした。みなさんがご存知のその、時間差はほんのわずかでした。 あのペテロは、イエス様がとらえられる、裁判にかけられるあの晩、木曜から金曜の夜明けにかけて彼はイエス様が預言なさった通り、三度イエス様を知らないと誓ったのであります。「あの人を知らない。」 最後はしかも、のろいをかけて誓ったんですね。もうパニック状態になって、恐怖心にとらわれて、言わなくてもいいようなことまで彼は言ったんですね。のろいをかけて誓った。「私はあの人を知らない。」 ペテロのこの三度の、イエス様を知らないと言ったというこの出来事は、聖書の中に詳細に記録されています。永遠に聖書の中に刻まれているんですね。 主の器として、ペテロが立たされた。主の器として、それ以降、福音を担う者とさせられますけども、それがなんと厳しいことかと思いますね。まずペテロにイエス様は、本当にああいう戦慄するような経験をさせたんですね。身を切るような経験をさせました。 そして初めてペテロは、主の器として立たされたんですね。 聖書を読んでいきますと、実はみんなそうなんですね。アブラハムにしてもそうです。旧約聖書を見ると、アブラハムが犯した失敗について、聖書ははっきり記録しています。 モーセについてもそうですし、ダビデなんかはもう、最もみじめですね。本当に顔も上げれないほど、みじめな失敗をしたのはダビデです。 主の器として、あれほど用いられた人物の、しかもあれほど痛ましいと言いますか、耐え難いような罪の記録を、聖書は残しているのであります。 パウロにしてもそうでしょ? (テープ A面 → B面) 迫害をし、クリスチャンをとらえ、獄に送り、そういう使徒たちの記録を聖書は真実に残して来るわけです。 そこにぼくは、本当にこの聖書の恐さと言いますか、聖なる本だという意味があると思うんですね。聖書は本当に恐い本であります。 なぜ恐いかと言うと、それは真実を語っているからなんですね。だからこそ、聖書と呼ばれてるんじゃないかと思いますね。 普通の書物ならこういうことは書かないわけです。彼らにとって一番身を切られるような、人生における最大の痛ましい出来事。それを聖書は記録してるんですね。 神さまのみことばの真実に触れるということは、そういうことじゃないかっていうような気が私はいたします。私たちは自分の本当の姿を見ないで、何十年も生きているんですよね。うすうす感じているかもしれないけど、いつもそこから目をそらして生きて来た。しかし、あるとき、私たちはそれをはっきりと見せられるんですね。 神さまの真実の前に見出されるんですね。しかしそうして初めて、私たちのたましいは本当の意味で生きるものとなるんじゃないでしょうか。ごまかして、先送りして、いつも肝心なところは避けて、それじゃあ本当の人生は始まらないんですね。 逃れて、避けて、目をそらして来た、そういうものにいつか主ははっきりと見せられる。クリスチャンっていうのは、ぼくは、そういうところを通らされる。それを通して、真実に目覚める者をぼくはクリスチャンと言うと思ってるんです。 ちょっと余談ですけども、アフガニスタンの空爆からここ二ヶ月位、しょっちゅうテレビニュースでは、アフガンの様子が放映されます。子どもたちが神学校でコーランを読みながら、こんなことして、コーランの言葉を暗唱しながら、質問されると、「ジハードに行く。死ぬことは恐くない。」 十歳ぐらいの子どもたちが、みんな同じように答えます。 あれを見て、子どもたちとも話したんですけども、例えば中国の奥地なんかの、貧しい農村なんかの子どもたちの目がキラキラ光ってる。表情が豊かに、キラキラ光ってるのに対して、なんとこの神学校でコーランを読んでる子たちの表情が、みんな光がないんです。生き生きとしてないんです。 そういうことを思わされるんですよね。彼らは信仰だけども、脅威を叩き込まれるんですね。小さいうちから。 本当に心の中が、内側から開かれて来て、自由なたましいが本当に生き生きとして生きてるんじゃない。やっぱり大事なことは、私たちの信仰はああいうコーランを読んでいる子どもたちのような、信仰であっちゃダメだと思うんですね。 私たちの心が内側から目覚めさせられていく、真実なるものに気付かされていく、本当に内側から生かされていく、それがぼくは本当の福音信仰だと思っています。 使徒たちの中心となったこのペテロ。このペテロこそ、だれにもまして自分とユダとの距離がほんのわずかでしかないということを、身にしみて学んだ人はいないと思うんですね。 ですから、このペテロがここで語っている言葉を読んでみると、どうでしょうか?ユダを弾劾しているでしょうか。そうじゃないんですね。 使徒の働き1:16
ダビデが語った言葉と、預言の言葉というのは詩篇の41篇の9節に出てますからちょっと見てください。これはイエス様も、ヨハネの福音書の中で引用されたことが記されていますけども、 詩篇41:9
私にそむいてかかとを上げた。イエス様が最後の晩餐のときに、この言葉は成就しなきゃならないと仰ったことが書いています。 使徒の働き1:16-17
どうですか。ペテロは、「あいつはのろうべき奴だ。なんてけしからん男だった。」ってなことを言ってないんですね。そのように思ってないんです。 ペテロはただ、ユダはそのように選ばれていたのであって、ユダについて自分が云々することはできない。その資格は自分にはないっていうことをよく知っていたということなんです。 18節と19節の言葉は非常にきつい言葉書いてますね。これはペテロの言葉じゃないんですね。これはルカの解説であります。だから括弧に入ってるわけです。 使徒の働き1:18-19
さっき、マタイの福音書27章で、見たことをこういうふうに表現しているんですね。 もちろん、ユダヤ人が自殺をするということは、滅多にあることではありません。新約聖書の中には、ユダぐらいしか出て来ないんじゃないでしょうか。旧約聖書の中にも、おそらく一、二回しか書いていません。 ユダは自ら命を断ちました。後悔したんですね。罪のない人の血を売ったりして、とんでもないことになった。こんな大騒ぎになるとは思わなかった。 イエス様が裁判にかけられ、死刑を宣告されるという事態に立ち至って、ユダはもうどうしようもなかったんですね。こういうことを見通さずにやったのか、あるいは彼が考えていたことと現実の重みと言いますか、頭の中で考えていたことと、実際それが起こってみるとでは、まったく違っていた。重みが違っていた。 その現実に彼は耐えられなかったということなのか分かりません。ただここで、ペテロは何度も言いますように、ユダについて云々してないということなんですね。 使徒の働き1:17
彼はこれをなさなきゃいけなかったんですね。それが彼の十二使徒に加えられた理由だったわけであります。 なぜそれはユダであって自分ではなかったのか。ペテロは分からなかったのであります。それは神の御心の中に秘められていることであって、さばきもまた神の御手の中にあるものであります。 使徒の働き1:20
彼は聖書にこう書いてあるとしか言ってないんですね。ちょっと飛んで3章。 使徒の働き3:12-19
ペテロの語りかけには深い同情が込められております。私たちはあなたたちを責めることはできないんです。私たちもまた同じような者だったから、ペテロはそこに立ってるんですね。 彼はイエス様を売ったユダや十字架につけたパリサイ人、祭司長たち、ユダヤの群衆たちと同じように立って語っているのでありますし、それ以外に語りはなかったんですね。また、それこそが正しい福音宣教のあり方だと思います。 ここにペテロの、本当に砕かれた立ちどころがあります。それはパウロにしても同じですね。 彼らはどんなに自分がみじめな者か、それをよく知らされていた人だからですね。神さまはそれを知った人にだけ、ご自分の働きをさせられるということなんですね。 後に帰って来なきゃならない箇所ですけども、ペテロはこの足なえの男をいやしたときに、麗しの門のそばでこじきをしていた男を、「私たちに金銀はない。私たちにあるものをあげよう。イエス様の名によって歩みを立たせたときに、 使徒の働き3:12
自分の力とか、そういうものによって人がいやされるなんて考えてもいませんし、そんなことはありえない。そうじゃなくて、あなたがたが十字架にかけ、神が死者の中からよみがえらせてくださったイエス・キリストご自身が、今生きておられます。信ずる者のうちに働いてくださるのだ。 信仰というのは、こういうふうに、私たちのそこに立って今も生きておられる、主が私たちにうちに働いてくださることなんです。だから一生懸命頑張って、頑張って何とかかんとか、信仰を一生懸命自分の手でしっかりたててどうのこうのっていうもんじゃないんですね。 ペテロが自由だった理由はそこにありますね。ペテロは、どうせ自分のうちにはなにもない、そのことを知らされていた人だった。 イエス様を十字架につけた人々はだれだれで、その責任はああだこうだなどとペテロはまったく言いませんでした。それは聖書の預言が成就するためであり、その人々は神の救いのみわざが完成するために、その役割を知らずに果たしたのです。彼らは無知のためにそうしたのです。 だから、そのことがどうのこうのということじゃないんです。必要なことは心の目を開かれて、真実に目覚めて、自分の本当の姿に気付かされて、永遠のいのちに入ることなんです。この私のように。 ペテロはそういうふうにいつも福音を証ししました。ですからクリスチャンたちがユダについて、あまり語ろうとしないのは、それはユダが特別邪悪な人間で、その名が忌むべきタブーだからではないんですよね。私たちクリスチャンにはその資格がないからなんです。 なぜユダが主を裏切るようになったか。ユダに対するさばきはどういうものか。私たちには分からないんですね。人間の理解を超えた問題だからなんです。預言の通りにそうなったんですね。 ペテロはそうはっきり知りました。ユダは特別に悪魔的な人間だったなどと、彼らはまったく考えませんでした。自分とユダとは本質的に変わらない。ただ自分がユダのところにまで落ちなかったのは、それこそエレミヤの歌、あの哀歌にあるように、主のあわれみによるんですね。 私たちが滅びうせなかったのは、その恵みにより、そのあわれみによるのであります。このユダのことについては、例えば使徒たちの21通の手紙に一言も出て来ないんですね。 ユダの名前が出て来るのは、この使徒の働きの第1章までだと思います。使徒たちはもう触れなかったんですよ。ユダはけしからん。とんでもないヤローだってのは、そういうことは、彼らは言えなかったんですね。 ユダのことについて、人間の理解を超えることがそこにあるからです。どういうふうにわれわれはこれを理解すべきか分からないんですね。だから、それは主の御手にゆだねなきゃいけない。 ユダのような人間は見捨てられ、ついには救われないのだろうか。 ユダのような人を救うためにもイエス様は十字架に架かられたんだ。こういうふうに彼は言うんですね。私たちはどういうふうに考えるべきでしょうか。みなさんはどう思われますでしょうか。大問題ですね、確かに。 1章の25節のところに、ペテロの言葉の後ろのほうになりますけども、 使徒の働き1:25
と書いてますね。脱落して行った。自分の行くべきところ。自分のところへ行くために脱落して行きましたから。 ユダは滅んだのだから、滅びに欲していたのだからという意味なのかどうでしょうかね。微妙な表現だと思いますね。はっきり言えることは、そのようなことは、私たち人間の判断すべきことではないということじゃないでしょうかね。 コリント人への手紙第I、4:5
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。 コリント人への手紙第I、4:5
ローマ人への手紙14:10-12
だれが赦され、救われるか。そのような問題は私たちには分からない。しかし、私たちがはっきり分かっていることがあるということなんですね。それが大事なんです。 それは何かと言うと、「自分はどう生きるべきか。どのように生きることが主の御心なのか。」ということ。そのことははっきり分かってるんですね。 ローマ人への手紙14:6-9
ローマ人への手紙15:1-3
主に仕え、周りの人々に善をなすために、その徳を高め、その人の益となるように。それがクリスチャンの生き方の基本ですね。そのことをはっきり知ってるんですね。 そしてそのことを知り、そのことに私たちが力を尽くすということですね。それで十分なわけです。 結局のところ、私たちが本当にたましいを救われているかどうかということは、このような生き方へと私たちの人生が変えられるってことではないでしょうか。そのような人には、もはや自分自身につける悩みや苦悩というものはなくなるからなんですね。主が彼の人生のすべてとなるからであります。 そして聖書全体が指し示していることは、このことに尽きると思うんですね。ほかのことではないのであります。 私たちが本当の意味で生きるようになること。そのことを明確に聖書は示しているのですね。神のさばきとか、人間の理解をはるかに超えているとか、それはそのまま放っておけばいいんですね。主の御手にゆだねて。 しかし私たちがなすべきことは、目指すべき目標は、はっきりしてるんですね。パウロが言ったように、その目標に向かってひた走り、そのために聖書は書かれている。そのためにイエス様はこの地に生きると。このことは間違いないのじゃないかと思うんですね。 ユダの代わりとしてマッテヤがくじによって使徒として選ばれた。その欠員を出たということが、最後の中に、ここに書いてあります。このマッテヤのことはここ以外に聖書のどこにも書いてません。 十二使徒の最後はこのマッテヤであるということが、クリスチャンたちもなかなか頭にないことじゃないかと思いますね。こういうふうに、十二使徒は、言わば欠員をうめられて、そして第二章のペンテコステ、教会のバースデイと言いますか、新しい出発と言いますか、そこが始まるのだと言えると思います。 ちょっと長くなってしまいました。 |