引用聖句:使徒の働き13章1節-3節
パウロは、彼の弟子と言っちゃおかしいかもしれませんけども、彼が導いた、母親はギリシヤ人だったんですかね、あのテモテへの手紙第IIの中に、「時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい。」と書き記しております。 時が良くても悪くても、みことばを開きなさい。 いつも改めて思うことは、聖書を本当に自分のかけがえのない本として、いのちの書として、人生の師として持つことができたということ。 あるきっかけを通してですけど、自分ではまったく望みもしなかったことなんですけれども、神さまの導きによって、ある出会いを通して、聖書というものを本当に知るようになったということ。 聖書のみことばに、本当に私たちが心を込めてこれを読むようになったということ。 「あなたのみことばは、わが足のともしび。わが道の光。」と、詩篇の作者が言ったように、みことばを読むという、この・・人生と言いますか、本当に何と大きな恵みだろうと思いますね。 聖書を手放さないで、本当に聖書と向き合う人生は必ず、私は勝利の人生だと思っております。 聖書を読むようにしていただいたということの恵みは、本当にかけがえのないものだという気がいたしますね。 私の大学時代の先生は、ぼくがまだ信仰に何の関心も無く、聖書に何の関心も無かった頃、よく授業の中で、経済学の授業の中で、「諸君は、一冊だけ選ぶとなったら、これだ!っていう本を持っていますか?」 そんな話を授業の中でなさっておりました。 「みなさんがこのようにして大学で学ぶさまざまな知識は、大学を出るとすぐ忘れてしまう。 私がどんなに経済学について教えても、それはすぐ忘れてしまう。 それはそれでいい。しかしたった一冊の本というものを持ってるか。私は持ってる。それは聖書なのだ。」 ということを、何百人もの受講生の前で話をしておられました。 ああいうふうに単純に、大胆に大学の講壇で言えるというのは、なかなかユニークな先生で、ぼくはそこまで学生たちの前で言わないんですけども、本当に、「いざ一つ選べ。」って言われたら、選ぶところの書物が、それは聖書である。 歳をとるにつれて聖書を知ってるということのすばらしさを深く覚えさせられますね。 私たちの生活には、色んな紆余曲折があるかもしれないんです。私たちの信仰生活にも色んなアップダウンがあるかもしれないんですね。 しかしそれにお構いなしに聖書を開くということ。いつも聖書に心を注いで向き合うということ。それさえできれば私たちの生活は、人生は、間違いなく成功する。敗北には終わらない。その確信を持っております。 聖書を読むということのすばらしさ。また、これを単なる義務としてではなくて、聖書を読むことが嬉しいから聖書を読む。聖書を読むことが嬉しくて、聖書を読むにつれて、聖書の大切さがさらに分かってくる。 だからさらに聖書を手放せなくなる。 そういう意味での、良い意味での循環というのが深まって行ったらすばらしいですね。 読んでいて楽しくなけりゃ苦痛でありますから、人は読みません。読んでいて楽しいから、人は自然にそこに集中するようになる。 そしてそれの大切さをわきまえるようになる。大切だからさらに心して聖書のみことばを読む。そういう意味で、良きスパイラルを描いていくというのが大切だろうと思いますね。 聖書のみことばというのは、本当に自分の血肉とならなきゃいけないと思いますね。だから自ら聖書は深く読んでいかなきゃいけないと思いますね。 私たちがこういうふうに聖書のみことばを学ぶのは、そのための手助けであります。私たちが最後に残す聖書は、どんな聖書になっていますかね? この世を去るときに置いて行く聖書。私は、その人がいかに信仰と向き合ったか。ぼくはそれで分かるだろうと思っておりますけれども・・・。 みことばを読むことの楽しさ。それのまた大切さ。そういうことを本当に身をもって知っていきたいと思うんですね。 最初の頃にも申し上げましたように、この使徒の働きの学びは、みなさんの聖書をお読みになる参考のための手助けをするということから始まっているわけであります。 この前も申し上げましたように、やみの深いところでこそ、光はいっそう輝きを増します。 光っていうのは、実に不思議な性質を持ってるものです。ほんの小さな、かすかな光であっても、真っ暗やみの中に置くとそれは本当に光り輝いてまいります。 やみの深いところに光は、いっそう輝きを増します。 「罪の増すところ恵みもやませり」っていう聖書のみことばもありますけれども、本当に、闇と光のコントラスト。 あの有名なレンブラントの絵というのは、この闇と光の対照。それが特徴だと言われますね。光と闇の画家ですか。 レンブラントの絵はそういう絵ですけども、そういうふうにこの闇と光のコントラスト作るかのように、新約聖書においてあのヘロデ大王の家系は、イエス・キリストの福音の前にこの世のやみの深さを象徴するかのように、数十年にわたって、醜悪なと言いますか、そういう罪にまみれた姿をさらし続けているということを、この前お話をいたしました。 イエス様が生まれるその時点から、ヘロデ大王はこの福音書に登場してまいります。 最後にパウロがローマ皇帝の裁判を受けるために、ネロのところに囚人として遣わされるその時にもまた、その孫でしたか、孫かひ孫のヘロデ・アグリッパ二世ですか、それがまた裁判の席に立ち会う。 こういうコントラストをなしてるということをお話いたしましたね。 昔も今も、独裁者の素顔と末路というのは変わらないものですけれども、ヘロデ大王の後継者となった三人の息子についてこの前お話をして、ちょっとペンディングをしました。 私が勘違いをしてるところがありましたので。それでちょっと復習をいたします。 みなさんはいっぺん聞いたぐらいじゃとてもじゃないけども、頭の中を整理できませんから。 このヘロデ大王は、もともとユダヤ人ではないのでありますけれども、初代皇帝のアウグストあたりに取り入って、ユダヤの民を支配する王の位を手に入れるわけですが、その息子が三人、このヘロデ大王が死んだときに、その領土を継いだわけですね。 この前も言ったように、ヘロデ大王というのは、自分の息子や奥さんを次から次に殺していった。ヘロデの息子になるよりは、豚の子になったほうがいいと皇帝アウグストが言ったというふうに記されているぐらいですから、恐るべき残虐で、いつも猜疑心に取り囲まれていた、とりつかれていた人であります。 それがアケラオという息子とヘロデ、そしてピリポというふうに三人になるわけですけども、この三人の息子が、ヘロデ大王の領土を引き継いだわけですね。 まずアケラオについては、これが一番大事な、このユダヤとサマリヤという一番中心部分を受け継ぐわけであります。 あとの弟たちは、遠くのへんぴなところにまわされるわけですけども、アケラオについては、イエス様が生まれたときに、お父さんのヨセフとマリヤがヘロデ大王の追及を恐れて、エジプトに身を隠したとありましたね。 そしてヘロデ大王はその一年前後に死ぬのであります。あんまり長く生きておりませんね。 そのあとにこのアケラオが、ヘロデ大王を継いだもんですから、そのことを噂で聞いて、イスラエルの地に帰って来たということがマタイの福音書の中に記されていましたね。 この前もちょっと見ましたけども、もう一回開けてみましょうか。 マタイの福音書2:19-23
ナザレ人イエスっていうことになったいわれは、ここにあるわけであります。 このアケラオ、これが一番中心的な地位を占めた、三人の中の人ですけども、アケラオは残忍かつ、無能な王であった。 それで、西暦6年にアウグストによって流刑に処されたと、この聖書の注に出ております。ですから、アケラオの統治期間は約十年だったわけですね。 二番目が、このアケラオの実弟ですね。母親も一緒もです。 これがヘロデというふうになっていますけども、ヘロデは何人もいますから、ヘロデ・アンテパスというふうに、区別をされている弟であります。 この三人の後継者の中で、一番多く福音書に登場している、一番のワルであります。 この前も言ったように、異母兄弟の、またヘロデというんですけれどもこれも。ヘロデ、今度はピリポというふうに区別されていますが、ヘロデ・ピリポの妻であった、ヘロデヤと不倫の関係に陥って、ローマに訴訟でのぼっていたときに、接待に現われたのが、このヘロデヤだったと言われていますけれども。母親は違う兄貴ですよ。 ヘロデ・ピリポというのは。それの妻、ヘロデヤ。このヘロデヤというのは、また二人の姪なんであります。 このヘロデヤという、この姪にあたるのが、最初結婚した王子を捨てて、羽振りのいいヘロデ・アンテパスに乗りかえたわけです。 ヘロデ大王っていうのは、もう、何人女性に子ども生ませたか分からないもんですから、こういうことが起こるんですね。もうゴチャゴチャになってるわけですから。 だから、姪がおじのところに嫁に行ったり、そういう人倫を乱すと言いますか、そういうことが起こってくるわけであります。 この罪によって、この兄弟の妻を奪ったということによって、このバプテスマのヨハネが厳しくヘロデ・アンテパスを糾弾してやめない。 それで、バプテスマのヨハネを憎んだのがヘロデヤであります。 このヘロデ・アンテパスは、「バプテスマのヨハネが言ってることは正しい。自分は確かに責められて当然である。」という痛みを感じていましたから、手を出せなかったんですね。バプテスマのヨハネに対して。 ところがヘロデヤは、ちょっと・・・姉妹方に失礼かもしれませんけど、女の一念で、「これは許せない!」この執念でもって、何とかこのバプテスマのヨハネの首を取ると言いますか、殺さなきゃならんって、執拗に機会を狙っていたのが、ヘロデヤであります。 そして、この前も言ったように、ヘロデ・アンテパスの誕生祝いのときに、時が来たんでしたね。 マルコの福音書の6章にありますが、もう一回これをちょっと簡単に見ましょうか。 マルコの福音書6:14-28
こういうすごいことがあったわけであります。 祝宴の席で、すべてが凍りつくようなこういうことを平然とやってのける、このヘロデヤという女性のすごさと言いますかね、恐ろしさ。 また、この娘。サロメといいましたね。このサロメという娘。おそらく、十いくつかの女の子でしょうけども、血の滴るヨハネの首を盆に載っけて、それを受け取って母親に持って行くんですから、すごいものであります。 これが二番目の後継者、ヘロデ・アンテパス。イエス様もさすがに、このヘロデ・アンテパスには我慢がならなかったんでしょうか、「あの狐」とイエス様が悪罵された。 「あの狐にこう言いなさい。」とイエス様が仰ったということは、ルカの福音書の中に書いてある。 ということも、この前、お話しましたね。ですから、このヘロデ・アンテパス、このヘロデは狐のヘロデとでも言ったら区別がしやすいかもしれませんね。 さっきの6章の17節にあった、「このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのこと」、というこのピリポ。ピリポの妻。 このピリポというのは、次に出て来るのもピリポというんですけれども、三人目の後継者もピリポというんですが、ここに、17節に出て来るピリポというのは、またそれとも違う人なんですね。 これは、ですから、ヘロデ・ピリポというふうに今度は呼ばれて、区別をされているようであります。 このヘロデ・ピリポの妻、ヘロデヤをヘロデ・アンテパス、あの狐なるヘロデが奪ったということですね。 このヘロデ・アンテパスは、イエス様の処刑直前まで、最後の最後まで係わってくるということもこの前見ましたですね。 そこで私がちょっと誤解をしたところがありました。 ルカの福音書23:4-12
イエス様はいろいろと問いかけてくる、このヘロデ・アンテパスの前に、一言も喋らなかったようであります。 まったく沈黙を守られた。そこにもイエス様の、このヘロデ・アンテパスに対する、何か思いと言いますか、それが表われているような気がいたしますね。 「どうにもならん。」とでも思われたんでしょうか。最後まで人を見放すということは、イエス様、なさらんだろうとは思いますけれども、このヘロデ・アンテパスには何も答えられなかった。そういうところがありますね。 だからイエス様が十字架に架けられるそのところまで、このアンテパスは係わってきます。 このヘロデ・アンテパスは、西暦39年に、皇帝カリグラ、これはあまり暴君として有名な皇帝でありますけども、これによって流刑に処せられて、ヘロデヤと一緒に、同じ年に死んでいるというふうに聖書辞典には出ていますけれども、39年に彼は死んでおりますが、計算してみますと、43年間、このガリラヤ地方を治めているんです。 43年間。ヘロデ大王が50歳のときに生んだ子としても、計算すると、63・・・。ですからだいたい60過ぎから70近い人だったんじゃないかと思いますね。この死亡のときは。 三番目の後継者はピリポであります。上の二人のお兄さんとは母親が違う異母兄弟であります。これもルカの福音書3章1節にこの名前が一回だけ出てきますから、ちょっと見てみましょうか。 ルカの福音書3:1-2
と、こう書いてありますね。 ここに出て来る、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主と書いています。この兄弟ピリポのことですね。 この皇帝テベリオの治世の第十五年というのは、西暦に直しますと、27年というふうになっております。 ルカの福音書3:23
だいたい年代が出て来ますね。皇帝テベリオの治世の第15年、すなわち西暦27年に、バプテスマのヨハネが叫び、荒野に出て悔い改めを説き始めたんです。 荒野に叫ぶ者の声って言って、「自分のことを悔い改めよ。神さまのときが迫っているから。」と言って、イスラエル全土の人々に悔い改めを、彼が叫び始めます。 このときにイエス様は、ガリラヤから出て、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたということは聖書で記していますね。 このときに、イエス様がおよそ三十歳であるということを、ちょっとそのところを念頭に置いてほしいんですけれども。 こういうわけで、この三番目の後継者ピリポは、聖書の中にはほかには出て来ませんね。 一番辺境のほうですから、ガリラヤの一番向こうの、ガリラヤ湖の一番向こうのほうですね。 イスラエルの北の辺境の地を割り当てられたわけですから、それだけ権力者としては、低く見られていたということでしょうね。 彼の名前が残っているのは、ピリポ・カイザリヤっていう町の名前に残っているぐらいであります。 イエス様が、ご自分の十字架の死とよみがえりを、初めて弟子たちに話されたときのことがマタイの福音書に出て来ますね。16章に。 そのときにイエス様は、ピリポ・カイザリヤの地方まで弟子たちを連れて行っていらっしゃいますね。 マタイの福音書16:13-17
云々と書いていますね。 マタイの福音書16:21
この時に初めてイエス様は、ご自分が十字架につくということを仰ったんですね。しかし、三日目によみがえるということをこの時初めて仰ったのであります。 ピリポ・カイザリヤという町は、聖書地図を開いて分かるように、ガリラヤ湖のずっと上のほうにあるんですね。 このピリポがローマ皇帝のご機嫌を取るために、町をきれいに作り直して、カイザリヤ、カイザルの町という名前をつけて、その前に自分の名前をつけたのであります。 カイザリヤっていうのは、普通知られてるカイザリヤは、エルサレムからすぐ下に、海のほうに下りた地中海の港町になっているところにカイザリヤがありますね。 ローマ総督が駐在していたところがカイザリヤであります。これはカイザルの町という意味ですから、ローマの権威を象徴する町だったわけですね。 このピリポ・カイザリヤというのは、これも聖書辞典によりますと、のちにあの暴君ネロのときに、ネロにご機嫌を取るために、ヘロデ・アグリッパ二世がネロの名前をつけて、ネロニアスというふうに名前を変えたんだそうですが、ネロは三十一、二で殺されましたから、十年そこらの治世しか彼はもちませんでしたから、殺されたらすぐにまた元に戻された。 なんていうことが書いてありますが、ピリポ・カイザリヤっていうその名前の由来は、今言った三番目の後継者ピリポが作ってカイザルにささげた。という意味であります。 ちなみに、新約聖書に一番よく出て来るあのカイザリヤ、何もつかないカイザリヤは、これはヘロデ大王が作ったのだそうであります。そういういきさつがあるんですね。 そこでヘロデのだいたい、復習が終わりましたけども、使徒の働きに戻って、12章。この前見ましたように、12章のその最初のところに、 使徒の働き12:1-2
これがヘロデ・アグリッパ一世でしたね。 ヘロデ・アグリッパ一世。これがヘロデ大王の孫ですわね。孫になります。これの子どもがヘロデ・アグリッパ二世。 パウロをネロのところに送る裁判のときに立ち会った、ベルニケという自分の実の妹と、今度は同棲してるというこのヘロデ・アグリッパ二世・・・が、これの子どもとしてもう一回出て来ますけれども、この使徒の働きの12章で出て来るヘロデっていうのは、ヘロデ・アグリッパ一世。ヘロデ大王の孫にあたります。 これが、 使徒の働き12:20-23
虫にかまれて、というふうに書いてありますけれども、歴史家の有名なヨセフスによると、ヘロデは民衆に演説してる最中に激しい腹痛に襲われ、五日後に死んだと、この聖書の注には出ていますね。 このときに、彼は五十四歳だったということも分かっております。これは西暦44年であったということも歴史書が書いております。 西暦44年、五十四歳で彼は急死しているわけですね。こうして、 使徒の働き12:24
と、そこまで書いて一応、一段落してるんですが、 使徒の働き12:25
と、なっていますね。 これは11章の最後のところ見てください。ここの続きになっているわけです。 使徒の働き11:27-30
こうして12章の25節に来てるわけですね。 使徒の働き12:25
と、なっています。 この大ききんが起こった、クラウデオの治世に起こったと書いてますけども、これは大きな聖書の注によると、紀元46年だとなっております。 紀元46年にこのききんが起こって、アンテオケの教会は、アンテオケの兄弟姉妹全員、彼らの愛を表わすために、食糧難で大変なエルサレムの兄弟姉妹を助けようとして、救援物資を送ったんですね。 それをバルナバとサウロの手に託したわけです。西暦46年。 ところが、12章で出て来るこの話は、44年にヘロデ・アグリッパ一世が死んでますから、ちょっと時間的にはさかのぼってるわけですよね。 12章のそのころ、というのはですから、二年前にさかのぼった話なんですね。こういうわけで、12章の25節は、二年後に飛んでると言いますか、西暦46年のころになります。 年号にばっかりこだわっていますけども、なかなか日頃は読み飛ばしているもんですからね、少しつじつまをきちっと。年号の順序を合わせてみる必要もあるかなと思って、色々聖書辞典を引きながら整理をしてみているということなんですが、この前も言ったように、ヘロデ大王が死んだのが、イエス様の誕生は、その一年前としたら、紀元前5年。B.C.5年ということになります。 よろしいですか?イエス様がお生まれになったのは、紀元前、B.C.の5年くらいかもしれないし、もうヘロデ大王の死ぬ直前であれば、4年ということも考えられますね。 ですから、われわれのこんにちの暦はよく知られているように、この計算を間違ったわけでしたね。 カトリックの何とかっていうお坊さんたちが、イエス様の誕生をローマ暦と照らしながら割り出していったら、計算が違っちゃった。これが四年ぐらいズレてるわけですよね。四年から五年ですね。 さっきも言ったように、イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのが、A.D.、西暦27年なんです。だいたい27年ぐらいなんです。 ローマ帝国では、年号の数え方はカエサルの導入したユリウス暦が広く使用されていました。 キリスト紀元という年号の数え方は、525年に生み出されたものなのでした。それは、カトリック教会の教会行事上の問題からだそうです。 具体的には、キリスト教世界では最も重要な祝祭日のひとつである「復活祭」の日を決定するという問題からでした。 移動祝祭日である復活祭の日付については、カトリック教会では早くから表にまとめられていたのですが、この表が525年の時点であと6年で尽きてしまうところでしたので、新たな表の算定を行なったそうです(教会行事上の問題なので、ちょっとわかりにくいですね) 計算を間違えたのは、イエス様が復活した日曜日が3月25日(日曜)で満30歳だったという前提がちょっとあやふやだったからではないかと思います。 ということになってくると、イエス様はその頃、B.C.4年にもし生まれたとなさると、ちょうど三十歳になりますね。 B.C.5年にお生まれになったら、三十一歳になりますから、ルカが言ってるんです。おおよそ三十歳であった。イエス様が宣教を開始されたときに、おおよそ三十歳であったとさっき、ルカの福音書に出ていますけども、確かに計算してみると、せいぜい一年ぐらいのズレかなというふうに・・・。 あったとしてもですね。そういうことが言えると思います。 そして、福音書の書かれている年代を注意深く計算すると、イエス様の公生涯は三年というふうになっていますね。 三年間、過越の祭りとか、そういうお祭りについて、イエス様が三回にわたって活動なさったということが分かっていますから、そういう意味で、イエス様が十字架に架かられたのは、A.D.30年とみてよろしいでしょうかね。 そのときにイエス様はだいたい三十三歳か三十四歳であります。西暦30年の頃、だいたいその頃にイエス様は十字架に架かられた。 その頃、三十三歳か三十四歳ぐらいだったろうということがほぼ言えると思いますね。 この前の医者の兄弟がちょっと仰ってたように、当時の最高の自然科学者でしょうからね、ルカという人は。医者ですから。ギリシヤ人の医者、ルカですから。そういうところはやっぱりさすがですね。 お医者さんというのは、いつも冷静でなければお医者さんになれませんので。病人を診て、興奮して頭に血がのぼったんじゃお医者さんになれません。 だいたい集会の兄弟たち見ると、お医者さんの兄弟姉妹、いつも冷静ですよね。 ぼくらみたいに血の気の多いのからすると、どうも物足らないぐらい。いつもなんか、シラっとしてるんじゃないかという・・・。冷静ですけども、お医者さんはああいうふうにシラっとするぐらい冷静じゃないと務まらないわけであります。 ルカは、このルカの福音書と使徒の働きを書いてますが、確かに、年数や場所の、地名の記述というのは非常に正確に記されているようであります。 そういうわけで、この13章の始まる、使徒の働きの13章の始まる時期というのは、西暦の46年とみてよろしいですね。46年か47年。 クラウデオの治世に起こった大ききんが46年っていうわけですから。ですからイエス様が十字架に架かられてから十六年ぐらいあとの話です。 このときに、アンテオケの教会が、エルサレム教会に代わるほどの信仰の熱を帯びていたのであります。 この使徒の働きの13章以降は、アンテオケ教会について書いてあるんですよね。エルサレムの教会についてはほとんど出てきませんね。 アンテオケの教会。異邦人伝道の拠点となったこの町。ここからヨーロッパに向かって福音が宣べ伝えられて行くんですね。そういう拠点になっているわけであります。 イエス様が天に上げられてから、わずか十六年。アンテオケが伝道の最先端の基地みたいになっているわけであります。 読んでいただいたところですね、 使徒の働き13:1
またびっくりする人の名前が出てきますよね。国主ヘロデの乳兄弟・・・ (テープ A面 → B面) 慰めの子という意味だといい、彼の名前の意味はすばらしい意味を持っている。 慰めの子。人格円満で、争いのあるところに彼が行くと収まるっていう。自然に収まるという、おそらくそういう人だったんだろうと思いますが、バルナバ。 この頃まではバルナバが先頭に立っていたようであります。 ニゲルと呼ばれるシメオン。このニゲルというのは、この大きな聖書の注解の中には、こう書いてあります。 ニゲルというのは、黒いという意味のラテン語であることから、アフリカ人であったと考えられる。ニグロということですよね。ですから黒人だったんでしょう。 ニゲルと呼ばれるシメオン。肌の黒いアフリカ人。黒人をこのアンテオケの教会で指導的な兄弟としてみことばを宣べ伝え、人々に教訓を与え指導している人として立っていた。 クレネ人ルキオ。クレネ人。このクレネ人ルキオ。クレネというのはどこにあったかと言うと、北アフリカにあったギリシヤの重要な植民都市だったと言われています。 みなさん、クレネ人といったら頭に浮かぶ人いますか?クレネ人シモンでしたっけ?イエス様の十字架を代わりに背負った人物ですね。 もうすぐあのアメリカの話題の映画が封切られるそうです。あのパンフレットを見ると、イエス様の隣にクレネ人シモンが確かに付き添って、十字架を背負ってる写真がもう、映画の写真に出ておりますね。マタイの福音書27章をついでに見ておきましょうか。 マタイの福音書27:32
当時の習慣では、囚人は自分がつけられる十字架の横棒を、刑場まで背負って行くことになっていたというんですが、イエス様は、このときにもその重い十字架を背負って、引きずり上げて、そのゴルゴタの丘まで登る体力がなかったんでしょうね。 そのことから、イエスという人は体力が少し弱かった、弱々しい人だったんじゃないかなんて言いますけど、そうじゃないと思いますね。 福音書を見るかぎり、決してイエス様がなんかこう、体力的に劣っている人とはちょっと思えないですね。 徹夜で捕えられ、尋問にかけられ、鞭打たれ、鞭は何回打たれたか、40回に1つ足りない39回というのが、普通鞭の数ですが、39回、本当にローマ兵によって打ちのめされるように叩かれたのか分かりませんけども、このときにイエス様は、体力がギリギリまで消耗していたんですね。 だからご自分ではその十字架を背負って、引っ張って登れなかった。たまたま通りかかった、そのクレネ人シモン。 当時は過越の祭りですからね、過越の祭りの前日ですから、全世界からユダヤ人たちは集まって来ているわけです。 このクレネ人シモンは、イエス様の十字架を代わりに背負わされて、ゴルゴタの丘に登って行ったんですね。 それから13章の、国主ヘロデの乳兄弟のマナエンですね。クレネ人ルキオ。 ルキオについてはほかにも書いてませんから、とにかく、このクレネっていう場所、そしてクレネ人シモンの関連だけでやめておきますけども。 その次、国主ヘロデの乳兄弟マナエン。あの例の、ヘロデ・アグリッパですよ。あの狐ですよ。あの国主ヘロデの乳兄弟マナエン。この乳兄弟というのは、王子と同じ年頃で、ともに宮廷で育てられた者というんだそうですから、何て言うんですかね、日本で言うと、ご学友とでも言うんですか。 昔だったら、おそらく将軍でもあれでも天皇でも、その住まいの中まで呼び入れられて、そこで日常的に一緒にお相手をする、そういう人なんでしょうね。 マナエンですが、だからこのマナエンって人は歳を計算してみると、ぼくこれ、七十近い人じゃないかと思うんですけどね。 この国主ヘロデが死んで七年後ですからね。この西暦46年というのは七年後ですから、もし国主ヘロデの歳を一番低く見積もって60代。62、3だというふうに計算すると、このマナエンは70近い、70ぐらいのお爺さんだったというふうに計算されますね。そういう人がいた。 あの、やみの代表者のようなヘロデと同じところで育ちながら、同じような境遇に身を置きながら、ひとりはこういう福音の使者と言いますかね、主の福音に仕える者となっている。 大きな正反対の方向にふたりの人生は最終的には向かっていったと言えると思いますね。 同じ環境の中にいても人は正反対の方向に人生、向きうるわけですけども、マナエンはこの高齢でこのアンテオケの教会の柱のひとつであったわけです。 そしてもう一人サウロ。最後に出て来ますね。13章からサウロの伝道、われわれにはパウロの伝道ですね。おもに。 記されて、終わりまでいくわけですけども、こうしてパウロのヨーロッパの大伝道旅行の第一回目がここから始まるんですね。 パウロはこの13章以降見ますと、ヨーロッパを伝道するために、三回大旅行をやっております。 その最初が、このところにある2節から4節までのところに記されているところであります。 使徒の働き13:2-3
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が言われたと書いてありますね。 この使徒の働きには、御霊がこう言われた、御霊がこう示されたとかいうことばが何回も出て来ますけれども、御霊によって禁じられたということもあとで出て来ますね。 具体的にはどういうことだったんだろうと、われわれには想像がつかないんですけれども。断食をしていた。 断食をするとか、ふたりの上に手を置いたとかっていうのはどうも分からないですが、ただ彼らが主を礼拝し、断食をしている。 おそらく、これからの伝道に対して彼らは的をしぼっておそらく祈ってたと思うんですよね。 そのために彼らは一つの目的をしっかり持って、テーマを持って、主のみこころを知ろうと。これからどこにこのアンテオケ教会は伝道の方向を定めるべきなのかという、そういうことのためにみんなが祈りをともにしていたんじゃないかと思いますね。 こうしてはっきりその目的をもって主に祈っていた。 それに対して主が、バルナバとパウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。二人を召された。こうして、セルキヤに下り、それから船でキプロスに渡った。二人は方向を示されたということだと思いますね。 聖霊が言われた。4節に、聖霊に遣わされてというふうに二度、こういうことばが出て来ます。はっきりとした問題に向かってよく祈ったんですね。 そしてはっきりと、これが主のみこころだと確信をして出発して行ったわけであります。 これは非常に大切なことだと思いますね。よく一つのことに、問題に対して祈って、はっきりとした確信をもって立つときに、私たちの心の中には余裕が生まれてくるものです。 慌てふためかない、どっしりとした落ち着きってものが与えられるものであります。用意がなかったら人は慌てふためきますから。 しかし彼らははっきりと、伝道の方向っていうものをしっかり確信したんですね。自分たちが主に祈った。このことについて真剣に祈って主から道を示された。「主のみこころはこれだ!」というふうに彼らが知るようになった。 この確信が彼らに心のゆとり、慌てふためかないで、物事に対して向き合うという、そういう態度を与えるんじゃないかと思いますね。 主に信頼する者は慌てることはない。ペテロの手紙に出て来る有名なみことばですが、よく祈ってる人は慌てませんよね。 自分の思いで振り回されるような人は慌てふためきますけども。よく祈って対応するときに私たちは慌てませんね。 こうして、そういう意味で彼らが断食をしたというのは、これからの伝道の大方針といいますか、その一歩踏み出すそこについてのその問題のために祈ったんだろうというふうに私はこれを読みながら感じたわけであります。 こうして彼らはキプロスに渡りますね。キプロスの目の前にある島ですから、アンテオケから港町のセルキヤに下って、その前にあるのがキプロス島であります。 そのキプロス島に渡って、そこのサラミスという町に、ユダヤ人の会堂があるもんですから、ユダヤ人はあちらこちらに会堂を作ってるわけですから、その会堂で神のことばを宣べ伝えた。 そのときにマルコの福音書を書いたマルコが、ヨハネを助手として連れていった。そして島全体を巡回して、 使徒の働き13:6
サラミスというのは、聖書地図で見ると、このセルキヤから出てすぐにある、おそらく中心の町です。ここからずっと反対側、島の反対側のところにパポスという地名が記されていますから、やっぱり中心的なもうひとつの町だったんでしょうね。 そこに地方総督のセルギオ・パウロがいたというんですから、むしろパポスが中心都市でしょうね。そこに行った。 そしたらそこにセルギオ・パウロという地方総督のもとに、魔術師バルイエスというのがいたというんですね。7節を見てください。 使徒の働き13:7-8
やたらと横槍を入れて、総督がこのサウロとバルナバの話を聞かないように、真剣に真面目に聞かないように、横槍を入れてくるわけです。 真面目に聞こうとする人の前に立ちはだかって、いわば妨げようと懸命になってる。 使徒の働き13:9-12
こういうことが書いてあります。 この9節で初めて、あのサウロ、ユダヤのパリサイ人の中のパリサイ人。あの迫害者であったサウロ。このサウロという名前が初めてパウロというふうに切り替わってくるんですよね。 これ以降は、サウロという名前じゃなくて、パウロという名前で、ずっとこの記事は記されていきます。 ユダヤ名でサウロ、ローマ名でパウロというんですけどね。どうしてこのサウロというユダヤ名を、ローマ文字かローマ発音で書き換えるとパウロというふうになるのかどうか。 セルギオ・パウロという地方総督がこのとき信仰に導かれたわけですね。回心して。 このセルギオ・パウロの名前にあやかって、このときサウロは、ローマ名に変える。このパウロという名前に変えたんじゃないかというふうに思うんですが、そういうふうに書いてある本はないんですね。そういう注解をしてるところないんですから、分からないんですよね。 この第一回目の伝道旅行で最初に救われたのが、地方総督のローマの・・・派遣してる地方総督ですよね。ローマ人、セルギオ・パウロ。 この人が導かれて、そのときにサウロは自分の名前をパウロというふうに、ローマ風に変えているわけであります。 聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言ったと書いていますね。 福音を妨げる者へのパウロの激しい怒り。にらみつけたと書いてますから、聖なる怒りとでも言うのかな、パウロの個性の激しさをも示す箇所かもしれませんね。 「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。」こういうふうに言った。 「おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。」 こういうふうに言ったら、そのとおり彼は目が見えなくなって、慌てふためいたんですね。自分の手を引いてくれる人を捜し回ったと書いていますが。 この福音というのは、それぞれひとりひとり違う個性をもってる人々に担われていきますよね。私たちの個性は全部違うんですから。 その違う個性の中に福音というのは宿っていきますね。 パウロというこの激しい気性をもった人。この箇所でそれがちょっと出て来るわけですけれども、本当に個性という土の器に福音という宝が盛られているわけでありますが、やっぱり・・・パウロはパウロだなという気がここを見ると思いますね。 ペテロもかなり厳しい対応をしたりね。アナニヤの夫婦なんかに対しての態度も見られますけども。どうでしょうかね。 ペテロとパウロとでは、こういうときの態度がやっぱり違うような気がしますね。にらみつけてと書いてあります。 イエス様はどうだったんだろうか。透き通ったクリスタルガラスのような、透き通った人格そのものであるキリスト。 イエス様の個性と言いますか。それに比べてみるとどうなんだろうか。 パウロというこの偉大な使徒であってもやっぱりどこか人間としての個性の偏りと言いますか。そういうことがやっぱりうかがわれるような気もいたしますね。 いずれにしても私たちは、神さまからいただいた自分の個性の中に、福音を宿します。それが私たちの血肉となって、単なるオウム返しではなくて、人まねではなくて、私たち自身の本当に身についた本当の意味での信仰として外に表われていきますよね。 信仰は私たちの個性を否定するものではなくて、むしろそれを聖めていくものでありますし、高めていくものでありますしね。 本当の意味で神さまが私たちに与えてくださった、その個性というものが生かされるっていうことでもありますね。洗脳というのはそうじゃありませんけども。 洗脳というのは、人が個性を否定されていくということでありますが、そうじゃなくて本当の福音信仰というのは、その人の個性というものを本当に輝かせて、高めて、聖めていくものだろうと思いますね。 このパポスのセルギオ・パウロの回心のあと、パウロたちはパポスから船出して、パンフリヤのベルガに渡る。今のトルコ領になりますけどね。 そこに船で渡っていく。そのことがその後ろに続いております。 とりあえず今日は、この12節までを学んだということで終わりたいと思います。 |