引用聖句:使徒の働き13章23節
使徒の働き13:32-33
前回は使徒の働き13章の12節まで記事をたどりました。パウロの大伝道旅行というのは全部で三回行なわれたことが聖書に記されていますね。 四回目は彼はやむを得ず、皇帝ネロの裁判を受けなきゃならなくなって、初めはそのつもりじゃなかったんですけれども、ユダヤ人たちの自分に対する殺害の計画を知って、どうにもしようがなくなって、彼は結局ローマに護送されるよりしようがないっていうんで、彼はその皇帝の裁きを受けると言い出して、囚人としてローマに送られる。 そういうわけで、彼の大旅行というのは全部で四回になるわけです。 この13章の最初に出てくるのが、パウロのこの第一回目の大きな伝道旅行になります。その出発時の状況が、13章の3節から4節に記されておりましたね。 もう一回そこ見てください。13章の3節と4節。 使徒の働き13:3-4
バルナバとサウロを御霊が、わたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせよと言われた。そこで彼らは、このふたりの上に手を置いて、送り出したと書いてありますね。 バルナバの名前が御霊によって最初に告げられているわけであります。パウロはそのあとですから、バルナバがいわばどちらかというとリーダー格だったんでしょう。 バルナバのほうがまた信仰の経歴においても先輩でありました。当時、バルナバのほうが使徒たちの間で重きを置いていた人だったんでしょうね。 もうひとりバルナバのいとこのマルコが同行したことが記されておりますね。 使徒の働き13:5
これがマルコの福音書の記述者、マルコであります。ヨハネ・マルコというふうに呼ばれたようですね。 使徒の働き12:12
マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。ここはどうもエルサレムで多くの兄弟姉妹が集まる集まり場、家庭集会といいますか、集会の場になっていたようですね。 このマルコの家はそういう意味では、裕福な家だったんでしょう。 伝説によると、最後の晩餐がもたれたのは、このマルコの家ではないかというふうに伝えられてるそうですから、多くの人々が来ても受け入れるだけの余裕があったということなんでしょうね。 12章の25節、先回見ましたけども、12章の25節。最後の節に、 使徒の働き12:25
バルナバとサウロは、このマルコを連れてエルサレムからアンテオケに下って来た。帰って来たんですね。 こうして、マルコを助手としてふたりは連れて、第一回目の大伝道旅行に出発をしたわけであります。 この三人はアンテオケ、異邦人の教会の中心をなしたこのアンテオケ、シリアのアンテオケっていうアンテオケであります。 あともう一回アンテオケがその下に出て来ますけども、このアンテオケという町から、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡ったと書いてますけども、地図を見ますと、アンテオケという、その今言ったシリアのアンテオケから、地中海のほうにちょっと下ったところ。 聖書辞典によると32キロと書いてますけども、32キロオロンテス川を下ると、港町セルキヤに出る。 ここは、当時のローマ帝国時代の主要な港のひとつで、非常に栄えた中継市だったそうでありますが、そこまで彼らは下って、そのセルキヤの港の向こう、百何十キロかなたぐらいに浮かぶキプロス島に渡って、島の中心地パポスで、地方総督セルギオ・パウロを信仰に導いたということが先回、見たとおりであります。 バルナバとパウロ、そしてマルコの三人の最初の伝道旅行の初穂。それがセルギオ・パウロという地方総督の救いということだったようであります。 ここで注意しておきたいのは、彼らの伝道は、当時の世界各地に建てられていたユダヤ人の諸会堂を巡るという形でなされていたということであります。 使徒の働き13:5
と書いていますね。 使徒の働き13:14
彼らは全くあてもなく出掛けたのではなくて、まずは律法を知っているユダヤ人同胞の間を中心に伝道する、その拠点が、当時のユダヤ人が集まっているシナゴーグですよね。 律法が安息日ごとに読まれる、そのシナゴーグというところです。そこをまわりながら伝道を始めているということなんですね。 イエス様もかつてそうなさいましたね。そしてそのシナゴーグでユダヤ人たちに追い出されたり、迫害されたり、ある人々は受け入れたり。 そういうさまざまな軋轢を通しながら、福音が段々段々広がっていく。こうして、彼らが考えていたのとは違った道にだんだん導かれていく。 結局はそのシナゴーグから彼らは離れて、新しいキリストの教会、クリスチャンが集められる教会というところを拠点にして、福音伝道というのが展開されていくという、そういう順序になってますね。 彼らは伝道旅行に出掛けるときに、未知の地方に出掛けるときに、だからまったく行き当たりばったりに行ってるんじゃない。 やっぱりまずは、ユダヤ人の諸会堂を目標にして行ったということが一つであります。 イエス様もあんなに同胞のユダヤ人たちに排斥されたのに、パウロたちもそのことを全然思わなかったのかどうか、思い出さなかったのかどうか、ユダヤ人の中にはいっていったら、また大変な軋轢が生ずるということを思わなかったのかどうか知りませんけれども、シナゴーグをめぐって進んでいるということであります。 それから、当時のローマ帝国の版図が非常に広大でしたから、イタリアを中心にしたヨーロッパはもちろん、北アフリカ、カルタゴだとか、今のエジプト、いわゆるアレキサンドリアだとか、あの地方から中近東、シリアですね。 今のパレスチナ方面からずっと、さらに小アジア、今のトルコあたりですか、ここの辺りを含む北は今のイギリス、フランス辺り、ドイツの一部ぐらい含まれてるんでしょうか。 そういう広大な地域が、ローマ帝国の中に治められていましたから、そこを彼らは自由に往来できたということ。 福音を宣教するのにやっぱりこれは非常な備えだったんじゃないか。そういうことは多くの方々が言っていますけども、確かにそうですよね。 国境があって、そこにいちいち入るのが厄介だっていうんだったら、福音はなかなか伝えられなかったでしょうけれども、自由自在に彼らは国境に妨げられないで、いつでも出掛けることができたということであります。 すべての道はローマに通ずる。で、ローマに向けて、軍用道路と言いますか、いつでも戦車が走れるような道路が張り巡らされていたわけですから、交通網は当時としては整備されていたということでしょうね。 そこを通って福音が広げられていったわけであります。言葉も、共通語がかなり普及していたんでしょう。たぶんギリシヤ語でしょうね。 新約聖書がギリシヤ語で書かれたということは、当時の共通語がギリシヤ語であったということだと思います。のちになって、どうもラテン語のほうが重きを置くようになったようですけれども、この当時はギリシヤ語が共用語として福音宣教のために用いられたように思います。 この5月1日にEUが二十五ヶ国に拡大して、国境があって無きがごとく、スムーズに移動ができるっていうようなことでありますけれども、かつてのローマ帝国が、そういうふうな状況になっていたというふうに言えるんじゃないでしょうかね。 使徒の働き13:13
と書いてあります。このパポスというのは、今言ったキプロス島、あのセルギオ・パウロ、ローマの地方総督がいた、いわば中心都市でありますけども、ここから彼らは船出して、パンフリヤのペルガ、今で言うと小アジア、トルコの国内に入る、そこに彼らは船で渡るわけですね。 ここでヨハネは一行から離れて、勝手にエルサレムに帰ってしまったと書いてあります。 どうしてそういうふうに途中で職務を放棄して帰っちゃったのか、理由は書いてありませんけれど、マルコが途中でなんかに不満を持ったのか、伝道活動に疲れ果てちゃったのか、自分が期待していたのとは違って幻滅を感じたからなのか、なんか分かりませんけども、プイっと帰っちゃったんですね。 一番若いわけですから、伝道活動というのに対して違った夢でも抱いていたんでしょうか。現実にはそういうもんじゃなかった。 バルナバとパウロが見ていたものを、マルコは見ることができなかったんでしょうね。色んな意味で未経験で。 すなわち、人間のたましいの救いの価値ということが、このマルコには本当の意味で深く分かっていなかったかもしれませんね。 どんなに伝道活動が色んな辛さを伴うとしても、ひとりの人が悔い改めて立ち返るときに、それがどんなに大きな喜びになるか。伝道者たちは今までの苦労をすっかり忘れるでしょうね。 ひとりの人が本当に救われて主に立ち返るときに、かけがえのない出来事がそこに起こるわけですから。そういうことが伝道者の喜びであり、また力の源なんでしょう。 ひとりのたましいの悔い改めと神聖ということの価値が分からなければ、本当に伝道なんていうのは大変な重荷で疲れ切ってしまうかもしれませんね。 未経験だったために無駄な力がはいって、それで疲労困憊してしまったかもしれません。 羽鳥明先生がご自分の証の中で、テープで語っておられますけども、アメリカに神学校を出るために行かれて、あちらで尊敬するアメリカの伝道者の方々と地方の田舎回りの伝道をしたことがあった。 歳を取っておられるその先輩の伝道者は、本当に老人なのに全然疲れない。ところが若い自分はもう、疲労困憊しちゃって本当に疲れ切ってしまう。そんな経験を述べるおられますね。 無駄な力がはいっちゃって、それでくたびれるわけですね。だから人間的な頑張りと言いますか、そういうものとは別なところから伝道のわざをすればいいんでしょうけれども、最初はそれが分かりませんから、くたびれてしまう。 そういうことがマルコにあったのかもしれませんね。いずれにしても、聖書はなにも言ってないのであります。バルナバとパウロの伝道活動についていけなくなったわけであります。 パウロは、このことからマルコにちょっと不信感を抱いたようですね。どうもこれは信用ならんとでも思ったのか、パウロは長く、マルコに対する評価はかなり低いところにとどまっていたままのようであります。 そこにまたパウロという人の、ある種の厳しい性格もあるのかもしれませんけれども、自分の都合で職務放棄をすると言いますか、最後まで自分の任務にとどまろうとしないで、脱走兵じゃあるまいし、その場所を放棄すると言いますか、そういうことに対してパウロは不信感を持ったのかもしれませんね。 15章の中で、これについてもう一回出てきますよね。みなさんもご存知でしょうけども、使徒の働きの15章。二回目の伝道旅行に出発するときの話が出ていますが、 使徒の働き15:36-41
と、こういうふうになっていますね。激しい反目になったと書いています。こういうところでは遠慮しなかったようですね。彼らは。 クリスチャンが、あんまり激しい感情なんか出してお互いに反目するなんてことは、ちょっと慎まなきゃならんとわれわれは思ってるんですけども。 パウロとバルナバはマルコをめぐって激しい反目をした。別行動を取って、バルナバはマルコを連れて、さっき言ったキプロスにまた渡っていますね。 もちろん、パウロはいつまでもマルコをそういうふうな目で見たわけじゃないわけですよね。 もちろんパウロは信仰の人であり、人をさばいてはいけないことを知っており、自分は人をさばくことのできる人間でないことを知っていますからね。 マルコという人を心の中で軽蔑するとか、ペケをつけて切って捨ててしまうとか、そんな傲慢なことをパウロがやったっていうわけじゃないんですね。 ただ、伝道の働きをともにするっていう点においては妨げになるんじゃないか。そういうことを言ってるわけでしょう。 彼の人格をそれこそ、今問題ではありませんけども、人格を否定するという、そういうことではありませんね。 テモテへの手紙第IIの4章、パウロが最後に書いた手紙だと言われているその4章の9節、 テモテへの手紙第II、4:9-11
パウロは最後の手紙に、「マルコを伴って、いっしょに来てほしい。彼は私の務めのために役に立つから。」、こういうふうに書き記していますね。 もちろんパウロはマルコを主にあって受け入れていましたし、愛している兄弟でありますけども、最後にこういうことを書き記しています。 学生時代にベック兄がこのマルコのことにちょっと触れられて、マルコの信仰の回復の証拠がこの福音書なんだ。彼がマルコの福音書を書き残してるっていうところが、このマルコの失った面目を回復して余りあると言いますか、そういうものだろうということだと思いますね。 もちろん、失敗しない人はいないんですから。だれでも信仰の初めから終わりまで信仰の模範生なんてことはありえないわけで、挫折をし、本当に失敗をしながら学んでいくわけでしょうからね。 たまたまマルコはそれが記されているだけであって、大したことではないですね。 われわれに比べれば。決して大したことはありませんが、しかしマルコが途中でエルサレムのほうに帰っちゃったっていうことは、聖書を学ぶ度にみんなに触れられるわけですからね、マルコも辛いだろうなと思いますが、天国に行ったら、しかしわれわれから考えりゃ、はるかにマルコはすごい人ですよね。 聖マルコ。サン・マルコなんて名前がつくぐらいで、大変な主の使徒であります。弟子であります。 もう一回、使徒の働きの13章14節に返ってみましょう。 使徒の働き13:14
と書いていますね。今度はピシデヤのアンテオケと出て来るでしょ。 13章の1節にあるアンテオケというのと、14節に出て来るアンテオケ、まったく同じ名前ですけども。こういうふうに同じ名前がいくつかついてるわけです。 ですから、ピシデヤのアンテオケ。13章の1節のアンテオケは、シリヤのアンテオケというふうに区別をされているわけです。 これも聖書辞典で調べてみますと、紀元前300年ごろに、セレウコス・ニカトルという名前の、この辺りの支配者でしょうね、その人が父親の名前にちなんで、この二つの都市を作ったと書いてありますから、父親の名前なんですね。アンテオケ。 そこでこのピシデヤのアンテオケにはいって、安息日に彼は席に着いた。 そしたら、会堂管理者が彼らのところに来て、「なにか奨励の言葉を話していただきたい。」、そういうことを頼んだと書いてあります。 使徒の働き13:16
異邦人の中でユダヤ教に改宗した異邦人のことですね、 使徒の働き13:16-22
パウロはこのシナゴーグにいるイスラエルの人々を、小さいときから律法を学び、旧約聖書についてさまざまなことを教えられて育ってきているところの人々、それから途中から回心して、この天地創造の唯一の神さまのことを聞いて、信仰に導かれた異邦人たち、この人々にこれを語っているわけで、だいたいこの歴史的経緯はみんな知ってたんでしょうね。 旧約聖書のそういう話をして、彼は先ほど読んでいただいた23節に、 使徒の働き13:23
ここからがパウロが新しく伝える福音ですよね、メッセージですね。それまではユダヤ人が知ってるところの旧約聖書に関する神さまの約束であります。 それにしても、万物の創造主である唯一の神が、人類の中からひとつの民族だけを選び、その民族の中から人類のために救い主を遣わすなどということは、改めて考えれば考えるほど、普通には到底信じがたいことであります。 私は、自分がこういうことを信じている。しかもこれを当たり前であるかのように、信じて今いるということに時々、われながら驚くことがあるのであります。 これはやはり、聖書を読むというチャンスがあったから。聖書は身近に昔からあったのですれけども、その聖書を本気になって読もうと思うようになったから、私はこのことを心から信ずることができるようになったんですね。 神さまにとって、民族に違いがあるなんていう、そんな馬鹿なことがあるはずがないと、われわれは誰でも思うわけです。 ユダヤ人だけがなんでそういう特別な民として神さまが選ぶのだ。なぜ聖書だけが特別な啓示の書なのか。なぜイエス・キリストだけが唯一の救い主なのか。 こんなことは普通の人に言わしたら、「そんな馬鹿なことあるはずない。」と。「ユダヤ人だって日本人だって違いなんかありやせんじゃないか。聖書にだけ神さまが自分のみこころを啓示するなんて、そんなことがあるはずがない。」と、だれもがそう思うわけです。 ただ、聖書を真面目に読むということなしには、絶対にこの信仰は人はもちえないわけです。到底人間の考えることはできないことだからです。 人間の考えによれば、絶対にありえない話であります。 使徒の働き13:41
預言者の言葉が引用されていますね。 使徒の働き13:41
人は聖書を本気になって読むということをしない限り、このまことの神について、神さまの救いについて、知ることはできない。 心から信ずることはできないんですね。人間の常識からはるかにかけ離れてることだからです。 ユダヤ人たちは、聖書の救いの計画についてはもちろん知っていましたね。 創世記3:14-15
神さまが救い主を送られるということ。イエス様が悪魔のかしらを踏み砕かれるということ。 この前の映画:「パッション」の最初のところにそれが出ておりましたけれども、蛇の頭をサンダルのかかとで踏み砕くという、この創世記の記事が映像化されていましたけれども、こういうふうに、神さまが人類の救いということを計画していらっしゃるということを彼らは聖書をとおして知っていました。 イザヤ書7:14
イザヤ書9:2
イザヤ書9:6-7
もう一ヶ所、 ミカ書5:2
ユダヤ人たちは、自分たちのために救い主が来てくださるということは知っておりました。 ユダヤ人が選ばれた民であるということ。ダビデの子孫からその救い主が来るということ。そのことは知っておりました。 しかし私たちのように、まったく神さまの存在などということは知らずして育った人間にとっては、さっきも言ったように、神が特定の民族を選ばれるということ、そこからご自分の救い主を人として送られるなんていうことは、もう考えることすらできないわけです。 現代人というのは、人間はアメーバのような単細胞から進化してできた動物の一種だと思っていますから、神さまによって造られた、神さまによって愛されているその対象として人間があるなどということは、考えてもみませんから、そういう救いの計画なんていうことは、もう全然理解を超えたことだということなんですね。 神が人間を愛して止まない方であり、人間は神さまの愛の対象として創造されたということ。そういうようなことは聖書を通してでなければ人はもう知りえないわけですから。 この全宇宙と人間の創造の理由と意味ということを、聖書を通してでなければ、われわれは全然知りえない。 先ほども言ったように、人間は単なる動物の一種としているもんだと思い込んでるんですから。神さまが救い主を送られるなどということは、われわれにとっては、「そんな馬鹿な。」と一笑に付すような話でしかないということなんですね。 コリント人への手紙第I、3:21-23
人間は神さまによって愛されており、神がご自分が造られた一切のものを私たちに与えようとして用意しておられるのである、神さまの創造の中心に、実は人間が愛の対象として置かれているのだというのが聖書のメッセージなんですね。 すべてのものはあなたがたのものである。われわれ人間のために神さまがお造りになったものである。愛する跡継ぎとして私たちに与えようとして万物をお造りになったのである。 これほどのメッセージを聖書は私たちに告げているわけであります。 神さまの創造の中心に人間は置かれているということ。神さまはわたしたちひとりひとりに注目していらっしゃるということ。 さまざまな被造物の中のひとつとしてではなくて、そこに神さまの愛情は注がれているということ。 人間はそういうものとして造られているのだというのが聖書のメッセージであります。 人間は、私たちは、私たち異邦人は、自分たちがそのような存在として神によって創造されたということを全然知りませんから、先ほども言ったように、単なる単細胞、アメーバのようなものから進化してできた、そういうさまざまな動物の中のひとつというふうに見ていますから、もう聖書が私たちに伝えることを聞かない限り、もう想像することのできない、神さまのこの救いの計画なんてことは、全然思いも及ばないことなわけです。 聖書が神のことばであるなんて、そんな馬鹿なことあるはずがないと、私たちはかつて思っていました。 神さまの救いが与えられているなんていうことは信じられませんでしたね。聖書を読まなければ、結局人は絶対知ることはできない。信ずることはできないということです。 神さまの特別な愛の対象。子どもが親にとってかけがえのない存在であるように、神さまにとってかけがえのない存在。それがわれわれひとりひとりなのだということ。 これが聖書が私たちに伝えている驚くべきメッセージであります。 人間が都合よく、自分に都合がいいように勝手に作った作り話なのではない。ユダヤ人が勝手に自分たちは神の選民だなんて言って、作り話を作ってうぬぼれているという、そういうものではないということですね。 聖書の語る神さまと、その救いのご計画は、人間に、ユダヤ人に都合のいい作り話なのではないということであります。 ですから人間はまず、まことの創造主である神さまが本当に存在なさるのか、それはどのようなお方であるのかについて、聖書を通して知らなければ、どうにもならないのであります。 そしてこのことは、私たちが自分の人生のすべてを投じて知るに価する問題であります。 観念的に、神さまについてああだこうだと論ずるのじゃなくて、哲学者たちが抽象的に神さまについて論じて、ユダヤ人にそういう特別な使命が与えられたとか、ダビデから生まれるとか、そんな馬鹿なことはあるはずはない、人間はみんな同じ立場であるはずだっていう、そういう抽象的、不偏的な考え方。 だれもが行なうそういう考え方ですけども、そういうことではなくて、具体的に聖書そのものと対面してみる。 聖書はいったいどういうことを言っているのかということを、具体的に見てみる。そういうことを通してだけ、私たちはこの信仰に目が開かれていくのだということなんですね。 (テープ A面 → B面) ・・・を見て、これは本当の神さまだと信じられないか。神さまが実在なさるということはこれでも信じられないかどうか。それが問題なんですね。 聖書が語ってる神というのは、こういうお方なんだというそのメッセージについて、本当にあなたがどう思うのか。 そういうふうに具体的に私たちは聖書と直接に向き合う、それによって判断しなければならないということであります。 ヘブル人への手紙1:1-2
イエスご自身によって、神はどういうお方であるかということを語られた。この終わりの時には。 以前は、預言者たちを通して、神さまはご自分について語られた。「その預言者たちの言うことを聞いてごらん。本当にその方が神かどうか聞いてごらん。」 この終わりの時には、御子を通して、ご自身を示していらっしゃるけれども、「そのイエス様の言ってることを聞いてごらん。そして判断してごらん。」 「そんな馬鹿なことあるはずないという頭で、抽象的に、関連的に、物事を否定しないで、実際に聖書が何を言ってるのか、聖書の語る神は本当の神ではないのか、信ずることができないかどうか向き合ってごらん。」 聖書はそういうふうに言っているんですね。だから繰り返しおんなじこと言ってるんですけども。 聖書を読まなければ、人はまことの主なる神を知ることはできず、神さまの救いの計画ということを知ることができず、神を信ずることはできないということなんです。 聖書と向き合って初めて、私たちは聖書が言ってることは本当だ、聖書が示す神は確かにこれはまことの神だ、聖書が記している神のみわざというのは本当なのだということを、納得するわけであります。 聖書は読まなければ始まらないのであります。具体的に聖書が語るところに耳を澄ませてみなければどうにもならないのであります。 信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのだ。聖書を読まなければどうにもならないのであります。 なぜならば、人間にはどんなに考えても、こんなことは神さまの計画とか、救いの摂理とかそんなことはもう、思い浮かびすらしないからであります。 神さまがなさることは結局いつでも具体的だということなんですね。 具体的であります。「これを見てごらん。」、ひとつひとつの具体的なものをわれわれに突きつけてこられるわけであります。 そんなことはありうるはずがないというふうに、われわれが考えるのに対して、「何はともあれこれを見てごらん。」、それが神さまの方法なんですね。 で、われわれはそれを見せられて、突きつけられて、「なるほど。これは本当なんだ。」ということを、自分の今までの一般的、抽象的な原理というものを捨てて、その具体的なことがらを受け入れざるを得ない。 聖書は最初から最後まで、結局そういうふうにわれわれに迫ってるのだということなんですよね。 なぜ聖書だけが万物を造られた神の啓示の書なのか。もちろん分からないですよ。それは。 だけれども読んでみると確かに、ここにほかのさまざまな本当は違う神さまの啓示がある。なぜユダヤ人だけ選ばれたのか、それは分からないんだけれども、事実このユダヤ人の歴史を通して預言者が神について証をしているわけです。 私たちの信仰の土台とはそういうものなんですね。ですから、イエス様はじゃあ何を仰ってるのか、旧約聖書は何を言ってるのか。われわれはそれを自ら確かめざるを得ないわけであります。 そうして、人々から見ると呆れるような、この世の人の知恵から見ると呆れるようなことを、キリスト者たちは真理として受け入れるんですよね。 ヨハネの福音書1:18
ですから、一番端的に要約すれば、「イエス・キリストを見よ。」ということですよね。聖書が言ってるのは。 この方を見てごらん。この方を見て、確かに神はいますとあなたは信ずることができるか、確かに神は救い主をこの地上に送られたとあなたは信ずることができるか、そこにかかってくるわけですよね。 父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。 どうして神の御子が、マリヤという乙女を通して、人の形をとってこの地上に来るはずがあろうか。それはだれだってそう思うわけですから。 さっきも言ったように、「そんなありうるはずがないという人間の原則論を捨てて、側に置いて、このイエスという方をよく見てごらん。この方は真実を語っていないかどうか、このことばに耳を傾けてごらん。」、それが聖書のメッセージであります。 イエス様はいったいどんな方として御父をわれわれに紹介なさったのか。いっぱいありますね。 イエス様の語られた御父のことばについてのことばありますよね。 それこそ誰もが知っている山上の垂訓あたりからちょっとお読みしながら見てみましょうか。マタイの福音書の5章。御父はこういう方ですよとイエス様は仰ってるわけです。 マタイの福音書5:43-48
分け隔てをせず、差別をせず、区別をせずすべての人に同じように恵んでくださる天の父が完全なように、こういう完全な方なんだから、あなたがたも父に倣いなさい。 こういうふうにイエス様は仰いますね。 マタイの福音書6:3-4
マタイの福音書6:17-18
イエス様は、神という方はこういうお方なのだ、隠れた所でご覧になるお方なのだ、隠れた所でわれわれを知り給うお方なのだ。 われわれの心の奥底をご存知のお方なのだ。隠れた所でなす善行に豊かに報いてくださる天の父なのだ。こう仰るわけであります。 マタイの福音書6:26-33
マタイの福音書7:9-11
マタイの福音書10:28-31
イエス様はこのようにして、神さまがすべてのことをご存知である、天の父であること、こういうふうに教えてくださるわけですよ。 私たち人間ですら邪悪な心を持ってる者であっても、自分の子どもには最善を願ってる。ならばどうしてあなたがたの天の父があなたがたに良き物を与えないことがあろうか。 こう言われたら、「いやー、それはやっぱり神はそういうお方。」、それなら納得しますでしょ。 頭の髪の毛ひとつに見落としたまわない、そういうお方。隠れた善に報いてくださるお方。私たちの日々の必要を全部ご存知であるお方である。雀一羽すら、見落とされることがないのだ。 こういうことというのはさっきも言ったように、聞かなきゃ分かんないわけであります。そういうふうに言われるから初めて私たちは、神というお方はそういうお方なのか。 限りなく高い存在ですよね。限りなき崇高な聖なる方ですよね。愛の慈しみに満ちた神ですよね。 こういう聖書の神さまについてのこの説明と言いますか、それを聞くときに私たちは本当にそうだと思うわけです。神はこういう方でなきゃいけない。そう思うわけですね。 ヘブル人への手紙の12章。神はまた、こういうお方であるというふうに聖書は教えています。 ヘブル人への手紙12:5-10
父は私たちが悪を離れ、本当に正しい者、聖き者になるように、訓練を与えられる。そういうお方なのだと言っていますね。 コロサイ人への手紙1:19-22
神から離れ、心において神の敵となって、罪過の中に転落して、罪と汚れの中に転び回っているような私たち。それを神はイエス様を通して引き出そうとしていらっしゃる。 聖く、傷なく、非難されるところのない者として、輝ける者として、神さまが喜ばれるそういう者として私たちを救おうとなさっていらっしゃる。 これが神さまの私たち人間に対するみこころなのだ。そのためにイエス様を遣わしてくださったのだ。聖書はそう言ってるわけであります。 ローマ人への手紙8:14-17
イエス様とともに、神さまの造られた一切のものを受け継ぐ跡継ぎなのだ。そのように神さまは私たち人間をお造りになったのだ。聖書はそのように私たちに神さまのご計画について仰っているんですね。 神についての聖書とイエス様の証言。その証言の正しさをあかしする決定的な証拠こそが、イエス・キリストの復活なのだ。聖書の最終的なポイントはそこにあるわけであります。 聖書全体と救いの確かさを証しするもの。それこそがイエス・キリストの復活にほかならないということなんですね。 使徒の働きの13章、もう一回ちょっと返ってください。 使徒の働き13:23
使徒の働き13:30-33
コリント人への手紙第II、1:19-20
結局、私たちの信仰のよって立つ最後の土台、究極の土台とは、このイエス・キリストの復活によるということなんですね。 聖書全体の正しさを証しするものこそ、イエス様の復活にほかならない。これこそがパウロたちがすべてをかけて宣べ伝えたものにほかならない。というわけですね。 問題はじゃあ、いったいイエス様の復活ということは信じれるのかどうか。この使徒たちの証言は本当に信じれるのかどうか。 そういうことになってきますね。最後に、よく知られているコリント人への手紙第Iの15章17節。 コリント人への手紙第I、15:17-20
言いたかったことは、繰り返し申しましたけれども、「聖書を読む。」ということ。聖書が語っていることが、真実な証としてこれを信ずることができるかどうかということ。 そのことによってだけ、私たちは神さまについて、救いの計画について知ることができるのだということであります。 |